「僕」は、予約を入れ、初めてその理髪店を訪れます。
理髪店の大きな鏡には、一面の海が映っていました。
その鏡を通してしか向き合えない店主と「僕」の関係。
店主は、自身の過去を語ります。「僕」にすべてを伝えておきたいかのように。
「僕」は間近に控えた結婚の報告をします。
店主は逆光の中の黒い影になった顔で、おめでとうございます、と言ってくれた。僕は答えた。ありがとうございます。付け足そうと思った、あとの言葉は、結局、喉の奥にしまいこんだ。
(荻原浩、『海の見える理髪店』より)
のみこんだ言葉は、きっと「お父さん」。
店主の方も言いたいことは、あったのでしょう。しかし、「僕」が帰る間際、やっとの思いで店主が口にしたことば。
あの、お顔を見せていただけませんか、もう一度だけ。いえ、前髪の整え具合が気になりますもので。
今さら元のような家族には戻れない二人の、鏡を通しての精一杯の会話です。
海を輝かせながら暮れようとしている夕日のように、静かに切なさを湛える物語です。