成島三熊野神社:岩手県花巻市東和町北成島5−1
丹内山神社:岩手県花巻市東和町谷内2区303

花巻といえば温泉、鹿踊り、宮沢賢治で知られるが、聖地といってピンと来る人は少ないだろう。東北には坂上田村麻呂に因む史跡や伝承が数多あって、訪れた二社もその関わりを伝えている。それらを辿ってみると思いもよらなかったことに行き着いた。

前日は鉛温泉にある藤三旅館に投宿した。室町時代の半ばに館主の遠祖が発見したと伝わる古湯である。四つある湯のひとつ、白猿の湯は石造りの楕円の風呂で、深さは1.25mもある。源泉直結の岩風呂でその趣は温泉好きには堪らない筈だ。昨年は花巻の台温泉、中嶋旅館に泊まったが、こちらの風呂も深い岩風呂。大正モダンな木造建築も風情がある。どちらもお勧めしておこう。

藤三旅館 白猿の湯

中嶋旅館

 

閑話休題。宿を出て車で成島三熊野神社へ。猿ヶ石川の北岸、山を少し登ったところに鎮座する。巨樹が林立する境内は折からの雨でしっとりと濡れ、酷暑の東京からやってきた身としては洗われる思いだ。まずは境内向かって左の社殿に参拝する。当社の由緒は坂上田村麻呂が蝦夷征討の際に、紀伊の熊野三山に戦勝を祈願し、戦勝後の延暦21年(802)にこの地に三山の神を勧請して創祀したものと伝わる。祭神は伊弉冉命、事解男命、速玉男命の三柱だが、本宮の主祭神、家津美御子大神が見当たらない。なにか訳があるのだろうか。

 

 

当社は泣き相撲でよく知られる。ニュースでご覧になった方も多いだろう。正しくは十二番角力式(じゅうにばんすもうしき)といい、九月の例祭に奉納される特殊神事だ。社伝は延暦年間に坂上田村麻呂がこの地で部下に相撲を取らせたのが始まりと伝える。その後、南・北成島の青年(22歳)による相撲となったが、勝利した方に豊作をもたらすという占いが流血の争いとなったことから、宝永3年(1706)神社氏子の長男で数え年2歳の幼児による泣き相撲に変わった。南北6組で取り組みを行い、先に泣き出した方を負けとするという。

 

 

境内右手には毘沙門堂が建つ。神社の社殿に同じく室町時代後期の建立と推定されている。中に入るともぬけの殻で、畳敷きの奥に大きな神鏡が据えられていた。壁の両側は奉納された鉄剣や草履で埋め尽くされており、地域の信仰が篤いことがよくわかる。毘沙門天は堂舎を出て左手の坂を登ったところにある宝物殿に移されているとの由。

 

 

 

 

受付で拝観料を払い、堂内に入ると照明が点された。正面を仰ぐと巨大な毘沙門天像が立つ。高さ5mに近い堂々たる体躯で、威容といってよい。筆者の子どもの頃にヒットした大映の特撮映画「大魔神」を思い出す。もっともあちらのモデルは埴輪なのだが。



 

 

変わった像容で、地天女が両手で毘沙門天を支えている。京から派遣された仏師が東寺(教王護国寺)の兜跋毘沙門天像を参考にしたのだろうか。左右には二鬼(尼藍婆、毘藍婆)が侍っている。その左には毘沙門天と対になることの多い吉祥天、右には頭部だけ挿げ替えられた阿弥陀如来が立っている。画像投稿の数に制約があるので、個々の仏像は当社のホームページなどで確認してほしい、

いずれも重要文化財で平安時代のものというが制作年代にはばらつきがあるようで、仏師もそれぞれなのだろう。仏像には明るくないが、毘沙門天だけは素朴な力強さのようなものが際立っていることがわかる。塑像において坂上田村麻呂を意識したことは間違いない。なにせ生前から北天の化現、毘沙門天の化身と聞こえた人物である。平泉の達谷窟毘沙門堂はじめ、北上川沿いには数多くの毘沙門堂があるのは後世に坂上田村麻呂の武勲を伝える意図があってのことだろうが、どうもそれだけではないように思える。人徳が感じられるエピソードもあるのだ。降伏した蝦夷の族長の阿弖流為(あてるい)と盤具母禮(いわぐのもれ)に付き添って上京し、彼らを本貫の胆沢に戻し、他の族長を取り込んで当地を治めさせようと進言したのである。結局、公卿の反対にあって二人は京で斬殺されるのだが、後世の武士の情けのようなものがどこかに感じられる。おそらくは武勇のみならず、懐の深い人物だったのだろう。誠実さ、高潔さ、或いは人としてのやさしさのようなものが、このあたりの毘沙門天像に投影されているといったら言い過ぎだろうか。当地の庶民にとっては紛れもない英雄と語り継がれてきたのであろう。そうでなければ奥浄瑠璃「田村三代記」のような語り物は生まれなかったように思う。

さて、その坂上田村麻呂が畏怖したと伝わる巨岩が近くの丹内山神社の本殿裏にある。昨年東和町出身の画家、萬鉄五郎記念美術館を訪れたついでに寄ってみたのだが、思いがけずこの巨岩に遭遇し、雀躍したのだった。まず当社の由緒を記す案内板を写しておく。

この神社の創建年代は、約千二百年前、上古地方開拓の祖神、多邇知比古神(たにちひこのかみ)を祭神として祀っており承和年間(834-847)に空海の弟子(日弘)が不動尊像を安置し、「大聖寺不動丹内権現」と称し、以来、神仏混淆による尊宗をうけ、平安後期は平泉の藤原氏、中世は安俵小原氏、近世は盛岡南部氏の郷社として厚く加護されてきたと伝えられる。さらに、明治初めの排仏毀釈により丹内山神社と称し現在に至っている。

 

 

上の画像の境内図で見る通り、上中下段に分かれており、五の鳥居まであるかなり広い境内だ。源義家(八幡太郎)の弓射場と伝わる弓石や、雪が積もらない肌石などおもしろいものが多いのだが、ここはなんといってもアラハバキ大神の巨石、別称胎内石と呼ばれる岩である。現在の御利益は安産、家内安全、交通安全、商売繁盛とされ、この岩の壁面に触れないようくぐりぬけると大願が成就し、触れた場合でも合格が叶えられるという。もちろん、胎内は丹内の転訛だろう。本殿で参拝を済ませ、すぐに裏に回り込む。

 

 

苔生したいくつかの巨岩が重なりあい、注連縄が回されている。見るにこれは磐座、つまり依り代ではない。石神であり、これ自体が御神体だと思われる。聖性を象徴するに相応しい剥き出しの岩であり、そのさまにうれしくなってしまう。多邇知比古神が開拓の祖神であるならば、この岩にシャーマニックな意味を求めていたのではないか。宗教以前の、どこか縄文に通ずる佇まいである。せっかくなので岩の間をくぐってみたが、華奢な体格のお蔭か、なんとか壁面に触れずに向こう側に出ることができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

問題は「アラハバキ」である。荒覇吐、荒吐、荒脛巾などと表記されるが、これは音に漢字を充てたものだろう。記紀神話には登場しない神で、東北を中心とする古い信仰のようだ。諸説あるが、偽書とされる東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)にある北東北の古代豪族説(シンボルは遮光器土偶だ)は措くとして、支持できそうな説は「塞の神(サエノカミ)」説だ。村の境で外からやってくる災厄を遮る神である。陰陽石などの自然石や男女双体の道祖神などとして祀られており、各地で目にすることが出来る路傍の神である。アラハバキを祀る神社は結構あって、東北であれば宮城の多賀城址近くにある鹽竈神社の末社、荒脛巾神社が代表例だろう。下半身の病や旅の安全に霊験があると云われ、靴などの履物が奉納されている。多賀城は蝦夷征討を目的とした鎮守府であり、当社がその外縁に鎮座することからすれば、夷狄退散を目的としたものと思われる。民俗学者の谷川健一氏は、アラハバキは元々蝦夷の神であり、いわば毒を以て毒を制す形でこれを祀ったとしている。だとすれば、坂上田村麻呂が丹内山神社のアラハバキ大神を畏れたということは首肯できる。田村麻呂は当社に参籠したとの伝えもあり、戦勝祈願のみならず、民を馴化させるという意味でこれを祀ったのではないか。

花巻の東和町にある聖地をふたつ紹介したが、最後に地名について触れておく。まず「成島」である。

「なるしま」は「なりしま」ともいわれ、その語源はアイヌ語系であるという見方もあり、次のように考えられます。「なるしま」の語源は、=アィヌ語の「ナィ・スマ(nay・suma)」で、その意味は、=「川・岩:」だったと推定されます。ただし、「ナィ・スマ(川・岩)」という地名は、アィヌ語地名としては単純に過ぎますので、おそらく、これには語頭に「カムィ」がついていただろうという推定もできます。そうだとすると、次のようになると思います。「なるしま」の語源は、=「カムィ・ナィ・スマ」で、その意味は、=「神々の・川の・岩」、または「聖なる・川の・岩」だったと推定できます。(出典*2)

いかがだろうか。たしかに成島三熊野神社の南側には猿ヶ石川が流れている。どこかに岩があったのだろうか。もうひとつ、丹内山神社の「谷内」だ。

「たにない」の古名は「たんない」であり、その「たんない」の語源は次のようなアィヌ語系古地名であるとみる推定が容易になります。「たにない」は「たんない」の転訛で、その語源は、=アィヌ語の「タンネ・ナィ(tanne・nay)」であり、その意味は、=「長い・沢」→「長沢」になります。(出典*2)

蝦夷はアイヌか日本人かという議論があるが、古代以前においては東北、北海道という地政学的区分は意味を為さない。前稿でも触れたように津軽海峡を通じて両地域で往来、交渉があり、民族の混淆や移住、文化的影響も少なからずあったことは考古学の成果を見ても明らかであろう。ここに来てやっとアイヌ民族や北海道史への理解が深まりつつあるとはいえ、差別、被差別といった溝を埋めるには、まだ相当の時間と労力を要するように思われる。

ここ数年に亙る北東北、北海道への旅を通じて、僕の中で新たな関心が芽生えてきている。それは縄文人や山の民を通じた日本を縦に結ぶ文化、とりわけ信仰の往来である。次稿からしばらくは信州諏訪の地に赴いて、これらを考えてみたい。

(2024年7月28日、2022年7月28日)

出典)
*1 花巻観光協会ホームページ

 

*2 菅原進「増補改訂版 随想 アィヌ語地名考(岩手県市町村別)」2003年


参考)

 

 

 

工藤雅樹「蝦夷の古代史」平凡社 2001年
阿部幹男「東北の田村語り」三弥井書店 2004年