「あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。御名を愛する者たちのためにあなたが決めておられるように、私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。私を人のしいたげから贖い出し、私があなたの戒めを守れるようにしてください。御顔をあなたのしもべの上に照り輝かし、あなたのおきてを教えてください。私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです。」
詩篇119篇129-136節
口がある、と言いますか話すか、話すことができるというのは本当に感謝なことです。その口で誰かに思いを伝えたり、励ましたり、そうして支え支えられ、私たちは生きている、本当に感謝ですね。ことばが与えられたことも然り、もしことばがなかったらと思うと大変ですよね。人は偶然できたのではなく、神様がその思いを込めてつくられた、その中に口を、ことばを授けられたのは、まさにそのコミュニケーションをもって互いに愛し合い、支え合う。まあ残念ながらそのことばで逆に人を傷つけたり罵ったりと、残念なことに使われることもあるのが悲しい所ですが。それはそれとして声を掛け合う、って相手のことを気にかけているという事ですよね。言われているうちがはな、言われなくなったら終わり、なんて言いますが、神様は私たちに語りかけてくださり、導いて下さる、支えてくださり、生かして下さる、何と感謝なことでしょうね。神様から離れ好き勝手に生きる私たちを見捨てることなく、むしろ私たちを救うために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった。終わらせるのではなく、あなたをご自身のもとに招くために。こんな方が今日も私たちに語りかけ、また導いて下さっている、何と感謝なこと。今日私たちはこの神様の愛を受け、またことばとことば、宗教的な関係ではなく、いのち溢れる関係に生きようではありませんか。
ということで紀元前に生きていた様々な人が、それぞれの時代にあって、辛い時も元気な時も、神様に触れられて色んなことを目撃し、知り、また体験し、ときには預言を受けながら励まされていった中でうたった詩、そうしたものをまとめた詩篇119篇の17段目を見ていきたいと思います。この詩はおそらくバビロン捕囚期を生き抜き、解放されて後、その間神様の素晴らしい愛、恵みに生かされ、支えられたことを覚え、帰還後、イスラエルの民にこの神様に立ち返ろう、と民に訴えていた学者であり歴史家であるエズラが、彼らがわかりやすいようにいろは歌のヘブル語版的な感じて詩に残したもの、と考えられています。彼が神様に触れられたその恵みの数、その日々はとても数えても数えても数えきれないもの、抑えきれないほどの喜びに溢れ、止めることができなかったことがこの176節という長さに現れているのかもしれませんね。
神様は私たちにそれほどに豊かに触れてくださっている、宗教的なイメージを神様、というと持たれるかもしれませんがとんでもない。しかし、神様はその全人格(神様だから神格?)をもって私たちにその愛を現して下さるのです。それはここまで見てきた通りです。これまでを振り返りますと、私たちを幸いにしたいという思いが神様の強い意思が1文字目のℵ(アーレフ)から現れ、2文字目ב(ベート)、聖く、新しくしてくださり私たちの内を満たしてくださる、その神様は3文字目、「ג」(ギメル)、私たちの重荷を背負い、良き相談者となって私たちを導いて下さる、だからこの御言葉から目を離さず離れ迷い出ることがないように、4文字目、「ד」(ダーレト)、神様が私たちに備えられた転換点を備えられているから、その道を神様に信頼して歩む、その中に5文字目ה(へー)、神様の霊が働かれているから、これをしっかりと見よ!そこに6文字目「ו」(ヴァヴ)、交換不可能な神様の確かな愛が、私たちを導き、全てを変える神様のすばらしさがある、7文字目「ז」(ザイン)、力あるみことばの剣、いや神様ご自身が全てを変え、8文字目ח(ヘット)、神様の柵、家族の中に、親密な交わりの中に入れようと招いて下さっている、9文字目טוֹב(トーヴ)、包んでくださっている、善なる神様が善をその10文字目、י(ヨッド)力強くも優しい御手をもって、11文字目כ(カフ)、手のひらのように私たちを優しく包み、抱きしめ、善いもので満たし、あなたを覚える12文字目のל(ラーメド)、羊飼いの杖を持つ羊飼いなる神様がその愛で導きながら、13文字目מ(メーム)、私たちが生きるに必要な、渇くことのないいのちの水を備え、私たちのうちに流れ込ませ、14文字目נ(ヌーン)、芽を芽生えさせ、実を結ばせて下さる、そんな神様が今日も私たちの隠れ場、盾となり、15文字目のס(サーメフ)、支え、支援し守られる、16文字目のע(アイン)、その御目を私たちから離さず、注ぎながら、その愛を向けてくださっているわけですね。
後半を見ると、もう神様の御姿そのもの、といいますか、神様の姿は目には見えなくても、まるでおからだがあるように感じるほどに神様が働かれていることがよく見えてきますね。実は↑の17段目にもそれが現れています。17段目で詩人はさらに続けて、「あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」とさらに続けて歌います。
詩人は神様のさとし、語られることを求めます。この神様のことばが扉を開き、光が差し込まれ、私たちのいのちに、日々が変えられる、いのち溢れるものになるんだ、と。世の様々な自分に合いそうな言葉だったり、甘い甘言でもなく、世の常識でもなく、神様のことば、これにすがりつくのです。
ところで、いつもの余談になりますが、この17文字のפ(ペー)は、「口」を現す文字と考えられています。口を横から見たような形に見えるからでしょうか。そこから「話す、宣言する、息、啓示、神様が語ること、人が応答すること」という意味を持つようになったそうです。そう、この段の鍵は「口」なのです。16段目で神様がその御目を注がれ守ってくださっていることを見ましたが、神様はさらに語られる神様なんですよね。どうも日本にいると、寺やら神社やらのイメージで、神様は語らない、見守っているだけ、というイメージがついてまわるのかもしれない。16段目の「目」の話だって、結局見ているだけなのでは?と思われたかもしれませんね。でも、神様はただ黙って見守っているだけではなく、語られる神様なのです。
それがどうしたの?と思うかもしれませんが、相手のことを気にしていないなら語りませんよ。よく言われているうちがはな、言われなくなったら終わり、なんていいますけど、神様はあなたに語られるのです。でも、考えてみてください、人と人の関係でただあれしてこれして、とかそういう話だけではなく、普段あった事や自分の思いなども語り合うでしょう?ただ荒れしなさい、これしなさい、ではなくあなたと話される、ある意味では人格(神様だから神格?)ある関係をもとうとしてくださるのです。さっきの「口」ということばに「話す」という意味があることを見ましたでしょう?神様は教える、とかそういう事を超えて「話す」方なんです。優しく話して下さる、語りかけてくださる。祈っている時に優しくささやいて下さる事もあったり、落ち込んでいる時、そっと触れて語りかけてくださることもある。
もう一つ気になる意味がありますね、「息」です。聖書を少しかじったことがある方なら聞いたことがあるかもしれませんが、この息は神様の霊、という意味合いも持っています。まあもちろん、口から吐き出される息、とも言えないこともないのですが。でも、それだけではないんです。神様の口から出る息、霊、それによって私たちは生きるのです。人が創造された時、神様は神様の霊を吹き込んでくださったことによって、人は生きたものとなった。神様のご意思によって私たちを生きたものにしよう、とご自身の霊を吹き込んで生きたものとしてくださったのです。
そう、神様がなぜ「話」されるのか、語られるのか、導かれるのか、教えられるのか、宣言されるのか、それは私たちに生きてほしい、生きたものとなってほしい、それが神様の思いなのです。そして↑であるように、「あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」と、奇しい、人の理解を超えた、不思議なこと、驚くべきことをなされる。語られたことがむなしくかえってくることがないよう、確かにその語られたことを成し遂げてくださる、神様の意志を実現させて下さるのです。私たちとの関係を閉ざすのではなく、開いて下さり、光を差し込ませてくださり、わき前のない私たちにさえ神様の愛を惜しむことなく与えてくださるのです。
神様はイスラエルの民に、またイエス様を通して私たちに、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と語られました。もちろんパンも必要です、「だけで」とある通り。でも、神様はもっと必要な、私たちが生きるために必要なすべてをその口から語られ、また実現してくださる、その恵みを注いでくださるのです。神様の口から、ということは、そのご意思がなければ、それこそこの詩にある通り、神様が取を閉ざして私たちを締め出したりすればそれはできない、しかし神様は私たちに生きてほしい、とその戸を開いて下さったのです。戸、云々を超えて、神様は口を閉ざさなかった。そしてその思いをやめることもなかった。バビロン捕囚を体験した詩人は何よりそれを実感したでしょう。
でもそれだけではないんです。神様は神様から離れてしまってどうにもならなくなっている私たちを見捨てず、なんと、御子イエス様を私たちに与えてくださった、人として生まれさせてくださったのです。口先だけあれこれ言うのでもなく、また口先だけ愛を語るのでもなく、その愛を実行に移されたのです。見捨てることなくその愛を惜しむことなく注がれ、そしてついには私たちの背負いきれないこの罪、先日のコロサイ人への手紙の分かち合いで見たように、債務証書を無効にして救うために、御子イエス様にこれを背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。何の罪もないイエス様を。人々が十字架にかけろ、とイエス様を罵っている時さえ、彼らを裁いて終わるのでもなく、口を閉ざし、十字架にかけたのです。そしてイエス様は最後まで私たちを罵ることなく、かえって、父よ彼らをおゆるし下さい、彼らは自分たちで何をしているのか分からないのです、と赦しを懇願してくださった、最後までその愛を惜しむことなく注がれ、語られ、死なれたのです。
しかし3日目に神様がイエス様をよみがえらせてくださったことによって、見捨てられてもおかしくない私たちのこの戸を開き、墓を開き、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。ここに神様の霊が、いのちが溢れるのです。生きたものとしてくださるのです。生きた関係に私たちを招いて下さったのです。
本来死んで、滅んでいく、神様が戸をしめその恵みも何もかも失って死んでいくしかないはずの私たちのために、神様がその扉を、墓を開いて下さった、その口を開いて下さった、その先に待っている希望は、恵みはいかばかりか。私たちは自分の口を閉ざしていませんか?神様のことばを、約束を、愛を、その全てを自分にあうあわない、気に入るかどうか、もしくはこの世の流れやことば、しそうに流されて、求めること辞めたり否定したりしていませんか?その開かれた戸を、やっぱりいいや、と閉めようとしていませんか?先ほどパンの話がありましたが、パンは食べなければその栄養は得られないし、お腹いっぱいにもなりません(日本人的にはお米の方がイメージがあうかな?)。あなたが滅びることがないように、と差し出されたいのちのパン、イエス様をあなたは味わおう、食べようとしていますか?
「私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。御名を愛する者たちのためにあなたが決めておられるように、私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。私を人のしいたげから贖い出し、私があなたの戒めを守れるようにしてください。御顔をあなたのしもべの上に照り輝かし、あなたのおきてを教えてください。私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです」と詩人はさらにうたいます。私たちはもっとほしい、もっとほしい、あなたのめぐみをくださいと、それこそごちそうを求める如く、いや、かつて12弟子の一人のペテロが「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです」と手紙に書き残したように、本当に純粋な神様のみことば、これを生まれたばかりの乳飲み子のごとく、生きるために何が何でも、と言わんばかりに求めよう。それによって私たちは成長し、救いを得るのです。神様の深い慈しみがイエス様にあって示された今。今日、神様の御顔があなたに向けられ、照らされ、恵まれ、平安を与えてくださる。あなたはこの本物のいのちをいただいていますか?
