「自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。気が狂った者は、燃え木を死の矢として投げるが、隣人を欺きながら、『ただ、戯れただけではないか』と言う者も、それと同じだ。たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる。陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。燃えるくちびるも、心が悪いと、銀の上薬を塗った土の器のようだ。憎む者は、くちびるで身を装い、心のうちでは欺きを図っている。声を和らげて語りかけても、それを信じるな。その心には七つの忌みきらわれるものがあるから。憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現われる。穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く。」
箴言26章17-28節
私たちは人とのかかわりの中で生きています。本当はみんな仲良くできればいいのでしょうけど、人それぞれ思うこと、自分の利益を考えるなどしているので、なかなかうまくいかない。自分が正しい、間違っていない、だから私の言うことを聞け、とかね。よく考えるとそんな場面、あっちこっちにありますよね。ただ、それでも臭いと言われようが、もし互いに愛をもって語り合うなら、仕え合うなら、神様の愛がそこに溢れるならどれだけ素晴らしいことだろうか、と思う。イエス様はどんな時でもその愛を現され、こんな人に愛を現す必要があるの?と思う人にまでその愛を届け、注がれた。触れられ、癒された。語られ、導かれた。何より私たちを救うためなら、と私たちの身代わりに全てを背負われ、十字架に架かられ死なれるほどに愛された、こんな愛が溢れるならどんなに素晴らしいことだろう。この神様の愛を求め生きるなら。私たちはこの神様の愛を求めよう、私たちの歩む一歩一歩の内に。そこに神様の平和がある事を願い。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて示された知恵のことば、いのちのことば・箴言で、これを受けたソロモンが書き残し、それをさらにソロモンから約250年後、南ユダ王国のヒゼキヤ王が、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、これをすべての人に知ってほしいと願い、一言も変えずに書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様は遠くで眺めているだけの方ではなく、私たちとかかわりを持ってくださっているんですよね。まず神様がその知恵と言いますか、愛からくる御心を私たちの内に現して下さる、それによってあなたに、私たちに生きてほしい、幸せになってほしい、そう願って語られ、また導かれる。また励まし、力づけ…。私たちを神様は我が子と呼んで下さる、天の父なる神様は私たちを見捨てず、蔑むのではなく愛してくださっている、この愛なる神様を忘れてはいけませんね。
そんな神様は、その愛を、御思いをソロモンに、またヒゼキヤに、さらに私たちに向けて示されたのですが、↑では「自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ」と語られます。まあ、こういう方、結構いますよね。特に現代社会では、見えないから、と自分には関係ない人を、自分の見聞きした知識だけで、自分の正義をかざして裁き、ネットで叩きまくる人。それを表現の自由だ、と言って注意されても受け入れなかったり。これが怖いのは、裁くだけ裁いてその内容に対して責任を取らない、やばいと思ったら削除してごまかそうとする、でもどんなに削除しても相手を傷つけた、という行為、事実は変わらない。もちろん法律もだいぶ整備されてきましたから、やり過ごすなんてことはできなくなりましたが。まさに、「通りすがりの犬の耳をつかむ」、その結果噛まれた、そんなところでしょうか。もしくはその責任を負うことになってしまったか。
話は逸れましたが、これを読んでいると、じゃああまり人とかかわりをもってはいけない、争いに対して解決を一緒にしようとかしてはいけない、ということ?と思いたくなりますが、ここで、「自分に関係のない争いに干渉する」とありますね。「関わり」ではなく、「干渉」と。干渉、というのは助ける、というよりも首を突っ込む、ということです。もっというなら、好奇心や正義感の自己満足、その自分の感情や好奇心から動く、それが干渉です。そんな好奇心や自分の自己満足のために困った問題を抱えている方や、トラブル状態にある人に望まれてもかえって混乱を招くだけです。本当にあるべき道に彼らを進める(勧める)ことができず、その首を突っ込んだ人自身が反抗うされたり、その責任を取ることもあり得る。そして神様の恵みを知らずに魂の部分で痛い目を見る。
ただ、明らかに問題がある、困っている人がいても、無関心に黙っているのもまた違います。そう、どういう動機で関わるか、これが大事です。だって神様は私たちを、誰かとの関係に生きるようにつくられたわけです。アダムとエヴァ、そしてその子供、またその子供、そうしてコミュニティが生まれ、そのコミュニティのかかわりの中で生きていく。互いに助け合う。そう、ただ好奇心で干渉するのではなく、互いに「愛し合う」という神様の大切な命令、神様を愛すること、また自分自身を愛するように隣人を、自分の苦手な人も含めて愛する、これ以上に大切な命令はない、と仰られたイエス様。ただ好奇心や自己満足で望むのではなく、その人を愛するという思いをもって関わる、そこに神様の素晴らしい愛、恵みが、御業が溢れるわけです。どんなに自分が正しいと思うことを言ったって、押し付けたって、そこに愛がなければうるさいドラと同じなのです。
パウロも、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と、その人とのかかわりの本質を語ります。
彼は迫害され、仲間と思っていたものに逮捕されたり、殺されそうになったことも何度もあった、それでもそんな彼らと共に喜ぶものとともに喜び、悲しむ者と一緒に泣くように、とそれでも進めるのです。高ぶらず、かえってへりくだり、自分を知者とは考えず、悪に悪をもって報いるのではなく、「全ての人に」よいと思うことを図り、自分に関する限り、「全ての人」と平和を保つように勧めました。それは、彼自身も本来神様から見捨てられてもおかしくないほど離れ、イエス様という救い主をいただいても迫害していた、そんな自分を悲しみ、喜びに引き上げてくださったイエス様のかかわりを思って書き残したのでしょう。イエス様の愛がすべてを変える。全ての動機、行動、愛の基はこのイエス様から始まるのです。
イエス様はいつも「干渉」ではなく「関わり」・関係の中に生きました。5人の夫がかつていて、悲しみの中に沈んでいた、希望を見いだせずにいた、社会からも差別をされていた女性のところに行き、彼女を責めるのではなく、その本質的な悩み、希望、神様にある希望を届けた。彼女に何か物を与えたわけではない、でもこのイエス様のふところに入りながらも愛を届ける中で、彼女は希望を見出し、変えられた。その喜びは町中に広がり、変えられていきました。
また、姦淫の罪でつかまえられた女性、彼女を捕まえた人たちは彼女を罪から、苦しみ悩みから助け出そうとするのではなく、裁こうとしていた、いやイエス様をだまし討ちにするためにつかまえてきた。でもイエス様は律法にしたがって彼女を石打にして殺すのではなく、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と、彼女を捕まえてきた、干渉し、面白がってみていた人たち、こいつは悪い奴だから死ぬべきだ、と言っていた人たちに向かっていったのです。そう裁くあなたはどうなんですか?と。もちろん彼女の罪がある以上はそのまま、というわけにはいかない。イエス様は罪がないから投げる権利はあった、でもそれをせず、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と仰られたのです。もう元の生活に変えるのではなく、悔い改め、罪から離れよう、と。彼女の本来投げられ罰せられなければいけなかった石は、死は、イエス様が負うから、引き受けるから、と。そうして罪人から神様の内に、和解に招かれた、神様との関係、家族に招かれたのです。
もう挙げたらきりがない、イエス様はそれほど多くの人と「干渉」ではなく、愛をもって「関わ」ってこられたのです。私たちを関係ないものとして無視するわけでもなく、神様との関係に招くためにどこまでも愛を現されたのです。周りの目を気にするのではなく、この人が神様の恵みを受けられるように。事故の主張ではなく、ただ神様の御心を行った、その中に神様の愛が、いのちが溢れかえられていったのです。イエス様の願うところは、私たちがこの神様の愛を受け取る、この神様の愛の中に生きる事。そのためならと、私たちが本来負うべき全ての罪、思い煩いや痛みもすべて含め、身代わりに背負われ、十字架に架かられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえらされたことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされる、神様の家族とされる、無関係に見捨てられてもおかしくない私たちが赦され受け入れられる、何と感謝なことだろう。この愛が溢れ広がるならどれだけ素晴らしいだろう。私たちの干渉がこれにどうして勝る事ができるでしょうか。
「気が狂った者は、燃え木を死の矢として投げるが、隣人を欺きながら、『ただ、戯れただけではないか』と言う者も、それと同じだ」と↑で語られていますが、ちょっとくらい、これくらいいいでしょ、でかき乱してどうしましょう。むしろそのちょっとで傷つく事よりも、神様から離れる、罪の中にいるままよりも、神様の愛によって変えられていったら最高じゃないですか。神様の戯れどころか、この神様の究極の愛が溢れるなら。死の矢はいのちへ変えられる。あなたの投げかける言葉、行動、聖霊様の声を聞いてそれに委ねた言葉・行動の内にこのイエス様の救い、大いなる愛が働かれ、その御心が現わされていくのです。
「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる。陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。燃えるくちびるも、心が悪いと、銀の上薬を塗った土の器のようだ。憎む者は、くちびるで身を装い、心のうちでは欺きを図っている。声を和らげて語りかけても、それを信じるな。その心には七つの忌みきらわれるものがあるから。憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現われる。穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く」。私たちはこの神様の愛を、愛の炎を灯し、届けるものであろう。偽りの、うわべだけの態度や争い、罪ではなく、神様の愛、平和を語る者に。神様を愛し神様の愛を求める者に。世にこびへつらうのではなく、偽りに心奪われるのではなく。イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」と教えられた。私たちは争いではなく、神様の愛を語り、どこまでも現すものでありたいものです。











