とある働き人の聖書のお話 -3ページ目

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

 

私はある時、イタリアの小さい洞窟の中で、小さいシダが育っているのを見た。泉のほとばしるしぶきで、いつでもその葉がキラキラと輝き、躍っているような場所に育っていた。それはいつも緑であって、夏の干ばつや冬の寒さが影響を与えることはなかった。そのように我々もイエスの愛の優しい影響下にいつも住み続けていくようにしよう。兄弟たちよ、神の中に住むのである。時たま神を訪れるということではない。神の中に住み込んでしまうのである。

ーチャールズ・ハッドン・スポルジョンー

 

神様は24時間365日、世の終わりまで働かれています。

私たちはパートタイマーではなく、神様にいつも御心のままにと祈りましょう。

神様はあなたを輝かせてくださるから。

いつも、神様と一緒に、神様のみむねの中、歩もうではありませんか。

 

開かれた聖書に神の愛がハート型に映る

 

子供は、両親が家で話すことを街でしゃべる。

子供は、両親の話し方をまねる。性格はその話し方で解る。

ーユダヤの格言 タルムードよりー

 

親の背中を見て子供は育つと言いますが、

そんな偉そうなことを私が言えるほどのことはできません。

 

だから、私たちは神様を見上げよう、神様の愛を語り、祈ろう。

子どもたちはそうして神様のすばらしさを知っていくから。

 

夕日を浴びて祈る女性

「名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である。利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける。謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。曲がった者の道にはいばらとわながある。たましいを守る者はこれらから遠ざかる。若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる。」

箴言22章1-8節

 

人生、人の日々というのは何か機械的なものではないんですよね。ぐうぜんできたいのちではなく、授かったいのちだから。誰から授かった?神様からです。私たちのからだを組み立ててくださった神様からです。冷静に考えればそのスタートを考えると、組み立てる誰かがいなければこんなに素晴らしいからだ、ひとりひとり違う姿にはならないですよね。神様がご自身に似せてつくられ、たましいを与えてくださった。どうでもいいものではなく、神様の霊を吹き込んで生きたものとしてくださった。その父なる神様が私たちを今日も支え導いている、神様の愛が注がれて。あなたのためになら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった方が、この愛が、そのご計画が今日もあなたに注がれている。あなたはこの神様にどれだけ期待して歩むだろうか。

 

ということで、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け語られた箴言・知恵のことばで、これをソロモンが受けて私たちに書き残し示されたことば、その続きになります。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様はある時だけ関わって何かしてくださる、とかそういうものではなく、私たちを我が子と呼び、その我が子に良いもので満たしたい、幸せになってほしい、その思いを込めてすべてのものを注がれているわけですね。蔑んだり、気にくわなければ捨てる、とかそういう希薄のものではなく、とこしえに神様の恵みを注ごう、だからわたしたちのもとに帰っておいで、そんな神様の意思が感じられますね。

 

そんな神様は、この知恵・愛をソロモン、そして彼を通して私たちに知らせるべく、「名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金にまさる。富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。

 

名声が素晴らしいというと聖書に詳しい方は違和感を覚えるかもしれませんが、まずイエス様は「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」と教えられています。人の名声を受けるために善行を行ったり、形だけいいことばを語ったり、そういうことについて注意されています。まあ実際、当時私はこれだけたくさん祈っているんだ、と御名に認められるために、大通りで大声で祈っている人がいたり、人が大勢いるところで施しをして、おおこの人は素晴らしい、と評判をあげようとしていましたしね。神様からの栄誉よりも、人の栄誉を愛する、それが人の常なのか。あ、もちろん困っている人を助けること、施しをすることを否定しているわけではありませんよ?ここまで箴言の中でも見てきましたが、困っている人にその手を閉ざしてはいけないこと、また律法を見ても、困っている人を助けるように、という事が具体的にたくさん書いてあります。

 

じゃあこの「名声は多くの富よりも望ましい」ということばはどういうことなのか。矛盾しないのか?まあ一つは単純に、お金儲けとかそういう事よりも、誰かを助ける、困っている人に手を差し伸べるなど、そうしたことの方が大事、というのが一つでしょう。それは神様の私達への思いにもかなっていますし。

 

もう一つは、この名声ということばの本質的な意味に関わってくるのですが、このことばは「信頼される名、誠実な人格、人から尊敬される評判」という意味を持つ言葉です。ただ有名であるというよりも、その人の名前が呼ばれた時に思い起こされる人柄や行い、そうしたものを指すようです。たとえば正直者であるとか、約束を守る、親切であるとか。どんなにお金があろうとも、その人の本質が悪ければどれだけお金を持っていようが評価などされない。逆に、神様を恐れ、隣人を愛する歩み、御心に叶う歩みというのは、名声を得なくとも、神様はそのあなたの歩みを喜び、先程のイエス様のことばと合わせるなら、そのあなたに報いてくださる。もっといろんなことをイエス様は任せてくださるのです。そのあなたを通してさらにすばらしいことを。そんなふうに神様の御業が広がっていくなら、祝福が溢れるなら、素晴らしいと思いませんか?自分の名声のために見せかけのような歩みをするのではなく、形だけいいことをして実質が伴っていない歩みをするのでもなく、神様の御心に叶う歩みをする、その中に神様の名が、御業が、祝福が広がっていくなら。この世の金銀に勝る神様の喜びがそこに広がるのですから。

 

ある意味では人の名声なんてなくてもいい。それによって自分が高慢になって今までしていたことをやめるくらいなら。むしろ純粋に神様の愛に生きる、神様の愛をもって互いに仕え合う、隣人を愛する、これを忘れてはいけませんね。人からほめられるよりも、神様があなたを喜ばれるならそれ以上のある意味では名声はないのではないでしょうか。私たち、私、あなたの名がほめたたえられても、そんなものは何にもならない。しかし神様の名がほめたたえられるという事は、そこに神様の御業が現わされているという事ではありませんか。これほど素晴らしいことはありません。

 

この名声の話に続けて、「富む者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である」と語られていますが、富む者と貧しい者とは互いに出会う、とありますが、神様が貧しい者、困っている人、霊的に貧しくなって辛くなっている人に、そうして富む人、霊的に富む人、そうした人と出会わせてくださるわけです。その中で神様の名があがめられるわけですね、神様がその人を通して働かれることによって。すべてを創られた神様、あなたを、あなたの周りにいる人をつくられた神様はそうして、全てを治めてくださる、守ってくださる、全ての必要を満たして下さるのです。神様の超奇跡的なことを通して守られることもありますが、しかしあなたを通して働かれることもあるのです。その時、自分の名声だけを求めて、この人を助けてもな、なんて言っている場合ではないですね。そこに神様が働かれるなら、そこには神様の素晴らしさが現わされる。神様がその何かをつくりだされるのです。

 

それはただの金銭的な富や貧しさだけではなく、人間関係的なものもそうでしょう。誰かその関係が貧しくなって困っている時、自分の満足や、主張を押し付けるのではなく、神様の愛をもってその人たちを助ける、回復に導くなら本当に素晴らしいことではありませんか?そこに人の名声のための行動ではなく神様の御業が現わされるなら。

 

何より忘れてはいけないのは、私達神様から離れ霊的に貧しくなった、神様の恵みを失った、そんな私たちを、最も富んでいるはずの御子イエス様を遣わされました。最も貧しくなられて、人となって生まれてこられ、その間に住まわれた。自分の名声ではなく神様の御名があがめられること、私たちが悔い改め立ち返るためならと、全てを惜しむことなく与えてくださった。そのイエス様がこんな人を助けて何になる?と思われるような人とも出会い、その愛を与えられた。希望を失った人にも、見捨てられた人にも。でもそれだけではなく、私たちのこの思い煩いを、痛みを、何より罪も一切取り除くべく、イエス様がこれらすべてを身代わりに背負われ、十字架上で罰せられ、死なれたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる、この神様の子とされるという最高の特権をいただけるのです。

 

こんな貧しく死にゆくしかなくなった私たちを見捨てず、神様は御子イエス様を遣わしで合わせてくださり、ご自身の内につなげてくださった。そんな中に神様が働かれるんです。それはこの世の金銀で測ることなどできませんよね、そこに現される神様の愛は、御業は。神様の名に勝るものはありません。だから、人の名があがめられることよりも神様の御名があがめられることを祈るのです。そのように神様に従い歩む中で神様の栄光・素晴らしさが、御名があがめられる、名声がほめたたえられることを願うのです。

 

同時に、何か人の名声や、見かけだけよいことを言う言葉、行動に惑わされてはいけません。神様の名を求めよう。貧しい時、イエス様の御名によって祈ろう。そこに神様が働かれることを。「利口な者はわざわいを見て、これを避け、わきまえのない者は進んで行って、罰を受ける」と語られているように、貧しい、辛い状況を見る時すがりつくのはわきまえのない、名声に走っている人やことばではなく、遜り、謙遜に歩まれたイエス様、その命をかけて愛されたイエス様を求める、その時、私たちは神様の富、素晴らしさを受け、回復されていくのではないでしょうか。

 

「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。曲がった者の道にはいばらとわながある。たましいを守る者はこれらから遠ざかる」。私たちはこの神様の御前に謙遜になろう、恐れよう。そこに神様の確かな富と誉、イエス様のいのちにあって与えられるこのいのちが私達にも与えられる。それ以上に富んだものはない。あなたの魂を守るためにイエス様がいのちをかけられたその道、イエス様が守られた道、この道をただまっすぐ歩もう。いつかは終わる名声を求めるのでもなく、ただこの永遠の愛、とこしえの愛を現される神様の愛を信じて。

 

「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない」。私たちはまず私たちを正しく導いて下さる神様の御前にへりくだろう。あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった神様が、あなたの行く道を正しく導き、その愛により導いて下さる。神様があなたが若い頃も、小さな頃も、年老いても、白髪になっても、希望を失っている時も、元気な時も、座り込んでいる時も…どんな時もあなたから離れず守ってくださるから。そしてこの希望を教育、というよりもあなたの周りの人たち、困っている人たちに届けよう。イエス様の名を届けよう。そこにあるいのちを、希望を、とこしえの愛を。「富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる」という現実から、本当に富む神様があなたのためにへりくだり仕え、全てを惜しまず与え、支配するのではなく愛する方が今日あなたの日々を支え、そのいのちをとこしえにその愛で富ませてくださるから。出会ってくださったイエス様との日々をどこまでも求めようではありませんか。

 

「主よ、私たちの主よ。あなたの御名は全地にわたって、なんと力に満ちていることでしょう」とかつての詩人であり王であるダビデが体験的に告白したように、私たちはこの神様の御名があがめられること、他に救いはない確かな御名が私たちに与えられていること、この名を呼び求めていい、とイエス様が仰られたのですから、私たちはその命をかけて愛されたイエス様の名を、この力強い名をいつも求めよう。全ての口が「イエス・キリストは主です」と告白する日が来ることを願い。

 

箴言22章2節「富める者と貧しい者とは互いに出会う。これらすべてを造られたのは主である」

時代と共に様々なものが新しくなってきています。

でも、じゃあ古いのはダメ?本当に大事なものはどんなに時代が経っても変わらない。

 

イエス様の12弟子の一人だったヨハネは、イエス様が十字架に架けられ死なれ、またよみがえられてから60年近くたってもなお、このイエス様の愛は、十字架は、変わらないことを訴える、互いに愛しあうことを教えるのでした。時代が違うからそんなものは関係ないとかではなく、むしろいつまでも残るこのイエス様の愛に留まること、それを求めるわけですね。

 

私たちを裁きから、罪に対する神様の激しい怒り、これを現されたイエス様の十字架は今日も変わらない。あなたはこれを受け取っているだろうか?この愛を受けたものとしてどう生きるだろうか?これは時代が違うから別な話、と自分の都合で入れ替えたりせず、ただこの愛にへりくだり生きよう…

 

という事で今日は日曜日ですので、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただきます。よければ聴いてくださいm(__)m

 

Ⅰヨハネの手紙2章7-8節

「古いものはお好き?」

 

 

イエス様の愛、十字架、Ⅰヨハネ2章7-8節

 

世の中、某◯ook OF◯など様々な店を見ても、

色んなハウツー本が見受けられますよね。結構面白いものもあります。

でも、それが必ずしも自分に当てはまるわけではありません。だって、それはその人が体験したことであって、環境も違えば育ってきた環境も違います。

まあ、多少の共通点、ベースになっている部分を理解した上で共感できればなんとかなるかもしれませんが。

 

でも、私たちには最大の共通点があります。

私たちは両親を通して神様によって作られました。考えてみればプロセスを考えて、魂なんてできるわけがないとわかるでしょう?そのプロセスでは。それでできるなら、魂を吹き込めるロボットなどいくらでもできるでしょう。

神様はだからといってコピーペーストするように同じようにはしません。あなたにはあなたへの養い、導き、語りかけ、御力、愛…を注がれるのです。

私たちは神様、聖書のみことばに立ち返ろう。ここにすべてがあるから。

 

ジム・シンバラ氏は言う。

 

私たちは、育児書や、子供と充実した時間を過ごすための本を山ほど持っています。
 
しかし、今日、教会の子供たち100人を調査してみると、過去のどの時代にも増して問題を抱えている子供が多いのです。これは、私たちのハウツーや知識の不足から生じたのではなく、私たちが神の恵みと力を願い求めて祈ってこなかったことが原因です。
 
仮に、過去25年間において、私たちが、クリスチャンホームに関する書物を著したり、出版したり、読んだり、話し合ったりする時間を半分にして、あとの半分の時間を結婚生活や子供たちのための祈りに充ててきたとしたら、どうだったでしょう。現状よりはるかに良い状態になっていたはずだと私は確信します。

 

DEPENDING on DEPENDABLE GOD

「知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし愚かな者はこれをのみ尽くす。正義と誠実を追い求める者は、いのちと正義と誉れとを得る。知恵のある者は勇士たちの町に攻め上って、その頼みとするとりでを倒す。自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない。高ぶった横柄な者―その名は『あざける者』、彼はいばって、横柄なふるまいをする。なまけ者の欲望はその身を殺す。その手が働くことを拒むからだ。この者は一日中、自分の欲望に明け暮れている。しかし、正しい人は人に与えて惜しまない。悪者のいけにえは忌みきらわれる。悪意をもってささげるときは、なおさらのこと。まやかしの証人は滅びる。しかし、よく聞く者はいつまでも語る。悪者はあつかましく、正しい者は自分の道をわきまえる。主の前では、どんな知恵も英知もはかりごとも、役に立たない。馬は戦いの日のために備えられる。しかし救いは主による。」

箴言21章20-31節

 

私たち人間には魂があり、感情があり、エネルギーになるものもある。本当に素晴らしい存在だな、とつくづく思わされますね。人それぞれ違いがあって、コピーペーストのようなものでもない、何か偶然できた存在でもない。私たちは神様の似姿に似せてつくられたんです。なんてすばらしい。もしあなた自身に自信がなかったらぜひこの事を覚えていてください。あなたはこの天地万物をデザインされ、また造られた神様が、その御手で、そのイメージに似せて、最高傑作につくられたことを。そしてこの方がただつくられて終わりではなく、あなたの内に今日もその愛を、思いを現し、注がれているんです。何よりあなたへの愛は、あなたを救うためなら父なる神様は、御子イエス様のいのちを身代わりにされた。こんな方の愛が今日も注がれている。今日私たちはこの神様の愛に生きよう、この神様の愛をどこまでも求めようではありませんか。この神様が展開される素晴らしいいのち、お働きの中をどこまでも信頼して。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた箴言・知恵のことばで、これを受けてソロモンが私たちに書き残し示されたことば、その続きになります。ただの格言ではなく、神様が私たちに知ってほしいと語られたことだからこそそれは意味が成るんですよね。それで神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は我が子と私たちを呼んで下さり、その私たちに良いもので満たして下さるというのです。あるのかなのかわからない財宝や良い知恵ではなく、初めなる神様から確かに注がれている、確かにその愛で結ばれた神様との親子関係がここに示されたわけですね。

 

そんな神様はこの知恵・愛をソロモンに、そして彼を通して私たちに知らせるべく、「知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある。しかし愚かな者はこれをのみ尽くす」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。↑の箇所は知恵のあるものとそうではないものの対比になっていますが、ここではまず知恵のある者について、です。

 

そもそもの話、知恵というのは、辞書的には「単なる知識(知っていること)を超えた、正しく判断し、行動する力」となっていることから、どこかから得るものです。つまり最初から知恵がある人なんていないんです。でも、その得たものが必ずしも正しいものとは限らないでしょう?そういう意味では、誰から何を得るのか?これがとても大事な話になる。そうでなければそれは知恵とは言わない、「恵」みを「知る」とは言わない。そう、本当の知恵というのは、「恵み」というのは神様から来るんです。神様が住まわれる、神様がその知恵の世界と言いますか、神様の愛・御心といいますかその知恵の中に私たちを招いて下さっているわけです。ある意味では関係ですね。

 

いつも箴言の一番最初のことば、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」という言葉を振り返っていますが、まさにこれがなければ、どんなきれいごとに聞こえる言葉も、見かけよさそうな方法論も意味がない。この神様が行われるからこそ意味があるのです。全ては神様との正しい関係の中から生まれてくるのです。「知恵のある者の住まいには、好ましい財宝と油がある」と↑で語られていますが、知恵のある人間だから、その人の内にはたくさんいいものがあるのではない、神様が私たちの住まいと言いますか、いのちを、神様の知恵・良いもので満たして下さるのです。財宝、油、と。

 

ソロモンが王になる時、神様はソロモンに「あなたに何を与えようか。願え」と夢の中で尋ねられたのですが、その時ソロモンは「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。…善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか」と、一言で言うなら知恵を求めました。

 

ダビデに神様が与えてくださったような知恵を自分にも、と。厳密には、ダビデは「誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだ」からこのように彼は祝福されたそのような祝福された関係に、知恵の中歩みたい、それが彼の望みだったのです。あの恵みは神様がダビデに施された、だからすべては繁栄したのだ、と。大いなる恵みを、彼の座に着くもの、同じように神様の御もとに住まいたいと願う者にとって置かれ、与えてくださる。だから私もそれを願います、と彼は神様に答えたわけですね。

 

その彼の願いに対して神様は「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう」、その彼の願いにこたえられたのです。ただ知恵を与えるだけではなく、先ほど出てきたような財宝、長寿、誉れ…それらが彼の生きる限り「神様が与えてくださる」というのです。神様の知恵が、貧しい中にあって豊かさをもたらして下さる、その知恵を示される、と。また「心」を与えると仰られるように、油・神様の霊を、知恵の霊を注がれ、彼の内に働かれる、その中に本物の豊かさ、恵みがあらわされる、と。

 

ただ一つ大切なことを神様は仰られていますね。「わたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら」と。おきてや命令と聞くとすごい難しいことを言われているように感じるかもしれませんが、十戒の中で見るなら例えば、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽証をしてはいけない、貪欲に隣人のものを欲しがってはいけない、とか、ある意味では本当に当たり前のことですよね。それらは私たちが幸せに生きるための神様の知恵なのです。他の偶像をもたない、神をもたない、というのも、そんないもしないものにあなたの心を置注ぐなんてもったいないでしょ?まことの神様、あなたに知恵、神様の霊、神様の全てを与える方がいるんだよ、この方とあなたは結ばれているんだよ、という本当に当たり前のことなのです。難しい話でも何でもない。宗教的にあれこれ難しく人はしますが、そうではない、ただこの神様を愛する、この神様の愛をいただいた今、この神様の愛に自分も行き、また隣人を愛する、その神様の愛、知恵の中に生きる事を願われているわけです。その中に神様の財宝、知恵、霊、そのすべてが溢れるんだ、と。

 

まあ残念ながら彼は途中から神様から離れ、また与えられた知恵を正しく用いることなく民を愛するのではなく苦しめた、その結果、国の分裂も起こった。でも神様は「あなたの日を長くしよう」、したいんだ、と神様の恵みを長く長く、とこしえに現したいのに、それを失ってどうしましょう。私たちが神様から離れて、はい、終わり、もう十分です、と言ってしまったらいったいどうなってしまうでしょう。この神様から離れて、関係から離れて、恵みに覆われるのではなく、世に、思い煩いに、罪に、サタンに飲みつくされてどうしましょう。

 

「正義と誠実を追い求める者は、いのちと正義と誉れとを得る。知恵のある者は勇士たちの町に攻め上って、その頼みとするとりでを倒す。自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない」とさらに語られていますが、神様の正義・義が成る事、神様の誠実を求め、誠実にこの神様との関係に生きる中に神様のいのちと、正義、誉れが現わされるのです。たとえどうやっても崩れそうな巨大な壁、問題があろうとも、これを神様が討ちとらせてくださる。あきらめて、屈する必要はない、ここを神様が勝ち取らせてくださる。むしろ砦であり、力である私たちの神様に、私たちはどれだけ委ねているだろうか、信頼しているだろうか。ここに知恵があると信じて、ここに希望がある、いのちがある、勝利があると信じ抜いて委ねているでしょうか。↑の冒頭の箴言にあったように、知恵のない、神様と敵対する様々なものたちがあなたのいのちを食い尽くそうとしようとも、それらはあなたを奪うことはできない。むしろ神様の知恵・あなたへの愛、御心が、御力があなたを覆い生かしてくださるのです。この神様の愛からくる知恵があなたを守られている。この神様の知恵を知恵として受け取っているでしょうか?信じているでしょうか。

 

私たちは↑の後半部にあるように、神様の御前に横柄にふるまって、またあなたの隣人に横柄にふるまって、神様の恵みが失うような歩みをしてはいけない。神様の働くその手を拒んではいけない。というよりももったいないじゃないですか。神様はあなたを愛しつくられた、あなたを最高作品に、神様のイメージに似せてつくられ、その霊を注がれた大切な存在、神様から、この知恵の住まいから離れ死にゆく私たちを救うため、私たちを捕えている様々な問題や何より罪の一切を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架に架けられ、罰せられ、死なれたイエス様。この究極の愛によって救い出され、新しくされたいのち、どうして私たちは自分の知恵に頼り神様を拒むことができるでしょう。そっちの方が正しいんだ、幸せなんだ、と言って神様の知恵を拒み自分の道を行くことができるのでしょう。それはイエス様のいのちを拒む、無駄にすることではありませんか。

 

私たちは今日、知恵ではない偽りの声に振り回されるのではなく、あなたを救うためにその憐れみ、御子イエス様のいのちを差し出されたこのイエス様の御前にへりくだろう。そしてこの究極の愛をもってまでその全てを注ぎ、満たそうとしてくださる神様の御もとに住まわせていただき、またこの道、いのちの内を歩ませていただこうではありませんか。↑の最後で語られているように、あなたを救うため命をかけられたイエス様が今日も共におられ、その知恵、愛をもって今日もあなたを導かれるから。もう罪や世の価値観、サタンに飲み込まれたいのちではなく、イエス様の愛で覆われた本物のいのちに生きようではありませんか。

 

賢者の住まいに貴重な宝と油がある          白い馬と「勝利は主による」の聖書の一節

10月に入って4日目、今年も暑い(;^_^A

秋じゃないの?と。

からだがなかなかついて行けないですね(;^_^A

 

でも、神様はそんな中でも、神様は養い、私たちを日々守ってくださります。

優しく包んでくださります。

どんなに月日が経っても…イエス様の愛は変わらない。そんな事を思わされた↓でした。

 

やさしい天のお父さま。あなたの豊かで手厚い導きのうちに、菊月十月に入りました。つい先日、みしみしとせり出した綠の青葉若葉は、いま紅葉します。山の紅は川に映って、これを赤く染めます。

その紅葉の山野を眺めながら、私は私のために流してくださった主イエス・キリストの赤い血潮を思って、瞑黙します。私をすっかり覆い尽くしてくださった、その贖いの血潮に思いを沈めます。

そして、この月なかに行われる稲刈りにあたっては、一粒の種として、事実私のために死んでくださった主イエス・キリストの犠牲に思いいたって、ぬかずきます。

身にしむ秋冷の夜、人恋しく、家郷なつかしい時、私の霊魂をそって抱いてくださるあなたの無限の愛の温かさに、私の主よ、私の神よ、と思わずささやかせてください。

 

ーきょうの祈り F・B・マイアー著ー

 

秋の紅葉山並みと青空

友達って大切ですよね。

利用するとかそういう意味ではなくて、本当にお互いが助け合って。

でもね、神の御子イエス様は私達の罪を命をかけて精算してくださったんだよ。

そして私たちを友と呼んでくださる。

イエス様は私たちをそれほどの関係に招かれているんだ。

あなたはどうする?

 

「私はいつもそばにいて、私のために決して諦めないともがいます。

その方は神様です!アーメン」

 

スヌーピーと鳥、神の御子イエス様

「悪者のたましいは悪事にあこがれ、隣人をあわれもうとはしない。あざける者が罰を受けるとき、わきまえのない者が知恵を得る。知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る。正しい人は悪者の家を見抜く。悪者どもは自分の悪事のために滅ぼされる。寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない。ひそかな贈り物は怒りをなだめ、ふところのわいろは激しい憤りをなだめる。公義が行なわれることは、正しい者には喜びであり、不法を行なう者には滅びである。悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。悪者が正しい人のための身代金となり、裏切り者が直ぐな人の身代わりとなる。争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ。」

箴言21章10-19節

 

人という字は互いに支え合って成り立っている、なんて話がありますが、誰しもがそれぞれ得意不得意、気分的に元気な時とそうじゃない時、そんな状態はある。誰もが誰かを必要としているわけですね。あの人はダメだ、というけど自分は完璧なのか?と言われたらそうでもなく、その欠けを誰かに支えられて生きているわけすね。私たちはそのように互いに愛し合うものとして創られた、何より私たちを支えてくださっている、すべ治めてくださっている父なる神様のことを忘れてはいけません。神様の愛の御手が、憐みが今日私たちを囲い、覆い、守られている、こんな私たちのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった神様が。私たちはこの神様の愛を覚え歩もう。この愛をもって互いに仕え合う、その先に神様が現わされる素晴らしさに大いに期待し歩もうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた箴言・知恵のことばといいますかいのちのことばで、これを受けてソロモンが私たちに書き残し示されたことば、その続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は同情とかそういうものではなく、愛からくる私たちへのあわれみの心をもって支えてくださっているんですよね。知識・知恵が初めにありきなのではなく、私たちへの深い愛をもった神様がありき、その神様からすべてが溢れ流れている。神様のお心から、神様の愛が私たちに注がれている。何と感謝なことでしょう。この関係を蔑んで私たちは本来神様が与えてくださっている最高の関係、いのちを傷つけてはいけませんね。神様が良いもので今日も私たちを飾る・覆ってくださっているのだから。

 

そんな神様はその知恵・愛を私たちに知らせるべく、ソロモン、そして彼を通して私たちに「悪者のたましいは悪事にあこがれ、隣人をあわれもうとはしない。あざける者が罰を受けるとき、わきまえのない者が知恵を得る。知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。

 

今回の主なポイントは「あわれみ」です。イエス様は、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と教えられ聖書全体もこの愛を何より求めています。神様ご自身がまず愛されている、その愛を受けた私たちもまた互いに愛し合うように。その愛の1つが、憐み(よく見たら、「隣人」には「隣」が使われていますね)です。

 

憐れみと聞くと何か同情的な感情ととらえがちですが、それは字が違います。同情的感情は「哀れみ」。ただ同情はする、悲しみや苦しみを共有する心でとどまるのですが、これが行動に結びつかない。一方「憐み」の方は、その心から行動が伴うものです。ちなみに憐みのもともとの意味を調べると、「母親が子を深く慈しむような愛情、助けを必要とする者に心を動かされて、実際に助ける愛」となっています。そう、神様がここで求められているのは、同情するだけでとどまるのではなく、そこからその困っている人を助けてほしい、そういう願いがここに込められているわけですね。ちなみにこれだけの箴言を受けながら、ソロモンは困っている人がいても重税を課し、貧しい人を奴隷にして自分の絢爛豪華な宮殿を立てさせたりする、この神様の憐れみから遠く離れていた。それを見た息子はもっと苦しめるような政策を打ち立て、国は分裂しました。

 

イエス様は「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」とお仰られました。敵をも愛する、憐れみを持つ、なんと強烈なことば。まあもともと隣人を愛するという隣人は、ただの隣人(りんじん)ではなく、苦手な人も含めて愛することをイエス様は求められていたわけですから敵を愛するという事はそういうことなのでしょう。

 

でも何で?と思いたくなることもあるでしょう。何でこんな人に良くしなければいけないんだ、あの人はあんなことをしているじゃないか、こんなことをしていたではないか、自分にこんなにひどいことをしたんだよ?そういいたくなることもたくさんあります。しかしこのイエス様のおことば、よく見てください。天の父(神様)が憐み深い、神様から離れ罪に走り好き勝手に生きる、神様を神様とせず愛のない私たちをそれでも憐れまれ、先ほどの言葉を借りるならお母さんのわが子をいつくしむ愛のごとく、いやそれ以上に自分の全てを犠牲にするその愛、イエス様を身代わりに私たちの代わりに罰して死なせるほどに愛されたこの深い愛を行動に移されたそれほどの愛を持ってくださっている。のあわれみ、行動を、私たちの内に、また私たちの周りの人、苦手な人でも、こんな人を?と思う中にも現わされるんです。神様がそこに働かれるなら、そこは変えられていくのではないでしょうか?まあそもそも私たちだって神様の憐れみを受けるに値しないはずだったのに、こんなに大きな愛、イエス様のいのちを身代わりに救わんとされたその愛を受け取ったわけですから、あの人がどうの、あの人は救われるに値しないとか、憐れみを受けるに値しない、なんて口が裂けても言えないのですが。

 

同じようにイエス様を迫害し、イエス様を信じるクリスチャンを迫害し殺害にも加担していたパウロ、その彼は神様に裁かれ殺されてもおかしくない中、復活のイエス様が彼の前に現れて悔い改めに導かれ、罪赦された、その彼は「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。…というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」と手紙の中で書き残しました。そんな彼、私たちにそれでも神様の憐れみによって、その愛からくる行動、イエス様のいのちを私たちの身代わりに十字架に架け、死なせるというあり得ないほどの究極の憐れみの愛、これによって救われた、そこに神様は驚くべき知恵、知識、富、それらを込められている、現されるのです。私たちには計り知れない、どうにもできないような状況にあって、こんな人、と思う中にあっても。神様から発し、神様によって成し遂げられ、その神様の素晴らしさに導く。

 

私たちは神様の憐れみにどれだけすがっているでしょう?神様の憐れみをどれだけ求めていますか?神様の憐れみの心を示さず逆に向かおうとしていませんか?神様のなそうとしている素晴らしさ、それを私たちはせき止めてはいけません。

 

イエス様を3度にわたって否定し裏切ったペテロは、イエス様の憐れみを受け、悔い改めに導かれ赦された、その彼は「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」と手紙で書き残します。このイエス様にあって現わされた憐れみによって、その働きによって、私たちは新しくされる、そこに生ける望みを持たせてくださる、そのように働かれている、その根拠になっている十字架の愛、そこに込められた憐れみがいかに素晴らしいか。

 

イエス様も、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」と教えられました。私たちの憐れみを示す中に神様の憐れみが働かれ、私たち自身も、またその周りの人にまで深い憐みが現わされるのです。行動を伴われる神様の憐れみ深い愛が、御業が。

 

私たちは確かに憐れみの心なんて持ち合わせていない、でも↑にあるように悪いことを企む、神様の憐れみから引き離すようなことをするのではなく、神様の憐れみがここになることを祈ろう。隣人をあざけるものではなく神様の憐れみが成ることを祈りまた神様に委ねたいものです。その先に私たちわきまえもなく神様を諦めていたものに神様の栄光、素晴らしさを知らせていただける、見させていただける、体験させていただけるのですから。

 

↑の少し前の箇所で「高ぶる目とおごる心―悪者のともしびは罪である」とありましたね。私たちは神様に任せられない、あの人はダメだ、憐みなど不要、などと高ぶるのではなく、神様の憐れみを受けたものとしてへりくだり、愛を現すものでありたい、いや神様に祈りながらその心が与えられ、その行動の中に神様の憐れみが、愛が、御力が現わされることを祈りたいものです。何せ私たちは不完全ですから。そんな私たちの内に神様の御力が働かれるのだから。憐み深い、敵をも愛する神様の愛が、罪人をも愛する神様の愛が。

 

「正しい人は悪者の家を見抜く。悪者どもは自分の悪事のために滅ぼされる。寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない」。そもそも私たちの中に正しい人、義人なんていない。だから私たちは神様の憐れみが必要、滅びではなく救いが成るよう、神様はイエス様のいのちを身代わりに差し出された。そのような辛い・悪者の家、と言いますか、それも含め、憐みの必要なところを神様はご存じ。私たちは私たち自身世の悪事でや高ぶり、高慢によって滅びに進むのではなく、神様の憐れみによって生きたものとされたいですね。よるべのない私たちに耳を閉じず、呼び求める声に応えてくださる神様が、滅びに向かう私たちや状況に目止めておられ、その愛を現そうとされている。それなのに私たちが諦めてどうしましょう。

 

「ひそかな贈り物は怒りをなだめ、ふところのわいろは激しい憤りをなだめる。公義が行なわれることは、正しい者には喜びであり、不法を行なう者には滅びである」。怒りをなだめる賄賂…それはまた問題ですが、しかし神様は怒りによって滅ぼすのではなく、その憐れみの心をもって、イエス様という最高の贈り物をもって私たちを救ってくださった、その怒りを鎮め、憐みによって救ってくださった、この神様が今日も公義を行おうとされているなんてなんと感謝なことだろう。賄賂のような偽の心ではなく、この神様の本物の愛の贈り物によって私たちが本当の喜びに満たされること、私たちの周りの人たちに喜びが訪れることを祈りたいものです。

 

「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。悪者が正しい人のための身代金となり、裏切り者が直ぐな人の身代わりとなる。争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ」。私たち迷い出たものに休息の場所となり、本当の富、快楽、喜びを与えてくださる神様のもとに私たちは憩い、住まわせていただき歩もうではありませんか。今日も死んだ霊ではなく、本物のぶどう酒、聖霊様の油をもって私たちを富ませ、生きたものとしてくださる神様の憐れみが注がれているから。

 

砂漠の夜空に輝く十字架と聖書の引用

収穫の季節も迎え、値上がりはしてもそれでも、私たちに食べ物がある、本当に感謝ですね。

 

ところで、

ぶどうの樹からはぶどうの実を収穫します。

その木から取れる実はその木によるんです。

そして、それを育てる人も必要ですよね。

 

神様が、私たちを育ててくださる、丁寧に水を与え、やがて実を結ばせてくださる。

自分たちでは様々な災害があるとどうしても限界がありますが、

神様はそんなものには負けません。

あなたへの愛は尽きることがないから…

 

「美しいものには、美しい実りがある…」(三浦綾子さん著:続氷点より)