薩長同盟締結の真実
坂本龍馬と「薩長同盟」について、京都霊山歴史館の木村武仁先生の講演がありましたので、ご紹介します。木村先生は、当時、龍馬の本を出版される前で、頭の中は龍馬だらけだったそうです。
まずは10年ほど前のNHK「堂々日本史」という番組のビデオから始まりました。かなり、衝撃的な内容で、そういえば、この番組を見た覚えがあるような・・・。最も、放映時はボーっと眺めていましたが、今回はじっくり、画面を見つめながら、視聴しました。
さて、その衝撃的な内容とは、龍馬=薩摩藩のエージェント説で、ご存知の方もおられると思います。つまり、龍馬が自発的に走り回って、薩摩と長州を結びつけたという従来の説ではなく、薩摩の命の下、龍馬が動いていたという説です。(確かに、そういう一面もあるのでしょうけど。)
最近、島津家の古文書が整理されたりしてきて、龍馬の薩摩側からの新しい見方、もしくは見られ方が出てきているようです。
小松帯刀は大久保一蔵への手紙で、当初、龍馬を評して、「浪人体の者を航海の手先に使ったらどうか。」と言っています。
西郷は、鹿児島にやってきた龍馬を、「お国のために命を捨てようとしてた人」と評しています。
さて、薩長同盟ですが、何日に成立したかが、微妙なようです。
桂小五郎は、慶応2年1月8日に入京します。それ以前に、桂は下関で西郷を待っていたのに、すっぽかされて以来、おかんむりで、京で同盟の話し合いのために西郷と会うのを渋っていたようです。しかし、幕府の長州征伐間近で、焦っていた高杉や井上にしてみれば、何とか桂を京に行かせようと、藩命まで持ち出します。桂の入京の理由は、一応、「事情探索」でした。
このとき、桂は品川称次郎や田中光顕、薩摩の黒田清隆(桂を呼びに来ていたそうです。)らとともに、結構、大人数で京に来ています。
この時期、長州は第1次長州征伐がからくも終わったものの、朝敵になりそうでもあり、立場的には弱いです。
京都薩摩藩二本松藩邸では、家老の小松や桂久武らが待っていました。桂小五郎は1月8日に入京し、龍馬は20日に入京します。龍馬は同盟が結ばれていると思っていたのに、全然進展していず、桂は帰国するつもりでいました。薩摩藩邸で酒宴はあるものの、同盟の話は出てこなかったのだそうです。
長州藩の立場は弱く、薩摩からも同盟を切り出してこない・・、長州は藩の面目のために頭を下げられない。桂はあきらめて、龍馬に礼を言うために、龍馬が入京するのを待っていたのだそうです。
龍馬は、
「同盟は日本国を救うためのもの。藩の面目は、言っておれない。」
と、桂にはっぱをかけます。
西郷の方にも、薩摩藩の方から同盟を切り出すように、説得します。そこで、龍馬の説得に応じた両名が同盟を締結したのが1月22日、というのが定説だそうです。
ただ、龍馬が入京以前の1月18日にすでに、締結されていたという説もあり、それだと龍馬の活躍が微妙に変わってきます。21日には大久保が薩摩に帰っているので、これだと、18日の締結説にあてはまりますね。
薩摩藩家老、桂久武の当時の日記が残されていますが、そちらに龍馬の活躍の記述は無く、龍馬が1月24日、寺田屋で襲われたことのみが記されているそうです。