とある働き人の聖書のお話 -2ページ目

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。気が狂った者は、燃え木を死の矢として投げるが、隣人を欺きながら、『ただ、戯れただけではないか』と言う者も、それと同じだ。たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる。陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。燃えるくちびるも、心が悪いと、銀の上薬を塗った土の器のようだ。憎む者は、くちびるで身を装い、心のうちでは欺きを図っている。声を和らげて語りかけても、それを信じるな。その心には七つの忌みきらわれるものがあるから。憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現われる。穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く。」

箴言26章17-28節

 

私たちは人とのかかわりの中で生きています。本当はみんな仲良くできればいいのでしょうけど、人それぞれ思うこと、自分の利益を考えるなどしているので、なかなかうまくいかない。自分が正しい、間違っていない、だから私の言うことを聞け、とかね。よく考えるとそんな場面、あっちこっちにありますよね。ただ、それでも臭いと言われようが、もし互いに愛をもって語り合うなら、仕え合うなら、神様の愛がそこに溢れるならどれだけ素晴らしいことだろうか、と思う。イエス様はどんな時でもその愛を現され、こんな人に愛を現す必要があるの?と思う人にまでその愛を届け、注がれた。触れられ、癒された。語られ、導かれた。何より私たちを救うためなら、と私たちの身代わりに全てを背負われ、十字架に架かられ死なれるほどに愛された、こんな愛が溢れるならどんなに素晴らしいことだろう。この神様の愛を求め生きるなら。私たちはこの神様の愛を求めよう、私たちの歩む一歩一歩の内に。そこに神様の平和がある事を願い。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて示された知恵のことば、いのちのことば・箴言で、これを受けたソロモンが書き残し、それをさらにソロモンから約250年後、南ユダ王国のヒゼキヤ王が、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、これをすべての人に知ってほしいと願い、一言も変えずに書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様は遠くで眺めているだけの方ではなく、私たちとかかわりを持ってくださっているんですよね。まず神様がその知恵と言いますか、愛からくる御心を私たちの内に現して下さる、それによってあなたに、私たちに生きてほしい、幸せになってほしい、そう願って語られ、また導かれる。また励まし、力づけ…。私たちを神様は我が子と呼んで下さる、天の父なる神様は私たちを見捨てず、蔑むのではなく愛してくださっている、この愛なる神様を忘れてはいけませんね。

 

そんな神様は、その愛を、御思いをソロモンに、またヒゼキヤに、さらに私たちに向けて示されたのですが、↑では「自分に関係のない争いに干渉する者は、通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ」と語られます。まあ、こういう方、結構いますよね。特に現代社会では、見えないから、と自分には関係ない人を、自分の見聞きした知識だけで、自分の正義をかざして裁き、ネットで叩きまくる人。それを表現の自由だ、と言って注意されても受け入れなかったり。これが怖いのは、裁くだけ裁いてその内容に対して責任を取らない、やばいと思ったら削除してごまかそうとする、でもどんなに削除しても相手を傷つけた、という行為、事実は変わらない。もちろん法律もだいぶ整備されてきましたから、やり過ごすなんてことはできなくなりましたが。まさに、「通りすがりの犬の耳をつかむ」、その結果噛まれた、そんなところでしょうか。もしくはその責任を負うことになってしまったか。

 

話は逸れましたが、これを読んでいると、じゃああまり人とかかわりをもってはいけない、争いに対して解決を一緒にしようとかしてはいけない、ということ?と思いたくなりますが、ここで、「自分に関係のない争いに干渉する」とありますね。「関わり」ではなく、「干渉」と。干渉、というのは助ける、というよりも首を突っ込む、ということです。もっというなら、好奇心や正義感の自己満足、その自分の感情や好奇心から動く、それが干渉です。そんな好奇心や自分の自己満足のために困った問題を抱えている方や、トラブル状態にある人に望まれてもかえって混乱を招くだけです。本当にあるべき道に彼らを進める(勧める)ことができず、その首を突っ込んだ人自身が反抗うされたり、その責任を取ることもあり得る。そして神様の恵みを知らずに魂の部分で痛い目を見る。

 

ただ、明らかに問題がある、困っている人がいても、無関心に黙っているのもまた違います。そう、どういう動機で関わるか、これが大事です。だって神様は私たちを、誰かとの関係に生きるようにつくられたわけです。アダムとエヴァ、そしてその子供、またその子供、そうしてコミュニティが生まれ、そのコミュニティのかかわりの中で生きていく。互いに助け合う。そう、ただ好奇心で干渉するのではなく、互いに「愛し合う」という神様の大切な命令、神様を愛すること、また自分自身を愛するように隣人を、自分の苦手な人も含めて愛する、これ以上に大切な命令はない、と仰られたイエス様。ただ好奇心や自己満足で望むのではなく、その人を愛するという思いをもって関わる、そこに神様の素晴らしい愛、恵みが、御業が溢れるわけです。どんなに自分が正しいと思うことを言ったって、押し付けたって、そこに愛がなければうるさいドラと同じなのです。

 

パウロも、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」と、その人とのかかわりの本質を語ります。

 

彼は迫害され、仲間と思っていたものに逮捕されたり、殺されそうになったことも何度もあった、それでもそんな彼らと共に喜ぶものとともに喜び、悲しむ者と一緒に泣くように、とそれでも進めるのです。高ぶらず、かえってへりくだり、自分を知者とは考えず、悪に悪をもって報いるのではなく、「全ての人に」よいと思うことを図り、自分に関する限り、「全ての人」と平和を保つように勧めました。それは、彼自身も本来神様から見捨てられてもおかしくないほど離れ、イエス様という救い主をいただいても迫害していた、そんな自分を悲しみ、喜びに引き上げてくださったイエス様のかかわりを思って書き残したのでしょう。イエス様の愛がすべてを変える。全ての動機、行動、愛の基はこのイエス様から始まるのです。

 

イエス様はいつも「干渉」ではなく「関わり」・関係の中に生きました。5人の夫がかつていて、悲しみの中に沈んでいた、希望を見いだせずにいた、社会からも差別をされていた女性のところに行き、彼女を責めるのではなく、その本質的な悩み、希望、神様にある希望を届けた。彼女に何か物を与えたわけではない、でもこのイエス様のふところに入りながらも愛を届ける中で、彼女は希望を見出し、変えられた。その喜びは町中に広がり、変えられていきました。

 

また、姦淫の罪でつかまえられた女性、彼女を捕まえた人たちは彼女を罪から、苦しみ悩みから助け出そうとするのではなく、裁こうとしていた、いやイエス様をだまし討ちにするためにつかまえてきた。でもイエス様は律法にしたがって彼女を石打にして殺すのではなく、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と、彼女を捕まえてきた、干渉し、面白がってみていた人たち、こいつは悪い奴だから死ぬべきだ、と言っていた人たちに向かっていったのです。そう裁くあなたはどうなんですか?と。もちろん彼女の罪がある以上はそのまま、というわけにはいかない。イエス様は罪がないから投げる権利はあった、でもそれをせず、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と仰られたのです。もう元の生活に変えるのではなく、悔い改め、罪から離れよう、と。彼女の本来投げられ罰せられなければいけなかった石は、死は、イエス様が負うから、引き受けるから、と。そうして罪人から神様の内に、和解に招かれた、神様との関係、家族に招かれたのです。

 

もう挙げたらきりがない、イエス様はそれほど多くの人と「干渉」ではなく、愛をもって「関わ」ってこられたのです。私たちを関係ないものとして無視するわけでもなく、神様との関係に招くためにどこまでも愛を現されたのです。周りの目を気にするのではなく、この人が神様の恵みを受けられるように。事故の主張ではなく、ただ神様の御心を行った、その中に神様の愛が、いのちが溢れかえられていったのです。イエス様の願うところは、私たちがこの神様の愛を受け取る、この神様の愛の中に生きる事。そのためならと、私たちが本来負うべき全ての罪、思い煩いや痛みもすべて含め、身代わりに背負われ、十字架に架かられ、罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえらされたことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪は赦され、神様の子とされる、神様の家族とされる、無関係に見捨てられてもおかしくない私たちが赦され受け入れられる、何と感謝なことだろう。この愛が溢れ広がるならどれだけ素晴らしいだろう。私たちの干渉がこれにどうして勝る事ができるでしょうか。

 

「気が狂った者は、燃え木を死の矢として投げるが、隣人を欺きながら、『ただ、戯れただけではないか』と言う者も、それと同じだ」と↑で語られていますが、ちょっとくらい、これくらいいいでしょ、でかき乱してどうしましょう。むしろそのちょっとで傷つく事よりも、神様から離れる、罪の中にいるままよりも、神様の愛によって変えられていったら最高じゃないですか。神様の戯れどころか、この神様の究極の愛が溢れるなら。死の矢はいのちへ変えられる。あなたの投げかける言葉、行動、聖霊様の声を聞いてそれに委ねた言葉・行動の内にこのイエス様の救い、大いなる愛が働かれ、その御心が現わされていくのです。

 

「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。おき火に炭を、火にたきぎをくべるように、争い好きな人は争いをかき立てる。陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。燃えるくちびるも、心が悪いと、銀の上薬を塗った土の器のようだ。憎む者は、くちびるで身を装い、心のうちでは欺きを図っている。声を和らげて語りかけても、それを信じるな。その心には七つの忌みきらわれるものがあるから。憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現われる。穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く」。私たちはこの神様の愛を、愛の炎を灯し、届けるものであろう。偽りの、うわべだけの態度や争い、罪ではなく、神様の愛、平和を語る者に。神様を愛し神様の愛を求める者に。世にこびへつらうのではなく、偽りに心奪われるのではなく。イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」と教えられた。私たちは争いではなく、神様の愛を語り、どこまでも現すものでありたいものです。

 

犬と聖書の引用:干渉と愛

私たちが持っているものは小さいかもしれません。
 
でも、どんなに小さくても、神様へあなた自身を捧げるとき、
神様はこれを増しくわえ、更に豊かにしてくださる。あなたの内に神様の豊かさが広がり、
そのあなたを通して働かれる神様が驚くべきものへと変えられるのです。

 

「スヌーピー:これしか僕はもっていないけど、これが全てなんだ」
「イエス様:それこそが、わたしの望むすべてなんだよ」
 
あなたがイエス様に委ねる事、それをイエス様は待っている。
イエス様がすべてを変えてくださるから、このイエス様に期待し、あなた自身を委ねよう。
 
 

スヌーピーとイエス様、捧げる心

 

 

ほとんど誰でもそうですが、あなたもきっと、誕生日や何か特別な日には、いつもより余分の関心をもらえることを楽しみにしていると思います。けれども、誰かがあなたを愛しているという理由だけで、思いがけなくあなたに愛情深いことをしてくれたなら、特別に愛されているとは感じませんか? では、それと同じことを誰かにしてみてはどうでしょう? 立ち止まってよく考えてみれば、あなただって、他の人のためにできる思いやりのあるちょっとした行為、しかも、お金も時間もほとんどかからない何かをいくつ思いつくかに驚くことでしょう。家族との関係、友達や同僚との関係を変えたいですか? では、『5分間親切』の名人になってはどうでしょう?
ーシャノン・シャイラーー

 

↑を読むと、本当にそうだな、と思います。

そういえば私の知り合いが、誕生日について似たようなことを話していたことがあります。

誕生日は自分がお祝いされることよりも、産んでくれた母親に感謝する日なんだよ、と、誕生日の人が逆に料理を振る舞っていたそうです。すごいな〜

 

でも、産んでくれたお母さんに感謝、あながち間違えではないのですが、もっと忘れてはいけないのは、私たちに命を与えてくださった神様に感謝!魂はどうやっても人間の手では作れないのは自明のことです。こんな精密な体を作るのに、プロセスを考えて人間だけではあり得ない、冷静に考えればきっとわかると思います。この神様がすべてを計画し、今日まで、いえこれからも導いてくださるのです。

 

この神様から与えられた日々、受けるだけではなく、その恵み、愛を、神様、あなたの栄光を現す器として用いて下さいm(_ _)m

 

感謝の心、神の愛

「なまけ者は『道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる』と言う。戸がちょうつがいで回転するように、なまけ者は寝台の上でころがる。なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていくことをいとう。なまけ者は、分別のある答えをする七人の者よりも、自分を知恵のある者と思う。」

箴言26章13-16節

 

ここのところ熊騒動が多く見られます。この熊によって殺された人たちも多い。まあ危険が目の前にあってそれを警告しなかったり、その危険をあえて放置するという事はほとんどないでしょう。そして安全な場所に逃げ込むなり、守ってくれる何か、誰かに頼ると思います。熊ならハンター。私たちの歩みには、目に見える危機、危険、目に見えない危機、様々あります。そのような中、私たちはその時誰に、何に頼るでしょう。そんなの平気平気、と放置して、時すでに遅し、となったら大変。ただ私たちは忘れてはいけない。神様は私たちのことを心配してくださっているということを。私たちを創られた、いのちを与えてくださった天の父なる神様は、いつでもその御手を伸ばされ、私たちを救わんとその愛を注がれている、こっちにおいで、と。それこそ私たちが滅びることがないよう、私たちを救うために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えるほどに。私たちはこの方を求めよう、この方に帰ろう。イエス様はいつでもあなたを待っておられるから。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて示された知恵のことばといいますか、いのちのことば・箴言で、これを受けたソロモンが書き残し、それをソロモンから約250年後、南ユダ王国のヒゼキヤ王が、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見しこれは絶対に必要だと考えて、書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様はどんな時にも、どんなところにも、神様のその愛を、御心を現そうとしてくださっているんですよね。あなたを蔑むのではなく、あなたを愛し、生きてほしいと願って。滅びてほしくない、危険に進む歩みではなく、いのちの道を歩んでほしい、とその愛を注がれている。だからこそ関係を蔑まないで、捨てないで、と訴えるわけですね。神様はまだ捨てていない。私たちは諦めてはいけませんね。

 

そんな神様は、その御思いをソロモンに、またヒゼキヤに、さらに私たちに向けて示されたのですが、↑では「なまけ者は『道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる』と言う」と語られます。昨日、一昨日と、愚かな者の問題についてみましたが、ここではなまけ者について神様は語られ示されています。ただ、このなまけものの話も、愚か者の話と同じで、それらの人を非難している、というわけではなく、神様に目を向ける、心を向け、本物の恵みを受け取ってほしい、その思いが↑に込められているわけです。

 

それで、まず「なまけ者は『道に獅子がいる。ちまたに雄獅子がいる』と言う」、という事ですが、考えてみますと、今目の前に、自分がこれから行こうとしている道に獅子がいるとわかっていて、それでも放置する、無視する、というのは考えられない事ですよね。危機を目の前にして別に自分には関係ない、大丈夫って言ってそのまま進む、そんなこと、普通に考えたらあり得ない。わかっているなら、そこに行くことを避けるか、別な道を探すか、その危険を駆除するなりするでしょう?なまけ者はそのように言う、言うだけでその行動を変えない、それをここで問題とされているわけですね。

 

ただ、危機に対する態度というのはとても大事です。危機管理ということも言われていますが、危険、危機が迫っている、危ないと分かっていて何も講じないのは、ある意味ではその状況に留まり続け、疲れ果てるだけ。本来行くべき道を進めず思い悩む。だだの旅行ならまあ回避するなり道を変えればいいのでしょうが、私たちの日々の歩みに差し迫る問題、重くのしかかる問題、迫っている問題、となると話は別です。これをどうにかしなければなりません。じゃあ皆さんだったらどうします?まあまあ、別に気にしなくてもいいじゃん、と放置しますか?それとも誰かにとり除いてもらうなりしますか?

 

神様は私たちのことを心配されています。私たちの内に重くのしかかる色んな問題に対して、なまけて見て見ぬふりをされる方ではなく、それを取り除こうとしてくださる。私たちの抱えている思い煩い、痛み、世の勢力、何より罪、これがあなたをむしばみ、本来私たち、あなたが受けられるはずの神様の恵み、与えられているいのちが危険に晒されることを良しとはされません。私たちは罪?神様?別に自分には関係ない、楽しければいいじゃん、ありのままでいいじゃん、と考えてしまうことがしばしばあるでしょうが、それは結局その問題に支配されてしまう、という事です。罪と言ったって、別に犯罪とかそういう事だけを指すわけではありませんよ?罪というのは神様から離れ歩む事、それが結局世の力、サタンの手によってあなたのいのちを、霊的な命を奪われかねない、だから神様に帰ってきてほしい、それが神様の願いなのです。

 

神様は、そもそも私たちに最高の恵みを備えておられました。エデンの園に全ての良いものを備え、神様がその地を潤し満たし、この実をから取って食べていいよ、と神様は惜しみなく与えてくださっていました。ただ、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と、罪に対してはそれを取って食べてはいけないよ、と仰られていた。それを取って食べて、霊的に死ぬ事を神様は良しとされなかったのです。良いよいいよ、別に食べても何にもないでしょ?と思って食べたエヴァ、そしてそれを咎めずエヴァに勧められるまま食べたアダム、2人とも罪の呪いを受け、死が入ってきた、そして本来ずっといられるはずだったエデンの園から追放されることとなったのです。

 

話を戻して、私たちは目を覚ましていなければなりません。今の世の中なおのこと、私たちを神様の恵み、本物のいのちから引き離し、奪おうとする者たちがいます。思想、持論、真偽のはっきりしない情報、知恵とも言えない人を傷つけるだけの知恵。これ、本当に今の時代多いです。情報化社会になったから余計にでしょうか。特に自分の言っていることは絶対に正しい、神様もこう言っている(に違いないと考えるだけで勝手に勘違いしている)という人。その間違いの状態に気付かずに押し付けている人。神様はしかしそんなことを喜ばれるのだろうか。自分は正しい、神様が間違っている、と気づかずにしてしまっている人。それはまさに神様の恵みを失い、ある意味でサタンの思うままにされてしまっている。あなたのいのち、大切ないのち、神様から与えられた最高のいのちをそんなものに奪わせてどうしましょう。

 

私たちは神様から与えられている恵みを取りに行っていますか?別にそんなものなくても良いよと言って、「戸がちょうつがいで回転するように、なまけ者は寝台の上でころが」っていませんか?神様が一体いついいことをしているの?という人もいますが、神様は毎日毎日、いつもその恵みをくださっている。かつてイスラエルの民が400年近くエジプトの奴隷とされていた時、神様から救い出された後、毎日のように神様からマナという食べ物を送ってくださり、これを集めに行くように、と仰られた。そしてその日その日に十分な分が彼ら一人一人に与えられていた。でも、これを取りに行かなければ食べることはできない。私たちが別にいいよ、と諦めたり、神様を求めたって何になるの?と寝そべっていてはこれを取ることはできない。

 

もしくは、「なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていくことをいとう」と語られているように、これは自分の価値観、考え方、時代と合わない、求めている事と違うと言って取らなければ何も得られない。むしろ自分の価値に合う者だけを口にして、罪があなたを支配する、世の価値観があなたを支配する、これで満足できるかと思ったらいつまでも満たされない、そんな状態でいいのでしょうか?

 

イエス様はある日、お腹を空かせていた約20000人の人を満たすために、5つの大麦パンと2匹の魚を、神様に感謝を捧げて割き、集まっていた人たちに分け与え、彼らが満腹になった、という出来事がありました。しかし民たちはイエス様について行けば食いぶちにこまることはないだろうと、イエス様を追いかけるのですが、イエス様を求めるのではなく、彼らはパンを求めた。救い主、彼らの魂、いのちを救おうとされているイエス様のことばは退け、イエス様を認めず、あくまで自分たちの求めるパンを与えることを求めたのでした。それはパンは一時的に腹を満たしても、私たちの魂は満たすことはできない。多少良いと思える知恵があってもそれは私たちの魂まで救うことはできない。どんなにイエス様があなたの内に働こうとされても、その恵みをあなたに与えようとその皿に、空の皿においてくださってもそれを取って食べなければ生きることはできないのです。最後の晩餐の時も、イエス様が割かれたパンを、イエス様の裂かれるこのからだを取って食べるように、と。

 

神様は私たちが死ぬことがないよう、私たちを救うために、御子イエス様に私たちの負っている様々な痛み、傷、思い煩い、世の勢力、罪、こうしたものを取り除き、聖めるため、罪を赦し新しいいのちを与えるために、その皿にイエス様を置かれた。あの十字架にイエス様をかけられたのです。私たちの身代わりにこれらを背負わせて。そうして十字架上で私たちの身代わりにイエス様を罰し、死なせた。普通ならあり得ない話。でもそのありえない愛をあなたに現し、これを受け取って生きてほしい、死なないで、悔い改めて生きて、と断腸の思いで決断された。そしてこの裂かれたイエス様をあなたの前に差し出されたのです。

 

あなたはこのイエス様のいのちをいただいていますか?いつまでもそんなものはどうでもいいや、と目の前に危機、罪の足音が、裁きの足音が近づいていてなお救いのためのいのちのパンを取らずにいるなんてことになっていませんか?ありのままでいいんだよ、と言って神様の仰っている道から離れ、その自分好みの生き方をして、罪に支配され、神様の恵みを失うようなことになっていませんか?大丈夫大丈夫、と言っているある日、突然のように、それこそ盗人が来るかのように突然その終わりの日が来る、それであなたが完全に滅びることを神様は望まない。何より今、あなたをそれらから解き放ち、永遠のいのちに生きてほしい、その恵みを受け取ってほしい、とあなたを招かれているのです。イエス様の足音、救いの足音をあなたは聞いているだろうか。あなたに迫る危険の足音から離れイエス様を頼り祈ろう。

 

「なまけ者は、分別のある答えをする七人の者よりも、自分を知恵のある者と思う」とありますが、私たちは自分が正しいと高慢になって肝心の神様の恵みを失うことがないようしっかりと目を覚まし、またこのイエス様を見上げ、この方の恵みを、御心を、いのちを求め続けようではありませんか。ここに知恵、真理、いのちがあるんだ、イエス様が道となられ、そのいのちの道を私たちに歩ませて下さろうと招いてくださっている。私たちは罪や危険が跋扈する道から離れ、このイエス様の道に方向転換し、帰ろう。あなたのためにご自身のいのちさえ惜しまず与えてくださったこのイエス様があなたに開かれたこの道を、この開かれた扉から入って、この永遠のいのち、本物のいのちの日々を歩もうではありませんか。これを書き残したヒゼキヤ王は、父親が残した罪による腐敗を宗教改革で取り除き、聖めた。アッシリヤに囲まれ大ピンチ、まさに獅子を目の前にした時に祈った。病気で死が宣告された時も祈り求め、そうして主はその新しいいのちの道を切り開かれた。あなたはこの新しいいのちを受け取っていますか?

 

道に獅子がいる、なまけ者の箴言                              なまけ者と獅子、箴言26章13-16節

私たちは未来という不確かなものに不安を覚えます。

もっというと、神様なんか信じて何になる?と疑い、別なもので頑張って生きようとします。

でも、不安に追いかけ回されていたら疲れますよね。

 

ティモシー・ケラー氏は言います。

神様は人生の中に不確かな恵みを私たちに与えません。神様は私たちが今日、必要な物を与えてくださいます。
God doesn't give us hypothetical grace in lifetime supply. He gives us what we need today.

 

神様は不確かではない、なにか精神的な概念とかではありません。

真の神様、今も生きておられ、あなたのためなら御子イエス様の命さえ惜しまず十字架にかけあなたの身代わりにするほどに愛されているのです。そこまでされて、あなたが受け取るなら、この愛を、命を、救いを、どうしてあなたの歩みが不確かな歩みになり得るでしょうか。そこまで愛された復活のイエス様があなたと共にどんなときでも導かれる。あなたがどんな場面に遭遇しようと全ての必要を与え、共に背負い、導いてくださるのです。

 

あなたはこの愛を頂いていますか?

私たちはこの命のパンを日々いただき、養われ、歩もうではありませんか。

 

焼きたてパンとバター

今NoHeartNoSNS(ハートがなければSNSじゃない)という言葉が出てきています。

これは賛成です。

 

私たちは誰かを傷つける、裁くことなどできはしません。

むしろ私達はイエス様の愛、命がけの愛を持って愛し合ってみませんか。

そこにはイエス様の愛があふれるから。イエス様がいるからそこに愛があふれる。イエス様がいるから、そこに命が溢れる。No Jesus No Love, NoJesus No Life.

 

あなたは今日、明日、これからあなたの周りの人、身近な人にどんな声をかける、どんな行動をするでしょう。

 

イエスの愛と犠牲、友への命をかける愛

「愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける。愚かな者が口にする箴言は、足のなえた者の垂れ下がった足のようだ。愚かな者に誉れを与えるのは、石投げ器に石をゆわえるようだ。愚かな者が口にする箴言は、酔った人が手にして振り上げるいばらのようだ。愚かな者や通りすがりの者を雇う者は、すべての人を傷つける投げ槍のようだ。犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す。自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。」

箴言26章6-12節

 

私たちって色んな性質をもっていて、長所と短所がある。みんなありのままで素晴らしい、と言えれば一番いいのですが、なかなかそうもいかないんですよね。それなのに他の人の弱い所が気になったり。でも、誰も完璧な人なんていない。だからあの人といるとバランスが悪いとか、そういうことはないんです。うまくいかないことだって、迷ってしまうことだってあって当然。だからこそ、私たちには神様が必要なのです。神様が私たちを支え、導いて下さるから、私たちは本当の意味で生きていられるのです。この方がその欠けたところも神様の良いもので覆ってくださり、変えてくださる。癒して下さる。私たちにはこの神様にある望みがあるのです。天の父なる神様は、神様から離れ彷徨い疲れた私たちを見捨てることなく、わが子を探しに来てくださった。救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった。こんな神様が私たちと共にいる。この方の差し伸べられた手を放さず、本物のいのちの日々を歩ませていただこうではありませんか。こんな私たちにさえも神様は今日もその御手を伸ばされている、この方をあなたはどれだけ信頼していますか?

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された知恵、いのちのことば・箴言で、これを受けたソロモンが書き残し、さらに南ユダ王国のヒゼキヤ王が、その250年後、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見しこれは絶対に必要だと考え、書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様は私たちを縛り付けたいのではなく、私たちのいのち、たましいを、神様の恵みを奪い去ろうとする、傷つけようとするものから守ろうと、その御言葉で光を照らし、また導こうとしているんですよね。むしろ神様の知恵・御心を現すことで、私たちにいのちを、喜びをもたらそうと。わが子を思う親の愛を超えた神様の究極の愛が今日も注がれているんだ、と。それは↑のヒゼキヤの時代も、今を生きる私たちにおいても変わらない。

 

そんな神様は、その御思いをソロモン、またヒゼキヤに、さらに私たちに向けて示されたのですが、↑で「愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける」と語られます。これは昨日から続いている愚かな者についての話の続き、「誉れが愚かな者にふさわしくないのは、夏の雪、刈り入れ時の雨のようだ」という、この26章の出だしを受けてのものになります。昨日、そのことについて、私たちは「愚かな」「何か」を大事に、自分の重さにしてはいけない、重きを置かない、それは私たちにとっての重荷となってしまうことを見ました。逆に神様の目には愚かではないものなどいないから、本当に大切な神様の御心・知恵を求めることを見ましたね。自分の誉れを大切にするのではなく、神様の知恵・秩序、御業、御心が成ることを願うことを。

 

それでその問題点が↑の前にもいくつか挙げられていましたが、ここでは「愚かな者にことづけをする」問題について語られています。愚かな者、その意味は「軽薄、無価値、不誠実」な者、という事を意味することを昨日も見ましたが、そんな人に伝言を頼んだり、任務を託せば、うまくいかなかったり、ダメージを受けるのは目に見えてわかる事でしょう。まあうまくいけばラッキー、それでいいのかな?

 

こう、この箇所を見ていると、愚かな者はどうでもいい人だから適当に扱っていい、と言っているように感じるかもしれませんが、そうではありません。まずそもそもの話が、愚かな者ではない、何の問題もない人、罪も何もない、清廉潔白な人なんていない。神様の目から見て愚かではない完璧な人などいないのです。そんな私たちに神様は、神様にあなたの大切なものを託していいんだよ、と訴えるわけです。愚かな、不確定な何かにもうどうしようもないからと言って委ねる、託するのではなく。

 

私たちは自分の何かを人に任せたり、託したりします。もちろん仕事的なことで託すこともあるでしょうが、それはまあ気を付けて相手を見て、本当に託すべき人に託そうね、で済む訳ですが私たちの抱える問題や痛み、そうしたものですと、託する相手を間違えれば大変です。これ以上身を切ったり、害を受けてどうしましょう。そう、むしろ今仕事のケースで申し上げました通り、託す相手をよく見ると言いますか見分ける必要があります。一見いいことを言っているようで自分本位なことを言っている人、持論にもっていく人もいる。でもそんな人にあなたの重荷を任せる、託せますか?

 

しかしイエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と語られた、約束されました。神様から離れ様々な重荷を背負ってしまった私たちをイエス様は見捨てず、むしろ私の所にそれを託していいんだよ、と仰るわけです。あなたが悪いんだ、自業自得だとかそういうことを仰るのではなく、イエス様が私たちに心優しく語り、また心優しく働かれ、私たちの内に安らぎ、平安を与えてくださるのです。魂に安らぎが来るのです。イエス様に託すことは、委ねることは私たちにとって重荷にはならず、私たちを自由にしてくださる。

 

イエス様に委ねる、何を言っているんだ?と思いますか?それを愚かと考える、それこそがある意味で愚かなこと。イエス様はあなたを癒そうと、私たちに委ねていい、託していいんだよ、と仰られているのに、その恵みを愚かな者と見て、本来頂けるはず神様の恵み、いのちの日々を傷つけてどうしましょう。私たちは、あなたはこのイエス様にあなた自身を託す、委ねていますか?イエス様は私たちを自由にし、解放するため、私たちの抱える様々な思い煩いや痛み、何より罪という重荷を身代わりに背負われ、十字架に架かられ、罰せられ、死なれたのです。人の目から見たらイエス様の十字架を知って何になる、愚かなことだ、というかもしれない、しかしこのイエス様の十字架の御前にへりくだるなら、私たちを救う神様の力がそこに働かれている、死をいのちに変える方の力が、神様から離れ愚かな道を歩んでいた、愚かな者を抱えて歩んでいた私たちを見捨てず愛し抜かれた神様の愛が私たちを覆い、たましいに安らぎ、平安をもたらされる、新しいいのち、聖霊様に満ち溢れた新しい命を得るのです。

 

私たちはこのイエス様にあって与えられた命、ある意味で託され生かされているこのいのち、愚かな歩み方をしていませんか。せっかく救って下さった命を他の世のものやサタン、偽り、愚かな何かに託していませんか?イエス様に委ねましょう。イエス様があなたをどんなところにあっても導いて下さる、その道を照らしながら。またこの与えられた命、神様を知らずにさ迷う人たちにその愛を、本物の希望を届けませんか?世の手にその人や状況を奪わせるのではなく、その人に、そこに神様の平安が、いのちが、喜びが、その全てが溢れることを信じて。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」、この約束を信じて。

 

「愚かな者が口にする箴言は、足のなえた者の垂れ下がった足のようだ」。ちょっと後半部分が厳しいことばになっていますが、どんなに箴言を知識として知っていても、その源なる神様に信頼しなければ意味がない、その箴言の源は神様であり、その知恵・御心を実行されるのは神様なのですから。この方からあなたへの愛が溢れ、現されている、それなのにその箴言と言いますか、神様を蔑ろにしてどうやって歩んでいけるというのでしょう。倒れるだけではありませんか。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」のです。

 

かつてバビロン捕囚にあった預言者エレミヤという人は、目の前に広がる荒廃、悲しみを見ながら、それでも「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です』と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに」と告白的に歌い、詩に残しました。神様は私たちが滅びてほしくない、と願い、だから御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった。その神様の恵み、憐みはまだ尽きていない。朝毎に新しい。いつくしみ深い神様を私たちはどれだけ待ち望み、この方に希望を抱いているだろうか。この方の語る言葉、箴言と言いますか、知恵のことば、知恵・愛からくっる御心が私たちに注がれ生かして下さると、あなたは確信をもって信じ、この方に託していますか?あなたの歩みを支え、またいのちの道に導いて下さるこの方に。

 

神様以外の何かにあなたを委ねるなら、その人の好きな方に、それこそ↑の石なげきのたとえではありませんが、どこに飛んでいくのかも分からない、いつ飛ぶのかも分からない、そんな不確定なのもにあなたの身を委ねるなんてもったいない。また、自分やサタンに酔った人の手にある鞭が自分勝手に何かをするかのように委ねてどうしましょう。愛のむちだ、と言いながら自分の主管、主義主張を押し付け傷つけ、従わなければ…と脅され。しかしむしろあなたを陰府、死の底から引き上げるためにいのちさえ惜しまず、陰府にまで降られたイエス様が成されるその行動、御業がもたらすことはどれだけ素晴らしいか。

 

私たちは心を注ぎだして色んな自分の委ねられる人を探す。そういう何かを。お金は↑のように払わなくとも、心はそれらを雇い入れ、自分が富んだ者になろうとする。でもそうじゃない。あなたをイエス様のいのちをもってその代金を支払ってでもあなたの罪を赦し、新しいいのちを与えられた、そこにこれ以上ない愛が注がれ、また聖霊様が注がれ満ち溢れさせてくださり、助け導いて下さる。これ以上何を求めましょう。それ以上何に、誰に心を注ぎだす必要があるというのでしょう。

 

「犬が自分の吐いた物に帰って来るように、愚かな者は自分の愚かさをくり返す」と言われているように、もう愚かな道に帰ったり繰り返してはいけない。むしろこのイエス様の繰り返し、いや絶えず注がれる恵み、与えてくださるすべてに感謝し、これに生かされ、歩もうではありませんか。自分の悟りに頼る、自分を知者のように無理にふるまうのではなく、たとえおろかに見えても、それでも神様に従う者であろう。本来神様の恵みを受けるに値しない、ある意味で神様と歩むなんて恐れ多い、不釣り合いなものとして捨てられてもおかしくない中、それでも、「私たちは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神の賜物です」。神様の恵みが私たちに今日も注がれている、賜物が。愚かな道から、いのちから解放され、この神様のくださった賜物に生かされ、歩もうではありませんか。

 

箴言26:12 賢い者より愚かな者に希望がある                              箴언 26:6-12 宇宙と創造

今日で46歳になりました(;^_^A

年を重ねたな、と思うところですが、色んなことがありました。

色んな人と出会い、楽しかったこともつらかったこともありました。

 

でも、この日々は神様が私を愛してくださって、

働かれてきた日々なんだ、その上に今日あるんだ、と思うと

あまり悲観的にならない( ´艸`)

最近痩せた?体力もついてきた?日々若返るかのよう、キリストにあって日々新しくされる、感謝^_^

 

ここからさらに神様が積み重ねてくださる日々を楽しみにしています。

 

これを読んでくださっている皆さんの上にも神様の豊かな祝福がありますように。

神様の尽きることのない恵みがありますようお祈りします。

 

祝福の今日、イエス様の御名により宣言

 

 

以前たまたま本屋で見つけた「100万回死んだねこ 覚え間違いタイトル集」という本。

これが非常に面白いのですが、

うろ覚えのタイトルを探す利用者さんに福井県立図書館のスタッフはそこから推理し、正しい本を紹介する…

 

ちなみに「100万回死んだねこ」✕

「100万回生きたねこ」○

だそうです。

 

100万回も死んでられるか!と突っ込みたくなる所ですね(笑)

 

ここからは真面目な話になりますが、

私達がどうしようもなく、言葉にならない祈りも神様は聞いてくださります。あなたの心を知っていてくださる。聖霊様が代わりに執り成してくださるのです。

どうしたらいいんだ!と思う時、神様に祈ってみましょう。神様が導いてくださるから。本来ある道へ。

 

ちなみにイエス様は1回の死、1回の復活を持って私達に何度も死なせるのではなく、永遠の命を与えてくださっりました。↑のスタッフは利用者さんを責めずに優しい解説をしていたようですが、イエス様は罪に定めるよりも、あなたを救いへ、命へ導きたい。あなたはこのイエス様の愛にどう応えるだろうか。

 

イエス様が祈る姿

アメリカの学校で理科の授業中、実験に使っていたマウスが逃げ、どこに隠れたのかわからなくなった。女性の教師はみんなに探させたが見つからない。
 

そこで全員を席に着かせ、自信たっぷりにこう言った。「これだけ探して発見できないのなら
あとは、モリス君にお願いしましょう」

 

途端に、ちょっと待って何でアイツがという声があちこちから起こった。
教室はざわめき、一人が
「モリスには無理です」と手を挙げて言った。
実はモリスは目が不自由なのである。

 

教師は答えた。
「なるほど、確かに目が不自由です。だからモリス君には無理だとみんなは思うかもしれません。でも、先生は知っています。モリス君は目が不自由でも、神様から素晴らしい能力をもらっています。聴力です。それを生かせば必ずマウスを見つけてくれると先生は信じています。モリス君、お願いできますか?」
 

そして、モリスは期待に応えて捜し出した。
そして、日記にはこう書き残した。

「あの日、あのとき、僕は生まれ変わった先生は僕の耳を神様がくれた耳と言って褒めてくれた。僕はそれまで目が不自由なことを心の中で重荷に感じていた。でも先生が褒めてくれたことで僕には大きな自信がついた。」


このマウス事件から十数年、神の耳を生かして音楽の道に進んだスティービー・モリスは
シンガー・ソングライターとして鮮烈なデビューを果たすのです。
スティービー・ワンダーという名前で!

 

*あなたに神様は不足させません。

神様はあなたにはあなたへの計画があります。

周りがなんと言おうが、神様が何と言っているのか、そこに注目しましょう。

 

スティービー・ワンダー、神の耳、約束の歌詞