覚醒と絶対肯定という記事を少し前に書きました。

 

 

この「絶対肯定」という考え方は、自分軸で生きていくうえでの、最大のメソッドです。

 

「父母未生以前本来の面目」というのは、夏目漱石の「門」で、主人公の宗助が禅寺の導師から授けられる公案です。

父も母も生まれる前に、お前は何者であったか?

と問うわけです。

 

なぜ、それを問う必要があるのでしょうか?

 

もしも、それを問わなければ、私たちは「生まれて死ぬまで」の有限の存在、いわば肉体ありきの唯物的存在に堕してしまうからです。

 

その結果、自己の責任は放棄され、他力本願となり、他人軸で生きるようになります。

つまり、私は親も国も時代も選ばず、「たまたま」ここに生まれ「させられた」存在となり、そもそも責任を負う、担える主体ではなくなるのです。(自己放棄)

 

そして、全てのものは死んでしまうという肉体の消滅によって、意味を失います。いずれ意味を失いものに、どんな価値があるというのでしょう?

 

つまり、父母未生以前の「自分の存在」を認めない限り、私たちは唯物的な生き方、他力本願的な生き方に堕してしまうのです。

 

それに対して、今度は父母未生以前に「自分の存在」を認めたとしてみましょう。

するとどうでしょう?

父も母も肉体的に存在していない時に存在していた自分とは、生死を超えて存在することになります。

 

つまり、生まれる前の自分の存在、死後の自分の存在を認めることになるのです。

それを魂とか霊とか、どのような名称で呼ぶかは、ここでは問題ではありません。

仮にそれを魂と呼ぶことにします。

すると、魂はあるときに肉体に宿り、ある時に肉体から離れるという存在であり、肉体と魂という二つの自分の存在を認めることになります。

 

その場合に。一方の肉体的存在とは、親から子へと受け継がれる遺伝子のリレーです。どの肉体も、親が存在しない肉体はありません。そして、その親の数たるは膨大な数になります。

それらの遺伝子のランナーとして、次にバトンを渡すという肉体的使命を担います。もちろん、次にバトンを渡さない、最終ランナーになることもできます。

しかし、膨大な先祖の一人でも欠けると、今の肉体存在としての自分は存在しないという、きわめて膨大なストーリーの結果として、自分の肉体が存在しているのです。

 

一方で、肉体という乗り物を乗り換えつつ、魂を磨き、進化しようとする肉体を超えた存在としての魂があります。それは、進化を担い、愛をより発展させるために、修業を重ねていく姿です。

前世を省み、その弱点を自らが理解し、それを修正し、より愛を発展させるために、自らに課題を与え、その課題を人生という物質的肉体で体験し、その成果を霊界に持ち帰るというわけです。

そして、その人生の課題を霊界の霊的存在の助けを借りながら、自らが設定し、親を選び、国や時代を選び、出合う人、体験すべき出来事の一連を人生のシナリオとして生まれる前に自分自身が描くのです。それが「自分の意志」であり、自分の軸となります。

 

私はこの肉体と霊の二つの軸を、縦軸と横軸ととらえ、その交点に今の肉体的存在に魂が宿った自分がいると考えるのです。

この縦軸と横軸こそが、キリストの十字架が示す意味であり、磔になったキリストとは、その交点にいる自分、そしてその自我を示しているとみなすことができます。

 

この前提によって、私たちが人生を絶対肯定するシチュエーションが生じるのです。

なぜなら、人生のどんな出来事であっても、自分が生前に描いたシナリオであり、魂の成長のために自分が課した課題です。

そのようにとらえることによって、人生で遭遇する様々な出来事や体験は、自分にとって必要であり、あらかじめ設定された、自らの体験すべき課題であり、その課題を通じて、必ず自分はそれを乗り越え、乗り越えることで、成長し、魂を磨き、人生の意味を一つずつ、収穫するととらえることができるのです。

 

そのように考えると、過酷な課題は自らがチャレンジ精神を旺盛にした課題であり、魂の成長レベルでは準備が整っているので、あえてそのような課題に自分をチャレンジさせたととらえることができるのです。

 

すべての人生体験が、「他人のせい」ではなく、「自分自身の意図と責任」に帰すことができるのです。つまり、人生の課題や体験を全て肯定することができるのです。

否定し、逃げ回ることに意味はありません。むしろ果敢にチャレンジし、乗り越え、自らを成長させるハードルとして、意欲的に向き合うことができるようになります。

 

全てがそのような肯定すべき体験であるならば、私たちはまさに、絶対肯定の人生の中を生き、肯定された地球天国の中を生きることができます。

死後の架空の世界に天国があるのではなく、自らが体験している世俗こそが、修業の場であり、学校であり、天国なのです。

 

「門」の宗助が禅寺を出て、世俗に戻っていくことにこそ、夏目漱石の厭世主義が、絶対肯定へと転換する逆説があるのではないでしょうか?

 

 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに、人の世は住みにくい」

これは夏目漱石の「草枕」の冒頭に出てくる名句です。

世俗の人生の課題を言い得て妙です。

そのあえて住みにくい人の世に、私たちは体験しにやって来ているのです。

それを認識し、住みにくい人の世さえ、絶対肯定してしまうことで、私たちは最強になれるのです。

 

 

もう一度十字架のキリストのイメージを借りるならば、縦軸の継承された肉体と横軸の輪廻転生する魂の交点に磔にされ、まさに苦悩と戦うキリストの姿に人生の愛を発展させる秘密があります。

これがゴルゴダの秘儀の示すところであり、絶対肯定=愛 の象徴です。

 

そして、キリストが復活することを通じて、肉体を超えて昇華する魂の姿があります。

キリストは「私は神の子だ」と云いました。

しかし、それはキリストだけが神の子だと言ったのではありません。

「私は神の子だ」という手本を示し、私たちも神の子であると示したのです。

 

神の子でない人間は存在しません。

それこそが絶対肯定です。