君と朝を待つ
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赤い光

妊娠はまちがいなかった

ダンナに電話すると「おめでとう」と言った

その言葉に少し違和感があった

わたしだけががんばって、そして得たもののように

聞える・・


とても寒い季節になってきた

きついつわりでまた、寝込んでいた

夜、9時頃に電話が鳴った

姑が「お父さんが風呂場で倒れてる!」

いそいで、ダンナに言うと

すぐ前に住む、姑のところに走っていった


大変なことになった・・という予感がして

実家に電話をかけた

でない・・・

叔母の家に電話して、「留守なんだけど・・」というと

「あんたのおかあちゃんも、今、救急車で運ばれていったよ!

倒れたんよ」

と言われた


舅を運ぶ、救急車の赤い光が窓いっぱいにうつっている

いったい、どうすればいいのか

わからないまま、受話器を握り締めていた

しておけばよかった後悔

大晦日にもう、一生こんなに花火を見ることがないぐらい

たくさんの花火をハウステンボスで見た

次の年の秋に、生理がまたこなくて、不順だから

また、病院に行かなきゃなぁ・・と思っていた

次の日ぐらいから、また部屋中から、襲い掛かってくるにおい


こりゃ、もしかして・・

妊娠してるかどうかのチェッカーを買いに行った

おしっこをスティックにかけて待つ

赤い丸がでてくると、妊娠・・・なのだ

ドキドキして待つと・・でたーー!!

赤い丸!!でも、色が薄い

チェッカーの会社に電話して

「薄いんですけど・・」と言うと

「一応、妊娠の可能性はありますが、きちんと病院で

検査することをおすすめします」

「でも、妊娠の可能性あり。なんですよねっ?」

何度も確かめる


これまで、生理が遅れただけで、何度ぬか喜びしたか

わからない。

でも・・今度は「可能性あり」なのだ。

ダンナに急いで電話する

それから、母にも

2人とも、驚いていたが、もう少し待ってから、病院に

行ったほうがいいよと言う


病院は実家の近所の病院に行くことにした

前日から、泊まって、

朝、バスで病院まで、母と行った

母はいつも、こぎれいにおしゃれして

ボーイフレンドとカラオケやら卓球やら

遊び歩いていたので、そういう母を

わたしはその頃、軽蔑していて

母にとても、冷たかった


バスのステップから、降りる母の

後ろ姿が、なんだかものすごい老婆のように

しんどそうな、不思議な降り方をした

「なんで、そんな、歩き方すんの。

毎日遊び歩いてるくせにわざとらしい!」

思わず、きつい言葉を言った

母がふりかえって、胸を押さえて笑った姿を

今も、ときどき思い出し、激しく後悔する


なぜ、あのときに、母の不調に気づかなかったのだろう

自分の妊娠のことだけで、

頭がいっぱいだった


検査の結果、妊娠が確定した。

結婚9年目のことだった

子授け祈願

子どもはもう、できないんだと決めて

治療に見切りをつけることは

やはり、とても難しい


けれど、私はもう病院通いするのがいやになった

グラフの出る体温計で基礎体温を計り

唾液をレンズにつけて、のぞいて

唾液の結晶がシダ状になっていたら

排卵日か、排卵日近くになるものを

使ってはいた。


その年はよく、旅行に行くと病気になる年で

出雲大社に旅行に行ったときも

扁桃腺が腫れて、熱が出て、声も出なかった

せっかく、いい旅館に泊まったのに

名物の料理も露天風呂にも入れなかった


その帰り道、ちょっと、休憩するために

小さな寺に立ち寄った

「子安寺」という

人がいなくて、中でゆっくり休めるようになっていた

ふと見ると「子授け祈願」と書いてある


宗教や神がかり一切きらいなので、

したことはなかったのだが、お茶を出してくれた

おじさんに、「これ、したいんですけど」と言ったら

「はいはい」と言って

おじさんは、奥にひっこみ

装束をきてあらわれた

住職だったらしい


紙に2人の名前、住所、生まれ年を書いて

祈願してもらった

それは、GWの旅行で、5月5日だった

その次の年の5月5日に

まさか、本当に子どもが生まれるとは

全く、期待していなかった



生理不順は環境のせい

入院は長く、薬をあわせるための入院に変わった

薬で、ホルモンのバランスをよくするためだ

こうやって書いていると、ずっと、不妊で悩んでいたようだが

わたしは、誰かに言われたときだけ

「よーし!絶対子ども作って見返してやる!!」と思って

怒るんだが、あとは割りとなんも考えていなかった

ような気がする


ただ、舅が入院したときに、どうせあんたは子どもいなくて

暇でしょーと、全部お世話おしつけられたときとかは

かなり辛かった

舅には、それまでイビられて、お互いきらいなのに

排泄の世話や、食べさせたり

完全看護をうたってる病院なのに、24時間家族がつきそわないといけない

おまけに、お金があるのに、ケチなので、

つきそいの人をたのんだり、絶対しない


わたしが、やることはすべて気にいらない舅に文句言われながら

世話をして、誰にもお礼を言われなかった

舅も姑も兄嫁がお気に入りなので、

一度だけ、花を持って見舞いに来た兄嫁をほめまくっていた


そういう、生活だと、やはり私の体は正直で

生理もとまってしまう

生理がないと、当然、子どもなんてできない


今、思えば、私が100%やったとしても

気にいらない人たちの中で、100%やろうとして

自分の体にもろに返ってきていた感じがある


ダンナもいまだにそうだが、もし、100%やったら

さらに、これもできるだろうと、積み上げる人なのだ

そういう人たちなのだと、今になってわかる


そういう、時期もあって

自分の趣味に没頭する時期もあった

友人と海外に行ったりもした

けれども、心の中の絶えずみたされない感じは

子どもができると解消するのかと

思い続けていた

男の不妊治療

不妊治療に詳しくなると、よりよい病院に行きたくなるものだ

家からかなり離れた病院で、初めて、ダンナの方の治療が

はじまった、治療といっても、精液を採集して、精子の数や

状態を調べるものだ。


病院の一室にそういう部屋があり、ビデオとエロ雑誌が置いてある

そこで、看護婦さんが手伝ってくれるはずはなく、

一人でうまく、ビンに採集する。

これは、ダンナにはなかなか、つらいようだった。


ダンナの精子は数も元気さも、問題はなかった

わたしの方の検査を、もっと、詳しくすることになった

子宮も卵管も問題はなく、ただ、生理が不順なことが

問題なのだと思っていたら、副腎皮質のホルモンの数値が低いので

検査入院をすることになった。


閉所恐怖症なので、失神しそうになるMRIやら

全身の検査と毎日、採血があるのと、尿を一日中取る以外は

なんの、用もない検査入院を1ヶ月して

やはり、ホルモンの出が悪いので薬をあわせるために

さらに1ヶ月、入院した。


家から、とても遠い病院なので、さびしくて、何度も

ダンナに電話をして、しょっちゅうきてもらった

母にも来て貰い、検査の合間にお買い物にでかけたり

退屈ながら、なかなか、快適な入院生活だった

自分だけの悩み

病院を何度も変わり、基礎体温をつけ、排卵誘発剤を飲み

しながら、私は本当は子どもはほしくなかった

きらいだったのだ。


ダンナの姪や甥も、一度も可愛いと思ったことがない。

ただ、うるさい、面倒な存在だった

自分がそういうもののために、自分の時間をさき

全部の神経をそそぐことなど、本当はいやだった。


だったら、なんで、不妊治療に通うのか

答えはわからない。たぶん、もう、とがめられないために

かもしれなかった。

「お子さんはまだ?」と聞かれたときに

「はい。病院に通ってるんですけどできなくて」というと

人は同情し、それ以上何も言わなくなる


ダンナは、一度もそういう言葉から私をかばうことはなかった

子どもが大好きで、甥や姪と毎日遊んで、毎日車に乗せて

配達に行き、「子ども好きな人やのに・・はやく産んであげたら」

と近所の人にいつも、言われた


「本当に子どもがほしいのか?」「なんのために子どもがほしいのか?」

わたしたちは、このときに、きちんと話し合うべきだったかもしれない


フィンレージの会という、不妊の女性の会に入ったのは

この頃だった。

自分の想いや、病院でのつらい体験などを話し合う会報でつながる

会だった。


広島の駅前の婦人科だと長い予約待ちなしで、

即、人工授精してくれますとかいう情報と、自分の想いや

病院での、いやな体験をつづるコーナーがあった

ここで、知り合った友人は、いつのまにか、連絡なく

静かに消えてゆく。


妊娠に成功した人は、ほかの人の気持ちを慮って黙って連絡を絶つ

それが、ここでの暗黙のルールだった。

つかの間であろうと、おなじ辛い体験をわかちあえる仲間がいるというだけで

どんなに、心強いだろう。


この頃の「不妊」という期間も、わたしはその悩みを夫婦でわかつことなく

なぜか、全部「自分だけの悩み」になってしまっていた

現在の「障害児の親」を自分だけがやっているのと、全くおなじに・・

不妊治療のいやなこと

不妊治療というのは、痛い

排卵が起きているのかどうか

調べるために、子宮の中の卵管に

造影剤を流しながら調べる

「子宮卵管造影」

ぐわぁぁぁ、ここに卵管があるんですよーーーー!!!

と卵管が大声で叫んでるような痛さ

 

しかも、産婦人科ってのは、子宮関係の痛みに

とっても、冷たい

痛がると、「こんなんぐらいで、痛がってたら

子どもなんて産めません!」と医師にも

看護婦にも、叱られる

卵管はやはり、詰まっていて

たびたび、卵管に水を通す

「卵管通水」に通う

これも、結構痛い

 

そして、いやなのは、診察台と

そこで、足を広げる恥ずかしさ

怖さに自分が慣れていかねばしょうがないこと

周りが全部、妊婦の中に

一人混じること

たびたび、病院を変えたのは

そこで、いろんないやな目にあったのだ

 

家の近くの病院に通っていたときに

ポンと肩をたたかれた

日本画をいっしょに習っていた友達だった

彼女も2人目がほしいと言っていた

「もしかして、できたの?」

おなかのあたりに視線をはしらせた

 

ちょうど、その時

順番がきて、診察台にあがった

医師はなぜか心音を聞くものを

おなかにあてて、

「心臓の音聞こえますよ^^」と言った

「あのー、私、妊娠していません」

「えっ?あれー、隣と間違えた。動脈の音か・・」

 

診察台のカーテンごしに

くすくすと笑い声が聞こえる

診察室を出ると、友人が

「残念やったねー。おさき」

彼女は妊娠していた

それから、二度とそこの病院には行ってない

不妊治療

周囲におされるように始まった不妊治療

とにかく、生理不順なために、排卵日がつかめない

まず、生理がこなくちゃ、しょうがない

なので、一番最初の病院では、基礎体温をつけることと

排卵誘発剤を飲むことになった

 

実家の近くの病院にしたのは、それを理由に実家に滞在できるのと

母が仕切りたがったからだ。

母の人生設計では、私はずっと、母の近くにいて

結婚後もいっしょに、買い物や旅行に行き

仲良し親子で、いたかったようだ

 

異常に私にかまうようになったのは、

高校生頃からだった

今日は学校でなにをしていたのか聞かれ

共学なのに、男の子から電話があると

取り次いでもらえず

門限も、勝手に決められた

 

年頃になった娘が心配というよりは

その当時、祖母の介護で仕事をやめ

専業主婦になった母の鬱憤が全部、私に来た

ような気がする

母は身近にいる自由な若い女に

心の底で、嫉妬していたのかもしれない

 

仕事しているときも、男の人と話して

華やかに笑うのが好きだった

晩年の母もそうだった

母親は娘をライバルだと思いはじめる

これは、後にわかったことだ

 

こういう母から逃れるために

私は家から、遠いところに住む彼氏との

結婚を決めたのかもしれない

自由になるために決めたものが

別の不自由を得るだけなんて

誰も、思いもしないから

 

基礎体温は毎朝、じっと動かずに

口内で体温を計り

それを、忘れないように

折れ線グラフにつけていく

何年も、たつうちに

自動で、グラフがあらわれる

タイプの体温計になった

その間に、病院は何箇所も変わった

傷つける言葉

結婚式のときの、友達のインタビューで

わたしたちは、「子どもは、3人ほしいです。女の子2人と男の子1人」

そして「3年後ぐらいに、赤ちゃんがほしい」と

それは、簡単にかないそうな、夢だった。

 

結婚後、姑が家にやってきて「あんたらは、ああいうてたけど

子どもはすぐに、作りなさいよ」と言った

ダンナがいないときに、やってきてそういうことを言う

そして、息子の前では、優しい口調に変わる姑

「はいはい」と聞き流せないようなことは、ダンナに言ったけど

ダンナは、一言も親に言ってくれることはなかった

 

田舎に住んでいて、子どもができないってことは

かなり、辛いことになってきたのは

結婚して3年たった頃で、

同時期に結婚した義兄夫婦に子どもができて

妊娠中から義姉をとても、大切にしていた姑は

わたしに、義兄の家の買い物やなんか

全部、「しときなさい」と命令した

 

自分からすすんで、やることと

命令されて、やることには、気分的に

うんと、へだたりがある

次々と子どもが生まれる義姉と

孫と小姑の子どもたちの世話も

姑に強制されるのは

とても、苦痛だった。

 

幼稚園に上がる前の姪が、毎日言う

「どうして、おばちゃんには赤ちゃんができないの?」

きっと、毎日、母親である小姑と姑の話を聞いて

いるからだろうなと思った

近所の人や会社に来る人にも

毎日のように「子どもはまだか?」と聞かれ

そのことで、生理がとまってしまったりした

 

実家に帰っても、母親からもおなじ言葉を言われる

女は子どもを産んでこそ、一人前なのだと

そのころ、いつも考えていたのは

こんなに、人を傷つける言葉を平気で言うのが

一人前になることなら、

わたしは、一人前にならなくてもいいやということ

 

けれども、周りのプレッシャーで

わたしは、不妊治療を受け始めた

新婚って、こんなんかい

新婚生活って、どんなに楽しいのだろうと

ずっと、思っていた

毎日、好きな人といっしょにいて

いっしょに、笑って、遊んでいるという

毎日、デートできるイメージだったんだろうか

門限もなく

 

ところが、嫁いだ先は田舎で、ダンナは

3人兄弟の末っ子だが、家から、ずっと出ずに

学校を卒業したら、家業の鉄工所を舅と義兄と

やっていた

 

結婚する前に、わたしに会社の事務をするように

言われ、簿記はもっていたが、事務職についたことはなく

不安だった

わたしは帳簿つけるのに、まったくむいていない

わたしを、教えるために、会計事務所のものすごく

いやみを言うおばさん、舅が、じーっと

監視している中で、毎日事務所にいるのは

かなり、しんどいことで、

たえず、神経性の下痢をして

生理もめちゃくちゃ不順になった

 

休みの日も、家の前の畑に、姑と舅がいて

ダンナとわたしが、外出することは

少なかった。

その当時、大姑もいて、平日にしんどくて

横になっていると、やってきて

わからない播州弁で、

「かっちりした所帯をせえ」といい

掃除できてないとか、繰り返し、おなじ

説教をするのだった

 

実家は神戸で街中で

嫁いだ場所は当時、外灯も

コンビニもなく

車がなくては、どこにも行けない場所で

途方にくれている日々が

その当時の記憶だ