備中松山藩の偉人・山田方谷の遺徳と教育 宇野和秀 | 日本教育再生ネットワークのブログ

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若者は国の宝です。その宝を育てるのは、教育。国の将来の礎となる教育が、様々な問題を抱え、深刻な事態に陥っています。戦後の教育行政で深刻な問題点を抱える日本の教育ですが、再生へのルートマップが必要な時。様々な問題提起ができれば幸いです。

 

子供たちの未来に希望を与えたい教育再生を願う本ブログを閲覧いただき、ありがとうございます。

 

日本の教育正常化と美しい日本人の心を育む教育をめざす一般社団法人・全国教育問題協議会(中尾建三理事長)は戦後教育で大きな問題点を残している学校教育、教科書問題、教育環境の正常化(健全化)を目指し、憲法改正を推進して美しい日本人の姿を体現する教育再生を活動の指針としています。

 

 

今回は、全国教育問題協議会の宇野和秀理事が綴った山田方谷(やまだほうこく)に関する偉業についての内容をご紹介します。財政破綻寸前、借金300億円の状態をわずか7年で300億円の蓄財に変えた江戸時代末期から明治時代初期の漢学者、備中松山藩士の山田方谷の改革とその後の教育に専念した生涯にスポットを当てています。

 

備中松山藩出身の幕末の偉人、山田方谷の改革と生涯

“雲中の飛龍”と呼ばれた藩政改革の遺徳と教育、思想

 

全国教育問題協議会理事 宇野和秀

 

 

 

【1】地元岡山での山田方谷を讃える活動

 

私の手元に「山田方谷まつり 2015 特別記念フォーラム ~山田方谷の思いをかたちに~」という資料がある。これは山田方谷先生生誕210年の節目に、当時の文部大臣下村博文氏、衆議院議員で、山田方谷の志に学ぶ国会議員連盟幹事長の逢沢一郎氏をお招きして、平成27年6月に地元岡山で盛大に開催された時の会の資料である。

 

また岡山にはいくつもの方谷(敬称略)に関する研究会があり、今でも多くの人が方谷から学び続けられているようだ。

 

▲財政破綻寸前、借金300億円の状態をわずか7年で300億円の蓄財に変えた備中松山藩士の山田方谷

 

これほどまでに地元の人たちから深く愛され続けている山田方谷の、時代を超えて光り輝く人間像に私自身も触れて、そこから多くのことを学び取りたいとの思いを強くしている。

 

前述の資料によると、「岡山方谷宣言2015」で、これからの教育と地方創生に求められる7つの重大な項目が取り上げられ最後に、私たちは生涯、「至誠惻怛(しせいそくだつ)」の精神を貫かれた山田方谷先生のご遺徳と、その人生の中で成し遂げられたご偉業を偲び、その教育者としての志を引き継がんとする者として、今後これらの項目の実現を目指していく決意である。以上宣言する。と、力強く結ばれている。ここで取り上げられている七つの宣言の中で、その中から私が特に関心を持つ項目を3つ選んでみた。

 

 

▲備中松山城=岡山県高梁市内

 

一つ  自らが志を持つ人を育成することが、現代社会の要請である。この志を育む教育がいかなるものであるか言及を深め、それを実践する。

 

二つ 「治国平天下」の志は修身から始まる。自らの人生観や人生習慣をきちんと育むような人間教育に力を尽くしていく。

 

四つ  困難を前にして生きる力を与えてくれるのは、苦難を乗り越えて生きた先人の生き様と考え方である。

 

今後、山田方谷先生をはじめとする様々な先人を取り上げ、学ぶ教育を推進する。

 

これらの宣言は、いずれも教育の大切さを訴え、人間として強く生き抜くことを主張している。枝葉の部分にこだわる教育ではなく、しっかりと大地に根を張り大木に育てる教育の実践こそ本来人間を育てる教育であると宣言しているのだ。これらは、「人間が大きく成長するには、しっかりとした志を持つこと」、「自分の人生観を持ち、それを育むような学びに尽力すること」、

 

「苦難を乗り越えて生きた先人の生き方を学ぶこと」等を実践することで、心の深奥に眠っている才能が目覚め、それが自分の手足となって活動するのだということを教えてくれている。人間が大きく成長し社会に貢献することは、時代、時代の価値観を突き抜け、一貫した信念に基づくものである。

 

この宣言をもとに、私は山田方谷に偉業を成し遂げさせた原動力はなんであったのかを自分なりに探ってみたい。

 

【2】偉才山田方谷を動かしたもの

 

▲「山田方谷の軌跡(~奇跡~)」実行委員会による「山田方谷の軌跡」事業チラシ(2019)

 

▲山田方谷像(高梁市郷土資料館前)=高梁市歴史美術館より

 

人間は生まれたときの家庭環境や社会情勢や価値観によってその運命を大きく左右されるものである。その環境に支配されず自分の信念を貫き通すことは不可能に近い。この不可能を可能にした人物、自分の生まれた境遇を突き破って、想像を絶する偉業を成し遂げた人物がいる。それが山田方谷だ。この偉才山田方谷を突き動かした行動の源にあったのはいったい何だったのだろうか。

 

▲岡山県高梁市の郷土資料館と山田方谷の像(左)

 

私が今一番知りたいのはそれである。しかし本人に聞くことはできない。それ故に多くの資料を通して、周囲から探っていくしか方法はない。大変な作業ではあるが、その中から現代に生きる私たちにとって非常に役に立つ多くの情報を得られるのではないかと思い、自分なりに取り組んでみた。そして表層的ではあるが、私の考えついたことを以下のようにまとめてみた。

 

私が取り組んだのは、方谷自身が神童と呼ばれるほどの才能をもって生まれてきたことを前提として考えたうえで、それを最大限に引き出したのは、(1)方谷が両親から受けた家庭教育、(2)丸川松陰を始め寺島白鹿、佐藤一斎という優れた師に恵まれたこと、(3)方谷を陽明学に引き込んだ2冊の書、王陽明の『伝習録』と大塩中斎の『洗心洞劄記(せんしんどうさつき)』との出会いの3点である。

 

(1)方谷が両親から受けた家庭教育

 

▲山田方谷邸宅及び私塾長瀬塾跡(JR伯備線方谷駅付近)=高梁市歴史美術館より

 

山田家の祖先は清和源氏の流れをくむ一族で、源平合戦の時平家討伐の軍功により阿賀郡28ヵ村を与えられ西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)に定着し勢力を得た武将だった。江戸時代になると農業を営むことになるが、備中松山藩からは郷士格(武士並みの家柄)を認められた代々続いた有力な家柄だったと言われている。

 

しかし元文4年方谷の曽祖父が起こした刃傷沙汰により山田家は全財産を没収され所払いになるという過酷で不幸な運命を背負わされる。そしてそれから19年後に帰村を許されたものの、祖父と父はどん底の生活をおくることになったのだ。

 

それ以来農業と菜種油の製造販売で細々と生計を立てていた父五郎吉と母(かじ)との間に長男として生まれたのが方谷である。父は山田家再興の鬼となって刻苦精励して働くが、自分の代に実らなかった夢を方谷に託して厳しい躾をする。ただ、現在の家庭教育と違うのは受験のための教育ではなくあくまでも人格教育であったことを念頭に置いておくべきであろう。

 

▲雲海で幻想的な備中松山城=岡山県高梁市内

 

父は、「酒のたしなみは無用」、「客の饗応は一汁一菜限り」、「遊芸は一切無用」など12条からなる『父五郎吉家訓』を作り、規律正しい生活を送ることを厳しく指導した。また学問に取り組む姿勢として、自分が若いころ、昼間は働きながら夜遅く(むろ)家の長老(むろ)丈人(じょうじん)から受けた学問に対する姿勢を徹底的に教えている。

 

また母は方谷の3歳(満2歳)の時から筆を持たせ毎日漢字を教えた。その教えが1年後には、あまりにも達筆で「これは4歳の子の書いた字ではないだろう」と大人も驚くほどの字を披露しているのだ。

 

またそんな母が父の側に寄り添いながら、「よい子だから必ず立派にお父さんの志を達成しておくれ。しかし時の勢いに乗って走りすぎるとつまづくものですよ。私はお前が生涯を立派に終えてくれればそれで十分ですよ」と優しく声をかけていたという。

 

その母の優しさに感動した方谷の「私はまだ幼少でしたが、このことを肝に銘じて今でも忘れていません」という言葉が、母の石碑の文の中に刻まれているという。これが、厳しい中にも優しさに溢れた両親の教育だったのである。

 

そして、それが幼いながらも方谷の心に届き、「どんなことをしても父と母の恩に報いるぞ」という決意を固めていったのだろうと私は考えている。

 

(2)丸川松陰塾への入門

 

▲備中松山藩の藩校「有終館跡地」には山田方谷が自らの手によって植えたといわれている黒松が残る

 

父はわが子方谷に更なる学問を身に着けさせるために隣の新見藩領にある丸川松陰塾に入門させた。丸川松陰は、後に方谷に大きな影響を与える寺島(はく)鹿(ろく)や佐藤一斎と共に大阪の中井竹山の塾(懐徳堂)で朱子学を学んだ高名な朱子学者である。そんな知名度の高い松陰塾に方谷は5歳(満4歳)で入門したのである。

 

▲師の丸川松陰(右)と弟子の山田方谷(左)の座像

 

隣の藩領といっても20キロも離れた地まで通えないので、両親は親戚筋にあたるお寺に方谷を預けて、そこから通わせることにしたのだ。5歳といえば今の幼稚園児、そんな年で親から離されて方谷はひたすら勉学に励むことになるのだ。こんな境遇の中でしばらくするうちに方谷の才能はむくむく目を出し始めるのである。

 

6歳の時には新見藩主に呼び出され、その前で立派な太字を披露し、また9歳の時には松陰塾を訪れた客が幼少の身で熱心に学ぶ方谷の姿を見て、「何のために学んでいるのか」と尋ねたところ、「治国平天下」と答え、その客を驚かせたという。師の松陰は方谷のこんな姿を見て、「この子はただ者ではない」とその非凡さに驚き、「山田阿璘(ありん)(方谷の幼名)の至るを喜ぶ」という詩を書いている。そして孫のような弟子の指導に全力を注いだのではないだろうか。

 

方谷は松陰から、学問だけでなく人としての生き方などを学び深い影響を受けたのである。幼児期から少年期にかけて、両親から遠く離れた地で独りで学ぶ方谷の心を思うと切なさがこみ上げてくるが、気丈にもそれを顔に出すことなく学問に励んでいたのだ。おそらく心の中に、「絶対に両親の願いをかなえてやるぞ」との強い思いが燃え(たぎ)っていたのではないだろうか。

 

そんな方谷に突然悲劇が襲いかかってきた。方谷が14歳の時母の死の知らせが飛び込んできたのだ。母が病気で倒れたという通知を受けて急いで帰った方谷に、「これくらいのことで、学びを放棄して帰ってくるとは何事ですか。急いで松陰先生のもとにかえるのです。」と母から厳しく突き放され、泣く泣く塾に戻ってきて10日目の事であった。その1年後今度は父の死の知らせが届いたのだ。

 

松陰塾に入門してから10年で、学びもそろそろ軌道に乗りかけようとした時であったが、父の仕事を継ぐために学問を辞めて郷里に帰らざるを得なくなったのである。松陰は方谷に「陽気の発する処、金石もまた徹る。精神一到何事か成らざらん。」という言葉を添えて方谷を送り出している。大きな望みをかけていただけに方谷を失った師松陰の悲しみもまた特別であったのではないだろうか。

 

▲山田方谷の偉業を紹介する方谷の里ふれあいセンター=同センター提供

 

郷里に帰った方谷は農業と、慣れない菜種油の製造販売という世俗まみれの人たちと交わっての仕事に追われる日々を過した。これは方谷にとっては非常に辛い日々であったと想像できる。普通の人ならそんな環境の中に埋もれてしまうところだ。しかし方谷は違った。仕事が終わった後、毎晩遅くまで松陰塾で習ったことのおさらいを続けるという日々を送ったのだ。

 

この評判が松山藩主板倉(かつ)(つね)に届き、藩からの呼び出しを受けることになった。そこで勝職から「農商の身でありながら学問に精進する心がけは誠に感心である。二人扶持という俸禄を与える。時々藩校で学び、後に御用に立つように。」という沙汰書を受けることになるのだ。二人扶持とは玄米一升の禄を受けること、すなわち二人扶持の奨学金を受け、藩校有終館への出入りを許されたことになる。

 

幼少にして両親と離れ、10年後にはその両親の死を迎えるという運命にさらされながら耐えてきた方谷にやっと光が射してきた瞬間であった。これも両親が、絶対に長生きはできないと思われるほど厳しい労働と食生活に耐えながら方谷の教育にかけた思いが通じたのではないだろうか。命をかけてわが子に託した強い両親の思いは方谷の心にしっかりと刻み込まれ、それがその後の方谷の活動源になったのだと私は確信している。

 

(3)方谷の陽明学との出会い

 

▲山田方谷が有終館学頭時代に子弟教育のために最初に設立した私塾「牛麓舎」跡

 

二人扶持を与えられた方谷にとって少しだけ遊学の余裕ができたので、家業を弟の平人(へいじん)に託して京都の寺島白鹿の塾に入門し、再度学問の世界に身を置く決意をする。方谷は出発にあたり恩師丸川松陰から課せられた、「()(ぶん)(儒教の学問)には淵源がある。それを探しあてて帰ってくることを楽しみにしている」という極めて重大な課題を胸に京都に向かうのだ。京都での3回にわたる遊学で、特に方谷に決定的な意味をもたせたのは、3回目の遊学の時であった。

 

丸川松陰の塾で10年間、寺島白鹿のもとで約4年間朱子学を学んだ方谷であったが、それでもまだ心に響く答えが見つからず迷走を続けたのだ。たいていの人は一つの学問を14年も学び続けたらそれが体に浸み込み、それ以上の学びは必要ないと考えるものだ。しかし方谷はそれでもより深いものを求め続けていたのである。

 

仏教の中にその答えを見出そうと坐禅を組んだこともあったようだが、そこにも得られるものはなかった。しかし天保4(1833)方谷が29歳の時、一冊の書が、迷走していた方谷に答えを示してくれたのだ。それが王陽明の『伝習録』である。これは、「熟読して心に会得すると、あたかも澄んだ水面に名月の影がやどり、水と月とへだてのないようなすがすがしい心地になった」(『伝習録抜粋序』)と言わせるほど方谷に衝撃を与えた。

 

方谷が学問の神髄に触れた瞬間だったのである。またもう一冊の書、大塩中斎の『洗心洞劄記』との出会いもその頃であった。この2冊の書から受けた影響は大きなものがあったのではないかと思われる。白鹿の塾で学んだ仲間に、陽明学徒春日(かすが)潜庵(せんあん)がいて議論を交わしたこともしばしばあったという。

 

しかし方谷はこれで満足したわけではなかった。陽明学の思想を完成させるためにそのまま江戸へ向かい、幕末の学界の巨頭で名声が天下に鳴り響いていた佐藤一斎の塾に入門するのだ。佐藤一斎は昌平黌で朱子学を教える一方で、陽明学を信奉する儒学者でもあった。その塾には、朱子学や陽明学を窮めたいと全国から秀才が集まって来たが、その中でも方谷はめきめきと頭角を現していった。しばらくしてその実力が認められ、一斎の塾の塾頭に命じられたのだ。

 

そこに、方谷入門の2カ月前に入門した朱子学を信条とする俊才で、吉田松陰や米百票で知られる越後の小林虎三郎を育てた佐久間象山がいた。象山は激情型の性格の持ち主で、誰にでも議論を吹きかけ、自説を主張したら他人に譲歩することはなかった。そんな象山が連夜方谷に激しい議論を吹きかけてきた。そんな象山の言い分を最後まで静かに聞いたのち、理路整然と反論する方谷に象山は絶句し、いつも打ち負かされるのは象山だったという。

 

この時方谷は、もう陽明学の神髄をとらえ、儒教でいう聖人君子の域に到達していたのではないだろうか。方谷は佐藤一斎の塾で学ぶかたわら、将来藩政改革で松山藩を救う土台となる『理財論』を書き上げるのである。

 

そんな方谷が突然瀕死の病に襲われた。方谷31歳の時である。病名は、寒さと高熱で発病し、発疹が体じゅうに広がりしばしば肺炎をおこし死に至る病、天然痘である。しばらく生死の境をさまよった方谷であったが、天はこの偉人を連れ去ることはなかった。方谷無くしては備中松山に、ひいては幕府にとってにどれほど大きな損害をもたらすかよくわかっていたからであろう。

 

▲広島県のマツダスタジアムでプロ野球公式戦と合わせて行われたイベント「わがまち魅力発信隊」で来場者に大河ドラマ化の実現をPR=岡山県新見市役所提供

 

こうして重い病を乗り越えた方谷は元気を取り戻し、この年の9月に遊学の期限がきて帰藩することになった。帰藩すると藩校有終館の塾頭としての職に就くことになり、ここに命を削って育ててくれた両親の強い願望であった、山田家の再興という期待に応えることができたのである。しかし方谷の偉業はこれから始まるのである。両親の教育、恩師丸川松陰、それに続く寺島白鹿、佐藤一斎から受けた指導 そして自らの手でつかんだ陽明学の思想、これらがうまく方谷の心の中で一体となりそれが方谷の力となって大きな仕事を成し遂げさせる原動力となっていくのではないだろうかと私は思うのである。

 

【3】山田方谷から学んだこと

 

▲山田方谷の遺徳を偲び、建立された方谷園

 

ここまで大雑把ではあるが、方谷に大きな影響を与えた一番重要な時期である誕生から青年時代までの方谷の歩みを眺めてきた。なぜ私が山田方谷にここまで拘るのか、それはその偉大な人物の生き方に非常に関心を持っているからである。私は、人間が生きていく上で大切なことは外面を飾ることではなく内面を充実させることだと考えている。そんな考えから、私が特に惹きつけられたのは、

 

(1) 学ぶ者一人一人が高い志を持つこと。

 

自分は何のために学ぶのか、そしてそれを社会にどのように貢献させようと思うのか

ということ。

 

(2) 心中に哲学を持つこと。

 

生きていくうえで様々な問題にぶつかったとき、決してブレることのない一貫性を

身につけて対応していくこと。

 

(3) 自分の信念に基づいて、学んだことを行動に移すこと(知行合一)。

 

(4) まごころ(至誠(しせい))といつくしみ(惻怛(そくだつ))をもって人と接すること。

 

(5) 広い視野でものを見る目を養うこと。

 

(6) 自分の行動の一つ一つに良知(りょうち)(人の生まれながらにしてそなえた知能)を発揮する努力

を重ねること(事上磨煉(じじょうまれん))。

 

この6点である。これらの考え方は現代社会から抹殺されているが、この中にこそ本当の人間を造り上げる大事な要素があるのではないかと私は考えている。そしてそれを身につけた人間が、そしてその行動が後々まで社会から高く評価されるのではないだろうか。大塩中斎は、その著の中で次のように述べている。

 

「聖賢の名誉が万世に伝わって朽ちないのは、名誉が万世に伝わって朽ちないのではない。

聖賢が終始実践した仁義礼智の徳が、天の春夏秋冬と同一物なのである。そこで、その人は死んでも、その霊が春夏秋冬の気に乗って天地にあまねく広がり充満しているので、忘れることができず、したがって万世に伝わって朽ちないのである。いつわりの善やいつわりの行いでどうしてそんなふうになろうか」と(『洗心洞劄記』上 第67 )。

 

私はこの言葉の重みを自分自身で確りと噛みしめて、後世に伝えていきたいと考えている。

 

▲高梁市のPRキャラクター「ほうこくん」(中央)。JR岡山駅東口で大河ドラマ化の実現にPR活動=岡山県新見市役所提供
 

 

参考文献および資料

(1)『炎の陽明学 ―山田方谷伝』   矢吹邦彦著 <明徳出版社>

(2)『哲人 山田方谷 ―その人と詩』 宮原 信著 <明徳出版社>

(3)『山田方谷の教育活動と其精神の研究』 田中 完著 <大学教育出版>

(4)『山田方谷の陽明学と教育実践』  倉田和四生著 <大学教育出版>

(5)『生誕200年記念 入門 山田方谷』 <山田方谷顕彰会>

(6)『丸川松隠評伝』 逸見芳春著 <備北民報社>

(7)『王陽明 伝習録』    溝口雄三訳 <中央公論新社> 

(8)『洗心洞劄記』大塩中斎  松浦 玲訳 (日本の名著 27巻) <中央公論社>

(9) 「山田方谷まつり 2015  特別記念フォーラム」

~山田方谷の想いをかたちに~   <「岡山方谷まつり2015」実行委員会>

(10)『山田方谷を語る』 児玉亨著 <高梁市秘書広報課>

(11)「誠意と慈愛の人 山田方谷を歩く (1)~(17)」 山陽新聞 2016年3月~4月

 

【宇野和秀(うの・かずひで)】

京都府生まれ。塾講師8年経験した後、1990年に所沢に「椿峰進学塾」を開塾して現在に至る。

著書『子どもをダメにする親・伸ばす親』(主婦の友社)、『子どもが10歳になるまでに親はコレさえすればいい』(教育資料出版会)、『現代教育の危機そして再考』(文芸社)

 

 

 

山本豊著「教育問題55の根源を探る」に関して、全国各県の読者から読後の感想が届いています。

■私は中学校の教師です。この本を読んで教師としての心が燃えました(島根県)

■教育について出版する本は何となく堅いのですが、この本は読みやすい本です(大分県)

■この本を読んで「教師は労働者ではない」と自信を持って言えます(香川県)

■「教育は大切だ」とよく人は口にするが、この本は教育を8分野の観点から分析しているので、児童、生徒、親、教師、教育観の問題点がわかる(山梨県)

■この本を政治家や全国の教育長に配って読んでもらってはどうか(鳥取県)

■今の日本人の大人、特に親はすべてではないが、子どものことより自分の生き方を優先している(埼玉県)

■今、学校の教師希望者が激減したり、不足して学校では大きな問題になっていると言うが、教員の待遇も含め、当然かもしれない(兵庫県)

■以前は、教員のストライキが問題だったが、今は大人の一部による反体制が問題(神奈川県)


現在、各地より山本豊著「教育問題55の根源を探る」のご注文をいただいております。皆様方のいっそうのご購読をお願いいたします。

【本の価格】

1冊 500円(税込) 送料無料!
一冊から承ります!!

【本の申し込み】
一般社団法人 全国問題協議会
電話 03-3262-6536  FAX 03-3264-3829

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一般社団法人全国教育問題協議会
理事長 中尾建三


日頃私たち全教協(全国教育問題協議会)の活動に対しましてご理解、ご協力を賜り、深くお礼を申し上げます。お陰様で全教協も結成して45年になりました。


さて、この度「美しい日本人を育てる教育の創造」を目指して表記の本を全教協として発刊する運びになりました。

 

本書は学者による教育論とは異なり、山本豊氏が私共、現在の全教協の常務理事であり、これ迄全日教連(全日本教職員連盟)、及び全教協の活動を通して、55年間の体験を通して得た資料を駆使して、教育問題の本質を探った提言を盛り込んだもので、現在の教育問題について述べています。本書の内容は下記の通りです。
 



1.    発刊の狙い 教師は労働者ではない。「美しい日本人の心を求めて50年、その魂は何か」。
2.    提言項目  児童生徒、教師、家庭、教科書問題、今日的教育問題、教育の在り方、心の問題(A4版120頁)
3.    発刊予定  令和4年3月中旬で発刊後貴殿には贈呈致します。
4.    連絡事項 

①発刊の際に購入の方法をご連絡します。
②価格は原価(500円以内の予定)。送料は法人負担。
③加盟団体、友人、知人にご案内頂ければ幸いです。

 

 

 

 

 

 

一般社団法人・全国教育問題協議会は、いわゆる保守とか革新、右とか左と二分してとらえられがちですが、特定のイデオロギーを主張している団体ではありません。

 

日本の教育を通じて美しい国にしようと集う団体です。

 

このたび、全国教育問題協議会は同会顧問の日本教育史研究の権威である杉原誠四郎・元武蔵野大学教授の監修をたまわり、総力を挙げて「教育に関する勅語Q&A」を発刊しました。

 

一人でも多くの方々がご一読いただければ光栄です。

 

お問い合わせ、ご購読、ご注文全国教育問題協議会オフィスまで。

電話03-3263-6536 FAX03ー3264ー3829 ご注文(クリックするとご注文フォームに飛びます)

 

一般社団法人・全国教育問題協議会であなたも「美しい日本人の心」を大切にするため、一緒に「教育は国家百年の大計」「国づくりは人づくり」をやってみませんか?

 

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【いま日本の教育問題は何か】

 

昨年、一般社団法人・全国教育問題協議会は全国の役員、会員、全日本教職員連盟の役員など400名を対象にアンケート調査を実施し、その結果は下記の通りでした。数字は関心の高い順です。

 

■学校教育
1 道徳教育の欠落
2 いじめの多発化
3 教員の反体制運動
4 教科書の採択
5 ジェンダーフリー運動

 

■教育環境
1 家庭の教育力の低下
2 性情報の氾濫
3 スマートフォンの乱用
4 対教師暴力の増加
5 教育行政の形骸化

 

■社会風潮
1 偏向するマスコミ報道
2 親の教育観の欠落
3 忙しすぎる教員勤務
4 不完全な日本国憲法
5 教育軽視の風潮

 

全国教育問題協議会は「人づくりなくして国づくりなし」をモットーに日本の教育正常化を目指して結成して41年となる一般社団法人です。

 

 

 

◆一般社団法人・全国教育問題協議会 (全教協)は昭和52年に結成され、40年以上、要望活動、提言活動、研究活動、情報宣伝活動をしている「美しい日本人の心を育てる教育」を推進する民間人による全国組織です。

 

とくに自民党の教育公約について「青少年健全育成基本法」の制定実現を核に要望しました。

 

【教育問題についての要望書】

 ■青少年健全育成基本法の制定

■教員の政治的中立の徹底をはかり、教員の過剰な政治活動に罰則規定を設ける

■教育長を教育委員会の責任者とし、教育委員会制度を抜本改革する
■教科書検定基準を抜本改善し、近隣諸国条項を見直す
■道徳教育の徹底を図り、道徳教育の教科化を実現する

 

 

【文教予算ならびに税制改正に関する要望書】

■教育への支出を未来への先行投資として文教関連予算を確保する

■義務教育費の全額国庫負担制度の実現

■児童・成都の学級定数の改善と教職員定数の改善

■いじめ防止対策法に関する財政措置を講じる

■新しい教科書発刊の際、見本本の配布費用は国庫負担にする

■教育・文科・スポーツ介護などのボランティア活動に対する寄付行為に対し、税控除の対象とする

■教員(公務員)への締結権を与えたり、人事院を廃止することに反対する

 

日本の教育再生を目指す一般社団法人・全国教育問題協議会(全教協) の活動に参加したい一般の方々、法人の方々は随時入会可能です。入会したい方はお申し込み下さい(←ここをクリック)

一般社団法人・全国教育問題協議会であなたも「美しい日本人の心」を大切にするため、一緒に「教育は国家百年の大計」「国づくりは人づくり」をやってみませんか。