西福寺古墳群
熊本県山鹿市城
チブサン・オブサン古墳を探しに行って遭遇した古墳。
西福寺1号古墳
整備前の墳丘の状況は、その中央部を近世時の切通し道によって断ち切られ、杉林の山の斜面に
僅かな墳丘の盛り上りが認められる程度であった。墳丘北側の道路から見た古墳の高さは3.10m程度であるが、実際認められる盛土の厚さは 1.50mであった。
この一帯はある時期に畑地として開墾されており
段々畑状となっていたが、整備前の試掘調査で盛土の北側に長さ12.50m・幅約1.10m・最大深さ1.00m (最大)の弧を描く周溝の所在が認められ円墳が復元された。
墳丘の中央部が掘り道によってカットされているため内部主体は不明であるが、木棺もしくは箱式石棺が埋納されていたのであろう。
また盛土内に土師器片が僅かに見られる程度で、直接古墳に関連する遺物・副葬品はない。
築造年代ははっきりしないが、古墳時代前期末の可能性が強い。
なお現在の墳丘は調査結果をもとに復元修復をしたもので、墳丘を貫いていた掘り道は園路として残し、古墳の森へのタイムトンネルとして生かした。
西福寺古墳群
この古墳群は、平小城台地の東斜面に所在し、石・大原間の旧道がこの中を通っている。「古代への道」から「古墳の森」にかけて、方形周溝墓や箱式石棺が密集し、古墳時代の一大墓域を形成している。これらの遺跡のほとんどは、風土記の丘整備事業により発見されたものである。
平小城台地の東端の崖下には、戦国期に栄えた中世寺院跡があり、この一帯の字名が西福寺とよばれるため、字名を冠して西福寺古墳群と命名した。主な遺跡としては、方形周溝墓(2基)、古墳(1基)、箱式石棺(12基)などがある。
1号方形周溝墓は盛土がなくなっていたが、土橋は南側にあり、内部主体は木棺であったと考えられる。2号方形周溝墓には盛土が残っており、内部に石棺の棺材が残存し、周溝内から古い形式の土師器(壺)が2点出土した。
12基の石棺は、鍋田石(地元産の凝灰岩)の割石を使用した粗雑なつくりの箱式石棺で、古墳時代前期末頃から中期にかけたものと考えられる。各墳墓は、前期の方形周溝墓が一番高い所にあり、その周囲の一段低い所に箱式石棺群、西福寺1号古墳、さらに低い斜面の裾部に後期のオブサン古墳(県指定史跡)やチブサン古墳(国指定史跡)が位置し、古墳時代における墓制・立地の変遷を知ることができる。