“やればできるシステム” 【予告編】  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
文科省「ゆとり教育」の見直し遅れ 今年中に
 昨年12月22日に改正教育基本法が公布され、教育改革が本格的にはじまった.......... ≪続きを読む≫

   
     suffer little children , naturally.....boys & girls 
   
     chapter 024
   
   
例えば、落ち着きのない子供が
どうして落ち着きがないのか?
これを”親の躾”だとか“本人の性格”という漠然とした解釈で
簡単に片付けるわけにもいかない。
またあとで丁寧に説明するけど
大人の過労死や過労自殺の問題も含め、
LD児だとか学習障害児だとか、
人間の創られ方の根本を判らない学者も医者も、
全国の学校の先生も、その人達の言っていることは、
今いちピンとこない。
そして、幼児や児童の突然死の問題。
また、視覚障害の子供。
それは米国の教育現場でも、
「WAS」という文字が「SAW」という文字に視えてしまうとか、
本人達は見ため、健康そうで元気な子供に見えても、
社会の中で、子供同士の関係の中で、とても苦しんでいる。
二十年くらい前は、日本でも、多動症【たどうしょう】という言葉が、
医学の中や厚生省、文部省の調査の中にもあった。
それはどうなってしまったのか…と、そんなことは、
もうどうでもいいくらいに、授業を受ける側も、
教壇の上に立って教える側も、決して一部ではなく、
教育の現場は今、殺伐としたモノになって来ている。
“体罰”という一つの問題にしても、
その度合い、加減がどうあれ、世の中には煩いほど、
“児童虐待”“幼児虐待”という言葉がある。
   
普通に生活して生きる人間にとっては、どうでもいいような思想、
自己啓発、成功哲学などと呼ばれる中に出で来る、
“人間の7つの恐怖”に存在すると言われる“差別”。
それは、人種差別や民族差別、
特定の権力や独裁社会の維持のためにある特定の人達への迫害による差別。
また、文明社会にある”蔑視”、“Jim Crowism ”など…。
そうしたものとは別に、人類には、
自然界に生きる人間の営みには、必要な“階級”もある。
例えば、映画『いつも心に太陽を 』という教師と生徒の関係を描いたドラマ。
一人の黒人の教師が白人を中心とする思春期の生徒達の心を変えてゆく。
そういう素晴らしい物語に負けじと、日本のテレビ業界も様々に、
人々の心に訴えかける“学園モノ”を作って来た。
俺自身、岸谷さん ふんする先生役が、自分の教え子が、
自分の軽い一言のためにビルから飛び降り自殺をしてしまったり、
教え子の小学生に腹をナイフで刺され、
「…それは生きるために遣う物だろぉ」と、
なんとかして本人の心を抱きしめようとするシーンには涙が出る。
でも、そんな先生はいないし、たとえ、いるように思えても、
本人の肉体も心も、ガタガタの状態で、
教育者という立場で世の中に存在する自分という人間が、
「果たして、このままでいいのだろうか」と、
常に疑問を抱き、助けを求めている。
その必死な姿を、地域の親もPTAも、全国の教育委員会も、
その人の家族も、ただ見ていることしかできないし、助けることはできない。
言葉だけでは、協力、援助、応援ということもあるかも知れない。
ところが、いま現実にある本人の孤独というものは、
他人には想像もつかないほど、辛く、重く、暗い、
まったく出口の視えない処にあって、
そこからはどうにも解放されないまま、悩み苦しみ、もがいている。
それはまず、その人の肉体に問題がある。
そして、「人権尊重」「平等」という言葉だけに偏りすぎた社会。
その、階級を失わせた世間の常識、世の中の教育に嘘がある。
   
社会に出てから、世の中で何かを失敗したり、
面白くないことがあったり、
そうした精神の屈折した、あるいは屈折された部分で、
何か犯罪を犯し、人を殺めたり傷つけたり、
そういう事件、事故の報道は、
聞いて見ている人にとっても、
当事者や被害者以外は、まだ、理解のしようもある・かも知れない。
現代の教育現場、学校という場所が、人が人に対して、
道徳心や社会倫理というモノを培うためにあるかどうかは別として、
その教育の現場で、生徒同士、生徒が教師に対し、
またその逆のケースであっても、人の命を軽々しく思ったような行動、
殺人や傷害を負わせる事件、事故が起きている。
そればかりか、自分が教職の立場にありながら、
自殺をしてみたり、それが未遂に終ってみたり、
そういう浅はかな教師、校長先生までいる。
誰が、こんな世の中をつくったのか?
こんな無残な、人間として無様な哀しい現実に陥る前に、
それらは、まったく防ぎようのないことだったのか?
何を見落として、何を裏切り、何をおざなりにしてきたのか?
   
生前の『自然と人間の設計図 』の著者は、
そういう云い方はしてはいなかったけど、
一人一人、人間の大人としての学校の先生の悩み苦しみを訊き、
また、子供一人一人の身体の問題、心の問題を
その親に欠けている一つ一つを気づかせながら、
あらゆる問題を解決して来た。
その事実、実践の内容を今後も、幾つか紹介してゆくつもり…
つもりなんだけど、いかんせ、
今いちピンとこない全国の学校の先生。そして、
文部科学省や日教組の主義主張、大義名分ばかりが先走る世の中。
ある学校の先生は、自分の考え方をまったく受け入れようとはしない上司(?)
教頭(や校長)の胸倉を摑んで、
コノヤロォーッ!って、
…オレもやりたくなることもあるけど、できないでしょ、それは。」

という人もいた。
「やればいいじゃん、ビシバシ。遠慮しないで…」
とは俺も思うけど、本人には家族もあるし、将来もある。
そういうことを考えると一人一人が地道にやって行くしかない。
それでも、その「地道に…」という考え方が、
いつまで続くのか?
どこまで世の中に浸透してゆくのか?
俺は、笑ってしまうほど、気の遠くなるような時間の中で、
学校の生徒も先生も、それを監督する行政も、疲れきっているし、
そんな暢気なことをやっているうちには、自分が存在する場所で、
明日にも、システムの崩壊が待ち受ける。
戦後教育における、
やればできるシステム”、
“頑張ればお前にもデキル・システム”。
国は、政府は、文部科学省は、厚生労働省は、全国の教育委員会は、
様々な調査をして、無駄なカネも遣いながら努力した結果、
色々に集めたデータを基に、
「これは、ここに、こういう問題がある」
「今度はこういう枠の範囲内で、ここに問題がある」
と、さも判りきったようなことを神様のように提起する。
しかもそれを何ひとつ解決もできないまま、山積みにしている。
そしてそれを何十年もやっている。
   
そうした中で、かつて、こんなことがあった。
   
   
南 大空。小学校六年の時、ある土曜日の昼のことだった。
今でいうところのショッピング・センター。
その建物の中のエレベーター脇の階段から、
数人の友達と一緒にワイワイと駆け下りて来た。
すると、前年度の担任の先生を発見。
「あ、メガネだ…」
と一言、俺は、みんなで呼び合っている先生のアダナを云った。
彼女は何か気晴らしのつもりで、街をうろついていたのか、
そんなことは考えもせず、俺達はまたワイワイと次の場所へ移動。
明けて月曜日、午前中の授業の中休みに、
その当時の担任のK先生が俺を呼ぶ。
「Y先生が職員室前に来るように言ってるから行きなさい」
ただそれだけ。
で、行ってみると、
「お前が人前で私のことをあんなふうに呼んで、
私がその時どれだけ恥ずかしい思いをしたか、
お前には判らないだろうけど、
私の腹の虫が治まらないから殴らせな」
ということで、俺に一発、平手打ち。
口の中を少々切ったが、別にたいしたことはない。
俺はそのまま次の授業を受けた。
当時の俺は、職員会議でも毎日、名前が出てくるほどの問題児で、
イタズラも喧嘩も校則破りも、俺は俺なりに主義主張もあって、
引越し7回、転校3回という子供の人生には色々と複雑なモノもある。
後でよくよく考えてみて、誰に迷惑になるとも思えないようなことまで、
俺の罪として被さって来る。
一つの学級の中で行われる”帰りの反省会”なんて、
毎日が被告人席みてぇなもんで、弁護人は一人もいない。
議題がなくても、勝手にコジツケタ内容で俺を血祭りにあげる。
「きのおぉ、みなみくんわぁ、下校のときにぃ、学校の正門から出ないでぇ、
校庭のぉ、フェンスの網を乗り越えて帰っていました…」
とかなんとか。
「俺の勝手だ、その方が近道だし、俺も色々と忙しいんだ、
いちいち遠くの方から見てんじゃねぇ。
それに俺は正門からは出てねぇけど、フェンスを乗り越えたのはオトトイだ。
昨日は、下にこじ開けられて拡がってる網の穴から出たぞ!
お前だって先週、そこから出入りして遊んでたじゃねぇかよ!
みんなもう塾に遅れるぞ。つまんねぇことやってねぇで、早くけぇりの支度しろ、
いつまで昨日をやってんだ。もう今日は夕方になるぞ。アホかお前ら」
…教室の真ん中の席で自分だけ立たされている俺の心境。
誰か独りを悪者にしないと纏まっていられない集団。
しかも先生ぐるみだ。
そうしたことを俺にさせないようにするためには、どうしたらいいのか。
ということは議題として進行されない。
ただ、 「反省しなさい!」と先生もガナルだけ。それが、毎日だ。
丙午に産まれた生徒、二百十余名、6年1組から5組まで、
ベテラン先生の頭も戦中戦後の教育理念でいっぱいになって、
自分自分の人生を整理整頓、軌道修正中だった時代の話。
軍国主義と民主主義がコンガラガッタ、そういう頭で、
 
 人が人にモノを教える。
       V S
 人間は人間を教育できない
 
自分が人間として生きるために持って産まれた能力は、
一人一人がみんな違う。
たとえクローン人間 にしてもそれは違う。
一方のコピー元は、自然界に決められた通りの仕組みで、
肉体の中に魂が備えられていても、
一方は、ただ腐敗する進行速度の速い、同じ形をした物体であって、
中身はそれをコントロールできない。
普通に生きている人間でさえ、
自分の心で自分の肉体を満足にコントロールできない世の中で、
どれもこれも同じようにできるわけがない。
   
で、その当時(昭和50年代~60年代にかけて)の先生方の教えの一つ…、
「街でお年寄りの横を通ったら必ず挨拶したもんだ、お前達もそうしなさい」
「なんで? どうして? なんのために?」
そういうことは教えない。ただ、
「きちんと挨拶しなさい」
「判った、じゃぁやるよ」
ってことで、俺の場合は、
「爺さん、おはよう! 長生きしてな」
云われてる本人は笑って手を振ってくれた。
これでいいんだろ。
で、上には上がいて、
同じ義務教育でも中学生になると、俺の友達の場合は、
女の英語の先生が教科書を持って、
「わたしの後をついて読みなさい…」
ということで、
立ち上がって、その先生の歩く後ろを追いながら読む始末。
「もう知らないっ!」
先生は泣きながら教室の外へ出て行ってしまった。
   
要するに、先生にも生徒にも色々な考え方があって、それを
どれもこれも同じように雁字搦めに縛りつけることはできない。
それでも、そこからはみ出さないように頑張ると、
どうなるのか?
今のような世の中になる。
自明の理だ、そんなの。
明治・大正・昭和の常識に拘ってた当時は、
「ああしなさい、こうしなさい」と言っていた教師も親も、
体罰も教育の一貫とされていた時代はまだ、
“陰湿なイジメ合い”の中から生まれるような
小学生同士の殺傷事件なんて、あんまり目立たなかった。
ところが(ここが大事だ)、
明治・大正・昭和の常識を引き摺った今の世の中では、
校内暴力も校外での喧嘩も苛めも、
相手が血を流しても、まだその先がある。
「殺す!」「ヤル。」「潰す」という目的。
特に酷いのが”自分を殺す”というテーマ。
で、それは全部が全部、本人達の意思ではない。
やっている間、強行している、その殺傷の進行中に、
たとえ本人の意識があったとしても、
それは精神鑑定をしたからと言って、
何かが解るものでもない。自殺者なんて特にそうだ。
犯罪心理学者とか、カウンセラーとかの先生方は色々と言う。
でも、その人達の意見が参考にされて解決された問題は一つもない。
   
なぜならそれは、精神、心の面ばかりを考えて、捉えているからな。
そうじゃなくって、人間は、
精神と同時進行にある肉体についても考えないと、
今後は問題も増えて行く一方で、やまない。
もうドロドロだ、グチャグチャ。
今後これから想像もつかないような事件が待ってる。
それは次々に、あちこちで起るから、
世の中の親も子供に防犯ベルを持たせるようなことはやめて、
自分の家庭内で学校の授業と同じ、あるいは、
それ以上のカリキュラムを組んで、
中には失業中の教職免許保持者を雇って、
自警団付きの施設を経営するかも知れない。
ライバルは全国の小中学校。
カネはかかっても、その方が子供が安全だ。
現役の学校の先生より素行のいいアンちゃんはいっぱいいる。
カネさえ払えば何でも言うことを利くし、
気に入らなければ自分いつでもクビにできる。
替わりは大勢いるから困らない。
そこで経験を積めば、その実績を束にして
派遣会社を起こす人だって現れる・・・・かも知れない。
そうなると、国が面倒を見てる学校なんて要らなくなる。
「郵政民営化反対!」なんて言ってる場合じゃない。
そういう今より殺伐とした時代は、もうスグそこまで来てる。
人間は今もまだ、それほど、”教育”ってもんを大事にしている。
「知識は宝」。
「知識は罪悪」だなんて思ってる人なんていない。
どこが宝だ?
 
 
 ジェネオン エンタテインメント
 家族ゲーム
 
 

映画『家族ゲーム』で松田優作さんが最期の食卓のシーンで、
みんなを殴り倒した理由はそこにある。
そしてお母さんは、
「何かあったのかしら?」
そう云いながら、マンションのテラスから、
ヘリコプターが飛び回る空を見上げる。
バックには、普通の日常に流れて聞こえる近所の雑音もある。
そこで物語は終る。
『バトル・ロワイヤル』なんてたいしたことないくらい、
あれほど恐ろしい結末の台本はない。
「何かあったのかしら?」
ではない。
もう現実にあるじゃないか。
神戸でも、長野でも、山梨でも、北九州でも、東北でも、北海道でも、
「今までにない…」となれば、
報道機関はスグにヘリを手配する。
現地の民間人が撮った映像なんて、
人の命よりも高い値がつくほど、
マスコミの連中も必死になって追っかけ回す。
その報道を見て、聴いて、知った子供達もまた、
便乗に継ぐ便乗。
どっちもやめられない。
「なぁんだ、他にもやってるじゃないか。
私だけ我慢することもない」
みんなと同じことをやってれば案心
「やればデキルじゃん!」
自殺も殺害も子供達には簡単だ。大人よりはな…。
見事に、教育水準の高い我が国。
戦争はしないけど、戦争より酷い兵隊の倒れ方。
海外に比べれば治安はいい・・・・・どこが? 
最早、目に見えない“心”にはないぞ。
明治・大正・昭和の常識を引き摺ってるって世の中ってのは、
それほど恐ろしい。
それでも世間はまだ、
自分の身近、自分のスグそば、
自分自身に事が起こる迄は、いつまでも “ひとごと”だ。
それは決して、”いつまでも”というわけには行かない。
現実が、自然界が、地球そのものが、
もうそれを赦さない。
   
こんな世の中だから、俺自身、覚悟はしてる。
まだ安全かも知れないと思って、
38度線にある離島に移り住んだけど、
そうでもない。
色々と問題はある。
地元民の中に米ドロボウはいるし、
刈り採って袋に詰めた米を盗むどころか、
ご苦労なことに、朝早くから他人の田んぼに盗んだ機械を入れて、
それを盗んだトラックに積んで島の外へ売り捌く奴もいる。
本人達は農家の出身だ。
春から植えて育てた一人一人の苦労も知ってる。
コシヒカリなんて誰も小さな田んぼには作らない。
真っ直ぐに四角く平らな一兆歩の広さを刈るだけでも
2時間近くは掛かる。
年末年始に重機でAT機をブッ壊す瞬間芸とは訳が違う。
見張り役も作業役の人も、刈ってる間に罪の意識はないのか?
ない。
そんなのあるなら、貧しさも乗り越えられる。
もう乗り越えられないほどの貧しさだ。
やればできる
真面目にあくせく働いてもできなかったじゃないか
泥棒なら
やればできる”。
でもそれは学校では教わらなかった。
教えてないけど “
やればできる”。
貧しさの極限状態が本人達の潜在能力に火を点けた。
で、今度は、
捕まらなければ何をやってもいい
って世の中になる。
物騒だ。
自分が生きるためなら、他人様の命なんて関係ない・かも知れない。
事実、関係ない。
俺の近所では、昨年、塩害による不作のために、
首を吊って死んだ稲作農家のご主人もいる。
で、明けて翌年、島の農協(の一部)は何をやってたと思う?
並べると5つも6つもあるけど、
まずはスゴイ金額の横領。
しかも、よくありがちな「一人で」じゃない。三人の大人。
一介の組合員ではなく、それなりに地位と名誉のある人がやってた。
方や、長年、政府の減反政策に苦しめられ続けてきた泥と汗まみれの自殺者。
方や、夏も冬も快適なエアコン完備 の中で真面目に働いてきたスーツ組。
凄い階級社会だぜ。
   
まぁ、こんな問題は全国各地で見え隠れしてることだから、
この島の中の一部に限ったことじゃないだろうけど、
問題は、こういう “変な世の中”で、
自分が自分として どう生きて行かなければなんねぇかだ。
特にこうした、“戦後教育のヒズミ”の生息困難な世の中では、
独身貴族を気取って生きてる独り者の人なら、まだラクかも知れないけど、
自分の他に家族がいて、子供もいるとなると、
俺みてぇに好き勝ってにはやってらんない。
特に子供には、何かを教える以上に、
“何かから逃れるスベ”を自分で身に付ける能力を見出してやる必要がある…と思う。
サバイバルじゃねぇけど、それに近いよ。
例えばこうだ。
裏庭に丸太が並んでる場所で、俺の子供が遊んでる。5才。
子供はすぐ、仮面ライダーとかの真似をして高い所とかに上がろうとする。
その丸太の木材は、普段、自分達の生活に必要としてる物だ。
俺がそれを切って、斧で割って、風呂の焚き木にしてる
その横で、「えいっ!」とか真剣になって、ライダーを演じてる。
 
 
    ichirowerider  LEGOで “轟鬼”の音撃弦“烈雷”を作る
 

するってぇと、その丸太の上に登ってポーズを決める。
「丸い物の上に乗るんじゃねぇよ! 
世の中、丸く見える物の上に乗っかることが、いちばんアブねぇんだ。
気をつけねぇと、スグ転がりだして、乗っかった自分がケガするんだぞ。
だから簡単に丸い物の上に乗っちゃダメなの」
「じゃぁ、ボールは?」
「ボールだって、上に乗ったらアブねぇだろ。
サーカスの人とかなら大丈夫だけど。
そういう人は訓練して練習してるから大丈夫だけど、
あとの人は、ボールには乗ってないよ」
「サッカーの人は?」
「あれは蹴ってるんだろ。キィーックって。
とにかく、自分の身体より大きい物の近くとか、
大きくなくっても、丸い物の上には乗ったらアブねぇーの。
ネクタイしてる人が持ってくる、
“世の中みんな丸く治まる”なんて話もアブねぇよ」
「シャチョウの格好してる人?」
「ああ、今の世の中、ああゆう格好してる人こそ、
いちばんアブねぇし、嘘ばっかりだ。気をつけろよ」
「だから、ボクのお父さんもネクタイしてないの?」
「ああ。」
「えぇーっ。でも、してる時もあるじゃん。
そういう時はウソつきの人になってるんだ?」

「そうだな。なってるかもな」
「やーい、ウソつきだぁ!」
「そういう格好で仕事してる時は、
お父さんも嘘とか云ってるかも知れないけど、
人に迷惑かからなければいいんだよ」
「ウソついてもいいの?」
「いいよ。それで自分が危ない所とかに行ったりしなければ」
「丸い物の上とか?」
「うん、丸い物の上とか、そういう話に乗っからないように、
嘘ついても、お巡りさんに捕まるわけじゃねぇからな。
自分で大丈夫だと思えばそれでいいよ…」
「ふぅ~ん…」
   
というような会話で、
俺の云いたいことが どこまで本人に伝わってるかは判らないけど、
要は、世の中、明治・大正・昭和の常識を引き摺った“戦後教育”の中で、
丸く見えるようなもんでも、決して自分にとっては安全じゃなく、
危ない場所が多いってことだ。
これは、本人の性格が俺のように屈折しない程度に、
これからも云い方を替えて伝えて行く。
俺にはそういう義務がある。
           
   
        つづく。
 
 
 
 

 【 予 告 編 】
 
 
…次回は全国の教職者の現状を踏まえて(具体的に)、
登校拒否、いじめ、校内暴力、非行、家庭内暴力、
青少年の犯罪、自殺、英才教育と子供の心と身体など、
そうした問題を解決に導くための第一歩。ばっちりな。
で、
 
学校の先生とか、社員教育を大事に考えてる企業経営者、
教育問題に取り組んでる政治家の方々、
頭の構造が柔軟な心理学選考の人とか、
見掛け倒しじゃないカウンセラーの人には、
たぶん、役に立つと思う。
例えば、こんな内容・・・・
    
「この子はどうしても落ち着きがなくて、学校の先生に注意される」
本人を前にして、平気で、そう言っている親。それは全国に大勢いる。
 それを横にいて聞いた本人が、どう思うか、どう感じているかは、まったく考えない。
ただ、「この子のことは私が一番よく知っている、解っている」と、そう言って、そのように
思っている親。その親も、ある日 突然のように変わってしまう我が子、たとえそれは、
自分で産んだ母親でさえ、その子供のことを解らない。決して、解るものではない。
 その子供がどうして悩んでいるのか。何のためにそうなるのか。
 誰一人として、何一つ理解してあげられないために、事件、事故、不可思議な病名を
付けられた症状も起こるし、そうしたことは益々、増え続けて行く。
   
 まず、心ばかりではなく、肉体に問題がある。
 だから、「腕のいい」とされる世の中のカウンセラーの先生と呼ばれる人にも、そうした
問題を研究しているという学者、また、塾や学校の先生にも、その人の愛情、持っている
能力によって、解決できる問題と解決できない問題がある。
 そして、解決できない問題の方が多い。
 それは決して、心という内面だけに、精神そのものに異常があるとか、ないとか、そうした
子供の心が歪んだ原因が、何か外部から刺激があったとか、環境が悪いということではない。
その子供そのもの。その肉体の問題である。
 
   
世の指導者とされ、常に「先生」と呼ばれる人。
 この、「先生」という人ほど、肉体そのものに異変、異常があり、他人には言えない
悩みの中で毎日を過ごしているのではないのか。
 事実、全国の学校の先生に、精神安定剤という薬を飲んで、世間の目に隠れて
精神病院、神経内科へ通院している人が今、一つの学校にどれだけいるのか。
 そして今日、登校拒否をしているのは子供だけではなく、ご存知の通り、社会人
である大人の方が、勤めを拒み、出社拒否をしている人達が多くなってきている。
 また、子供の登校拒否について色々と言って考え、議論している現役の学校の
先生が、自分の職場で、どれだけ精一杯、子供に教えているのか。
 食べるために、生活するために仕方ないから、それはそうした職業だと割り切って
いられるうちは、まだいいかも知れない。しかし、学校という職場は決して、どこかの
企業の工場のように機械を組み立てたり、鉄や紙、木工の資材を加工して、そうした
ものを製造、販売している場所ではない。相手は人間である。
 だから一人の人が、どんなに割り切って、その仕事に当たり、朝から夜まで一日の
職務に取り組もうとも、子供の登校拒否や非行問題についてを批評、批判している
先生の方が、もっと拒否している。そういう現実がある。
   
 特に最近は、教育に教育を重ねてしまった人の頭が、「俺もできる」、「俺にもできる」
となってしまった世の中である。 
 それなのに、自分の職責、職能も分らず、いわゆる精神的な問題については、その
本人も、どうしたらよいのか分らない。ましてや、親が、他人が、解るわけがない。
 ところが、自分の子供に精神安定剤を飲ませながら大学受験を薦める親もいれば、
まるで駆け込み寺のように、自分の子供にバットで殴られると、昨日まで鼻で笑っていた
カウンセラーの先生の家へ押しかける親もいる。そして、未成年の自殺も、殺人も、
そのことを誰がどのように批判、批評しようとも、跡を絶たない世の中である。しかも、
世の中は、もっと殺伐としていて、社会でも、負債、倒産、強盗、放火、精神異常死
としての過労死、四十代、五十代の人の自殺も相次ぎ、企業では次々に人員整理をして
様々な失業者もいる今日である。にも拘らず、文部省は、今まで四十何人いたクラスを
少しずつ減らして、新たに別のクラスを設け、学校の先生がクビにならないようにして、
そういう悪いこともしている。
 ”教育を重んじる”という考えの行政、学者、そうした機関の本人達の言い分は、
「それで、一人一人の生徒に目が行き届いて、よりよい教育ができる」と言っている。
しかし、現場は、何も知らない人達の机の上の議論、紙の上の話とはまったく違う。
 教える側の悩み苦しみ、子供達の肉体の破壊は、想像もつかないほど悪い方へ
進んで、それによって全国の学校の教師と生徒の関係は、今まで以上に荒廃している。
 
   
 
・・・・て、こんな感じです。徹底的に。
                              お楽しみに。
 
 
 
 
    
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人間が人間を教育するなんて
おこがましいよな。
今の世の中で最低限必要な教育は
小学校3年くらいまででいいと俺は思う。
読み・書き・電卓ができれば。
あとは必要以上だな。嘘も多いし。
今の日本の学校ほど退屈でつまらない
しかも、人間を堕落させてしまう場所はないぜ。
自分が生きるために本当に必要な知識は
最初から生まれ持って在るってことを封じ込めちまう。
高校・大学の進学なんてのも本人の自由だ。
世間や親の人生には関係ない。絶対に。
俺自身、自分の子供に
現代の義務教育なんてのは受けさせたくない。
無理な部分もあるけど、
できればな。
   
   
http://ameblo.jp/futoukou2/entry-10005464300.html  
                 …このページのコメント欄より。