宮本武蔵  相田★冬二氏による研究 | 木村拓哉芝居研究所

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木村拓哉ではない人々の存在自体を、偏見・受け売り・見ていないのに「何をやっても」と知ったかぶり・違いも解らない低知能・嫌いだから叩きたいだけ・四流ネガキャン記事の執拗な印象操作・洗脳・先入観による理不尽極まりない迫害から守るため、命を懸けて分析します

2014.3.16更新
木村拓哉は「、」である――『宮本武蔵』第1夜を観て


宮本武蔵は「楷書」である。
 冒頭、道場破りの啖呵をきる木村拓哉に、「楷書」の芝居を見た。
 木村拓哉は、「手書き文字」を意識させる演じ手で、基本的には「草書」(最もくずした書体)の、ときには「行書」(ややくずした書体)の表現でわたしたちを吸引してきた。もちろん、俳優たちのあらゆる演技は「手書き文字」に他ならないが、木村は「自分の字」を書くということにきわめて自覚的であり、既にある「お手本」をトレースするような振る舞いが一切ない。役というものを「己の字」で書き、鼓動を宿らせる。そうして、役と自分自身の生命を一体化するのだ。
 彼の「手書き文字」には、彼独自の呼吸法があり、そこから導き出される濃淡は役によって変幻している。観客は大きく言えば、二つに大別される。彼独自の呼吸だけを見つめる者と、彼が織り成す濃淡を嗅ぎ分ける者と。いずれにせよ、彼の「手書き文字」に魅了されていることに違いはない。
 これが彼にとって久方ぶりの時代劇だからだろうか。それとも、道場破りの啖呵という定型のせいだろうか。木村拓哉は、いきなり一切、「くずし」を入れない「楷書文字」で、ことばを置いていく。一言一句、というよりは、一文字一文字を丁寧に「書いていく」。「画数」も、「とめ、はね、はらい」さえも認識できるような端正な発声は、言うまでもなく「草書」や「行書」にはないものである。そもそも「草書」や「行書」は、「画数」や「とめ、はね、はらい」から自由に飛翔していく「書き方」だからである。
 大掴みなことを言えば、これまでの木村拓哉の演技が「グルーヴ」を重視していたとすれば、『宮本武蔵』におけるそれは「ビート」と言えるかもしれない。

宮本武蔵は「、」である。
 『宮本武蔵』は、永きにわたる物語である。宮本武蔵の人生には、幽閉されていた「沈黙」の歳月もある。だから当初、わたしは木村拓哉が、その変遷を「字」であらわしていくのではないかと考えた。「楷書」から「行書」に、そして「草書」へ――そもそも文字というものは「草書」から出発し、「行書」を経て「楷書」に辿り着いているのだが、その文字の歴史を逆走するように、武蔵の軌跡が体現されていくのではないかと。しかし、そうではなかった。木村はいまのところ、あえて「楷書」をくずさずに、武蔵として存在している。おそらく、今回「楷書」が選択されたのは、それが時代劇というジャンルや、ある種の決まり事によってもたらされたものではなく、木村拓哉が宮本武蔵そのひとのフォルムを「楷書」として捉えたからではないだろうか。
 さて、本作の大きな見どころのひとつは、殺陣である。木村がここで披露している殺陣は、言ってみれば、「、」(読点)であると思われる。それは殺陣師がそのように設計しているというよりも、木村が武蔵の動きをそのように規定していると感じられる。なぜなら、ここで彼が見せている宮本武蔵の身体が「、」として存在しているからだ。
 「、」とは何か。それは、さまざまに解釈することが可能だが、まずひとつ挙げられるのは「不断への希求」であろう。言ってみれば、それは「ピリオドへの拒否」であり、絶えることなくつづいていく「己」のための息つぎではないだろうか。武蔵と出逢う多くの者たちが、彼から「殺気」を受けとるのはそのせいである。強力な、あまりに強力な「希求」が、自身も制御できないほどの「殺気」へと達していることに無自覚な武蔵のありようを、木村拓哉はあくまでも「楷書」のたたずまいで体現している。そこが、決定的に新しい。

宮本武蔵は「。」を迎える。
 実際に剣を交わすことなく、イメージのなかで相手に「倒される」幻視が頻繁に登場する。木村が武蔵の身体を「、」としてあらわしているのは、おそらくこの幻視こそが本作の肝だと直感したからではないだろうか。剣を抜かずして、たとえば、相手の目の一撃だけで「倒される」ことこそ、「、」に他ならない。木村拓哉は役になきりるのではなく、役を「批評している」のかもしれない。
 武蔵のたたずまいが、武蔵の精神を表象する。それが「、」としての表現であり、そこには魂の「筆圧」も付与される。
 対して、佐々木小次郎に扮した沢村一樹は一貫して「。」(句点)としてそこにいる。小次郎は、あたりに殺気をまき散らす武蔵とは対照的に、ときに相手になめられることもあるほど、まるい。彼のバックグラウンドは、本作ではほとんど描かれてはいないが、思うに、それは内なる「不断への希求」を抹消しているからであり、いつ終わってもいい、というある種の「完結」のなかで、生をまっとうしているからではないだろうか。逆に言えば、彼はその都度その都度、自分の人生を「終わらせている」。海を飛ぶ虫を真っ二つにしたときも、そして、偽佐々木小次郎と対峙したときも。
 だからこそ、巌流島の決闘は、必然の帰結なのだろう。一瞬一瞬において「終わるまい」とする武蔵が、瞬間瞬間を「終わらせていく」小次郎と相見えるとき、いったい何が起きるのか。「、」として存在する木村拓哉は、「。」として存在する沢村一樹を前にして、変わるのか、変わらないのか。そのとき、彼がなぜ「楷書」の表現を選び取ったのか、その答えがもたらされるだろう。


文:相田★冬二

2014.3.18更新
木村拓哉は鈴の音である――『宮本武蔵』第2夜を観て


演技とはなにか。
 『宮本武蔵』、とてもいい幕切れでしたね。あの「終わりのない終わり」と共に、ぼくたちの記憶に永遠に残ることでしょう。
 さて、どこからお話しましょうか。まず、第1夜でもっとも印象的だったのが、木村拓哉さんが、夏帆さんの鈴を拾って渡すところなんですね。あの場面は夏帆さんの回想のなかで繰り広げられるイメージなので、記憶の美化という可能性も充分に考えられるわけですが、あそこで木村さんは埃をはらって鈴を渡しています。あの所作を見て、ぼくは思ったんです。宮本武蔵は、あの時点で、充分に人間だったじゃないか、って。台本にどう書いてあるかは知りませんよ。知りたいとも思いません。ただ、あの所作は間違いなく木村拓哉というひとが発明した所作だと思うんです。
 ぼくたちは日常のなかで、誰かがものを落としたとき、それが知っているひとであれ、知らないひとであれ、拾って渡したりはします。しかし――これはぼくだけかもしれませんが――そのときは、拾って渡すことだけでいっぱいいっぱいになっていて、そのものに対する慈しみのようなものはほとんど持つことができないでいると思うんですよ。あ、落としましたよ、という感覚のほうが優先されている。
 しかしあの場面はそうではないんですね。夏帆さんにとって武蔵は優しいひとだった、という次元には到底おさまらないなにかがあって、それゆえに夏帆さんはその記憶を手放さない。つまり、否応無く心象にインプットされてしまったものがある、ということです。
 落ちた鈴の埃をはらうこと。その、ごく当然に思える行為には、その鈴が夏帆さんのものである、という意識が働いているわけです。つまり木村さんが選び取ったあの所作には、相手を肯定するという意志――もちろん宮本武蔵にとっては無意識の領域に属することですが――があると思うんです。そして、「ものを返す」という行為は、そもそもそうしたものであって、単に優しさですまされるものではありません。言ってみればそれは、覚悟のようなものです。木村さんは、武蔵の精神性を、そのようにあらわしていたと思います。重要なのは、彼があのとき、どのように動いていたか、ということだと思います。
 かつて木村拓哉さんに「演技とはなにか?」と問いかけたことがあります。彼はこう答えました。「ACTIONをPLAYすること」。ACTIONというのは、この作品で言えば殺陣のことばかりを指すわけじゃないんですね。あのような所作――決まり事に従う、ということではなく、そのひと自身が持っている魂の発露としての動きのことです――こそがACTIONだと、ぼくは考えています。

聴こえないものを聴く。
 真木よう子さんが笛を吹きますね。あの笛の音で、武蔵とつながることができるわけです。いい時代だったと思います。武田鉄矢さんが「聴こえないものを聴け」というようなことを言いますが、あの時代のひとたちは、そもそもが、「見えないものを見る」必要があったし、「聴こえないものを聴く」必要があったのでしょう。真木さんにとって笛を吹くということは、恋文をおくるようなことであり、そこに武蔵がいようがいまいが、武蔵の耳に届こうと届くまいと、そんなことは関係なく笛を吹いていたのであろうと推測できます。つまり、想いは「届ける」ためにあるわけではなく、ただ、どうしようもなく「あふれ出てしまう」ものだということです。添い遂げたい。けれども、添い遂げることを目的化して、彼女は笛を吹いていたわけではないでしょう。想いがある。そして、それは成就しなくてもかまわない。そのような笛の音だったように思います。
 当時は、現代のように伝聞が発達していません。つまり、宮本武蔵という剣豪の名は耳にしたことがあっても、ほとんどのひとたちは、その実在を確かめたことはないわけです。確かめる術がなかった。しかし、確かめられなかった、というのはなんと幸せなことだろうと思います。なぜなら「見えないものを見る」ことも、「聴こえないことを聴く」こともできたからです。
 そして、おそらく、武蔵を現実に知っているひとびとにとっても、事態は同じだったのではないでしょうか。彼ら彼女らが、武蔵と共にいた時間はとても短いものです。剣の道に生きる武蔵は、ひとつの場所には留まってはいません。一度別れたら、もうそれっきり、消息がつかめなかったりもするわけです。武蔵は、いまごろ、どこで、どうしているか。それを想像することが「見えないものを見る」ことであり、「聴こえないことを聴く」ことだったはずです。そして、宮本武蔵というひとには、その価値があったのだと思います。

本当の音を鳴らす。
 「じつに、むずかしい」。第2夜で、西田敏行さんと再会した宮本武蔵はそう言います。この台詞だけ、木村拓哉さんは、それまでとは違う発声をしていたように思います。あくまでも比喩になりますが、それまで漢字で話していたひとが、そこだけひらがなで話している。そんな感じがしました。
 「本音」ということばがありますね。ぼくは語源その他にはまったく興味がありませんが、字面だけで考えるならば「本当の音」と読むことができます。「本当の音」って、なんでしょうね。おそらく、それが武田鉄矢さんの言った「聴こえないもの」なのかもしれません。
 ただ、ひとはいつか「本当の音」を鳴らすのだと思います。あるいは、「本当の音」を鳴らしたいと――それこそ無意識のうちに――願っているのだと思います。
 誰のこころにも「鈴」があるのだと思います。大切なのは、その「鈴」が大きいか小さいか、何色なのか、どんなかたちをしているか、そのようなことではないでしょう。ぼくたちは、その「鈴」をどのように「ゆらす」ことができるか。つまり、そういうことなのではないでしょうか。「音色」が重要なわけでもない。「本当の音」が鳴るように「ゆらす」ことができるかどうか。おそらく、ぼくたちはそのために生きているのです。
 巌流島で、宮本武蔵は「半分の円」を描きます。ぼくはあのとき、確信しました。人間は変わらない。おそらく武蔵は、あの円を閉じることはできない。彼は、佐々木小次郎とは違う人間だからです。宮本武蔵は、鈴の埃をはらって夏帆さんに手渡したときと同じ人間だと思いました。
 胸のうちにある「鈴」は変わらない。けれども、その「ゆらし方」は変えることができるし、いつか、どこかで、――ぼくたちが意識していないときに、あるいは、ぼくたちが知らない誰かの耳の奥で――「本当の音」がこぼれ落ちるかもしれない。
 ずっと、耳をかたむけること。『宮本武蔵』の木村拓哉さんは、そのことを教えてくれたように思います。


文:相田★冬二

毎回相田さんの分析は素晴らしいですね。

武蔵の端正な発声を「楷書」「草書」「行書」「画数」「とめ、はね、はらい」で表現するのはしっくりきました。

『既にある「お手本」をトレースするような振る舞いが一切ない。役というものを「己の字」で書き、鼓動を宿らせる。そうして、役と自分自身の生命を一体化するのだ』という部分も。

過去に演じられたお手本を見ながら書く、演技演技した下手な役者は沢山いますが、木村さんは役を本当に生きるから、真実であり自然なんですよね。

『彼の「手書き文字」には、彼独自の呼吸法があり、そこから導き出される濃淡は役によって変幻している』

私は完全に、【彼が織り成す濃淡を嗅ぎ分ける者】ですね。


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