とある働き人の聖書のお話 -4ページ目

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

収穫の季節も迎え、値上がりはしてもそれでも、私たちに食べ物がある、本当に感謝ですね。

 

ところで、

ぶどうの樹からはぶどうの実を収穫します。

その木から取れる実はその木によるんです。

そして、それを育てる人も必要ですよね。

 

神様が、私たちを育ててくださる、丁寧に水を与え、やがて実を結ばせてくださる。

自分たちでは様々な災害があるとどうしても限界がありますが、

神様はそんなものには負けません。

あなたへの愛は尽きることがないから…

 

「美しいものには、美しい実りがある…」(三浦綾子さん著:続氷点より)

 

あなたの家族の中に寂しいと感じている人はいませんか。ちょっとほほえむだけでいいのです。新聞を読んであげると喜ぶ目の不自由な人も、買い物をしてあげると喜ぶ重い病気の母親もいるでしょう、家族や隣人、身近なところから愛は始まるのです。

ーマザー・テレサー

 

人は愛というものを重たいものと感じる人もいるかもしれませんが、

神様は重い愛を示されたのではなく、実塚なところまで下りてきてくださり、共に生き、重荷を背負ってくださったのです。

私たちは神様からいただいた愛、神様があなたを通して働いてくださる大いなる愛に期待しようではありませんか。私にはできないことも神様に不可能はない、神様を求めよう。

 

 

 

「さて、私たちが船でイタリヤへ行くことが決まったとき、パウロと、ほかの数人の囚人は、ユリアスという親衛隊の百人隊長に引き渡された。私たちは、アジヤの沿岸の各地に寄港して行くアドラミテオの船に乗り込んで出帆した。テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコも同行した。翌日、シドンに入港した。ユリアスはパウロを親切に取り扱い、友人たちのところへ行って、もてなしを受けることを許した。そこから出帆したが、向かい風なので、キプロスの島陰を航行した。そしてキリキヤとパンフリヤの沖を航行して、ルキヤのミラに入港した。そこに、イタリヤへ行くアレキサンドリヤの船があったので、百人隊長は私たちをそれに乗り込ませた。幾日かの間、船の進みはおそく、ようやくのことでクニドの沖に着いたが、風のためにそれ以上進むことができず、サルモネ沖のクレテの島陰を航行し、その岸に沿って進みながら、ようやく、良い港と呼ばれる所に着いた。その近くにラサヤの町があった。かなりの日数が経過しており、断食の季節もすでに過ぎていたため、もう航海は危険であったので、パウロは人々に注意して、『皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます』と言った。しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。また、この港が冬を過ごすのに適していなかったので、大多数の者の意見は、ここを出帆して、できれば何とかして、南西と北西とに面しているクレテの港ピニクスまで行って、そこで冬を過ごしたいということになった。」

使徒の働き27章1-12節

 

私たちの人生、楽もあれば苦もある、なんて歌が昔ありましたが、まあ世の中実際に、色んな嵐が吹き荒れ、また思惑が、それぞれがこれが正義、正しいという思いによって歩んでいるからそれが自分に合わないと本当に大変。色んな重荷を積んでいて、沈みそうになってしまうこともある。でもどうか忘れないでください。あなたのいのちは神様が与えてくださったもの。神様があなたの船頭となって導いて下さる。あなたの船が沈むことがないよう、神様のいのちの道を進むことができるよう励まし、慰め、また灯火を灯し導いて下さる。何よりあなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった方があなたを守られ、導いて下さるんですよ?私たちはこの方に信頼していい。世の中が何といおうと、あなたに仕掛けようと、このイエス様が何と仰られているのか、これに耳を傾け、また信頼し従おう。この方と共にどこまでも歩もうではありませんか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、神様から離れ彷徨い歩き私たちの抱える思い煩いや痛み、何よりこの罪の一切を私たちの身代わりに背負われ、十字架上で罰せられ、死なれ3日目によみがえられたことによって救いを与えてくださったその後、イエス様が約束された通りに新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生してしばらくしての出来事です。このイエス様の命がけの愛、救いをすべての人に受け取ってほしいと願い届けるべく、聖霊様がパウロを含む多くの人を遣わしていきます。彼らは多くの奇跡や救い、神様の驚くべきわざ、働きを遣わされた多くの人たちが体験しました。

 

そしてパウロも3回の伝道旅行を終えエルサレムに帰ってきたのですが、彼を疎ましく思う人たちの手によって捕まり、不当な裁判にかけられます。しかしパウロは自分が神様を迫害する者であったこと、そんな自分に復活のイエス様が現れ、語られた、裁くためではなく悔い改めに導かれたこと、そんな愛があなたがたにも注がれているんだ、と訴える人たちに語るのですが、彼らは納得せず、カイザリヤの総督フェストやアグリッパ2世王のもとで裁判を受けることになったのですが、彼らはパウロが間違っていることを見出すことはできなかった。パウロは皇帝カイザル(ネロ)に上訴する、と言っているのですが、彼が上訴しなければ無罪放免なのに、と言わんほどに彼は間違っていなかった。それでもパウロは、今度はローマからさらに福音を届けたい、皇帝の前で証をし、キリスト教を届けるんだ、と神様からの導きも信じ期待して上訴し、今↑でローマへの際のご船旅が始まります。

 

パウロのローマへの航海ルート図

 

ここからまた見ての通り困難な船旅が始まりますが、しかし神様の全世界に福音を、全ての創られたものにこの救いを、永遠のいのちを得てほしい、という願いは変わらず、働いているその中に今パウロがいるのは間違いありません。そう、この船旅を導いているのはローマ兵でも誰でもない、神様。この神様の意思が今彼らの内に働いている。

 

それでこの使徒の働きの記録を書いているルカも含め、今パウロたちはイタリアに向け、ユリアスという百人隊長に引き渡され、船に乗り出発します。そこでは彼らを護送する責任者の百人隊長ユリアスがパウロの内に働く神様の不思議な何かを知ってか、彼によくしてくれて、パウロもこのシドンの教会の兄弟たちを励まします。

 

そうして考えますと、私たちの生涯というのは様々な人に支えられています。神様という船頭、リーダーの導かれる中で様々なところに立ち寄る時もある、その中で確かに神様は様々な助け手、ここでいうルカやアリスタルコ、またつらい時に励ましてくれる兄弟姉妹、仲間…不思議とその中に手を貸してくれたユリアスのように。私たちは一人ではなく、神様が全てのことをあい働かせてくださっている。どんな状況にあっても神様の御手がそこにある事は変わらない、そのことを忘れてはいけませんね。

 

そしてパウロたちは「そこから船出し、向かい風だったので、キプロスの島陰を航行した。5 そしてキリキアとパンフィリアの沖を航行して、リキアのミラに入港し」ました。どうも船の進む地中海の風というのは、特にこの秋の時期、逆風の中を進む航路になります。キプロスの島陰を航行するなどして、その向かい風を避け、そして、さらに北にいって、初めはキリキアの沖合、もっと西に行き、パンフィリアの沖合を航行しました。なかなか思うように前に進まない、航路さえ変えなければいけない、そんな状況の中、それでもなんとかリキア地方にミラに入港、イタリアに行くアレクサンドリアの大きな船に乗り換えました。これで何とか無事につけるだろう、と思ったところ、クニドの沖に着いたあたりで、風のためにそれ以上進むことができず、サルモネ沖のクレテの島陰を航行し、その岸に沿って進みながら、ようやく、良い港と呼ばれる所に着きました。

 

良い港、水夫たちがどこかの港町で冬を過ごすとき、解放されて遊びほうけるのが常でした。そしてここには彼らを相手する売春婦が大勢おり、酒場がたくさんあったそうで、そういう意味で良い港と言われていて、彼らはこれを求めているのです。

 

ここまで苦難困難の船旅、もうどうにもならない。いつまでも先に進まない、ほんとにこの道でいいのか、嵐も逆風も吹き荒れるし一体どうしたらいいのか、そんな状況の中です。さらに断食の時期が過ぎ、まずその意味で彼らは解放されあれを楽しみたい、これを楽しみたいという思いもあったのかもしれませんが、それだけではなく断食の期間が過ぎる時期は、9月半ばから11月半ばまで、地中海の航行は危険でした。それ以降、5か月間は冬の時期で、吹き荒れる季節風、暴風のため、航海は完全にストップされます。

 

そこでパウロは「皆さん。この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます」と彼らに言います。パウロとしてはこの航海、本来だったらもっと順調に進むはず、しかしそうもいかず思い悩むところ。しかし、今彼は自分のローマに早くいきたいという思いよりも、神様の導きを求めた。神様の導きより自分の考えを優先させて、「自分の考える良い港」を目指しても、それはやがて沈むだけ。この船の真の船長、この船旅の神様、神様の港に今は停泊させていただこう、そう訴えるわけです。しかし、彼らは自分たちの経験や知識を優先させます。そして百人隊長ユリアスも彼ら専門家の意見を優先させ、結果この続きの箇所で本当に船も罪にも失い、いのちの危機をさえ迎えることになるのです。

 

私たちはこの問題に本当に陥りやすい。自分の知識や経験を優先させて神様の知恵、導きではない方法を選ぶ。しかし私たちのいのちは、日々は、まことの船長、神様によって支えられ、導かれている。全てを治めて守られる方が。この方よりも自分の方が優れていると言って別な道に進んでどうして神様の恵みを、祝福を受け取ることができるでしょう。神様が本来私たちに現したい、導きたいと思っておられるところに行けるでしょう。自分は自分、好きなように行く、それはある意味で勝手と言えば勝手、自由と言えば自由ですが、結果私たちは様々な損害、危害、自分の荷物、あらゆるものを傷つけ失ってどうしましょう。

 

それは疲れ切ったり、うまくいかなかったり思い悩むとき、それがこのパウロの旅のように続くことだってあるでしょう。しかし、私たちの船に、いのちの内にイエス様がおられることを忘れてはいけません。神様は私たちをこの世の嵐吹き荒れる中にあって人として生まれさせてくださり、その間に住まわせ、惜しむことなく愛を現されたではありませんか。

 

覚えていますか?イエス様が弟子たちと小舟で向こう岸に渡ろうとしていた時、嵐で船が沈みそうになった時、イエス様はこれを静め、「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」と語りかけられたことを。イエス様がいるから私たちはたとえどんなことがあっても恐れる必要はない。何よりこの思い煩いや痛み、世の激しい嵐の中、私たちを救うべくイエス様は私たちのこれらの問題、そして罪、これら一切を身代わりに背負われ、十字架に架かられ、死なれた、そこまでしてでもあなたを救い出されたことを忘れないでください。この方が死からいのちへ、嵐の中から救い出され、神様の旅路へと導かれた、このいのちをイエス様のいのちにあって今保証されているのです。あなたのこのいのちを失うことがない様にここまで命をかけてまで救い出されたのです。このイエス様を、船長を疑ってどうして航路を進むことができるでしょう。

 

あなたの道を照らすイエス様、どんな嵐もしずめ、進まれるイエス様が今日私たちと共におられることをもう一度覚えよう。そしてこの方に委ねよう。自分の考える良い港ではなく、イエス様ご自身が良い港となって守ってくださる、イエス様の方法で進ませてくださる。その先にイエス様のいのちにあって現される朝を迎えるのです。栄光の日を。沈む歩みではなく、私たちはこのイエス様の引き上げてくださった、いのちで引き上げられた命の内を今日も歩もうではありませんか。

 

嵐の中の船とイエス

10月に昨日から入りました。

10月は美味しいものが多いですね。昨日仕事がひと段落した段階で職場の人とスイーツを帰りに買って帰り、残っている人で分かち合いました。秋という事で栗を使ったものだったかな?おいしかったです。ちなみに私も栗が大好物で、幼稚園の頃、誕生日に八百屋に行った際、店長が、その日私が誕生日だと母親から聞いて、大好きな栗をたくさんくれたのを覚えています。

 

まあ私の話は別にどうでもいいのですが、

季節は変わりゆくもの、人生もそう。

 

アダム・クラークという人がこんなことを言っています。

 

私は、私の人生の春を通り過ぎた。夏の暑さに耐えた。秋の果実を集めた。そして今、人生の冬の厳しさを耐え忍んでいる。しかし、ほど遠くないところに、私は、新しい永遠の春が近づいているのを見る。ハレルヤ!

 

人生色んな時期があります。春には春の、夏には夏の…と色んな過ごし方があり、楽しいこともあれば大変なこと、辛いこともある。でも、その中に果実、収穫をする日が来る。紅葉が進んでいく中で、季節の変化と共に神様のくださる収穫物、果実がある。季節を彩られ、季節ごとの果実・収穫物を与えてくださる神様がいる、永遠の春へ向けて今日も私たちを案内し、守って、養ってくださっている。物事の状況にとらわれ疲れると疲れますが、その中に働かれている神様、実らせてくださっている実を見よう。それを食べてみよう。神様がその栄養をあなたにしみわたらせ、元気にして、この季節を過ごさせてくださるから...

 

栗拾いする子供とイエス・キリスト

 

人生は短いのです。にっこりほほ笑んで生きなさい。まだ歯が残っている間に!

 

ハハハ、笑えましたか?

「目は口ほどにものを言い」ということわざがありますが、“ほほ笑み”も大いにモノを言うのですよ。人は、誰かのほほ笑みを見ただけで、心が和みます。目に見えない隔ての氷が一発で解けます。そして、その人が、心の優しい人で、平安に生きていることが分かります。

 

なかなかほほ笑むことのできない人は、その人のほほ笑みを見て、「自分もあんなにほほ笑みながら人生を送りたい。どうすればああなれるのか」と思います。その時、その人はイエス様のすばらしい福音に、一歩近づいたのです。

 

人生を一日でも延ばすサイコーの秘訣は、ほほ笑んで、笑って過ごすことですから、これからも、臆することなく、そうしていきたいものですね。あなたの笑顔を通して神様の愛が溢れ流れるから。

 

ちなみに、“イエス様が笑われた”ということばは残念ながら聖書には、主が泣かれた記事はあるものの、笑われた記事はありません。でも、人を愛し、その罪を赦し、罪びとの友として、人々としばしば食卓を共にされた主は、よくほほ笑まれ、時に大笑いされたであろうことを、私は信じて疑いません。

 

Life is short… Smile while you still have teeth!

 

イエスと子供の笑顔

「高ぶる目とおごる心―悪者のともしびは罪である。勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。偽りの舌をもって財宝を得る者は、吹き払われる息のようで、死を求める者だ。悪者は自分の暴虐に引きずられる。公義を行なおうとしないからだ。罪人の道はねじれている。しかし、きよい人の行ないはまっすぐだ。争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。」

箴言21章4-9節

 

人にはどこか自分が取るに足らない存在だと思われたくない、という不安や恐れがあり、その恐れを隠すためにこう、自分を良く、ないし強く見せようとしたりします。そこまでならまだいいのですが、自分を認めさせるために相手にひどいことを言ったり、傷つけたり、見くだしたりすることもあるわけです。まあそれの根っこにはもしかしたら自分があまり他から認められなかった、いやなことを言われてきた、傷つけられてきたからそれの反動で認められたい、というものがある、にじみ出ているのかもしれませんが。以前も書きましたが、まあ高慢になってしまうと、あまり周りが良く見えなくなったり、周りの声が聞こえなくなったりします。本来神様が私たちに良いものを与えようとしている、不安や恐れがある中で神様が助けを置いて下さっていたりしている、それを見逃してそこに神様が成そうとすることを見逃してしまう、そんなことだって起こりえる。もったいないじゃないですか。私たちは神様によって創られた大切な存在、この内に神様がどれだけ素晴らしいものを注がれているか、これを忘れてはいけません。神様はあなたを取るに足らないものではなく、最高のあなたにしようと日々働かれている。何より父なる神様は、御子イエス様を私たちを救うために身代わりにされてでも救い出された、そこまでされる神様がどうして取るに足らないあなたにされることがあるか。私たちは神様から離れず、遜り、この神様のすばらしさを受け取りこれに生きようではありませんか。私たちが高くあろうとして虚栄に生きるのではなく、神様の本物の愛に生きよう。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた知恵、いのちのことば・箴言で、これを受けてソロモンが私たちに書き残し示されたことば、その続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、私たちは様々なことに恐れを抱きどうしたらいいのか分からず道を見失いやすい。そんな中に神様は知恵・御心を現して下さり、私たちに希望をもたらして下さるわけですね。神様を侮って、そんな状況の中どうせというのではなく、この神様が成し遂げてくださる希望に信頼したいものですね。神様がその御心をもって飾られる素晴らしい日々を求め。

 

そんな神様はその知恵・愛を私たちに知らせるべく、ソロモン、そして彼を通して私たちに向け、「高ぶる目とおごる心―悪者のともしびは罪である。勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。

 

これは本当に人の陥りやすい問題で、自分はあの人とは違う、優れているんだ、という思いから誰かを見下す、愛する事よりも見くだしてしまうわけです。それはサタンもやったことで、自分は彼になれる、神様より優れている、そう考えた結果、本来神様の被造物、最高だったはずの彼がすべてを失い地に落ち、周りを巻き込んで悪に引きずり込む、最後は滅びが決まっている。自分はサタンではないから大丈夫?ただ神様の御前に高ぶる時、神様などいらない、神様あなたは間違っている、とそういう目で見る時、私たちはこのサタンの手にとらわれてしまうわけです。せっかく神様から最高の存在として創られたその姿が失われていく、神様から頂けるはずの恵みを失っていってどうしましょう。それを神様は悲しまれるからこうしてここにソロモンに、また私たちに示されるわけですね。

 

まあこれだけの知恵、箴言を神様から示されながら彼は神様から離れていってしまった。重い重税をかけ民を苦しめたり(律法的にそもそも問題があった)、神様の与えてくださった妻に満足せず、妻と妾合わせて1000人の女性と関係をもったり…気が付いたら神様が国も自分自身も傷つき、ついには王国が分裂していってしまった、息子レハブアムの世代で。その高ぶりの心、民を愛さない、神様よりも自分の方が正しいとしたその歩みがすべてを壊していってしまった。

 

これ、王ではなくともあり得る話ですよね。高慢は破壊する。コミュニティ、人間関係、仕事、どこにおいてもいいものはもたらすことはできない。このおごり高ぶった心が膨らんでいった結果、その風船が割れるかのように壊れてしまう。ここで罪と表現されていましたが、まさに神様を神様としない、神様の前に高ぶり自分が自分が、と蒔いていく種はいつかは破裂する。愛するよりたかぶるその心が膨れ上がれば、それは壊れてしまう。多分これは皆さん言われなくともわかっているよ、というくらい実感されているかもしれません、見たことがあるかもしれません。面白いことに、ここに出てくる「おごる心」という言葉は「拡大した心、膨れあがった心」という意味なんですよね。そうなれば本来神様が与えようとしているあなたの姿、あなたへの恵みの日々が破裂するのは言うまでもないでしょう。

 

それならむしろ神様の愛が膨らんでいくならそれは素晴らしいものになるのではないでしょうか。イエス様もよくこの種についてのたとえをされていたのですが、御言葉の種、イエス様ご自身が私たちの内に留まる時、私たちは30倍、60倍、100倍の実を結んでいく事になります。それはどんな苦難困難、日照りも、茨もあなたをふさいだり奪ったり、枯れさせることはできない。不安になって自分を高く見せたりする必要もない。また「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります」と仰るほどにたとえそれが小さく見えても、神様が多くの人が休めるほど、安らぐほど、いや私たち自身の安らぎの場としても豊かに広がっていくわけです。広げてくださるのです。

 

また「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです」ともイエス様は仰られました。私たちは知らない、私たちの寝ている間、悲しみの中にいる間、人の手によらず神様がそれにクワを入れたり育てたりして成長させてくださりそれを私たちに収穫させてくださるのです。

 

私たちは自分が自分が、神様のやっていることは自分には合わない、どうにもならないと神様の御前に高慢になったりする。そして神様は互いに愛し合うことを教えながら、そんなことは何にもならないと周りにも謙遜ではなく高慢にぶつかっていく。でもそうではない、イエス様の種が、イエス様の愛の種が蒔かれる時、またイエス様のいのちが宿る時、そこにはもはや何ものも恐れる必要もない、私たちの安らぎの場所が与えられる。多くの人が、あなた自身も安らぐことができる場所となる、そんな場所に変えてくださるのです。なんてすばらしい話。そこに神様の御国が広がるんです。いのちが広がるんです。

 

私たちはおそれの灯火、神様への疑い、罪の灯火を灯して神様が本来与えてくださっている最高の場所、あなたを失ってはいませんか?自分は取るに足らないものと考えて大きく見せようとたかぶる必要もない、むしろ神様は私たちを取るに足らないものどころか最高の存在に作られたではありませんか。いやそれだけではない、その私たちが神様から離れ、取るに足らないものとされるような状態になっても神様は見捨てず、私たちの内にむしばんでいる不安や恐れ、何より罪、これらを取り除き、聖めるため、御子イエス様にこれら一切を身代わりに背負わせ、十字架に架け、身代わりに罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによってイエス様はこれらに完全に勝利された。このイエス様の十字架の御前に私たちが罪を悔い改め立ち返る時、私たちはこの完全な罪の赦しと癒しを受けるのです。取るに足らなくなったはずの私たちに復活のイエス様のいのちが与えられる、この愛が私たちの内に広がっていくのです。

 

イエス様は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」とも仰られました。人が死ぬ代わりにイエス様、何の罪もないイエス様のいのちという種が地に落ちて死なれたからこそそこに意味がある、このイエス様の死の種、復活の種が今日あなたのいのちを新しくし、また広げてくださる、多くの人たちが希望を見出す、そんなところへと変えていってくださるのです。私たちは高ぶってこの命を失うのではなく、遜り、また愛をもって仕える中にあってこの永遠のいのち、イエス様の愛が溢れることを祈り願う者でありたいです。この希望の灯火は決して消えることはないのですから。私たちは勤勉に働くイエス様に勤勉に希望を持ち歩もう。またこの愛を現すものでありたいですね。そこに神様のかけることのない希望が確かに溢れるから。

 

「偽りの舌をもって財宝を得る者は、吹き払われる息のようで、死を求める者だ。悪者は自分の暴虐に引きずられる。公義を行なおうとしないからだ。罪人の道はねじれている。しかし、きよい人の行ないはまっすぐだ。争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい」と↑で語られているように、イエス様にある希望ではなく高ぶった心で接する中でどんなに利益を得ようとしてもそれはいつかは崩れてしまいます。しかしイエス様の愛、聖霊様の息吹がそこに、あなたに吹きかけられるなら、そこは生きる。死んだ場所ではない、いのちの場所と変えられる。高慢や世、不安や恐れに私たちは引きずられてはいけない。ねじれた道に進んではいけない。イエス様はあなたをいのちの道に導くために、遜り人となってこられ、何の罪もないイエス様が私たちの身代わりに罪を背負われ死なれるという、ありえないことをされてた、遜られてでもあなたをいのちの道に導いて下さった。そこに広がる希望を見ずしてどうしましょう。

 

私たちは世的には屋根の片隅に見えても、この神様がイエス様にあって与えてくださった本物のいのち、希望をしっかり握りしめ歩もう。そこは神様の働かれている希望が溢れているのだから。ここに私たちを、いのちを、私たちの置かれている場所をそのいのちで、愛で広げてくださる、くださった方が今日もおられるから。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」。私たちは今日、この神様の御前にへりくだろう。神様が高ぶるものを退け、広げてくださる恵みが豊かにある事を祈りながら。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」。イエス様のいのちにあって私たちを引き上げてくださる神様、恵んでくださる神様が今日もあなたと共におられるから。

 

勤勉な計画は豊かさをもたらす

私たちはある意味で枠のある社会の中で生きています。

その枠の質、大きさによってはあなたは大きくも小さくもなります。

 

しかし、セオドア・オースティン・スパークス氏は語ります。

文学の領域はアルファベットのA〜Zの外に行くことができません。同様に、イエス・キリストは神の新しい創造の始めであり、終わりであり、その間のすべてです。ですから、私たちは主の外に行く(主から離れる)ことができません。

 

というよりも離れる必要がない、イエス様の十字架の死と復活によって、深く閉じ込められた古い自分は死に、新しくされる、その復活の新しい命は永遠の命、神様に至る、神様の恵みは計り知れないのだから。

 

永遠に共におられる神

私たちは外からあれこれ言うことは言う、でも行動を起こさないことも多いですね。

でも、1つの愛の行動は何かを変えます。あなたの周りの状況を変えるかもしれない。あんな奴変わるはずがない、ではなく変わるのです。

いや、神様が変えてくださるのです。

 

ある人が、ライオン歯磨きの袋をまねて作って、同じようなケースに粗悪品を入れて売りまくっていました。しかし彼はやがて逮捕されました。しかしライオンの社長、小林富次郎さんは、その家族に、毎月こっそりと生活費を投げ込ませました。自分が被害者なのに、ですよ?

 

やがて出所の日、彼は真っ先に社長の元へお礼と謝罪に来たのでした。

 

彼は自分を逮捕するきっかけとなる社長を恨むわけでもなく、感謝し、悔い改め、本当に人が変わりました。一つの勇気ある行動、愛による行動は変えるのです。

 

神様の愛はますますです。神様は罪びとの私たちを見捨てることなく御子イエス様を、いやそれ以上にその命をあなたに投げ込み救う決断をされました。あなたを神様にある栄光の富をもって。このイエス様の愛があなたを覆うとき、このイエス様に従うとき、あなたも、あなたの周りも変わっていくのです。

 

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」ヨハネによる福音書15章7-11節

 

キリストの愛とヨハネ15:9

「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。正義と公義を行なうことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。高ぶる目とおごる心―悪者のともしびは罪である。勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。偽りの舌をもって財宝を得る者は、吹き払われる息のようで、死を求める者だ。悪者は自分の暴虐に引きずられる。公義を行なおうとしないからだ。罪人の道はねじれている。しかし、きよい人の行ないはまっすぐだ。争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。」

箴言21章1-9節

 

水がなければ人は生きられない。水分補給の重要性はここ近年特に皆さん実感している事かと思います。この水が栄養素や酸素を届け、二酸化炭素や老廃物を体外に出す、と。なるほど、だから人は水分を取ると潤う感じがするんですね。同じように土地もそうですよね。水、川が流れるところ、土地は潤される。雨、これが作物を育てる。すごいですね。ごくごく当たり前のことを今ここに並べましたけど、もし雨が無かったら…海が創られなかったら。この世界が創られた中には確かに神様の思いが込められてつくられたんですよね。同じように、父なる神様は我が子にその思いを、愛の川を流し、潤し、満たして下さる。神様のその思いが私たちの内に働いて、私たちを養い、満たし、導いて下さるわけです。そこに神様の実を実らせて。神様は何より御子イエス様のいのちをあなたの身代わりにして与えてでもあなたにいのちをもたらそうとされた。この神様の愛が今日もあなたの内に流れている。あなたはどれだけこの神様に信頼しているだろうか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向け、神様が語られた知恵、いのちのことば・箴言で、これを受けたソロモンが書き残し示されたことば、その続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様はご自身の知恵・御心をご自身の内に留めるのではなく、私たちの内に現されるんですよね。何か本とかの中にしか存在しないものではなく、その神様の愛、思いを、私たちの内に溢れ流れさせてくださり、美しく輝かせてくださっている。この神様の思いを受け取らないなんてもったいないですね、本当に。私たちの創り主、父なる神様の愛は今日も私たちに流れている、この愛を蔑んだり疑ったりしないで歩みたいものですね。

 

そんな神様はその知恵・愛を私たちに知らせようと、ソロモン、そして彼を通して私たちに向け、「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。正義と公義を行なうことは、いけにえにまさって主に喜ばれる」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。

 

王、まあこれは上に立つもの、上司とか、責任者とかそういう類いのものも含むと考えていいと思います。家庭でしたら親であったり、それでも同じ。まあいずれにしても、王の心は主の手の中にある、というと納得できない方もいるかもしれません。為政者などやどこを見ても皆さん結構好き勝手にやるでしょ?と。そこに神様の御心が流れているの?と、私もこのことばを読んでいる時にふと疑問に思いました。ただ、その中に神様の手がある、これは希望です。色々こう、人の思いで好き勝手にする人が多い、その中で神様の御手がある、ただ神様がおられる、いるよ、というだけではなく、神様の御手が動かれ、働かれる、その神様の心が彼らが何か色んなことをしようとする中にあって流れていくわけです。そしてこの神様の御心がすべてを良い方向に導くわけですね。水路のように変えられ、動いていく。

 

聖書の中にあってもこれ以上ないくらいの理不尽な、悪王と言われるような人たちも最後は打たれる、勝利される、そんな場面が何度もありました。特にこのソロモンの時代の後、王国が分裂した後、大変なことになる中にあって神様はその中で閉じ込められ希望を失っている人たちを解放、希望をもたらしていきます。時には、みなさんご存じバビロン捕囚、その中で神様はあの残虐非道なネブカデネザルの心を変えるために、その捕囚地にあって神様を信じる宦官を置き、彼らを通して神様の御業を見せ、彼を悔い改めに導いたことがありました。それが結果的に捕囚地にあって民族滅亡の危機から救い出すことになりました。絶望、と思う中にあって神様の御心が、私たちへの思いが注がれ、あなたの事を思っているからね、と口先だけでいうのではなく働かれているのです。

 

世の中色んなことあります。まあ人は不完全ですし、クリスチャンでも、私もそうですが、口ではいいことを言っていても、やっていることは…という人もいるんです。ただ希望があるのは、王の王、この世界、天地万物がつくられる前から存在し続け、今もおられ、これからもい続ける神様が働かれ続けているのです。この神様の愛が、御思いが私たちに、またこの地に注がれ、潤され、満たされる。何という希望でしょう。この神様に勝るものはなく、ただこの方の御心が成る。神様はこの世の王、権力者、自分こそ王だ神だと言って好き勝手に自分が思うままに自分の心のままに行う、誰かに押し付け強制したり、苦しめたりするのではなく、その愛の川で私たちを生かして下さるのです。荒野に道を、砂漠に川を流れさせてくださるのです。まあそれでも神様から離れ好き勝手にやって壊していく人もいますが、しかし私たちはその王と言いますか、上に立つ人のために執り成し祈り、変えられるよう、また彼らの心が神様の心を受け取り、悔い改め正しい公義・正義を行う事を祈ろう。そして神様の完全な愛、御心がここに現わされることを祈ろう。

 

私たちは神様の御心の向き、向かおうとしている方向を見ているでしょうか。期待しているでしょうか。神様の水、川が流れるところに神様の御心がなる、実がなる。その収穫をする日が来る。人が向かおうとしている、導こうとしている方向ばかりを見るのではなく、神様が何をなさろうとしているのか、いや今働かれている神様ご自身を見てみませんか?特に上に立つ人、責任者など、親もそうですが、神様がどんな御心をもっておられるのか、ここに何をすることを求めているのか、その神様の御心を求める中で神様の祝福は確かにあるのです。私たちが正しい、と思って行っている事、それが本当に正しいのか?私たちが確かに何か種を蒔けば収穫は得られるでしょう。良くも悪くも刈り取りをすることになります。しかし神様が蒔いた種なら神様の祝福が、御心が、勝利がそこになり、刈り取らせていただける。また彼らのために神様に祈るなら、その祈りを通しても神様は刈り取らせていただけるのです。いずれにしても、私たちは神様の心、水の流れを見なければいけません。

 

そもそもですよ、神様は私たちを生かそうと、私たちの汚れや汚れ、痛み、思い煩い、何より罪を取り除くべく、私たちの身代わりに御子イエス様にこれらを背負わせ、十字架に架け、こともあろうにこのイエス様を罰し、死なせてでも私たちを救おうとされたんですよ?この神様の愛が私たちに向けられている。こんな王の王、神様は他にいるだろうか?まあ神様はただおひとりなのですが、そこまでしてでも私たちに愛を、正義と公義を成そうとされる神様が、全てに勝利され、勝ち取られた、死をいのちに変えられた方が成されようとする御心がどうしてだめなものである必要があるでしょう。この愛をどうして疑ってなどいられましょう。そこまでされた神様の御心が私たちに注がれ、流れ、私たちを潤し満たし、また導こうとされているんです。この世の支配者、理不尽もすべて最後は打ち砕かれ勝利されるのです。主の力強い川の流れが、水が流れ、全てを洗い流し新しくしてくださる。そこには神様のいのちが溢れるのです。

 

神様はこの私たちが神様に帰ってくることを何より願っておられるのです。このいのちを受け取ってほしい、このかわくことのない泉からくみ取って飲んでほしい、そう言って招かれているのです。この神様の愛の川の流れに生きてほしい、と。神様の働かれている中に。あなたのその心を神様は何よりも求め、また待っておられる。そして心と心の繋がった、愛の交流、いのちの水、愛が流れる関係にあなたを招かれているのです。大切なあなたを、御子イエス様のいのちを身代わりにしてでもあなたを回復させたい、というその神様のご意思によって。この十字架に架けられたイエス様を仰ぎ見る時、私たちは希望を見出すのです。このイエス様の十字架に立ち返る時、私たちは生きるのです。この世の王や支配者、まやかしやいつかは終わるものに追われる、支配される生き方ではない、この王の王、主なる神様の愛の流れの中に生きてほしい、と御子イエス様の命がけの愛が今日も働かれているのです。

 

どの立場にあっても私たちの求めることはこの王の王なる神様の御業。私たちが自分の好き勝手な行いや、これぞ正しい道だと我が道を行く道から離れ、この神様の愛の中に今日帰ろうではありませんか。私たちの神様はこの御子イエス様のいのちを身代わりにしてでもあなたを救わんとその愛をあなたの内に流されている、この神様の他にはいない、この方が今日も働かれ、その御心をあなたの内に注がれ現されている。私たちのひれ伏すべき方は他にはいない。

 

「高ぶる目とおごる心―悪者のともしびは罪である。勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。偽りの舌をもって財宝を得る者は、吹き払われる息のようで、死を求める者だ。悪者は自分の暴虐に引きずられる。公義を行なおうとしないからだ。罪人の道はねじれている。しかし、きよい人の行ないはまっすぐだ。争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい」。長くなったので、また明日詳しく見ますが、私たちは神様の御前に高ぶったりおごるものであってはいけない。それは神様のくださる恵みを欠損、失うだけです。神様は御子イエス様を死なせることを選ぶという最大の欠損をもってしてでもあなたに利益をもたらそうとされた。そこまでの計画をあなたの内に持っておられる、そのことを私たちは忘れてはいけません。勤勉な計画は確かに利益をもたらす、何が利益をもたらす?神様があなたに利益をもたらす。神様に勤勉と言いますか、誠実に生きる、その中に神様のくださる利益、祝福が溢れるのです。神様の勤勉な愛があなたに注がれているのです、今日も。

 

私たちは吹き飛ばされるようなものにすがってはいけない。いやあなたを確かに立たせてくださる神様にすがろう。この方から離れてはいけない。偽りではなく真実な愛を語り、語るだけではなく実行される神様、この方が何にも代えがたい財宝を御子イエス様にあって今日もあなたにもたらそうと、その愛を現され、また働かれている。私たちもこの方に従ってみませんか?この働きに身を見委ねてみませんか?信頼し、従い、一歩前に出てみませんか?後は受け取るだけなんです。開けてみないと分からないじゃないか、どうなるか分からないじゃないか、なんて思う必要はありません。何せ神様はあなたのために御子イエス様のいのちという最大のプレゼントを与えてでもあなたへの愛を現されたのですから。私たちはもう神様に心を捻じ曲げたりするのではなく、真っすぐな思いをもって信頼し、このイエス様にあって真っ直ぐにされた本当のいのちの道を今日もイエス様と共に歩ませていただこうではありませんか。イエス様の愛、いのちが、そこに現された神様のお心が、働きが今日もあなたの上に、あなたの内に溢れ流れているのだから。

 

川の流れのような王の心、神の御心

 

幸せの一つの扉が閉じると、別の扉が開く。しかし私達は、閉ざされた扉をいつまでも見ているために、せっかく開かれた扉の方が目に入らないのです。
ーヘレン・ケラーー

 

私たちは時に挫折することもあります。

しかし、神様はすべてのことを働かせて益として下さるのです。もし神様が閉ざされたなら、もっと良い道へと導かれるはずです。イエス様の命を賭けてまであなたを救う決断をされ、実行されたのだから。そこで開かれた扉の先は何が待っているのか、大いに期待しようではありませんか。

 

開かれた扉と希望への光