子どもは親を選んで来る(その1)の続きです。
夏目漱石の「門」に「父母未生以前本来の面目」という言葉が出てきます。
これは当ブログのタイトルになっています。
「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。「
宗助には父母未生以前という意味がよく分らなかったが、何しろ自分と云うものは
禅寺の老師から公案を授けられたのです。
「父も母も生まれる前に、お前は本来何者であったのか?」
と問われ、自問するのです。
唯物論的に考えれば、父と母の性行為で受精してから肉体が形成し、そこから始まるのが自分です。
しかし、その自分の肉体は死と共に、無になります。
そこに自分の意志が入る隙間はありません。生まれる前がゼロで、死後もゼロです。
結果的にゼロからはじまり、ゼロに帰着してしまうのであれば、その間にどれほどの意志がどれほどもものを積み上げようとも、結果的に生きたことに意味がありません。
もちろん、何かの物や実績が残るかもしれません。しかし、それらはゼロとなった自分とはもはや関わりのないものです。
子孫を残したとしても同じです。
そして、子どももまた、ゼロからはじまり、ゼロに帰着するだけの仮のものであり、その仮のもののために苦悩だけが体験されるというわけです。
これが唯物論的思考の行き着く人生観です。
「父母未生以前本来の面目」を問うことは、そのマトリックスを突破せよということなのです。
マトリックスを突破し、自分を縛り付けていた、唯物論という鎖を解き放つとき、肉体を持つ前の意志の存在が浮かび上がるのです。
その意志の存在を認めるかどうか、認めたときには、世界がひっくり返るのです。
自分の中に生まれ死んでいく肉体の他に、意志する主体を認めることは、世界の主体となることを意味します。
唯物的思考では、自分の意志以外のものによって生まされ、生かされてきたと考えざるを得ません。世界の客体でしかなく、すべてに依存した存在です。
それに対して、生まれようと意志してこの世界にやって来たということは、自らの責任において生きるということに他なりません。
そして、出合う人や出会う出来事は全て、それを体験するために、自らが選び、自らに課した、課題であるととらえた時、全ての出来事が自らの責任であり、自らが必要とする体験となるのです。
唯物的思考による客体である意識と、自らが選択し、課した自己責任としての主体である意識では、生きるという意味において、まったく別の観点、人生観をもたらすことになります。
しかし、それを死後に気づいても遅いのです。
いま、生きているうちに、そのことに気づき、人生の意義をとらえ、自分の魂の要求に合わせた生き方をしてこの世を去るべきなのはないでしょうか?
子どもたちの中で、自分が生れる前の記憶があるのは、どういう意味なのでしょうか?
子どもたちもいずれ、それらを忘れていきます。
忘れるということは、自らが描いたシナリオを一度忘れ、真の体験をするために必要なことなのです。
シナリオの先が分かっていては、真の体験になりません。
映画のネタバレになってしまうので、本当の楽しさを味わえません。
それが普通は、生まれる前の記憶が失われる意味です。
しかし、その記憶を持って生まれて来る子どもたちが増えています。
それは新しい時代がはじまり、新しい意識の子どもたちがやって来ているということです。
その子たちをクリスタルチルドレンと呼んでいます。
それまでにもインディゴチルドレンやレインボーチルドレンと呼ばれる子どもたちがいました。
これからの地球はクリスタル化するので、クリスタルチルドレンがやって来るのです。
私たちは輪廻転生し、魂を磨き、進化の道を歩み続け、宇宙の愛の法則に従ってきました。
そのために、天の計画、自らの生まれる前の意志、シナリオを忘れ、体験する必要がありました。
しかし、これからの時代は、その天と地が分離した時代から融合した時代へと向かおうとしているのです。
計画を立てている理念界とつながりながら、地上を天国に変えていく時代になるのです。
そのために、これまで、地上を支配してきた、ディープステートたち、一握りのエリートたちの役割が終わったのです。
もはや三次元マトリックスで縛りつけて、体験させる必要がなくなったのです。
それが、いま、私たちが目撃していることです。
幼子を抱く、マリア様のイメージは
その年に生まれて来る子どもたちの象徴です。
その年に生まれて来る子どもたちの魂は、クリスマスにやって来て、地球の上空で生まれる時を待ちます。