とある働き人の聖書のお話 -3ページ目

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

アメリカの学校で理科の授業中、実験に使っていたマウスが逃げ、どこに隠れたのかわからなくなった。女性の教師はみんなに探させたが見つからない。
 

そこで全員を席に着かせ、自信たっぷりにこう言った。「これだけ探して発見できないのなら
あとは、モリス君にお願いしましょう」

 

途端に、ちょっと待って何でアイツがという声があちこちから起こった。
教室はざわめき、一人が
「モリスには無理です」と手を挙げて言った。
実はモリスは目が不自由なのである。

 

教師は答えた。
「なるほど、確かに目が不自由です。だからモリス君には無理だとみんなは思うかもしれません。でも、先生は知っています。モリス君は目が不自由でも、神様から素晴らしい能力をもらっています。聴力です。それを生かせば必ずマウスを見つけてくれると先生は信じています。モリス君、お願いできますか?」
 

そして、モリスは期待に応えて捜し出した。
そして、日記にはこう書き残した。

「あの日、あのとき、僕は生まれ変わった先生は僕の耳を神様がくれた耳と言って褒めてくれた。僕はそれまで目が不自由なことを心の中で重荷に感じていた。でも先生が褒めてくれたことで僕には大きな自信がついた。」


このマウス事件から十数年、神の耳を生かして音楽の道に進んだスティービー・モリスは
シンガー・ソングライターとして鮮烈なデビューを果たすのです。
スティービー・ワンダーという名前で!

 

*あなたに神様は不足させません。

神様はあなたにはあなたへの計画があります。

周りがなんと言おうが、神様が何と言っているのか、そこに注目しましょう。

 

スティービー・ワンダー、神の耳、約束の歌詞

「誉れが愚かな者にふさわしくないのは、夏の雪、刈り入れ時の雨のようだ。逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち。愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける。」

箴言26章1-6節

 

世の中様々な価値観が溢れ、それぞれのその価値観をもって行動するから、結構人は振り回されます。これまで自分が正しい、と思っていた価値観も、時代の変化と共に通じなくなり、うまく対応ができなくなる人もいます。これ、仕事をしていると本当に見えてきますね。そういう意味では本当に今の時代生きるのが大変。下手をしたら結局何が正解なの?となることも。人それぞれに対応の仕方を合わせたり。でもそれって本当に疲れますよね。ある意味では何にもならない。ただ、確かに言えることは、私たちを創られた天の父なる神様は、確かな愛、確固たるご意思をもって私たちを支え、励まし、力づけ、養い、導いて下さっている、という事。変わることのない愛をもって、それこそ私たちを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった、その愛をもって私たちを支えてくださっている、その愛ゆえに私たちに生きてほしい、と光を灯してくださっている。人は神など弱い人がすがるもの、愚かなこと、と考えるかもしれない。しかしこれほどの大きな愛はありません。ただただこの神様の知恵・御心に従い歩もうではありませんか。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された箴言、知恵・いのちのことば、これを受けたソロモンが書き残し、さらに250年後に南ユダ王国のヒゼキヤ王が、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、私たちをわが子と呼んで下さる神様は、私たちがおろかなものになること、誰かに蔑まれるような事がないよう、神様の最良の知恵を授けてくださる、導いて下さる、私たちに生きてほしい問いその愛の思いをもってその御心を語り、導かれるわけですね。良いもので満たそうとあなたを招いて下さっている神様との関係を蔑ろにしないで、と

 

そんな神様は、その御思いを現し、また導くため、なおソロモン、またヒゼキヤに、さらに私たちに向けて示されたのですが、↑で「誉れが愚かな者にふさわしくないのは、夏の雪、刈り入れ時の雨のようだ」と語られます。↑の他のことばもそうですが、主には愚かな者に関わる言葉が↑では並んでいます。愚か者を馬鹿にしたい、というわけではありませんよ?愚かな状態になってほしくない、もっと良いものに満ち溢れて生きてほしい、その思いで一言一言語られているわけです。

 

それで、「誉れが愚かな者に相応しくない」ということばですが、誉れというのは「重さ、重み、価値」という意味を持つ言葉で、例えば物質的な重さとか、社会的な重さ、とか神様の栄光(素晴らしさ)を現す言葉として使われています。ここではどちらかというと社会的な重さを現しています。まあそういう意味では、誉れを受けるということは「重みある地位、名誉、威厳、敬意」を受けるということなのです。そうすると、確かに愚かな人にそれらを与えるのはちょっとどうなのかな、と思いますよね。

 

ちなみに当時のイスラエル・ヘブル人の文化では、「重いもの」は価値あるもの、重要なものを象徴していました。逆に「軽いもの」は、軽薄・無価値・不誠実を表します。そうすると見えてきましたでしょうかね。だから愚かな人に重いものを背負わせる、地位や名誉を与えることは本人にとってもつらいことですが、全体が崩れてしまいます。それこそ「夏の雪、刈り入れ時の雨のよう」、秩序が崩れてしまうわけです。まあ夏に雪が降れば涼しくなって気持ちよくなりそうですが、ただそんなことがあれば混乱を招くのは目に見えているでしょう。

 

いずれにしても言えることは、私たちは「愚かな」「何か」を大事に、自分の重さにしてはいけない、ということです。重きを置かない、と言ったところでしょうか。それは、言葉遊びにするつもりはありませんが、私たちにとっての重荷となってしまいます。

 

ただこれを書いていて思ったのですが、自分に愚かなところなどない、という人はいない。自分は知恵ある、知識あるものだ、自分は優れている、自分は全ての誉れを受けるに値する、と言える人などいない。誰かしら、何かを抱えている。だからこのことばが誰かを非難批判するための免罪符になるというわけではありません。まただから仕方ないじゃない、ありのままでいいんだよ、というわけでもありません。私たちはむしろこの抱えている何か、問題、また罪、これらを取り除いていただき、神様の重さ、素晴らしさで満たしていただく、そのことが大切なのです。

 

パウロは「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです」と語りました。

 

彼は1世紀に活躍した伝道者である意味では多くの評判を持っている人でした。しかし彼は同時にかつて、イエス様を迫害する者、イエス様を信じる人を迫害し、殺害に加担し、さらにその計画を勧めようとしていた人。自分は神様に喜ばれる歩みをしていたんだ、と思っていながら、実は逆に神様の誉れを失っていた。神様の目からは愚かな道を進んでいたのでした。それをはっきりとここで告白しながら、「しかし」、というのです。誉れが愚かな者にはふさわしくない、と言われるように、同居するのはあり得ない、という事を考えるなら、本来パウロも、神様から離れた私たちもみな、神様から見捨てられてもおかしくなかったのです。

 

しかし、そんな私たちの内に神様は慈しみと愛を現して下さったのです。私たち、この愚かな私たちを神様は見捨てるのではなく、むしろ私たち愚かな者を救うため、最も誉れあるはずのイエス様を私たちのこの抱える様々なもの、愚かさ、何より罪、その刑罰、一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせてくださった。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し神様の子としてその誉れを受けるのです。愚かな私たちを。聖霊様が私たちにこのイエス様の愛を悟らせて下さり、そのイエス様を主と告白する時、私たちは新しくされる、洗い聖められるのです。この聖霊様が、新しい助け主なる聖霊様が私たちの内に住まわってくださっているのです。「私たちがキリスト(様)の恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となる」ために。

 

パウロは言います。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と。本来私たちは神様から愚かな者と言われ、見捨てられる、神様の秩序、愛から外されてもおかしくなかったのに、そんなものをも救われた神様の力がどれだけ素晴らしいのか、私たちは神様を愚かな者として、別な何かに走ったり、抱えて、本来神様から受けられるはずの名誉、義、力、そうしたものを失うのではなく、むしろこの神様の素晴らしい愛、御力に溢れている、知恵に満ちている神様の秩序、この内に招かれているわけです。あなたはこのイエス様のいのちにあって与えられるこの救い、永遠のいのち、イエス様を信じ生きる事を愚かなことと思いますか?これを大切にしていますか?神様のこの愛が、私たち愚かな者の内にある、夏の雪だの、収穫時の雨だのというめちゃくちゃな状況から神様は解放してくださる。

 

このイエス様の愛の前に、聖霊様の働きの中にあって、「逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない」とあるように、いわれのない呪い、悪、様々なものはあなたに迫ることはできない。むしろそのような中にあっても守られる。「馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち」と語られている通り、神様がそうした中から導き出して下さるのです。私たちがコントロールを失って迷わないように。あ、馬にむち、というのはただ暴力をふるっているわけではなく、いい意味でコントロールし、また導くためにあるわけでしょ?神様は痛めつけたいのではなく、私たちを本来の正しい道に導きたいのです。いのちの道に。

 

かつてイスラエルの民が奴隷として捕えられていた時、神様はモーセを通して働かれ、救い出されたのですが、彼はその前はエジプトの王子として生きていました。まあイスラエル人の間に生まれたのですが、王の政策によって殺されそうになったところを助けられたわけですね。そんな彼はエジプトの地位よりも神様と共にいることを喜び、神様の誉れを求めた。そんな彼は「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう」と、神様の約束を体験し、またこれを詩に残しました。そう。神様が愛してくださっているから私たちは助け出される、神様の名によって私たちは時に低くされることがあっても、世的に愚かだ、と低くされているように感じる時があっても、神様の御もとに引き上げられるのです。この神様を名を呼び求めるなら、神様は答え、苦しみの時にあろうと共にいてくださり、救い、誉を与えてくださるのです。

 

また王としては相当素晴らしかったダビデも、「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです」と告白的に歌います。成功していたように見える彼も、全ては神様からの偉大さ、力、栄え、栄光・素晴らしさ、威厳、すべて神様から来ていたんだ、この神様から富も誉も出ていて勢いと力を与えてくださったんだ、と。

 

神様は今日、十字架からこの素晴らしい関係に、いのちの内に今日もあなたを、私たちを招いて下さっている。「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける」と最後に↑で語られていますが、私たちは愚かなものに心を奪われるのではなく、神であられながら人となって生まれてでも救い出され、その全ての良いものを与えてくださる神様をどこまでも求めようではありませんか。世の愚かさによって傷を自ら追うような歩みではなく、聖霊様による洗い聖め、いのちにあふれ。自分の知恵や方法ではなく神様の知恵を求め。今日も神様の愛はあなたに注がれている。あなたはこれを受け取っていますか?

 

夏の雪のようなひまわりと箴言26章1節                    箴言 愚かな者への賢い対応

下の画像、これは「使徒の手」という、アルブレヒト・デューラー(ドイツ人)が1508年に描き上げたものです。みなさんはこの絵を見てどんなことを感じるでしょう。

ただの祈りのポーズだと思いますか?

 

実はこの画像、絵の背後には、とても美しい友情物語が秘められています。

この絵を描いたデューラーには、ハンスという親友がいました。二人とも絵を描く才能があり、将来は画家として立つことが夢でした。ところが、二人とも貧しくて絵を勉強するのは不可能に思えました。

 

ハンスはデューラーにこう言いました。

「デューラー君、君がまずイタリヤに留学するんだ。その間、僕がドイツに残って働く。そして君の勉強のために仕送りをしよう。やがて君が成功したら、こんどは僕がイタリヤへ留学するから、僕を支えてくれ。」

ハンスは来る日も来る日も、村の鍛冶屋でハンマーを振って働きました。そしてデューラーのために送金に励みました。

 

やがて数年後に、デューラーは押しも押されもしない画家になりました。「ハンス君、今度は君の番だ」。そういって握手をしたデューラーの手にびっくりしました。長い年月の鍛冶屋の仕事で、ハンスの手は固くふしくれたっていました。とても、絵筆を握れる手ではありませんでした。

 

「いいんだよ、デューラー。僕はこの手で君の勉強を支えられたんだから。これ以上うれしいことはないよ」。しっかりと握りあった手の上に涙がぽたぽた落ちました。その手、そのハンスの手を、デューラーは描きました。これが、有名な「使徒の手」です。

 

固く節くれ絶った労働の手、これこそ神の御心にかなう祈りではないか。

勤労奉仕のない祈りはむなしい。

祈りは努力。反対に祈りのない努力は寂しい。

 

ー使徒の手(アルブレヒト・デューラー)ー

 

最後のコラムを書いた人のコメント、そのものですね。口では心配はできる。祈っているよ、と声をかけることもできる。でも、実際に神様から何か示されたなら、あなたのできる行動、これが必要ではないでしょうか。そのあなたの応答を通して神様は御心を、御業を現される。

 

同時に、一つ忘れてはいけません。御子イエス様も、人となって、同じように体の節々をつかれながらも、血を流し、涙を流し、命さえ惜しまず与え、愛している、と口で言うだけでなく行動にあらわされました。イエス様は今日もこの労働の手をもって祈り、またあなたを支えているから。養っておられるから。このイエス様の見てに導かれ生かされ歩もう。

 

デューラー「使徒の手」祈りの友情物語

キリストのみ名によるコップ一杯の水は、

人々からの搾取によって掻き集めた全ての富よりも

大切なものです。

~教皇フランシスコ~

 

この言葉は、聖書のこの箇所を踏まえています。

 「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」

 

まさしく、キリストを信じる貧しい人々に、同じ主を信じる者として、主キリストのみ名によって差し出す水に込められた“愛”は、天において決して忘れられることなく、豊かに報われます。

 

おそらくこの二つは、見た目には搾取された富が何十倍も重そうに見えますが、“天の秤”に載せると、コップ一杯の水の天秤はずしんと下がり、この世の富は何の重さもないかのように跳ね上がることでしょう。(まあ某カルト団体が、多くの信者の家庭や人生を犠牲にして掻き集めた富も、きっとこうなんでしょうね)

 

さあ、私たちも“キリストのみ名によるコップ一杯の水”を差しだしましょう。今日、あなたがあの人に差し出す水の中身は何でしょうか? 

 

A glass of water in the name of Christ is more important than all the riches accumulated through the exploitation of the people. – Pope Francis

 

コップ一杯の水と聖書のマタイ10:42

「三日の後、パウロはユダヤ人のおもだった人たちを呼び集め、彼らが集まったときに、こう言った。『兄弟たち。私は、私の国民に対しても、先祖の慣習に対しても、何一つそむくことはしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡されました。ローマ人は私を取り調べましたが、私を死刑にする理由が何もなかったので、私を釈放しようと思ったのです。ところが、ユダヤ人たちが反対したため、私はやむなくカイザルに上訴しました。それは、私の同胞を訴えようとしたのではありません。このようなわけで、私は、あなたがたに会ってお話ししようと思い、お招きしました。私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです。』すると、彼らはこう言った。『私たちは、あなたのことについて、ユダヤから何の知らせも受けておりません。また、当地に来た兄弟たちの中で、あなたについて悪いことを告げたり、話したりした者はおりません。私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです。』そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。『聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。【この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることのないためである。】ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らは、耳を傾けるでしょう。』彼がこれらのことを話し終えると、ユダヤ人たちは互いに激しく論じ合いながら、帰って行った。こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」

使徒の働き28章17-31節

 

誰かに歓迎されている、これは本当にうれしいことですね。私たちはどうせ私なんて、と思いたくなることもある、諦めることもある。もうだめだ、って。でも、その中に住まわれているイエス様、もっと言うなら私たちは神様の創られたこの世界に住まわせていただいている。この世界を完全につくられた最高のデザイナー、その方が今もすべてを養い守り、保持され、何より私たちを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった、この方と共に住まわせていただいている。そこに招かれた、何と感謝なことでしょう。私たちはいつまでものこの方のみもとに住まわせていただこう。この方と共に生きようではありませんか。

 

ということで、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、その愛を惜しむことなく現し、何よりこの罪の一切を私たちの身代わりに背負われ、十字架上で罰せられ、死なれ3日目によみがえられたことによって救いを与えてくださったその後、新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生して後のできごとです(↑の段階ではAD61年)。このイエス様の究極の愛・十字架の愛、救いをすべての人に受け取ってほしいと、聖霊様がパウロを含む多くの人を遣わしました。パウロを含め、またそこにいる人たちは神様の多くの奇跡や救い、驚くべきわざを見、神様のすばらしさを見てきました、聖霊様の助けと導きのもと。

 

そんな中、パウロも3回の伝道旅行を終えエルサレムに帰ってきたのですが、彼を殺そうとする勢力の手によって捕まり、裁判にかけられます。総督たちはパウロは無罪、と判断したのですが、パウロは聖霊様の導きにより、カイザル(ネロ)にイエスキリストを証すべく、上訴し、ローマに護送されました。途中かなり厳しい海難にあったりしましたが、神様の確かな守りに導かれ、ついにローマに到着。ここまでの旅の中で神様が多くの助け手を送ってくださり迫害や裁判、海難、全ての中にあって守られてきました。それこそ聖霊様の導きであったり、語りかけであったり。私たちは様々な困難を見る中で、確かにどんな時にも神様の助け、導きがある事を忘れてはいけませんね。

 

パウロの伝道旅行とローマへの旅の地図

 

そして↑、ローマに到着して3日、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが赦されていたのですが、↑の前の箇所で分かち合わせていただいたように、パウロのもとにたくさんの人が訪ねてきました。ローマという異国の地に、しかもイスラエルを支配している、しかも今の皇帝は悪名高きネロ、そんな状況の中にあって同胞がいる、これほどうれしいことはなかったでしょう。パウロにとってこのローマで、裁判を受ける身としてたしょうきゅうくつなところはありながらも、それでも彼は神様の守られている、その御手の中に住まわせていただいている、この地はやがて神様のものとなる、その確信のもと今ここに住んでいる。軟禁状態に人はしようとも、神様の御手にまさるものはない、と。

 

だからパウロを迎え入れてくれた人たちにもこの希望を伝えるのです。パウロを歓迎しているように見えて、残念ながら教会の中で分裂やつまづきを引き起こそうとしている人たちがいることを、「ローマ人への手紙」という書簡の中で、そのことへの注意喚起が書き送られているのでした。でも人につまずいたり、人の価値観にあって分裂するのではなく、↑、「…私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです」と語るのです。

 

神様は、私たちを救うため、またイスラエル、そして私たちの「望み」となってくださる。パウロを通してだけじゃない、様々な艱難苦難、このローマの時代の時を考えれば妥協、屈服などしなければならない場面があるかもしれないしかし今彼らは神様のこの望みの中に住まわせていただいている、どんなに彼らを鎖につなぎ捕えようとしてもそれはできないんだ、どんなに理由なしに理不尽な目に合おうと、そこに聖霊様の助け、導きがあるんだ、そう訴えるわけです。まあ、これはパウロが別に何か悪いことをしてここにつかまっているわけではないという弁明でもあるのですが、同時にパウロの置いている希望を語っているわけですね。

 

これを聞いた彼らは、とりあえずパウロから直接話を聞いた方が良いだろうという考えで、後に改めてパウロから話を聞くことにしました。同じユダヤ・イスラエル人ではありましたし、同じ先祖の神を信じていた、天地創造の神を信じていた。しかし、残念ながら彼らは自分たちの罪の赦しのために御子イエス様が十字架に架けられ、死なれたことをまだ知らなかったか、信じようとせず、他のユダヤ教徒からの情報からか受け入れようとしなかったのです。

 

パウロはここでせっかくであった同胞を失うのは得策ではない、とは考えなかった。むしろこの彼らにもイエス様の福音を語る必要を聖霊様に導かれ彼らに語ります。神様はパウロを通していつでも歓迎していたのです。彼らを待っていたのです。イエス様の十字架を通して閉ざされてしまった関係を開いて下さった。私たちが罪を悔い改め立ち返ること、神様のもとに帰って事を待っておられたのです。ローマの支配の内に住むのではない、ローマによる痛みや傷、また自身の抱える罪に支配され、それに生きるのでもない、そこから自由にされ、ここに住まわれるまことの主なる神様の内に生きよう、そう訴えたわけですね。

 

私たちは↑のイザヤの預言のように、目を閉じ、耳を遠くし、心を鈍くしている場合ではありません。神様は私たちを癒そうとその扉を開いて下さっている、それなのに心を閉ざしている場合ではありません。この世の楽しみや逆に苦しみの中に住まうのではなく、全ての主なる神様の御住まいに私たちは住まわせていただけている、歓迎されていることを改めて覚えよう。あれこれ理屈をつけて離れるのではなく、ただ神様のもとに帰ればいいのです。あなたを歓迎するため、受け入れるため、御子イエス様のいのちをもってでもそのあなたの痛みも、罪の代価をも取り除かれた、この方があなたを招き、その愛を今日も現して下さっている。この神様の愛を妨げることができるものは何ものもありません。神様は今日も両手を広げ、あなたを出迎えようと待っておられる。今日私たちはこの方の御住まいに住まわせていただこう、ここに帰ろう。この神様が働かれている、愛が流れる中に今住まわせていただいていることを覚え、この方にいつも希望を抱き、歩もうではありませんか。

 

聖書の引用と山、建物の風景

人は愛を求めます。

でも人の愛には限界があります。人の気分によって変わることもあれば、

状況によっては弱まってしまうこともあります。

 

しかし、神様の愛は別です。

天の父なる神様の愛は強く、変わらず、永遠なのです。

 

この完璧なる愛に守られ、従い歩ませていただこうではありませんか。

この愛は御子イエス様の命にあって結ばれたもの、これ以上に信頼できるものがどこにあるでしょう。

今日、神様の愛に結ばれ、つながらせていただき、その実に生かされ歩みたいものです。

 

 

 

私たちにできることはどうしても限界があります。

よくいう「ありのまま」という言葉がありますが、ありのままってなんでしょうね。

自分でありのままであり続けるのは難しいです。

色んな事が起こってそれを自分の思うありのままを維持するのは困難です。

そのままでいい、なら結局周りを巻き込むわけです。

 

でも神様はあなたを本来の姿に日々近付けてくださります。

神様のつくられイメージした最高の姿に。

私たちがすべきは私たちを造られた神様を信じることで、

最高の姿に作り変え、本来神様の計画しておられる最高の姿に作り変える、保つのは神様です。この神様に信じ、信頼し、歩もうではありませんか。

 

私たちのなすべきことは信じることであり、私たちを作り変えることは神のなさる仕事です。
ースポルジョンー

 

神の作りの像、人生は傑作

 

 

「心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ。もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。北風は大雨を起こし、陰口をきく舌は人を怒らす。争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。正しい人が悪者の前に屈服するのは、きたなくされた泉、荒らされた井戸のようだ。あまり多くの蜜を食べるのはよくない。しかし、りっぱなことばは尊重しなければならない。自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。」

箴言25章20-28節

 

人にはどうも先入観なり、自分の考えをもとにあれこれ言いたくなる、したくなる傾向があるように見えます。まあ自分の考え、経験が正しい、そういう思いがどこかにあるのか、自分のプライドが高いからなのかわかりませんが。ただそれはあまりいいことを生まない。相手に対してもそうですし、自分にとってもそう。相手を傷つけたり、間違いや相手の方が優れていることを知った時、自分が落ち込むだけです。昨日の分かち合いの中でも見た、時宜にかなったことば・行動というのはそういう意味でも本当に重要ですね。むしろすべてにまさる神様の愛、知恵、御心がそこになることを願うなら全く新しい変化がもたらされるのではないでしょうか。何か不確定なことではなく、確かに存在しておられる、この天地万物を創られ、今も支えておられる、私たちにいのちを与え、その霊を吹き込み、愛してくださっている、何より私たちを救うために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった天の父なる神様は今日もあなたをわが子と呼び、愛を注いでくださっている、導いて下さっている。今日、私たちはこの方を求めよう。この方の栄光・素晴らしさが現わされることを切に祈ろうではありませんか。

 

ということで、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られ示された箴言、知恵・いのちのことばで、それを受けたソロモンが書き残し、さらにこれを250年後に南ユダ王国のヒゼキヤ王が、前王によって国が腐敗し、またアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様はどうにもならない私たちを追い詰めるのではなく、また神様の恵みを忘れたり、知らずに離れ、本当の喜びを知らずにいる私たちに、すべての初めなる神様がその知恵・御心をもって満たそうとしてくださっているんですよね。私たちが恐れるのは、世の中の様々な事象に対してではない、それらがあなたを恐れさせることはあっても、それから解放して命を得させてくださる神様なんだ、と。

 

そんな神様は、この愛ゆえになおソロモン、またヒゼキヤに、さらに私たちに向けて示されたのですが、↑で「心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ」と語られます。他にもいろんな事象に対する知恵を神様は示されていますが、ここに全ての根幹になることばが語られています。まあなかなか面白い表現がされていますが、神様は私たちにわかるように語られるんですよね。時々日本と文化的に違うからわかりづらいことがありますが、まあそれは訳の問題で、当時の人たちにとって、その背景から分かるようにいつも語られていた。今も聖霊様が分かりやすく教えてくださる、わかることができるよう助けてくれています。色んな人を通して示されて残された本などたくさんありますし、教会の牧師やいろんな方を通して示される。そういう意味で神様はいつでもどんな時でもご自身の愛を、知恵を、その御心を現されるから、私たちはこの神様を求めていいのです。

 

それで、この「心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり」ということばですが、これはその人のためになる慰めの歌などはときには力になることがあるかもしれませんが、それとは真逆の歌、その人の、ある意味では時宜にかなわないような歌を元気よく歌っても相手の人を余計に落ち込ませることがあります。でも考えてみると、その歌を歌うにしたって、その相手の人のためになりそうな歌を探したり、そういう歌詞を探すでしょう?もしくは、その人のためになりそうな何か行動を考え、捜すと思うのです。「歌」というところにとどまらずに、自分の理想論をただ心配している人の前でいたずらに語ったり、持論をある意味で「歌う」のではなく、その人が寒くつらい状態に暖かい服を着せてあげる行動が必要だと思いませんか?要するにそういう事なのです、これは。歌を歌ってはいけないとかそういう事ではなく。

 

これ、本当にありますよね。この25章の中で「時宜にかなったことばをかたる」・行動する、ということを勧められていましたが、まさにそういうことですね。時宜にかなった行動をその心配する人のためにする。ただいたずらに持論を展開するのではなく、無責任に大丈夫大丈夫、と言うのでもなく、一緒に寄り添う、一緒に祈る、一緒に御言葉に聴く、神様の時宜にかなった助けを求める、その時に神様が温めてくださる、心配を取り除き、私たちの口に喜びの歌を授けてくださる、喜びの日を迎えさせてくださるわけです。

 

ちなみに「ソーダの上に酢を注ぐようなものだ」ともありますが、現代のソーダとは少し違います。現代のソーダに酢を注ぐと少し泡立つ程度だそうですが、当時のソーダというのは、「炭酸ナトリウム(ナトロン)や炭酸水素ナトリウム(重曹)のような天然のアルカリ性物質を指します。これに「酢」(酸性)を注ぐと、激しく泡立って反応する」そうです。つまり、穏やかでいられない、相容れない反応が起こる、ということ。はい、それほど無意味でかえって逆効果を与えるものはありませんね。相容れない反応を起こしてどうしましょう。それは反発と痛みを与え、かえって互いの仲も、また心配している事さえ悪い方向に向かわせてしまう。

 

そういう時宜にかなっていないことばをかたったり行動をするのではなく、神様の時宜にかなったことば・行動に身を委ねる、語る時、その人の内に神様の御業が反応し、驚くべき調和をもたらすことができるのではないでしょうか。

 

これ、他人事のように私たちは見たくなりますが、本当によくやる事です。自分の正しいと思うことを相手の人に押し付け歌う、語る、今その人に本当に必要なことは何なのかを考えずいたずらに行動・歌う、語る。本当に正しいことは何なのか、これは難しい所でそんなことを言ったら何もできない、と言われてしまうかもしれませんが、神様は心配してくださっているのです。

 

多くの迫害や苦労、痛みを追ってきたイエス様の12弟子の一人ペテロは、老年になって「…神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と手紙に書き残します。神様は神様の御前にへりくだるものに恵みを与えてくださる。神様は何もしないのではなく力強い御手をもって働かれている、心配してくださり、それだけではなく働かれている、だからこそ、この神様の恵みに、力強い御業に信頼し委ね、従おう、と。

 

この約束、あなたは信じますか?何より私たちは神様に頼るべき時、心配している時に、かえって自分で、ソーダに酢を混ぜるようなことをしていませんか?神様が起こすアクション、反応ではなく、自分で神様と相容れない行動を起こしたり、神様自身を自分と、またこの状況と相容れない、と言って逆の行動、そんなことしてどうするの?という事をしていませんか?

 

↑の「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる」。これは特になかなか受け入れづらいことかもしれません。しかし、人の思いは怒りや復讐。しかし神様は「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」と、この箴言のことばのように愛することを教えています。復讐は主のもの。というよりも、神様が驚くべきことをその愛の行動を通して成される、それでその人が悔い改め変えられるかもしれない。何でこの人は自分にこんなことをするんだ?と私たちの信じる神様とは誰なのか、と求め始めるかもしれない。あとは神様に委ねる、その先はその人の決断なのですから。私たちも同じです。うまくいかない、何でこんな状況?と思う中にあって神様を憎むような言葉を、炭火を置くのではなく、神様に委ねる。後は神様が報いてくださるのです。神様が、ソーダと酢とは別なおどろくべき反応を起こして下さるのです。

 

「北風は大雨を起こし、陰口をきく舌は人を怒らす」。そんな事よりも晴れた元気な日をもたらされる方が良いでしょう。「争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい」、争いを起こすのではなく平和をつくるもの、平和を願ってみませんか?何より平和をもたらされる神様、いのちをもたらす神様を求めず何を求めましょう。神さまなんてどこにいるのさ、と探し回る中にあって神様はすぐ傍におられる。

 

何より私たち罪人、神様から離れ、相容れないと離れてしまった私たちを救うために、神様は御子イエス様を人として生まれさせてくださり、その間に住まわせて下さり、ありとあらゆる愛を現され、とても相いれないだろうと周りが思うような人たちにまでその愛を現されました。社会から見捨てられた人から、罪人、裏切る者たちに至るまで。それでも、イエス様を通して神様はご自身を現そうとした。それなのに、このイエス様を受入れない人々を見て神様は、私たちを見捨ててイエス様をご自身のもとに連れ帰すのではなく、かえって私たちの罪を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。そこまでしてでも、イエス様のいのちを私たちに注ぐ、血潮を注いででもあなたに神様の愛を完全に現し、驚くべき反応を起こされた、変えられるのです。死をいのちに変えたのです。イエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の内に。イエス様の復活のいのちと同じ恵みに与らせ、見捨てられるどころか、神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

「遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ」。世の思い煩いや痛み、何より罪に疲れ旅し地得る私たちにイエス様はこのように冷たい、生き返る水、ご自身のいのちを差し出して下さった。あなたはこれをいただくだろうか。「正しい人が悪者の前に屈服するのは、きたなくされた泉、荒らされた井戸のようだ」とあるように、あなたを恐れさせるものに屈してはいけない。むしろこの神様の御前にへりくだり、神様の起こすおどろくべき反応を待ち望もう。その神様の愛があなたを潤し、満たす、聖霊様で満ち溢れさせてくださるから。「あまり多くの蜜を食べるのはよくない。しかし、りっぱなことばは尊重しなければならない」。見た目良いものを追い求めるんではなく、本物の立派なことば、いのちをもたらされるイエス様を何より尊重、求めよう。そこに神様のくださる蜜、喜びがあなたを満たして下さるから。「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」。今日私たちはこの神様に心を委ね、歩みたいものですね。神様があなたのいのちを守られ、建て上げてくださる、その素晴らしい日々、町をどこまでも求めようではありませんか。

 

聖書、箴言からの引用と果物

「とんち」で有名な室町時代の臨済宗の僧侶「一休さん」こと「一休宗純」が作ったと言われる歌があります。 「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」。 つまり「どの宗教を信じても最終的に行き着くところは同じなのだ」という意味のようです。はたして本当にそうなのでしょうか?

 

羊と羊飼いのたとえをされたイエス様、

イエス様は羊の門、ご自身をその門の一部となって命をかけて守られるイエス様、この方が門から招かれるその先に待っているのは??

 

ということで、今日は日曜日ですので、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただきます。よければ聴いてくださいm(__)m

 

ヨハネによる福音書10章7ー9節

「天国と極楽、一休とキリスト」

 

 

羊飼いと羊の囲い、イエス様の言葉

インディアンの間に伝わる昔話にこのような話があります。

 

猫が怖くて、いつも怯えているネズミがいました。

そのネズミを可愛そうに思った魔法使いが、ある日、ネズミを猫に変えてあげた。

猫になったネズミは、今度は犬を恐れ始めた。

仕方なく魔法使いは、猫を犬に変えてあげた。

しかしまたしても犬はトラを恐れ始めた。

あきれながらも魔法使いは犬をトラに変えてあげた。するとトラになったネズミは狩人を恐れ始めた。

 

そこで、魔法使いはトラになったネズミに向かってこう言いました。「あなたはネズミの心臓しか持っていないから,私にはこれ以上もうどうする事もできない。再びネズミになりなさい。」 そういうとトラをもとのネズミに変えました。

 

人が恐れを持っている限り、環境がどう変えられても、その恐怖から逃れる事は出来ません。

しかし、私たちがイエス・キリストの愛の中に留まっているなら、すべての恐れを追い払う事ができるのです。

 

【聖書のことば】

愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。

                                                     ー神と共に歩む日々ー

 

私達の周りには様々な恐れ、不安、様々あります。

しかし、イエス様はあなたを取り戻すために命さえ惜しまずあなたのために身代わりに犠牲にされた。しかし3日めに蘇られたことによって、あなたの夫妻、苦しみ、罪、全部を開放してくださったのです。私たちはこの方にあっていま新しくされ、生かされる。あなたは今日、誰を、何を求めるでしょうか。