旧約聖書 申命記 5章16節
「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」

イスラエルの民を奴隷の苦しみから一方的に救い出してくださった神様。

「救っておいて」から、神様は自己紹介を始められました。

“~したら”、あるいは、“・・・をやめたら”「救ってやる」といういう方ではなかったわけです。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(6~7節)

「私」が、あなたたちを救い出したもの。
そして、「私」こそが神、全能者。
救出されるためになされた驚くべき奇蹟の連続で分かるでしょう。
私があなたたちの命も創造し、導いている。
それを教えたあなたたちには、わたしの願いどおりに生きてほしい。
私以外のものを決して神としてはならない。
なぜなら、それらはあなた方を私(愛)から引き離していくから・・・ というような感じで話し始められました。

冒頭の言葉はその一部。

「あなたの父母を敬え。」

あなたは、あなたの父母を敬っていますか?

「敬えるわけがない!」とか思ってませんか?

ところで、「敬う」ってどうすることでしょう?

「親の言うことが聞けないのか!!!」とか上から目線で自己中心的でワガママな考えを暴力的に強制してくる親(私の父、そして母、そして私自身もそうでした)を、子どもは「敬う」ことができるのでしょうか?

ここで、イエス・キリストがこの言葉を用いられたことがあります。

「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』 イエスは言われた。『イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
“この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。” あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。』 更に、イエスは言われた。『あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、“父と母を敬え”と言い、“父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである”とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。“もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ”と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。』」(マルコによる福音書 7章1~12節)

信仰の指導者たちが「敬う」を自分勝手に解釈していたようです。

さて、「敬う」ってどうすることでしょう?

続きは明日。