とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

7/19という日は私の胸を毎年苦しめます。

母が事故死した日。考えてみればもう22年になります。

一般的には命日というのでしょうが、

天の御国に召された、ということで、召天日と呼んでいます。

 

母自身も、ある人の罪の問題に苦しむ方々のために奔走し、祈り、また疲れ果てていました。

そしてそんな22年前の今日、というよりも18日、

飼い猫が車庫の上に昇っていたのですが、寒いだろうから、と家に入れようとして、

玄関ポーチから屋根と花壇の隙間に体のバランスを崩し、2m下に首から落下。

頸椎損傷で、呼吸不全、翌日召されたのでした。

 

当時の私は一人暮らしでその情報を聞いたのは母が召された後でした。

悲しくて悲しくて。その理由をいたら余計に。

しかも、たまたま神学校のカギを家に忘れたため実家に戻っていた父が、倒れた母を発見、血だらけの母を抱きしめる父をDVと疑った近所の人が、救急車と共に警察に通報、一番母の傍にいなければいけなかった時に父は取り調べ。冗談じゃない、という話でした。

それで私も母の死に目に会えなかったのですが。

 

さらには葬儀にその問題を引き起こしていた人物が現われ、

余計に父を苦しめた…父の日記にその苦悩が書き残されていた。

 

父は本当は神学校を卒業したら、母と、兄と共に北海道で開拓伝道をするはずが、それもかなわず、さらに一人で家のことを回さなければいけない疲れからか、また薬の管理をしていた母が召され、父も脳内出血で同年に倒れるということがありました。結果、半身まひ、全失語で完全に伝道の道は立たれました。まあ、倒れる直前の父のある意味で最後に聴いた言葉から私がバトンを受け継いだ形となったのですが。

 

私も、その出来事から4-5年近くその方を赦すこともできず思い悩んでいました。

ただ、赦すのに苦労しましたが、ゆるさないでいることはよけいにエネルギーを要します。

結果、もう神様にゆだねちゃえ、と委ね、5年近くたった後、ようやく許しの心が与えられました。いや、人を赦すなんて偉そうなことを言えるほど私も偉くはないのはそうなのですが。

 

受け取ったバトンもそうですが、

今ひとたび受け取ったバトンって何だろう、と最近思わされます。

伝道とかいろいろあり、主の働きにその後神学校に入学前からずっとついていましたが、

一番はイエス様のいのちなのかな、と思います。

イエス様の救いをいただいた、この命に生きよ、と。

 

母の召天から22年。

しかし変わらず神様がどんな時も共にいてくださった、今もいてくださっている。

この両親から与えられたいのちと言いますか、信仰をしっかり保ち続け天の御国に行く日まで歩み続けたい。

 

あなたはかけがえのない存在だって知っていますか?

価値がない、と思う必要はありません。

 

あなたは神様に愛されている。御子イエス様の命を賭けてまであなたを救わんとされた神様が。

この愛を受け取っていますか?

あなたは大切なキリストの身体の一部、その一部をイエス様はおろそかにされません。

私たちはこのキリストの身体の中で育まれ、養われ、生きようではありませんか。

 

「あなたはキリストのからだの大切な一部です」

 

「あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。御名を愛する者たちのためにあなたが決めておられるように、私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。私を人のしいたげから贖い出し、私があなたの戒めを守れるようにしてください。御顔をあなたのしもべの上に照り輝かし、あなたのおきてを教えてください。私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです。」

詩篇119篇129-136節

 

口がある、と言いますか話すか、話すことができるというのは本当に感謝なことです。その口で誰かに思いを伝えたり、励ましたり、そうして支え支えられ、私たちは生きている、本当に感謝ですね。ことばが与えられたことも然り、もしことばがなかったらと思うと大変ですよね。人は偶然できたのではなく、神様がその思いを込めてつくられた、その中に口を、ことばを授けられたのは、まさにそのコミュニケーションをもって互いに愛し合い、支え合う。まあ残念ながらそのことばで逆に人を傷つけたり罵ったりと、残念なことに使われることもあるのが悲しい所ですが。それはそれとして声を掛け合う、って相手のことを気にかけているという事ですよね。言われているうちがはな、言われなくなったら終わり、なんて言いますが、神様は私たちに語りかけてくださり、導いて下さる、支えてくださり、生かして下さる、何と感謝なことでしょうね。神様から離れ好き勝手に生きる私たちを見捨てることなく、むしろ私たちを救うために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった。終わらせるのではなく、あなたをご自身のもとに招くために。こんな方が今日も私たちに語りかけ、また導いて下さっている、何と感謝なこと。今日私たちはこの神様の愛を受け、またことばとことば、宗教的な関係ではなく、いのち溢れる関係に生きようではありませんか。

 

ということで紀元前に生きていた様々な人が、それぞれの時代にあって、辛い時も元気な時も、神様に触れられて色んなことを目撃し、知り、また体験し、ときには預言を受けながら励まされていった中でうたった詩、そうしたものをまとめた詩篇119篇の17段目を見ていきたいと思います。この詩はおそらくバビロン捕囚期を生き抜き、解放されて後、その間神様の素晴らしい愛、恵みに生かされ、支えられたことを覚え、帰還後、イスラエルの民にこの神様に立ち返ろう、と民に訴えていた学者であり歴史家であるエズラが、彼らがわかりやすいようにいろは歌のヘブル語版的な感じて詩に残したもの、と考えられています。彼が神様に触れられたその恵みの数、その日々はとても数えても数えても数えきれないもの、抑えきれないほどの喜びに溢れ、止めることができなかったことがこの176節という長さに現れているのかもしれませんね。

 

神様は私たちにそれほどに豊かに触れてくださっている、宗教的なイメージを神様、というと持たれるかもしれませんがとんでもない。しかし、神様はその全人格(神様だから神格?)をもって私たちにその愛を現して下さるのです。それはここまで見てきた通りです。これまでを振り返りますと、私たちを幸いにしたいという思いが神様の強い意思が1文字目のℵ(アーレフ)から現れ、2文字目ב(ベート)、聖く、新しくしてくださり私たちの内を満たしてくださる、その神様は3文字目、「ג」(ギメル)、私たちの重荷を背負い、良き相談者となって私たちを導いて下さる、だからこの御言葉から目を離さず離れ迷い出ることがないように、4文字目、「ד」(ダーレト)、神様が私たちに備えられた転換点を備えられているから、その道を神様に信頼して歩む、その中に5文字目ה(へー)、神様の霊が働かれているから、これをしっかりと見よ!そこに6文字目「ו」(ヴァヴ)、交換不可能な神様の確かな愛が、私たちを導き、全てを変える神様のすばらしさがある、7文字目「ז」(ザイン)、力あるみことばの剣、いや神様ご自身が全てを変え、8文字目ח(ヘット)、神様の柵、家族の中に、親密な交わりの中に入れようと招いて下さっている、9文字目טוֹב(トーヴ)、包んでくださっている、善なる神様が善をその10文字目、י(ヨッド)力強くも優しい御手をもって、11文字目כ(カフ)、手のひらのように私たちを優しく包み、抱きしめ、善いもので満たし、あなたを覚える12文字目のל(ラーメド)、羊飼いの杖を持つ羊飼いなる神様がその愛で導きながら、13文字目מ(メーム)、私たちが生きるに必要な、渇くことのないいのちの水を備え、私たちのうちに流れ込ませ、14文字目נ(ヌーン)、芽を芽生えさせ、実を結ばせて下さる、そんな神様が今日も私たちの隠れ場、盾となり、15文字目のס(サーメフ)、支え、支援し守られる、16文字目のע(アイン)、その御目を私たちから離さず、注ぎながら、その愛を向けてくださっているわけですね。

 

後半を見ると、もう神様の御姿そのもの、といいますか、神様の姿は目には見えなくても、まるでおからだがあるように感じるほどに神様が働かれていることがよく見えてきますね。実は↑の17段目にもそれが現れています。17段目で詩人はさらに続けて、「あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」とさらに続けて歌います。

 

詩人は神様のさとし、語られることを求めます。この神様のことばが扉を開き、光が差し込まれ、私たちのいのちに、日々が変えられる、いのち溢れるものになるんだ、と。世の様々な自分に合いそうな言葉だったり、甘い甘言でもなく、世の常識でもなく、神様のことば、これにすがりつくのです。

 

ところで、いつもの余談になりますが、この17文字のפ(ペー)は、「口」を現す文字と考えられています。口を横から見たような形に見えるからでしょうか。そこから「話す、宣言する、息、啓示、神様が語ること、人が応答すること」という意味を持つようになったそうです。そう、この段の鍵は「口」なのです。16段目で神様がその御目を注がれ守ってくださっていることを見ましたが、神様はさらに語られる神様なんですよね。どうも日本にいると、寺やら神社やらのイメージで、神様は語らない、見守っているだけ、というイメージがついてまわるのかもしれない。16段目の「目」の話だって、結局見ているだけなのでは?と思われたかもしれませんね。でも、神様はただ黙って見守っているだけではなく、語られる神様なのです。

 

それがどうしたの?と思うかもしれませんが、相手のことを気にしていないなら語りませんよ。よく言われているうちがはな、言われなくなったら終わり、なんていいますけど、神様はあなたに語られるのです。でも、考えてみてください、人と人の関係でただあれしてこれして、とかそういう話だけではなく、普段あった事や自分の思いなども語り合うでしょう?ただ荒れしなさい、これしなさい、ではなくあなたと話される、ある意味では人格(神様だから神格?)ある関係をもとうとしてくださるのです。さっきの「口」ということばに「話す」という意味があることを見ましたでしょう?神様は教える、とかそういう事を超えて「話す」方なんです。優しく話して下さる、語りかけてくださる。祈っている時に優しくささやいて下さる事もあったり、落ち込んでいる時、そっと触れて語りかけてくださることもある。

 

もう一つ気になる意味がありますね、「息」です。聖書を少しかじったことがある方なら聞いたことがあるかもしれませんが、この息は神様の霊、という意味合いも持っています。まあもちろん、口から吐き出される息、とも言えないこともないのですが。でも、それだけではないんです。神様の口から出る息、霊、それによって私たちは生きるのです。人が創造された時、神様は神様の霊を吹き込んでくださったことによって、人は生きたものとなった。神様のご意思によって私たちを生きたものにしよう、とご自身の霊を吹き込んで生きたものとしてくださったのです。

 

そう、神様がなぜ「話」されるのか、語られるのか、導かれるのか、教えられるのか、宣言されるのか、それは私たちに生きてほしい、生きたものとなってほしい、それが神様の思いなのです。そして↑であるように、「あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます」と、奇しい、人の理解を超えた、不思議なこと、驚くべきことをなされる。語られたことがむなしくかえってくることがないよう、確かにその語られたことを成し遂げてくださる、神様の意志を実現させて下さるのです。私たちとの関係を閉ざすのではなく、開いて下さり、光を差し込ませてくださり、わき前のない私たちにさえ神様の愛を惜しむことなく与えてくださるのです。

 

神様はイスラエルの民に、またイエス様を通して私たちに、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と語られました。もちろんパンも必要です、「だけで」とある通り。でも、神様はもっと必要な、私たちが生きるために必要なすべてをその口から語られ、また実現してくださる、その恵みを注いでくださるのです。神様の口から、ということは、そのご意思がなければ、それこそこの詩にある通り、神様が取を閉ざして私たちを締め出したりすればそれはできない、しかし神様は私たちに生きてほしい、とその戸を開いて下さったのです。戸、云々を超えて、神様は口を閉ざさなかった。そしてその思いをやめることもなかった。バビロン捕囚を体験した詩人は何よりそれを実感したでしょう。

 

でもそれだけではないんです。神様は神様から離れてしまってどうにもならなくなっている私たちを見捨てず、なんと、御子イエス様を私たちに与えてくださった、人として生まれさせてくださったのです。口先だけあれこれ言うのでもなく、また口先だけ愛を語るのでもなく、その愛を実行に移されたのです。見捨てることなくその愛を惜しむことなく注がれ、そしてついには私たちの背負いきれないこの罪、先日のコロサイ人への手紙の分かち合いで見たように、債務証書を無効にして救うために、御子イエス様にこれを背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。何の罪もないイエス様を。人々が十字架にかけろ、とイエス様を罵っている時さえ、彼らを裁いて終わるのでもなく、口を閉ざし、十字架にかけたのです。そしてイエス様は最後まで私たちを罵ることなく、かえって、父よ彼らをおゆるし下さい、彼らは自分たちで何をしているのか分からないのです、と赦しを懇願してくださった、最後までその愛を惜しむことなく注がれ、語られ、死なれたのです。

 

しかし3日目に神様がイエス様をよみがえらせてくださったことによって、見捨てられてもおかしくない私たちのこの戸を開き、墓を開き、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。ここに神様の霊が、いのちが溢れるのです。生きたものとしてくださるのです。生きた関係に私たちを招いて下さったのです。

 

本来死んで、滅んでいく、神様が戸をしめその恵みも何もかも失って死んでいくしかないはずの私たちのために、神様がその扉を、墓を開いて下さった、その口を開いて下さった、その先に待っている希望は、恵みはいかばかりか。私たちは自分の口を閉ざしていませんか?神様のことばを、約束を、愛を、その全てを自分にあうあわない、気に入るかどうか、もしくはこの世の流れやことば、しそうに流されて、求めること辞めたり否定したりしていませんか?その開かれた戸を、やっぱりいいや、と閉めようとしていませんか?先ほどパンの話がありましたが、パンは食べなければその栄養は得られないし、お腹いっぱいにもなりません(日本人的にはお米の方がイメージがあうかな?)。あなたが滅びることがないように、と差し出されたいのちのパン、イエス様をあなたは味わおう、食べようとしていますか?

 

「私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。御名を愛する者たちのためにあなたが決めておられるように、私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。私を人のしいたげから贖い出し、私があなたの戒めを守れるようにしてください。御顔をあなたのしもべの上に照り輝かし、あなたのおきてを教えてください。私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです」と詩人はさらにうたいます。私たちはもっとほしい、もっとほしい、あなたのめぐみをくださいと、それこそごちそうを求める如く、いや、かつて12弟子の一人のペテロが「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです」と手紙に書き残したように、本当に純粋な神様のみことば、これを生まれたばかりの乳飲み子のごとく、生きるために何が何でも、と言わんばかりに求めよう。それによって私たちは成長し、救いを得るのです。神様の深い慈しみがイエス様にあって示された今。今日、神様の御顔があなたに向けられ、照らされ、恵まれ、平安を与えてくださる。あなたはこの本物のいのちをいただいていますか?

 

開かれた聖書から光「LIGHT」

本当に世の中を見ていると、心配ばかり増えてきますよね。

その問題はいつ終わるのか、この先どうなるのか?

 

でも、その前に、私たちは一つ忘れています。

それは祈ることです。とりなし祈ることです。

 

黙ってみていることは誰でもできます。

でも、私たちは神様にもっと信頼し委ねて良いのではないでしょうか。

祈って何になる?ではなく、祈って働かれるのは神様です。神様の御心がなることを切に信頼し、その神様のなされることを楽しもうではありませんか。


 

信仰が働くとき、心配事は終わる。神様には計画があるから、それに信頼しよう、楽しもうじゃないか。

Worry ends when faith begins.

God has a plan. Trust it. Enjoy it.

 

 

落ち込んでる?
あなたの天のお父様があなたに何か言いたがっていますよ

ーあるクリスチャンー

 

「あなたの」「私の」天のお父さんと神様はなってくださったのです。御子イエス様を十字架に架け私たちと和解してくださってまで。

その神様が、あなたを今日も心配し、囁いていおられるのです。

私たちは下を向くのではなく主を見上げ、祈ろう、神様は答えてくださるから。

 

 

顔に墨のついたまま外を歩くのは、なるほど恥ずかしいことかもしれない。しかしわたしは、心に墨がついたまま、平気で歩き回っている。いったいどちらが恥ずかしいことなのだろう。

 

ーあさっての風(三浦綾子さん)ー

 

顔に墨がついているのは、おそらく鏡を見れば気づくだろうし、人に言われば気づいて落とすでしょう。でも、心の墨はあることに気づかない。それが良いのか悪いのかわからずに、ただそれが良いのか悪いのか黙ってみているだけ、状態になってとんでもないことになる、自分自身も苦しくなるだけです。

 

でも、神様はあなたの墨を洗い聖めて下さります。つらいところがあるなら神様に相談したって良い、祈ったって良い、神様が痛みも悲しみも、罪も、すべてご存知で洗い流して下さります。

そして永久の義の道に導いてくださるのです。

私たちは神様の導かれる、恥ではない、命の道に歩ませていただこうではありませんか。

 

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
詩篇139篇23−24節

 

何かやりなおす、建て直す、うまくいかないことをどうにかしようと色々試みる。

みなさんがきとしていることだと思うのですが、

その結果はそれをする人の能力次第。アドバイザーだったり、本だったりにしても。

あなたは誰に、何に頼りますか。

 

ナルニア国物語などで知られるC・Sルイス氏はこう記します。

 

神の仕事は、私たちにとっては痛みを伴う体験となり得ます。しかし、神の最終ゴールは、私たちをより良い者に造り変えることです。 
 
自分のことを生ける家だと考えてください。神がその家をリフォームするために入って来られます。最初は恐らく、神が何をしようとしておられるか、理解することができるでしょう。
 
神は排水管を修理したり、屋根の雨漏りを止めたりなさいます。このような作業は当然のことですから、その段階では驚くことはありません。
 
ところが、神は家のあちこちを叩たたき壊し始めます。それが痛いのです。いったい何が起こっているのかと私たちは考えますが、神は私たちが想像もしなかったような新しい家を建てようとしておられるのです。新しい部屋が付け加えられたり、家の階数が増えたり、塔とうが建ったり、中庭が造られたりしていきます。
 
自分では、すてきな小邸宅が出来上がるのだろうと予想していたのですが、神はそれを王宮に作り変えようとしておられるのです。神はその王宮に来て、ご自身がそこに住まおうとされているのです。

神様は、あなたをご自身のイメージに、御心の姿に導きたいのです。

もしかしたら氏の言うように、それは痛みを伴う時があるかもしれません、そこは触れないでほしい、とか。でも神様は御子イエス様の命さえ惜しまず与えるほどに愛され、あなたを取り戻された方。その方が新しくされるこのいのち、いえ、一日一日をどうして期待せずにいられましょう。私たちは日々、神様のすばらしい御心に向かわせていただいています。この神様に今日信頼し、委ねようではありませんか。

 

人は孤独を、孤立を恐れます。

こればかりはどうしようもありません。

 

ただ、そのときこそ神様があなたに最高の恵み、命の道へと導かれます。立ち帰る機会となります。その時神様はあなたの内に御力を、御心を、現されるのです。あれこれ難しいことを考える前に神様に頼ってみましょう。神様は喜んで答えてくださるから。あなたの他目に命さえ惜しまない方が。

 

孤独だと感じている時には、今まさに神様があなたをご自身の近くに引きよせようとされる機会であるという事を知ろう。

 

Learn to use the feelings of loneliness as an opportunity to draw closer to God.

ーPastor Jー

 

笑顔になる3つの要素があります。

今日私が、私たちが笑顔でいられる理由…

 

それは。

イエス様が愛してくださっているから。

イエス様が私のために死んでくださったから。

その命を懸けられたイエス様が一緒にいるから。

 

あなたを「イエス様が」笑顔に供してくださる(#^.^#)

あなたのためなら命さえ惜しまず与えてくださった御子イエス様が、今日あなたを本当の笑顔に招かれています。これほど愛された方があなたを笑顔にしてくださる、なんて楽しみな話でしょう。イエス様にかえってみませんか?

 

「私は公正と義とを行ないました。私をしいたげる者どもに私をゆだねないでください。あなたのしもべの幸いの保証人となってください。高ぶる者どもが私をしいたげないようにしてください。私の目は、あなたの救いと、あなたの義のことばとを慕って絶え入るばかりです。あなたの恵みによってあなたのしもべをあしらってください。私にあなたのおきてを教えてください。私はあなたのしもべです。私に悟りを授けてください。そうすれば私は、あなたのさとしを知るでしょう。今こそ主が事をなさる時です。彼らはあなたのおしえを破りました。それゆえ、私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します。それゆえ私は、すべてのことについて、あなたの戒めを正しいとします。私は偽りの道をことごとく憎みます。」

詩篇119篇121-128節

 

人のからだにはとても大切な器官がついています。五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)がある、これ偶然ではなく、ちゃんとデザインされてつくられているんですよね。偶然?とんでもない、この一つの器官が欠けるだけでどれだけ大変か。神様は私たちをつくられた時、このように素敵なデザインをしてくださったんですよね。お互いの声を聞けるように耳を、離せるように口を、お互いを見ることができるように目を…。まあ障がい等によってそれに困難を伴う場合もありますが、手話や点字と言った様々な知恵、また周りの人が代わりの目や耳になるような互いを助け合う知恵を聖書の中で定めていたり。神様はご自身に似せて、ご自身のイメージをもって私たちをこのようにつくられた、そんなことを考えると、神様は人格的に私たちに接してくださって、愛してくださっている、そのお心を現して下さっているんだな、と改めて思います。神様から離れ、好き勝手に生きる私たちをそれでも見捨てず、御子イエス様のいのちを身代わりにしてでも救い出そうとしてくださった。今日私たちはこの神様と人格的な交わりの中、生きていますか?

 

ということで紀元前に生きていた様々な人がそれぞれの時代にあって体験したこと、神様がその彼らの内に働かれながら、その愛を惜しむことなく注がれていった、時には捕囚という絶望下を通ることがあっても、裏切りにあることがっても、どんなことがあっても神様が共におられた事、その中で語られたこと、預言などを詩にした詩篇の119篇の16段目を見ていきたいと思います。この詩はまさにその捕囚期の中にあって神様に見捨てられてもおかしくなかった、そんな中で確かに神様が働かれていた、おられた、その神様ご自身のことをいろは歌のヘブル語版のような感じでうたいました。176節ととても長い中で、もう言葉が止まらないほどその感謝に溢れるのでした。この神様を求める心は止まらないのです。この神様が支えてくださっているんだ、目を止めてくださっているんだ、と。それがこの16段目に良く現されています。

 

これまでを振り返ると、私たちを幸いにしたいという神様の強い意思が1文字目のℵ(アーレフ)から現れ、2文字目ב(ベート)、聖く、新しくしてくださる神様ご自身で私たちの内を満たしてくださる、その神様は3文字目、「ג」(ギメル)、私たちの重荷を背負いながら共に歩んでくださる、良き相談者となってくださる、だからこの御言葉から目を離さず離れ迷い出ることがないように、4文字目、「ד」(ダーレト)、神様が私たちに備えられた転換点を備えられているから、その道を神様に信頼して歩もう、そこには5文字目ה(へー)、神様の霊が働かれているから、これをしっかりと見よ!そこに6文字目「ו」(ヴァヴ)、交換不可能な神様の確かな愛が、次の一歩へと導き、全てを変える神様のすばらしさがある、7文字目「ז」(ザイン)、力あるみことばの剣、いや神様ご自身が全てを変え、8文字目ח(ヘット)、神様の柵、家族の中に、親密な交わりの中に入れようと招いて下さっている、9文字目טוֹב(トーヴ)、包んでくださっている、善なる神様が善をその10文字目、י(ヨッド)力強くも優しい御手をもって、11文字目כ(カフ)、手のひらのように私たちを優しく包み、抱きしめ、善いもので満たして下さる、あなたを覚える12文字目のל(ラーメド)、羊飼いの杖を持つ羊飼いなる神様がその愛で導きながら、13文字目מ(メーム)、私たちが生きるに必要な、渇くことのないいのちの水を備え、わたしたちのうちに流れ込ませ、14文字目נ(ヌーン)、芽を芽生えさせ、実を結ばせて下さる、そんな神様が今日も私たちの隠れ場、盾となり、15文字目のס(サーメフ)、支え、支援し守られる、という事まで見てきましたね。

 

それで16段目・16文字目のע(アイン)の段では、「私は公正と義とを行ないました。私をしいたげる者どもに私をゆだねないでください。あなたのしもべの幸いの保証人となってください。高ぶる者どもが私をしいたげないようにしてください。私の目は、あなたの救いと、あなたの義のことばとを慕って絶え入るばかりです」と続けて歌います。詩人はこれまで神様について歌ってきた、そして見、体験してきた事、そうしたことから、この神様を見上げるのでした。彼はここまで見てきた力強い御手をもって支え、包み込んでくださる神様に身を委ねたいのです。信用できなかったら、委ねられないですよ。安心できるから人は身を委ねることができるでしょう?彼は「私の目は、あなたの救いと、あなたの義のことばとを慕って絶え入るばかりです」とうたうように、この神様から目を離さない、この方に信頼を置いて見つめ続けるのです。私には本当の公正や義を行うことはできない、虐げを受けるようなもの、でも神様が本物の公正と義をなしてくださる、そう信じて。

 

そう、この16段目のポイントは「目」です。いつもの余談になりますが、この16文字のע(アイン)には、「目」を現す文字と考えられています。そこから「見る、注目する、洞察する、見守る、神様のまなざし」という意味を持つようになったそうです。

 

目って本当に大事ですよね。目は口程に物を言う、といいますが、それは目の動きとか、目線とか、そういう意味を超えて、ある意味ではまさにע(アイン)の本質的な意味からも分かる通り、あなたを見守っている、という意思が現れますよね。そこにはその見ている人への思いがあるから見守ることができる、注目することができるわけです。そこにはなんだろう、体温というか、暖かさのある関係が生まれるんですよね。お互いを見つめ合う、見る、それは本当に生きた関係だと思います。

 

序論でも書きましたが、神様は私たちを神様ご自身の似姿につくられた、イメージされた通りにつくられた、つまりその時点でもう、神様のあなたへの思いがあなたに込められている、注がれているわけです。

 

これまで詩篇を1篇1篇共に分かち合わせていただいてきましたが、その中でいくつか目に関するとても励まされるものがありましたね。「主(神様)は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる」と、ある一部の人だけではなく、見てくれていないと思っていながら全ての人にその御目を注がれ、見てくださって位心配してくださっている。何と感謝なことだろう、神様はその目を私たちに向けて、向き合って、人格的な、生きた関係をもとうとしてくださっているのです。また、「耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか」ともありますね。あなたに耳を作ってくださった神様は、目を作ってくださった神様はあなたのこえにみみをかたむけ、みてくださっている、その為につくられたのです。

 

この天地万物を創られ、すべ治め、また私たちを造られいのちを与えてくださった神様が、ですよ?何と感謝なこと。人は自分のことを見てくれていないと、気にかけてくれないと不安になったり、どうして、と思う。でも誰があなたを気にかけなくとも神様は、あなたをつくられた神様はあなたに目を注ぎ、心配され、守られる。目を背けず、あなたに向けてくださっているのです。

 

ちょっと先の詩篇になりますが、「あなた(神様)にとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。それを数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます」とうたわれています。

 

そう、神様は私たちが生まれる前、お母さんの胎内にいる時、私たちの内臓を作り、組み立ててくださって、しかも、神様はその御目を胎児の私たちにめを注いで楽しまれ、書物に、どんな子にしようかな、と楽しまれていたような様子が見られます。詳しい話はこの詩篇を分かち合う時に見ますね。そんな神様が昼のよう明るく、私たちの目を開かせて下さる、奇しい御業を行ってくださっている。そんな神様が今日私たちと共にいてくださっている、同じように御目を注いでくださっているなんて感謝じゃないですか。あなたに目を向けているようで、心は向けてくれない世、良いと思っていて何もできない偽神や良いと思っていた思想…しかし、神様はあなたを虐げるのではなく、憐れみと愛をもって見つめてくださっている。

 

そんな神様だからあなたの事を見捨てられなかったのです。それでもあなたを愛するが故、神様から目を背け離れていく私たち、それでも私たちを見捨てず、私たちの目の涙も、重荷も、痛みも、何より罪も一切御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る時、私たちが神様の方に目を向け、心を向ける時、私たちはもう一度神様と回復させて下さる、神様の子として迎え入れてくださるのです。↑で「保証人」と出てきていますが、あなたを見捨てられなかった神様がイエス様のいのちをもって保証され、あなたを受入れてくださった、そこまで愛されている保証人なる神様の御目が、まなざしが注がれているのです。こんなにもあなたを愛してくださった方が、そこまでしてあなたに注がれている愛はどれだけ素晴らしいことか。あなたに向けられているその優しい目は。

 

私の曽祖父は周りからも神童と呼ばれ恵まれていました。しかし、ある時実家が全焼、それによって両親、家、全てを失い、さらにその視力も完全に失われました。完全な絶望に陥り、あらゆる宗教などに救いを求めるも、彼を救うことはできませんでした。しかし、あるキリスト教伝道者が開いた聖書のみことば、生まれつき全盲で何十年も苦しんでいた男性に、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」と言われたイエス様のことばを聞き、こんなどうしようもない自分をも(彼の伝記に残されている元々のことばはものすごく卑下する言葉で書かれていました)、イエス様は憐れんで救ってくださったのか、とイエス様を受入れたのでした。彼の目は生涯この聖書の人物のように癒されることはありませんでしたが、彼はそのイエス様の御目が自分に向けられ、そのいのちをもって愛されているその愛に守られ生かされていることに感謝し、ツバキを吐き掛けられ、石を投げられ、凍傷になりながらもイエス様の愛をどこまでも伝え、多くの人がイエス様を信じ受け入れ、また天に帰るまで、いやその瞬間まで神様に感謝し、賛美して召されていきました。この方に勝るものなし、金銀に勝る喜びを日々握りしめ、イエス様を見上げていたのでした。

 

詩人は「私の目は、あなたの救いと、あなたの義のことばとを慕って絶え入るばかりです。あなたの恵みによってあなたのしもべをあしらってください。私にあなたのおきてを教えてください。私はあなたのしもべです。私に悟りを授けてください。そうすれば私は、あなたのさとしを知るでしょう。今こそ主が事をなさる時です。彼らはあなたのおしえを破りました。それゆえ、私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します。それゆえ私は、すべてのことについて、あなたの戒めを正しいとします。私は偽りの道をことごとく憎みます」とうたっていますが、あなたはこの神様の目を見ていますか?金よりも純粋な神様の愛を、救いを、いのちを受け取っていますか?「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と神様は預言者イザヤを通して語られた、その御目があなたに注がれ、御子イエス様のいのちをもってあなたに今日も驚くべきこと、金よりも純金よりも素晴らしいことがあなたになされている。今日、この神様との関係を喜び、この方を見上げ歩もう。今日も神様の優しい目があなたに注がれているから。

 

イエスと少女、聖書の一節