「誉れが愚かな者にふさわしくないのは、夏の雪、刈り入れ時の雨のようだ。逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち。愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける。」
箴言26章1-6節
世の中様々な価値観が溢れ、それぞれのその価値観をもって行動するから、結構人は振り回されます。これまで自分が正しい、と思っていた価値観も、時代の変化と共に通じなくなり、うまく対応ができなくなる人もいます。これ、仕事をしていると本当に見えてきますね。そういう意味では本当に今の時代生きるのが大変。下手をしたら結局何が正解なの?となることも。人それぞれに対応の仕方を合わせたり。でもそれって本当に疲れますよね。ある意味では何にもならない。ただ、確かに言えることは、私たちを創られた天の父なる神様は、確かな愛、確固たるご意思をもって私たちを支え、励まし、力づけ、養い、導いて下さっている、という事。変わることのない愛をもって、それこそ私たちを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった、その愛をもって私たちを支えてくださっている、その愛ゆえに私たちに生きてほしい、と光を灯してくださっている。人は神など弱い人がすがるもの、愚かなこと、と考えるかもしれない。しかしこれほどの大きな愛はありません。ただただこの神様の知恵・御心に従い歩もうではありませんか。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された箴言、知恵・いのちのことば、これを受けたソロモンが書き残し、さらに250年後に南ユダ王国のヒゼキヤ王が、国の腐敗とアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、私たちをわが子と呼んで下さる神様は、私たちがおろかなものになること、誰かに蔑まれるような事がないよう、神様の最良の知恵を授けてくださる、導いて下さる、私たちに生きてほしい問いその愛の思いをもってその御心を語り、導かれるわけですね。良いもので満たそうとあなたを招いて下さっている神様との関係を蔑ろにしないで、と。
そんな神様は、その御思いを現し、また導くため、なおソロモン、またヒゼキヤに、さらに私たちに向けて示されたのですが、↑で「誉れが愚かな者にふさわしくないのは、夏の雪、刈り入れ時の雨のようだ」と語られます。↑の他のことばもそうですが、主には愚かな者に関わる言葉が↑では並んでいます。愚か者を馬鹿にしたい、というわけではありませんよ?愚かな状態になってほしくない、もっと良いものに満ち溢れて生きてほしい、その思いで一言一言語られているわけです。
それで、「誉れが愚かな者に相応しくない」ということばですが、誉れというのは「重さ、重み、価値」という意味を持つ言葉で、例えば物質的な重さとか、社会的な重さ、とか神様の栄光(素晴らしさ)を現す言葉として使われています。ここではどちらかというと社会的な重さを現しています。まあそういう意味では、誉れを受けるということは「重みある地位、名誉、威厳、敬意」を受けるということなのです。そうすると、確かに愚かな人にそれらを与えるのはちょっとどうなのかな、と思いますよね。
ちなみに当時のイスラエル・ヘブル人の文化では、「重いもの」は価値あるもの、重要なものを象徴していました。逆に「軽いもの」は、軽薄・無価値・不誠実を表します。そうすると見えてきましたでしょうかね。だから愚かな人に重いものを背負わせる、地位や名誉を与えることは本人にとってもつらいことですが、全体が崩れてしまいます。それこそ「夏の雪、刈り入れ時の雨のよう」、秩序が崩れてしまうわけです。まあ夏に雪が降れば涼しくなって気持ちよくなりそうですが、ただそんなことがあれば混乱を招くのは目に見えているでしょう。
いずれにしても言えることは、私たちは「愚かな」「何か」を大事に、自分の重さにしてはいけない、ということです。重きを置かない、と言ったところでしょうか。それは、言葉遊びにするつもりはありませんが、私たちにとっての重荷となってしまいます。
ただこれを書いていて思ったのですが、自分に愚かなところなどない、という人はいない。自分は知恵ある、知識あるものだ、自分は優れている、自分は全ての誉れを受けるに値する、と言える人などいない。誰かしら、何かを抱えている。だからこのことばが誰かを非難批判するための免罪符になるというわけではありません。まただから仕方ないじゃない、ありのままでいいんだよ、というわけでもありません。私たちはむしろこの抱えている何か、問題、また罪、これらを取り除いていただき、神様の重さ、素晴らしさで満たしていただく、そのことが大切なのです。
パウロは「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです」と語りました。
彼は1世紀に活躍した伝道者である意味では多くの評判を持っている人でした。しかし彼は同時にかつて、イエス様を迫害する者、イエス様を信じる人を迫害し、殺害に加担し、さらにその計画を勧めようとしていた人。自分は神様に喜ばれる歩みをしていたんだ、と思っていながら、実は逆に神様の誉れを失っていた。神様の目からは愚かな道を進んでいたのでした。それをはっきりとここで告白しながら、「しかし」、というのです。誉れが愚かな者にはふさわしくない、と言われるように、同居するのはあり得ない、という事を考えるなら、本来パウロも、神様から離れた私たちもみな、神様から見捨てられてもおかしくなかったのです。
しかし、そんな私たちの内に神様は慈しみと愛を現して下さったのです。私たち、この愚かな私たちを神様は見捨てるのではなく、むしろ私たち愚かな者を救うため、最も誉れあるはずのイエス様を私たちのこの抱える様々なもの、愚かさ、何より罪、その刑罰、一切身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせてくださった。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し神様の子としてその誉れを受けるのです。愚かな私たちを。聖霊様が私たちにこのイエス様の愛を悟らせて下さり、そのイエス様を主と告白する時、私たちは新しくされる、洗い聖められるのです。この聖霊様が、新しい助け主なる聖霊様が私たちの内に住まわってくださっているのです。「私たちがキリスト(様)の恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となる」ために。
パウロは言います。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と。本来私たちは神様から愚かな者と言われ、見捨てられる、神様の秩序、愛から外されてもおかしくなかったのに、そんなものをも救われた神様の力がどれだけ素晴らしいのか、私たちは神様を愚かな者として、別な何かに走ったり、抱えて、本来神様から受けられるはずの名誉、義、力、そうしたものを失うのではなく、むしろこの神様の素晴らしい愛、御力に溢れている、知恵に満ちている神様の秩序、この内に招かれているわけです。あなたはこのイエス様のいのちにあって与えられるこの救い、永遠のいのち、イエス様を信じ生きる事を愚かなことと思いますか?これを大切にしていますか?神様のこの愛が、私たち愚かな者の内にある、夏の雪だの、収穫時の雨だのというめちゃくちゃな状況から神様は解放してくださる。
このイエス様の愛の前に、聖霊様の働きの中にあって、「逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない」とあるように、いわれのない呪い、悪、様々なものはあなたに迫ることはできない。むしろそのような中にあっても守られる。「馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち」と語られている通り、神様がそうした中から導き出して下さるのです。私たちがコントロールを失って迷わないように。あ、馬にむち、というのはただ暴力をふるっているわけではなく、いい意味でコントロールし、また導くためにあるわけでしょ?神様は痛めつけたいのではなく、私たちを本来の正しい道に導きたいのです。いのちの道に。
かつてイスラエルの民が奴隷として捕えられていた時、神様はモーセを通して働かれ、救い出されたのですが、彼はその前はエジプトの王子として生きていました。まあイスラエル人の間に生まれたのですが、王の政策によって殺されそうになったところを助けられたわけですね。そんな彼はエジプトの地位よりも神様と共にいることを喜び、神様の誉れを求めた。そんな彼は「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう」と、神様の約束を体験し、またこれを詩に残しました。そう。神様が愛してくださっているから私たちは助け出される、神様の名によって私たちは時に低くされることがあっても、世的に愚かだ、と低くされているように感じる時があっても、神様の御もとに引き上げられるのです。この神様を名を呼び求めるなら、神様は答え、苦しみの時にあろうと共にいてくださり、救い、誉を与えてくださるのです。
また王としては相当素晴らしかったダビデも、「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです」と告白的に歌います。成功していたように見える彼も、全ては神様からの偉大さ、力、栄え、栄光・素晴らしさ、威厳、すべて神様から来ていたんだ、この神様から富も誉も出ていて勢いと力を与えてくださったんだ、と。
神様は今日、十字架からこの素晴らしい関係に、いのちの内に今日もあなたを、私たちを招いて下さっている。「愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう。愚かな者にことづけする者は、自分の両足を切り、身に害を受ける」と最後に↑で語られていますが、私たちは愚かなものに心を奪われるのではなく、神であられながら人となって生まれてでも救い出され、その全ての良いものを与えてくださる神様をどこまでも求めようではありませんか。世の愚かさによって傷を自ら追うような歩みではなく、聖霊様による洗い聖め、いのちにあふれ。自分の知恵や方法ではなく神様の知恵を求め。今日も神様の愛はあなたに注がれている。あなたはこれを受け取っていますか?

