「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ。知恵のある王は悪者どもをふるいにかけ、彼らの上で車輪を引き回す。人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。恵みとまこととは王を守る。彼は恵みによって王位をささえる。若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはそのしらが。打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹の底まで打ちたたけ。」
箴言20章24-30節
私たちのいのちは本当に重い。昔某総理大臣が人のいのちは地球よりも重いと言って人質のいのちを救うためにハイジャック犯の要求を受け入れる決断をした、なんてことがありましたが、人のいのちは計り知れないほど重たいんです。なぜならあなたも、あなたの周りの人も、神様によって創られた大切な存在、神様も「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と宣言されるほど。神様のイメージされた、神様に似せてつくられたのですから。そういう意味で私たちはこのいのちをむげに扱ってはいけない。あなたの内に深い愛、深い計画、深い御心、その全てを現そうとしておられる父なる神様に私たちは大いに期待しよう。大切な我が子、あなたを取り戻すためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまなかったほどの方が、ご自身のイメージ、愛をあなたに現そうと今日もされている。私たちはこの方の御前にへりくだり、この愛に生かされ歩もう。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られた知恵・いのちのことば、箴言で、これを受けたソロモンが書き残し示されたことば、その続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は私たちを軽々しい存在としては見ていないんですよね。軽い関係でもない、深い深い親子関係、その中に神様はご自身の愛からくる知恵・御心をもって私たちを幸せにしようとしてくださっている。神様を知らずに愚かな道を進もうとしている、滅びようとしている私たちを見捨てる、蔑むのではなく、ご自身の愛で飾ろうとその愛が惜しみなく注がれている、その神様との深い関係を捨てないで、おいで、と招かれているわけですね。
その神様はソロモンに、また彼を通して私たちに向けてさらに、「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。
これ、クリスチャンであろうとなかろうと結構はまる話なのですが、逆に考えるんです、人は。自分の道は自分で決めるもの。自分で頑張って頑張って頑張りぬく。好きなように生きる。自分のいのちは自部のものだ、好きに生きて何が悪い?と考えて生きたり。まあその自分の正しさを他の人に押し付け、こき下ろしにしたり…自分の価値観で動いてまわりを傷つける、裁く、この辺が怖い所です。その状況って、冷静に考えると相当危険な状況だと思います。自分の好きなように生きる、その考え方が溢れていたら。まあそれは自分自身も結局周りから孤立したりして苦しめる事にもなるのですが、まあいずれにしてもいいことはありません。仕事でも、人間関係でも何においてもそう。
しかし神様はソロモンに向け、そうではないんだ、と教えるわけですね。人の歩みを定める、もっというなら保証するのは神様なんだ、と。私たちは先にも申し上げましたように、自分のことは自分が一番よく知っている、自分の道は自分が一番理解しているんだ、と考えます。でも人は自分だけの道を歩むわけではないです。何より自分のことを知っているつもりで何も分からない。これが正しい道だ、と思って歩んでいても、その道の先に何があるのかも分からないし、自分一人で自分のいのちを支える事さえできないほど弱いものなのです。自分は強い、と思っていながら、実は何も一人ではできない。
ただ、悲観する必要はありません。というよりも、↑のこのことばは、ただ私たちはお前たちは自分のことを何もわかってないダメな者、と厳しく断罪された言葉なのではなく、それ以上にあなたの事をよく知っておられる方がいる、支えておられる方がいるんだよ、とそう訴えているわけです。誰に?神様に、です。この天地万物を創られた神様が、そのはるか昔から存在していた神様がこの世界を最高のものに創られ、そこに私たちを住まわせてくださっている、そこに私たちに必要なすべてのものを生えさせ、また与え、神様ご自身のいのちの川で私たちを、私たちの住まう土地を満たそうとしている。これを取って食べていい、その水を飲んでいいんだ、そう仰られているわけですね。昔あったエデンの園、その根幹に神様がその中心におられ、満たそうとしておられた、死ぬのではなく、生きてほしい、とご自身の供える良い実を私たちに与えてくださっているのです。
神様は、私たちを創られた際、ご自身の似姿に似せてつくられました。神様のイメージを投影してつくられた、と言ってもいいと思います。そしてその出来上がった私たちを見て、非常によい、と仰るわけです。でもつくって終わりではなく、今申し上げましたように、神様の良いものを注ぎ続けて下さっている。ただの人、ではなく神様の霊をさらに吹き込むことで生きたものにしてくださった。罪によってエデンの園から追放された後も神様は見捨てずに私たちを支えてくださった、支えてくださっている、その神様にあって今日私たちは生かされているわけですね。神様のイメージが、御心が私たちに注がれ、支えられている、この神様が私たちの神様としてその道を照らし、守ってくださっている。何と感謝なことでしょう。私たちには理解できないことが多い、様々な問題、戦いがある、その中ですべての主なる神様がおられる、この神様がご自身の御心を現し、勝利、勝ち取ってくださる、そこを神様の素晴らしいものにしてくださる、これこそ私たちの平安、安心の源なのではないだろうか。
イエス様は「わたしこそが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われましたが、神様は私たちが死ではなく、生きる道に歩めるように御子イエス様を遣わして下さった。このイエス様が彷徨い歩く、自分の道を正しいと思い、しかし神様の恵みを失い、世の様々なものに結局支配され苦しめられ、そんな状態にあるわたしたちを、もう一度神様の素晴らしいいのちの内に、その道に、神様の変わることのない真理で満ち溢れたそのいのちの道に招いて下さっている。何と感謝な事。私たちを見捨てるのではなく、捨て置くのでもなく、むしろ御子イエス様のいのちをその十字架に私たちの身代わりにかけられた、その罪も思い煩いも一切身代わりに背負わせ、罰し死なせてでもあなたを救う決断をされた。そうして私たちにいのちの道、救いの道を示されたのです。このイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子として迎えてくださる、新しいいのちの道を歩ませてくださるのです。この復活のイエス様が共におられ、聖霊様が働かれる、神様がイエス様にあってあなたに備えられたこの道を。私たちはどうしてこの中に働かれるイエス様を蔑んだり否定したり、それは間違っている、自分の道の方が正しいんだ、とその道から逸れたりできるだろう。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と神様は、ソロモンよりのちの時代、神様から離れていった民、捕囚されていく民に向け、それでもこのように語られました。神様はそれほどにあなたを愛しておられる、その神様の尊い道、愛が注がれいてる道を軽々しく見てはいけません、軽視してはなりません。「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかっている人だ」と↑で語られていますが、私たちは神様を信じると言いながらその御言葉や、その示された道を軽視して、自分の考えと違うと言って否定したりしますが、しかしあなたのために愛を注がれた、あなたのために御子イエス様のいのちを身代わりに与えてくださった神様の重い思い、愛を軽々しく考えてはいけない、否定してはいけない。むしろ最も聖なるいけにえとして御子イエス様を支えてくださった神様のなさることを否定して、サタンや罪、世の思い煩いという罠にかかって、この最高のいのち、道を失うなんてもったいなすぎるではありませんか。
「知恵のある王は悪者どもをふるいにかけ、彼らの上で車輪を引き回す。人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。恵みとまこととは王を守る。彼は恵みによって王位をささえる」。この世に正しい王などいない。私たちも自分が正しい王であるかのように、神であるかのようにふるまいますが、しかしすべてを治めてくださっている神様に委ねましょう。この神様がふるいにかけ、道を整えてくださる、この神様がその息、霊を吹きかけそこに命をもたらされることを私たちは期待しよう。神様が私たちを我が子と呼び、その恵みを私たちに与えてくださっているんですよ?その王位と言いますか、その恵みを私たちにもイエス様にあって今日も注がれているのです。こんな素晴らしい話はないじゃないですか。
自分が王だと言って、自分が神だと言って、自分の道が正しいとする。でもそこに神様の正しさ、御心は現されない。しかしあなたのためにいのちをかけられる、あなたに最高のイメージ、御心を現される神様の道から離れて何になるでしょう。
「若い男の光栄は彼らの力。年寄りの飾りはそのしらが。打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹の底まで打ちたたけ」。これは男性でも女性でも同じですが、神様は若い時も、年をとっても、その御力であなたを支え守られる。白髪になっても神様の素晴らしさであなたを飾られ、満たされ、守られる。私たちを神様の喜びでいっぱいにしてくださるのです。御子イエス様のいのちによって私たちを支え、その割かれた身体で私たちを癒し、また流された血潮によって私たちの汚れを洗い落とし、新しくしてくださる。その愛で覆ってくださる。私たちの身代わりに打たれたイエス様、そのイエス様によって新しくされたこのいのち、私たちは神様に委ねてみませんか?この道を委ねてみませんか?この神様がとこしえにあなたを今日も支えてくださっているんです。何も恐れることはありません。
今日私たちはイエス様のいのちという何よりも重い神様の思い、愛によって神様と結ばれた。それは軽々しいものではない。軽々しく私たちを見ず、考えず、今日もその重い思いを、愛を注がれ導かれているこの神様を軽く見ず、しっかりと受け止め、悔い改める、心の方向転換をし、神様の道に、神様に帰ろう。神様は喜んであなたを今日も迎え入れてくださるから。
「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます」。これはダビデ王の告白的詩ですが、この完全なる神様の道を私たちも完全な愛なる神様に信頼し、どこまでも歩もう。主があなたを今日も支え、誰よりも大きな神様の愛があなたの行く道を大きくされるから。
