暗闇から光に | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『…このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。【サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。】私が【主よ。あなたはどなたですか】と言いますと、主がこう言われました。【わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたがわたしを見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。】こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕らえ、殺そうとしたのです。こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。』」

使徒の働き26章12-23節

 

以前仕事で外勤に出ていた時、知らない街だったのでスマホのナビ機能を使って400㎞以上2日間にわたって車で走らせていたのですが、初日の夜、全く知らないところで充電が切れそうになり、大変なことになったのを覚えています。コンビニも家も近くになく、目的地も変える道も分からない。それでもその案内は最後ぎりぎりまでもって、知っている場所に導いてくれました。そして職場からも心配の電話、無事に帰ってこれました。ところで、神様の私たちへの愛、ナビ、それは途切れることはありません。私たちがどんなくらい中を歩んでいても、道を見失っていても、神様が傍にいて導いて下さる、生の声を語ってくださる。何より私たちのためなら御子イエス様のいのちさえ惜しまず、身代わりにしてでも救う、その愛を実行される神様がいるという事をどうか忘れないでください。この方が照らす道を進もう。そこに神様のくださる喜びが、いのちが確かに待っているから。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、私たちの思い煩い、痛み、何よりこのいかんともしがたい罪一切を私たちの身代わりに背負われ、十字架上で罰せられ、死なれ3日目によみがえられた後、イエス様が約束された通りに新しい助け主なる聖霊様が降られ、教会が誕生した後しばらくしての出来事です。このイエス様の愛、救いをすべての人に届けるべく、聖霊様がパウロを含む多くの人を遣わしていきます。

 

そのパウロですが、旅の途中で様々な苦難困難がありながらも、確かに働かれる神様の素晴らしい御業、救いを見ながらパウロはエルサレムに戻ってきたのですが、パウロを殺そうとする者たちが出てきました。その中で不当な訴えや、2年間の監禁などがありながら、聖霊様の助けのもと守られてました。パウロも不安や恐れ以上に、この暗闇、どうにもならない状況の中で神様が働かれ、約束された通りローマに導こうとしておられる、そこでキリストの証がされる、その勝利の日を信じ過ごします。そしてローマの総督がフェストに交代になり、裁判が再開され、彼のもと、アグリッパ2世が話を聞こう、と申し出、今パウロは今彼の前に呼び出され、パウロは弁明をし始めるのですが、↑の前までは自分が訴えている彼らと同じ神様を信じ、熱心に生きてきたことを語ってきました。

 

ただパウロは一方で、かつて自分は罪人であった、イエスキリスト、神様を愛すると言いながら自分の思う救い主像とは違うから、とイエスキリストを迫害、彼を信じるクリスチャンたちの殺害にも加担した。そしてこの迫害をさらに強化しようとしていた中そんな彼のもとに↑、イエスキリスト様が突然のように現れた、とここで語り始めます。突然この世のものとは明らかに違う、天からの光が照らされたのです。そして「サウロ(パウロの当時の名前)、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」とイエス様は彼に語られました。

 

とげのついた棒、これは牛を仕事に追いやる時に使ったとげのあるむちのこと。農夫は牛に鋤を付けて畑を耕すのですが、農夫は、牛の後から左手で操縦し、右手には、2-3mもある「とげのついた棒」を持ちます。もし牛が立ち止まったり脱線するとこの棒で叩きます。牛が反抗してその棒を蹴ると、「痛い!」となるわけです。でも、農夫・神様は決して牛、パウロをいじめたいわけではなく、そっちは危険だよ、と道を示すわけです。

 

イエス様は、迫害され、多くのクリスチャンを迫害・殺されたわけですから、パウロを裁くなり、とげのついた棒で打って…なんてしようと思えばできるのに、イエス様はそうなってはいけない、と彼を悔い改めに導くのです。これぞ正しい道、生きる道と進んでいた道は、イエス様を蹴り上げ進むと、このままでは滅びに進んでしまう、神様から与えられる、与えられているいのちを傷つけてしまう。そうではなく、この神様から離れ傷ついたパウロ、私たちを、罪によって汚れ疲れ切った私たちを癒し、聖めるため、罪を赦し、本物のいのちへと回復させるため、イエス様がその道を進み命がけて救い出されたのです。目の前でがけから落ちかけている人を黙って見過ごす?あいつは自分を迫害しているから、罪人だから、あれをしたから、とするのではなく大切な我が子、神様の創られたこのいのちを失いたくない、その思いで必死に手を伸ばし、自ら十字架でその罪を追って死なれ救い出されたのです。

 

イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたがわたしを見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」と彼、そして今アグリッパ2世やここにいる人たちに向けて、そして私たち自身にも語られているのです。パウロが何度も自分のこのかえられた体験を語りながら、これが自分には、また私たちには必要なんだ、と訴えるのです。

 

罪の中に沈むのではなく、このイエス様のいのちにあって新しく与えられたこのいのち、しっかり立つように。イエス様がそのいのちをもって今その神様の究極の愛を現して下さっている、目を開いて、暗闇から光へと導こうとしてくださっている、今この恵み、愛に帰ろう、と。そして御国を受け継いでほしい、サタン、罪の報酬ではない、これによって命を失うのではなく、イエス様のいのちをいただいて罪の赦しをいただいて、この本物のいのちを得てほしい、救いを得てほしい、神様の下さる相続分を受けてほしい、と。このイエス様がいるから、この愛が私たちを守り支えてくださっているから私たちはしっかりと立って歩むことができる、導いて下さるから、暗闇ではなく光の内を進むことができる、あなたのいのちをイエス様が十字架から今日も照らして下さっているから今日私たちは希望を持つことができるのです。

 

天からの幻、いやイエス様の十字架に示された愛に私たちはもう背いてはいけない。パウロはイエス様のこの愛に何かを付け加えて語ったことは一切ないとここで言っていますが、このイエス様の十字架の内にこそ全てがある。このイエス様のいのちをさえ惜しまず与えてくださった神様が何かをあなたに惜しむことなどない。何も付け加える必要のない完全な愛を、義を今日も現して下さり、いつもその道を照らされる。今日私たちはこのパウロを通した、と言いますかイエス様の十字架に現されたこの愛を受け取ろう。小さなものにも大きなものにも惜しみない愛を注がれたイエス様のこれ以上ない大きな愛が今日もあなたを覆うから。またこの愛をもって周りにも仕えるものでありたいですね。パウロのようにと言わずとも、そのあなたを通して神様の愛がさらに溢れればそこには確かに神様の御国が、豊かさが広がり、癒しが、回復が起こる、光が、希望が溢れるから。

 

使徒の働き 26:18 闇から光への転換