「悪者のたましいは悪事にあこがれ、隣人をあわれもうとはしない。あざける者が罰を受けるとき、わきまえのない者が知恵を得る。知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る。正しい人は悪者の家を見抜く。悪者どもは自分の悪事のために滅ぼされる。寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない。ひそかな贈り物は怒りをなだめ、ふところのわいろは激しい憤りをなだめる。公義が行なわれることは、正しい者には喜びであり、不法を行なう者には滅びである。悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。悪者が正しい人のための身代金となり、裏切り者が直ぐな人の身代わりとなる。争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ。」
箴言21章10-19節
人という字は互いに支え合って成り立っている、なんて話がありますが、誰しもがそれぞれ得意不得意、気分的に元気な時とそうじゃない時、そんな状態はある。誰もが誰かを必要としているわけですね。あの人はダメだ、というけど自分は完璧なのか?と言われたらそうでもなく、その欠けを誰かに支えられて生きているわけすね。私たちはそのように互いに愛し合うものとして創られた、何より私たちを支えてくださっている、すべ治めてくださっている父なる神様のことを忘れてはいけません。神様の愛の御手が、憐みが今日私たちを囲い、覆い、守られている、こんな私たちのために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった神様が。私たちはこの神様の愛を覚え歩もう。この愛をもって互いに仕え合う、その先に神様が現わされる素晴らしさに大いに期待し歩もうではありませんか。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた箴言・知恵のことばといいますかいのちのことばで、これを受けてソロモンが私たちに書き残し示されたことば、その続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は同情とかそういうものではなく、愛からくる私たちへのあわれみの心をもって支えてくださっているんですよね。知識・知恵が初めにありきなのではなく、私たちへの深い愛をもった神様がありき、その神様からすべてが溢れ流れている。神様のお心から、神様の愛が私たちに注がれている。何と感謝なことでしょう。この関係を蔑んで私たちは本来神様が与えてくださっている最高の関係、いのちを傷つけてはいけませんね。神様が良いもので今日も私たちを飾る・覆ってくださっているのだから。
そんな神様はその知恵・愛を私たちに知らせるべく、ソロモン、そして彼を通して私たちに「悪者のたましいは悪事にあこがれ、隣人をあわれもうとはしない。あざける者が罰を受けるとき、わきまえのない者が知恵を得る。知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。
今回の主なポイントは「あわれみ」です。イエス様は、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と教えられ、聖書全体もこの愛を何より求めています。神様ご自身がまず愛されている、その愛を受けた私たちもまた互いに愛し合うように。その愛の1つが、憐み(よく見たら、「隣人」には「隣」が使われていますね)です。
憐れみと聞くと何か同情的な感情ととらえがちですが、それは字が違います。同情的感情は「哀れみ」。ただ同情はする、悲しみや苦しみを共有する心でとどまるのですが、これが行動に結びつかない。一方「憐み」の方は、その心から行動が伴うものです。ちなみに憐みのもともとの意味を調べると、「母親が子を深く慈しむような愛情、助けを必要とする者に心を動かされて、実際に助ける愛」となっています。そう、神様がここで求められているのは、同情するだけでとどまるのではなく、そこからその困っている人を助けてほしい、そういう願いがここに込められているわけですね。ちなみにこれだけの箴言を受けながら、ソロモンは困っている人がいても重税を課し、貧しい人を奴隷にして自分の絢爛豪華な宮殿を立てさせたりする、この神様の憐れみから遠く離れていた。それを見た息子はもっと苦しめるような政策を打ち立て、国は分裂しました。
イエス様は「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」とお仰られました。敵をも愛する、憐れみを持つ、なんと強烈なことば。まあもともと隣人を愛するという隣人は、ただの隣人(りんじん)ではなく、苦手な人も含めて愛することをイエス様は求められていたわけですから敵を愛するという事はそういうことなのでしょう。
でも何で?と思いたくなることもあるでしょう。何でこんな人に良くしなければいけないんだ、あの人はあんなことをしているじゃないか、こんなことをしていたではないか、自分にこんなにひどいことをしたんだよ?そういいたくなることもたくさんあります。しかしこのイエス様のおことば、よく見てください。天の父(神様)が憐み深い、神様から離れ罪に走り好き勝手に生きる、神様を神様とせず愛のない私たちをそれでも憐れまれ、先ほどの言葉を借りるならお母さんのわが子をいつくしむ愛のごとく、いやそれ以上に自分の全てを犠牲にするその愛、イエス様を身代わりに私たちの代わりに罰して死なせるほどに愛されたこの深い愛を行動に移されたそれほどの愛を持ってくださっている。このあわれみ、行動を、私たちの内に、また私たちの周りの人、苦手な人でも、こんな人を?と思う中にも現わされるんです。神様がそこに働かれるなら、そこは変えられていくのではないでしょうか?まあそもそも私たちだって神様の憐れみを受けるに値しないはずだったのに、こんなに大きな愛、イエス様のいのちを身代わりに救わんとされたその愛を受け取ったわけですから、あの人がどうの、あの人は救われるに値しないとか、憐れみを受けるに値しない、なんて口が裂けても言えないのですが。
同じようにイエス様を迫害し、イエス様を信じるクリスチャンを迫害し殺害にも加担していたパウロ、その彼は神様に裁かれ殺されてもおかしくない中、復活のイエス様が彼の前に現れて悔い改めに導かれ、罪赦された、その彼は「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。…というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」と手紙の中で書き残しました。そんな彼、私たちにそれでも神様の憐れみによって、その愛からくる行動、イエス様のいのちを私たちの身代わりに十字架に架け、死なせるというあり得ないほどの究極の憐れみの愛、これによって救われた、そこに神様は驚くべき知恵、知識、富、それらを込められている、現されるのです。私たちには計り知れない、どうにもできないような状況にあって、こんな人、と思う中にあっても。神様から発し、神様によって成し遂げられ、その神様の素晴らしさに導く。
私たちは神様の憐れみにどれだけすがっているでしょう?神様の憐れみをどれだけ求めていますか?神様の憐れみの心を示さず逆に向かおうとしていませんか?神様のなそうとしている素晴らしさ、それを私たちはせき止めてはいけません。
イエス様を3度にわたって否定し裏切ったペテロは、イエス様の憐れみを受け、悔い改めに導かれ赦された、その彼は「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」と手紙で書き残します。このイエス様にあって現わされた憐れみによって、その働きによって、私たちは新しくされる、そこに生ける望みを持たせてくださる、そのように働かれている、その根拠になっている十字架の愛、そこに込められた憐れみがいかに素晴らしいか。
イエス様も、「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」と教えられました。私たちの憐れみを示す中に神様の憐れみが働かれ、私たち自身も、またその周りの人にまで深い憐みが現わされるのです。行動を伴われる神様の憐れみ深い愛が、御業が。
私たちは確かに憐れみの心なんて持ち合わせていない、でも↑にあるように悪いことを企む、神様の憐れみから引き離すようなことをするのではなく、神様の憐れみがここになることを祈ろう。隣人をあざけるものではなく神様の憐れみが成ることを祈りまた神様に委ねたいものです。その先に私たちわきまえもなく神様を諦めていたものに神様の栄光、素晴らしさを知らせていただける、見させていただける、体験させていただけるのですから。
↑の少し前の箇所で「高ぶる目とおごる心―悪者のともしびは罪である」とありましたね。私たちは神様に任せられない、あの人はダメだ、憐みなど不要、などと高ぶるのではなく、神様の憐れみを受けたものとしてへりくだり、愛を現すものでありたい、いや神様に祈りながらその心が与えられ、その行動の中に神様の憐れみが、愛が、御力が現わされることを祈りたいものです。何せ私たちは不完全ですから。そんな私たちの内に神様の御力が働かれるのだから。憐み深い、敵をも愛する神様の愛が、罪人をも愛する神様の愛が。
「正しい人は悪者の家を見抜く。悪者どもは自分の悪事のために滅ぼされる。寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない」。そもそも私たちの中に正しい人、義人なんていない。だから私たちは神様の憐れみが必要、滅びではなく救いが成るよう、神様はイエス様のいのちを身代わりに差し出された。そのような辛い・悪者の家、と言いますか、それも含め、憐みの必要なところを神様はご存じ。私たちは私たち自身世の悪事でや高ぶり、高慢によって滅びに進むのではなく、神様の憐れみによって生きたものとされたいですね。よるべのない私たちに耳を閉じず、呼び求める声に応えてくださる神様が、滅びに向かう私たちや状況に目止めておられ、その愛を現そうとされている。それなのに私たちが諦めてどうしましょう。
「ひそかな贈り物は怒りをなだめ、ふところのわいろは激しい憤りをなだめる。公義が行なわれることは、正しい者には喜びであり、不法を行なう者には滅びである」。怒りをなだめる賄賂…それはまた問題ですが、しかし神様は怒りによって滅ぼすのではなく、その憐れみの心をもって、イエス様という最高の贈り物をもって私たちを救ってくださった、その怒りを鎮め、憐みによって救ってくださった、この神様が今日も公義を行おうとされているなんてなんと感謝なことだろう。賄賂のような偽の心ではなく、この神様の本物の愛の贈り物によって私たちが本当の喜びに満たされること、私たちの周りの人たちに喜びが訪れることを祈りたいものです。
「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。悪者が正しい人のための身代金となり、裏切り者が直ぐな人の身代わりとなる。争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ」。私たち迷い出たものに休息の場所となり、本当の富、快楽、喜びを与えてくださる神様のもとに私たちは憩い、住まわせていただき歩もうではありませんか。今日も死んだ霊ではなく、本物のぶどう酒、聖霊様の油をもって私たちを富ませ、生きたものとしてくださる神様の憐れみが注がれているから。
