とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

ある会社の社長が工場の中を回っていました。
 
すると1人の若者が、中庭で壁に寄りかかり、タバコを吸っていました。社長は怒りながらその男に近づいて言います。
 
「お前は給料をいくらもらっている?」
「だいたい10万円くらいですね。」
社長は自分の財布から10万円を取り出し、その男に握らせ、こう言います。
「お前はクビだ、わかったらさっさと出て行け。」
 
男は工場から出ていったので、社長が近くの人に聞きました。
「なんだあいつは、どこの部署の者だ?」
社員は言いづらそうに答えました。
「はい、彼は宅配ピザの男です。」
 
まずこの話から学ぶのは、あまりに怒りやすいと損をします。
そしてもう一点。社長は自分の社員をきちんと把握していなかったのです。優秀な上司ほど部下を把握しているものです。
 
神様はそれ以上にあなたを把握し、心配し、追い出すどころか、御子イエス様の命を支払ってまであなたをご自身のうちにとどめ養ってくださります。
私たちはこの神様の愛、御心を今日も求めようではありませんか。
 
ピンクのバラ、ひび割れた大地、空

私達はどうしても周りの目が気になりやすいものです。

でもそれはあなたが行きたい方向に行かせてはくれるわけではありません。

八方美人である必要はないし、力の上下関係なんて関係ないんです。

 

私達は神様が導いてくださる道を真っ直ぐ進みましょう。なぜってそこで神様がでてくるって?

それはね、神様があなたをもう一度本来あるべき道に十字架にあって取り戻してくださったからです。私達はこの道を命の限り、神様の御心の道を進ませていただこうではありません。

 

周りの声に負けている場合じゃない、それっぽいことを言っていても責任を取らない無責任な声も気にする必要はない、命を欠けられてまであなたを愛される神様の声に導かれ歩もう。

 

 

「聴衆のサイズなんて関係ないよ、

一生懸命やり続けるだけさ。」

 

子供が笛を吹き、猫が見ている

 

 

人は弱い、小さいことを恐れ、なんとか虚勢を張ろうとします。

また、時には大樹の陰に寄り添うことでなんとか安心感を得ようとします。

それはまあ悪くはないのですが、

しかし、そんなにあれもこれもと広げても、元が間違っていた時、どうしましょう。

 

J・オズワルド・サンダース氏はこう語ります。

 

私たちアダムの子孫が偉大になりたがるので、主は小さなものとなられました。私たちが身をかがめようとしないので、主はご自身を低くされました。私たちが支配したがるので、主は仕えるために来られました。

 

神様に頼ることは小さく見えるかもしれません。狭い門に見えるかもしれません。

しかし、神様はあなたと共に住まわれ導かれます。命をかけて愛されました。

 

イエス様が謙遜になられ、道を開かれました。

だからその先に価値はない?そんなことはないでしょう。

あなたに命を得させるために十字架にかかられたのだから。

私たちはこの十字架の前に謙遜に膝をかがめ、悔い改め、神様がイエス様の命を通して広げられた大いなるいのちのうちを歩ませていただこうではありませんか。

 

私達が偉大である必要はない、大きく見せる必要はない、支配する必要はないんです。神様が、すべてを働かせ、益として下さる、御心を成し遂げてくださるから。このイエス様という大樹は倒れることがなく、この方に寄り添うところに本物の平安があるから。

 

イエス 謙遜な奉仕 水を注ぐ

 

私は7歳の時、思いました。

お父さんは世界で一番偉い。お父さんは何でも知っている。

17歳の時、私が考えたほどお父さんは良く知っていない。

21歳の時、私に比べるとお父さんは何も知っていない。

35歳の時、私が考えたよりお父さんは良く知っていた。

50歳の時、お父さんはいつも正しかった。

ーあるお父さんの日記よりー

私たちは見えないことに不安になります。でも、お父さんは子供が知らないだけで子供をしっかり支えています。

 

私たちの天のお父様、神様も、私たちが知らないだけであなたの内にその愛を日々日々注ぎ、心を注ぎだして御心を成そうとされています。もうどうにも歩けなくなった時にはあなたを背負ってくださり一緒に、その試練の先に導いてくださります。

私達の天のお父様は、なにせ私達のために、あなたのために御子イエス様の命さえ惜しまず差し出したほど愛される方だから。

 

神は父、母は誰?

今日を喜べぬ人間は、一生喜べぬ人間なり。

今日を愚痴る人間は、生涯を愚痴る人間なり。

ー三浦綾子さんー

 

強烈な言葉ですが、確かにそうです。

どこかしらにいちゃもんをつける私達。

でも、今日という日は神様があなたにプレゼントしてくださった日です。

あなたのためなら命をかける神様がくださった日です。

この日を喜ぼう。

 

私達のこの時代、本当に様々なことがあります。

いやになること、つかれること、どうしてこんなことが?どうして自分のみ、周りにこんなことが降りかかるの?と思うことがあるかもしれません。

しかし・・・

 

神様はこの天地万物を6日で造られた。ならどうっして神様があなたの生涯を1日で造り変えることができないなどという事ができるだろうか?

 

神様は24時間365日いつでもあなたに心を留め、

あなたの必要に応えてくださります。

神様でも流石に全宇宙を6日で作るのはむりでしょう、という人も、クリスチャンでもいます。でもそれは神様の能力を自分で狭めてませんか?

神様はこの広大な世界を作られた、その神様が1日どころかあなたを変えることができるのです。後はあなたが神様に立ち返るだけ。

 

さて、あなたは神様をどう思っていますか?

 

私たちはある意味で幸を求めますが、

本当の幸はどこにあるのでしょうか。アップダウンのある人生、

いつも喜べますか?

 

しかし忘れてはいけません。

あなたは神様が造られた存在です。それだけで大いに価値があるのですが、

その神様から離れてしまった私たちを祝福するため、命あるものとするために、御子イエス様は私たちの身代わりに十字架にかかられたのです。そして陰府にくだり3日目によみがえられたことによってあなたは取り戻されたのです。あなたがこのイエス様の前に立ち返るなら。

あなたはこの祝福の中に生きていますか?

 

「人生の祝福を与えるために、イエス様は私たちの罪を背負われた」

 

「都上りの歌

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。」

詩篇130篇1-8節

 

私は若い頃引きこもりをしていました。大学生の頃でしょうかね、一人暮らしをして、高校時代の友人たちとも離れて、大学でサークルをしている時に人間不信に陥る事件があって。まあ、この聖書の分かち合いの中でも何度も紹介してきた話なのですが。小さな頃から通っていた教会からも遠く離れていたし、誰にも話せない、そんな時、どういうわけか高校時代の一時だけキャンプで知り合った友が、外に連れ出してくれた。それまではもう、一人暮らしだし食事をしなければ死ねるかな、と思っていたのですが、それをきっかけにもう一度、と思ったんですよね。それがなければ今ここにはいない。その友も私のそんな状況を知っていたわけではなく、何かの偶然だったのでしょうけど、きっと神様が彼を遣わしてくれたんだな、と思う。また、父が倒れ、その入院生活を支えるため(リハビリ、介護)、フルタイムの仕事もできなくなり、誰にも相談できない状態になり、孤立していた時も、不思議と助けてくれる友を与えてくれた、神様が。神様は見て見ぬふりをされない、もうどん底だ、と思うところにも確かに力強い神様の御手がある。何かをしてくれるしてくれない、ではなく、何か良いことをしたら思てくれるとか、そういう関係でもなく、ただあなたを愛し、思い、働かれている神様を今日も覚え、信頼し歩もう。神様は今もあなたと共におられるから。

 

ということで紀元前に生きていた様々な人が、時には王に追われていた青年、裏切られた王、苦しみの中にいた民、その中で神様が確かにおられ、見捨てられてもおかしくなかったのに、それでも神様が働かれていた、そのことを目撃した人たちがそれぞれの思いを、また目撃したこと、見聞きしたことを詩に残した詩篇、その130篇を見ていきたいと思います。なお、この詩篇も120篇から続く「都のぼりのうた」になります。これもそれぞれ色んな人がうたった詩ではありますが、彼らはただ宗教的にエルサレム神殿に順礼することだけを考えうたっていたわけではなく、もう一度神様の都に帰りたい、神様との関係が回復されることを願い、心もからだも神様に向けていた、それがこれらのうたに現れていたわけですね。そしてその希望が他の人、時代が変わっても励ましとなっていったわけです。そういう意味ではあなたの持っている希望は、神様への思いは誰かを助ける事にもなる、そんなことを思わされますね。

 

それで、この130篇の詩人は、「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください」とうたい始めます。詩人はどうも絶体絶命な状態にあるようですね。詩人は「深い淵」という表現を使っていますが、その意味するところは、正確には「最も深い淵、底なしの深み」という意味になります。そこから考えると、この詩がうたわれたのは、バビロン捕囚中のイスラエルの民の一人ではないか、と思われます。

 

かつてイスラエルの民は神様の憐れみによってエジプトの奴隷といて約400年捕えられていた絶望の淵から神様によって救い出され、約束の地、乳と蜜の流れる地、まあ一般的な言い方をすれば肥沃な大地と言ったらいいのでしょうか、そのような地に導かれ、与えられ、住まわせていただき、神様の祝福の中歩んできたのですが、徐々に彼らは神様から離れていき、ついには捕囚にあってしまった、どん底に落ちてしまったわけです。彼らとしてもなんで?どうして?そう思いたい状態だったでしょう。王は失われ、自分たちの住んでいた地から連れ去られてしまった、彼らの大切にしていたものが失われて行ってしまった。神様は自分たちを見捨ててしまったのだろうか?そう思いたくなるような場面もたくさんあったわけです。民族存亡の危機も何度も捕囚中にありました、理不尽なことを強要されることもたくさんありました。いつにあったら抜け出せるんだ、そんな日々の中、詩人も含めた民は過ごしていました。

 

もちろん、人それぞれ辛い、どん底だ、どうしたらいいか分からない、どうやったら抜け出せるのか見当もつかない、そういう状況は違うのかな、と思います。きれいごとなんて言ってられないんだ、そういいたくなる日もあると思います。詩人も「最も深い淵、底なしの深み」という表現をするくらいですからよっぽど苦しかったのでしょう。

 

ただ詩人はそれでも、この抜け出せない沼、もうあきらめるか、このまま苦しいままでいい…とは言わなかった。どうせ誰も見ていない、聞いてくれない、助けてくれない、と諦めなかった、詩人は神様に声をあげたのです。祈ったのです。私の声を聴いてほしい、そう必死に訴えるのです。神様なら、抜け出させて下さる、引き上げてくださる、この状況を変えて新しいものへかえてくださる、そう信じたのです。

 

考えてみますと、人は誰しも祈ります。祈る対象はともかくとして。自分の願望をかなえるため、もしくはこの詩のように何とか助けてほしい、そういう叫びを、誰に祈ったらいいのか分からなくても、何ものかに叫び求めます。それがダメ、と言いたいわけではありません。しかし、答えてくださる方がいなければその祈りは、叫びは虚しく帰ってきてしまう。でも、そうじゃない、あなたの心の叫び、痛み、悲しみ、それらを見過ごさず、聞いておられ、答えてくださる神様がいるのです。どこか遠くではなく、あなたのそのどん底、抜け出せない沼から引き上げ、いのちの内に招いて下さる神様がいるのです。

 

捕囚前、罪の中にいた、神様から離れ、神様を神様とせず、好きなように生きてきた民、神様はそんな彼らを見捨てることだってできるはず、でもしなかったのです。これまでの詩篇でも何度も触れてきましたが、この捕囚の地にあって、神様は共におられた。預言者を通して希望を語られ、またその具体的なその計画を見せてくださった。それだけじゃない、バビロン捕囚というどん底にあって、神様が選んだ器をバビロンの中枢に、宦官として置くことでイスラエルの民を幾度となく救ってくださったのです。時には人となって生まれる前のイエス様が直接的に助けに来られたこともありました。もう何もない、救いの道などない、そう思いたくなる中に、神様はおられたのです。燃える炉の中、腹をすかせたライオンの穴の中…。遠くから見ておられるのではなく、その只中に神様も共にいてくださり、そこから引き上げてくださった、希望をもたらして下さったのです。そしてそうして彼らと共にいながら、ついに約束の70年の後、バビロンからイスラエルの地に連れ戻して下さった。神様ご自身がペルシャの王、クセルクセスに働きかけて、閉ざされた門を開いて。

 

私たちは、あなたは、私たちの声を聴いて下さっている神様を求めているでしょうか。神様はある時はいる、ある時はいない、ある時は聞いている、ある時は聞いていない、そういう方ではないのです。どうしても日本の神社などを考えると神様に対してそういうイメージを持ちやすいですが、私たちは神様の作品、神様の御手によってつくられた存在なんです。そして、私たちの世界に神様を持ち込むのではなく、神様の創られた世界に私たちは住まわせていただいていて、生かされている、養われている、守られているのです。その全ての主なる神様が私たちを心配してくださっていて、その大切なあなたの声を聴いて下さっている、遠くではなくすぐ傍にいるというのはまさにそういう事なのです。どん底だから神様はいないんじゃないか、何もしてくれないじゃないか、ではない、私たちがその神様から離れ、本来はまらなくても飯沼にはまり、下手をすれば抜け出せないどころか、その状況にどっぷりつかってしまっている。

 

でも、神様は私たちが神様の恵み、愛、そうした中ではなく、泥沼の中にはまっている状態を良しとはされません。神様は私たちをこの泥沼から、この世の様々な思い煩い、痛み、またこの世の様々な支配者、あなたを縛り付ける何か、サタン、罪、沼とも気付かずにどっぷりはまり、神様のいのちを失って言っている私たちを引き上げ、自由にするため、いのちをもたらすために、神様はこのどん底にまで降ってきてくださった。遠くから見ているのではなく、あなたのことばにならない叫び、祈りを聞いて、でも神様から離れ好きなように生きていたからな、と突き放すのではなく、あなたの祈り、声を聴いて、救わんと、人となって生まれてきてくださったイエス様が私たちのこれらの重荷、罪、一切を身代わりに背負ってくださり、十字架に架かられ、罰せられ、死なれました。しかし3日目によみがえらせていただいたことによって、これらに勝利されたのです。そしてこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返るすべての人の罪は赦され、これらののろいから解き放たれ、自由にされる、新しくされる、イエス様の復活と同じ恵みに与らせていただけるのです。イエス様がそのいのちをもって、命がけで、あなたを引き上げ、取り戻して下さった。あなたの泥を払って、きれいにされ、神様のすばらしさで覆ってくださる。

 

このイエス様のいのちによって覆われた、救い出された、それがどれだけ素晴らしいことか。あなたはこのイエス様に救いを求めますか?もちろん辛い状況、悲しみ、そうした中から助けてください、と叫ぶのも間違いではありませんし、あなたのその声を聞いて答えてくださるでしょう。あなたの涙をぬぐい取ってくださるでしょう、泥を払ってきれいにしてくださるでしょう。でも、私たちが気付かずにはまっている世の泥沼から救い出してください、と同時に求めているでしょうか。別に?と思っていないでしょうか。

 

詩人は「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます」と、神様から離れ、不義の中にいる自分など本来神様に目にかけていただくに値しない、そう考えた。でもそんな自分をも、神様は目を留め、見捨てず、赦すため、その泥と言いますか刑罰を御子イエス様が引き受けてくださった。そこまでしてでも神様が私たちを罪の支配、泥沼から引き上げようとされた神様の思いはどれだけすごいことか、そこに用意されていることは。

 

かつて神様は預言者イザヤを通して「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』と神は仰せられる。エルサレムに語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍の祝福を主の手から受けた」と、まだ不義の中にあったイスラエルの民に向けて語られました。神様はあなたへ今日も語られている。あなたはこの声に応えるでしょうか。慰めよ、慰めよ、とまるで自身に言い聞かせるように神様が仰られるこのことばに。あなたの労苦を終わらせるため、2倍の祝福、数時には現わさせないその祝福、愛を与えるために、御子イエス様に償わせてでも向けられたあなたへの愛に。

 

詩人は「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます」と、神様を今日も待ち望んでいます。まだ夜は明けていない、でもこの夜の間も見回って、あなたを心配し、夜明けへと導かれる神様がいる。今日、私たちはこの方を待ち望みましょう。あなたの魂に幸いを与えてくださる神様に、その救いを。あなたのために御子イエス様のいのちを惜しまなかった神様があなたにもたらされる最善を信じ待ち望んで。「イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される」、贖い出して下さった、イエス様がこの世では測れない都へと引き上げ、があなたに用意されている豊かな恵みに信頼して今日も歩もうではありませんか。

 

これはまたファンキーなタイトルに感じるかもしれませんが、武田信玄と言えば、的である上杉謙信から塩を送られる、なんて逸話がありますが…もう一つありますね。「人は白、人は石垣、情けは味方、仇は敵」とうのも。

 

(ここからは動画メッセンジャーの解説)

聖書は今日の箇所で「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか」と私たちに問いかけてきます。現在、多くの教会では礼拝堂を建てることには力を注ぎ、そのためなら多額の献金さえ費やすのに、いま目の前に経済的に苦しんでいる兄弟姉妹たちがいても、「それは大変ですね。神様があなたにパンが与えてくださるようにお祈りしています」と口で言うだけで具体的な助けをしようともしません。はたして、それは聖書が求めている教会の姿だと言えるのでしょうか。「教会とは何なのか?」「クリスチャンとは何のために、何をすべき人たちなのか?」 今日はこのことについて聖書からお話させていただきます。

 

ということで、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただきます。

よければ聴いて下さいm(__)m

 

Ⅰヨハネの手紙3章17-18節

「武田信玄に敗れた教会」

 

 

「何人」の数は忘れなさい

 

決して“数”を気にしちゃダメ。

一度に1人の人を助けるの。

そしていつでも一番近くにいる人から始めることよ。

~マザー・テレサ~

 

あの「死にゆく人の家」のマザーを思い出すと、絶えず多くの人を前にして助けの手を差し伸べている彼女のイメージを思い出すのですが、本当はそうではなかったのです。彼女の眼中には、助けた人の“数”はありませんでした。

 

あなたの価値は何か成功の数や、慈善事業の数ではないのです。

神様がすべての内に働かれることを常に祈りたいですね。そして、導かれたなら行動に。

全てを働かせて益としてくださる神様に信頼しようではありませんか。

 

”この人を”と思う方が、すでにいらっしゃいますか? 今、どなたかをお決めになりましたか? まずはその人の“友”におなりなさい。心を許してもらえる友に――。

Never worry about numbers. Help one person at a time, and always start with the person nearest you. 

Mother Teresa