「貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押さえつけるな。主が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ。おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから。あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない。あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか。あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない。じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない。」
箴言22章22-29節
私たちは余裕がなくなると、相手のことをなかなか考えられなくなる、これは仕事などでは特にみられることかもしれません。もしくは自分中心で動こうとすると、周りにあまりいい影響は与えない。まあ人間、完璧な人なんていませんからどうしてもうまくいかないことはあるのですが、ただ、人には「愛」という感情が与えられています。いや、意志や行動のもとになるものといいますか。この愛があれば喜怒哀楽を正しく表現できる。いや、この愛が私たちを支えるのです。もちろん完ぺきな愛なんて私たちは持ち合わせてはいませんが、それでも私たちを我が子と呼んで下さる天の父なる神様は、私たちを愛してくださる、私たちを救うためなら御子イエス様のいのちを身代わりにしてでも、愛することを決断され、実行される方、この方の愛に私たちは支えられ、またこの方の愛が働くところに驚くべき恵みが広がる。私たちはこの神様に愛されていることをもう一度思い出し、なおこの愛に支えられ、またこの愛を分かち合い、神様の喜びが、いのちが広がっていく事を祈ろうではありませんか。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られた箴言、知恵・いのちのことばで、これを受けてソロモンが受けて私たちに書き残し示されたことばになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様はある場面、ある時だけその知恵をもって導きたい、平和を成し遂げたいとか、そういう考えではなく、どんな関係にあっても、どんな時も、神様の最高の愛を現したいんですよね。全ての初めは神様を恐れること、神様の御前にへりくだる、私たちの王座を神様に明け渡す、そこから神様の御業が始まるわけです。そこに神様の素晴らしさが飾られていく。神さまなんて信じて何になるの?と蔑むのではなく、私たちをわが子と呼んでその愛からくる知恵・御心が溢れる事、それが私たちの求めるべきところですね。あれをどうするこれをどうする、と世の中に溢れている知恵を用いるのではなく、まず神様を求める。
それで、神様からの知恵をこの箴言で聞いてソロモンは適応、応答するように箴言をさらに残していくのですが、↑では「貧しい者を、彼が貧しいからといって、かすめ取るな。悩む者を門のところで押さえつけるな。主が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ」と書き残します。まあ、これ、ソロモンは貧しい人を奴隷にして働かせたりしていたから何を言っているんだ、と突っ込みたくなるところではあるのですが、むしろそうあってはいけないよ、という神様の訴えと見る事ができるでしょう。
それでこの話、本当に世の中残念過ぎるほどに起こる。弱い人、力のない人、ご老人…彼らから詐欺によってだまし取る人が本当に多いのが残念な話です。言うまでもありませんが、これを神様は律法で禁じています。禁じているというよりももっと積極的な命令として、「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。…貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。『国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。』」と語られています。
私たちに神様が願っておられるのは、貧しい、まあ金銭的なことだけではなく様々な問題に思い悩む人、心貧しくなってしまっている人なども含めていいでしょう、その人たちに対して心を閉ざしたり、助けの手を閉ざしてはいけない、むしろその必要を十分に満たすように、と。その彼らの、あなたの手の業を通して神様が働かれる。もちろん神様が直接的に働かれることもあるのですが、これを私たちが忘れて何もせずにいて、なぜ貧しい人がいるのか?と嘆くのは違う。神様は、私たちにあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と仰られているように、この事を忘れていませんか?困っている人がいて可哀そうに、で終わったり、祈っているからね、とことばはかけるけど祈らないとか何もしないとかで止まっていませんか?
ちなみになのですが、この貧しい人を助けるために、借金の免除や貧しくて奴隷にされてもある程度の年で解放するように、彼らにちゃんと持ち物をもたせて解放(自分の家に帰ってちゃんと生活できるように)するように定めています。また、「第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足り」るように、十分の一の捧げものを用いて(今の時代の十分の一献金と呼ばれるもの、一般社会で考えるなら税金、これを正しく用いましょう、という話)互いに助け合う、支え合うように教えています。他にも、収穫をするとき、落穂を残して貧しい人たちがこれを拾えるようになど、さまざまな神様の配慮が、私たちを愛するがゆえになされているのです。この落穂ひろいの規定がある女性を助け、その女性とその家の主人が出会い結婚し、そこからイスラエル王国の2代目の王ダビデ、その子ソロモンへと王家が生まれていく、その先にイエス様がうまれてくる、という驚くべき歴史もあります。
イエス様は「この最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのです」と、貧しい人、飢えた人、病んだ人に仕える事の意味を教えられたのですが、まさにそのことを通して神様は働かれる。そこから先程の落穂ひろいの話ではありませんが、神様のご計画が豊かに現される、貧しいと思う中に、豊かだと言える日が来るのです。
考えてみれば私たちの持っているものはすべて神様から与えられたものなんですよね。自分で稼ぎ出したとか、その前に私たちは神様の創られた世界に住まわせていただいている。その中でいろんな収穫を得ている。その恵みの収穫をいただきながら私たちは生きている。その頂いたものをこれは自分のものだ、と困っている人に分け与えない、というのはまたちょっと違う話と言えば違う話。困っている人にも、もしあなたが何かの試練を神様によって乗り越えさせていただいてたなら、むしろ一緒に乗り越える、神様の恵みを分かち合う中でそこに喜びが広がるわけですね。
私たちは↑のことばのように、どうも与えるよりも頑張れ頑張れ、と声はかけるけど助けに行く足が重くなる。もっと頑張れとか、何々が悪いとか、妙に批判的なことばをかけてしまう。自分が愛されていること、神様から助けられたこと、守られていることを忘れ、愛することをどうも忘れてしまう、神様を、人を。なんででしょうね。それはあなたの何々が悪いからと押さえつけて。でもそんなあなたを見て神様は悲しまれる。
「おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから」とも↑で語られていますが、私たちは何の習わしに従って生きているのか。自分が正しいと思う価値観、経験、習慣、それらによって人に厳しく望んだり、自分と合わないからと激して接するのではなく、私たちは神様から愛されているという事、この神様に支えられていることを、何より私たち自身神様から離れ、本来神様から受けられるはずだった恵みを失い、貧しくなり、あらゆる意味で命を失うはずだった、そんな私たちを神様はそれでも見捨てられず、ご自身の最も大切な御子イエス様に私たちの思い煩いも、痛みも、罪も、一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたことを思い出そう。このイエス様の十字架で引き受けられた罰・死、これによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔いらため立ち返る時得られる救い、罪の赦し、永遠のいのち、これを思うなら、どうして他の人を蔑むことなどできるでしょう。むしろこの赦された愛、イエス様の愛をもって仕えるなら、そこに神様の赦しと癒し、解放が広がるのではないか。私たちの習慣や価値観ではない、こんな貧しい私たちを憐れまれた神様の恵みが、価値観からくる愛が広がるなら、それはどれだけ素晴らしいものへと変えられるか。
私たちが交わるべきは、一緒に行くべきは、自分の価値があう人ではない。もちろん彼らを見捨てるとかそういう意味ではなく、神様の愛、価値観と言いますか、この神様の中にいつも交わりをもつ、祈る、その愛をこの方の価値、愛が広がるよう祈りたいものです。そのあなたを通して神様の価値観、素晴らしさが広がっていき、そこは御国のようにいのち溢れるもの、輝かしい所へと変えられていくのではないか。自分の考えが正しい、神様あなたは間違っている、と神様から離れ、信じていると言いながら逆を行って神様の恵みを失ってはいけない。それはサタンの罠そのものです。自身の習わしではなく、神様の愛が私たちを赦し、神様の子としてくださった、永遠のいのちを与え、この内に今神様が働かれている、こんな素晴らしい愛が失われゆくことがあってはいけない。むしろこのイエス様の愛によって罪から回復される、解き放たれ、神様の御心が、知恵が、その全てが働かれ、満たされていくならどれだけ素晴らしいことだろう。
「あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない。あなたに、償うものがないとき、人があなたの下から寝床を奪い取ってもよかろうか」とありますが、誰かの保証人になるのはやめよう、とかそういう話ではありません。考えなしに保証人になって困ることがあってはいけない、ということもあるのですが、本当に困っている人ではなく、これを見ると返す気もなくだまし取ろうとしているように見えます。そう、私たちが誓うべきは神様なんです。この私を御子イエス様のいのちをもってまで愛し抜かれた神様に従う、どんな時もこの神様に従う、委ねる、その中で、私たちを奪い取るのではなく与えてくださる神様が、私たちを御子イエス様のいのちをもって保証してくださっている人が私たちを、また私たちの周り、保証を必要としている人、神様の保証、救いを必要としている人をその愛の誓いによって満たして下さるのです。
「あなたの先祖が立てた昔からの地境を移してはならない」。私たちはこの神様から与えられた地境、いやいのちを他のものにゆずるのではなく神様に委ねよう。神様があなたの苦しみの中にあっても喜びを見出し、そのいのちを広げてくださる、神様の良いもので満たされる、いっぱいにしてくださるから。「じょうずな仕事をする人を見たことがあるか。その人は王の前には立つが、身分の卑しい人の前には立たない」と語られているように、本当に上手な仕事をする人はなかなかいない。しかし、今日もあなたを愛する絶えに完全な仕事と言いますか、その御業を成し遂げようとしてくださる方、あなたを救うために御子イエス様のいのちを惜しまず与えてまであなたの内に愛を働かれた神様が今日も働かれている。私たちはこの神様の働きを願い求めつつ、なおこの愛をもって仕えるものであろう。そのあなたを通してなお神様の豊かないのちが、愛が今日も広がり、神様の愛を失った、様々な思い煩いや貧しさを抱える人たちに本物の神様の豊かさが広がっていくから。何より私たち自身もこの神様の御前に心貧しくへりくだり、このいのちに満たされ歩もうではありませんか。この神様の働きの前に立ちおおせるものなど何ものもないのだから。この神様の愛に支えられ、また愛に今日も生きよう。主は今日もあなたを愛することを忘れず、心の底から愛を注がれているから。