戦後─。
闇市を背景に、体を売らなければ生きていけない女と、戦争で家族のつながりを失った男が出会います。女は、その男を心中の相手にしようと思っていました。
死への誘いを待つ女。
しかし、男が口にしたのは、力強い生の言葉でした。
「俺と一緒に、生きてくれないか」
聞きちがいではないと思ったとたん、男は神様みたいに強い力で、綾子の体を抱きしめてくれた。
鯣(するめ)のように乾いた男の唇は、不幸の味がした。これだけからからにひからびていれば、嘘などつきようはない。
(浅田次郎、『帰郷』より)
「帰郷」。どんなときも人生を支えてくれるふるさとへの道のり。
しかし、帰る場所のない二人は、相手の心の奥深くに、帰るべきふるさとを見つけます。
どん底の社会の中だからこそ、闇の中に必死に光る人の心が一層美しく見えてきます。