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とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押さえつけるな。主が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ。おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから。あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない。あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか。あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない。」

箴言22章22-29節

 

私たちは余裕がなくなると、相手のことをなかなか考えられなくなる、これは仕事などでは特にみられることかもしれません。もしくは自分中心で動こうとすると、周りにあまりいい影響は与えない。まあ人間、完璧な人なんていませんからどうしてもうまくいかないことはあるのですが、ただ、人には「愛」という感情が与えられています。いや、意志や行動のもとになるものといいますか。この愛があれば喜怒哀楽を正しく表現できる。いや、この愛が私たちを支えるのです。もちろん完ぺきな愛なんて私たちは持ち合わせてはいませんが、それでも私たちを我が子と呼んで下さる天の父なる神様は、私たちを愛してくださる、私たちを救うためなら御子イエス様のいのちを身代わりにしてでも、愛することを決断され、実行される方、この方の愛に私たちは支えられ、またこの方の愛が働くところに驚くべき恵みが広がる。私たちはこの神様に愛されていることをもう一度思い出し、なおこの愛に支えられ、またこの愛を分かち合い、神様の喜びが、いのちが広がっていく事を祈ろうではありませんか。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られた箴言、知恵・いのちのことばで、これを受けてソロモンが受けて私たちに書き残し示されたことばになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様はある場面、ある時だけその知恵をもって導きたい、平和を成し遂げたいとか、そういう考えではなく、どんな関係にあっても、どんな時も、神様の最高の愛を現したいんですよね。全ての初めは神様を恐れること、神様の御前にへりくだる、私たちの王座を神様に明け渡す、そこから神様の御業が始まるわけです。そこに神様の素晴らしさが飾られていく。神さまなんて信じて何になるの?と蔑むのではなく、私たちをわが子と呼んでその愛からくる知恵・御心が溢れる事、それが私たちの求めるべきところですね。あれをどうするこれをどうする、と世の中に溢れている知恵を用いるのではなく、まず神様を求める。

 

それで、神様からの知恵をこの箴言で聞いてソロモンは適応、応答するように箴言をさらに残していくのですが、↑では「貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押さえつけるな。主が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ」と書き残します。まあ、これ、ソロモンは貧しい人を奴隷にして働かせたりしていたから何を言っているんだ、と突っ込みたくなるところではあるのですが、むしろそうあってはいけないよ、という神様の訴えと見る事ができるでしょう。

 

それでこの話、本当に世の中残念過ぎるほどに起こる。弱い人、力のない人、ご老人…彼らから詐欺によってだまし取る人が本当に多いのが残念な話です。言うまでもありませんが、これを神様は律法で禁じています。禁じているというよりももっと積極的な命令として、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。…貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。『国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。』」と語られています。

 

私たちに神様が願っておられるのは、貧しい、まあ金銭的なことだけではなく様々な問題に思い悩む人、心貧しくなってしまっている人なども含めていいでしょう、その人たちに対して心を閉ざしたり、助けの手を閉ざしてはいけない、むしろその必要を十分に満たすように、と。の彼らの、あなたの手の業を通して神様が働かれる。もちろん神様が直接的に働かれることもあるのですが、これを私たちが忘れて何もせずにいて、なぜ貧しい人がいるのか?と嘆くのは違う。神様は、私たちにあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と仰られているように、この事を忘れていませんか?困っている人がいて可哀そうに、で終わったり、祈っているからね、とことばはかけるけど祈らないとか何もしないとかで止まっていませんか?

 

ちなみになのですが、この貧しい人を助けるために、借金の免除や貧しくて奴隷にされてもある程度の年で解放するように、彼らにちゃんと持ち物をもたせて解放(自分の家に帰ってちゃんと生活できるように)するように定めています。また、「第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足り」るように、十分の一の捧げものを用いて(今の時代の十分の一献金と呼ばれるもの、一般社会で考えるなら税金、これを正しく用いましょう、という話)互いに助け合う、支え合うように教えています。他にも、収穫をするとき、落穂を残して貧しい人たちがこれを拾えるようになど、さまざまな神様の配慮が、私たちを愛するがゆえになされているのです。この落穂ひろいの規定がある女性を助け、その女性とその家の主人が出会い結婚し、そこからイスラエル王国の2代目の王ダビデ、その子ソロモンへと王家が生まれていく、その先にイエス様がうまれてくる、という驚くべき歴史もあります

 

イエス様は「この最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのです」と、貧しい人、飢えた人、病んだ人に仕える事の意味を教えられたのですが、まさにそのことを通して神様は働かれる。そこから先程の落穂ひろいの話ではありませんが、神様のご計画が豊かに現される、貧しいと思う中に、豊かだと言える日が来るのです。

 

考えてみれば私たちの持っているものはすべて神様から与えられたものなんですよね。自分で稼ぎ出したとか、その前に私たちは神様の創られた世界に住まわせていただいているその中でいろんな収穫を得ている。その恵みの収穫をいただきながら私たちは生きている。その頂いたものをこれは自分のものだ、と困っている人に分け与えない、というのはまたちょっと違う話と言えば違う話。困っている人にも、もしあなたが何かの試練を神様によって乗り越えさせていただいてたなら、むしろ一緒に乗り越える、神様の恵みを分かち合う中でそこに喜びが広がるわけですね。

 

私たちは↑のことばのように、どうも与えるよりも頑張れ頑張れ、と声はかけるけど助けに行く足が重くなる。もっと頑張れとか、何々が悪いとか、妙に批判的なことばをかけてしまう。自分が愛されていること、神様から助けられたこと、守られていることを忘れ、愛することをどうも忘れてしまう、神様を、人を。なんででしょうね。それはあなたの何々が悪いからと押さえつけて。でもそんなあなたを見て神様は悲しまれる。

 

「おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから」とも↑で語られていますが、私たちは何の習わしに従って生きているのか。自分が正しいと思う価値観、経験、習慣、それらによって人に厳しく望んだり、自分と合わないからと激して接するのではなく、私たちは神様から愛されているという事、この神様に支えられていることを、何より私たち自身神様から離れ、本来神様から受けられるはずだった恵みを失い、貧しくなり、あらゆる意味で命を失うはずだった、そんな私たちを神様はそれでも見捨てられず、ご自身の最も大切な御子イエス様に私たちの思い煩いも、痛みも、罪も、一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたことを思い出そう。このイエス様の十字架で引き受けられた罰・死、これによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔いらため立ち返る時得られる救い、罪の赦し、永遠のいのち、これを思うなら、どうして他の人を蔑むことなどできるでしょう。むしろこの赦された愛、イエス様の愛をもって仕えるなら、そこに神様の赦しと癒し、解放が広がるのではないか。私たちの習慣や価値観ではない、こんな貧しい私たちを憐れまれた神様の恵みが、価値観からくる愛が広がるなら、それはどれだけ素晴らしいものへと変えられるか。

 

私たちが交わるべきは、一緒に行くべきは、自分の価値があう人ではない。もちろん彼らを見捨てるとかそういう意味ではなく、神様の愛、価値観と言いますか、この神様の中にいつも交わりをもつ、祈る、その愛をこの方の価値、愛が広がるよう祈りたいものです。そのあなたを通して神様の価値観、素晴らしさが広がっていき、そこは御国のようにいのち溢れるもの、輝かしい所へと変えられていくのではないか。自分の考えが正しい、神様あなたは間違っている、と神様から離れ、信じていると言いながら逆を行って神様の恵みを失ってはいけない。それはサタンの罠そのものです。自身の習わしではなく、神様の愛が私たちを赦し、神様の子としてくださった、永遠のいのちを与え、この内に今神様が働かれている、こんな素晴らしい愛が失われゆくことがあってはいけない。むしろこのイエス様の愛によって罪から回復される、解き放たれ、神様の御心が、知恵が、その全てが働かれ、満たされていくならどれだけ素晴らしいことだろう。

 

「あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない。あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか」とありますが、誰かの保証人になるのはやめよう、とかそういう話ではありません。考えなしに保証人になって困ることがあってはいけない、ということもあるのですが、本当に困っている人ではなく、これを見ると返す気もなくだまし取ろうとしているように見えます。そう、私たちが誓うべきは神様なんです。この私を御子イエス様のいのちをもってまで愛し抜かれた神様に従う、どんな時もこの神様に従う、委ねる、その中で、私たちを奪い取るのではなく与えてくださる神様が、私たちを御子イエス様のいのちをもって保証してくださっている人が私たちを、また私たちの周り、保証を必要としている人、神様の保証、救いを必要としている人をその愛の誓いによって満たして下さるのです。

 

「あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない」。私たちはこの神様から与えられた地境、いやいのちを他のものにゆずるのではなく神様に委ねよう。神様があなたの苦しみの中にあっても喜びを見出し、そのいのちを広げてくださる、神様の良いもので満たされる、いっぱいにしてくださるから。「じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない」と語られているように、本当に上手な仕事をする人はなかなかいない。しかし、今日もあなたを愛する絶えに完全な仕事と言いますか、その御業を成し遂げようとしてくださる方、あなたを救うために御子イエス様のいのちを惜しまず与えてまであなたの内に愛を働かれた神様が今日も働かれている。私たちはこの神様の働きを願い求めつつ、なおこの愛をもって仕えるものであろう。そのあなたを通してなお神様の豊かないのちが、愛が今日も広がり、神様の愛を失った、様々な思い煩いや貧しさを抱える人たちに本物の神様の豊かさが広がっていくから。何より私たち自身もこの神様の御前に心貧しくへりくだり、このいのちに満たされ歩もうではありませんか。この神様の働きの前に立ちおおせるものなど何ものもないのだから。この神様の愛に支えられ、また愛に今日も生きよう。主は今日もあなたを愛することを忘れず、心の底から愛を注がれているから。

 

貧しい人を搾取するな 箴言22章22-23節

もし、きみが辛い中、嵐の中にいるなら、

辛い中にいるなっら…

嵐の上さえ歩かれる方に、引き上げてくださる方に信頼しよう。

 

そう、それはイエス様。

あなたを新しい、目的地、岸辺へと導かれるから。

イエス様はあなたを見捨てずに引き上げてくださる。ご自身の命を投げ出して、あなたを死の波から救い出された方が。

その命を懸けたイエス様があなたを立ち上がらせて下さった先に見せてくださる、導かれる先に期待しようではありませんか。

 

人はどうあがいたも歳を重ねます。アンチエイジングは見かけであって、歳を取ることは変わらないし、避けられません。
 
でも、その一年一年は、1日1日は神様の恵みの積み重ね^_^
何歳になっても神様の恵みは変わらない^_^体が弱くなっても。
フランスでは歳を上に見られるほど喜ぶ、と聞きますが、それはまさに神様が積み重ねてきたあなたの姿。私たちは神様が養い導いてくださっていることに感謝しつつ、なお神様の栄光が輝くことを祈り求めたいものです。そしてあなたのいる場所に神様の栄光が輝くことを祈り求めたいですね。
 
ソロモンは言う。

白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。

ー箴言16:31ー
 

 

「耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。あなたの心を私の知識に向けよ。これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ。これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ。あなたが主に拠り頼むことができるように、私はきょう、特にあなたに教える。私はあなたのために、勧告と知識についての三十句を書いたではないか。これはあなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に真理のことばを持ち帰らせるためである。」

箴言22章17-21節

 

世の中様々な知識、知恵、一昔前ならおばあちゃんの知恵袋的な物があります。今の時代ならAIとかによってその知識の幅は一気に広がりました。が、それが本当に正しいものであればいいのですが、美味しそうに見えて、楽しそうに見えて、自分の役に立つと思ってそれを使ってみて、一時的にうまくいっても後でそうではなかった、結局ダメだった、という事もある。これはなやましいところで、やはり時代と共に大概のものは変わってしまうのが現実。ただ、決して変わらない方がいる。神様です。神様はこの天地万物をご自身がつくられる前から存在し、今もおられ、これからもい続けて下さる方。この方が変わることのない愛をもって私たちを支えてくださっている、導いて下さっている、本物の良いもので満たそうとしてくださっているのです。ただ何かを与えて終わるとか、一時的に助ける、とかそういう寂しい関係ではなく、御子イエス様のいのちをもってあなたを救い出してでも、神様の良い所に招いて下さっている、いのちの関係に、楽しい関係に。愛するわが子のためなら天の父なる神様は喜んであなたに最善を、最愛を注がれ現される。私たちはどれだけこの神様から与えられた関係、いのちを楽しんでいるだろうか。

 

ということで、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られた箴言といいますか知恵・いのちのことばで、これをソロモンが受けて私たちに書き残し示されたことば、その続きになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は全ての良いものを私たちに与えてくださっている、その愛をご自身の内に留めるのではなく、私たちに現して下さっているんですよね。神様が初めに私たちを愛してくださり、その愛を惜しむことはない、でもそれを私たちが蔑んだり、受け取らなければ意味はない、これを受け取って私たちはどう生きるか?それもまた問われることろですね。神様から初めの愛が流れ注がれている、次は私たちが受け取り、これに生きる、そこに神様の愛が溢れ、喜びが広がる。そのような愛の循環の中に私たちは招かれているわけですね。あなたはこれを受け取っていますか?

 

さて、↑は今度はこれまで神様から示されていた知恵、知識を受けてソロモンが周りの人たち、また私たちに勧めるものです。これが24章22節まで続きます。まあこれまでもそうと言えばそうなのですが、彼がそれを自身の内に適応していなかったことや、全ての知恵や知識は神様から来るわけですから、神様から初めに受け取った知恵・知識を書き残していたわけですから、ある意味では同じ。ただこれまでも、この先も書き残すソロモン自身、また私たちもそうですが、どんなに神様の優れた知恵・知識を受け取っていても、これを自身のものとして受け入れなければ意味がない、どんなに口先だけ従います、アーメン、ハレルヤと祈り、賛美しても、真逆のことをしていてはこの恵みを受け取ることはできない。これを私たちは忘れてはいけませんね。まあソロモン自身がこれを書き残したはいいけど従わなかった、失敗してしまうのですが。

 

いずれにしても↑は神様に従うことの大切さを訴えていくものになります。これは神様から受けたソロモンのことばですが、「耳を傾けて、知恵のある者のことばを聞け。あなたの心を私の知識に向けよ。これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ。これらをみな、あなたのくちびるに備えておけ」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。

 

まあ失敗したソロモンのことばだからこれは本当に注意深く読まなければいけないのですが、この「知恵のある者」と、「私の知識に向けよ」ということば、これに要注意です。それは、ソロモンではありません。またソロモン、また自分が知恵のある者と考え、その自身の知恵・知識、その心の声に耳を、心を向けよ、とかそういう事ではないのです。これがソロモンの失敗した大きな問題。自分はこれだけ知識がある、と神様からくる知恵・知識であったのにもかかわらず、だから自分の考えは何でも正しい、と考え、自分の思い描くことに従ってしまった。神様が仰る事と逆のこと、例えば偶像の神々に頼る、700人の奥さんと300人の妾を持つ(王は多くの妻をもってはいけないという律法がある)、その結果、神様の声に聴き従わず、神様の知恵を求めなくなり、これまで見てきた貧しい人や困っている人を助けよう、隣人を愛そうという神様からの箴言と真逆の道を進み、貧しい人を虐げ、重税を課し、払えない人を奴隷にして、自身の宮殿を立てさせるなどとんでもないことをした。それを見て、その子はもっと重税をかけようとして、ソロモンの言っていることに従おうとして、結果国は分裂した。

 

そう、本当に知恵のあるものというのは神様です。いつも箴言の最初のことばを分かち合っていますが、主を恐れることは知識の初め、とある通り、神様に従う中でその知識、知恵、神様の御心が溢れ流れ、分裂ではなくいのちをもたらすのです。苦しみではなく幸せをもたらすのです。いや、初めなる神様がその御心をあなたの内に現して下さるのです。

 

私たちは自分自身の経験や知識を正しいこと、知恵のある者としていませんか?このことばを押し付けて、私の言う通りにしなさい、とか、これに耳を傾け従いなさい、と、まさにカルトがしているようなことをしていませんか?困った時、むしろ自分の心の声に聴き従おうとして道を見失おうとしていませんか?神様は私たちの知恵の源となり、良いものを与えようとしてくださり招いて下さっている、知っていますか?神様の心に私たちの心を向けていい、神様のお心が私たちの内に現されるんです。神様のあなたへの愛が、御心が、御思いが、その愛ゆえにその御力が、その全てが…

 

私たちはみな、自分が知恵のある者と考える。でもこのことについて神様は箴言の前半の方で「わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。そうすれば、あなたに長い日と、いのちの年と平安が増し加えられる。恵みとまことを捨ててはならない。それをあなたの首に結び、あなたの心の板に書きしるせ。神と人との前に好意と聡明を得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ」と語られていましたね。わが子と呼んで下さる天の父なる神様は、わたしの教えを忘れるな、と仰る。神様が我が子、あなたを忘れていないから、その知恵、教え、御心が確かにあなたの内に現され、あなたのいのちの年、平安、全ての恵みが注がれ続けるから。だから、自分が正しいと言ってこれを蔑ろにして捨てるのではなく、消えることがないよう心にしっかり刻んで、神様の好意に生きよう、と勧めてくださるわけですね。神様が悪から取り戻し、いのちの内に、その道をまっすぐにしてくださる。これが正しいと自分の悟りに頼って神様のこの恵みを失わないで、と必死に訴えてこられたわけです。

 

パウロは、自分こそ神様の全てを知っていると言いながら知らず、神様の示されたイエス様を否定し迫害していた、その後神様の恵みを知り、これまでのことがいかに虚しかったかを知った彼は、「だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。『神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕らえる。』」とその手紙に書き残します。自分が知恵のある者と考え本来神様が与えてくださっている道から背負向け、欺いた生き方をするのではなく、むしろこの世的にはおろかに見える、しかし確かに私たちを救うために御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった神様の究極の愛、これの御前にへりくだる、その愚かと思えるしかし完全な愛に生きようと勧めるのです。そうでないと、自分が正しいと思って神様の恵みを失って、正しいと思っていたものにあなたがとらわれ、神様の与えてくださっているはずの最高のあなたを失うといけないから、と。

 

だからこそ神様は御子イエス様を私たちのいのちの身代わりに差し出して下さったのです。あなたがこの世の思い煩い、知恵、知識、これこそ正しいと思う、見かけは甘くきれいに見える、でも私たちを神様から引き離すものから救い出すため。サタンもエヴァにこれを仕掛けてきましたよね。自分こそ大丈夫、と言いながら神様の愛が彼らの内に留まっていなかったから、見せかけの愛に騙され、神様の美しい愛、いのちを失ってしまった。私たちはこれを本当にやってしまう。でもそうして滅びゆくことがないよう神様は私たちを救うために御子イエス様のいのちを身代わりにしてでもあなたを救い出して下さったのです。

 

「これらをあなたのうちに保つなら、楽しいことだ」と↑でありますが、どんなに自分が正しいと思える知識、知恵を集め、だから自分は正しい、このやり方が正しいと考えて神様から離れたところで本当の楽しみなど得られない。むしろあなたを保つため、あなたを楽しみ、またあなたに本物の喜び、楽しみで覆うために神様はすべてを投げうってくださった、御子イエス様のいのちさえ。このイエス様の愛の内に神様はどれだけの喜び、楽しみを込められているか。私たちはこれをどれだけ心に刻んでいるでしょうか。本当に保つべきは、これら、ではなくただ一つ、このイエス様のいのち、救い、ここに全ての知恵・知識、神様の知恵・知識、愛、その全てが込められているのです。

 

↑で「あなたが主に拠り頼むことができるように、私はきょう、特にあなたに教える。私はあなたのために、勧告と知識についての三十句を書いたではないか」とありますが、どんなにきれいごとを何句並べようが持っていようが、「主に拠り頼む」、このイエス様の救い・十字架の愛、神様の裁きからの救い、恵み、永遠のいのちをいただかなければ何の意味もないのです。ソロモンはこれに失敗してしまったわけですが、たかが1句と思われる、しかし最高のこの福音を失ってはいけません。イエス様の十字架を無駄にしてはいけない、これを私たちは心から受け取ろう。そしてこの神様の知恵・お心、これを受け取ろう、神様の楽しみに生きよう。

 

「これはあなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に真理のことばを持ち帰らせるためである」。神様は私たちの行きも帰りも守られる。神様の確かなこの十字架に現された愛が、決して例外なく確かな心理が、そのいのちが確かにあなたを支え導かれる。この愛が持ち帰った先、あなたの行くところにさらに溢れていく。その確かな神様の愛をしっかりと握りしめ、今日も歩もうではありませんか。

 

「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」と、あなたを死の底からいのちをもって引き上げ、墓の穴を見せないようにされる方が今日もあなたに喜びと楽しみを溢れさせてくださる。あなたは今日、このイエス様の愛を受け取っていますか?どれだけ求めていますか?

 

ひまわり畑と青空に聖書の一節

「ハクソーリッジ」と言いう映画があります。

 

沖縄戦の中でも激戦であったこと を描いています1が、米軍の中で、何と武器を持たずに戦った衛生兵がいたのです。デズモンド・ド スという人ですが、彼は、セブンスデー・アドベンチストという教会の信徒でした。彼には、人を殺し てはいけないという良心がありました。けれども、お国のために戦いたい。彼の所属の部隊では、 上官を始め、仲間からも徹底的にいじめました。武器を持てない兵士など、恥でしかなかったから です。

 

けれども、この戦いにおいて、たった一人で、まだ敵兵がたくさんいるところで、怪我をした 仲間を次々と助けていくのです。さらには、負傷した敵兵までも救助したりします。上司は、深く反 省します。デズモンドに対して、「お前は私が会った中で、最も勇敢な男だ。私は神を信じないが、 お前が本当に神を信じているということを、心から信じている。明日も戦いだ、どうか一緒に行って くれ。どうか、戦う前に祈ってくれ。」と頼みます。

 

部隊は、デズモンド・ドスの勇敢な救護活動に励 まされて勇気を出し、また戦うのです。彼は後に政府から名誉勲章を受けます。 もちろん戦争ですから、その場所は生き地獄です。凄惨です。けれども、主人公はその凄惨な場 所に自らを置き、なおのこと、神に対する信仰と祈りを貫いていました。すると、運命共同体である 仲間にも、彼には神がおられる、そして自分たちもその恩恵を受けるのです。

 

なぜこんな状況に自分は置かれなければならないの?と思うかもしれない。

でも、そこに神様は水を注ぎ、実らせてくださり、驚くべき花を咲かせてくださる。

凄惨に見える場所に神様が働かれ、変えられるなら?

私たちがそこでどんな態度をとるか、誰により頼み歩むか、上司の機嫌、周りの世間の声に合わせるか、それをはるかに超えて凄惨ではなくいのちをもたらされる神様に信頼しよう。

 

神様は何よりあなたの様々な思い煩いや痛み、悲しみ、何より罪によって凄惨になってしまったこのいのちを聖めるため、救い回復させるため、神の御子イエス様にこれら一切を身代わりに背負わせ、十字架で身代わりに罰し、死なせ、また3日目によみがえられたことによって、これらに完全に勝利された。このイエス様の恵みが、私たちがイエス様を求めるところに溢れる、この新しいいのちに与らせていただけるのです。この神様があなたの内に凄惨を恵みに変えてくださる。これに今日も信頼したいものです。

 

彼の持っていたのは武器ではなく信仰、しかしこれよりも強力な物はない、なぜならそれはあなたのためにいのちを投げ出されたイエス様、この方が共におられる、働いている、その事実なのだから。

 

ハクソーリッジ 兵士 救護活動

「愛に帰る。」


ふざけた息子がいた。

「お父さん。遺産今分けてください。」

平気でそんなこと言って・・・・

 

遺産、全部持って・・・・勇ん(遺産)で遊びに・・・

飲んで食って踊って抱いた・・・抱き枕・・・線路の枕木、夢枕・・

 

金がなくなりゃ・・・人は無視

豚の世話して糞まみれ・・・

豚の餌すら・・・豚の後・・・あっ、豚の餌だから、豚の後は当たり前か・・

 

さすがの彼も目が覚めた。

「とうちゃん。早く迎えに来て、腹へって死にそう。皆に良くしてやったのに、捨てられた。

世の中、恩知らず。裏切られた。騙された。・・・」

 

なんて、電話はしなかった。

彼は、歩き出した・・・

腹へって、川の水飲んで・・・

草食って・・・臭かった。

服はぼろぼろ・・・涙ポロポロ

 

親父に何と言おうか・・・

使用人たちに会ったらカッコがつかん。とは考えなかった。

だって、使用人の一人にでもしてもらえればと思っていたのだから・・・

 

本当に悔い改めたら・・・恥なんてどうでもいいです。

 

まだ家までは遠いのに・・・・父が見つけて走り寄って来た。

何か叫んでいる。

何も言う間もなく抱きしめられた。

彼を抱きしめた父の手が震えて・・・震えて泣いていた。

 

父は甘い?

そうですか?

彼が電話で呼んだなら、悔い改めはまだなんでしょう・・・

彼が自ら何も隠さず、ありのままの姿で、人々の好奇の目にさらされながら・・・歩いて・・泣いて・・泣いて・・・歩いて・・・

帰り道は遠かった。

 

あなたが神が来るまで待つのは悔い改めではない。

あなたは果てしなく遠く思える道を歩き始めなければならない。

受け入れてもらえないかもしれない。

会ってさえくれないかもしれない。

責められ、嘲られ、拒絶されるかもしれない。

そのような、疑い恐れを誰がもたないと言えるだろうか・・・

それでも、神に向かって歩き始めるのが悔い改めへのスタート。

もしかしたら、あなたは神に会えるかも知れない。

 

「おりから、穏やかな南風が吹いて来ると、人々はこの時とばかり錨を上げて、クレテの海岸に沿って航行した。ところが、まもなくユーラクロンという暴風が陸から吹きおろして来て、船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができないので、しかたなく吹き流されるままにした。しかしクラウダという小さな島の陰に入ったので、ようやくのことで小舟を処置することができた。小舟を船に引き上げ、備え綱で船体を巻いた。また、スルテスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて、船具をはずして流れるに任せた。私たちは暴風に激しく翻弄されていたので、翌日、人々は積荷を捨て始め、三日目には、自分の手で船具までも投げ捨てた。太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴風が吹きまくるので、私たちが助かる最後の望みも今や絶たれようとしていた。だれも長いこと食事をとらなかったが、そのときパウロが彼らの中に立って、こう言った。『皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。【恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。】ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。』」

使徒の働き27章13-26節

 

元気じゃない時に元気を出すというのはなかなか大変。よっぽどの何か立ち上がるきっかけがあるか、頭では分かっていてもなかなか立ち上がれない。ただ、私たちの人生、船を導いておられる神様がいる、これは私たちにとっての希望です。神様が私たちを元気な状態へ導いて下さる、私たちをどのような状況にあっても守ってくださる。それは私たちの心を奪おうとする様々な人、状況はあるかもしれない。しかしあなたのいのちを奪うのではなく守る、神様の恵みを与えてくださる方、何より御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてまであなたを救わんとされた神様がおられる、この方に希望を抱き歩もうではありませんか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、神様から離れ歩いている私たちの思い煩いや痛み、何よりこの罪の一切を私たちの身代わりに背負われ、十字架上で罰せられ、死なれ3日目によみがえられたことによって救いを与えてくださったその後、イエス様が約束された通りに新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生してしばらくしての出来事です。このイエス様の十字架に現された命がけの愛、救いをすべての人に受け取ってほしいと、聖霊様がパウロを含む多くの人を遣わしていきます。彼らは多くの奇跡や救い、神様の驚くべきわざ、働きを遣わされた多くの人たちが体験しました。希望を失い元気なようで霊的ないのち、元気を失っている人たちがこの救いを受け取り立ち上がる姿を。

 

パウロのローマへの航路図

 

そしてパウロも3回の伝道旅行を終えエルサレムに帰ってきたのですが、彼を疎ましく思う人たちの手によって捕まり、裁判にかけられ、総督たちは上訴しなければ無罪、という判断を下していたのですが、パウロは↑でも語られている通り、神様に導かれ、カイザル(この時代の皇帝はネロ)にイエスキリストを証すべく、上訴し、今ローマに向けた船旅の最中。↑の前ではパウロは季節的には危険、「皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます」と訴えたのですが、この船を任されている百人隊長ユリアスは専門家の意見を受入れ、航海を続けることを選びます。自分たちの考える良い港までいって冬を酒と、まああっち系のお店で過ごそうと考えていたのです。

 

しかしこれが↑であだとなってしまった。パウロの忠告を聞かず、「穏やかな南風が吹いて来たので、人々は思いどおりになったと考え、錨を上げて、クレタの海岸に沿って航行した」と、一時的に自分たちに都合のよさそうな風が吹いてきたことで、ほら見たことか、と言わんばかりに自分たちが正しい、と考え進みます。しかし↑を読んでわかる通り結果、「間もなくユーラクロンという暴風が陸から吹き降ろして来た。船はそれに巻き込まれて、風に逆らって進むことができず、私たちは流されるままとなった」のです。

 

自分の「思う通りになったと考える」、これはなかなか危ない考え方です。箴言の分かち合いの中で「人の目にはまっすぐに見えるが、その終わりが死となる道がある」という言葉があったのを覚えているでしょうか。まさにそんな状況ですね。自分が思う道が必ずしも正しいとは言えない。思い通りになっているから正しいわけではない。それで↑の船旅のように他の人たちまで巻き込み、色んなものを失わせるならなお悪い。これ、本当に人が良くやること、クリスチャンでも、ね。これが残念なところではあるのですが。その知識、本当に神様から来ていますか?正しいですか?蛇・サタンがエヴァを誘惑する時、「目に麗しい」木の実を見せ、食べさせた、神様がさも見目麗しいものを与えていない、してくれないかのように語り、それを真実と受け取ったエヴァたちに死が入ってきたように、その目に麗しいものは果たして正しいのか?これは私たちは良く祈り考えなければいけません。

 

パウロは船具や積み荷を降ろし、なお「太陽も星も見えない日が何日も続き、暴風が激しく吹き荒れたので、私たちが助かる望みも今や完全に絶たれようとしていた」そんな状況下、「皆さん。あなたがたが私の言うことを聞き入れて、クレタから船出しないでいたら、こんな危害や損失を被らなくてすんだのです。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私が仕えている神の御使いが私のそばに立って、こう言ったのです。『恐れることはありません、パウロよ。あなたは必ずカエサルの前に立ちます。見なさい。神は同船している人たちを、みなあなたに与えておられます。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます」と語りました。

 

彼は自分の常識や知識、目の前の状況から判断するのではなく、神様のことばに従うことを選ぶのでした。このような状況で神様神様と言って何になるとも考えず、状況や時代が違うんだ、と神様のことばをしりぞけるのでもなく、ただ私たちのいのちを守っておられる、導いておられる神様の計画に信頼し、従うことを選んだのです。↑の前で今進むのは危険だ、と勧めたのも、神様からの知恵。神様の約束は、語られることは、必ず成し遂げられる、虚しくかえってくることはありません。この世界を創られた、またイエス様がかつてしかりつけてその嵐を静められた、この神様の御手が私たちを支え導いておられることを忘れてはいけません。この神様が与えてくださる恵みを私たちは失って海の底に沈んでどうしましょう。たとえ嵐の中にあっても神様が、どこかの島に打ち上げてくださる。間違っていた、ああもう駄目だ、なぜこんなことに?と思う中に神様は希望を語り導かれるのです。

 

私たちは元気を出そう。失敗してしまった、もう駄目だ、と思うような時、彼らが神様に従わず今ピンチを迎えている中で神様は見捨てず、パウロを通して、たとえ今船を失っても命は助かるんだ、自分が神のように大切にしてきたもの、プライドなどは折れても、神様が新しいいのちを与えてくださる。あなたを失わないために救うことを神様は選ばれたのです。それこそ、神様から離れて好き勝手に生きてきた私たちを、神様は見捨てるのではなく、むしろ御子イエス様に身代わりに私たちの罪の罰、怒りを背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせた、そこまでされた神様が今日、あなたの古い船から新しい船へ、古いいのちから新しいいのちへ移し替えようと迎えてくださっているのです。

 

この神様がいるから、私たちは元気を、希望をもっていい、いやこの方があなたに今日元気を、希望を与えてくださる。今私たちが乗っているのは、神様の船、イエス様のいのちをもってまで救い出されたこの方が私たちのこの航海を導いておられるのだから。私たちはこの方に自分の道・航路を委ねよう。自分の正しいと思っていたことが間違っていたとしても、神様が本来の正しい道、義の道へと導いて下さる、私たちはこの希望を握りしめ、元気を出してこの新しいいのちを一歩一歩進もう、神様と共に。神様があなたを救うために御子イエス様のいのちをあなたに与えてでも取り戻された道、そこに確かに神様の素晴らしさが輝いているから。

 

Acts 27:22 嵐の中の希望

かつてアメリカの大リーグのナンバーワンピッチャーで、スーパースターだったランディージョンソンが絶頂を迎えていた頃にクリスチャンになりました。

彼に何があったのか?


彼はこう語ります。

「今(その時)から3年ほど前に、非常に辛い経験をしました。私の父が亡くなったのです。当時私は、クリスチャンになろうかどうか迷っていました。しかし、父の死によって決心がつきました。その時、私はこう祈りました。主よ。私の命を捧げます。野球場の中でも外でも、あなたの栄光を現すような生活をさせてください。』と」
 

そして彼はこう言っています。
「私たちの生涯におけるたった一つの道、それは主に従って歩む道である。」

 

彼はシーズンオフになると、子どもたちを集めて野球を教え、そしてイエス・キリストのすばらしさを証ししています。あの健全なる肉体に、まさに健全なる精神が宿ったのです。神様を恐れる心が宿ったのです。主を恐れる心が私たちの中に宿ると、私たちの魂は力をもらいます。そして、驚くほどのみ業が現されるのです。それは人生のどんな困難な山も登ることができる力です。

 

あなたのために、罪のからだ、古い命を新しくするため、

御子イエス様のいのちを持ってまであなたをイエス様は救われた。

このイエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る時、私たちも罪赦され、新しい本当の健全な体、いのちをいただく、聖霊様が私たちの内に働く、驚くべきものへと変えられるのです。

 

あなたはこの愛を、いのちをいただいて、

あるべきあなたに変えられていますか?

イエス様のいのちにあって変えられたこの命を私たちは喜び、ここから離れず歩もう。

 

私たちはどこかで神様を求める。

誰か、助けて、と心で叫ぶその対象を。

自分がうまくいくようにとどこかにお参りに行ったり、お金を出したり。

祈ったら叶えてくれると思ってそうしても実際にかなわないと、すぐに投げ出すこともあります。

 

↓はそんな中で、本当の神様って誰なんだろう、何なのかな?と思い返させていただいた記事です。よければ読んでくださいm(__)m

 

今から20年以上も前の話です。当時通っていた教会で学生会を導いていた頃、聖書の学びの時間に彼らに質問しました。
 

「みんなにとってイエス様ってどういう方かな?」
すると一人一人が順番に答えてくれました。
 

「何でも話せる相談相手です」
「友だちの中でも最高の親友かな」
「いつでも私と一緒にいて、守ってくださる方です」

 

なるほど、どれも間違いではありませんよね。

 

でも残念ながら、私が望んでいた答えはこの中にはありませんでした。あのお方は、何でも話せる相談相手であるという以前に、友だちの中でも最高の友だち(親友)です、カウンセラーです、と告白する前に、

 

まず「私の神、救い主です」という認識と信仰告白のほうが先です。

 

学生たちが考えていたことは間違いではありません。彼らの答えも事実です。聖書の中にもそのような言葉をいくつか発見することができます。

 

ですが、一歩間違えると、あまりにもイエス様に対して馴れ馴れしい心と軽々しい態度を持つ危険性が私たちにはあります。

 

必ず曲解して反論して来る人が出てくると思いますので、あらかじめ付け加えておきますが、

私がここで言いたいことは、イエス様は確かに私たちのかけがえのない友であり、相談相手ですが、イエス様は私にとってどういうお方であるのかという意識の優先順位のことをいま話しています。いたずらに恐れることは正しいことではありませんが、聖書的、信仰的に神を恐れる(畏れる)ことは非常に重要なことであると私は考えています。

 

たとえイエス様の肩に手をまわしても主は怒られるようなお方ではありませんが、

そのような親しげな態度を取る前に、まず私たちがなすべきことは、

このお方の前にひれ伏し、ひざまずき、神として礼拝することだと私は思っています。
 

「神は、神であるから、神を神とし、神を礼拝しなさい。」

これは私が学生たちに教えた言葉です。なんだか早口言葉のような感じがするかもしれませんが、一言一言、噛みしめながら読んでみてください。

 

神は(誰が何と言おうとも)神であるから、
神を(私/あなた)の神とし、
神を(唯一まことの神、救い主、王の王として)礼拝しなさい。

そういう意味です。

ペテロはイエス様の奇跡を目の前で見た時に、彼の正直な気持ちを主に告白しました。

 

ルカの福音書5章8節
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。

 

私たちクリスチャンは、主イエス・キリストを救い主と信じたあの日の新鮮な気持ちを忘れてしまってはいないでしょうか? 天の栄光の御座にいます主を、あまりにも人間と等しい存在にまで引き下げてしまってはいないでしょうか?


そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。(マタイの福音書16章15節~16節/口語訳)

 

 

もしも今、イエス様から同じ質問をされたら、あなたは何と答えますか?
友だち? 親友? 良き相談相手?  それとも……

 
イエス様に対する信仰告白こそ、礼拝の中で最も香ばしい香りであることを覚えたいものです。

(しろくま先生)

 

神様を信じている、イエス様のいのちをいただいた、あなたがこの救いを受け取るならそこには神様の大いなる恵みが注がれる…それはこの世の価値では測れない。イエス様がくださったいのちがいかに大きいか、注がれている愛が素晴らしいかを今日改めてかみしめたいものです。

イエス様はあなたのためなら命を惜しまない方、それほどにまず愛を注がれた方、この方に大いに期待しようではありませんか。

 

「善意の人は祝福を受ける。自分のパンを寄るべのない者に与えるから。あざける者を追い出せ。そうすれば、争いも出て行く。けんかも、悪口もやむ。心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。主の目は知識を見守り、裏切り者のことばをくつがえす。なまけ者は言う。『獅子が外にいる。私はちまたで殺される』と。他国の女の口車は深い穴のようだ。主の憤りに触れた者がそこに落ち込む。愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。自分を富まそうと寄るべのない者をしいたげる人、富む人に与える者は、必ず乏しくなる。」

箴言22章9-16節

 

やはり願わくば平和な関係を、とどの場面でも願いますよね。互いに助け合う、互いに励まし合う、互いに愛し合う。互いに…、と。決して争うためにつくられたわけでも、憎しみ合うでもなく、互いに愛し合うように、それが神様の私達への願いであり、思い、その中に神様の愛がさらに豊かに広がっていく。それは人は不完全ですからそんなに物事うまくいかないのは分かっている。でも、不完全だからこそ、人の不完全さよりも神様の完全な愛、御業、御心がここになることを願うなら、そこは人には成し得ない、神様の素晴らしさが現わされるのではないか、と思う。神様は、あなたをつくられた天の父なる神様は、あなたを心から愛し、全ての良いものをあなたに備えて下さっていた、今も備えて下さっているのです。あなたを愛するゆえ、あなたを救うためなら、と御子イエス様のいのちをあなたの身代わりに差し出し死なせるほどに。これほど愛されている神様があなたを我が子と呼び、今日もその愛の内に招かれている、働かれている。あなたはこの神様をどれだけ愛していますか?求めていますか?

 

ということで、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られた箴言といいますか知恵・いのちのことばで、これをソロモンが受けて私たちに書き残し示されたことば、その続きになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちが弱く神様から離れていく姿を見て見捨てたり蔑んだりするのではなく、むしろ神様の良いもので満たしたい、とその憐れみの心をもってご自身の最高の知恵・愛からくる御心を現して下さるんですよね。私たちが生きるために必要なすべてを神様が備えて下さっている、あなたに本当に生きたものとなってほしい、と。そんな神様を蔑んで、私たちが本来受けるはず、与えられているはずの神様の最高のいのちを、日々を失ってはいけない、と招かれているのです、この最高の親子関係に。何と感謝なこと。

 

そんな神様は、この知恵・愛をソロモン、そして彼を通して私たちにさらに、「善意の人は祝福を受ける。自分のパンを寄るべのない者に与えるから」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。

 

寄るべのない人にパンを与えないと祝福を受けられないの?そういうわけではありません。互いに善意を現すと言いますか、悪意ではなく、善意をもって互いに愛し合う、これが大事なところです。何か自分の利益のために助けるとかそういう事ではなく、純粋に互いに愛し合う、助け合う、励まし合う。そこに、神様が祝福、神様の良いものが現わされるのです。

 

思い返してみますと、神様は初めの人アダムに「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と仰られ、エヴァを彼のあばらの骨から1本とって創られた、という事がありましたが、私たちは一人で生きていくのではなく、助け手、といますか互いに助け合う、支え合う、そのようにつくられたわけです。のような関係であることを神様は願われているわけですね。ここでは家族の姿ですが、それは家族だけではなく、社会や地域、どんな場面でも同じ。あの人は○○だから、愛する必要はない、祈る必要はない、あの人が困っているのは自業自得だ、とかこう、人は助ける前に助けない理由を探してしまいますが、そうではない、まず愛することを神様は願われている、その中に神様の素晴らしさ、祝福を現したい、その思いを私たちに訴えかけられているわけです。

 

この箴言の中で何度も触れてきましたが、神様は「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」と律法の中で語られた、私たちが幸せになるための律法として。あの人は自分にあれこれしたから愛さない、とかそういうのでもなく、神様の愛がすべてを変えてくださる、そのことを神様に委ね、互いに愛し合うことを願われたのです。まあそもそも私たち自身だって完全な人ではないし、誰かに良くされるに値する、なんて人はいないわけですが。もちろん私もです。ただそれでもそこに争いやら何やらで本来あるべき神様の互いに愛し合う中に現される最高の関係が壊れ、あなた自身も失われていく事を悲しまれるのです。「あなた自身のように愛しなさい」と言われて、愛さないという事は、あなた自身も愛せない、ある意味では許せない思いや、その思いに支配される時間も失われてしまうわけです。それよりも神様の介入を願い求める、わたしは主である、とここに宣言された神様に委ねてみる、その中に神様の「善意」、私たちが回復する、生きる「パン」が与えられるわけですね。

 

私たちの持っている善意などたかが知れている、私たちが誰かに与えられるパンと言いますか、何かなどたかが知れているかもしれない。でも、かつて2万人以上の空腹の人を、たった5つのパンと2匹の魚、少年の持ってきた、こんなものがあって何ができるだろう、何の役に立つだろう、と思うそれが彼らを満腹にし、心を満たした、イエス様がこれを増やされ、一部の人ではなくすべての人に与えられた、罪人にさえ、こんな人に、と思えるような人にさえ。神様が祝福されるところにはそこに大きな力が働かれるのです。

 

だからこそ↑、「あざける者を追い出せ。そうすれば、争いも出て行く。けんかも、悪口もやむ」、このことばに意味が出てくるのです。ただあざける者を追い出す、それで終わるわけではないのです。あざける者がいるなら、その人を神様の愛で愛する、あざけりの「心」を取り除いていただく、追い出していただき、愛の心で満たされれば変わるのです。あざけりは人の心に痛みや傷をもたらし、争いがそこで発生する、そんなのもったいないじゃないですか。互いに愛し合う者として創られたはずが、けんかや悪口に溢れたり、高慢になって見くだしてあざけっても。そんな人を追い出す、それは確かに簡単かもしれない、でも争いは変わらない。でもそうではない。イエス様がそれでも愛されることを選ばれ変えられていった人たちがいたように、イエス様の愛を受けたものとして愛する中で、和解が起こる、和解の力が働くのです。

 

かつてザアカイという取税人がいました。彼は税金を集め、それをローマに渡す仕事をしていたのですが、同時に彼は必要以上にとってそれを袖の下に入れていました。彼はその仕事柄、他の人たちから嫌われ、背が低いことも愛なって散々嫌われていました。しかしイエス様が彼を罪人だから、と言ってあざけるのではなく、見捨てるのでもなく、「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と宣言するのでした。失われた彼を見捨てるのではなく、失われたままにするのではなく、和解、神様の恵みの内に回復されようとされた。その先に彼は悔い改め、だまし取っていたものも返し、変えられていった。彼を追い出すのではなく、受け入れ、愛した先に彼は命を得たのです。変えられたのです。

 

「心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる」とここで語られていますが、優しく話をする、だから何でもOKOKありのままでいいよ、とするわけではありません。イエス様も罪は罪として見ていましたが、悔い改めに導かれていた。ただいいよいいよそのままで、ではなく、神様の愛、罪の赦し、救いを語られていた。あざける人も良いよいいよそのままで、ではなく、その心が聖められること、愛の心に変えられる事を願い、また愛をもって語り接するなら、その人は変えられていくのではないか、まさに王がその友となるごとく、神様の友とされるのではないだろうか。罪人だったはずの私たちが神様の友と呼ばれる。

 

見捨てる・黙っているのでもなく、神様の愛を、神様の福音を語る、この福音には確かに力があるのです。なにせ、この福音はなんとなくいい話ではなく、どうしようもなく神様から離れ、捨てられてもおかしくない、神様からあざけられ罵られて見捨てられてもおかしくない私たちの身代わりに、御子イエス様にそのあざけりを受けさせ、罰をその身に背負わせ、十字架にかけ、罰し死なせた。そこまでしてでも私たちを救わんとされたこの十字架の愛、これが福音です。本来罪ゆえに滅びなければいけない、神様の怒り、裁きをこの身に受けなければいけないところを、イエス様がすべて引き受けてくださった。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされる。厳しくも神様の優しい、力強い愛、これが福音なのです。この赦し、和解の内に神様の本物のいのちが私たちに溢れるのです。神様と喧嘩状態、といいますか、絶縁状態だったものが赦される、その愛が私たちを覆っている、その愛ゆえに神様の御力・御業が今日も働いているのです。

 

「主の目は知識を見守り、裏切り者のことばをくつがえす。なまけ者は言う。『獅子が外にいる。私はちまたで殺される』と。他国の女の口車は深い穴のようだ。主の憤りに触れた者がそこに落ち込む」。世の中様々な私たちをだますような言葉、裏切るような、一見よさそうに見えて倒れさせる知識的な物が溢れているし、そんな言葉を語り私たちをこの神様の本物の愛から離す、優しく語られているようで、聖いことを言っているようで、私たちを傷つけ、汚す言葉、人もいる。でもそこから神様は守り、それらを覆し、神様の本物の知恵で覆ってくださる、愛で、その御業で私たちを覆い、守ってくださる。だから私たちはどうせ…と怠ける人のように神様を諦めるのではなく、その外にいる獅子から守られ、救い出される、サタンの手から、偽りから救い出される神様の愛に帰ろう。偽物のはる罠に陥るのではなく、神様の引き上げてくださる恵みの内に生きよう。

 

「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。自分を富まそうと寄るべのない者をしいたげる人、富む人に与える者は、必ず乏しくなる」。今日、十字架によって私たちを神様の子どもとしてくださった今、私たちは愚かさに繋がってはいけない。神様がそれらから断ち切って自由にしてくださった、神様の恵みの中に前いてくださった、この本物に生きよう。寄るべのなかった私たちを虐げるのではなく、貧しくなって救い出された、神様の愛の内に溢れる富が今日もあなたを覆っている。懲らしめの杖をその身に受けられたイエス様、十字架に架かられ死なれてでも愛し抜かれたイエス様の富が今日も注がれている。私たちはこの愛を受けた今、寄る辺のない者、神様を知らずに哀しみの底にいる人たちにもこの愛を届けつつ、愛をもって仕えよう、祈ろう。ここに神の神様の平和が成ることを信じ。

 

「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」とパウロが進めるように、遜り、イエス様の愛を求めよう。イエス様の平和がここにある事を祈りながら。

 

パンを分ける善意の人、貧しい人に分け与える