とある働き人の聖書のお話 -7ページ目

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

明日は何があるかわかりません。

でもたしかに明日も神様がおられることは確かです。

今日なにをするか、それは私たちが決めること、

でも神様のみ手に委ねるとき、それは希望に変えられます。

そしてそれは明日、明後日、永久に繋がっていくのです。

イエス様があなたと神様を十字架をもって繋げてくださったのだから。

 

明日の希望は神様がくださるものだが、今日の献身はあなたが神様にささげるものだ。

ーイ・サンジュンー

 

神は希望を与えてくださる

↓はある人の作文を抜粋したものです。

そのまま転用しているため、一部不快と思うところがあっても最後まで読んでいただければ幸いです。(あまりに強烈なので、途中に私の突っ込みを入れています)

 

ー無知の恐ろしさー

〇〇駅のホームで事故があった。人が溢れている。飛び込み自殺らしい。

「全く人迷惑な。この忙しいとき。死ぬんなら暇な時間帯を選べ。人の迷惑にならないところで死ぬんだ」

(私からの突っ込み:なんと偉そうな…)

 

みなブーブー言い、イライラさせられていた。

しばらく待つ間に「どうも二人らしい。男と女と二人らしい。」

という声が聞こえてきた。

「心中だ。不倫の清算か」

ばかなやつらだ。あほだ。

(私からの突っ込み:あなたはそんなに偉いのか…?)

 

そのうち、また声が入った。「女性が貧血でホーム下に落ちた。そばを歩いていた男が飛び降りて、女を助けようとしたが、自分がはねられ即死した。女も死んだようだ。」

知らなかったとはいえ、自らを恥じた。

 

初めから事情を知っていれば、我々の態度は正反対となったのに。

 

愛する事は理解する事。

T君の作文がクラスを変えた。

 

愛する事は、その人を理解する努力である。

―岸義弘先生コラムより―

 

*自分の思う通りに行かず、理解できないとき、相手を否定するのではなくその人の思いを知ろうと努力してみよう。神様が理解できないときも、神様に祈り、聞いてみよう。神様はあなたに語ってくださる。神様はあなたを今日も愛するゆえ、あなたが命を得るために御子イエス様を身代わりにされた。それほどまでにあなたを愛されている。この方があなたと共におられるなら恐れる必要はない。神様がすべてのことを働かせて、必ず益としてくださるから。

 

イエスを知ることが愛すること

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。人の望むものは、人の変わらぬ愛である。貧しい人は、まやかしを言う者にまさる。主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。あざける者を打て。そうすれば、わきまえのない者は利口になる。悟りのある者を責めよ。そうすれば、彼は知識をわきまえる。父に乱暴し、母を追い出す者は、恥を見、はずかしめを受ける子である。わが子よ。訓戒を聞くのをやめてみよ。そうすれば、知識のことばから迷い出る。よこしまな証人は、さばきをあざけり、悪者の口は、わざわいをのみこむ。さばきはあざける者のために準備され、むち打ちは愚かな者の背のために準備されている。」

箴言19章21-29節

 

どんなところであっても、打ち上げ花火のように何かやろうとか、いいことを言って、言いっぱなしで終わる、言うけど何もしない、では何もならないで、かえって混乱を招くこともあります。そこには何でしょう、責任というか、しっかりとした思いをもたなければいけないですね。その思いが確かにそのやろうとしていることに力を与える、また語りかける相手に希望をもたらすのではないか。私たちには実は素晴らしいその希望があるんです。私たちを創られた父なる神様は、私たちを我が子と呼び、愛してくださる、その愛で覆い、守ってくださっているんです。ある時は助ける、導くけど、ある時は見過ごすとかそんなことはない。むしろ私たちが様々なものに打ち砕かれることがないよう、何よりあなたの魂が失われることがないよう、御子イエス様のいのちを身代わりにされてでもあなたを救い出された。この愛の御手が今日あなたを支え、導いている。これほどの愛を持った方があなたに良いことを成し遂げてくださるのです、今日も明日も、これからも。私たちはこの神様にどれだけ期待をしているだろうか、信頼しているだろうか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王であったソロモンに向けて神様が語られ示された知恵・いのちのことば、箴言で、これを受けたソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は良いことを私たちに成し遂げたいんですよね。ただのことばで終わる知恵や知識ではない、その愛からくる知恵を私たちの内に成し遂げてくださる。この神様に愛で私たちを覆ってくださる。この神様の愛を、なさろうとされている最高の計画を蔑んだり、その道から離れるのではなく、受け取ってほしい、そう訴えるわけですね。神様は私たちにその愛を注がれている。ただ私たちは遜り、これを受け取るだけ。わが子よ、と呼びかけながら招かれているこのいのちの道、どれだけ素晴らしいものか。聞いて終わらないで、受け取って、と今日もこの愛が注がれているから、と。

 

そんな神様はソロモンに向けて、また彼を通して私たちに向けてさらに知恵・いのちのことばについて、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」と語られ、ソロモンもこのことばを書き残します。あ、ちなみにだからと言って計画をもってはいけない、というわけではありませんよ?無計画に、相手のことも考えずに突っ走れば色んな問題が「成」りますからね。はい、見えてきたでしょうか。大事なのは「誰が」成して下さるのか、「誰に」成してもらうのか、「何を」成してもらうのか、この辺りが重要になってきます

 

私たちは何か計画を立てる時に、誰かのために何かをしたい、とかそういうところから始まるのだと思う。まあ自己満足のためにするという人もいますが。それで、その心の内にある事を原動力にその計画を実行していく。じゃああなたはどんな思いでそれを実行しますか?お金儲け?自己啓発的といいますか、発見のため?社会貢献?誰かを本気で助けるため?おそらく頑張れば、時間をかければ、それなりにその計画はなるかもしれない。ダメなことはその計画は成功しないかもしれない。世の中そんな絶対に成功する計画なんてあったものではない。それにうまく言ったかのように見えた計画は、どこかでほころびが出たり、うまくいっていたかに見えてダメだったり、時間と共にその成し遂げたと思ったものが終わる、壊れる、価値観が変わっていいものと思っていたものが他のものにとってかわられる…そんな事、世の中ざらにありますよね。周りの話を聞かずに我を通して、うまくいかなかったら目も当てられない。これ、絶対にうまくいくから、これが正しいから、と詐欺のように押しつけて、相手を傷つけるだけ傷つけて責任を取らない、なんてことも。

 

何かネガティブな事を並べてしまいましたが、人が「心に」なにを持っているか、これがある意味で成功の鍵なのかもしれません。その心にある何かがあなたを支えるからです。ではあなたにとってのそれは何ですか?もしくは心の支えにしているのは誰ですか?

 

そもそもの話が私たちに出来る事には限界があるから、先に挙げたようなうまくいかない可能性が山ほど出てくるのは仕方がない。でも、私たちは忘れてはいけないのは、この天地万物を創られた方、つくられてから今日に至るまで、そしてこれからも支え続け、守られ、また働き続けている方、神様がいるということです。すべてに心を配り、働かれている。その愛の心をもってご自身のご計画を成し遂げようとしてくださる、という事を。

 

神様は「しかし主のはかりごとだけが成る」とソロモンに示され語られていますが、神様が好き勝手にあれこれする、ということではない、むしろ神様の良いはかり事、ご計画を成し遂げるから、この神様がいるという事を心に留めよう、そう訴えるわけですね。神様が良いことを成し遂げてくださる。神様が働かれる、だからこの神様に私たちの手、足、心、私たち自身を委ねる中で、私たちを通して神様が良いことを成し遂げてくださるのです。神様の御心が成りますように、というその動機、「私の『お心』」が成りますように、ではなく神様の御心が成ることを願う、心に抱く中で、神様があなたを通して働かれる。御心が天で行われる通り、地にも行われるのです。主の祈りでイエス様がこのように祈ろう、と教えてくださったとおり。

 

パウロ、伝道をしながら多くの迫害を受け、困難に愛、時に自然の中、人の計画によって何度も挫折しかけていた、そんな彼はそれでも手紙で「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」と書き送りました。神様にある良い働きというのは、私たちの目にはうまくいっていないように見て、全く進んでいないように見えて、神様が必ず完成させてくださる、成し遂げてくださるのです。どんな猛威があろうと、神様の御心は必ずなる。人の思いをはるかに超えた神様の御業が現わされるなら最高じゃないですか。どんなに世の中が心の内にある様々なことを仕掛けてこようと、神様の御心が成る、最後は神様が勝利してくださるなんて。

 

パウロは「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです」と語る、まさに神様は永遠を与えたい、神様の報いを成し遂げたい。私たちは何を求めるでしょうか。怒りと憤りがくだるような計画ではなく、神様の栄光・素晴らしさが現れることを求めているでしょうか?この約束は怖く聞こえるかもしれませんが、逆にそのような計画に怒りと憤りをもって勝利してくださる、そのことも見えます。この神様の愛、勝利の上に建て上げられる神様の計画、御心、これにあなたはどれだけ期待していますか?信じ信頼して動きますか?

 

「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。貧しい人は、まやかしを言う者にまさる。主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない」とも語られていますが、人の変わらぬ愛、いつかは変わってしまう。しかし、神様が私たちの内に愛する心を与えてくださるなら、まやかしの愛ではなく、その神様の変わらない愛をもって仕える先には神様が成し遂げてくださる、いのちに至らせてくださる、満ち足らせてくださるという希望の光がともるのではないでしょうか。災いの中にあろうと、神様の計画が必ず光り輝かせてくださる。貧しいと思う日も、神様の恵みで豊かだと言える日が来る。「なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない」。私たちはこの神様のご計画に信頼し、手に取って見よう、味わってみよう。そこに私たちは神様の良さを味わわせていただける、腹に入っていき、私たちを満たして下さるのだから。

 

それでも残念ながらさまざまな計画をもっている人たちがいる。でも、「あざける者を打て。そうすれば、わきまえのない者は利口になる。悟りのある者を責めよ。そうすれば、彼は知識をわきまえる」と語られた言葉に注目してください。私たち自身はだからと言ってあきらめて神様をあざけって打ったりしてはいけない。神様の愛を訴えかけよう、コテンパンに打ち崩すのではなく、私たちを救うために御子イエス様が鞭打たれ、あざけられ、罵られ、私たちにいのちをもたらすために、私たちの失われた希望、痛み、思い煩い、何より罪一切を身代わりに背負われ、十字架に架かられ、死なれたのです。そして3日目によみがえられたことによってこのイエス様の十字架の御前に罪を悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子としてくださる。ここまでされた、愛された神様が今私たちの内に住まわれ、働かれているんです。いったい今、これ以上だれの、何の計画を恐れられるだろう。神様のあなたへの計画に信頼せずにいられましょう。

 

このイエス様のいのちの上に建てられた神様の大いなる計画に今日、私たちは信頼しよう。神様がいのちへと至らせてくださるこの神様の計画、私たちを生かすために、死ではなくいのちへと導くために準備、備えられたイエス様、こんな素晴らしい愛、実行、知恵は他にどこにあるでしょう。

 

「父に乱暴し、母を追い出す者は、恥を見、はずかしめを受ける子である。わが子よ。訓戒を聞くのをやめてみよ。そうすれば、知識のことばから迷い出る。よこしまな証人は、さばきをあざけり、悪者の口は、わざわいをのみこむ。さばきはあざける者のために準備され、むち打ちは愚かな者の背のために準備されている」。ちょっと厳しいことばに聞こえるかもしれない。でも、私たちはこんな私たちを追い出さず、辱めを受けることがないよう、神様がまずその愛を現されたのですから。迷い出ている私たちをもう一度神様のいのちの道、ご計画の内に、御心の内に戻して下さったのですから。私たちの内に働かれる父なる神様と言いますか、そのご計画に乱暴したり、追い出したりするのをもうやめよう。聞くのをやめて神様のいのち、素晴らしい計画を失う者であってはいけない。こんな愚かな私たちのためにさえ、御子イエス様のいのちを備えて下さった神様が、今あなたに備えて下さっている計画、その心の内にある、御子イエス様のいのちをもってまで救い出された究極の愛、これを今一度思い出そう。私たちの内にある不安や何やらを神様に追い出していただき、神様の素晴らしさをいただく、神様の愛に満たされた日々へと導いていただこうではありませんか。今日も神様の計画はあなたの内にあるから。「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」

 

箴言19章23節 花と引用

 

福音。それは、ヒーローが敵役のために死ぬ(表現は微妙かもしれませんが)唯一のストーリーである。いや、神様の歴史、実行されたこと。この愛は、世の終わりまであなたを導かれる。
The Gospel; The only story where the hero dies for the villain.

 

 

この神様のあなたへの愛は、導きは、今日も続いています。

私達はこの命を、御手を、救いを、受け取りましょう。

ここからすべて始まります。いや、神様はもう手を伸ばされているけど・・・

 

 

福音:ヒーローが敵役のために死ぬ物語

アルプスのハイジ、有名ですね。

この中に登場する、ペーターのおばあちゃんの愛した詩を紹介します。

 

「神様にゆだねましょう。神様は賢い君主。あなたを驚かせるような事もなさるでしょう。神様にふさわしく不思議な方法で見わざをおこない、あなたを悩ませることもあるでしょう。神様はしばらくの間、あなたに慰めをお与えにならず、まるであなたを見捨ててしまわれたかのように、それが御心であるかのように見わざをおこなわれます。まるであなたがいつまでも不安と苦難の内に、漂わなければならないかのように、あなたなど気にしておられないかのように、振る舞われるのです。しかし、あなたが神様に信頼する事を辞めないでいるなら、思っても見なかった時にあなたを持ち上げ、あなたの心を重荷から救ってくださいます。その主には、あなたが落ち度のないままに背負ってきた物なのです。」

 

あなたを愛する神様が、あなたを驚かせる最大の御業は、

御子イエス様を十字架にかけてまで救い出されたこと。

そこまでされた神様があなたにどんな驚くことをされるのか?

死の谷間であろうがどこであろうが神様の驚く御業を願い求めましょう。

神様自身を。

 

コンパスを持つ手と「Trust & Follow Jesus」

「『…このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。【サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。】私が【主よ。あなたはどなたですか】と言いますと、主がこう言われました。【わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたがわたしを見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。】こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕らえ、殺そうとしたのです。こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。』」

使徒の働き26章12-23節

 

以前仕事で外勤に出ていた時、知らない街だったのでスマホのナビ機能を使って400㎞以上2日間にわたって車で走らせていたのですが、初日の夜、全く知らないところで充電が切れそうになり、大変なことになったのを覚えています。コンビニも家も近くになく、目的地も変える道も分からない。それでもその案内は最後ぎりぎりまでもって、知っている場所に導いてくれました。そして職場からも心配の電話、無事に帰ってこれました。ところで、神様の私たちへの愛、ナビ、それは途切れることはありません。私たちがどんなくらい中を歩んでいても、道を見失っていても、神様が傍にいて導いて下さる、生の声を語ってくださる。何より私たちのためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず、身代わりにしてでも救う、その愛を実行される神様がいるという事をどうか忘れないでください。この方が照らす道を進もう。そこに神様のくださる喜びが、いのちが確かに待っているから。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、私たちの思い煩い、痛み、何よりこのいかんともしがたい罪一切を私たちの身代わりに背負われ、十字架上で罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、イエス様が約束された通りに新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生した後しばらくしての出来事です。このイエス様の愛、救いをすべての人に届けるべく、聖霊様がパウロを含む多くの人を遣わしていきます。

 

そのパウロですが、旅の途中で様々な苦難困難がありながらも、確かに働かれる神様の素晴らしい御業、救いを見ながらパウロはエルサレムに戻ってきたのですが、パウロを殺そうとする者たちが出てきました。その中で不当な訴えや、2年間の監禁などがありながら、聖霊様の助けのもと守られてました。パウロも不安や恐れ以上に、この暗闇、どうにもならない状況の中で神様が働かれ、約束された通りローマに導こうとしておられる、そこでキリストの証がされる、その勝利の日を信じ過ごします。そしてローマの総督がフェストに交代になり、裁判が再開され、彼のもと、アグリッパ2世が話を聞こう、と申し出、今パウロは今彼の前に呼び出され、パウロは弁明をし始めるのですが、↑の前までは自分が訴えている彼らと同じ神様を信じ、熱心に生きてきたことを語ってきました。

 

ただパウロは一方で、かつて自分は罪人であった、イエスキリスト、神様を愛すると言いながら自分の思う救い主像とは違うから、とイエスキリストを迫害、彼を信じるクリスチャンたちの殺害にも加担した。そしてこの迫害をさらに強化しようとしていた中そんな彼のもとに↑、イエスキリスト様が突然のように現れた、とここで語り始めます。突然この世のものとは明らかに違う、天からの光が照らされたのです。そして「サウロ(パウロの当時の名前)、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」とイエス様は彼に語られました。

 

とげのついた棒、これは牛を仕事に追いやる時に使ったとげのあるむちのこと。農夫は牛に鋤を付けて畑を耕すのですが、農夫は、牛の後から左手で操縦し、右手には、2-3mもある「とげのついた棒」を持ちます。もし牛が立ち止まったり脱線するとこの棒で叩きます。牛が反抗してその棒を蹴ると、「痛い!」となるわけです。でも、農夫・神様は決して牛、パウロをいじめたいわけではなく、そっちは危険だよ、と道を示すわけです。

 

イエス様は、迫害され、多くのクリスチャンを迫害・殺されたわけですから、パウロを裁くなり、とげのついた棒で打って…なんてしようと思えばできるのに、イエス様はそうなってはいけない、と彼を悔い改めに導くのです。これぞ正しい道、生きる道と進んでいた道は、イエス様を蹴り上げ進むと、このままでは滅びに進んでしまう、神様から与えられる、与えられているいのちを傷つけてしまう。そうではなく、この神様から離れ傷ついたパウロ、私たちを、罪によって汚れ疲れ切った私たちを癒し、聖めるため、罪を赦し、本物のいのちへと回復させるため、イエス様がその道を進み命がけて救い出されたのです。目の前でがけから落ちかけている人を黙って見過ごす?あいつは自分を迫害しているから、罪人だから、あれをしたから、とするのではなく大切な我が子、神様の創られたこのいのちを失いたくない、その思いで必死に手を伸ばし、自ら十字架でその罪を追って死なれ救い出されたのです。

 

イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたがわたしを見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」と彼、そして今アグリッパ2世やここにいる人たちに向けて、そして私たち自身にも語られているのです。パウロが何度も自分のこのかえられた体験を語りながら、これが自分には、また私たちには必要なんだ、と訴えるのです。

 

罪の中に沈むのではなく、このイエス様のいのちにあって新しく与えられたこのいのち、しっかり立つように。イエス様がそのいのちをもって今その神様の究極の愛を現して下さっている、目を開いて、暗闇から光へと導こうとしてくださっている、今この恵み、愛に帰ろう、と。そして御国を受け継いでほしい、サタン、罪の報酬ではない、これによって命を失うのではなく、イエス様のいのちをいただいて罪の赦しをいただいて、この本物のいのちを得てほしい、救いを得てほしい、神様の下さる相続分を受けてほしい、と。このイエス様がいるから、この愛が私たちを守り支えてくださっているから私たちはしっかりと立って歩むことができる、導いて下さるから、暗闇ではなく光の内を進むことができる、あなたのいのちをイエス様が十字架から今日も照らして下さっているから今日私たちは希望を持つことができるのです。

 

天からの幻、いやイエス様の十字架に示された愛に私たちはもう背いてはいけない。パウロはイエス様のこの愛に何かを付け加えて語ったことは一切ないとここで言っていますが、このイエス様の十字架の内にこそ全てがある。このイエス様のいのちをさえ惜しまず与えてくださった神様が何かをあなたに惜しむことなどない。何も付け加える必要のない完全な愛を、義を今日も現して下さり、いつもその道を照らされる。今日私たちはこのパウロを通した、と言いますかイエス様の十字架に現されたこの愛を受け取ろう。小さなものにも大きなものにも惜しみない愛を注がれたイエス様のこれ以上ない大きな愛が今日もあなたを覆うから。またこの愛をもって周りにも仕えるものでありたいですね。パウロのようにと言わずとも、そのあなたを通して神様の愛がさらに溢れればそこには確かに神様の御国が、豊かさが広がり、癒しが、回復が起こる、光が、希望が溢れるから。

 

使徒の働き 26:18 闇から光への転換

 

言葉を交わすことによって私たちは、勇気づけられ、慰められ、喜びを与えられます。と、同時に、人を傷つけ、見下すという愚かな過失も犯します。言葉は人間の運命をも変えるほどの大きなものです。
ー三浦綾子さんー

 

私たちの言葉は、どんなにあれこれ言っても力は大きくは働きません。

しかし、神様の愛を、約束を、救いを、御言葉を語る時、私たちは本当の意味で勇気づけられ、慰められ、喜びを受けます。

 

どうして?神様がそれを成し遂げてくださるから。私たちがなすのではない、神様。だからこそ、傷つけるような言葉が出そうになるとき、苦手な相手のときであっても、ふさわしい言葉を神様、与えてください、と祈ってみましょう。神様のみこころがなりますように、私の口を聖めてください、と祈ってみましょう。

 

その時、神様の大いなる力が働かれ、そこに神様の結ぶ、神様が働かれる大いなる交わりが起こるから。

 

神の愛と栄光は決してあなたを失敗させない

私たちには様々な苦難苦しみ、悲しみがあります。

これを一体何が慰めるのでしょう。

なにか忘れるために趣味に走る?

そうではなく、「何が」ではなく「誰が」なのです。

 

ものや何かの現象、行動は一時的でしかないし、あなたを保証しません。

しかし、神様は御子イエス様の命を与える保度にあなたを愛された、この方があなたを心配してくださります。慰めて下さる、命へと導かれるのです。

 

弱さは恥ではありません。神様に委ねることは恥ではありません。

神様が御子イエス様の命をあなたに差し出してまでも心配し、慰め、その先へと導かれるのです。私たちはこの神様が心配して下さるその喜びに生きましょう。これは慰めで終わらず、命へと続くから。

 

チャールズ・ハッドン・スポルジョン氏はこう語る。

 

私たちの悲しみの慰めとなるものは、『神が心配してくださる』ということである。友よ。いつも心配そうな顔をしてあなたの信仰を辱しめてはならない。あなたの重荷を主にゆだねなさい。

 

イエスが子供の手を握り、夕日を望む

「激しく憤る者は罰を受ける。たとい彼を救い出しても、ただ、これをくり返さなければならない。忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう。人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。人の望むものは、人の変わらぬ愛である。貧しい人は、まやかしを言う者にまさる。主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない。なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない。」

箴言19章19-24節

 

私たちは自分がこう生きたい、こっちに行きたい、そう思ってもなかなかそうもいかない。何でこんな風になるんだろう?どうしてこんな目に…そんな風に思う日もあります。様々な世の嵐が吹いてきて進めない。色んな人の思惑が入り乱れて、時にそれが自分を後押しすることもあれば、逆に悩ませることもある。でも私たちは私たちを愛してくださっている方を忘れてはいけません。あなたを最高傑作につくられた神様、いのちを与えてくださった神様、神様から離れ歩む私たちをそれでも見捨てず、わが子と呼び、父なる神様は私たちの手を取り、死の道ではなくいのちの道、恵みの内に招いて下さる、導いて下さるのです。たとえ私たちがどん底にいようと、嵐吹き荒れる中にあっても、私たちを救うために御子イエス様のいのちをかけてでも、死なせてでも、死の底から私たちを救い出し、取り戻して下さった方が今日も私たちと共にいるのです。この死を打ち破り勝利されたイエス様に何ものも勝る事はできない。私たちはこのイエス様のいのちをもってまで取り戻されたこのいのち、どこまでも信頼し、歩もう。ここに広がる神様の最高の愛、ご計画、そのうちに働かれている御力に信頼し、委ね、歩もうではありませんか。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて語られ示された知恵のことば・いのちのことば、そしてこれを受けて箴言としてソロモンが書き残して私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様はただあれこれ語るだけではなく、その語られる言葉を成し遂げてくださるんですよね。この世がどんなにいいことばを投げかけようとも、それ自体は実行する力はない。でもすべての源なる神様、この天地万物を創られた神様が、昔いまし、今いまし、これからもいつつける神様が、私たちへの愛ゆえの知恵・御心を成し遂げてくださる、この神様のいのちの内に招かれているわけですね。神様は捨てない、あなたは?と

 

その神様はソロモンに向けて、また彼を通して私たちに向けてさらにその知恵・いのちのことばについて、「激しく憤る者は罰を受ける。たとい彼を救い出しても、ただ、これをくり返さなければならない」と語られ、ソロモンもこのことばを書き残します。

 

いや、これは本当にその通り。憤りはあまりいいことを生まない。憤りの辞書的な意味は「強い怒りや不満、納得できない気持ちが心の中に込み上げている状態、単なる怒りより深く、理不尽さや不正に対して許せない、我慢できない、そうした感情がこもっている場合」を指すようです。感情でとどまればまだなんとか踏みとどまれるのでしょうが、この憤りの厄介なところは表に出て来て周りにも影響を与える事。いい影響ならいいのですが、この感情から出てくるものは攻撃的になったり。それではたとえ納得できない事でも相手は受け止めることはできないですよね。人間関係、職場、どの場面においても同じです。特に「許せない」という感情は自身を疲れさせるだけでなく、どんどん悪い方向に向かいます。

 

そもそもイエス様は、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」と聞いてきた弟子ペテロに「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」と答えました。仏の顔も三度までなんて表現もありますが、その人が悔い改めるなら何度でも赦しなさい、と仰られるのです。

 

その理由は、一つはこのことばの後にイエス様が挙げられたたとえ話の中でこんなものがありました。1万タラント(大体60兆円=1日1万の日給として16万年返し続けても返せない金額)借金のあった人がいたのですが、どうしても返せず王様に頭を下げ赦しを懇願すると帳消しにしてもらった人がいたんです。しかし、その赦しを得た後、彼は100デナリ(大体100万円)貸していた人に借金返済を迫り、返せないとわかったら彼を牢獄に入れて返すまで牢から出さない、と言ったのです。それを聞いた王様は「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と言って彼を借金返済するまで牢に入れた、という。

 

私たちは本来神様に赦しなど受けるに値しないものだったのに、神様の憐れみを受け、しかもその借金返済のために、罪の返済のために、御子イエス様のいのちを身代わりに死なせることで、免除していただいた、罪を無罪としていただいた、そんな愛を受けているのにどうして他の誰かに憐れみをかけないの?憐れみを持つべきではないのか、と仰るのです結局許せない心が自分を苦しめ、赦しの先にある神様の御業から遠ざかる、拒否する、そこに何の恵みがあるのかまあ、結構これが人が陥りやすいことで、人には厳しく自分には甘い、自分が受けた愛を忘れて人には厳しく当たる、自分もそうされたから自分も厳しくするんだ、と。でも、それは人を、先程のたとえにあてはめるなら牢に、苦しみの中に閉じ込めるだけですよね。でもイエス様にある解放を受け入れるなら、私たちも赦せない、という牢から出され、神様が解放される、憐れまれ働かれる素晴らしい御業を見るのではないだろうか。

 

納得できない事は確かにあるかもしれない。でも、その納得できないことを委ねるのです。イエス様の御側にいて、イエス様とならどこまででも行きますと言っていたペテロがイエス様が十字架に架かられた時にイエス様など知らないと3度にわたって否定、3度目に至っては呪いをかけてでも否定したペテロ、そのペテロは復活のイエス様に出会って、彼を閉じ込めていた悲しみ、苦しみ、そうした悩みから解放され、新しいいのちを与えられた彼は、老年になって手紙で「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と書き記します。がいに謙遜になり、何より神様に高ぶるのではなく、自分自身も敵対するのではなく、遜り、神様の恵みを受けよう、と。私たちがこの納得できないことも含め、思い煩いを神様に委ねる時、私たちを心配してくださる神様は私たちを神様の素晴らしい御業のもとに引き上げてくださる、それを体験的に私たちに訴えたのです。

 

イエス様からしたら普通に考えたら納得しえない何の罪もないのに私たちの身代わりに十字架でその罰を受けるという納得できないようなことも受け入れてくださったその先に私たちが救われる、いのちを、神様の憐れみ、恵み、素晴らしさを得る、生きたものになるなら、と受け入れてくださった。そんなイエス様があなたの内に今なそうとしていることを信じ待ち望まないでどうしましょう。憤る、それは下手をすれば神様に対して不満、憤りを持っているようなもの。納得できない気持ちは誰にでもある、けどそれを神様に委ねて私たち自身も心癒され、またその御業を期待してみませんか?まあこれを書いている私自身も耳の痛い話であり、悔い改めさせられる話ですが。

 

パウロは「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」と勧めます。憤りの心、怒りは罪を引き起こす、サタンに機会を与えることになる。その前に神様の赦しの心をいただこう、そう訴えるんですね。人はあれこれ許せないことをカウントして数え上げていく、でも神様の数えきれない、もっと素晴らしく働かれていること、受けている愛、恵みを数え上げてみよう、思い出してみよう。あれが納得できない、これが納得できない、と1つの赦せないことであれもこれも全部だめなように考えるけど、もっと素晴らしく働かれている神様、私たちをイエス様のいのちをもってその愛で覆ってくださっている神様を思い出そう。あの十字架を思い出そう。その時日が暮れ、朝を迎える時に、新しい神様の御業の日を迎えるのではないでしょうか。憤るよりも、自分自身も、また相手、また周りの状況にも「神様の繰り返される愛、恵み」が溢れることを期待してみませんか?神様の恵みはある時はない、ある時はある、ではなくいつも注がれている。私たちの納得できない思いで起こそうとすることをはるかに超えた圧倒的な神様の恵みが、勝利が、回復がここに起こる、それをあの十字架でイエス様を通して体現されたではありませんか。

 

「忠告を聞き、訓戒を受け入れよ。そうすれば、あなたはあとで知恵を得よう」。この神様の愛を受けたのだから、受け入れてみる、そこに神様の素晴らしい知恵・御業、神様がいかに素晴らしいのか、それを知らせてくださるのです。

 

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」。↑の憤りの話と合わせると、どんなに憤らせることがあって誰かがあなたに何かを仕掛けようと、また憤って何かを起こそうとしても、それは成し遂げることはできない。いや、無理やり成し遂げようとしてその計画の先に何を得るのだろう。しかし、神様の計画は完全。神様のはかりごと、その愛からにじみ出る、絞り出される計画、それこそ私たちを救うために御子イエス様にその思い煩いも痛みも、悲しみも、何より罪も一切背負わせ十字架に架け罰してでも成し遂げようとされた愛を思い返せばなおのことではありませんか。この十字架で勝利された、この十字架の御前に私たちが罪を悔い改め立ち返るなら私たちの罪は赦され、神様の子とされる。こんな素晴らしい計画からあなたにもたらされる神様の計画、恵みの日々はいかほどか。はかり知れない神様のはかりごとがまさに日々現されるのです。どんな時でも。きつい中に神様の勝利の朝を迎えさせてくださるのです。憤り、世の仕掛ける憤り、攻撃を終わらせ、神様の朝を迎えさせてくださる、勝利の日を。

 

「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。貧しい人は、まやかしを言う者にまさる。主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいに会わない」。まあ残念ながら人の変わらない愛はない。けど、私たちはまやかしの愛ではなく神様の愛を待ち望もう。「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだから」。たとえどんな貧しい状況、辛い状況、救いがないような状況であってもイエス様のいのちさえ惜しまず与えられたその愛がそこに注がれるなら、そこは神様の御国となり、広がる。そこに私たちはいのちを見出す、満ち足りるのではないでしょうか。神様の与える命の日々は、この十字架から今日も溢れ流れているのですから。災いを打ち砕き、勝利されるイエス様を待ち望もう。「なまけ者は手を皿に差し入れても、それを口に持っていこうとしない」と、このイエス様の味を手を付けず味わわないのではなく、日々頂き、この素晴らしい御業が他人事ではなく我が内にもありますように、周りにも溢れますようにと祈ろう。イエス様にあって満ち足らせてくださるこの恵みを共にいただきながら。

 

箴言19:21 チェスと聖書の一節

人にはそれぞれに名前というものがあります。聖書によると、なんと神様にも名前があるというのです。

 

モーセ(かつてイスラエルの民がエジプトの奴隷として400年近くとらわれていた時に、神様が彼らを助け出すための器、リーダーとして選ばれた)が神様の名前を尋ねると、神様は「わたしは『わたしはある』という者である。」(出エジプト記3章14節)と言われました。なんとも不思議で、他では聞いたことがない、変わった名前…

 

私たちは一人ではここに存在しえない。私たちを創られた神様がいるから存在し得る、このあってあり続ける方が今日支えてくださっている。あなたを救うためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださったほどに愛される神様が…

 

という事で今日は日曜日ですので、いつものようにしろくま先生の礼拝メッセージをシェアさせていただきます。よければ聴いてくださいm(__)m

 

出エジプト記3章9-14節

「発表!私の神様の名前は…」

 

 

聖書「出エジプト記」神の名前