■どう死ねたら満足か
自分がどう生きたいか、が
わからないと言う人と
会うことがあります。
そんな人に
「あなたはどう生きることが
できたら満足ですか?」と訊くと
「う~ん」と考え込んでしまう
ことがほとんどです。
まるで迷路に
迷い込んだようになって
「どう生きたら満足か」は
なかなか具体的にはなりません。
そんなときには
こう訊きます。
「あなたはどう死ねたら満足ですか?」
■死ぬまでが生きること
「死ぬ」ということは
この世での活動を終えることです。
今の環境が嫌で
その環境から逃げたくて
「もう死にたい」と思ったら
それは「もう生きたい」と
言っているのと同じです。
今の環境から抜けて
状況が改善して
差し迫った危機が無い状況に
なったら初めて自分らしく
生きることができる、と
思った上での「もう死にたい」です。
つまり
何かに隷属せねばならない状況から
抜け出した後に
本当の「生きる」または
「満足できる死に方」が
できる、と信じている、
というわけです。
こんな場合は
「どう死ねたら満足か」の
条項のひとつに
「今の環境から抜ける」が
挙がるでしょう。
そしてそれだけでは
きっと満足できません。
理想の恋人や友人に会って
一緒に何かをしたいと思ったり
過去の悔しい思いをした自分を
癒すために、
当時はできなかったことを
今やってみたいと思ったり。
この世での活動が
もうこれ以上できないとしても
これだけできれば満足だ、
という状況が見えてきます。
これだけはやってから
死にたい、というものもあれば、
逆に
急に死んだり
殺されたりするのは嫌だ、と
受け入れたくない条項も
挙がるでしょう。
そうして見ていくと
「どう死ねたら満足か」を
具体的に見ていくということは
「どう生きたいか」を
具体的に見ていくことと
同じなんだとわかります。
本気で満足できる死に方は
本気で満足できる生き方を
したときにできるのです。
■例えばこんな死に方
成功者を研究して
幸せに成功するセミナーを
している講師の人がいて、
その人はこう言ってました。
「自分は年老いたら
ボケ老人になりたい。
もうあれもこれも
全部お世話になる感じ。
自分は何もしない感じ。
何にもわからなくなれば
楽しいもない代わりに
苦しいもなくなる。
そして危険な状況など
”ここぞ”という機会に
急にシャキっとして
重みのある言葉を放って
改善への道を指し示して
その場の人をハッとさせて
感動させる。
で、またボケ老人に戻る。
そんな日常。
そしてある日に
ひ孫があそびに日に
縁側の椅子で静かに死ぬ。
ひ孫は自分が眠ってると思って
親に自分が何しても起きないよ、と
報告する。
そんな死に方が良いと思ってます。
そうなるためには
身体は健康でないといけないし
世話をする人を養うお金も
今の内に稼いでおかないと
いけない。
具体的に金額も決めたし
健康にも気をつかってます。」
こんな感じに
一度、具体的に決めてみると
その後はその理想像を
作るのではなく
改善・更新するだけなので
最初に具体化するほど苦労は
しません。
「どう死にたいか」を
具体的に見て
そのときの満足に向けて
今からの時間を使うんだと
意識できます。
そんな満足に向けて
生きることを説明したなら、
それが「どう生きたいか」に
あたります。
お読みいただき、
ありがとうございます。
プロコーチ9年目、常楽でした。
不眠症の夫人がぐっすり眠れた例
できると思うがゆえにできる
共同体感覚が不足すると”失敗した”と感じる
今ある材料をどう使う?は自分次第
生きる目的は自由研究みたいなもの
もともと100%自由。目的に応じてカスタマイズしてるだけ。
自分がどう生きたいか、が
わからないと言う人と
会うことがあります。
そんな人に
「あなたはどう生きることが
できたら満足ですか?」と訊くと
「う~ん」と考え込んでしまう
ことがほとんどです。
まるで迷路に
迷い込んだようになって
「どう生きたら満足か」は
なかなか具体的にはなりません。
そんなときには
こう訊きます。
「あなたはどう死ねたら満足ですか?」
■死ぬまでが生きること
「死ぬ」ということは
この世での活動を終えることです。
今の環境が嫌で
その環境から逃げたくて
「もう死にたい」と思ったら
それは「もう生きたい」と
言っているのと同じです。
今の環境から抜けて
状況が改善して
差し迫った危機が無い状況に
なったら初めて自分らしく
生きることができる、と
思った上での「もう死にたい」です。
つまり
何かに隷属せねばならない状況から
抜け出した後に
本当の「生きる」または
「満足できる死に方」が
できる、と信じている、
というわけです。
こんな場合は
「どう死ねたら満足か」の
条項のひとつに
「今の環境から抜ける」が
挙がるでしょう。
そしてそれだけでは
きっと満足できません。
理想の恋人や友人に会って
一緒に何かをしたいと思ったり
過去の悔しい思いをした自分を
癒すために、
当時はできなかったことを
今やってみたいと思ったり。
この世での活動が
もうこれ以上できないとしても
これだけできれば満足だ、
という状況が見えてきます。
これだけはやってから
死にたい、というものもあれば、
逆に
急に死んだり
殺されたりするのは嫌だ、と
受け入れたくない条項も
挙がるでしょう。
そうして見ていくと
「どう死ねたら満足か」を
具体的に見ていくということは
「どう生きたいか」を
具体的に見ていくことと
同じなんだとわかります。
本気で満足できる死に方は
本気で満足できる生き方を
したときにできるのです。
■例えばこんな死に方
成功者を研究して
幸せに成功するセミナーを
している講師の人がいて、
その人はこう言ってました。
「自分は年老いたら
ボケ老人になりたい。
もうあれもこれも
全部お世話になる感じ。
自分は何もしない感じ。
何にもわからなくなれば
楽しいもない代わりに
苦しいもなくなる。
そして危険な状況など
”ここぞ”という機会に
急にシャキっとして
重みのある言葉を放って
改善への道を指し示して
その場の人をハッとさせて
感動させる。
で、またボケ老人に戻る。
そんな日常。
そしてある日に
ひ孫があそびに日に
縁側の椅子で静かに死ぬ。
ひ孫は自分が眠ってると思って
親に自分が何しても起きないよ、と
報告する。
そんな死に方が良いと思ってます。
そうなるためには
身体は健康でないといけないし
世話をする人を養うお金も
今の内に稼いでおかないと
いけない。
具体的に金額も決めたし
健康にも気をつかってます。」
こんな感じに
一度、具体的に決めてみると
その後はその理想像を
作るのではなく
改善・更新するだけなので
最初に具体化するほど苦労は
しません。
「どう死にたいか」を
具体的に見て
そのときの満足に向けて
今からの時間を使うんだと
意識できます。
そんな満足に向けて
生きることを説明したなら、
それが「どう生きたいか」に
あたります。
お読みいただき、
ありがとうございます。
プロコーチ9年目、常楽でした。
不眠症の夫人がぐっすり眠れた例
できると思うがゆえにできる
共同体感覚が不足すると”失敗した”と感じる
今ある材料をどう使う?は自分次第
生きる目的は自由研究みたいなもの
もともと100%自由。目的に応じてカスタマイズしてるだけ。