とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

あなたは自分の、ないし友人の、周りの人の価値をどう考えますか?

あなたの価値、あなたは高価で尊い(#^.^#)もちろんあなたの隣人も。

だって、神様があなたを造られた。あなたは神様ブランド。この神様の計画、成される御業を期待し、神様に立ち返ろうではありませんか。

 

「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。」

詩篇139篇13-14節

 


 

 

傾聴、聴く。
静かに聴く。
難しいことを考える必要はないんです。
 
マザー・テレサは言います。

 

もし、ほんとうに祈りたいのなら、まず聴くことを学ばなければなりません。心の静けさの中で、神は語りかけられるのです。そしてその静けさがわかり、神を聴くことができるには、清い心が必要なのです。
神様は語られる神様。愛を実行に移し、命まで身代わりに差し出すほどに愛され、取り戻されました。この方の声に耳を傾け祈ろう、祈っていいんです。主は語られ励まし、導かれる。この神様があなたにこたえてくださるから。
 

 

なかなか面白い記事があったので、紹介しますね。

最後にはちゃんとまじめな解説をしてますから(;^_^A

 

私たちはなかなか疑り深く、どうしても探偵ごっこをしてしまいやすいのですが…

 

イエス様の12弟子、その弟子たちの会計を預かっていたユダがイエス様にいいました。

「先生、みんなのお金を入れた袋がありません。誰かが盗んだかもしれません。どうしたらいいでしょうか。」

イエス様は言った。

「お前は誰が盗んだと思うか」

ユダは答えた。

「わたしはトマスだと思います。」

イエス様は言った。

「トマスを連れてきなさい」

するとトマスがやってきて言った。

「主よ、私は二人が疑わしいと思います」

主は尋ねた。

「それは誰なのだ」

トマスは答えた。

「ペテロとヨハネです」

イエス様はさらに尋ねた。

「どうしてそう思うのか。お前は疑い深い男だから、そう思うのか」

トマスは答えた。

「実はペテロのシモン(指紋)が見つかりそうなのです。彼はシモン・ペテロですから。そしてヨハネはおどおどしながら弱音(ヨハネ)を吐きますよ」

それを聴くとユダは思わず喜んだ。

イエス様は言った。

「トマスよ。やはり、ああたは疑い深い男だ。それはいけない。まして罪をなすりつけようとしているユダの罪は重い」

 

ー探偵ごっこー

 

※真面目な解説

ユダはよく盗みをしていました。弟子たちの財布の中から袖の下に。

トマスは確かに疑い深い、でもイエス様は一度たりともそのようにおっしゃっていない。

肝心なのは疑う前に、イエス様に相談。

誰が疑わしい?どうしたらいいかわからない?探偵ごっこをしているよりも、

イエス様、教えて下さい、と祈るのが良いでしょう。

何よりイエス様は罪に定める前に、悔い改めを願われている。そうすればその罪は赦されるから。

 

「スヌーピー!いつの日か、みんな死ぬことになるんだよね」

「ほんと、でもね、いつの日、以外の日はさ、死んでないんだよね」

 

※なんと感謝なことでしょう。

今、生かされている、死んでいない。1日1日、神様が備えてくださり、

養ってくださっているのです。

だからこそ、神様の与えてくださる1日1日を喜び感謝して歩みたいものです。

 

 

潔白には人はなれないけど、それを変えるのは自分ではありません。

というよりもできるならとっくにできていますよね。

 

本当の意味でそれらを作り変えることができるのは神様です。

あなたは神様をどんな方とみているでしょうか。

 

イエス様はその命とともに全ての全てを与えてくださりました。イエス様ご自身が答え。すべてを益と変えてくださります。

 

このイエス様は、12弟子に「あなたがたは」わたしをだれだと言いますか?と聞かれたように、「あなたは私を誰だといいますか?」と聞かれます。この質問にあなたは何と答えますか?

あなたは欠けのあるなにかと答えるか、それとも…

 

私達がイエス様が欠けていると考えるけど、私達の欠けをイエス様が新しくしてくださります。

そこからその御心を現される。

あなたはなんと答えますか?どう応えますか?

 

「都上りの歌

あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです。」

詩篇123篇1-4節

 

ずいぶん前の話ですが、ある牧師さんと色々話をしていた時のこと、男は(そういう表現は今の時代色々言われそうですが)何かを言われるとなぜかカチンと来て反論したくなるんだよね、と自分の体験を交えて話してくれたことがあります。はい、私もそう。それで妙に意気投合したというか、いろんな話をしたのを覚えています。でもまあ相手にもよるんでしょうけど、相手の人の本質ってわからないんですよね。何を思って言ってくれているのか。逆に人もまた、自分に何か良いことをしてくれれば、ああこの人は良い人、逆だと…、と判断してしまう。もちろん人には弱さがあり、また限界もありますから、仕方がないと言えば仕方がないのでしょうけど。ただ、神様は、あなたを愛し、あなたをつくられ、いのちを与え、生きたものとしようと今もその愛を注がれている神様はあなたの良い所も、ダメなところも知って、なおそれでもあなたを愛し、あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった。その神様があなたをどれだけ愛しておられるか。私たちはこの方から目を離さず歩もう。神様が何をしてくれるか、してくれないか、ではなく、あなたをこれほどまでに愛されている神様ご自身を見、歩もうではありませんか。

 

ということで、紀元前に生きていた様々な人が、それぞれの時代、いろんな体験をしながら、また目撃しながら、そうした中で神様と出会い、またその神様の働きを目撃しながら、その御声を聞きながら思わされたこと、感じたこと、体験したことなどを詩にまとめた詩篇、その123篇を見ていきたいと思います。なお、この詩も120篇からずっと続いている都のぼりのうたになります。年に3回エルサレムにのぼるという事が当時ありました。ただ順礼をする、儀式のため、そういう思いで行っていた人もいるかもしれませんが、この詩人たちのうたを読んでいると、そうではなく神様にお会いするため、神様の恵みを求めて、そこにのぼりゆくために進んでいったことが見えてきますね。心の目をあげ、神様に心を向け。そうしてうたわれていった都のぼりのうたは、人々を励まし、またバビロン捕囚中の民にも希望を与えたことでしょう。そして彼らの思いもまた都のぼり、と言いますか、神様に向かって進んでいくわけですね。この都のぼりのうたはダビデのものもあったり、ソロモンのものもあったり、時代は様々ですが、そうした神様への希望は私たちを引き上げてくださる、そのことを忘れないでいたいですね。

 

それで、この123篇では、詩人は「あなたに向かって、私は目を上げます」とうたい始めます。ここ数篇を見ると、121篇では「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」とはじまり、122篇では「人々が私に、『さあ、主の家に行こう』と言ったとき、私は喜んだ」とうたっていましたね。それぞれの詩人が同じかどうかは定かではありませんが(122篇はダビデ、と表題になっていましたしね)、詩人たちは「あなた」に向けられているわけですね。そう、存在そのものに。

 

私たちは何か良いことをしてくれたら、ああ神様ありがとうございます、と感謝をし、逆に自分の思う通りにならなかったり、願う通りのことを願う通りのタイミングで答えてくれなければ、神様に不平不満を言い、また下手をすればやっぱり神様はいないんだ、と否定する。あ、ちなみにこれは旧約聖書の時代、なんと400年近くの奴隷状態から神様が救い出され、乳と蜜の流れる地(一般的な言い方なら肥沃な大地、実際大人二人で抱えて持って帰るほどの収穫物があったり、もっと言うなら神様が祝福される地)に神様ご自身がともに進まれ、守られながら、旅をしている、その道中でさえそんなことをしてしまった始末ですから、本当にこの辺は人の弱い所。

 

彼らの問題もそうですが、私たちは世の中の状況を見て、もしくは自分の状況を見て、あれが足りない、これが足りない、もっとああすべきだ、こうすべきだ、と考えます。しかし、私たちが見るべきはそうした問題や現象、世の中の状況ではなく、この天地万物を治める神様そのものです。自分にとっての都合のいい「あなた」を探すのではなく、つくりだすのでもなく(先に挙げたイスラエルの民の問題の時には、実際に自分にとって都合のいい神をつくりだそうとしていましたし)、この天地万物をすべ創られ、治められる神様、私たちを愛し、創られ、その息吹を吹き込み生きたものとしてくださる、してくださっている神様、その神様に目を向けるのです。信用できない?でもその神様以上のことを私たちができるとでもいうのでしょうか。そんなに頼れないというなら、どうして文句を言ったりするのだろう。

 

詩篇121篇のうたをもう一度思い起こすと、「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」とうたわれていましたね。もう、ここに全てがあるんです。

 

私たちが神様を見ず、神様が日々、私たちが当たり前と思っているだけで行われている素晴らしい御業、養い、支え、守り、そうしたものに目を向けない、そんな私たちからその御目を離さず見捨てない神様がそれでも私たちを守ってくださっているのです。ただ転ぶ子転ばないの話ではなく、私たちの日々の歩みにおいてよろけることがないよう、その杖となってくださり、その道を示し、私たちが寝ている間も、疲れ果てている間も眠ることもなく守られ、その御手で覆い、守ってくださっている。何か良い現象があるから、善いことをしてくれるから見るのではない、善いことだけを見るのでもない、神様ご自身を見るのです。見上げるのです。

 

ふと、この原稿を書いている最中に思い起こすと、私たちが子どもの頃って両親が私たちが何か良いことをするでもなく、何かしても、それでも守ってくれてましたよね(ちょっと時代が変わってきてそうも言えないご家庭があるのも残念なところですが)。お父さんお母さんが無償の愛をもってきっと養ってくれていたと思う。いや、犠牲を払ってもそんな犠牲などいとわないほどに。もしこれを読んでいる方が親なり、子育て経験をしてきた方ならきっと何となくわかる気がします。そして大丈夫かな、といつもその目を、もしくは心を子どもに向けていたと思います。熱を子どもが出せばつきっきりで看病してくれたり、仕事を休んででも病院に連れて行ったり。神様は、天の父なる神様は、私たちにいのちを与えてくださった神様は、そのような両親、いやそれ以上の思いを私たちに向けてくださっている、その目を注ぎ、守ろうとしてくださっているのです。幸せになってほしい、そう願っておられるのです。

 

そんな神様がいる、これ以上安心な話はありませんね。私たちを心配してくださっている神様がいる、なんと素晴らしい話。あなたはあなたの目をだれに向けていますか?してくれている事だけに目を向けて神様は自分を見ていない、愛していない、なんて言っていませんか?まあ、これを書いている私自身完璧ではありませんし、偉そうなことを言える立場でもありませんが、少なからず、私たちを愛し、守ってくださっている、その御目を注いで、心を注ぎだして下さっている神様がいる、そのことを忘れず、この方を見上げてみませんか?見て、その声を聞いて、この方が成そうとしていることに信頼してみませんか?都、神様は神様の素晴らし家、新しいいのちへとあなたを招いて下さっている、門を閉ざさず、あなたを迎えようとしているんです。これを受け取らないなんてもったいないじゃないですか。都と言いますか、神様の御心の道から外れて別な道を進むのではなく、神様が日々作られるその道、導かれるその道を進んでみませんか?

 

詩人は続けて「ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで」とうたいます。奴隷の目、という表現が気になる方もいるかもしれません。奴隷と主人、という関係だとどうしても抵抗感、ないしあまりいいイメージがわかないかもしれません。ここで「主人の手」と出てきますが、その手というのは「力、権威、行動、保護、与えること、介入」という意味があるそうです、もともとのことばで見るなら。まあそもそも聖書の中の奴隷と主人の関係も、弱い人を保護する、そういう役目を主人に持たせているわけです。そういう意味では、奴隷にまで成り下がらざるを得ない人を、主人がその力、権威をもって正しく行動し、保護し、介入し、いのちを与えてくださる。それこそがある意味ではここでいう憐み。

 

神様は私たちに介入し、保護し、いのちを与えるために行動されたのです。神であられるのに、その権威を捨ててでも御子イエス様を人として生まれさせ、その間に神様の愛を、御力を現され、癒しだけではなく、私たちの重荷やら、罪の奴隷から保護し、助け出すため、私たちの負っているすべての痛みも悲しみも、重荷も、何より罪、その刑罰、一切身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる、まさに保護し、いのちを与えてくださるのです。

 

本来奴隷、憐れみを受けるに値しないはずのものに、神様から離れ、神様を神様とせず、神様から目を離し歩む私たちをそれでも御子イエス様のいのちをもってでも憐れみ救い出してくださった。その神様があなたに注がれる憐れみ、恵み、祝福はいかばかりか。この神様の愛に何が勝るというのだろう。愛する友のために、いや友というに値しないような罪びとを友と呼び、その友のために何の罪もないイエス様が身代わりとなって死なれた、これ以上大きな愛はどこにあるのだろう。これ以上の何を求め、誰を「あなた」として探し求める必要があるというのだろう。

 

「私たちをあわれんでください。主よ。私たちをあわれんでください。私たちはさげすみで、もういっぱいです。私たちのたましいは、安逸をむさぼる者たちのあざけりと、高ぶる者たちのさげすみとで、もういっぱいです」とうたって詩人はこの詩をとじます。あなたは今日、だれに憐れみを求めますか?今日あなたの内にいっぱいになっている悲しみも痛みも、罪も、一切取り除き、その愛でいっぱいにしてくださる、盃が溢れるほどにその愛を注いでくださる、注ぎ続けてくださる神様から目を離さず、今日も歩もうではありませんか。今日もあなたをここまで愛してくださっている神様の御手があなたを覆い、守り、その手を取って導いて下さっているから。

 

私たちは話を聞いてもらえると安心しますよね。

でも、上の空で聴かれていたら残念です。

 

神様はでも違うんです。あなたの話を聞かれます。どんな悩みも。どんな人の声も。

そして応えてくださります。

だから私達も神様に話しかけ、また神様のみ声に耳を傾けましょ?

 

「私たちは神に話をすることができます。神が聞いておられるからです。御国で私たちの声は大切に扱われます。神は私たちの声に真剣に耳を傾けてくださいます。神の御前に出て行くとき、神は私たちの声を聞くために、私たちの方へ御顔を向けてくださいます。ですから、相手にしてもらえないかもしれないなどという心配は無用です。たとえ言葉につかえたり、ほかの人が私たちの言葉に何の反応を示さなくても、神だけは耳を傾けて感動されます。神は老人ホームにいるお年寄りたちの訴えも聞いておられます。死刑囚たちの胸詰まる告白も聞いておられます。アルコール中毒の人が恵みを求めるとき、夫と妻が結婚生活の知恵を求めるとき、社会人たちが職場を抜け出して礼拝堂の片隅にひざまずくとき、神は彼らの声を聞かれます。主は深く、集中して聞かれます。」
ーマックス・ルケードー

 

 

金槌というのはとても役に立つ道具だ。

 

しかし、もし私たちを釘の側においてみれば、話は違う。金槌はいいけれども、金槌でガツンガツン叩かれる釘だと思った時に、こんな厄介な存在はいない。もし釘に理性や感情があったとしたならば、こんなに厄介な相手はいません。自分の頭をいつもガツンガツンと叩くのですから。

 

でも釘は金槌のことだけを考えてはなりません。釘は金槌を握っている大工の手を思い出すべきです。もし釘が金槌ではなく、それを握っている大工の手を思い出すなら、釘は大工が立派な家を建てるために自分が用いられているということがわかるでしょう。でも私たちは、往々にして金槌のことばかりを考えて、どうしてこれほどの試練が?どうしてこれほどのストレスが? なぜ私は叩かれるのか? ということばかりに気持ちを持って行ってしまう。

 
ーA.W.トウザーー

 

神様は、この天地万物をデザインされ、造られました。そして私たちも。

しかもこの神様はあなたを愛しています。

作ってはい終わり、と投げ出すのではなく、いつも私たちを良い物にしようと気にかけてくださっています。

その愛は御子イエス様をあなたの罪の身代わりに死なせ、3日目によみがえらせてくださったことによって、この復活の恵みに招かれた、新しくしてくださるのです。

この愛があなたを今日も建て上げようとあなたを待っているから。

 

 

 

 

◆父の愛◆

私は、俳優として、あらゆる格好いい役柄を演じてきた。だが、“誰かの父になる”ことに比べれば、そのどれも大したことじゃない。

その子が生まれた瞬間、私がどんな父親になりたいかについての約束をした。

そしてただ祈った。「私がこの子を養えるところまで、この子を生き永らえさせてください」とね。

~クリス・プラット~(長男ジャックが早産で生まれた時に)

 

映画「アベンジャー」シリーズ、「ジェラシック・ワールド」シリーズで、今や人気急上昇中のアメリカ映画俳優の言葉です。

 

彼は2015年、アメリカのタイム誌が発表する世界で最も影響力のある100人のリスト「タイム100」に選ばれ、2017年には、あの歩道に名前入りの星形が埋め込まれた「ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム」にも名前が刻まれました。前の奥様とは長男ジャックを設けたあと離婚しましたが、2019年、あの“シュワちゃん”ことアーノルド・シュワルツェネッガーの長女で作家のキャサリン・シュワルツェネッガーと再婚、翌年には長女ライラが誕生し、彼は2児の父となりました。

 

その彼は、熱心なクリスチャンです。日本のクリスチャン俳優・タレントは、クリスチャンであることが人気に響くことを恐れてか、自分からは公にしない人が多いですが、クリスは、2019年のMTV(アメリカの主要ケーブルTV)ムービー&TVアワードの授賞式の受賞スピーチで、「神は存在する。神はあなたを愛している。」と熱弁を奮いました。これは、キリスト教国アメリカでもめったにないことです。

 

そんな彼にも“試練の時”がありました。前述の長男ジャックが早産で生まれた時、小さな命は、ICUの中で、数日間死線をさまよったのです。その時彼は、神様にひざまずいて、この祈りをささげたのでした。彼は、俳優としてのあらゆる栄誉、富よりも、「一人の子の父親になること」を何よりの喜びとし、「その子を養う」ことを心から願ったのです。

 

岩淵まことさん作詞・作曲・歌の名曲に、「父の涙」がありますね。そのリフレインはこう歌います。

 

十字架から溢れ流れる泉 それは父の涙 

十字架から溢れ流れる泉 それはイエスの愛

 

クリスも、涙の中で我が子のために祈ったとき、み子を十字架につけられるほど彼を、そして私たち一人一人を愛しておられる父なる神様と、思いを一つにしていたのかもしれません。

 

I've done all kinds of cool things as an actor...but none of it means anything compared to being somebody's daddy... I made promises in that moment about what kind of dad I wanted to be, and I just PRAYED that he'd live long enough that I could keep him. – Chris Pratt, on the premature birth of his son.

 

神様は、このような弱く神様から見たらどうしようもないような私をさえ、愛され、私の身代わりに御子イエス様を十字架にかけて死なせるほどに愛されたのです。あなたがいきるためなら、と。この神様があなたの父となられることを選んでくださった、私たちを愛された。この愛に私たちはどうこたえるでしょう。

 

 

1+3≠4 

1+3=∞

 

そんなことがあるわけがない、なにか変なクイズと思った方かもしれませんね。

でもこれは事実に基づいた話なんです。

 

ただ唯一のイエス様の十字架の3本の釘により、私は赦された(4フォーギブン)。いや永遠のいのちさえ与えられた。
1Cross +3Nails=4Given

 

イエス様は神の御子ですから十字架から降りる事は出来ました。裏切る弟子たちを見て。

でもイエス様を十字架に架け続けたのはたった3本の釘。

しかし、その釘は神様の私たちへの愛ゆえのものだったのです。

いのちがけの愛によってイエス様の愛があなたに張り付けられ、死して降ろされるも3日目に蘇られたイエス様。

 

その恵みに私達も預からせていただけるのです。神様がここまで愛されたあなたへの御心、御力は、私たちには計り知れない∞のご計画がある。これに信頼し歩みたいですね。