子どもは親を選んで生まれて来る(その1 子どもたちの証言)

子どもは親を選んで生まれて来る(その2 主体となる)

子どもは親を選んで生まれて来る(その3 クリスタルチルドレン)

子どもは親を選んで生まれて来る(その4 レインボーチルドレン)

子どもは親を選んで生まれて来る(その5 キューピット)

子どもは親を選んで生まれて来る(その6 死と向き合う)

 
その8 子育てと霊性に挿入した動画、これを前回もっと補足する予定でしたが、ここで書きます。
 
短い動画で、よくまとめられているのですが、シュタイナーを知らない人にとっては、分かりづらい「シュタイナー教育業界用語」みたいなのが入っているので、少し補足します。
 
子どもには内的に、自分を発展させる力があります。
要するに、「勝手に育つ力」があるということです。
 
はじめての子どもの場合、親はとても慎重になったり、心配したりするものですが、勝手に育つと分かっていれば、そんな心配も不要になります。
ですから、2番目、3番目となって、ほったらかしにされた子どもの方が、のびのびと、もともと備わっていた、育つ力が邪魔されずに育つのです。
一番目はどうしても親が干渉し過ぎてしまいます。
 
しかし、兄弟のなかで、生まれる前に順番を決めてきているので、一番目の子も、それを覚悟で来ているのかもしれません。
 
私は5人の子どもがいて、ひとり、ふたりと、家を離れて行き、今は末っ子一人です。
末っ子は離婚した時には3歳だったので、母親からの子育てが一番少ないのです。
しかし、長女が母親のように、世話をしてくれて、母親の愛情の不足を補ってくれました。
そして、今は子どもがひとりだけになって、一人っ子のような環境です。
自然の摂理というか、うまくできていると思います。
 
 
 
これは、以前に聞いた、世界の優秀な科学者たちの子ども時代の話につながります。
ある方が、世界の著名な科学者に、子ども時代にどのような環境で育ったのかを調査した結果、三つの共通点がありました。
 
1.自然豊かな環境で育った。
2.自分の興味を持ったことをとことん追求できる環境があった。
3.信頼できる大人(親とは限らない)が、少なくとも一人はいた。
 
この中で、信頼できる親というのがここで云っていることと共通しています。
ぐれてしまった子どもが立ち直る際にも、信頼できる大人との出会いが、その後の立ち直りに大きく作用するとも言われています。
 
 
その、信頼できる大人とは、自己育成している大人です。
周囲に合わせたり、単にマニュアル通りのことをするのではなく、自分で考え、自分で判断する大人です。
 
シュタイナー教育をする教師には、この自己育成する教師像が求められています。
ですから、シュタイナー教育では教科書がなく、自分で授業を考え、組み立て、テキストなどを見なくても、自分のものとした内容を、自分の言葉で語ることが求められます。
 
そのような教師や大人がひとり存在し、子どもの勝手に育つ力を信頼していることが、子どもにとって、理想的な環境なのです。
 
子どもは自分の人生のシナリオを描き、親を選んで、生まれてきます。
つまり、自分の運命、人生の課題を、背負って地上に降りてくるのです。
その自分が歩む人生に対して、それを邪魔されたくありません。生まれた目的を全うしたいのです。
ですから、それを見守ってくれる親を選んできたのです。
親も、子どものときはそうであったはずです。
しかし、人生を歩んでいくうちに、そのことを忘れ、社会の規範に従い、自分の考えや生き方を失いはじめます。
それは、子どもが望んだ親の姿ではないのです。
共に、自分の人生の課題に対して、歩んでいく同士でありたいのです。
そこに信頼ができるかどうかのキーがあります。
人生の課題に向きあわず、周囲の環境に流され、自分を見失っている大人は人間として信用できません。もしも親がそのような態度であるとき、子どもはそれを修正させるために、様々な問題を起こし、生き方を考え、変えさせようとするのです。親子の問題がこじれていくのは、その行き違いのためです。
 
 
畏敬の念
ふつうの生活の中にはなかなか出てこない言葉です。
これはどちらかと云えば、人間が神仏に向かうときの言葉です。
仰ぎ見るような、畏れ多いと感じ、敬うような状態です。
 
それを、子どもに対して、感じなさいというのです。
なぜなら、子どもの中に、神様がいるからです。
自分の人生のシナリオを描き、親を選んで生れ、身体を成長させ、人生を自分自身で歩んでいく力が内在しているからです。
 
親が子どもにそれを感じ、自己育成して見守る存在であるとき、子どもも親に対して、畏敬の念を抱きます。
シュタイナー教師は、子どもの前でそのような存在であることが要求されています。
親や教師が、仰ぎ見るような存在であることで、子どもは内的に安定します。
それは自分が求めた人生を歩めると確信できるからです。
ですからそれがないと、不安になります。
子どもを不安にさせるのは、周囲の大人の中に、仰ぎ見る存在がいない時です。
ですから、破戒的な行動に出て、仰ぎ見る存在が現れるように周囲をかき回すのです。
 
子育ての仕方を間違うから、子どもは非行に走るのです。
それは躾けや甘やかしの問題ではなく、
子どもは人生のシナリオを描き、親を選んだ主体的な存在であると認めないためです。
子どもは神様の力が内在している存在だ。それが子どもと向き合う原点になければなりません。