若松城(鶴ヶ城)

 

  

 室町期の若松城城主は蘆名氏でしたが、戦国期末になってからは、蒲生氏郷が城主となり、その後、120万石で上杉景勝が入城しました。関ヶ原の戦い後には、松山から移転した加藤嘉明が城主となりました。その後、2代将軍徳川秀忠の庶子、保科(松平)正之が城主となり、それ以降、明治初期まで城主は会津松平家でした。

 幕末期の城主は会津中将松平容保で、家訓により京都守護職を拝命し、幕末期京都政局の主要人物の一人となりました。

 

  

 慶応3年12月、容保は大坂城にいました。翌1月の鳥羽伏見の戦い後、徳川慶喜に引っ張られて、たまたま大坂天保山沖に停泊していた開陽丸に乗船し、館長榎本武揚は陸に残したまま、船は出港し、江戸へと帰還しました。大坂城内に居た会津藩士たち、京都見廻組、新選組も、順次、江戸へと戻っていきましたが、各々、江戸帰還には苦労したようです。

 慶応4年3月には会津藩士たちは、全員会津領内へと引き上げ、恭順を示すも新政府に認められず、8月には会津戦争が始まりました。1か月の籠城戦の後、9月22日、開城しました。新政府軍の砲撃でも天守閣は崩れず、ぼろぼろになった写真をご覧になった方も多いかと思います。この会津攻防戦が慶応4年1月3日に鳥羽伏見で始まった戊辰戦争の中で、最も激戦であったことは間違いないでしょう。

 

  

 再建された天守閣です。内部は会津の郷土資料館になっています。

 

  

 本丸跡はきれいな芝生広場になっています。今回は、城内にある茶室麟閣を訪問しました。

 

  

 豊臣秀吉に切腹を命じられた千利休ですが、その死後、会津城主蒲生氏郷が利休の息子小庵を会津にかくまい、千家の再興を願いました。その折に立てられたのが、この麟閣だと伝わります。小庵は後に京都へ戻り、千家を再興し、千家の茶道が今日に伝わります。