旧約聖書 申命記 5章16節
「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」
昨日からの続き。
イスラエルの民を奴隷状態から救い出した後、神様は民に生きる上で大切にするべきことを伝えました。
「あなたの父母を敬え」はその一つ。
昨日問いかけさせていただきました。
「あなたは、あなたの父母を敬っていますか?」
「『敬う』ってどうすることでしょう?」
私自身は、決して子供たちが「敬う」事の出来るような親ではありませんでした。
この場合、「敬う」は「尊敬する」というような意味ですが、神様が言われた「敬う」ってどういう意味なのでしょう?
イエス・キリストが冒頭の言葉を引用して語られた箇所があります。
「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
「敬う」を自分に都合よく解釈して信仰深いようにふるまっていた人たちをイエスが批判しています。
ここで、イエスは「敬う」という言葉(ギリシア語)を使ってこんなことも言っておられます。
「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネによる福音書 12章26節)
「大切にしてくださる」というのが「敬う」と同じことば。
問題は、「誰が誰を大切にする(敬う)」と言っておられるのかということ。
父がその人を・・・
「父」は「神様」。
「その人」は「人」。
なんと、全知全能の方、あらゆるものの創造者、あらゆるものを保ち導いておられる神様が、人を「敬ってくれる」とイエス・キリストは言っているのです。
人が神様を「敬う」のが普通の考え。
なのに、神様が人を「敬う」なんて…
「敬う」ってどういう意味でしょう?
冒頭の聖書のことばにある「敬う」の原語ヘブライ語の意味は、「重くする」「重く扱う」。
日本語の「敬う」は、身分や資質が優れている人、あるいは単に立場が上の人を見上げる(こちらがへりくだらされる」というようなイメージ。
下手をすると、ただハイハイと従うことを求められるような…
でも、聖書の「敬う」は意味が違います。
その人の存在を「重く受け止める」「重く扱う」。
ただハイハイと従うことにはならない。
相手が本当に大切なら、間違っていたら指摘することが必要でしょう。
逆に、どんなに小さなことでも、素敵なことをしていたらそれをきちんと認めてほめる。
その意味だからこそ、親が子を「敬う」ことができるし、神様が人を「敬う」こともできる。
そして、そうされた時、子どもは親を、人は神様を「敬う」気持ちにさせられる。
「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。
目覚めてわたしを知ることを。
わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」(エレミヤ書 9章23節)
神様は、人を宝物として愛し続け、ブレることのない正義と同時に無限無条件の愛で支え導き続けて下さっています!
宝物だからこそ、重く見ているからこそ、忍耐強く、一人一人の魂に語り掛け続けてくださっているのです。
「お前はわたしの宝物。だから、あらゆる命を大切に宝物として生きよ!」
感謝して、私たちも神様と人を「敬う」生き方を神様に助けてもらいながら続けていきましょう。
「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」
昨日からの続き。
イスラエルの民を奴隷状態から救い出した後、神様は民に生きる上で大切にするべきことを伝えました。
「あなたの父母を敬え」はその一つ。
昨日問いかけさせていただきました。
「あなたは、あなたの父母を敬っていますか?」
「『敬う』ってどうすることでしょう?」
私自身は、決して子供たちが「敬う」事の出来るような親ではありませんでした。
この場合、「敬う」は「尊敬する」というような意味ですが、神様が言われた「敬う」ってどういう意味なのでしょう?
イエス・キリストが冒頭の言葉を引用して語られた箇所があります。
「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
「敬う」を自分に都合よく解釈して信仰深いようにふるまっていた人たちをイエスが批判しています。
ここで、イエスは「敬う」という言葉(ギリシア語)を使ってこんなことも言っておられます。
「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネによる福音書 12章26節)
「大切にしてくださる」というのが「敬う」と同じことば。
問題は、「誰が誰を大切にする(敬う)」と言っておられるのかということ。
父がその人を・・・
「父」は「神様」。
「その人」は「人」。
なんと、全知全能の方、あらゆるものの創造者、あらゆるものを保ち導いておられる神様が、人を「敬ってくれる」とイエス・キリストは言っているのです。
人が神様を「敬う」のが普通の考え。
なのに、神様が人を「敬う」なんて…
「敬う」ってどういう意味でしょう?
冒頭の聖書のことばにある「敬う」の原語ヘブライ語の意味は、「重くする」「重く扱う」。
日本語の「敬う」は、身分や資質が優れている人、あるいは単に立場が上の人を見上げる(こちらがへりくだらされる」というようなイメージ。
下手をすると、ただハイハイと従うことを求められるような…
でも、聖書の「敬う」は意味が違います。
その人の存在を「重く受け止める」「重く扱う」。
ただハイハイと従うことにはならない。
相手が本当に大切なら、間違っていたら指摘することが必要でしょう。
逆に、どんなに小さなことでも、素敵なことをしていたらそれをきちんと認めてほめる。
その意味だからこそ、親が子を「敬う」ことができるし、神様が人を「敬う」こともできる。
そして、そうされた時、子どもは親を、人は神様を「敬う」気持ちにさせられる。
「むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。
目覚めてわたしを知ることを。
わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」(エレミヤ書 9章23節)
神様は、人を宝物として愛し続け、ブレることのない正義と同時に無限無条件の愛で支え導き続けて下さっています!
宝物だからこそ、重く見ているからこそ、忍耐強く、一人一人の魂に語り掛け続けてくださっているのです。
「お前はわたしの宝物。だから、あらゆる命を大切に宝物として生きよ!」
感謝して、私たちも神様と人を「敬う」生き方を神様に助けてもらいながら続けていきましょう。