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とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

 

私は、今日の24時間をありがたく思うことでしょう。時間は貴重なものです。私はこれらの時間を、自己憐憫、心配、退屈などで汚染させず、この日を子どものように喜び、巨人のように勇気をもって過ごすことでしょう。
ーマックス・ルケードー

 

私たちは何にも代えがたいものを持って愛される何にも代えがたい神様にあって生かされています。これがどれだけ心強いことか、想像もつきませんね。

何かを成し遂げる勇気を持つのは時に大変ですが、神様が一緒に戦われ、成し遂げてくださるのです。あなたのためにいのちさえ惜しまない神様が。

あなたは今日残りの時間、いや明日、明後日、とどう過ごしますか?

 

神の信者は御業を見、喜ぶ

「眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。目を開け。そうすればパンに飽き足りる。買う者は『悪い、悪い』と言うが、買ってしまえば、それを自慢する。金があり、多くの真珠があっても、知識のくちびるが宝の器。他国人の保証人となるときは、その者の着物を取れ。見知らぬ女のためにも、着物を抵当に取れ。だまし取ったパンはうまい。しかし、後にはその口はじゃりでいっぱいになる。」

箴言20章13-17節

 

睡眠は私たちが生きる上ではとても大切ですね。まあ現在睡眠障害など色んな問題があるから一概にこう、と確定させて言うことは難しいのですが、しかし私たちは寝て休むように神様は造られたんですよね。寝ないで生きるのではなく。その寝ている間に私たちは身体を休め、その間に神様は私たちの体を守りながら、回復させてくださります。寝ている間私たちは何もできない、それなのに翌朝には元気になっている。それはその間に神様が体を休ませてくださっている、働かれているんですよね。この辺の詳しいことは本論で見ていきますが、私たちは神様のそうしたサイクルの中で生かされている。神様が働かれている、その中に生かされている。この事を私たちは忘れてはいけませんね。愛するわが子、私たちのために父なる神様は今日もその御手の中守られ、養われている。何より私たちをご自身のもとに招き入れるため、その家族として回復させるため、御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてまで私たちを救われ、この愛の関係の中に招かれたのです。私たちはこの神様の愛の中、生きよう。確かに私たちの内に働かれている神様の御手に全てを委ねたいものです。イエス様が今日もあなたを休ませてくださり、また平安、そして新しい日々へと導いて下さるから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王であったソロモンに向けて神様が語られた知恵の、いのちのことば・箴言で、これをソロモンが受けて書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、私たちにはすべての源なる、すべての初めなる神様の知恵・愛からくる御心の中に生かされているんですよね。私たちを創られた父なる神様としてその御手を伸ばしながら、私たちを整え、良いもので満たして下さる。私たちの避けどころ、休むところとなってくださっている、その関係に招いて下さっているなんてなんと幸いな事。

 

そんな神様はさらにソロモンに、また彼を通して私たちに向け、「眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。目を開け。そうすればパンに飽き足りる」と語られ、ソロモンもこのことばを受け、書き残します。

 

睡眠は絶対的に必要です。眠りを愛してはいけない、というから寝てはいけない、とか、寝過ぎは良くない、とかそういう事ではありません。睡眠障害などがある人にとってはなかなか厳しいことばに聞こえるかもしれませんね。もしくは生活が不規則な仕事をされている人にとっては睡眠をコントロールするのは難しい。逆にずっと仕事をし続けるように、とかそういう話でもないのです。まあだいたい読めてきたと思いますが、眠ってばかりですべきことをしないでいること、それに対してここで神様はソロモンに、また私たちに訴えるわけですね。もちろんだからと言って働くことを愛しすぎて他の生活が崩れることも問題なわけですが。

 

そもそも私たちに神様は睡眠、寝るような体を与えました。この箴言を神様から示され書き残したソロモンは、詩の中で「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」と書き残しています。ほかの訳では「主は愛する者に眠りを与えられる」となっているのですが、眠りは神様が与えてくださる。愛する者に、私たちに必要な休息、眠りを与え、その間にからだをリセットしたり、いやなことを忘れさせて不安な心に平安を与えたりしてくださる、神様がそうして私たちが寝ている間に守ってくださるわけです、愛する者に、あなたに。だから必要以上に長く寝る必要も、逆に短い時間で明日に臨む必要はない。神様が明日を備えて下さる、明日の準備をしてくださっている、だから私たちは安心して寝ていいのです。

 

まあ、娯楽などもあり、たまには楽しみたいよ、と言って睡眠を自分で短くしてしまう(からだの問題で寝れない方もいますが)人もいますが、ただ極端に睡眠を自分で長くとって、肝心な普段の生活が欠けていく事もよくありません。まあ本当にそういう意味で睡眠障害のある方は辛いですよね。私、これを書きながらそれをあらためて思わされます。その人の上に神様の癒しがあるようお祈りいたします。

 

それで先ほどの詩で、神様が家を建てる、神様があなたの一日、日々を建て上げてくださる、神様が全ての日を準備し、備えて下さっている、そのサイクルの中に私たちは生きるようにされているわけですね。自分から睡眠を愛して寝てばかりで、肝心の神様の与えてくださっている時間を味わわないなんてもったいない。むしろ神様の与えてくださるパン、食事だけではなく、恵み、全ての良いことをその中で飽きるほど食べさせてくださる、備えて下さっている、それをいただかないなんてもったいない。

 

確かに明日、色々あって不安な時もある、眠りづらいこともあるかもしれない、でも、「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」と別な詩人が歌っているように、神様が明日も守られる、まどろむことも眠ることもない神様が私たちを夜も昼も守ってくださっている。いのちを守ってくださるのです、とこしえに。だから、私たちは目を覚まして、この神様のくださるサイクル、一日一日を無駄に過ごすのではなく、その中に身を委ねたいものです。神様の御翼の傍に休み、神様の与えられている日を楽しみ、寝ている間も体を休めてもらい平安をいただきながら、切り取られた一日ではない、与えられた永遠の日々をいただいてみませんか?眠りを愛し続ける、寝ない生活を愛するのではなく神様のサイクル、恵みの中生きよう。

 

それで、その生活の中のことでさらに↑で「買う者は『悪い、悪い』と言うが、買ってしまえば、それを自慢する」と語ります。まあこれは分かりやすく言えば値切り、ですね。いやいやそんな良くしてもらって、安くしてもらって悪いね、と言いながらも、買った後はもうそれが普通になってしまう。感謝の心さえ忘れてしまう。悪い悪い、と口では言ってもその心の内は?もちろんいいものをいただいて自慢したくなるほどうれしくなる、それは悪くはないのかと思いますが、その関係って対等ではないと言いますか、あまり良くはないですよね。

 

私が以前働いていたところで2つの意見に分かれていました。ある人はお客様は神様です、という人。経営者は、お客様は神様ではありません、という。正解は後者なのですが、お客様は神様です、と何でも値切りを受け入れたり、受け入れると、相手の本当に求めていることを見る事ができない、また本当に良いサービスを提供できない。だから本来は対等なんだ、と。なるほど、と納得しました。ちなみに前者の方はこれに納得できずやめていってしまったのですが。

 

まあこのことば、ちょっと視点を変えて、普段神様からいいことをされて、いやいや悪いね、感謝だよ、と受け取っていたのが、気が付いたらいいことをしてもらうのが当たり前になって、感謝をする心を忘れてしまう、なんてこともありますね。もしくは、神様、私はこれをしますから、もっといいことをしてくださいよ、と言い始めたら、その関係は正しいと言えるでしょうか?神様が本当に良いものを与えたい、と思っていても、私が思うのはそれじゃないんだ、もっとこう○○なものに変えてくれないですか?なんて言い始めたら大変。先程の睡眠を愛する、という話ではありませんが、好きなだけ寝て後は勝手にお願い、というのはちょっと違いますよね。自分のやり方が正しい、そうじゃないのは変えてほしい、神様、あなたのやり方は時代が合わないので変えてくれませんか?いつもいいことをしていただいているのに悪いのですが…となったらそれは本当に神様が与えたい恵みを受け取ることができるのでしょうか?それは正しい関係?

 

先ほどの神様のサイクルの中に生きる、と話させていただきましたが、神様の完全な働きの中私たちは守られている、でもそれを変えて神様のサイクルから離れたら、私たちはどうやって生きるでしょう。不安が支配して、お金が支配して、経済が支配して…自分が正しいと思っていたことが違っていた時、それに支配されて生きてきた時間は一体どうなるのでしょう。確かに神様は全てのことをあい働かせて益としてくださる、でも本来神様が一日一日の中に注がれている、与えられているその瞬間を逃すなんてもったいなくないですか?罪の中に生きて、神様から離れている中には本物の恵みはない。もったいなすぎるじゃありませんか。

 

「金があり、多くの真珠があっても、知識のくちびるが宝の器。他国人の保証人となるときは、その者の着物を取れ。見知らぬ女のためにも、着物を抵当に取れ。だまし取ったパンはうまい。しかし、後にはその口はじゃりでいっぱいになる」とまさに語られている通りです。どんなに自分流に生きて金や真珠と自分で思うものでいっぱいにしても、そこに神様の宝がなければそれは虚しい。明日に保証がないから不安だから、とどんなに神様のサイクルから離れても、その離れた先で誰が保証するのだろう。あなたにとって美味しいパンだ、と思っていたものが味わってみたら砂利のようだったらもう、悲しいじゃないですか。

 

むしろ神様は私たちをもう一度罪にとらわれた、不安や恐れ、思い煩いにとらわれた中、眠ってしまった私たちをもう一度ご自身の恵みの内に取り戻すため、私たちのこの思い煩いも、痛みも、罪も、一切身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、私たちをこの死の縄目から解き放ち、自由とされた。もはやそれらのものはあなたをとらえることはできない。私たちがこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返るところに私たちはこの復活のイエス様のいのちをいただく、ここまで愛された神様の働かれている本物の関係に招かれるのです。誰が明日を保証するのか、この神様が、御子イエス様のいのちさえ惜しまないほどにあなたを愛された神様が今日を、明日を、これからも保証されているのです。

 

「眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。目を開け。そうすればパンに飽き足りる」。目を覚まして神様との時間、神様が働かれている時間を楽しみ、神様の富で今日いっぱいにしていただこうではありませんか。だまし取らなければ生きられないようなものではない、神様からいやいや悪いね、と言いながらも感謝できない歩みでもない、あなたの口を宝で、本物のパンでいっぱいにしてくださる神様の中、寝ている間も起きている間も神様を楽しみと平安に包まれ今日も生きよう。神様の本物のいのちの内を今日も明日も、とこしえに神様の希望の中を。神様を知らずに諦めて眠ってしまっている方にも届けよう。あなたのその愛、神様への希望がその人の内にさらに働いていくから。全地が神様の喜びで今日も満ち溢れますように。

 

子猫が心地よさそうに眠る画像

 

「あなたの家族の中に寂しいと感じている人はいませんか。ちょっとほほえむだけでいいのです。新聞を読んであげると喜ぶ目の不自由な人も、買い物をしてあげると喜ぶ重い病気の母親もいるでしょう、家族や隣人、身近なところから愛は始まるのです。」
ーマザーテレサー

 

笑顔は、何か一つの愛の実践は人を元気にさせます。喜びが出てくると、免疫も少し上がります。

ただそれ以上に力強いのが愛。愛の反対は、無関心です。

あなたの小さな行動の内に、「神様が」大きな力を働かせて、大きなことをされるのです。

 

私にできることはない、と思わなくていい、神様が助けてくださりますから。

イエス様も、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、と愛の実践を何より喜ばれます。

その内に神様は働かれるのです。イエス様は愛のテーブルを、食卓を広げたいです。

もしあなたが疲れているなら、イエス様はご自身のもとにあなたも招かれる。イエス様から、この愛は流れていく、あなたへ、あなたを通してあなたの隣人へ。

 

今日、あなたはなにをしますか?

 

 

イエスと弟子たちの最後の晩餐

私はあるとき、ひとりの女性と出会いました。彼女は厚化粧をしていました。そして、一本の指が動くほかは、手足のすべてが硬直していました。

けれども、その残された一本の指で、聖書の御言葉や霊想書をタイプしていたのです。

 

その手足の硬直した女性の御主人は、彼女がタイプしたものを製本し、人づてに渡していきました。彼女は死ぬ日までこの仕事を続けました。そして今は、主と共にあります。彼女はなんと幸せな人であったことでしょう。

 

天国で、きっと彼女がタイプした書物を読んだ人たちから、

「私をここに招いてくださったのは、あなたでした」

と言われているに違いありません。

 

健康であるとかないとか、あまり丈夫ではないとか言わないでください。

あなたは、神様のお役に立つために、指一本を、いや、もっと多くのものを持っておられるはずです。

 

ーコーリー・テン・ブーム(第二次世界大戦中に多くのユダヤ人をナチスから助けたオランダ人クリスチャン、ホロコースト生残者))ー

 

*私たちに与えられているのはなんでしょう?あなたに与えられているのは何でしょう?神様は弱さの内に完全に働かれ、最高の御業を現してくださる。私も丈夫ではもうなくなっていますが、それでも今できることを神様に委ね、導いていただきたい。

 

 

ろうそくの灯りで手紙を書く様子

「人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう。正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう。さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた』と言うことができよう。異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、そのどちらも主に忌みきらわれる。幼子でさえ、何かするとき、その行ないが純粋なのかどうか、正しいのかどうかを明らかにする。聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの。」

箴言20章5-12節

 

人はたぶん、これは良い、と思うものを得ようとします。健康に良さそうなもの、生きるのに役立ちそうな情報…もしくは何か成功するためとか、誰かと仲良くなるためなら、学び取ろうと必死に努力していい所を得ようとします。相手のことをよく見て、聞いて。私たちにはそのための目が、耳が与えられているんです。この目、耳を用いないなんてもったいない。先入観や噂話を鵜呑みにするのではなく、この目で見、聞き、感じて。そこに愛が溢れたらもう最高じゃないですか。何より私たちは神様からすべての良いものを与えられている、私たちを創られた父なる神様が私たちに最高のものをいつも与えてくださっているんです。私たちが生きる、本当の意味で生きることができるように。何より御子イエス様のいのちを私たちを救うためになら、惜しまず与えてくださったその神様の愛が確かに注がれているのです。私たちは今日、このイエス様に現されたこの完全な愛を見、また聞こう。神様の愛は惜しみない完全なもの。この愛が今日私たちを生かして下さっている。私たちはこれを無駄にすることなく、この愛を受け取り、生かされ、これに生きようではありませんか。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王であったソロモンに向け語られた知恵・いのちのことば・箴言で、これをソロモンが受けて書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は出し惜しみされることはなく、また口先だけいいことを言うのでもなく、良いものを私たちに与えて、神様の良いものを飲み食いさせ、本当に生きたものとなるようにしてくださる、幸いになってほしい、と、神様の良いもので着飾らせてくださっている、輝かせてくださっている、何と感謝なことでしょうね。私たちが何か良いことをする前に、初めに神様が私たちにその愛を惜しむことなく注がれているなんて。

 

そんな神様はなおソロモンに、また彼を通して私たちに向けて、「人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう」と語られ、ソロモンもこのことばを書き残します。

 

これは昨日のワイン・ぶどう酒の話、「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない」ということばと繋がった話になるのですが、その中で、私たちは人を酔わせる強い酒ではなく、それにコントロールされるのでもなく、聖霊様に酔う、満たされる、その中に神様の素晴らしさが現れることをみましたね。もう一つ、パウロが「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」と言っているように、私たちのある意味で心身共に健康であるために、霊肉共に健康であるために、本当に良いものを飲むように、神様が良いものをくださっているから、これを飲み、生きるものとしてくださる、ということを見ました。

 

そういう意味で、私たちが元気になるため、また状況を良くするために何かからそれをくみ上げようとするのですが、それが深すぎてくみ上げるのに疲れる、くみ上げてはみても、本当にこれでいいのだろうか、と思い悩んでしまう。でも、幾度となくいのちの危機や困難、また教会から上がってくる家庭や社会の問題、ローマの支配下の問題などがある中で働かれている聖霊様のお働き、力、癒し、回復…そうしたものを目撃してきたパウロは、だから、たびたび起こる○○(何でもいいです)のために、ぶどう酒、神様のくださる良いものをくみ上げのもう、そう勧めたわけです。そうしてあなた自身の心身が、また状況が元気になる、聖霊様が充満、満ち溢れる中でそこに神様の泉が沸き上がり、全ては生きるのです。

 

イエス様も、先祖の良い伝えに振り回され、苦しんでいるある女性に「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と仰られました。確かにおばあちゃんの知恵袋的なもの、様々な情報、価値観、伝統…これが正しいと思われている、耳には優しいものは世の中溢れています。しかしそれは時代とともに変わって、いつかは渇き、なくなってしまう。そして私たち自身結局飢え渇いて疲れてしまう。でもイエス様の所には変わることのない愛、天地創造よりはるか昔から存在し続け、今も、これからも存在し続けるこの方の愛の泉は溢れているのです。ここから汲み取っていいのです。この世の力ではない、永遠のいのちへの水、イエス様の愛、聖霊様のお働きが確かに溢れるのです。飲まなければ、食べなければ私たちのおなかを満たすことができないように、このイエス様のくださるパン、ぶどう酒、そのすべてのものを取って食べてこそ、私たちは元気、健康をいただけるわけですね、私たちの内が、またそこからその周りが。

 

イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」とも仰られました。いつか、ではなく今、飲み、今、この神様の愛をうけとろう、と。私たちを救うため、癒すため、罪を赦し、世の様々なもの、サタン、そうしたものから救い出すため、私たちの罪の身代わりに御子イエス様に神様はそれらすべての重荷、罪など一切を背負わせ、十字架にかけ、罰して死なせた。そこまでして、何の罪もないイエス様の御からだを割き、血潮を流されてでも私たちの内にいのちの泉を、腹の底から湧きあがらせてくださる、とこの時約束され、実行されたのです。↑であったような「親切を吹聴」してもいざという時に何もしないのではない、裏切る弟子たちを見てもなお、彼らを見捨てることなく最後まで十字架上でその罰を引き受けてくださった。この十字架からこの本物の愛が、新しい霊、聖霊様が私たちの内に流れ、いのちに至らせてくださるのです。何と感謝なことでしょう。

 

あなたの事を心から愛し、いのちさえ惜しまず与えられたイエス様があなたに与えてくださる英知、癒し、回復させ、本物のいのちを与えてくださるその愛の内にどうして英知がないと言えるでしょうか。親切を吹聴するだけの声と同列になどできましょうか。御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった神様がどうして忠実ではないだのなんだのと言えるでしょう。私たちはこの神様の愛、英知を受け取っていますか?このいのちの泉からくみ取らせていただいていますか?これ、ただなんですよ?ただあなたが悔い改め、これを飲みに来るだけでいいんです。イエス様のいのちにあってもうこれは支払い済みなのですから。

 

私たちはこのイエス様にあって神様の忠実な愛、忠実な関係に今招かれた、イエス様の十字架で結びつけられた。もう、私たちはこの神様から離れてはいけません。どんどん神様のいのちが、御力が溢れ出る、こんな素晴らしいいのちを、御子イエス様のいのちにあっていただいたんですよ?これをもらわずにいたらもったいないじゃないですか。私たちはこれを疑って、どうせ神様なんて、などと吹聴して回ってはいけない。むしろこの神様の本物の親切、究極の愛を言い表す、また言うだけではなくことばと行いにおいても現したいものですね。そこにこのいのちの川がさらに溢れ流れ、全てを癒して下さる、回復させてくださる、神様の愛でいっぱいにしてくださるのです。そこは神様のいのちで満ち溢れ、輝くのです。暗闇は光へと変えられるのです。弱っている人を立ちあがらせ、希望を与えてくださるのです。イエス様の愛、なされた一つ一つが希望を与えたように、あの十字架ですべては完成された。この完全な愛を求めずして何を求めましょう。

 

「正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう」。正しい人なんてどこにもいない、でも本当に正しい神様がおられるから、聖霊様が働かれ、私たちを聖めていき、幸いな者としてくださる。それは子孫、またあなたの周りへと広げてくださるのです。神様の聖さ、正しさ、潔白が溢れるなら、どれだけ私たちは幸せになれるだろう。

 

「さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた』と言うことができよう。異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、そのどちらも主に忌みきらわれる。幼子でさえ、何かするとき、その行ないが純粋なのかどうか、正しいのかどうかを明らかにする」。私たちは忘れてはいけません。裁きの座に着く本物の王、神様がおられることを。この世に完全な王や上司、上に立つものなんていない、私たち自身も王のようにふるまって色々しようとする。でも私たちは本当の意味ですべてを裁かれ、治める王の王なるイエス様に委ねよう。イエス様はいのちをかけてでも私たちを救わんとされた。こんな王がどこにいるだろう。どうしてこの方が間違ったことをするとか、私を見てない、聞いていない、などと言えるでしょうか。神様は人によって価値観を変えたり、時代によって変えられる方ではなく、むしろ完全な神様の御業を私たちの内に現そうとしてくださる。この方がいるのです。全てを聖めて下さる方がいるのです。

 

私たち自身も二心をもって神様と見たり、あれこれ言うのはもうやめよう。神様はあなたを今日も完全な愛をもって愛してくださっているから。忌み嫌うどころか、罪あるわたしたちを招いて下さった神様が、あなたに注がれている愛、現されるその御業がどれだけ素晴らしいか。私たちは色んな不満を数え上げる、でも私たちはこの神様の恵みを、愛を数え上げよう。見よう。聞こう。疑い、先入観の目、耳で見聞きして生きるのではなく、まず初めに愛されたこの神様の愛を受け取ろう。この方の愛は渇くことなくいつもあなたの内に今日も溢れ流れる。神様の愛は止まらない、神様は死なない。いや御子イエス様のいのちを惜しまず与えてでも、そこまでしてでもあなたに良いものを与えてくださる、この方が今日あなたと共にいる希望に今日も生きようではありませんか。

 

「聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの」。神様はあなたに聞く耳、見る目を与えてくださった。それは神様が語られ、見せてくださるため。それを聞き、見る事ができる。なんてすばらしいんだろう。この神様が今日も私たちを導くために語られ、招かれ、またその御業を見せてくださっているなんて。あなたはこの方の声を、つくられる、現される素晴らしい御業を今日見ていますか?聞いていますか?「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。今日、私たちはこの方の所に行こう。主は喜んであなたを迎え、善いぶどう酒、いのちであなたを今日も満たされるから。

 

正しい人が誠実に歩むと子孫は祝福される

仕事って心の中がその姿勢に現れますよね。

でも、いつもベストを尽くせるわけではありません、それぞれが支え合ってよくなるわけです。

辛い時は辛くていい。

 

本当のベストは神様にその手を委ねることです。

神様が助け手ないし、ご自身が支え、助けてくださるから。

そして神様の栄光が現される、私たちは神様に委ねるというベストを尽くしましょう。

そこには驚くべき御業が現されるから。

明日の仕事、どうあなたはのぞみますか?

 

もし道路掃除の仕事があなたに回ってきたとするなら、ミケランジェロが絵を描いたように、一生懸命、道路を掃きなさい。ベートーベンが作曲したように、一生懸命、道路を掃きなさい。シェイクスピアが詩を書いたように、一生懸命、道路を掃きなさい。あなたが一生懸命に道路を掃いた結果、天と地にいるすべての天使たちが働きの手を休め、こう言うようにしなさい。『ここに自分の役割を見事に果たした道路掃除人がいる』と。
ーマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師ー

 

船と「神の御心」の言葉

 

神の管理下にあるものは決して制御不能にならない

私の書斎には結構な数の本があります。

ちなみに私の父は10万冊くらいもっていたかな?それにはかないませんが^^;

 

人はなにかを調べたり、気になることがあれば本を買うなり、調べたりしますよね。

それを否定するつもりはもちろんありませんが、

では何を選びますか?

 

私の部屋は最初に言ったように沢山の本がありますが、

やはり聖書が基準になります。

神様が、私のために御子イエス様のいのちを惜しまなかった神様が私に与えてくださったものだから。あなたにも。あなたが求めるなら、聖霊様を通して神様はあなたの疑いや疑問に答えてくださるでしょう。全てにかなった助けを与えてくださるでしょう。

 

疑い・疑念があるなら、あなたの聖書を開こう。

When in doubt, pull your bible out.

 

開かれた聖書、ページをめくる手

「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない。王の恐ろしさは若い獅子がうなるようだ。彼を怒らせる者は自分のいのちを失う。争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。」

箴言20章1-5節

 

世の中、これは中々いいな、と思っていたら実はそうでもなかった、あまりよくなかった、ということがあります。逆にこれはあまり大したことはない、と思っていたことが本当は素晴らしかったり。私たちはどうしてもその人や物の本質を見る前に、うわさ話や見た目だけの判断から先入観をもってしまい、その価値観を見出すことが難しいのです。自分の考えによって見えないのか。でももうちょっと本質を見てみよう。私たちの神様は私たちに素晴らしいものを与えているはずです。あなたも、あなたの友、周りの人だって、神様が創られた大切な存在。自分に合わないから、とかそう考える前に、ここに神様が働かれることを祈って見ませんか?神様がそのうちに働くなら素晴らしいものに変わるのではないか。本来私たちは神様のイメージに似せてつくられたもの、父なる神様はこんな私たちに最高のものを与え、また注がれているのだから。御子イエス様のいのちを与えてでも取り戻されたのだから。そんな愛なる神様が我が子、あなたに注がれる愛はどれだけ素晴らしいか。私たちは今日、いやいつもこの神様の与えてくださる素晴らしいものを味わい歩もう。そこに神様のいのちが溢れることを信じて。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王であったソロモンに向けて語られ示された知恵・いのちのことばといいますか箴言で、またこれを受けてソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、世の中には様々な私たちを酔わせたりする知恵や知識が溢れている中、本物の知恵、いのちの知恵を神様が注いでくださるわけですね。すべての初めなる神様が良いものを注いでくださる。神様がその知恵・御心を私たちへの愛ゆえに成し遂げてくださる。なんと素晴らしいこと。神様はこれを蔑むのではなく味わうように、捨てるのではなくこの知恵、神様の御働き、愛の中に招かれているわけですね。この神様の知恵・御心が、愛が今日も私たちに注がれているから、この関係を蔑むことなくいつもこれに生きよう、と。

 

そんな神様はソロモンに向け、また彼を通して私たちに向けさらに、「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない」と語られ、ソロモンもこのことばを書き残します。

 

聖書の中ではお酒を否定しているわけではありません。ただ、自分がコントロールできないほど酔う、そのような状況にまでお酒に身を委ねることに対して警告をするのと同時に、お酒に満たされないとぶっちゃけた話ができないとか、やってられないよとか、そういう状態ではなく、私たちのことをよく知っておられる新しい助け主なる聖霊様に身も心も委ねましょうよ、そうパウロは勧めています。まあこのお酒は隙を作るというか、そういう問題もありますしね。

 

じゃあこのことばはどうして出てきたのか?どうも、聖書の時代に「ぶどう酒」あるいは「ワイン」という言葉を使っている場合、それはぶどう汁全般を指しているようです。まあ今の時代の「グレープジュース」も、ぶどう酒の一つとして数えられていました。酒ぶねにぶどうの実が放り込まれて、それを押しつぶして出てくる新鮮な汁は、「良いぶどう酒」、つまり良質のぶどう酒です。一方、ここで出てくる強い酒についてですが、現在のワインもこの中に入って来るようです。「大麦、ナツメヤシ、はちみつなどを発酵させた飲料」、まあ果実酒やビールなどがこれに当てはまるのかな?当時の発酵技術だって4~12%のアルコール度数が限界だったようですし。という事でこの辺をまとめると、濃くて酔いやすい酒、もっというなら、「酔わせる飲み物」、これが強い酒として問題とされているようです。

 

そう、酔わせる飲み物、何%がどうの、自分はお酒に強いからどうの、ではなく、自分を酔わせるためのお酒に頼る事、これに警戒することを勧めているわけですね。酔わせて自分を失う、コントロールできなくなる、そうではなく、御霊様に満たされる。お酒がなければやってられない、ではなく、神様がいればやってられる。辛くて酔って忘れたい、ではなく神様が忘れる以上に癒して下さる、神様に委ねることを忘れてはいけません。神様は何も心配してくれない、そんなことはない、聖霊様で満たして下さり、私たちの心を癒し、また強めてくださる、そしてこの聖霊様の働きによって踏み出せるのです

 

ちなみに聖書の中で、ある婚礼にイエス様が出席されたことがあるのですが、その時お酒が切れて大変なことになっていました。お酒がないことは当時の婚礼ではありえない話、その取り仕切り訳も大変なことになってしまう。そこで相談を受けたマリアはイエス様の所に行ったのですが、その時、イエス様が水をぶどう酒に変えた、という出来事がありました。この時、幹事が提供する前に味見すると、「良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」と言わしめるほどの良いぶどう酒だったそうです。プロの舌もうならせる。普通は酔っぱらってきたところでその後は悪い酒を出すそうなのですが、イエス様は酔わせるためのお酒ではなく、良いお酒といいますかぶどう酒を出したわけですね。良いぶどう酒がイエス様から出る、酔わせるためではない、イエス様ご自身が。水という味のないものさえ良いものに変える。その力がまさにイエス様が働かれるところに起こる、それを飲む人を驚かせ満足させる力があるのです。酔って一時的な快楽を得るのではなく神様の喜びを。お酒自体を否定するというよりも、このイエス様のお働き、聖霊様の力に身を委ねてみませんか?ということなのです。

 

もっというと、パウロは若いテモテという人に「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」と勧めるのですが、今もそうですが、イスラエルでは風邪をひいた時にグレープジュース(↑でいう強い酒ではない方の)を用いることがあるそう。強い酒以上に神様には癒しの力がある。神様にある健康、色んな意味で心身共に健康にしてくださる、その神様のくださるものを飲もう、そう勧めるわけですね。さらにはイスラエルで大切にされている過越しの祭り(イスラエルの民が400年近くの間エジプトの奴隷として捕えられていた後神様の助けによって解放され救われたことを覚え祝う祭り)で用いるぶどう酒も1/3を水で薄めたそうです。発酵したアルコール飲料ではないように徹底したようですね。アルコールではない純粋な神様の救いがある、そのことを示されたのでしょう。混ぜ物でも何でもない、イエス様が私たちの罪、死から解放するため身代わりに十字架に架かられ流された血潮、それに勝るものはなく、これが完全な力、救いを、癒しをあなたにもたらすわけです。

 

まあこのお酒の話は難しい話なのですが、このお酒に頼るか、神様に頼るか?これはどんな場面でもいえると思います。それが↑の「王の恐ろしさは若い獅子がうなるようだ。彼を怒らせる者は自分のいのちを失う。争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す」という言葉に繋がってきます。

 

特に私たちが陥りやすいのは「こんなお酒は私の中では強いうちに入らない、自分なら大丈夫」という考えです。まあこれ、飲酒運転をやる人が一番陥るのでしょうけど、自分は別に他の人に迷惑をかけていない、酔ってない、と。でも↑の強い酒の定義のように、自己解釈によって自分の主張、考えに酔って、神様のお酒と言いますか下さる恵みを否定する、御言葉を否定したり変えたり。こんなの役に立たない、これじゃあ酔えないよ、とかそんなことが人には起こるのです。あの人の言っていることは間違っている、この酒は酒じゃないから大丈夫、と言って神様がダメと言っていることを自分なら大丈夫と言って飲んでコントロールを失い、それによって、その主張、ことばによって(酔って)誰かを傷つけたり、迷わせたり。うまく説明できなくてごめんなさいね。でも本当にこれは誰しもが陥る話なんです。

 

王の怒りも、何か自分の経験や感情、先入観から来ている怒りならそれは間違った怒り、でもだからと言って自分がもし間違えているなら、それは素直にその言葉を受け入れる、それも大事です。ここで語られているように、肝心な命を失うことがない様に。まあ、怒りという杯をから感情をまき散らして相手を、関係を、何かを壊す、なんてことがあったら、肝心の神様のいのちというか、恵み、ご計画を、御心を失いかねない話なのですが。もしくはおいしそうな酒といいますか、ことばを勧めて相手のコントロールを奪う、ふらつかせる、なんてこともあってはいけない。それぞれの立場の違いがあるので、これ、という勧め方はできないのですが、ただ王の王なる神様はそんなことはしない。私たちにいのちをもたらしたいと語られ、導かれる。これは自分に合う酒ではない、ことばではないからいらない、とかこの酒はアルコール度数が足りないな、もっと強くしないと、と好き勝手に混ぜ物をするのではなく、この神様がもたらして下さる心身共に健康にしてくださる酒(先ほどの挙げたパウロからテモテに勧めた言葉の中にありましたね)、これをいただこう、そう訴えるわけですね。この世的な度の強い酒じゃなく、この世に妥協した酒でもなく、神様のくださるものはそこに完全をもたらして下さる。その方が私たちを満たし、強い酒じゃなくてもあなたを強めてくださるのです。

 

争いもそうですが、私たちは誰かと争っている場合ではありません。怒りの杯から飲んで争ったり…何より神様と争ってあなたの酒はダメだ、と言っている場合ではありません。神様はむしろ、私たちを癒し、救うため、私たちの思い煩いも痛みも全部身代わりに御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架に架け、死なせたのです。この流された血潮が私たちを満たし、癒す。この愛の力、死をいのちに変えられたこの血潮が私たちにいのちをもたらすのです。この神様の愛の酒と言いますか、流された血潮をいただく時、そこに復活のイエス様の力が豊かに溢れ広がり、働かれるのではないでしょうか。

 

イエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます」と語りました。このイエス様の命がけの愛からその英知が、いのちが今日もあなたに流れる。イエス様の裂かれたからだ、流された血潮を覚え、いただこう。そうしてイエス様が私たちを今日も生かして下さる。死ではなく、この世のものが飲み食いして楽し見えるものを超えた神様の恵みを。私たちは冬、酒を飲まなければやってられない、と思うような厳し場面にこそ、このイエス様の御心が成ることを今日求めよう。このイエス様の流された血潮がすべてを癒し、変えて下さる事を信じ刈り入れの日をまとう。その日確かにあなたへの神様の英知、愛からくる御心が確かに現されるから。

 

グラスに入ったワインの画像

明日は何があるかわかりません。

でもたしかに明日も神様がおられることは確かです。

今日なにをするか、それは私たちが決めること、

でも神様のみ手に委ねるとき、それは希望に変えられます。

そしてそれは明日、明後日、永久に繋がっていくのです。

イエス様があなたと神様を十字架をもって繋げてくださったのだから。

 

明日の希望は神様がくださるものだが、今日の献身はあなたが神様にささげるものだ。

ーイ・サンジュンー

 

神は希望を与えてくださる

↓はある人の作文を抜粋したものです。

そのまま転用しているため、一部不快と思うところがあっても最後まで読んでいただければ幸いです。(あまりに強烈なので、途中に私の突っ込みを入れています)

 

ー無知の恐ろしさー

〇〇駅のホームで事故があった。人が溢れている。飛び込み自殺らしい。

「全く人迷惑な。この忙しいとき。死ぬんなら暇な時間帯を選べ。人の迷惑にならないところで死ぬんだ」

(私からの突っ込み:なんと偉そうな…)

 

みなブーブー言い、イライラさせられていた。

しばらく待つ間に「どうも二人らしい。男と女と二人らしい。」

という声が聞こえてきた。

「心中だ。不倫の清算か」

ばかなやつらだ。あほだ。

(私からの突っ込み:あなたはそんなに偉いのか…?)

 

そのうち、また声が入った。「女性が貧血でホーム下に落ちた。そばを歩いていた男が飛び降りて、女を助けようとしたが、自分がはねられ即死した。女も死んだようだ。」

知らなかったとはいえ、自らを恥じた。

 

初めから事情を知っていれば、我々の態度は正反対となったのに。

 

愛する事は理解する事。

T君の作文がクラスを変えた。

 

愛する事は、その人を理解する努力である。

―岸義弘先生コラムより―

 

*自分の思う通りに行かず、理解できないとき、相手を否定するのではなくその人の思いを知ろうと努力してみよう。神様が理解できないときも、神様に祈り、聞いてみよう。神様はあなたに語ってくださる。神様はあなたを今日も愛するゆえ、あなたが命を得るために御子イエス様を身代わりにされた。それほどまでにあなたを愛されている。この方があなたと共におられるなら恐れる必要はない。神様がすべてのことを働かせて、必ず益としてくださるから。

 

イエスを知ることが愛すること