荒唐無稽なことばかりをして、あげくに父親殺しの冤罪をかぶせられる長男ドミートリイを見ていると、真っ当な生き方のできない不器用さと、そのような人を除外してしまう社会への諦めを感じます。
理知的で無神論者だった次男イワンの言動(特に、「大審問官」の章)は、「神の存在」について考えさせられます。
信心深い三男アリョーシャの成長を見ながら、俗世間で生きる意味や大切さを問われているような気がします。
ドストエフスキーの小説は、ポリフォニー(※多声音楽)で書かれている、と聞いたことがあります。通常、日本の小説は、「一人の主人公が語ること=作者の伝えたいこと」であることが多いのですが、ドストエフスキーは、登場人物の関わり合いによって醸し出されるところにテーマを隠しているのだそうです。
『カラマーゾフの兄弟』は、途中で挫折する読み手も多いと聞きます。あまりにも多様に筋が交錯し、混乱することも多いようです。それは、このポリフォニーの構成にあるのかもしれません。冒頭に書いたのは、とりあえず私が絞り出した、3人の兄弟の「ポリフォニー」です。これが正しいのかどうかについては、全く自信がありません。もう一度、全巻を読み通せば、もう少し、はっきりと見えてくることがあるのかもしれません。
これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子どものころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。
(ドストエフスキー、『カラマーゾフの兄弟(下)』より)
エピローグでアリョーシャが語るこの名言さえも、悲劇が積み重なるようなカラマーゾフ一家の、どこから導き出されてきたのか分からないような私の読みの浅さです。
今は、読み返す気力もありませんので、また何年か後に、この疑問が解決できたらなと思っています。
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