出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

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 本を読んでいると、ジャンルは異なれども、不思議と、「あ、この前読んだあの本の、あそことつながる」と思うことがよくあります。今日、気付いたのは、論説『21Lessons』と小説『カラマーゾフの兄弟』のつながりです。

 

 『カラマーゾフの兄弟』には、こんな一節がありました。

「もし悪魔が存在しないとすれば、つまり、人間が創りだしたのだとしたら、人間は自分の姿かたちに似せて悪魔を創ったんだと思うよ」

「それなら、神だって同じことですよ」

 (ドストエフスキー、『カラマーゾフの兄弟(上)』より)

 

 そして、『21Lessons』には─

 ロボットにまつわる本当の問題は、彼らのAIではなく、人間の主人たちが生まれながらにして持っている愚かさと残酷さなのだ。

 (ユヴァル・ノア・ハラリ、『21Lessons』より)

 

 神も、AIも、人間が創り出したもの。だから「AIが職を奪う」「AIが人間の行動を制御する」と言っても、それは、人間の思想の反映なのではないか、ということです。

 人間が真っ当であれば、神も、AIも、真っ当な立場から、世の中を正しく導いてくれるはず…だと思うのですが。

 

 

 

 人間が電子頭脳に支配される未来を予測した手塚治虫さんの『火の鳥』

 そして、人間は知らぬ間にその道を進んでいることを危惧する本書。

 

 私たちはもう、情報を探さない。代わりに、「ググる」。そして答えを求めてしだいにグーグルに頼るようになるにつれて、自ら情報を探す能力が落ちる。そして今日、「真実」はグーグルの検索で上位を占める結果によって定義される。

 (ユヴァル・ノア・ハラリ、『21Lessons』より)

 

 2012年には、GPSの指示に従ってドライブしていた観光客が、海に突っ込んでしまったという事故がありました。同様の事故は、何件か起こっているようです。

 また、ネットで本を検索していると、「あなたにお薦めの本はこちらです」という案内がされます。自分が何を読めばよいか、何を学べばよいか、思考までもがAIに決定されているように感じます。

 物理的な道も、思考の道筋もAIにナビゲートされていると、いずれ、自分の進むべき人生の道も支配されてしまいそうな気がします。「あなたにふさわしい大学はこちらです。」「あなたにぴったりの職業は○○です。」「あなたの理想の結婚相手はこの方です。」…

 

 便利なコンピュータを使いながら、本当は人間がコンピュータに使われていて、いずれ人間は、AIに支配されるのでしょうか。

 

 

 力のこもった文章を読むと、伝えたいことがたくさん出てきます。

 今回、出会ったのは、ユヴァル・ノア・ハラリさんの『21Lessons』です。

 

 ハラリさんは、現代の世界を「物語のない世界」だと言います。

 

 ・・・私たち人間は、選択肢として、1938年には、三つのグローバルな物語を提示され、1968年には、選択肢は二つに減っており、1998年には一つしか見当たらないようだった。そして2018年には、選択肢は一つもなくなっていた。

 ・・・物語が一つしかないのは、あらゆる状況のうちでも最も安心できる状況だろう。すべてが明確そのものだからだ。それが突然、物語がまったくなくなってしまえば、私たちはぞっとする。

 (ユヴァル・ノア・ハラリ、『21Lessons』より)

 

 ここでいう「三つのグローバルな物語」とは、①ファシズム、②共産主義、③自由主義、のことです。

 物語は、「①②③」→「②③」→「③」と淘汰されてきました。しかし、最後に一つ残り、最良のシステムとさえ思われた自由主義も、いまや安心できるものではなくなってきています。

 信じられる物語のなくなった今、私たちは、何を信じればいいのか。どこへ向かおうとしているのか。

 

 今回から何回かにわたって、『21Lessons』の中の言葉を取り上げ、世界について、人間について、自分についてなど、考えていきたいと思います。

 

 

 荒唐無稽なことばかりをして、あげくに父親殺しの冤罪をかぶせられる長男ドミートリイを見ていると、真っ当な生き方のできない不器用さと、そのような人を除外してしまう社会への諦めを感じます。

 理知的で無神論者だった次男イワンの言動(特に、「大審問官」の章)は、「神の存在」について考えさせられます。

 信心深い三男アリョーシャの成長を見ながら、俗世間で生きる意味や大切さを問われているような気がします。

 

 ドストエフスキーの小説は、ポリフォニー(※多声音楽)で書かれている、と聞いたことがあります。通常、日本の小説は、「一人の主人公が語ること=作者の伝えたいこと」であることが多いのですが、ドストエフスキーは、登場人物の関わり合いによって醸し出されるところにテーマを隠しているのだそうです。

 

 『カラマーゾフの兄弟』は、途中で挫折する読み手も多いと聞きます。あまりにも多様に筋が交錯し、混乱することも多いようです。それは、このポリフォニーの構成にあるのかもしれません。冒頭に書いたのは、とりあえず私が絞り出した、3人の兄弟の「ポリフォニー」です。これが正しいのかどうかについては、全く自信がありません。もう一度、全巻を読み通せば、もう少し、はっきりと見えてくることがあるのかもしれません。

 

 これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子どものころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。

 (ドストエフスキー、『カラマーゾフの兄弟(下)』より)

 

 エピローグでアリョーシャが語るこの名言さえも、悲劇が積み重なるようなカラマーゾフ一家の、どこから導き出されてきたのか分からないような私の読みの浅さです。

 今は、読み返す気力もありませんので、また何年か後に、この疑問が解決できたらなと思っています。

 

 

 当時のロシアの社会の歪みを描いている『カラマーゾフの兄弟』。しかし、それは、遠い過去の外国の話ではありません。

 

 三男アリョーシャの師であるゾシマ長老の話から。

 

 …科学の中にあるのは人間の五感に隷属するものだけなのだ。人間の存在の高尚な半面である精神の世界はまったく斥けられ、一種の勝利感や憎しみさえこめて追い払われているではないか。

 

 …欲求増大のこんな権利から、どんな結果が生ずるだろうか? 富める者にあっては孤独と精神的自殺、貧しい者には妬みと殺人にほかならない。それというのも、権利は与えられたものの、欲求を満たす手段はまだ示されていないからだ。

 

 …必要なのは、偶然のものだけを瞬間的に愛することではなく、永続的に愛することなのである。偶発的に愛するのならば、だれにでもできる。悪人でも愛するだろう。

 

(ドストエフスキー、『カラマーゾフの兄弟(中)』より)

 

 科学第一主義と、うわべだけの権利の保障、そして刹那的な生き方への批判。1世紀半の時と2000マイルの距離を超えて、私たちに問いかけているようです。 この普遍性が、この小説を「人類文学の最高傑作」と言わしめているのでしょう。