とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

 

 

列車がトンネルに入り、暗くなっても、あなたは切符を投げ捨てて、列車から飛び降りたりはしません。ただ静かに座って、運転手を信頼していればいいのです。

ーナチから多くのユダヤ人を救った、と同時にホロコーストの生き残りの一人ー

 

彼女の人生は本当に辛いことが多かったでしょう。

 

ナチの時代、リアルに生きていたのですから。一体この先どうなるか、と。

でも、彼女の人生の列車の運転手は神様。神様が導かれたのです。

私たちの人生、十人十色、様々なことはあるでしょう。でも一緒に乗っている方はあなたのために命さえ惜しまず、神様の恵みへ向けて導いてくださっているのです。

だから、私たちはこの神様に信頼し続けようではありませんか。

 

 

「もし、もしかしてだけど、僕たちが一緒にいられなくなる日が来たら、君の心の中に僕のことを留めておいてね。そしたら僕はそこにいつまでもいるから。」

 

くまのプーさんのワンシーンですが、

作者はクリスチャンです。

ここで訴えたいのは、人間同士もさることながら、それ以上に、

 

神様のなさることが時に見えなく感じても、神様があなたを心に留め、あなたのそばにいつもおられるということです。あなたの祈りに、賛美に、静まる時の中に、求める中に。

 

神様はいます。

御子イエス様の命を惜しまない神様が。

この神様に私達も惜しみなく心を注ぎだそうではありませんか。

 

言葉の重みって大きいですよね。

愛、と言っても時には厳しいことも言うのも愛、その人を思っているなら、ね。

それと同時にだれが言っているのか、それもまたかかわりがあります。

 

↓の画像、

聖書の

「神さまは愛なり」
Ⅰヨハネの手紙4章8節

というところから取られています。

 

そうなんです。

神様は愛なんです。ときに厳しいこともあるかもしれない、悔い改めに導くこともあります。

でもそのためにイエス様は命を惜しまず、あなたが命を得ることを願われた。

この究極の愛、いただいていますか?この愛に生きていますか?

 

「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように。私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。」

コロサイ人への手紙1章1-8節

 

私たちの周りには様々な美味しく見えるものに溢れています。食事、音楽、この辺までは何となくわかりますが、価値観、情報…。もちろん全部摂取できるわけはないのでつまみ食い、良いところどりして、自分に合いそうなものを取り、それによって価値観が形成される…。本当に良いものを知らないのか、それに満足できないのか?ドリンクバーなどをイメージすればわかると思うのですが、美味しいと思うものをごっちゃ混ぜにしたり、好きな者だけを集めてごっちゃ混ぜにして美味しいか?結局よくわからないものになるだけ。私たちは本物を求めていますか?世の価値観とかとごっちゃ混ぜにしていませんか?神様は私たちに純粋な愛を注がれ、良いものを与えてくださっている。その愛は純粋で、あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった。そこまでしてでも完全な愛を、御心をあなたに現し、導こうとして下さっている。あなたはこの本物の愛を受け取っていますか?

 

ということで、1世紀にキリストの愛を伝えていた、元キリスト迫害者、クリスチャン迫害を熱心にしていたパウロが復活のイエス様に出会って変えられた、罪赦され神様の子とされ、そのキリストの愛を、喜びを届けようと様々な場所に手紙を書き送った手紙のコロサイ人の手紙を見ていきたいと思います。この手紙は、彼がローマで皇帝ネロの裁判を受けるべく、自宅軟禁を受けながら書いたものです。

 

それでコロサイ人、と言いますが、ようするにその地方名なのですが、現在のトルコ西部、フリュギアの辺りになります。地理的な状況を見て何となくわかるかもしれませんが、この辺りは交易都市として大きな役割を果たし、それ故にか、様々な文化、哲学、宇宙論、思想が入り交じっていました。それで、↑に出てくるエパフラスがパウロから洗礼を受けた後、教えを受けた後か、この地方に帰ってきて建てたのがこの教会と思われます。そこに集まる人たちもそういう地方都市の特徴からか、神様を信じてはいても、これでは足りない、あれもこれも、と色んな思想、考え方が入り交じり始めていた、本物の愛、神さまとは、救いとは、その辺りが曖昧になっていたのでしょう。天使崇拝なんてことも出てきていますし、グノーシス主義、禁欲主義、肉体軽視などだんだん神様が本来与えてくださっている恵みから離れてしまっている。そこでパウロはこの手紙を書いていったわけですね。

 

それでパウロはこの手紙をまず挨拶から書き始めます。まあこの辺は礼儀というか、挨拶もしない関係というのも残念なところですが、「神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように」と。彼は人間的な教え、自分の教えを押し付けるのではなく神様の事を伝えたい、彼の願うところは、神様の恵みと平安がコロサイ地方の上にもあることなのです。神の御心による、とありますが、それは聖霊様に導かれて書いた手紙、そうなると、まさにそれこそが全てと言いますか、神様の御心はこの地に本物の神様の恵みと平安に満ち溢れることなのです。コロサイ教会のように何が何だか分からなくなった彼らを神様は本物へ招こうとしているんだよ、と。

 

私たちは神様は何も語らない、しない、というイメージを持ちがちです。多分他と比べるからか、他の声、それこそ昨日の詩篇114篇の分かち合いの中で出てきた「異なることば」を聞いて、聞き比べて良いほうを選ぼうとして、ほら神様は…と不満を持ち始めるのかもしれない。でも神様は昔から語ることをやめてはいない。聖書の記録に残っていない時期もありますが、その時はその時で、本人たちが気付いていなかっただけなのか、書き残されていないだけなのかもしれません。いずれにしても神様はその働きをやめたことはないのです。この神様の働きがあるから私たちは生きられる。神様が私たちを養ってくださっている。

 

パウロのあいさつの冒頭で、神のみこころ、とありますが、みこころということばには、神様の喜びという意味合いも含まれている、あなたを喜ぶがゆえに、神様はあなたにあいさつ、と言いますかこうしていつも語りかけてくださっている。その手紙、語りかけを受け取るか、それともほかの異なることば、自分に合いそうなものを選ぶか?ごっちゃごちゃにして本来神様が導こうとしているもの、姿、御心を失ってはいけませんね。「自分の『おこころ』」ではなく「誰かのおこころ」でもなく、神様のみこころを信じ信頼したいものです。神様の御心、あなたへの思いは今日も注がれているのだから。訳の分からない様々なものに囲まれている、何が真実か分からないものに囲まれた時代にあっても、神様の真実は変らない。これを私たちは聞こう。受け取ろう。

 

パウロはさらに「私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです」と書き記します。パウロは祈ることをやめない。それは神様が私たちの祈りを聞いて下さっているからです。あの人は大丈夫だろう、と祈るのをやめるのでもなく、あの人はどうせだめだ、と諦めて祈るのをやめるのでもなく、彼らのことを心に留め、覚え、祈る、その中でさらに神様の御業が広がっていく。コロサイの教会にパウロ自身勧めるだけではなく、彼自身も祈ること、どうせ無駄だよ、とかそういう心をくじいてくるような異なることば、世の声、そうしたものに負けるのではなく、自分自身もしっかりとイエス様の愛を、信仰を堅くする、その事を覚えているわけです。

 

私たちもこれはコロサイの話でしょ?と他人事のように見てはいけませんね。色んな情報やらいいところどりをして、この神様の愛をごちゃまぜにして訳の分からないものにしてはいけない。あなたの事を愛し覚えている、本物のことば、愛を語られ、実行される神様にしっかりと立とう。この神様はあなたをそうした偽物やら、まがいもの、思い煩い、痛み、何より罪、そうした神様の御心とは異なる所から救い出すべく、御子イエス様に本来負わせるべきではないこれらのもの、何より罪一切を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

この愛にこれ以上何を混ぜ、薄めてどうしましょう。「それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです…」とパウロは書きます。このことについてイエス様の12弟子一人で使徒だったペテロは「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています」と書き送ります。神様が今、このイエス様にあって生きるのぞみ、神の御子イエス様のいのちをもって私たちに本物の望みを持たせて下さる、新しくしてくださる、朽ちることも汚れることも消えることもない資産を私たちは受け継がせていただけるのです。これを求めず、どうしましょう。

 

何より神様はあなたに御子イエス様のいのちと共に全ての良いものをあなたに与えようとしてくださっている、資産を備えて下さっている。今日、私たちはこの方だけに希望を抱こう。この方が新しくしてくださる、本物の愛、これに生かされ歩もうではありませんか。またあなたの抱く希望、届ける愛、仕える姿、する小さな事を通しても神様は↑の最後にあるようにその素晴らしさをさらに溢れ流れさせ、全ては生きるようにしてくださる。あなたはこの方に希望を今日持っていますか?混ぜ物をせず、ただ純粋にこの方だけを求め生きよう。

 

宇宙に広がる銀河と山脈の風景

人はどんなに強がっても完全ではないし、弱さもあれば強さもあります。

だから一人では生きていけない、誰かと助け合うのです。

それでもどうにもならない場合だってあります。

 

しかし神様はどんな問題、悪や敵よりも大きな力を持っています。

 

私たちはこの神様にコミット、信頼しつながる中で、一緒に、御子イエス様の命を押しまない神様が共に導かれるのです。このイエス様が何よりあなたにコミットされる、命をかけられても愛されるイエス様があなたと関わられ、愛を注ぎ、今日も導かれます。

 

あなたは大切な誰かを忘れていませんか?

 

世界中に知識のある人、賢い人はそれ相応にいますよね。

私は賢くはないと思いますけどね、自分を(;・∀・)

 

ただ、賢さだけで人生を乗り切るのは大変です。

カール・ヒルティ氏曰く。

 

「賢さで人生を乗りきるのは困難だが、導きによって生きるのは容易である。」

 

誰の導き?本?友人?それもまた結局は誰かの知識であり、なにかの賢さ、どこかで行き止まってしまいます。

 

しかし神様が導いてくださるとき、一緒に乗り切ってくださるから、私たちは辛くない、というよりも一緒に脱出させてくださり、その先の神様のご計画へと導いてくださる。その先に待つ栄光へ私たちは今日、誰の賢さ、どんな導きを待ち望むでしょうか。

 

「イスラエルがエジプトから、ヤコブの家が異なることばの民のうちから、出て来たとき、ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった。海は見て逃げ去り、ヨルダン川はさかさに流れた。山々は雄羊のように、丘は子羊のように、はねた。海よ。なぜ、おまえは逃げ去るのか。ヨルダン川よ。なぜ、さかさに流れるのか。山々よ。おまえはなぜ雄羊のようにはねるのか。丘よ。なぜ子羊のようにはねるのか。地よ。主の御前におののけ。ヤコブの神の御前に。神は、岩を水のある沢に変えられた。堅い石を水の出る泉に。」

詩篇114篇1-8節

 

私の好きなことばで、恩師の一人がよく使っておられる言葉があります。それは「いてくれてありがとう」。あなたがいてくれる、生きていることが感謝、その存在そのものがうれしいんだって。これ、言われたら本当に心が落ち着くと言いますか、嬉しいですよね。神様にとってもまたあなたは喜びの存在。御心って言葉が聖書に良く出てくるんですけど、これは喜び、という意味があって、そういう意味ではあなたは喜びの存在なんです。神様があなたの内に喜びを現して下さる。なんて感謝な事。それゆえにあなたが悲しみに落ち込むことを良しとできず、滅びることがないよう、御子イエス様をむしろあなたの身代わりに死なせてでもあなたを救わんとされたわけです。そんな神様があなたの内に現される御心、喜び、期待してみませんか?ここに神様がおられる、ここに神様の御心が現わされることを期待して。この方に心を閉ざすのではなく開いて。神様もあなたに心を開かれているから。

 

ということで、紀元前の様々な時代に生きていた人たちが、それぞれ色んなことを目撃、体験し、思わされたこと、目撃した歴史的事実、神様に出会って知らわれたこと、預言されたことなどを詩にし、それをまとめた詩編の114篇を見ていきたいと思います。

 

それでこの詩をうたったのは表題にはないので定かではありませんが、詩の内容的に考えるなら、バビロン捕囚から解放された人の誰か、個人的にはイスラエルの民に、神様に帰ろうと訴えていた学者・歴史家のエズラではないか、と思いますが、その詩人がかつてエジプトの奴隷状態から救い出して下さった神様を思い起こしながら、これがバビロン捕囚の中にあってもなされたこと、それを改めて思い起こしながら、神様をあがめる事、神様こそ褒め称えられるべき方、この方だけをあがめ、生きよう、とうたうわけですね。それが、113篇でも少し解説しましたが、この114篇を含む113-118篇は、ハレルヤ詩篇と言われる所以なのかな、と思うところです。111-112篇でも解説しましたが、定型文的に、もしくは習慣で何となくいうハレルヤ、言わされるハレルヤ、気分の高揚でいうハレルヤではなく、心から神様を求めよう、と。

 

そしてもう一つ、113篇でも解説しましたが、このハレルヤ詩篇はユダヤでも今でも過越しの祭りでうたわれたり、イエス様ご自身最後の晩餐の後、この詩篇をうたったのではないか、と言われています。これらの詩篇の中で、イエス様がお受けになる十字架の受難、復活、そして聖霊降臨の預言が成され、そのことをイエス様はうたい、かみしめながら、私たちにハレルヤの日を迎えさせるべく十字架の道を進まれた、それほどの神様の愛が、昔も今も、私たちに注がれていることをこれらの詩から見ることができますね。何百年も前に預言されたことを反故にされることなく成就された愛が。

 

それで詩人はここで「イスラエルがエジプトから、ヤコブの家が異なることばの民のうちから、出て来たとき、ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった。海は見て逃げ去り、ヨルダン川はさかさに流れた。山々は雄羊のように、丘は子羊のように、はねた」と、かつてイスラエルの民が異なることばの民・エジプトの奴隷として400年にわたり捕らえられていた時、神様がどのように救い出されたのか、それを振り返ります。

 

神様は、これまでの詩篇でも紹介してきましたが、エジプトにイスラエルの民がとらえられている間も守られていました。彼らの数は増え(およそ70人から200万人近くに増えた)、ファラオさえ恐れるほどに神様はイスラエルの民を祝福していたのでした。しかしそれに恐れをなし、ファラオはただ奴隷にするだけではなく、数が増えないようにと、分娩台の上で男の子が生まれたなら殺すようにといい、それでもだめだから、と今度はナイル川に流すように命令していました。もう絶望そのもの。ひどくなると、作業に必要な材料まだ自分たちで調達し、必要量を減らしてはいけない、とか、もうめちゃくちゃ。そうした絶望下、民の叫びを神様は聴き(もちろん知っていたから、彼らをこれまでも守られ祝福されてきたわけですが)、モーセを誕生させ、彼を通してイスラエルの民をエジプトから脱出させたのでした。その間多くの癖気を神様が彼を通して行い、ファラオは頑なになっていましたが、最後ついに彼らの出エジプトを赦すのでした。

 

しかし、「海は逃げ去り」とありますが、エジプトの軍勢が彼らをやはり逃がしてはならない、と追いかけて来て、イスラエルの民は紅海とエジプト軍に挟まれるのです。その時神様が紅海を割り、ある意味では海は逃げ去り、イスラエルの民はそこにできた渇いた地を渡り、エジプト軍はこの航海の底に沈められたのです。その後、神様の臨在がシナイ山に降りてきた時、「山々は雄羊のように、丘は子羊のように、はねた」とあるように山は震えました。そしていよいよ約束の地に入ろうとしていた時、神様はヨルダン川が逆さに流れた、と表現されているように、せき止められ、ふたたび渇いた地を渡って約束の地に入っていったのでした。そして彼らは神様が与えてくださった地に住み着いたのでした。

 

この出エジプトの旅路の中、神様は多くの奇跡をおこなわれました。食べ物のない荒野で毎日食べ物を贈られ、備えて下さり、水のない所に水を湧きあがらせ、戦いにおいては神様が助けてくださり勝利を与え、呪いをはねのけ…。しかしイスラエルの民は奇跡的なことが起こると神様に感謝し、そうではなく何か苦労があるとすぐに神様に不平不満を言った。そしてついには出エジプトをせっかく果たし、およそ1年で約束の地に入れるところを、神様のことばに信頼せず、恐れおののき、ある言いで周りのことば、↑でエジプトを指す言葉で書かれていましたが「異なることば」に惑わされ、なんと、脱出した時に20歳以下だったものと、ヨシュアとカレブという最後まで神様に信頼しきった2人を除き、約束の地に入れず、荒野で果てたのです。なんともったいない。

 

これ、私たちもそうですが気を付けなければなりません。私たちは奇跡的なことを目撃すると神様を褒め称える。自分の耳に良いことば、出来事については喜んで、そして従います、という。でも、どういうわけか例えば罪についての詩的だったり厳しいことばについては退けてしまう。自分が考える道、方法と違うと、「異なることば」を選び取る。神様がダメだよ、と言っている事でも平気で、神様を信じると言いながら、時代が違う、状況が違うと言って、↑のように救いを受けていながら逆らってしまう。イスラエルの民の最大の失敗である、それら奇跡をおこなわれている方、語られている方は同じであり、その神様ご自身を見ていなかった。表面的な奇跡や驚くべきことは求めても、神様自身を求めていなかった。

 

でも結果、「ユダは神の聖所となり、イスラエルはその領地となった」という素晴らしい結果を得ることができない者たちが多く出てしまった。なんと残念な話だろう。神様は私たちを神様の聖なる場所に招きたい、いや私たちの住まいを聖めたい、神様の御心で新しくしたい、偽りの神や思い煩い、異なることば(差別的に言っているわけではありませんよ?)によって満ちた状況から、神様のことば、約束、その言葉によって生きるもの、所、日々へと変えたいのです。神様は異なることば、思い煩いや、様々な世の支配、罪、そうした中らから救い出し、連れ出し、本物のいのちのうちへ、神様ご自身のうちへ招いて下さっているのです。奇跡があるかどうか、自分に都合がいいことがあるかどうか、ではない、「本物の」神様ご自身のうちに「本物」があるのです。この本物のことばで神様はこの天地万物を創られ、生かし、導いて下さっている。私たちが当たり前、と思う事の中にも、辛い日の中にも確かに神様はおられ、変えてくださるのです。

 

私たちは誰のことばに耳を傾けていますか?口先だけ、何の責任も持たないAIやら自分の都合のいいことだけを語るものの声に耳を傾けていませんか?詩人は「海よ。なぜ、おまえは逃げ去るのか。ヨルダン川よ。なぜ、さかさに流れるのか。山々よ。おまえはなぜ雄羊のようにはねるのか。丘よ。なぜ子羊のようにはねるのか。地よ。主の御前におののけ。ヤコブの神の御前に。神は、岩を水のある沢に変えられた。堅い石を水の出る泉に」とうたいます。出エジプトの旅の中で起こった一つ一つの奇跡は偶然ではない、神様が彼らの内に介入され起して下さった。奇跡が素晴らしいのではない、神様が私たちを救おうという強い意思によってこのような素晴らしいことが起こるのです。あ、もちろん奇跡自体を否定するわけではありませんよ?ただ、奇跡があれば神様を信じる、褒め称える、奇跡がないと神様を疑い、罵り、別なことば、価値観やら何かを求め、それを褒め称える、それではだめなんです。

 

それは誰しもがいろんな不安なことがあるのは分かります。誰かに頼りたい、それは間違っていない。でも頼るべき方を間違えて神様の恵みを失ってどうしましょう。神様はそうした、それこそ↑にあるように、神様の民の行く手、私たちを阻む自然の力を「おののけさせ」=「ねじまげて」でも、「ゆすぶって」でも、神様がご自身の民の進む道を造り、新たなかかわりを造られる方なのです。あなたのうちを異なることば、価値観や恐れ、不安に満たしているものを神様は取り除かれるのです。私たちが神様を疑って、異なることばを選び取って、価値観を奪い取って、この神様の素晴らしい働きを捻じ曲げるなんてもったいないじゃないですか。

 

むしろそんな様々なものに支配され、捻じ曲げられてしまったこのいのちをもう一度取り戻し、いのちの川を私たちの内に流れさせるために、神様は御子イエス様に私たちの負っている様々な異なるもの、重荷、悲しみ、何より罪、一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせました。しかし3日目にイエス様をよみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる。イエス様のいのちが流れ、新しい助け主なる聖霊様が満ち溢れる命へ変えられる。異なるものではない、本物のいのちで満ち溢れさせてくださるのです。この神様の愛が、私たちを生かすそのご意思が、いのちをかけてでも救わんとされたイエス様のことば、私たちを生かす言葉、その全てがあの十字架から今日もあなたに向けて流れているのです。

 

私たちはもう異なるものを選ばず、ただこの神様の愛に信頼し、あなたの他に褒め称えるべきもの、ことはない、と心から告白し、ハレルヤ、と叫ぼうではありませんか。異なることばを選んで何が悪い?と思われるかもしれませんが、しかしイスラエルの民は、せっかく神様の民とされたのに、約束の地に入ったら、農耕のことは農耕の民、原住民の声、習慣、彼らの拝む神を拝もう、と言い始め、彼らは堕落していった。最終的には神様の土地は失うし、多くの苦しみを刈り取る事となりました。私たちが種をまく、褒め称えるところから私たちは身を頂く。私たちのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった声、この方と異なるものを求めて、何を刈り取ろうというのでしょう。これは世の声、これは神様の声、とえり分けるのではなく、あなたを丸ごと救い愛し抜かれた神様の声をこれは自分とは違う、と言って退けるのではなく、この神様の声を聞こう。これを褒め称えよう。

 

神様がこのイエス様のいのちにあって変えられる、それは全てをひっくり返して新しくしてくださる、ということ。神様はご自分の都合よりも何よりあなたに生きてほしいと御子イエス様のいのちを賭してでもあなたを支配する異なる様々な者、状況を「ひっくり返し」、いのちを与えてくださったのですから。私たちの常識を超え、ひっくり返った神様のすばらしさ・栄光を求めよう。この神様が今日、あなたと共におられる。神様がイエス様にあって備えられた命の道、これに信頼し歩もうではありませんか。あなたを滅びから、生きてほしい、いてくれてありがとう、と喜びをもってその愛を、御子イエス様のいのちをもってでも注がれた神様がいてくださる、この本物の愛、喜びに満たされた、その奇跡に今日生かされている、神様の全てに満たされしてくださるから。

 

地球とヤコブの神への賛美

昔、人は天に届けとばかりにバベルの塔というものを建てました。

自分の素晴らしさを誇示しようと。

私たちのプライドも下手をすればそうなります。背伸びして背伸びして。

でもそこに何があり、何を得るのだろう?最後は失っていく、疲れるだけではないか。

 

しかし

 

神様は2枚の板をもって天とあなたをつないでくださった。イエス様を架け、イエス様を架け橋とし。あなたがむしろ命を得、神様の恵みに豊かに生かされるよう…
それは私たちのプライドや努力で得られる何にもまさるすべてを与えられる。

 

今日、このイエス様の板、十字架に立ち返ろう。

 

人それぞれ価値観が違うから、何が良くて何が悪いのか、変わってくる。

ある人にとっては当たり前のことでも、ある人にとっては違うことも。

 

だからこそ、私たちは神様の視点で見る必要があるのではないか。

元 ワーナー・ブラザース映画会社の製作室長、小川政弘さんはこのようなものを用いて解説します。

 

◆神とサタンの声の見分け方8か条◆

  ≪神様の声は…≫        ≪サタンの声は…≫

① あなたを静めます。     ① あなたを軽率な行動に駆り立てます

② あなたを導きます。     ② あなたを急(せ)き立て、強います

③ あなたを元気づかせます。  ③ あなたを恐れさせます。

④ あなたを啓発します。    ④ あなたを混乱させます。

⑤ あなたを勇気づけます。   ⑤ あなたを気落ちさせます。

⑥ あなたを慰めます。     ⑥ あなたを思い煩わせます。

⑦ あなたを落ち着かせます。  ⑦ あなたを何かに取りつかせます。

⑧ あなたに罪を自覚させます。 ⑧ あなたをとがめます。

 

【解説】神様、サタン、それぞれの8つの声は、“対”になっていますので、ペアでお読みください。どれかに思い当たることはありませんか? 神様の細い静かなみ声に従って、日々を祝福のうちに歩みたいですが、私たちの耳に、サタンの声が聞こえることは避けられません。大切なのは、その声が聞こえたときに、ここに掲げたあなたの心の反応をよく考えて、それがサタンの声だと見抜くことです。

 

私たちはどうも力の加減がうまく行きませんね。

全力でとりあえずやる、もしくは適当に。もしくはその間。

でもどれにしても一人では辛いですよね。

 

でもイエス様はあなたの軛を一緒に追ってくださる。一緒に進んでくださる。

あなたの必要を備えてくださる。だから祈ろう。委ねよう…

 

「あきらめずに進みましょう。あなたが全力を尽くせるように、神様は必要を備えてくださいます。」