有賀 千鹿頭神社:長野県諏訪市豊田3903
樋口 千鹿頭神社:長野県辰野町樋口
上原 千鹿頭神社:長野県茅野市ちの
埴原田 千鹿頭神社:長野県茅野市米沢212
横吹 千鹿頭神社:長野県富士見町富士見坂上峯4637
河原休戸 千鹿頭神社跡:長野県富士見町富士見5185
原休戸 千鹿頭神社:長野県富士見町富士見花場
諏訪の古層の神、ミシャグジはこのブログでも幾度か取り上げてきたが、今回は千鹿頭(チカト/チカトウ)である。チカトはミシャグジと近しいのか、同じ場所に祀られていることが多く、かねてから関心を持っていた。
諏訪大社上社の祭祀を支えてきた神長官守屋資料館の壁には鹿や猪の頭の剥製がたくさん懸っている。串刺しにされた兎や蛙なども見られるが、これらはいずれも祭事に供えられる供犠である。諏訪大社の主祭神の建御名方神は、先住の洩矢神との戦いに勝利して当地に入植した。祭祀においては建御名方神に連なる諏訪氏が現人神として大祝を務め、洩矢神に連なる神長官が代々神事を支えてきたとされる。現当主の守谷早苗氏は第78代だが、歴代の神長が一子相伝、口伝で伝えてきた秘法は残念ながら先代で途絶してしまっている。洩矢神は土着豪族の長であり、その祖は縄文時代にまで遡ると思われる。現在も一部の神事で残る供儀は、縄文の狩猟神としての性格が未だに生き存えている証しといえよう。
千鹿頭神とは何者か。神長守矢氏系譜には洩矢神-守宅神-千鹿頭神とあり、千鹿頭神は洩矢神の孫にあたるという。父の守宅神についての記載に命名の由来が残る。「生弖有靈異幹力代父弖負弓矢從大神遊獵千鹿有一男名之曰千鹿頭神」(父の洩矢神から霊威を引き継いだ守宅神は、諏訪大神(建御名方神)に従って狩りに遊んだ際、千頭の鹿を獲ったことから子を「千鹿頭」と名付けた)。このエピソードからして非常に狩猟神らしい。ところで「洩矢」も「守宅」も音は同じであり、これを同一神と見るべきという説があるが、諏訪信仰の成立年代を古墳時代以前に求めるならば、文字をもって推定するべきではなく、モリヤ/モレヤ、モリタ/モリタク、チカトといった音から考えるべきだろう。とはいえ、音韻は変化するものであり、比較言語学や音韻学などのアプローチをもってしても元々の発音を探り当てるのは容易なことではないように思う。
なにはともあれ、祀ってある場所に赴いてみなければならない。まずは総社とされる諏訪市豊田の有賀千鹿頭社へ向かった。諏訪大社上社本宮から岡谷方面に車で10分、諏訪湖の南西部、守屋山の西側の山塊の麓に位置する。入口の脇に造作の凝った大きな神楽殿が建つ。向かいに南信でよく見かける覆屋が建ち、中に本殿がある。扁額に「濱南宮」とあり、これは湖南の宮ほどの意味か。蝉の啼声が喧しい炎暑の中だが、緑陰に入ると樹々が照りつける陽光を遮って気持ちがいい。神長守矢氏が祀ってきた御頭御社宮司総社を思わせる素朴な厳かさを感じさせる佇まいだ。本殿左手の小祠には御社宮司社の石標。右手、その奥、裏手にも小祠が建つが、なにを祀ってあるかは不明。父の守宅神やその妹など祖神に近い縁者を祀ったものかもしれない。
樋口 :集落の真ん中にある小高い丘の上、鬱蒼とした森の中にある。社殿脇の案内板には「大昔、矢沢腹には鹿がたくさんいて、諏訪の明神様が鹿狩りに訪れ、現在のお宮のある場所で料理し、鹿の頭を埋めました。その場所に建御名方神をまつり、千鹿頭明神と称したと言い伝えがあります。樋口耕地の鎮守神をまつり、人びとに尊宗、護持されています」とあった。
埴原田:向かいのテンホウでラーメンと餃子を食べて向かう。三度目の参拝。上川沿いにある境内は広く、ゲートボール場になっているが、古くからの祀りの場という感じがする。社殿脇の覆屋の中に観音の石仏。社殿左後方にも江戸時代に奉納された馬頭観音が居並ぶ。地域の民間信仰はこの地に集められたということなのだろうか。徒歩5分のところに福沢の御社宮司社がある。
横吹:旧甲州街道から少し入った小高い場所を上る。この集落の鎮守と思われるが、境内から下ったすぐ近くに道祖神や石仏が並んでおり、立地から考えると塞の神であったように思われる。よく整備されているので今も信仰は続いているのだろう。覆屋の中の祠は流麗な彫刻の施された立派なものだった。
河原休戸(旧跡):山の中腹、道路から石段を上がった場所にある。樹木の下に石祠が五基並んでいる。脇の石標には天神社の銘も。手前に新しいプレハブが建っているが農作業用に建てられたものだろう。誰も顧みる人はいないのではないか。
原休戸:数年前にも一度訪れたことがあるが、草が繁茂していて入口がわからない。あたりをつけて茂みの中を入っていくと参道らしき道があり、昼なお暗い森の中を進む。あった。息を呑む。鳥居の先、石の祭壇の上に苔生した石祠が五つ並んでいる。時が止まったかのような感覚を覚える。緑一色の静謐な美しさを湛えるこの場所は異界といってよい。訪れる氏子も数少ないのだろうが、連綿と続く信仰のありようを目の当たりにする。石祠の左隅に碑があってそこにはこう記されていた。「平成五年南諏衛生センター最終処分場建設に伴ひ川原休戸千鹿頭神社を原休戸千鹿頭神社境内に移転合祀する 平成五年十一月 休戸区」。なるほど、河原休戸の跡地の前にはたしかに廃棄物のリサイクル施設があった。神を祀る場所として相応しくないということか。合祀はこうして祈りの痕跡や歴史を消し去ってしまうのである。
千鹿頭各社を巡ってみたが、覆屋の中に祠を持つこと、山裾に鎮座することが共通項だろうか。特に後者は山中での狩猟との関わりを示していると言えまいか。奉斎においても有賀の総社から勧請したのではなく、それぞれの集落の中で祀っていた狩猟神的な地霊(山の神)に「千鹿頭」という名前を与えたのではないかと思える。しかし、人々の日常から狩猟の記憶がなくなっていくと、それはやがて鎮守という平板な神に変わってしまうのだろう。
千鹿頭神をくまなく踏査した今井野菊氏(注*1)によれば、その分布は以下とされている。長野県13社、山梨県8社、群馬県20社、埼玉県20社、栃木県12社、茨城県7社、福島県15社。さらに社名表記は千鹿頭神以外も多い。千鹿戸神、近戸神、千賀頭神、親都神、智賀戸神、近外神、智貨頭神、千賀戸神、千賀多神、千方神、智形神、血形神、千鹿多神、智賀都神、近津神、智勝神、千勝神、千賀津神、千鹿津神、千鹿津神、地勝神、知勝神とこれでも踏査の半ばだったらしいので、或いはまだあるかもしれない。
千鹿頭神に関する文献はほとんどなく、私淑する今井野菊氏の「洩矢民族 千鹿頭神」がほぼ唯一のものなのだが、残念ながら入手不可能で、国立国会図書館サーチで検索しても蔵書する図書館はない。本稿についても、これをベースとして書かれた野本三吉氏の論考「千鹿頭神へのアプローチ」などを参照するほかなかった。その野本氏は以下のように記し、東北の「マタギ」の生活や信仰との重なりを想像しつつ、狩猟民族としての性格を色濃くもっていることは事実としている。
その分布図を眺めると、諏訪を発した千鹿頭神(民族)が、まるで山岳地帯沿いに移動して行ったような感じすらうけるのである。たとえば、その一つの流れは、茅野、諏訪といった、いわば「八ヶ岳」山麓から山岳にそって群馬県の「榛名山」を経て「赤城山」へすゝみ、さらに「男体山」へと流れてゆく。栃木の「男体山」を軸にして分布した千鹿頭神は、更に「八溝山」を通過して福島県へ移動していく。(出典*1)
さらに、民俗学者の谷川健一氏は今井氏の調査を引き「千鹿頭が訛って都々古別(つつこわけ)となっている神社がかなりまじっており、その祭神はアジスキタカヒコネとなっている場合が少なくない。アジスキタカヒコネが蛇体の神であり、「つつ」(筒)ということばが、古語で蛇を意味する以上、守矢という諏訪の先住勢力の奉斎する神はおそらく蛇神であったろうと私は想像する。縄文中期の蛇の装飾土器をおもいい出すものにとっては、こうした類推はきわめて自然な道すじと考えられる」(出典*2)とするのである。
千鹿頭神が諏訪を追われたという伝承もあり、この民族が移動していったということも十分考えられるが、その考証はここでは措く。結局、縄文の狩猟神ということだが、谷川氏の指摘する「蛇神」を象徴する土器が、有賀の千鹿頭社遺跡からも出土しているので、その画像を貼付しておこう。こうしてどんどん深みに嵌っていくのである。次は再びミシャグジをとりあげる。
(2024年8月7日~8月9日)
注)
*1 今井野菊:1900年、長野県茅野市に生まれる。諏訪高等女学校卒業後教員となる。旧宮川村誌編纂研究会会長として同誌の編纂に奮闘。一方で、諏訪大社と関連する信仰の研究に邁進。ミシャグジ、テンパク、チカトウ等の踏査集成を広範囲に渡って行い、後世に大きな影響を与える。著書に『諏訪ものがたり』(甲陽書房)、『神々の里-古代諏訪物語ー』(国書刊行会)、『御社宮司をたずねて』『洩矢民族 千鹿頭神』『大天白神』など。82年没。(出典*1 / 筆者注:生業は寒天問屋の女主人)
出典)
*1 古部族研究会編「日本原初考 諏訪信仰の発生と展開」人間社 2017年
*2 谷川健一「神・人間・動物」講談社 1994年
*3 諏訪市埋蔵文化財調査報告第22集 千鹿頭社Ⅳ 長野県諏訪市千鹿頭社遺跡第5次発掘調査報告書1991年
参考)
神長守屋氏系譜 諏訪資料叢書 巻28 国立国会図書館デジタルコレクション