人間は人間を教育できない ~ 教育タマノコシの崩壊  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

     自分を含め
     世間の子を持つ親にとって
     人間としての “子供の養育”ということに
     どこか参考になれば・・・・と思います。  
                                    mind resolve : chapter 004
   
    仮題 : 人間は人間を教育できない ~ 「教育 タマノコシ 」の崩壊
 
 
ページの書き込みに夢中で他に構ってる暇がない。あるいは、
恐いもの見たさに密かに こっそりと読んでいるつもりでも、
やがて自分からは逃げられなくなる。
別に何かの仲間を募っているわけじゃない。
ただ、気づかせることを目的として書いてる。
このページを いつ どこで 誰が どんな状況で覘いてみようとも
それは構わない。
各所、その内容の嘘・ホント、理屈・屁理屈にかかわらず
軽々しい云いまわしや極端な解釈もあり 時には無責任な発言に思えるような部分もあるかも知れない。
また、解かりにくい処もあるかも知れない。
いくつかの文献や広告の台詞、他人の歌詞など断片的に引用している部分以外はすべて
俺の中から出てきた言葉なので
結果的には ここに書いたことに責任を持つことは承知の上で
今後、いつ どこで 誰が どんな状況で意見を述べて来ようとも
俺は逃げも隠れもしない。
喧嘩を買うなら幾らでも高く売るし、
売るなら高い奴だけを買う。
だからその時は 決して
“ネット上で…” なんていうゴミ溜の中で値打ない言い合い をするのではなく
直接お逢いして一対一で勝負したい。
そういう友達を俺は求めている。
それはかつて 築地の魚市場にもいたし、
自慢のバイクを乗り回していた不良連中の中にもいた。
サシで勝負するときは刃物も飛び道具もいらない。
狭い薄汚れた酒場の片隅で汚いコップを二つ用意して、
それでやることもあれば
スペクトラムに取り巻かれた浜の脇で
焚火にあたりながらやることもある。
そういう人間の関わりあいを俺は望んでいる。常に。
年齢も関係ない 学歴も教養も必要ない。
ただ性別だけは 男なら男とはっきりしていた方がいい
 
と、そういう考えている限り
これは(この場で書いている各ページ各項目の内容のすべては
人間の設計図 』の焼き直しでもなければ
『創られた通りに似せるための~洗心という肥し』という本(…くっせぇっ!)の二番煎じでもない。
そういう(後者の)本が手を代え品を替え無数に出回っている世間では
今までの教育、今までの常識の中で様々に
過去に生きた人の教訓や格言を拾い集め、
時にはそれを一つの教養として、
あるいは自慢の薀蓄ネタとして
学校で、社内で、家庭で、バイト先で、赤提灯の下で、テレビの
中で、
人は人に押し付けてきた。
たとえば、ある会社の社長は、
側近の三人組を目の前に呼び出し
戦国の世に生きた“竹中1/2兵衛”の『三本の矢』の一説を取り出して何かを教えようとする
それがその社長様のどんなに素晴らしく有難いアドバイスだとしても
三人のうち一人は こう思う。
「矢が三本とも最初から腐っていれば、それは一本よりも脆いぞ」
と。
ちなみにその社員は酒が飲めるが他の二人は飲めない。
(…ある意味でこの、笊と泥鰌の関係が会社の飛躍、発展に大きく関わることもある)
   
忘れた頃にまた同じようなネタを仕入れた社長は 
また
同じ三人を呼び出して、今度は『転ばぬ先の杖』   
の言葉の意味、諺のなんたるかを説く。
そして最期に
「世間は広い。仕事は自分で探せ。何がやりたいの?」
などと付け加える。
すると三人の中で どこかニヤケタ不思議そうな顔つきになっている一人が勇気を出して
「社長、そんな事いくら教わっても自分達の生活は何も変わりません。
また明日も9時に来て5時に帰るだけだ。
いっそのこと三人ともクビにするならクビにして、明日から全部、人材を入れ替えるとか、
いまココにいる人間そのものに そういう思い切りがない限り、
この会社はこれ以上何も変わらないと思います」
 
数日後、社長は三人のうち、その社員独りだけをクビにして、
しばらくは残りの二人も何とか使っていたが
常に誰かが誰かを悪者にしなければ纏まっていられないような組織や集団ほど
崩れやすいものはない。
結局は自分も独りで椅子に坐っていただけだということに気づいた時には
その社長の周りには誰もいなかった。
また最初にクビにされた社員の周りにも誰もいない。
ところが、
世間の学問、世の中の様々な教育の材料に出てくる話や近頃のテレビドラマがどうあろうとも
人間はこれで終れない。
その会社を畳んだ社長は僅かに残ったカネを元手に また
同じような会社をつくり
一方、最初にクビになった社員は、自分の”勇気”を元手に
何かを切り開いて行く。
でもチャンスには恵まれず、それでも笑っている。
カネも勇気もない残りの二人は、
また同じような会社で    
同じように働き 家族を養う生活に追われる。
別に夢はない。
あっても実現はできない。夜、寝ている時にときどき見ているだけ。
世の中の”教育”というものは 
このようにして人間ひとり一人を孤立させ、苦悩させてきた。
 
かつて エルヴィス・コステロがまだ
ビリー・ブラッグやデヴュー当時のUB40のように
世界の労働者階級の見方であった頃(グラハム・パーカーと対張ってた頃…よけぇ判りにくいだろ
「…働く人間、働かせてもらえない人間、働く必要のない人間。
世の中にはこの三種類の人間しかいない」
と云っていたが、『人間の設計図 』の著者は、よく
「世の中には使われる人がいて使う人がいる」 そして、
「『俺は”火付け”をさせたら誰にもまけないよ』という人がいて、
 『俺に人殺しさせたら右に出る者はいないよ』という人がいて、
 『俺に泥棒をさせたら天下一品だよ』という人がいて、世の中には
 『私はこの人達を全部使えるよ』という人もいる」
と、云っていた。
ところが人類は21世紀。
「今まで通りの常識では、もう誰も生きてはいけない」
というほど世の中は変わってしまった。
すると、
「使う人がいて使われる人もいるけど、俺はそのどちらでもない」
という人もいれば、
「机のボタンを押せば優秀な人材が出てくるようなリンカーンの時代はもう終ったよ。
現代はボタンで出てきた人達そのものが自分がリンカーンだと思ってる」
というように、
人間ひとり一人の頭が、自分の容量をオーヴァーして
必要以上の教育を詰め込んだため、
自分が生きる場所と自分自身を破壊している。
そんな世の中で『脳内モルヒネの何たら革命』シリーズ全巻を読んだという人ほど
会社のカネを横領してるとか税金で集めたカネを私的に流用してるとか

バック・グラウンドにイマーノさんの『失礼スルゼ!(アルバム“FEEL SO BAD ”より)
が流れてくるかのように妬まれている人もいれば
それを見て見ぬフリをしてきた連中も大勢いる。
ではそれを、いつ、どこで、誰が、
どんな手を使って元に戻す(あるいは元に近い状態に戻す)のか?
それはまず人間の力ではない。
 
自然界が大きく動くことによる革命。
かつての歴史上のどんな流血革命よりも血はいっぱい流れる。
ドバドバ。止まらない。止められない。
なんせ、60億もいて、その30パーセントがオジャンする準備が始まってるからな。
そのヘンの川に浮いている死体から下流の街へ
病気が流れる騒ぎどころじゃない。
見るも無残に契られ、
刎ね跳んだヒトの首や目玉やら足や手の指が
まだローンが残ってるマイホームの庭のあちこちに散乱してる。
異臭に耐え切れず口と鼻を雑巾で抑えながら歩く自分の足も、
片方は引き摺ってる。
痛いけど医者はいない。
病院もやってない。
逃げる場所はない。
隠れても無駄だ。
喰い物がないから強盗・強奪も止まない。
そこへまた大地は揺れる。
波も押し寄せる。
火柱の中で狂い踊る人影が見える。
もうすぐだよ。
嘘だと思うなら長生きしててみな。

 
・・・・ごめんなさいね、
こんな云い方で断片的に…。
でも、根拠はあって云ってる。
他のページでは、もっと優しく丁寧に
なるべく失礼のないように書いて行こうと思うけど、
世の中、危機感の薄れた、または危機感がまったくない人が多くてな。
それに俺にも、もう、あんまり時間がない。
 
 
さて、『人間の設計図 』の一節にこういう内容がある。
“こういう”とは具体的な今の続きではなく、
そんな世の中を導いている“我々人間が何なのか”という内容で、
こういう内容がある。
 

   以下、初版人間の設計図一部原文より抜粋

 人の体とは、何で出来ているのか、どういう仕組みになって動いているのか、人は、
人でありながら人の体については解らないし、知り得ていない。
 医学という学問の上でも、人の体の仕組みとか、自然界と臓器の関連については、
まったく解っていないから、人の体や心の苦しみを部分的にしか考えられない。
 人間は、人間について解っているのか。
 どうして人間が出来たかについては、何ひとつ解っていないのに、人は色々の学説をつくり、
人の自由を束縛し、実に勝手なものである。
 人や他人を・・・と云う前に、自分が何なのかがよく解っていない。
 世の中には、生みの親として数え切れないほどの親がいるが、自分の産んだ子供に
ついて解っている親は、一人もいないのである。それは、親だけでもない。本人もそう
であるし、医学という学問でも解らない。
 人間の姿形をして世の中に出て来てから人間を見て、長い間、地球上に生活してきた
上での色々の教育や思想、知識とか統計的な学問によって、自分自身はおろか、他人
をも雁字搦めに縛って生きているのが人間である。
 現在、人が生きるために必要としている様々な機械、生活用具。こうした道具は数え
切れないほどある。これは云うまでもなく、人の数よりも多いが、すべてが人の造った物
であるから、それらの物については、その物を造った人であれば、どういうふうに造られ、
どういうふうに動いているのかがよく判るようになっている。
 しかし、人間や動植物。要するに、生命を持っているものについては、道路や車などと
違い、創った者も解らなければ、その設計図は何処にもない。
 しかし、この度のこの本には、何人も否定できない事実を書いてあるし、何人もこの
人間の設計図 』にあるように創られて生きているのである。

 
そして頁は変わり、『人間の設計図 』の76ページから97ページまでは、
人の「体型と骨格」にはじまり、
人間があくまでも筋肉で創られていることを強調し、さらに、
人間の心臓・肺臓・肝臓・腎臓・脾臓と、大腸・小腸・膀胱・胆
嚢・胃という臓器と
自然界との関わりを またそれら、
五つの臓と腑と、人の顔にある目・鼻・耳・口・舌との密接な関
係についてが明確に記述され、
そこまでの項目を次のように結んでいる。
以下、再び、初版人間の設計図 抜粋。一部、原文に基づく
 
 このような精巧な人間が、この自然界に生まれてくる。
 しかも、生まれる前には何人【なんびと】の約束もないのに、男は男らしく、顔も、
体も、声も、女には絶対にないものを持って生まれてくる。女であっても、まったく
その通りである。
 その親である製造元は、その子については何事も解らない。判るのは男女の別
だけである。だが、何も解らない親が、親の権利をふるうから、子供が変になって
しまう。それは永遠に代々そうである。
 人の子は既に、受胎の時から生まれる日も決まり、死んで行く日も決められ、男女
の別も決まり、何をして生きるのかも、その職責も職能も、すべて決められて生まれて
くるのである。
 それを世の親は、子供の可愛さなのか、己の見栄なのか、子供のためという大義
名分で、その子供の程度も知らないのに、教育を積ませてしまう。
 その人にとって絶対に必要な事と必要でない事がある。
 そのことを世の親は、世の指導者は、先生と言われる人は、知っておくべきである。
 例えばここに、湯呑みよりきれいな灰皿があっても、湯呑みにはならないし、できない。
どんなにきれいでも、灰皿は灰皿、湯呑みは湯呑みなのである。
 人間もすべて、そうである。男は絶対に男である。
 それが最近は判りにくくなって来た。
 変わったのである。
 空気も変わった、食べ物も着る物も、人の心も変わったのであるから、昔の考え方、
これまでの人の生き方では、とうていいい生きて行くことが大変になったのである。
 比の、変わった ということに気づき、今、人の生き方も変えなければいけない時期
にある。
 そしてそのためには自分の体をよく知り、どうしたら善いのか、どうしたら自分らしく
生きられるのか。それを気づかせ、教えようとしているのが、この『人間の設計図』である。

 
と、何度となく読み返しても、他に類を見ない内容と俺は思うが、
この他のページにはそれこそ、
人間の神秘、遺伝子工学でも解明されていない人体の謎の答えが
克明に記されている文献である
ある意味で、かつての哲学者とされるキルケゴールやパスカル、ニーチェ、カミュの考察が
浅はかに思えてしまうほど、

これまで世界の学問という学問は、
人間について何一つ理解し得なかった虚構の倫理に過ぎない・と驚かされ、
また、そう気づかされ、
自分で自分の生きる道を軌道修正する材料として、
この『人間の設計図 』がある。
と、俺は、十年以上前に出版された初版の温かみを感じて止まない。
でも本屋には売っていない。
改訂版が出る予定もあったが、

著者本人がもうこの世にいない。
それでも改訂版はいつか必ず出版される・と俺は思う。

それに根拠はないが、出ると思う。
その時は正式名称の『自然と人間の設計図』として・・・。
 
その著者は、生前、群馬県高崎市の八千代町という処に本拠地を構え、
執筆のほか、
医療機関などでの講演、医学博士や著名人との対談、あるいは、
常に庶民の味方のような趣で、「健康教室」と題された毎週に渡る座談会も催し、
その活動は北から南へ出張も多かった。
よく地方講演の座談会などで、
そこへ集まって来た人達ひとり一人の悩み苦しみを訊き、
それをその場で解決するという奇跡も、何度も俺も見てきた。目の当たりに。
それは具体的に、癌や、
病院では治らないリウマチ、糖尿病、不整脈から、難聴、失明に至るまで、
ありとあらゆる疾病や、その人にとって辛い症状が、
いとも容易くその場で楽になってしまう。
字面を追っただけでは信じられないかも知れないが、
幾つかの鍼灸学校では実践的なその人の教え(?)幻の流派とされている。
(別にそれがどうしたという訳でもないが…)
治るのは本人の力。
気を送って手伝ってはくれる。
だけど本人にその気がなければ何も変わらない。
それは当然のことだと思う。
それに気づけない一部の人達が、
その人のことを何か宗教の教祖のように扱ってしまい、
時折、勘違い糞曲がりの振る舞いをされていたこともあったが、
コックアップやスワンネックで日常の自分達を慰め合っているだけのババア連中 は、
…じゃなくて、そういう悩みを抱えたオバサン連中は、
結局、趣味で病気をやっている集まりに過ぎなかった。
だから今でも必要以上の知識で健康食品の毒を身体に流し込んで、
スーパーで籠に放り込んだ健康雑誌を茶の間で捲ってると思う。
そんな人には最初から見向きもしないのが『人間の設計図 』の著者だったが、
集まった場所に
そういう自分に無責任な連中だけしかいなかった時もあった。
俺は側にいて
     あぁあ・・・・」
と残念に思っていても、
それも別に気にせず、何の私利私欲もない。
相手に必要なら丁寧に丁寧に治し方を教えていた。
そういう先生だった。
ある人は、
「私はいつ頃に死にますか?」と、
末期癌に侵された自分の余命を直接、訊ねていた。
すると本人に、
「何月何日の午前中のいつ頃、
こういう場所で、どういう格好で
こういうふうに亡くなるよ」
と、具体的にハッキリと伝え、
それが実際その日になって、家族から電話がかかって来る。
「お蔭様で云われた通り、苦しまずに息を引き取りました」
という内容で、そういう受話器を持つ姿を何回も俺も見てきた。
またある時は、
突如、座談会の場に誰かの紹介で現れた非常に明るく元気で、
軽快な話し振りの年配の女性と、
わずか何分となく賑やかに話して、本人が帰ったあとで、
「あの人ぉ…、もうすぐ死んでしまうんね…」
と、ボソッと一言そう云うから
「え?! なんでですか?」と訊くと、
「…自殺するみたいね。近いうちに」
と云うから、その時は「まさか」とは思ってみたものの、
数日後、そんなことはほとんど忘れていた時間に、
その女性の知人の知人(神奈川県だったかな)という人から高崎の事務所へ、
「私、びっくりして。あの人、先生が云ってた通り自殺しちゃったの 
(以下省略)
という電話があった。
 
では、その『人間の設計図 』という本を書いたその人は、いったい何者だったのか?
それについては、このサイトの別の場所で、
…俺なりの表現も幾分、含むけど。あとで述べる。ちょっと待ってて。
 
そんなことより本題の、世間の、
“教育 玉の輿”の崩壊について、
要するに、
いい大学を出て、いい会社に就職をすれば終身雇用で将来に不安はない」
と一般的に思われていた時代の
「やればできる」システムについて…。
その「やればできる」の常識は最早、覆され、
やればできない」
時代は今、“やればできるシステム ”の中に嵌められた大勢の人間がそれこそ、
“やればできないシステム”の中で捥がき苦しんでいる。
それは全国の義務教育の現場に限らず、それこそ、私立公立に拘わらず、
保育園も幼稚園も、全国の高等学校、大学、受験予備校、専門学校、学習塾、家庭教師派遣、教材販売…
何か物を教える仕事に携わっている人、会社もすべて、そういう
やればできないシステムの中にある。
云うまでもなく、それらを監督する文部科学省にも厚生労働省にも、
既存の”教育の行き詰まり”の中で雁字搦めにされた人達がいる。
「人間が生きるために必要な知識は、
現世に かたち創られ肉体を持った人間としてこの世に現れる以前に、
母親の胎内で育つその以前に、
既に男女両性の受胎の瞬間から、すべて決められている」
ところが、本人が持って生まれた能力とは別に、
必要以上の知識、必要以上の経済、必要以上の美貌が、やがて己の敵となり、
自分で自分を破壊することになる。
特に必要以上の教育。
これを詰め込めば詰め込んだ者ほど、
その“知識の化け物”
自分で自分の精神を破壊することになる。
(一部、初版『人間の設計図 』巻末「結び」より引用)

 
例は挙げなくても、それは日頃のニュース、
報道の中でも様々な事件として表されている。
でも具体的には、修学旅行で関ヶ原の合戦跡地とか
そうした場所から帰ってきたあとの、学生、生徒達の行動とか…
震災で家族も何もかもすべてを失った少年が、
元総理村山さんを怨んでいた事実と、
あんな形で社会に何を訴えたかったのか?
当時、その過剰なマスコミ報道のために、
NHKの金曜時代劇『半七物語』が放送打ち切りになってしまった。
全17話だったか、
そのうちのほとんどすべては収録済みであったにも拘らず、
生首を片手にぶら下げて堀の淵を歩く人のシーン
から始まるという回が、
「この時期に不適切」
という規制が入り、
そのあとの回まですべてお蔵入りになってしまった。
真田芝居さんのファンであった俺としては、その事実を聞かされた当初、
「奴の所為だ…」などと思ったが(おっと、JR西日本)、
それはさておき、
青少年犯罪の低年齢化に並行する過激化。
どうしてもそれは、
日本の学校教育の在り方に問題があり、
マスコミの報道の仕方がそれに拍車を掛けていると俺は思う。
だからといってそれはもう改善しようがない。
関西と東北で一部の小学校と高校の先生が、
まず自分の身近にいる生徒に対しての取り組みが大切と、
子供達の心を見つめる実践を地道に実践している姿を観ると、
俺も、
教育とは素晴らしい…」
という勘違いに乗せられるような報道番組に嵌りそうになることもあるが、
それすら、もう間に合わないというほど、
全国の学生、生徒諸君は、古谷一行先生がどう頑張ろうと、
赤い狐のオジサン
が何を説教しようと、                エデンの東
明日は集団で目的を遂行しようとしている。
誰かを仲間ハズレにして、誰かを悪者にして一つに纏まるのは、
一校内の小さな教室の中だけに限らず、
今や、どこの会社の従業員同士の仲でも、パートのオバサン連中の仲でも、
どこにでもあることかも知れないが、
必要以上の教育を受けた人間が「平等」だの「権利」だのと言えば言うほど
社会は狂う。
その大人を見て生きる子供は集団で狂う。
そこには最早、アヒルの学校の岸谷先生も、
ハーバー・ライトの北野先生も、もうどこにもいない。     水谷豊  ゴールデン☆ベスト
 
高崎の八千代町にあった事務所。そこへ、 
ある親子三人が、知人に連れられ、
ちょっと立ち寄ったまでだ」という顔で来たことがあった。
初対面で挨拶すらままならないうちに、その母親が、
「先生、うちの娘、いま小学校三年生なんですけど、実はほとんど毎日
というほどオネショしてるんですね。男の子ならまだしも女の子だから、
やっぱり将来のことも考えると本人だけの問題じゃないなと思って、
親としても色々と悩んで、病院にも何件か行ってみたりして。
まぁ診ては貰えるんですが、結局は全然、何にも原因が解らなくて。
それで○○さんに聞いて、

こちらへ来れば先生が何でも治してくれる人だと伺ったので…今日こうして…
やっぱり うちの娘はどこか悪いんでしょうか?」
と、持ちかけてきた。
 
上品そうな顔立ちの赤いスカートを穿いた女の子を挟んで、
隣に坐っていた父親は黙っていた。
ただ事務所の部屋の中を
ここはなんなんだ」と言わんばかりにグルグルと見回していた。
人間の設計図 』の著者は、やや いつもの笑顔で、
「そんな、いきなり初対面で…。ねぇ。急にそんなこと言うと
恥ずかしいよねぇ。ごめんね。
ごめんねって私が謝ることもないんだけど。
ごめんねぇ」
と、先生は母親も父親も親の顔はちっとも見ずに、
ただ笑いかけながら女の子にそう云って、
そのあとしばらく、一緒に来ていたその親子の知人、○○さん(兼ねてより面識アリ)と話していた。
父親も母親も黙っていた。
女の子もやや緊張気味の顔で おとなしくしていた。
先生はまた女の子の顔だけを見て云った。
「…ねぇ、名前もまだ聞いてないんだけど。
それでぇ…。忙しいの?」
と、ただ一言、それだけの言葉に親子はポカンとしていた。
「…忙しいの?って、お手洗いへ行く暇もないほど
何かそんなに忙しいの?」
と云う問いかけに、女の子はコクリと頷いて黙っていた。
「ネーっ。なんか忙しいみたいねぇ。
お手洗い行く時間なんてないみたいねぇ、とっても忙しくて。
…それで、何がそんなに忙しいの?」
と、先生はただひたすらに女の子とだけ会話していた。
するとそれまで黙っていた女の子は、
「月曜日はピアノでぇ、火曜日と金曜日は塾でぇ、
水曜日はバレエ。木曜日は英会話。土曜日は(以下略・順不同)
と、自分の通わされていた習い事や稽古事をすべて並べて話し出した。
それを聞いた先生は、またもや親は相手にはせず、
「…そうなんだぁ。それで学校にも行ってるんでしょぉ…
それは忙しいねぇ…。
ネーっ。トイレ、お手洗い行ってオシッコしてる暇なんてないもんネー。とっても忙しくて。
オシッコできる時間があるのは寝ている時くらいだもんねぇ…」
と、笑顔のまま続けて、
「だからいいよ。布団で。もぉっとやって。遠慮することないから。
お布団なんてどんなに濡れても構わないから、
今日からいっぱいして。
おもいっきり、ジャーって。
布団がダボダボになってもいいから。どんどんやってね」
という言葉に、親は呆気に取られていたが、
先生は卯も言わさず、そこで始めて母親の顔を見て
お母さん、聞いてた。
…あのぉ、なんか、この子はとっても忙しいみたい。
もう毎日毎日、大人より、誰よりも忙しくて
トイレ行ってオシッコする暇もないみたい。
知らなかった? 
知らなかったでしょ」
「・・・はい」
母親は少し俯いていた。
それでも先生は今度は恐い顔で
「それをなんだよ。あっちの病院、こっちの病院て廻って、
そんなことも判らないで よく親だなんて言ってられるよ。
お父さんも おんなじなよ。よくそれで…。
いいから土下座して、子供に謝れ。今この場で」
と、初対面の父親と母親に怒鳴りつけた。
大声ではないにせよ、母親が泣き出すと父親は俯いていた。
次に先生は笑顔に戻って
「…ごめんねぇ、逢ったばかりなのにズケズケと。
でもそうでしょ、知らなかったでしょ、なんにも。
…そういうことだったんですよ」
「はぁー。恥ずかしい…」
父親はやや小さな声で反省していた。
「…だから、今どうしてもやめられないんなら仕方ないけど、
できれば一つでも二つでも止めれば大丈夫なんだけど…。
その塾とかピアノとか…なんだっけ? バレエ? 
そういった習い事を…。
どれか止めるぅ…って言ってもねぇ…」
「はい、止めさせます」
「あ、もう止めるんだぁ。フフフフ。…ネー、忙しかったんだよねぇ」
先生の顔をチラっと見て、女の子は少し微笑んでいた。
「だからお母さん。そうしてみて。明日から…。お父さんも。
この子とよく相談して…」
「はい」
と、この日このあと、その親子は一時間ほど世間話をして帰って行った。
父親の深々と頭を下げていた姿が印象的だった。
数日後、母親から、小学校3年の娘の稽古事、習い事のほとんどを止めさせて、
途端に夜はオネショをしなくなったという礼の電話連絡があった。
 
 
どこか水戸黄門の最期のシーンに似ているような気もするが、
人間の設計図 』の著者は、そういう指導者だった。
「親は子供のことを100パーセント何も解らない」
ということもよく云っていたが、
今の話と この言葉の意味はちょっと違う。
それは人類の未来において、
これから繰り広げられる自然界に気による革命において・・・・・。
 
 

 
 
以下、もし気持ちに余裕のある方は、拾い読みしてください。
 
 
  title 先生、木曜日には気をつけてな
 
 http://ameblo.jp/badlife/entry-10004163605.html
  
 

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人間が人間を教育するなんて
おこがましいよな。
今の世の中で最低限必要な教育は
小学校3年くらいまででいいと俺は思う。
読み・書き・電卓ができれば。
あとは必要以上だな。嘘も多いし。
今の日本の学校ほど退屈でつまらない
しかも、人間を堕落させてしまう場所はないぜ。
自分が生きるために本当に必要な知識は
最初から生まれ持って在るってことを封じ込めちまう。
高校・大学の進学なんてのも本人の自由だ。
世間や親の人生には関係ない。絶対に。
俺自身、自分の子供に
現代の義務教育なんてのは受けさせたくない。
無理な部分もあるけど、
できればな。
 
   
http://ameblo.jp/futoukou2/entry-10005464300.html
                  このページのコメント欄より。