先生、木曜日には気をつけてな。
title: 先生、木曜日には気をつけてな。
chapter 025 work sub: ~ へヴィ・ブログ 最前線 : 現場に活かせる知識 1.
さて、前回の
“やればデキル・システム” http://ameblo.jp/badlife/entry-10004026965.html
そのオマケの部分で、
例の『人間の設計図』著者 、”創った側の人”の言葉。
そういう文献から引用させてもらうことにして…。
このページ、“mind resolve”では、これまで、
小学生の子供の身体とか、特に、
「学校給食と女の子の初潮」の問題や
②http://ameblo.jp/badlife/entry-10003972375.html
幼児、児童の突然死の原因。実は、その突然死した子供が
産まれる以前の母体に問題があったってことなど、
①http://ameblo.jp/badlife/entry-10003312895.html
そうした女性のことについてが多かった・と思う。
それと、
“capter 023 ” の後半で約束した(誰と?)、
『立った姿勢のまま、膝を徐々に畳んで、
足の爪先だけで体を支えて地面や床に座る姿勢。
これだけのことができない子供がいる。』
っていう子供が全国に大勢いる問題の原因、その事実について、
その座り方は、体育の授業とかでも、なんて呼んでるのか?
確か「ナントカ座り」とかいう名前があったと思うけど。
まぁいい。そのうち誰かが教えてくれるよな。
で、その理由というか原因。
やはり、その子供のお母さん…
全国の小中学生の子供を持つお母さんの身体。母体に問題がある。
それについても、さっきの、
① http://ameblo.jp/badlife/entry-10003312895.html
このページの内容が参考になると思うけど、
ここでは特に、前回の、“やればデキル・システム” の話の中で、
その冒頭でも触れてた「多動症」っていう病名の本当の原因も含め、
子供や教育者に限らず、
色んな人の心や身体の悩み、苦しみを解決に導くための第一歩。
その“原因”の部分を
自然界と人間の関係から具体的に表した事実…。
この事実は誰も否定しようがないほど、
例えば、今の日本の教育現場なんて、凄まじく荒廃してることが判る。
そういう”事実”に基づく内容で明確に…
…しようと思う…けど、どうかな?
で、それは俺も色々と考えて、
俺の云い方、書き方、話し方より、
『幸せをつくる子宮』って本を書いた俺の奥さんに 、
新たなブログ・ページを別に開設してもらって、そこで、
優しく、丁寧に、思いやりをもって…書いてもらうとか。
あるいは、かつて“芸能ブローカー ”の用意してくれた仕事で、
あるビデオ撮影現場のエピソードを紹介しながら、巧く マトメテみようかとか…
まぁ色々と考えた。一晩だけ。
で、結局、それは、いちばん手っ取り早い処で(…みんなが読めるように)、
かつて俺もその編集作業に携わった一人として、眠らせておくのも忍びない
未公開の『大自然の気による政治革命』という本がある。
1996年から97年にかけて、それ用に編集された原稿から紹介させてもらう…
って、いうことにした。
いい…ですよね。
『政治革命』なんて云っても、
その中身の大部分は一般人向け。
しかも、これからここに初公開される内容は
世の中の教育と子供と親、そして全国の学校の先生について。
一部を省略させてもらって、
後半には、世間の過労死 問題の紛糾(?)
を、整理・整頓してくれてる…。
ただ、内容的に ちょっと(…かなりな)長いので、
途中で一息入れるために何回かページを変えるけど、(そんなになげぇーのかよ!)
“ へヴィ・ブログ ”
が好きな人は一気に読んでも構わない。
但し、俺じゃなくて、“創った側の人”の直筆原稿だからね。
ちょっと覚悟が必要だし、ある意味では、
これまでの“mind resolve”の内容の復習にもなる。
“mind resolve”を実行する俺の頭ん中にある、その、
バックグラウンドも見えてくるんじゃないか…と思う。
別に勉強するために読む必要もないけど、
学校の先生とか、社員教育を大事に考えてる企業経営者、---★ 具は皮が破れない程度に。
教育問題に取り組んでる政治家の方々(赤組を除く)、 ------★ 干からびた”辛子抜き”で。
頭の構造が柔軟な心理学選考の人とか、 ---------------★ 焼きすぎても焦げ目は控えめに。
見掛け倒しじゃないカウンセラーの人には、 ---------------★ ”タレ”は別の器に移して。
たぶん、役に立つと思う。
(…南 大空。 ラーメン屋とかでも注文がウルサイ奴…人間は餃子じゃねぇっつーの)
んで、感想やコメントも大事かも知れないけど、
何か一つでもタメになったなら、それを実践で活かしてほしい。
…自分達が現実に生きている場所で。
ここで俺が お願いするのもヘンだけど、
世の中には今、それほど困ってる人が多い。
(“この内容”に沿って云うと…そういうことになる)
勿論、全国の親御さん、家庭教師やってる人とか、
普通のサラリーマン、専業主婦、ご老体…と、
そういった一般の人にとっても大事なことばっかりなんだけど、
PTA とか、教育委員会でバリバリにやってる人とかには…
わるいけど、話が通じない部分はある。
要は、学識の高い連中ほど中身を理解しがたいってことだ。
「のうがき」も長くてすまない。勘弁。
自然界の指導者と教育
昨今の世の中における色々の奇病難病の問題。また、人々の心の問題としてテレビ
やラジオ、新聞でも盛んに取り上げられている子供の非行、教師と子供の関係、校内
暴力、いじめ、家庭内暴力などについて様々な形で言われ、報道されているが、次々に
新たな事件が続出し、そこに関わった人々は悩み、苦しんでいる。
これが、どうしてなのか。また中学生や高校生の自殺については世間の関心も高く、
どうして、なんのために、そんなことになってしまうのか。なぜ、そのような結果に
なってしまったのか。医学の面、精神科の立場からということで、病院のお医者さん
や評論家、ジャーナリストと呼ばれる人の話をよく耳にするが、どの人もどの場合も、
はっきりと結論づいたものはない。
「こういったことはやはり、地域社会の在り方に問題があるのではないか…」
そのように報じるテレビ番組も、単に話をまとめるための逃げ道にしか聞こえない。
そして、病院のお医者さん。精神科医は、「精神病は治る」と言っている。
なぜ、本当に本当のことを報道できないのか。
また最近、とても深刻な問題とされている過労死。
これは一体何なのか。
それが本当に過労死であるのか。何のために死んだのか。
医学や法的機関の中でも、その本当の原因について、誰も、何も解っていない。
それでも今後、これから、こうした問題は続いて行くし、全労働者にとって深刻化
することになる。いわゆる、突然死する人は、たくさん増える。
特に、三十代後半から四十代半ばにかけての働き盛りの男性。
これから、この年代が大量に死んで行く。
そして、働き過ぎた上で自殺してしまう社会人、立派な教育を受けた大人の人
であって、それは、政府も、厚生省も、労働省も、文部省も、解決できない問題で
ある。
人間は、問題にぶつかってみても、どうにもならないほど、この自然界の激しい
変化には、とうていついて行くことはできない。 (1993年8月)
例えば、女の子の登校拒否の問題についても、私は、『 大自然の気による教育革命 』
という本の中で、「教育によって破壊された母体」という内容で、そこに克明に記して
きた。またこうした内容も、『自然と人間の設計図』をはじめ、様々な講演の場所でも
話してきた。それでも、ここで改めて、子供の登校拒否。これは今、「教育水準が高い」
とされる国々で世界的に深刻な問題となっている、そして多動症や精神異常死、突然死
の問題、また、人の魂。すなわち、肉体という容器の中に居る「心」というものが何なのか。
そして、世の中の、親の教育、学校、職場、社会の教育についてを言及していく。
尚これも、人間を生かしておく大自然の側からの言葉である。だから、今日ここで、
自然と人間の関係について、そのことをよく解らない人であっても、世の親と呼ばれる者、
教育者、指導者、「先生」と呼ばれる者であるなら、己の人生に覚悟を決めるべきである。
まず、人間が生きていることの絶対条件。それは、「血液が回る」ということである。
血液が回らなければ、筋肉。すなわち、人間の体は硬くなるし、屈伸もできなくなって
くる。
世の中の教育にある知識、常識により、部分的に、その物事を捉え、考えてしまう
から、解らない人も多いと思うが、世の中の医療、教育、宗教、経済。そして政治に
おいて自然界による革命が起こり、人の世が変わり、あらゆる物事が変化し、崩れ、
その中で人々は、どうして生きて行けばいいのか。
それを私は、現在のような、人に気づかせるという仕事を創める以前に、昭和五十八年
二月十一日、『宣言書』というものの中に記して今日に至る。そこに、
「古来より人は、天の気、地の気、人の気により、生かされている」という事実を書いて
ある。
この自然界に、春夏秋冬があり、日の出、日の入があり、雨があり、水。川があり、
海があり、風。大地、野山には動植物があり、そうした大自然の恵み、大自然の気を
受けて生かされている人間。そこには、親があり、子があり、そうした人の気があって、
人間は一人として、自分だけ、一人だけでは生きて行けない事実がある。
しかも、人間は、大自然の中の小自然。自然の産物である。
この自然界の春夏秋冬の中に、昼と夜がある中で、人間の体もそのように創られて
在る。
我々人間は、どんなに年を取った人も、若い人でも、一日 働いて、夕方になれば
疲れる。それでも本来、人間の体は、ちゃんと治癒力が働いて、夜 寝ている間に
疲れが取れるように創られている。
人は、一日、起きて動いて、太陽が沈む頃になると、その体に流れる血液の量も、
段々と少なくなってくる。その仕事は肝臓がやっている。そして夜、十時、十一時に
なってくると、全体の七〇パーセントほどの量の血液は、徐々に肝臓へ還えり、蓄え
られる。
そのように創られているから、日中より少ない量の、必要な分だけの血液を回して、
一日使った肉体を休めるため、人は眠くなる。
またその時は、肺の呼吸も少ない量を吸うようになる。
もしも、この血液が夜、夜中、深夜になっても、日中と同じように百パーセント回り、
呼吸も精一杯 吸っていれば、血の気が多すぎて、人は眠ることはできない。
また、まだ布団の中で寝ている間、太陽が東の空に昇る頃になると、それまで肝臓
に蓄えられていた血液は、徐々に足の爪先の方から、脚全体の筋肉へ回りはじめ、
やがて全身が動くために必要な燃料である血液が、体の隅々まで行き渡る。そのこと
により、人は、眼が覚めて、起きて、動くことができる。
しかも、自然界の日の出、日の入りには一秒の狂いもない。本来、人間の体も、その
自然界に従って生きて、動いている。決して、肝臓ばかりではなく、全身の血管を通して
血液を送る心臓も、また肺も、腎臓も、それらはすべて、大自然の日の出、日の入りと
共に、常に自然と一緒に動く、五臓の働きにより、そのように創られているのが人間で
ある。
そのために人間は、日の出と共に目覚め、日の入りと共に眠ることで、その肉体を休め、
次の日も、自分のその肉体を使って、元気に動いて働けるように創られている。
例えば、一日働いて、「今日は疲れたよ」と思っても、家へ帰り、夕飯を食べて、風呂へ
入り、ゆっくり布団の中で休むと、翌朝、起きる時には前日の疲れが取れている。そして、
「今日も一日、元気で働ける」というのが健康な人であって、本来、誰もが、そのように
自然の流れと共に休むことで、自分で自分の体を治せる力を持っている。
ところが、自然の流れと共に生きて、生かされ、治癒力を養えるように創られてあり
ながら、最近では、一晩 休んでも疲れが取れないという人が多く、人間の体が、朝 目が
覚めて、夜は眠るように創られている決まりから大きく外れている人も、今、大勢いる。
人間、誰もが、頭の天辺から足の爪先まで、からだ全体の六五パーセントが筋肉で
できている。それこそ、臓器もすべて筋肉でできている。このことも、何人【なんびと】も絶対に
否定できない事実である。
その全身の筋肉の中には、血液が流れる路線、血管がある。
例えば成人の場合、すべての毛細血管までも一本の状態に繋ぎ合わせたとすると、
その長さは、実に地球を二週半も回るほどの長さがあると言われている。それほどまで
長い血管へ、人間の心臓は、二十四秒間に一回転するという物凄い速さで、一日にして、
ドラム缶 四十本分もの量の血液を送っていると言われている。
また、人間の体には、血液と一緒に「気」も回っている。それを気血【きけつ】という。
このように精巧な、また、このように創られている人間の体。筋肉。血液の流れがある。
だからこそ、筋肉は温かくて柔らかく、弾力性があって、本来は、いついかなる時も常に、
そのように創られた通りの状態で血液が回っていれば、人間は、疲れることもなく、苦しく
もなく、生きていられるのである。無論、落ち着きがなくなるようなこともなく、じっとして
いられるし、必要に応じて動き、働くこともできる。ところが、そのように決められた通りに
血液が回らなくなると、方々の筋肉が硬くなってくる。
どうしてそのようになってしまうのかについては、後ほど、更に詳しく説明して行くが、
人間の体は、全身の筋肉に対して流れている血液の循環が悪くなり、流れにくくなると、
筋肉は必ず弾力を失い、硬くなってしまい、そのために、首や肩も重くなってくるし、脚も
だるくなる。
しかし人間は、決してそのままではなく、常に「動」。生きている間は、死んでしまった人
のように、「静」ということは決してない。だから、そうした人達は、自分の体、その肉体、
筋肉に血液を回すために、無意識のうちに動く。じっとしていると苦しくなってしまう。
だから、人間が生きている絶対条件。その血液を回すために、本能的に動く。
決して、じっとしてはいられない。常に落ち着きがなく動いている。
また、姿勢一つにしても、その本人に楽な格好、楽な姿勢がある。
もしも今、そういう人は、この本を読んでいても、じっとしていることが、本当はとても
苦しくて大変だと思う。だから、動いていて自分が楽な人は、動いていればいいし、そこが
どこであろうと、寝転んで読んでいたい人は、そのままの格好でいて構わない。
読み終わったあと。その時には、きっと体が楽になってくる。読む人が、自分で自分の
体の気血の滞りを促せるように、本書にも、私がそのように気を入れてある。
ただそれは、決して今 はじまったことではなく、筋肉の中にある血液が流れる路線に
問題がある。
人間の体、筋肉の中には網の目のように血管がある。だから人によって様々な症状が
あるが、血液の循環が悪い人。それは、子供ばかりではなく、大人にしても、まず、朝、
起きることが大変になる。
例えば、登校拒否をしてしまう子供の場合、どうしても朝は起きられない。
親に起こされ、どうにか学校へ行かせられることもある。本人は、やっとの思いで学校
へ行く子供もいれば、「どうしても行かない」という子供もいる。
学校へ行っても、先生の話が耳に入らず、目もはっきりと見えない。朝はいつも霞んで
見えるか、ショボショボとして、真っ直ぐに歩くことさえ困難な子供もいる。そして、頭は
ボーっとしているし、全身がだるい。
また、学校へ通う途中で、どこかへ座って、またそこで寝ている子供もいる。
寝ているならまだいいが、例えば、通勤通学に使う電車のホームで、じっとして電車を
待っていると、一瞬、目の前が暗くなって倒れたりすることもあったり、小中学校での朝の
朝礼の時、じっと立ったまま校長先生の話を聞かされていて、突然、バタンと倒れる子供
もいる。朝、起きることが大変な子供ほど特に、そういうことが多い。
それは決して、「貧血」とか「立ち眩み」という簡単なことではないし、また決して、子供
ばかりの問題ではない。
本人は、普段から全身の筋肉の血液の循環が悪いために、本能的に動いている。
例えば、乳飲み子の段階、幼児にしても、四才、五才の子供を持つ親が、
「この子はホントに、落ち着きがなくて・・・」
簡単にそう言っている。それをよく耳にする。
この年代の時には、ほとんど落ち着きがないし、「ウルサイ!」と言われている子供が
いる。この落ち着きのない子供は、少し大きくなって学校へ行くようになっても、やはり、
落ち着きがなく、どうしても動いている。医学では、単に、その結果だけを診て、たくさん
動くから「多動症」という病名を付けている。
なぜ、落ち着きがないのか、親も、学校の先生も、お医者さんも、その原因については、
何も解らない。ただ結果的に、「あの子は多動症だ」「全然 落ち着きががない」と言って
いるだけで、本人が、動いているほうが楽だということは、まったく解らない。
四十五分間の授業中、子供はどうしても、先生の顔を見てじっとしてはいられない。
どうしても首が動くし、落ち着きがない。これを先生から見た場合、当然、落ち着きがなく、
物を覚えようともしないし、先生の言うことを聞こうともしない。先生は、このことを家庭へ
連絡し、父兄に忠告する。父兄は、親は、同じように、
「落ち着きがない!」「ボーっとしているな!」「テレビの音を小さくしなさい!」などと、
色々と注意する。子供の方も、最初のうちは親の言うことを聞いているかも知れない。
でも、段々と嫌になり、利かなくなってくる。
学校では短所を突かれ、決めつけられ、家庭でも責められ、次第に陰にこもって、
人に会うのも嫌になってくるし、鬱にもなれば、非行にも走る。登校拒否や家庭内暴力、
いじめ、校内暴力も起こる。
それは、本人の心の容器である肉体。その自分自身の苦しみを訴える手段として、
そうした行動や言動、結果的に何か問題を起こしているのであって、そのことを親や
学校の先生は、何一つ理解できない。ただ、世間の親は、兄弟は、親代わりの人は、
「なんで!?」「どうしてっ!?」と、しつこく、本人に追及する。
本人も、自分がどうして そんなことをしてしまうのか、それも判らない。そして、
「この子はどうしても落ち着きがなくて、学校の先生に注意される」
本人を前にして、平気で、そう言っている親。それは全国に大勢いる。
それを横にいて聞いた本人が、どう思うか、どう感じているかは、まったく考えない。
ただ、「この子のことは私が一番よく知っている、解っている」と、そう言って、そのように
思っている親。その親も、ある日 突然のように変わってしまう我が子、たとえそれは、
自分で産んだ母親でさえ、その子供のことを解らない。決して、解るものではない。
その子供がどうして悩んでいるのか。何のためにそうなるのか。
誰一人として、何一つ理解してあげられないために、事件、事故、不可思議な病名を
付けられた症状も起こるし、そうしたことは益々、増え続けて行く。
まず、心ばかりではなく、肉体に問題がある。
だから、「腕のいい」とされる世の中のカウンセラーの先生と呼ばれる人にも、そうした
問題を研究しているという学者、また、塾や学校の先生にも、その人の愛情、持っている
能力によって、解決できる問題と解決できない問題がある。
そして、解決できない問題の方が多い。
それは決して、心という内面だけに、精神そのものに異常があるとか、ないとか、そうした
子供の心が歪んだ原因が、何か外部から刺激があったとか、環境が悪いということではない。
その子供そのもの。その肉体の問題である。
しかし、その肉体を診て治すはずの医学。病院のお医者さんに、まだ「多動症」という病名
を付けられていないまでも、世の中には、落ち着きのない子供は大勢いる。
そして常に動いている。
それは、他人が見ている、見ていないとか、「ここが何処だ」ということは関係ない。
教室とか先生の顔も関係ない。本能的に動いている。
常に動き、動かし、動いていないと自分の体に血液が回って来なくなってしまい、苦しい
から、どうしても、首を振ってみたり、脚を振ってみたり、肩が張れば手を振っている。
これは、本人にとってみれば自然にやったことなので何でもない。でも、他人からすれば、
うるさい状態でしかない。授業中、先生に注意され、睨まれても、じっとしていられなくて、
また動く。「仕方ない」と思った先生は家庭に連絡する。家に帰ってから親に注意されても、
また動く。その子供は、一年中、落ち着きがなく動いている。
そして、テレビを見る時は、必ず音を大きくして、落ち着かず、ゴロゴロしている。
それは、ただ単に動くだけではない。耳まで遠い。
こうした子供は、今、全国、全世界に大勢いる。
世の中には、それに気づかない親もいれば、それに気づいて、勝手に心配して、その
子供を耳鼻科へ連れて行く。だが、人間は、部品と部品の組み合わせではない。
耳も、腰も、腎臓も、膀胱も、目も鼻も口も、すべての臓器も、すべてに繋がりがあって
動いて生きて、そのように創られているのが人間である。しかも、人間の体は、その大部分
が筋肉によって創られている。
そうした子供の耳の中を覗いて診る人が、たとえ親であろうと何であろうと、人間が自然
の産物であり、その肉体が筋肉によってできていて、すべてに流れ、繋がりがある。しかも、
その肉体という容器の中に、心が存在している。
このことが解らない限り、人間が人間を治せるものではない。だから、
「難聴」ということだけで、お医者さんには、その原因は何も解らない。
人間のどのような故障も、すべて、筋肉。血液の流れに問題がある。
もしも、世界中の医学が、この筋肉についてを学び、様々な病気、症状の原因を判り、
筋肉を治す医者がいたなら、すべての奇病難病が治るし、治せる人が増える。
世界の医学には、「筋肉科」という科が必要である。
しかし、現代の医学には、筋肉を診る お医者さんはいないし、まず、人間についてを
解る者がいない。そして、内科、外科、眼科、耳鼻咽喉科、小児科、産婦人科、循環器科・・・、
というように、現在どの病院も あらゆる科に別れていて、医学という学問は人間の体を部品と
部品の組み合わせのように診て、判断して、扱っている。
これでは決して、人間についてを解り、治せるものではない。
例えば、医者という資格。その看板を下げて開業医として世の中に認められていながら、
「耳鳴り」一つ治せない。その全国の耳鼻科。これは一体、何なのか。
人間の耳は、腰の筋肉に守られている腎臓という臓器と密接な関わり合いがある。耳は
腎臓の出先機関であって、決して、耳だけが独立して そこにある物ではない。
しかも、人間の腎臓という臓器は、腑【ふ】である膀胱と表裏をなし、親と子の関係にあって、
我々人間が生息するこの自然界同様、すべてに流れがあって、繋がりを持って動いている。
私が書いた『人間の設計図』という本の中には、そのことを事細かに詳しく書いてあるが、
「耳鳴り」とは、血液を濾過する仕事をしている臓器、腎臓。そこに繋がる筋肉にある血液の
流れ。その路線に原因がある。
人間の体は、決して部品の組み合わせではなく、頭の天辺から足の爪先まで、その
製造メーカーは、すべて一ヶ所であり、人間の体は筋肉でできている。
外科医と歯科医の技術だけはともかく、現代の病気のほとんどは「筋肉科」でなければ
治らないし、治せない。
人間を部分的に診る医学の、その小さな枠の中で、そこにいる自分が本当に間違って
いることに気づくためには、それが、どうして間違っているのか。そして間違っていたため
に、どうして今日このような様々な奇病や難病を作り、増やし、それによって大勢の人が
悩み苦しんでしまっているのか。そのことを人類は、下の部分から、訴え、教え、判らせる
という革命が、やはり今、医療、教育、経済。そして政治において必要である。
医学がどんなに発達しようとも、人間は人間を造れないし、人間は自然の産物であり、
社会に、この自然界に変化があれば、人間の体にも必ず変化がある。
今まさに自然界は破壊され、その容器の中にいる人間の体も、大きく壊れて来ている。
肉体が病めば心が病み、心が悩めば肉体は病んでくる。
要するに、心の容器である肉体が苦しいために、子供の登校拒否、青少年の犯罪、自殺。
そうしたものが治まらないし、治せない。そしてそれは子供ばかりではなく、大人の社会に
おいてもまったくそうである。
読者も勿論のこと、このことは、医学、教育に限らず、そうした実に幼稚で浅はかな学問、
教育、社会の常識についての事実を認め、今、一人一人の人間が、自然と人間の関わり、
人間の創られ方についてを正しく知るべきである。
決して、すべてを理解することは私以外にはできない。だからまず、『人間の設計図』
という本を参考にしてみたいと思う素直な人は、それを自分で自分のために利用してみて、
自分自身が何なのか、気づいてみればよい。
そこには、人間が創られ、産まれ、育ち、死にゆく、その事実を克明に記してある。
ここまでを読んでみて、何か自分の意見があるのか。疑問に思うことも、私自身に直接、
質問してみたいと思うことも、そうしたことは、人間であるから様々にあるかも知れないし、
おそらく、あると思う。
常日頃、私が話し、講演する場所にも、様々な悩み、相談をしてくる人は数限りない。
その中で、実に不思議なことは、人間が人間の顔をして、親が親の顔をして、人間に
ついて、自分のことについて、自分の子供のことについて、解ったようなフリをしているのに、
何も解らないまま、そういう仮面を被って生きていることである。
決して、すべてを理解できるものではない。その、「解らない」ということを理解できれば、
楽になるし、自分のことも判ってくる。
医学という学問は、ここ何十年と、人間の創られ方の根本を解らず、特に現代医学という
ものは、人間の体を、ただ部分的に、悪くなった場所の結果だけを診て、その科によって
統計的な判断の基に、検査、治療をしているだけであって、またそれによって次々、次々と、
不可思議な名前の病気をつくり、また同じように診て、検査する。実に浅はかな努力、その
繰り返しを続けている。それは、なんとも滑稽な人間の世の中、その姿である。
人間、誰もが、右の方に右の手があって右の形をしていて、左の方に左の手があって
左の形をしている。
これが、人間の創られ方である。
右の手は絶対に左には持ってこれないし、左の手もそうであるように、人間の足も、指も、
目も、耳も、絶対に、左から右に持ってきて、そこへ付けることはできない。
臓器にしても、皮膚や血管にしても同じである。それをどうして右から左へ、また左から
右へ持って来て、くっつけて診るようなことをやっているのか。また、やらせてしまうのか。
医学とは、実に幼稚で曖昧なことをやっている。
人間の目の、まつ毛と目の瞼の境、その線。その動き一つ。決して、人間がそのように
造った物ではない。
それを人間は、意識する、しないは別として、自分が生まれてから死ぬまでの間、それを
自分の物として使って生きている。
何か上から物が落ちてくれば、それをそのまま眺めて見ているような人は決していないし、
人間の目は、目の瞼は、その瞬間に必ず、目を瞑ってくれるように創られている。そして常に、
中にある眼球を守ってくれている。
果たして、そんな動作する物を、いつ、どこで、誰が考えて、どうして、どのように創ったのか。
そしてそれは絶対に、人間が造れる物ではない。
このように神秘的な、しかも精巧に創られている人間が、この自然界に産まれてくる。
その人間の創り方は、絶対に変えることはできない。
そして人間は、産まれる前には何人【なんびと】の約束もないのに、女は女らしく、顔も、
体も、声も、男には絶対にない子宮も卵巣も持って産まれてくる。また男もそうである。
その親である製造元は、その子供について何事も解らない。
判るのは、男女の別と、自分達で考え、命名したその子の名前だけである。
しかし、そのように何も解らない親が、親の権利をふるうから、子供がおかしくなってくるし、
変になってしまう。
それは、永遠に代々そうである。
人の子は既に、受胎された瞬間から、生まれる日も、死んでゆく日も決められ、男女
の別も決まり、何をして生きるのかも、その職責も職能も、すべて決められて産まれてくる。
それを世の親は、子供可愛さなのか、己の見栄なのか、
「子供のために」という大義名分により、必要以上の教育を積ませてしまう。
その子供の、本来の持って生まれた能力。自然界に生きる人間としての知識。その、
「程度」についてもまったく解らないのに、様々に他人の教え、学問の知識、教育の材料
を目の前に並べて用意する。
人間一人一人、その人が生きるためには、絶対に必要なことと、必要でないことがある。
例えば、人間が生活する上において使う、必要な道具。そのひとつをとっても、今
自分の目の前にある湯呑みを灰皿として使うことはできないし、また反対に、灰皿を
湯呑みとして使うことはできない。
灰皿は灰皿であって、灰皿として使うように決めて、設計され、造られ、人はそれを
灰皿として、造られた通りに使っている。湯呑みも湯呑みとして、そのように決められた
通りに使われ、人々の営みの中で生かされている。
ところが、「やればできる」「お前にもやれる」「お前なら出来る」という考え方。
それは教育の中で、人間の創られ方を無視した学問、宗教、あらゆる思想にある物事
の教え方、社会の常識が、この自然界に生きて、生かされている人間一人一人において、
その心も、体も、人間そのものを雁字搦めにして苦しめている。
今日、それによって、人間の営みに色々に必要な社会教育までも変化して、させてしまい、
人間一人一人を同一に揃えようとしている。
現世に形づくられ実在するものすべて、その者が生きるために必要な知識。その職責、
職能は、既に形づくられる前に完全に決められている。
これが、自然界に生きる人間の創られ方の道理であり、決して、学問によるものではない。
だから、人間は、絶対に人間を教育することはできないし、それを無理に教育することは、
人類の階級の破壊であり、自然界の完全な崩壊へと繋がって行く。
自然界に生息する木も草も、ありとあらゆる動植物も、本来、自分に与えられた能力、
知識を使って生きている。そして自分に与えられた義務だけを遂行している。
人間が破壊し、改良したものは別として、自然界の動植物は、決して権利は主張しないし、
自分に与えられた能力で、自分に与えられた義務だけを遂行し、そのように決められ、
そのように創られた通りに、産まれ、育ち、死にゆく、その道理を自然界の中で繰り返して
生きて、生かされている。
しかも、その自然界の、この地球上における動植物の種類の数。その、60兆というものの
数は、人間の体の細胞の数と同じである。
大自然の中の小自然。自然の産物である人間。大自然の子である人間だけは、特別に
そのように創られ、その姿は、
中 略
現在は、ほとんど誰一人として、自分の職責をまっとうできないし、それが解らない。
親も、子供のことは何一つとして解らない。百パーセント何も解らない。
自分が何なのかさえ、解っていないし、気づけない。それどころか、その肉体の中に
あって肉体を動かしている心。魂が、今、駄目になった肉体から抜け出そうとしている者
の方が非常に多くなってきた世の中である。
例えば、文部省や厚生省が奨励し、その管轄にある、全国のあらゆる施術治療の
資格を習得したとされる人達。それは、実際に治療師の免許を持って、自分で独立
して開業している者もいれば、その資格を生かして、病院や色々の医療施設に勤めて
いる人もいる。しかし、そのほとんどの人が、患者よりも不健康で、体が悪い。
治す側が治される側より元気がない。そして、人の体を診て、治す立場にありながら、
治される側より治す側の方が悩み苦しんでいる。それは、一般的に、カウンセラー
と呼ばれる人もそうである。そしてその現状を、厚生省も、労働省も、文部省も、
どうすることも出来ないまま現在に至っている。
同じように、世の指導者とされ、常に「先生」と呼ばれる人。
この、「先生」という人ほど、肉体そのものに異変、異常があり、他人には言えない
悩みの中で毎日を過ごしているのではないのか。
事実、全国の学校の先生に、精神安定剤という薬を飲んで、世間の目に隠れて
精神病院、神経内科へ通院している人が今、一つの学校にどれだけいるのか。
そして今日、登校拒否をしているのは子供だけではなく、ご存知の通り、社会人
である大人の方が、勤めを拒み、出社拒否をしている人達が多くなってきている。
また、子供の登校拒否について色々と言って考え、議論している現役の学校の
先生が、自分の職場で、どれだけ精一杯、子供に教えているのか。
食べるために、生活するために仕方ないから、それはそうした職業だと割り切って
いられるうちは、まだいいかも知れない。しかし、学校という職場は決して、どこかの
企業の工場のように機械を組み立てたり、鉄や紙、木工の資材を加工して、そうした
ものを製造、販売している場所ではない。相手は人間である。
だから一人の人が、どんなに割り切って、その仕事に当たり、朝から夜まで一日の
職務に取り組もうとも、子供の登校拒否や非行問題についてを批評、批判している
先生の方が、もっと拒否している。そういう現実がある。
例えば、私の存在を知って、所在を確かめ、全国から大勢の人が尋ねて来る中に、
決して時々ではなく、一年のうちで何十人もの、そうした学校の先生も訪ねて来る。
その中には、やはり、実際に教育の現場にいて、文部省の言う通りにして仕事をして
いながら、その教壇に立つ自分自身の心と体に不安を抱え、ずっと悩み抜いてきた
苦しみを 私に打ち明けてくる。そしてやはり、世の中で、社会の中で、指導者の立場
にありながら、自分の体一つ管理できない状態で、
「実は、隠れて精神病院に通っています」
「運動障害で筋肉も細胞もズタズタです」
もうそれは、全国各地からやってくる学校の先生が、申し合わせた共通の悩み、苦しみ
のように、そうしたことを何人もの「先生」と呼ばれる人が、訴えてくる。
その人達はまず一人一人が、私と一対一の対話をする。そしてそのあとで、
一緒にお茶を飲みながら、その本人が「楽になった」「スッキリした」という、その
笑っている顔を見ながら、私は必ず、
「もう学校の先生なんて辞めれば? その方がいいじゃない」
そういうことを云う。すると、
「いや、辞めようと思っていたんです」という人もいれば、
「今月で辞めるつもりです」と、正直に応える人もいる。
そして本人達は、そう言って実際に辞めた人もいれば、私に対してそう言ったその時から、
しっかりと学校の先生をやっている人もいる。
自分が受け持っているクラスに、四十人なら四十人の生徒がいれば、再び、その
教壇に立ってみて、
「お前、なに居眠りしてるんだよ! ちゃんと聞いてなさい!」とは言わず、
「眠りたかったら眠っててもいいよ。
目が覚めて先生の話を『聞きたいな』と思った時に聞けばいい」と、
授業中の生徒に対しても、いつもそういう心で接して、父兄からも、他のクラス
の子供達からも慕われ、人気がある。そういう先生をやっている人もいる。
それは、自分自身がどうして、どうやって生きて行けばいいのか。その、己自身に
気づいた結果であって、決して、何かそうするように私が教えたわけではない。本人
が自分で自分に気づいてやっていることである。
他の教師の人、学校の先生は、その多くが、
「さぁ、俺が始めるぞ! お前、居眠りなんてしてないで、よく聞いてろよ」
それを言葉では言う言わないに拘わらず、そういう姿勢、そういう態度で、
「先生」という仕事をやっている者もいれば、
「私の体は、あとどれくらい持つだろうか」
「あと何ヶ月、何日、教師をやっていられるだろうか」
「病院を替えてみた方がいいだろうか…」
そういう心で生きている先生もいる。
現在、全国の教職免許を持っている者のほとんどすべてが、そのように自分で自分を
どうすることもできない状態で生きている。
そして中には、職員室にいる同僚の人が隣で呼んでいても、自分の生徒が何か声を
かけて来ても、何も反応しない、あるいは、まったく聞こうともしない、そういう人もいる。
それは決して、本人の性格ではなく、またそれは、教師、教育者の顔でもなければ、
「この人は人間なのか?」というほど、硬く心を閉ざしてしまっている。
どうしてそのような卑屈な、孤独な人になってしまったのか。
それを世間は、「先生」と呼んでいいものなのか。
辞めれば気づける。辞めなければ、もっと他人に迷惑をかけて、自分が苦しむことになる。
そんな、教師の格好をした教師が、教室の戸をガラッと開けて入って来た時、
「あっ! 今日の先生はヘンだ」と、生徒はそう思う。
ムスっとして、「俺が来たぞ」という格好で、そんな顔で教室の戸を開けたその途端に、
四十三人いるところを三十八人しか出席していないクラスでも、その生徒達は一斉に、
「今日の先生の言うことは聞きなくない」と、思ってしまう。
次の日には学校へ登校しても、授業を受けない生徒もいるかも知れないし、また朝から
その顔を見ると、途中で帰ってしまう生徒もいるかも知れない。
生徒達は、子供達は、面白くないことには興味がないし、もしも教室の中にいる自分が
何か不愉快な思いをすれば、そこからは二度と、開けてこない子供の心もある。
ところが、ハツラツと教室の戸を開けて、
「よっ、みんな! 今日もやろうぜっ!」と、そう言えれば、その教室の生徒も少なからず、
「やろう!」という気持ちになる。
それが「人の気」であり、やはり、そういう心でないと、誰もついて来ないし、
指導者としての仕事はできない。
いついかなる時も、自分の肉体が楽で、その容器の中にある心が安定していれば、
人は寄ってくるし、ついてくる。そうなるにはまず、己の肉体の余裕が第一であって、
自分の立場、自分だけの権利を通そうとする者には誰も従わない。
そんな指導者は自然界に必要ない。
だから、自分がどうしたらいいのか解らないのは、決して一人だけではない。
つづく。 ( http://ameblo.jp/badlife/entry-10004163650.html )
『大自然の気による政治革命』 未公開原稿 原文より。
なお、途中、中略した重要な部分は、読者の混乱を避けるため…と云っても、
俺の勝手な判断だけど。ごめんなさい。
今回は あえてそこを省いてしまったけど、その部分は、後日 改めて公開して行くので、
さしあたって必要な部分では、ここまでの内容と、次の、更に詳しく説き明かされた
日本の教育の現状。そして、自然と人間の関係について。
…タイトルにある「木曜日」の理由もそこで判る。
長いかも知れないけど
ページを分けてご紹介…。
もしも疲れた人は休んでね。


U2 WAY














1 ■ 今この日本では、教育者ほど教育に苦しめられている者はいない。
ヒトにモノ教えるのが
下手とか苦手ってことじゃねぇんだよ。
自分に合わないこと やりすぎなんだよ。
最初っから向いてなかったんじゃね?
それに気づきゃいい。
そうすりゃラクになる。