覚醒というのが、どこまでの段階をいうのか、それは人それぞれだとおもいます。

初期の段階での覚醒ということでは、下記の動画の5つの段階というのが、参考になるかもしれません。

 

 

1~2年前と比べると現実が楽になってきた。

 

私もそう感じます。

楽になってきたと同時に、楽しくなってきました。

特に仕事ですが、

それ以外でも家事も楽しいし、

地域の役員やPTAの仕事も楽しいです。

これらの仕事は、数年前では絶対にやりたくない仕事でした。

そして、一番避けてきたことが、やって来たということで、これはもう、こなすしかないと、自分に言い聞かせて取り組んできたのですが、やってみると意外と楽しいです。

 

 

外側の出来事を無理やり変えようとしない

これは、私にとっては、難しい課題だったかもしれません。

ものごとを批判したり、何かアクションを掛けなければ、自分が怠慢なように感じていたのです。

しかし、そうではなく、たとえば、ワクチンを無理やりやめさせたりするのではなく、打ちたい人は打てばいいし、推奨したい人は推奨すればいいと思えるようになったのです。

それは投げやりでそう思うのではなく、それぞれが抱えているカルマや課題に自分が介入できないと思うようになったのです。

しかし、自分はブログで、自分の思うことを書き連ねています。

それは読みたい人は読めばいいと思って書いています。ここにたどり着いたということは、それなりに関心があってのことですから、縁があるのです。

そんな風に考え、縁があるかないかだと思います。

 

一喜一憂しなくなる

一喜については、それほど、楽しいことというのは、ないので、一喜することはそうないのですが、一憂については、ネタは山ほどあります。

しかし、そこに没頭するよりも、そこから一歩、離れて眺めるようになっています。

特に、今では天使側と悪魔側という二元論的な戦いとしてスピリチュアル界では話題になりますが、それについても、一歩引いて見るようになりました。

同時に、私は悪魔側にも、弁護の余地があると思い、神が悪の存在を許す理由について考察しています。

 

ねばならないといった思考の枠が外れている。

「ねばならない」というのは、若い青年期の思考の特長であり、全学連などの主張に傾向が見られます。

「ねばならない」というのが主義、主張から、ともすれば強制になってしまうなら、自由を求めて、自由に枠をはめることになってしまうでしょう。

私も若い頃は「ねばならない」文章をたくさん書いていました。

でも、今はそういう書き方はしません。

しかし、むしろ、心的事実として、断定する書き方をあえてしています。

それには抵抗を感じるひとも、中にはいるかもしれません。

しかし、私はあえて断定することの重要性を表現しているつもりです。

 

 

問題を他人のせいにしない

これはもっとも基本的で重要なことです。

このブログで書いていることは、「父母未生以前本来の面目」がテーマです。

父も母も生まれる前に、お前はどこに居たのか、何ものだったのか?

と問われるわけです。(禅の公案)

そして、「私は生まれる前に、自分の人生のシナリオを自分自身で描き、親を選び、国や時代を選んで、自分の意志で生まれて来た」というのが、この公案に対しての私の問答です。

つまり、産まされたのではなく、親も国も時代もあてがわれたのでもなく、全てを自分の意志の選択として、自らが出した課題としてとらえることで、はじめて自分の存在を自分に意志決定によって肯定できるのです。

そこからひも解いていくならば、全ての出来事は自分が自分に課した課題ということになり、それは自分の魂を成長させるための課題であり、自らが出した課題ゆえに、解決できない、乗り越えられない課題はないと断定するのです。

これが仏教的に言えば、絶対肯定です。

性善説でも性悪説でもありません。絶対肯定です。

先ほどの、私が断定する理由もここにあります。

私が意思決定の主体だから、断定するのです。

そして、断定することで、私の絶対肯定を証明し、その立場を貫いているのです。