でもそれでは愛ではなくなってしまう | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

愛ってなんでしょうね。

優しくすること?何でも受け入れること?ありのまま?

 

マックス・ルケード氏の「みことばの宝石」という本にこのようにあります。

 

神は丘を見渡された。神の目にはすでに、このあとに続く場面が映っていた。三本の十字架につけられた三つの人影。両腕を広げ、頭を垂れている。うめき声が風の音に混ざって聞こえる。十字架のそばには、兵士の服に身を包んだ男たちが地面に座っている。丘のふもとには、悲しみに包まれた女たちが身を寄せ合っている。涙で頬を濡らしながら……。

 

天のすべてが戦わんとして立ち上がる。自然のすべてが救わんとして奮い立つ。すべての永遠なるものが、守らんとして体制を整える。それでも神は、なんの命令も下そうとはなさらなかった。

 

「これは、なされなければならないことなのだ」とおっしゃって退かれる。

 

御使いが再び、口を開いた。「では、せめて痛みを少なくするだけでも。」

 

創造主は、柔らかにそれをさえぎって言われた。

「だが、それでは愛ではなくなってしまう」

 

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

(ヨハネの福音書3章16節)

 

惜しむことのない愛が今日も明日もあなたを導かれます。

私達はこの方が命がけで差し伸ばされた御手を取り、取らせていただき、共に歩ませていただこうではありませんか。そこに惜しむことのない愛が溢れ流れるから。

 

十字架上のキリストと「 greater love」の言葉