私たちは時に造らく、どん底、それこそ海の底のようなところに座り込むことがあります。
暗い暗い…
でも、そこには光が指すんです。イエス様が一緒にいるから希望があるのです。
↓は私の同級生が出した詩集(その方は若くして車椅子生活になり)、今は絶版となっている、とてもすてきなので紹介します。
ー海の底ー
ここは暗くて深い海の底
僕は独りぼっちでヒザをかかえてる
だけど 顔を上げたら
小さく とてもきれいな光が見えた
僕はその光を見たくて
いつもここにいるのかもしれない
「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ。知恵のある王は悪者どもをふるいにかけ、彼らの上で車輪を引き回す。人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。恵みとまこととは王を守る。彼は恵みによって王位をささえる。若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはそのしらが。打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹の底まで打ちたたけ。」
箴言20章24-30節
私たちのいのちは本当に重い。昔某総理大臣が人のいのちは地球よりも重いと言って人質のいのちを救うためにハイジャック犯の要求を受け入れる決断をした、なんてことがありましたが、人のいのちは計り知れないほど重たいんです。なぜならあなたも、あなたの周りの人も、神様によって創られた大切な存在、神様も「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と宣言されるほど。神様のイメージされた、神様に似せてつくられたのですから。そういう意味で私たちはこのいのちをむげに扱ってはいけない。あなたの内に深い愛、深い計画、深い御心、その全てを現そうとしておられる父なる神様に私たちは大いに期待しよう。大切な我が子、あなたを取り戻すためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかったほどの方が、ご自身のイメージ、愛をあなたに現そうと今日もされている。私たちはこの方の御前にへりくだり、この愛に生かされ歩もう。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた知恵・いのちのことば、箴言で、これを受けたソロモンが書き残し示されたことば、その続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちを軽々しい存在としては見ていないんですよね。軽い関係でもない、深い深い親子関係、その中に神様はご自身の愛からくる知恵・御心をもって私たちを幸せにしようとしてくださっている。神様を知らずに愚かな道を進もうとしている、滅びようとしている私たちを見捨てる、蔑むのではなく、ご自身の愛で飾ろうとその愛が惜しみなく注がれている、その神様との深い関係を捨てないで、おいで、と招かれているわけですね。
その神様はソロモンに、また彼を通して私たちに向けてさらに、「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。
これ、クリスチャンであろうとなかろうと結構はまる話なのですが、逆に考えるんです、人は。自分の道は自分で決めるもの。自分で頑張って頑張って頑張りぬく。好きなように生きる。自分のいのちは自部のものだ、好きに生きて何が悪い?と考えて生きたり。まあその自分の正しさを他の人に押し付け、こき下ろしにしたり…自分の価値観で動いてまわりを傷つける、裁く、この辺が怖い所です。その状況って、冷静に考えると相当危険な状況だと思います。自分の好きなように生きる、その考え方が溢れていたら。まあそれは自分自身も結局周りから孤立したりして苦しめる事にもなるのですが、まあいずれにしてもいいことはありません。仕事でも、人間関係でも何においてもそう。
しかし神様はソロモンに向け、そうではないんだ、と教えるわけですね。人の歩みを定める、もっというなら保証するのは神様なんだ、と。私たちは先にも申し上げましたように、自分のことは自分が一番よく知っている、自分の道は自分が一番理解しているんだ、と考えます。でも人は自分だけの道を歩むわけではないです。何より自分のことを知っているつもりで何も分からない。これが正しい道だ、と思って歩んでいても、その道の先に何があるのかも分からないし、自分一人で自分のいのちを支える事さえできないほど弱いものなのです。自分は強い、と思っていながら、実は何も一人ではできない。
ただ、悲観する必要はありません。というよりも、↑のこのことばは、ただ私たちはお前たちは自分のことを何もわかってないダメな者、と厳しく断罪された言葉なのではなく、それ以上にあなたの事をよく知っておられる方がいる、支えておられる方がいるんだよ、とそう訴えているわけです。誰に?神様に、です。この天地万物を創られた神様が、そのはるか昔から存在していた神様がこの世界を最高のものに創られ、そこに私たちを住まわせてくださっている、そこに私たちに必要なすべてのものを生えさせ、また与え、神様ご自身のいのちの川で私たちを、私たちの住まう土地を満たそうとしている。これを取って食べていい、その水を飲んでいいんだ、そう仰られているわけですね。昔あったエデンの園、その根幹に神様がその中心におられ、満たそうとしておられた、死ぬのではなく、生きてほしい、とご自身の供える良い実を私たちに与えてくださっているのです。
神様は、私たちを創られた際、ご自身の似姿に似せてつくられました。神様のイメージを投影してつくられた、と言ってもいいと思います。そしてその出来上がった私たちを見て、非常によい、と仰るわけです。でもつくって終わりではなく、今申し上げましたように、神様の良いものを注ぎ続けて下さっている。ただの人、ではなく神様の霊をさらに吹き込むことで生きたものにしてくださった。罪によってエデンの園から追放された後も神様は見捨てずに私たちを支えてくださった、支えてくださっている、その神様にあって今日私たちは生かされているわけですね。神様のイメージが、御心が私たちに注がれ、支えられている、この神様が私たちの神様としてその道を照らし、守ってくださっている。何と感謝なことでしょう。私たちには理解できないことが多い、様々な問題、戦いがある、その中ですべての主なる神様がおられる、この神様がご自身の御心を現し、勝利、勝ち取ってくださる、そこを神様の素晴らしいものにしてくださる、これこそ私たちの平安、安心の源なのではないだろうか。
イエス様は「わたしこそが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われましたが、神様は私たちが死ではなく、生きる道に歩めるように御子イエス様を遣わして下さった。このイエス様が彷徨い歩く、自分の道を正しいと思い、しかし神様の恵みを失い、世の様々なものに結局支配され苦しめられ、そんな状態にあるわたしたちを、もう一度神様の素晴らしいいのちの内に、その道に、神様の変わることのない真理で満ち溢れたそのいのちの道に招いて下さっている。何と感謝な事。私たちを見捨てるのではなく、捨て置くのでもなく、むしろ御子イエス様のいのちをその十字架に私たちの身代わりにかけられた、その罪も思い煩いも一切身代わりに背負わせ、罰し死なせてでもあなたを救う決断をされた。そうして私たちにいのちの道、救いの道を示されたのです。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎えてくださる、新しいいのちの道を歩ませてくださるのです。この復活のイエス様が共におられ、聖霊様が働かれる、神様がイエス様にあってあなたに備えられたこの道を。私たちはどうしてこの中に働かれるイエス様を蔑んだり否定したり、それは間違っている、自分の道の方が正しいんだ、とその道から逸れたりできるだろう。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と神様は、ソロモンよりのちの時代、神様から離れていった民、捕囚されていく民に向け、それでもこのように語られました。神様はそれほどにあなたを愛しておられる、その神様の尊い道、愛が注がれいてる道を軽々しく見てはいけません、軽視してはなりません。「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ」と↑で語られていますが、私たちは神様を信じると言いながらその御言葉や、その示された道を軽視して、自分の考えと違うと言って否定したりしますが、しかしあなたのために愛を注がれた、あなたのために御子イエス様のいのちを身代わりに与えてくださった神様の重い思い、愛を軽々しく考えてはいけない、否定してはいけない。むしろ最も聖なるいけにえとして御子イエス様を支えてくださった神様のなさることを否定して、サタンや罪、世の思い煩いという罠にかかって、この最高のいのち、道を失うなんてもったいなすぎるではありませんか。
「知恵のある王は悪者どもをふるいにかけ、彼らの上で車輪を引き回す。人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。恵みとまこととは王を守る。彼は恵みによって王位をささえる」。この世に正しい王などいない。私たちも自分が正しい王であるかのように、神であるかのようにふるまいますが、しかしすべてを治めてくださっている神様に委ねましょう。この神様がふるいにかけ、道を整えてくださる、この神様がその息、霊を吹きかけそこに命をもたらされることを私たちは期待しよう。神様が私たちを我が子と呼び、その恵みを私たちに与えてくださっているんですよ?その王位と言いますか、その恵みを私たちにもイエス様にあって今日も注がれているのです。こんな素晴らしい話はないじゃないですか。
自分が王だと言って、自分が神だと言って、自分の道が正しいとする。でもそこに神様の正しさ、御心は現されない。しかしあなたのためにいのちをかけられる、あなたに最高のイメージ、御心を現される神様の道から離れて何になるでしょう。
「若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはそのしらが。打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹の底まで打ちたたけ」。これは男性でも女性でも同じですが、神様は若い時も、年をとっても、その御力であなたを支え守られる。白髪になっても神様の素晴らしさであなたを飾られ、満たされ、守られる。私たちを神様の喜びでいっぱいにしてくださるのです。御子イエス様のいのちによって私たちを支え、その割かれた身体で私たちを癒し、また流された血潮によって私たちの汚れを洗い落とし、新しくしてくださる。その愛で覆ってくださる。私たちの身代わりに打たれたイエス様、そのイエス様によって新しくされたこのいのち、私たちは神様に委ねてみませんか?この道を委ねてみませんか?この神様がとこしえにあなたを今日も支えてくださっているんです。何も恐れることはありません。
今日私たちはイエス様のいのちという何よりも重い神様の思い、愛によって神様と結ばれた。それは軽々しいものではない。軽々しく私たちを見ず、考えず、今日もその重い思いを、愛を注がれ導かれているこの神様を軽く見ず、しっかりと受け止め、悔い改める、心の方向転換をし、神様の道に、神様に帰ろう。神様は喜んであなたを今日も迎え入れてくださるから。
「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます」。これはダビデ王の告白的詩ですが、この完全なる神様の道を私たちも完全な愛なる神様に信頼し、どこまでも歩もう。主があなたを今日も支え、誰よりも大きな神様の愛があなたの行く道を大きくされるから。
私たちは自分を無碍に見なくていいんです。
あなたは偶然存在しているわけではなく、ものでもないのですから。
あなたは神様によって大切に作られた、高価で尊い存在。あなたは神様に愛されています。
御子イエス様のいのちを差し出してまで救われる神様が、あなたのうちに御心を成し遂げてくださります。あなたを整えてくださるのです、私達が思う以上に。
この神様に信頼し、委ね、歩みましょう。
新島襄氏は言う。
「相談して計画を整え、すぐれた指揮のもとに戦いを交えよ。歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。くちびるを開く者とは交わるな。自分の父や母をのろう者、そのともしびは、やみが近づくと消える。初めに急に得た相続財産は、終わりには祝福されない。『悪に報いてやろう』と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる。異なる二種類のおもりは主に忌みきらわれる。欺きのはかりはよくない。」
箴言20章18-23節
何の計画もなしに物事を進めていく、これはなかなか勇気があるのと同時に無謀ともいえること。行き当たりばったりでは何か不測の事態が起こった時に対応できない。そしてこれは人にもよりますが、それがいらつきに発展し、物にあたり、人にあたり…でも会社でもそうでしょうけど、企画立案、予算、そうしたものをしっかりと考えないで何かをやろうとしても、それは正直な話中身がない、ないしそれに対する思い入れがないのではないか、と思う。あればあるほどより良いものにしようとするでしょう。時間がもったいない?とんでもない、それこそ打ち上げ花火のようにあれこれ言って、思いついたことを勧めても一瞬で砕け散り、終わる、続かない。ただ、人間関係もそうですけど、相手あってのものですよね。そういう意味ではなおのことよく考える必要がありますね。私たちの人生はそもそも行き当たりばったりのようなものではない、神様の綿密な計画の中で養われ、導かれている、そのこともどうか忘れないでください。あなたを救うためなら、御子イエス様のいのちを惜しまず与えられた。そこまでされた神様のあなたへの思い、計画、御心が今日もあなたを支え、また導いて下さっている。子の導き手なる神様にあなたは今日、どれだけ信頼していますか?
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた知恵・いのちのことばといいますか箴言で、これをソロモンが受け私たちに書き残し示されたことば、その続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちが神様から好き勝手に離れて生きるから、もういいよ、勝手にしなよと見捨てるのでもなく、むしろ生きてほしい、生きたものとなってほしいと、ご自身の良い知恵・御心を現してくださる、良いものを与え、注ぎ続けて下さる。それが私たちの内に泉となって満ち溢れさせてくださる、今日もこの神様の知恵が輝いている。この知恵、神様の愛を侮るのではなくへりくだり、受け取り、生きるものでありたいですね。初めなる神様はその愛をせき止めることなく今日も流しておられるから。
その神様はさらにソロモンに、また彼を通して私たちに向け、「相談して計画を整え、すぐれた指揮のもとに戦いを交えよ」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。世の中ワンマン社長的な人もいますが、本当に優れた人は良く周りの話を聞いたり、見ています。もしくはよい相談相手がいるものです。それはそうですよね。その人がどれだけ専門知識を持っていたとしても、全てを知っているわけではない、人も千差万別、自分のやり方だけでどこででも通じるなんてあり得ない。人間関係も同じでも自分はこういう人間だから、と言って相手にその価値観を押し付けても通じない。相手にとってそれが正しいとは限らないからです。自分の考えが正しい、だからあなたは間違っている、と自分の考えを押し付け、もし間違っていたら?ここでなかなか言った本人は間違っていた時、その間違いを認めない無責任な方が多い、クリスチャンや牧師さんでもそれがいるから余計に厄介な話なのですが。~と聖霊様に言われた(気がする)から言ったんだ、とか言い訳をつけてね。
今書いたことは当たり前のことと言えば当たり前のことで、そんなことは言われなくてもわかっているよ、とたぶん誰しもが思う。けど思っている以上に人は分かっていない、できないんですよね。自分がこうしたいということと違うことはなかなか受け入れないと言いますか、言われるとカチンと気安いのが人と言いますか。いずれにしてもよく考え、何を語るべきか、何を、いつ、どのようにするのか、何か問題はないか、などをしっかりと考え、計画を立て勧めていく、これはどの世界でも大事なことだと思います。
ある人は作戦を立てて慎重になるのは良くない、不信仰だ、思いついたままに、導かれたままにすればいい、という人もいるのですが、これはちょっと違うんです。人の建てた計画はどこかで限界を迎えます。それはそうですよね、人自身に限界があるわけですから。しかし、もし神様の計画を願うなら、神様の御心がそこに現され、勝ち取らせていただける、あなたのものになるというよりも、そこが神様の素晴らしさの溢れる場所となるのです。
イエス様はどう仰られているのか。イエス様は作戦を立てたり考えることを不信仰と言われているのか?いえ、そうではありません。イエス様はイエス様についてきている人たちに向け、ある時「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」と仰られました。
イエス様は何かをするときに、自分の内に十分な資金などしっかり計算、準備をしないですることがあるだろうか、と言います。それはそうですよね。途中までどんなに計画した通りに言っても、完成しなければ何の意味もない。戦いの霊と合わせるなら、自分たちの戦力、どんな人がいて、どんな能力があるのか、などいろいろ考えるわけでしょう?もしくは相手の人はどんなことに困っていて、どんな助けが必要なのか、とか。
ただ、ここでイエス様は不思議なことを仰られます。「自分の財産全部を捨てないでは、わたし(イエス様)の弟子になることはできません」、と。え?費用の話、作戦の話をしているのに何で?と思うかもしれません。しかし、そもそも私たちには自分の人生を自分の能力や資金、仲間などだけで建て上げるには限界がある、完成などできないのです。いや、建て上げていても嵐などが来ればそれは倒れてしまう。自分たちには優れた資金も軍勢も持っている、恐れるものはない、と思っていても、それよりもさらに優れた軍勢が押し寄せればどうにもならない。それらに頼っているうちはどうにもならない。
でも、私たちに財産、といいますか私たちを一度捨て神様に委ねる、神様の御心の中に身を置く、神様により頼む中で、イエス様の弟子としての恵みと言いますか、その神様のご計画を受け取るものとなるのです。イエス様の素晴らしさが私たちの日々の歩みの中に現される、その計画が成し遂げられる、そこには神様の愛が、いのちが、御力が、その全てが現わされるわけです。計算と言いますか、私たちの内に働かれているイエス様がどれだけ素晴らしい方なのかをよく考え、そして今自分が何を言うべきか、何をすべきなのか祈り動く、その中にイエス様の素晴らしい御業が働かれる、現されるわけです。↑の箴言のことばを借りるなら、イエス様という優れた指揮官が、イエス様が私たちのいのちを、日々をその御心で、素晴らしさでいっぱいにして建て上げてくださるのです。
↑で「歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。くちびるを開く者とは交わるな。自分の父や母をのろう者、そのともしびは、やみが近づくと消える」とありますが、私たちはなかなかうまくいかず、また気にくわないから、と中傷したり、秘密を漏らして傷つけようとしたりする。でもそんなに人は完璧?あなたの知恵でその人をどうにかしようとしてどうにかなる?いえ、むしろイエス様と唇を開き会話し、消える灯火のような命から、イエス様のいのちに照らされるなら、そこはもっと素晴らしい場所になるのではないでしょうか。全ての主なる方は私たちに命を得てほしい、その知恵を、愛を聞いてほしい、受け取ってほしい、と語りかけられる、働かれているのです。せっかく優れた方、主なる神様があなたの内に良い計画を成し遂げようとしているのに、それを拒否してどうなりましょう。自分の計画をたて上げようとする、それは人の自由と言えば自由、でもその先に何が待っているというのでしょう。私たちの父なる神様を呪った先に、主なる神様を呪った先に、否定した先に何があるというのでしょう。この世界を創られ、守られ、私たちを養い続けておられる方を呪って。
むしろ私たちを世の悲しみや痛み、思い煩い、何より罪の呪いから引き戻す、それらがあなたのいのちを、日々をたて上げようとしている、その手から取り戻すため、御子イエス様を近づかせてくださったことをもう一度思い返そう。こんな人を中傷したり、愛さない、神様を神様とせずに好き勝手に歩む私たちを、その交わりから締め出されてもおかしくない中で、もう一度私たちをご自身の手に、私たちを愛してくださる神様の御もとに引き戻すためにイエス様を近づかせてくださったことを。そして神様は、これらから解放すべく、私たちのこれらの痛みも何もかも、罪も一切身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返るなら、全ての罪は赦され、神様の子として迎え入れられる。このイエス様のいのちにあって神様と和解させていただける。その中に働かれる神様の御心、ご計画はいかばかりか。御子イエス様のいのち、何の罪もないイエス様のいのちをもってまで取り戻されたあなたへの神様の測り知れない愛はいかばかりか。それに限界はない。
「初めに急に得た相続財産は、終わりには祝福されない。『悪に報いてやろう』と言ってはならない。主を待ち望め。主があなたを救われる」。時に目の前に大素晴らしいものが、と思える何かを見つける、得ることがあるかもしれません。しかし、それは終わりには祝福されない、と言いますか、いつかは潰えてしまう。しかし私たちはこのイエス様の財産で、いのちで、ご計画で、素晴らしさで溢れることを祈ろう、待ち望もう。あなたをイエス様のいのちにあって救われた神様の愛があなたの内に、あなたの周りに、あなたの遣わされているところ、置かれている所に溢れることを祈ろう。そこには悪ではない、誰かのたくらみでもない、正義、救い主なるイエス様にある報いが待っているのだから。「異なる二種類のおもりは主に忌みきらわれる。欺きのはかりはよくない」とある通り、もちろん人によって態度を変えるのはダメですが、どんな欺きのたくらみも、忌み嫌われる神様は、本物の神様の重り、愛にあってあなたに良いいのちを今日ももたらして下さるから。
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。…主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない」。私たちはイエス様によってもたらされるいのちの、愛の計画、これを待ち望もう。災いではなくいのちに至らせて満ち足らせてくださる神様の御手が今日もあなたを支え、守られ、命を得させてくださる、満ち溢れさせてくださるから。「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」
羊飼いはという職業は、24時間羊を守らなければなりません。羊は目があまりよくないため、羊飼いなしには生きられない。命をかけて羊飼いは羊を守る、そのからだを張って…
イエス様は、生まれつき目の見えない男性を癒された後、「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。しかし、門から入るのは羊たちの牧者です」と仰られました。
イエス様が良い牧者として私たち羊を守る、その思いが語られていくわけです…
羊泥棒が羊のいのちを、最高の日々を奪い去ることがないよう。
あなたのいのちをその十字架で身代わりになってでも守られたイエス様。このイエス様が何を語られたのか...
という事で今日は日曜日ですので、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただきます。よければ聴いてくださいm(__)m
ヨハネによる福音書10章1-5節
「羊泥棒」
愛ってなんでしょうね。
優しくすること?何でも受け入れること?ありのまま?
マックス・ルケード氏の「みことばの宝石」という本にこのようにあります。
神は丘を見渡された。神の目にはすでに、このあとに続く場面が映っていた。三本の十字架につけられた三つの人影。両腕を広げ、頭を垂れている。うめき声が風の音に混ざって聞こえる。十字架のそばには、兵士の服に身を包んだ男たちが地面に座っている。丘のふもとには、悲しみに包まれた女たちが身を寄せ合っている。涙で頬を濡らしながら……。
天のすべてが戦わんとして立ち上がる。自然のすべてが救わんとして奮い立つ。すべての永遠なるものが、守らんとして体制を整える。それでも神は、なんの命令も下そうとはなさらなかった。
「これは、なされなければならないことなのだ」とおっしゃって退かれる。
御使いが再び、口を開いた。「では、せめて痛みを少なくするだけでも。」
創造主は、柔らかにそれをさえぎって言われた。
「だが、それでは愛ではなくなってしまう」
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネの福音書3章16節)
惜しむことのない愛が今日も明日もあなたを導かれます。
私達はこの方が命がけで差し伸ばされた御手を取り、取らせていただき、共に歩ませていただこうではありませんか。そこに惜しむことのない愛が溢れ流れるから。
「パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、『気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている』と言った。するとパウロは次のように言った。『フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。』するとアグリッパはパウロに、『あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている』と言った。パウロはこう答えた。『ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。』ここで王と総督とベルニケ、および同席の人々が立ち上がった。彼らは退場してから、互いに話し合って言った。『あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない。』またアグリッパはフェストに、『この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに』と言った。」
使徒の働き26章24-32節
希望。それはまだ起こっていないけど、そうあったらいいな、と思って抱きます。それがある意味ではこう、自分を支える何かになっているのか。でも、どうか忘れないでほしいのは、あなたには確かな希望がある、という事です。希望を与えると言いますか、あなたを支え守られ、導かれる方が、あなたの前を、あなたの背後を、あなたの傍に立たれる神様が支えられているという事を。神様はあなたに幸せになってほしい、と願い、人の目には小さなものに見えたかもしれない、しかし確かにこれ以上ない大きな愛を御子イエス様にあって現わされた、そのいのちを身代わりにしてでもあなたを救い出され、世の暗闇からご自身の光の内に招いて下さった。この方が今日あなたを支えている。どうか今日、希望を持ってください。命をかけて愛されたこの方が今日もあなたから離れず、見捨てず、共におられるから。
さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、私たちの抱える思い煩い、いかんともしがたい痛み、何よりこの重くのしかかる罪の一切を私たちの身代わりに背負われ、十字架上で罰せられ、死なれ3日目によみがえられたことによって救いを与えてくださったその後、イエス様が約束された通りに新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生した後しばらくしての出来事です。このイエス様の愛を留めることなく、すべての人に受け取ってほしいと届けるべく、聖霊様がパウロを含む多くの人を遣わしていきます。
そのパウロですが、旅の途中で様々な苦難困難がありながら、確かにその中にあって、苦難困難、暗闇が広がる時代の中にあっても神様が働かれ素晴らしい御業、救いを現されていた、その希望を見ながらパウロはエルサレムに戻ってきたのですが、パウロを殺そうとする者たちが出てきました。明らかな不当な訴え、2年間の監禁などがありましたが、それでもパウロは聖霊様の助けのもと守られてました。そしてローマの総督がフェストに交代になり、裁判が再開され、彼のもと、アグリッパ2世が話を聞こう、と申し出、パウロは彼らの前に呼び出され、パウロは弁明をしていきました。
彼は自分が無罪であることを語るのと同時に、アグリッパ2世を恐れることなくキリストこそ救い主なんだ、とここまで訴えてきました。アグリッパ2世の先祖に、あのイエス様の誕生時、自分の地位が失われることを恐れて2歳以下の子供を虐殺したものがいた、その子は自分の罪を指摘され腹を立てた妻の策略もあり、救い主について語るバプテスマのヨハネを殺害した、また彼の父は自分が神のようにあがめられたい、と自己顕示欲を民に示すために使徒ヤコブを殺害した。そんな危険な一族の前に立ってもパウロは恐れることはなかった。いや、自分の仲間、使徒ヤコブを殺害した(まあパウロ自身もイエス様を迫害し、その弟子たちを当初迫害していましたが)、そんな彼を赦せない、とイエス様の救い、福音を語るのをやめるのではなく、むしろ↑、「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」と訴えるのです。
パウロ自身、本来イエス様の罪の赦し、恵みを受けるなど値しないはずのものだった。神の御子イエス様を迫害、自分のために十字架に架かり死んでくださった、そんなイエス様を迫害したものをイエス様が悔い改めに導き、罪を赦して下さった。この救い、愛は決して小さなものではない、このこれ以上大きな愛はないその愛があなたにも示されているんだ、そう訴えるのです。そんな王に罪を語ったらどうなるか分かったものではない、でもパウロにとって、と言いますか、彼の口を通して語られる聖霊様の招きは、そんな救いに、愛に与るに値しないアグリッパ2世、フェスト、他人事のように聞いている人たち、自分は関係ない、正しい人間だ、そう考え、罪を語るものを非難する、そんな私たちに、神様はイエス様を通して無関係とされるはずの私たちを関係あるもの、神様の子として招いて下さっているのです。
私たちは神様を小さく見る、信じて何になる?むしろ自分の思う通りにしてくれない神など神ではない、とまで言い放つ、そのように歩む私たちを神様は見捨ててなどいなかったのです。パウロを通して迫害者たちに語られた愛、傍観者に語られた愛、それは今も私たちに語られているのです。さっさと彼らを見捨ててこれまで回った教会を励まして回ればいいじゃないか、と人なら考えるところ、しかし神様はそんな希望を失っている私たち、神様を知らずに、暗闇の中にいることに気づかず、いのちを失っていくそんな私たちを見捨てられず、語った、今も私たちに働かれ、語られているのです。
むしろ神様は私たちを見捨てる道を選ばず御子イエス様を人として生まれさせてくださり、私たちの最も近しい所に降りてこられ、共に住まわれたのです。そして惜しむことのない愛を与えた。イエス様に奇跡ばかり求めて、自分の都合に合わなければ離れていく、裏切っていく、そんな姿を見てもイエス様は私たちを見捨てて天に帰ることなく、最後まで私たちを愛し抜かれ、その見に私たちの思い煩いも、痛みも、罪も、一切身代わりに背負われ、十字架に架かられ、罰せられ、死なれたのです。↑でパウロのことばを聞いた総督フェストが「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている」と言っているように、ある意味では気がくるっているように見た人たちもいた、私たちも神様を信じるなんて気がくるっていると思う、そんなの常識ではありえない、と思うことだってあるでしょう。それでも学ではない、本物の愛を、ことばや知識、学問と言った表面的な物ではなく、いのちをもって証明された、現されたのです。どんなに罵られても、愛をやめなかった。
いいじゃないですか、イエス様を信じることに気が狂うほどに喜び歩んだって。周りが何といおうと、ここにイエス様の愛が、いのちがここに溢れているなんて最高じゃないですか。世の常識にすがって生きるよりも、このイエス様の命がけの愛、これに生きよう。これに勝る愛がどこにあるだろう、救いは、希望は他にどこにあると言えるのでしょう。これ以上に誰にすがって生きたらいいのでしょうか。いや、他にはありません。アグリッパ2世はパウロに「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言いますが、受け取るか受け取らないかは最後は私たちの決断。
このパウロを見て聞いていた人たちは「あの人は、死や投獄に相当することは何もしていない」と言い、アグリッパはフェストに、「この人は、もしカイザルに上訴しなかったら、釈放されたであろうに」と言いました。しかしイエス様はいのちをかけて自分を身代わりにされ、私たちを罪の奴隷から釈放するため、父なる神様に上訴と言いますか、懇願されたのです。わたしが身代わりになりますから、父よ、彼らをお赦しください、と。私たちはもういつまでもこの罪の中、暗闇の中に留まっていてはいけません。私たちはイエス様こそ私の救い主です、と告白し、この愛を受け取ろう。釈放・罪の赦しを得、これらの束縛から自由の身としていただこう。そしてこの神様の素晴らしい愛が今日も覆う、この希望の内を歩もうではありませんか。これは小さな事、わずかな事ではない、確かにあなたに現された神様の最大の愛、これがあなたを今日も覆っているから。
私たちはこころが休まったり、安全な場所を求めます。
それはそうですよね。
でもその安全な場所は、心の憩いはどこで得られるのでしょう。
A.W.トゥーザー氏はこう言います。
「羊にとって安全な場所はただ一つ、羊飼いのそばだけだ。
悪魔は羊を恐れることはなく、ただ羊飼いだけを恐れるからだ。」イエス様は私たちを羊、ご自身を羊飼いと例えられました。
そして羊のためにいのちを捨てる、そこまでしてでも守られると。
イエス様はご自身の命をかけて守られます。
あなたを養い、励まし、力づけ、立ち上がらせてくださります。
また生命の泉のほとりに導き、私たちを生かされるのです。
それだけではなく世の終わりまであなたを羊飼いとして導かれるのです。
このイエス様に何ものも打ち勝つことは出来ません。
私たちは弱くていい。このイエス様から目を離さず、歩もうではありませんか。