生きてるじゃねぇかよぉ! | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

mind resolve : chapter 005
 
 
    Open your mind. Open your imagination & Open my heart
 
 
     仮題 : 解決 玉の富士 …今のところイイのが浮かばなかったので、これで
 
 
さて、今このページを開いている読者なら読者( Hey You ! )が、
筆者は頭が混乱しておかしくなっているか( My Block Head )、
もっと言い方や言い回しを何とか工夫して読みやすいようにして
くれないと着いて行けない・と思っているかも知れない。
あるいは、読まずにパソコンの蓋を閉じて寝てしまったかも知れない。

それ以前に、トップ・ページhttp://www.hpmix.com/home/findows/ 閉鎖中を見た瞬間 
「怪しいサイト…危険」と、次の生活情報 へ移動しているかも知れない。
ところが、この、紙一重のようなパラノイアしてる感じにも思えるページを捲らなくとも

あの、BAD LIFE という赤い文字をほんの一瞬でも眼にした瞬間から、
今後、自分が自分で自分をどこまで救えるかの瀬戸際に立っている。
なぜなら、あのタイトルは、(ここからの話は信じる信じないは自由だが)
人間の設計図 』というある一冊の本の表紙タイトルの墨字六文字をそのまま、
そのまま辺やツクリの位置を変えて、この“BAD LIFE”の6文字に作り変えてある。
なんでそんなことをしたのか?
それは、知っている人には未練がましくも感じるかも知れないし、あるいは、
「負け犬の遠吠えのようにしか思えない」などという貧しい解釈をされるか、
その程度の想像でしかないかも知れないが、そんな単純な意味ではなく、
そうすることが どうしても必要だったのでそうしている。しかも黒字から赤字へ。
BAD LIFE 』という本は、今ならまだ書店で注文しても流通しているので、
まだ何とか手に入る・と思う。
しかし『人間の設計図 』という本は、どこにも流通していない。(一部のネット上以外はな)
1993年に初版で8千部は印刷されただけだが、捜している人も今も多いと思う。・・・・きっとな
その本の特別なところは、まず、書いた人が違う。どう違うのか
説明しにくい部分もあるが、
例えば糸魚川という川のどこかに
「ここの水を手で掬って飲むと身体が楽になるよ」とか、
「この樹の下へ来て身体の悪いところが全部、治った」とか、
それはかつて、世界中で自然界を破壊した開発が進む以前のアメリカ大陸において、
ネイティブ・アメリカンの住んでいた土地の一部であったり、
キース・リチャーズ (±S)グラム・パーソンズの友情が深まった例の場所…
 
 

 The Rolling Stones      (南カリフォルニアの砂漠地帯にあるナショナル・モニュメント。
 
Sticky Fingers                     ここへ キースとグラムはUFOを見に行った)
 
 
   Joshua Tree
 U2 The Joshua Tree
 

 
とか、まぁ地球上のあちこちの、
人工的に造られた場所ではない自然界に、そういう不思議な場所が幾つかある。
その『人間の設計図 』の著者は、人間の形をして、その肉体を持っていた存在そのものが、
そういう場所と同じだ・と、本人が俺に云っていた。
 
「…この私のぜんぶがだよ。全身からそういう気が出てる。
だから今、コレ。ちょっと持ってみて。自分の手で持って握ってみてみて、コレを」
と、その時(俺が19の時、逢って二回目くらいだったか、10月の天気のいい日だった)は、
そう云って、どこにでもある100円ライターを一つ差し出して来たので、しばし握ってみた。
「どう?」
と云うので、正直に、
「…う~ん、なんだかカラダがアッタカクなってきた。…温かくなってきたような気がする」
「ああ、そう。…それでいいんですよ。それで」
と、そう云っていた笑顔が想い浮かぶ  なんか涙でてきた。チキショ

「ええっ!?、いいんですか?」
「いいんですかって、いま自分が持ってみて何か違ったわけでしょ」
「はぁ…」
「…で、いま自分で云ったように”気”がするんでしょ、それを持ってみて。どうだった、
さっきより。それを持つ前と持ったあとの自分では…違うんでしょ」
「うん。あ、はい。楽になった」
「あ、楽になった。そっかぁ」
「…どうなのかぁ…自分で…楽になったようなぁ、なんか違うとは思うんだけど」
「でも違うんでしょ、さっきと今とでは。…気なんでしょ、それが」
「“気”、ですか、これが?」
「さっき今、自分で云ってたじゃない。温かくなった気がするって。
自分でコレ持って、しばらくしてからそう云ったでしょ。ねぇ」
と、周囲にいた人にも同意を求める。
しばらくの沈黙があり、みんなでお茶を飲む。
そしてテーブルに置いてあるさっきの100円ライターを見ながら、
「ねぇ、不思議だよねぇ。ただのライターだし、ただ持っただけなのに…。どう、いまは?」
と、また俺に訊いてきた。
「はぁ、…温かかった。なんかパァっと…」
「何が? コレが? ライターが?」
「いや、ライターもそうですけど、自分のカラダが。
…どうしてなんですか? なんでそうなる」
「なんでそうなるって…。さぁてねぇ。どうしてなのかねぇ。
不思議なんだけどぉ、ねぇ…。でも、みんながそうなんですよ。
私の所へ集まってくるみんなが。そういう人なん」
「誰が?」
「誰がって、私が。」

その後、俺はいろいろなことをその人から教えてもらった。
そして、いつどんな時も心の支えになってくれた。
「…ジジイ、なにクタバってんだよ」と、口では云っておきながら、
今でもそう思っている。これからもたぶん変わらない。

だから、その人が持った物、着た物、触った場所も坐った場所も、
手で書いた物もすべて、実際に次に持った人が誰であろうと、
“何か”を感じるようになっていた。
当時、その人の煙草の吸殻を幾つも貰って、
例えば筋肉痛で足が痛い時は足へ、歯が痛い時は手の甲の虎口へ、
テープで貼り付けた。
いつでもどこでも瞬時に痛みが退くこともあれば、徐々に和らいで行くこともあり、
その時の自分の身体の状態により、それは様々に変化もあった。
そして『人間の設計図 』という本の”人間の設計図”という表紙の文字も、
その人が特別な日に特別に書いて(墨は硯に息を吹きかけながら磨り)、
五枚のうち一枚を原稿として、製本する時は印刷に使う墨までも、
丸い缶で二つへ、あらかじめ特別に気を封入して、
そうして特別に印刷されている。

ここでいう“気”という言葉が的確かどうか、本人がそう云って
使っていたので、そのまま文字にして表しているが、俗に言う中国のそれや、
テレビ、雑誌・週刊誌等の世間で持ち囃された「気功」とはまったく違う。
つまり、その人の持っていた能力は気功ではない。
「気功」と「気」というものはまったく別のものであると捉えた方がいい。
気功とは方法や作。生活の知恵。特定の人が特定の形で生きるための道具、
手段に過ぎない。特にテレビ、雑誌に出てくるものは どれも。
「気」とは、生き死にに関わらず誰でも持っているし、どこにでもある。
ただ、目に見えない形としてあるから、それをある・なしは信じる人もいれば信じない人もいる。
それでも、どの人も常にそれを使って生きている。そうでない人はいない。

だから、その人の持っていた能力は、単純に“気”という言葉だけで知ることより、
実際に自分で触れてみて、体験するほうが判り易い。
“一種の超能力か”と判断して片づけても、
それはそう判断した人の自由なので一向に構わないが、
例えば、何か嫌なことがあったり、どんなに苛ついていても、
その人に逢うと必ず、きれいに何かに清められるような、
スッキリと落ち着いた気分になる。(なった。ただ逢って顔を見ただけで。
俺は幾度となくそういうことがあった)
そしてそれを実際に周りの者に後で聞いてみると、誰もがそう頷いて否定はしない。
決して何かを崇拝する宗教の教祖ではなく、また、何らかの修行をして確立した能力でもない。
普通にどこにでもいるような(いないけど)明るい爺さんだった。
ただひとつ、何か不思議なエネルギーに満ちあふれた、どこかまぁるい(虹に近い状態)、
どこか一般の人間とはかけ離れた、
そんな雰囲気を持っている人だった。

少なくとも俺はそう認識している。
かといって “神懸った存在”と簡単に断言して、
それもいつしか忘れ去られてしまうような表現で「神人」とか「雲の上の人」
という言葉に当て嵌めることはしたくないし、もう誰にもされてほしくもない。
ただ俺は素直な気持ちで、その人のことをもし「何か?」と尋ねられ、言葉にするなら、
「水や空気や太陽と同じ存在」
という表現を過去に使ったことがある。
それ以外にはない。

ここまで云って、判らなければ
このウェブサイトのトップページのタイトル を一時保存して、それを印刷してから、
その紙を自分の、どこか身体の好きな場所に当ててみてくれ…とは強制しないが、
別にやってみてもみなくてもいい。
ただそれを試みようと行動に出た瞬間から、何かが違うはずだ。
何かが。
それが何かは本人にしか判らないが、ここまで俺が云ってきた内容のどこかに、
「あ、これは…」
と気がつくこともあると思う。
男でも、女でも、外国の人でも、それは年齢人種性別を問わず、
必ず感じるものがある。しかも今までになく特別な、
それでいてどこか懐かしいような、そんな感触で。
その証拠に、これを呼んでいる今、「怖い」ということはないと思う。
・・・俺じゃなくて、さっき云った“その人”が。
俺自身、冒頭に、乱暴で失礼な書き出しをした自分が、
どこか自分に対しても、今これを読んでいる相手に対しても、
「わりぃな、スマン」
という気持ちになっている。

・・・・いつもはそんなことはない。
俺は読む人に常に「恐怖」を与え、…あんまり恐かねぇけど。いまのところは
またそこから、何とかして
今居る場所で立ち上がり、次の場所へ進むきっかけを得られることを願っている。
それがどこまでそうなっているかは俺じゃねぇから判らないけど。
「ちっともそんなことない」
と、そういう人の方が多いかも知れない。また、
「駄目だよ、そんなんじゃ。誰も聞かないよ、おめぇの話は」
という人もいると思う。
もしかすると、世界中の誰も、
60億の誰一人として、このサイトを覘いた者はいないかも知れない。
それでも、たった一人だけ、たとえ、
今もう、あと何分かで地球が滅亡してしまうという瞬間であったとしても、

トップの蒼い扉http://www.hpmix.com/home/findows/ 閉鎖中を開いてから
ここまで読んでもらった人が、たった一人だけいれば、
俺は俺の目的を達成したことになり、
地球は滅亡しないし、人類は滅びない。
と、そう信じてる。
 
I wandered so aimless, life filled with sin
I wouldn't let my dear saviour in
Then God came like a stranger in the night
No more darkness, no more night
Now I'm so happy, no sorrow in sight
Praise the Lord, I'm awakening in my life

Just like a blind man, I wandered alone
Worries and fears I claimed for my own
Then like the blind man that God gave back his sight
...I was a fool to wander and stray
For straight is the gate and narrow the way
Now I have traded the wrong for the right
Praise the Load, I'm awakenings in my life

 
で、ここでまだ終らない。
その、『人間の設計図 』を書いた人は、
人の病気は何でも治した。というより、逢った人が勝手に治った。
もともと、どんな病気や怪我も本人がやっていることであって、
他人の肉体や心が、自分のその病気や怪我、様々な悩み、苦しみ
をやっているわけではない時々例外もあったような気もするが…
とにかく何の被害者であってもまず、今やっているのは自分の肉体だし、
それを苦しい、辛いと感じているのも、他人ではなく自分だ。
そのことに”本当に気づいた人”はみんな治った。
人によって己に気づく時間の誤差はあるから、気づいて一瞬でという人もいて、
また、相変わらずという人も中にはいたかも知れないが、たいていは楽になって、
それぞれがまた自分の生きる場所、生活する場所へ戻って行った。
ある時、交通事故で片方の足を失った女の人が来て、
その女の人は一回だけ大きな声で鳴いて、
次からは元気に自分の足で帰って行った。自分で自分の心を治して帰って行った。
人間の設計図 』を書いた人は、そういう“気づかせる”という
仕事をして、「先生」とも呼ばれていた時期もあった。
俺もしばらくは「先生」と呼んでいたが、今は「ジジィ」と呼んでいる。
意味あって、そう呼んでいる。
もう一度、一回だけでいいから、逢って話しをしたいから、今はそう呼んでいる。
その時は必ず、茶色い着物の胸倉をこの手で掴んで、
「生きてるじゃねぇかよぉ!」
って、怒鳴りつけたいから。
何ヶ月か前、そういう夢を見たが、あれは現実ではなく、やはり夢だった。
別にゾンビのように生き返ってほしいわけでも、
明日の夜、白装束で枕元に立ってほしいわけでもない。
ただ、蘇ってほしい。
俺の中ではっきりと。
たかだか十年余りの付き合いだった時間の、その幾つかの記憶を辿るような幻想ではなく、
もっとはっきりとした形で俺の中に。
俺が呼んだ時、あるいは向こうが俺を呼んだ時、
必ず邪魔の入らない時間と場所で、
男同士、腹を割ってゆっくりと話ができるように、
今日、今この場所に蘇ってほしい。
普通ならないけど、俺には(他の幾人かの人にもきっと)、あると思う。
人間としてちゃんと生きていれば、
必ずその日は来ると思う。
 
…まだ だいぶ遠いか。