「人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう。正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう。さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた』と言うことができよう。異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、そのどちらも主に忌みきらわれる。幼子でさえ、何かするとき、その行ないが純粋なのかどうか、正しいのかどうかを明らかにする。聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの。」
箴言20章5-12節
人はたぶん、これは良い、と思うものを得ようとします。健康に良さそうなもの、生きるのに役立ちそうな情報…もしくは何か成功するためとか、誰かと仲良くなるためなら、学び取ろうと必死に努力していい所を得ようとします。相手のことをよく見て、聞いて。私たちにはそのための目が、耳が与えられているんです。この目、耳を用いないなんてもったいない。先入観や噂話を鵜呑みにするのではなく、この目で見、聞き、感じて。そこに愛が溢れたらもう最高じゃないですか。何より私たちは神様からすべての良いものを与えられている、私たちを創られた父なる神様が私たちに最高のものをいつも与えてくださっているんです。私たちが生きる、本当の意味で生きることができるように。何より御子イエス様のいのちを私たちを救うためになら、惜しまず与えてくださったその神様の愛が確かに注がれているのです。私たちは今日、このイエス様に現されたこの完全な愛を見、また聞こう。神様の愛は惜しみない完全なもの。この愛が今日私たちを生かして下さっている。私たちはこれを無駄にすることなく、この愛を受け取り、生かされ、これに生きようではありませんか。
さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王であったソロモンに向け語られた知恵・いのちのことば・箴言で、これをソロモンが受けて書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、神様は出し惜しみされることはなく、また口先だけいいことを言うのでもなく、良いものを私たちに与えて、神様の良いものを飲み食いさせ、本当に生きたものとなるようにしてくださる、幸いになってほしい、と、神様の良いもので着飾らせてくださっている、輝かせてくださっている、何と感謝なことでしょうね。私たちが何か良いことをする前に、初めに神様が私たちにその愛を惜しむことなく注がれているなんて。
そんな神様はなおソロモンに、また彼を通して私たちに向けて、「人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。多くの人は自分の親切を吹聴する。しかし、だれが忠実な人を見つけえよう」と語られ、ソロモンもこのことばを書き残します。
これは昨日のワイン・ぶどう酒の話、「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない」ということばと繋がった話になるのですが、その中で、私たちは人を酔わせる強い酒ではなく、それにコントロールされるのでもなく、聖霊様に酔う、満たされる、その中に神様の素晴らしさが現れることをみましたね。もう一つ、パウロが「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」と言っているように、私たちのある意味で心身共に健康であるために、霊肉共に健康であるために、本当に良いものを飲むように、神様が良いものをくださっているから、これを飲み、生きるものとしてくださる、ということを見ました。
そういう意味で、私たちが元気になるため、また状況を良くするために何かからそれをくみ上げようとするのですが、それが深すぎてくみ上げるのに疲れる、くみ上げてはみても、本当にこれでいいのだろうか、と思い悩んでしまう。でも、幾度となくいのちの危機や困難、また教会から上がってくる家庭や社会の問題、ローマの支配下の問題などがある中で働かれている聖霊様のお働き、力、癒し、回復…そうしたものを目撃してきたパウロは、だから、たびたび起こる○○(何でもいいです)のために、ぶどう酒、神様のくださる良いものをくみ上げのもう、そう勧めたわけです。そうしてあなた自身の心身が、また状況が元気になる、聖霊様が充満、満ち溢れる中でそこに神様の泉が沸き上がり、全ては生きるのです。
イエス様も、先祖の良い伝えに振り回され、苦しんでいるある女性に「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」と仰られました。確かにおばあちゃんの知恵袋的なもの、様々な情報、価値観、伝統…これが正しいと思われている、耳には優しいものは世の中溢れています。しかしそれは時代とともに変わって、いつかは渇き、なくなってしまう。そして私たち自身結局飢え渇いて疲れてしまう。でもイエス様の所には変わることのない愛、天地創造よりはるか昔から存在し続け、今も、これからも存在し続けるこの方の愛の泉は溢れているのです。ここから汲み取っていいのです。この世の力ではない、永遠のいのちへの水、イエス様の愛、聖霊様のお働きが確かに溢れるのです。飲まなければ、食べなければ私たちのおなかを満たすことができないように、このイエス様のくださるパン、ぶどう酒、そのすべてのものを取って食べてこそ、私たちは元気、健康をいただけるわけですね、私たちの内が、またそこからその周りが。
イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」とも仰られました。いつか、ではなく今、飲み、今、この神様の愛をうけとろう、と。私たちを救うため、癒すため、罪を赦し、世の様々なもの、サタン、そうしたものから救い出すため、私たちの罪の身代わりに御子イエス様に神様はそれらすべての重荷、罪など一切を背負わせ、十字架にかけ、罰して死なせた。そこまでして、何の罪もないイエス様の御からだを割き、血潮を流されてでも私たちの内にいのちの泉を、腹の底から湧きあがらせてくださる、とこの時約束され、実行されたのです。↑であったような「親切を吹聴」してもいざという時に何もしないのではない、裏切る弟子たちを見てもなお、彼らを見捨てることなく最後まで十字架上でその罰を引き受けてくださった。この十字架からこの本物の愛が、新しい霊、聖霊様が私たちの内に流れ、いのちに至らせてくださるのです。何と感謝なことでしょう。
あなたの事を心から愛し、いのちさえ惜しまず与えられたイエス様があなたに与えてくださる英知、癒し、回復させ、本物のいのちを与えてくださるその愛の内にどうして英知がないと言えるでしょうか。親切を吹聴するだけの声と同列になどできましょうか。御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった神様がどうして忠実ではないだのなんだのと言えるでしょう。私たちはこの神様の愛、英知を受け取っていますか?このいのちの泉からくみ取らせていただいていますか?これ、ただなんですよ?ただあなたが悔い改め、これを飲みに来るだけでいいんです。イエス様のいのちにあってもうこれは支払い済みなのですから。
私たちはこのイエス様にあって神様の忠実な愛、忠実な関係に今招かれた、イエス様の十字架で結びつけられた。もう、私たちはこの神様から離れてはいけません。どんどん神様のいのちが、御力が溢れ出る、こんな素晴らしいいのちを、御子イエス様のいのちにあっていただいたんですよ?これをもらわずにいたらもったいないじゃないですか。私たちはこれを疑って、どうせ神様なんて、などと吹聴して回ってはいけない。むしろこの神様の本物の親切、究極の愛を言い表す、また言うだけではなくことばと行いにおいても現したいものですね。そこにこのいのちの川がさらに溢れ流れ、全てを癒して下さる、回復させてくださる、神様の愛でいっぱいにしてくださるのです。そこは神様のいのちで満ち溢れ、輝くのです。暗闇は光へと変えられるのです。弱っている人を立ちあがらせ、希望を与えてくださるのです。イエス様の愛、なされた一つ一つが希望を与えたように、あの十字架ですべては完成された。この完全な愛を求めずして何を求めましょう。
「正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう」。正しい人なんてどこにもいない、でも本当に正しい神様がおられるから、聖霊様が働かれ、私たちを聖めていき、幸いな者としてくださる。それは子孫、またあなたの周りへと広げてくださるのです。神様の聖さ、正しさ、潔白が溢れるなら、どれだけ私たちは幸せになれるだろう。
「さばきの座に着く王は、自分の目ですべての悪をふるい分ける。だれが、『私は自分の心をきよめた。私は罪からきよめられた』と言うことができよう。異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡、そのどちらも主に忌みきらわれる。幼子でさえ、何かするとき、その行ないが純粋なのかどうか、正しいのかどうかを明らかにする」。私たちは忘れてはいけません。裁きの座に着く本物の王、神様がおられることを。この世に完全な王や上司、上に立つものなんていない、私たち自身も王のようにふるまって色々しようとする。でも私たちは本当の意味ですべてを裁かれ、治める王の王なるイエス様に委ねよう。イエス様はいのちをかけてでも私たちを救わんとされた。こんな王がどこにいるだろう。どうしてこの方が間違ったことをするとか、私を見てない、聞いていない、などと言えるでしょうか。神様は人によって価値観を変えたり、時代によって変えられる方ではなく、むしろ完全な神様の御業を私たちの内に現そうとしてくださる。この方がいるのです。全てを聖めて下さる方がいるのです。
私たち自身も二心をもって神様と見たり、あれこれ言うのはもうやめよう。神様はあなたを今日も完全な愛をもって愛してくださっているから。忌み嫌うどころか、罪あるわたしたちを招いて下さった神様が、あなたに注がれている愛、現されるその御業がどれだけ素晴らしいか。私たちは色んな不満を数え上げる、でも私たちはこの神様の恵みを、愛を数え上げよう。見よう。聞こう。疑い、先入観の目、耳で見聞きして生きるのではなく、まず初めに愛されたこの神様の愛を受け取ろう。この方の愛は渇くことなくいつもあなたの内に今日も溢れ流れる。神様の愛は止まらない、神様は死なない。いや御子イエス様のいのちを惜しまず与えてでも、そこまでしてでもあなたに良いものを与えてくださる、この方が今日あなたと共にいる希望に今日も生きようではありませんか。
「聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの」。神様はあなたに聞く耳、見る目を与えてくださった。それは神様が語られ、見せてくださるため。それを聞き、見る事ができる。なんてすばらしいんだろう。この神様が今日も私たちを導くために語られ、招かれ、またその御業を見せてくださっているなんて。あなたはこの方の声を、つくられる、現される素晴らしい御業を今日見ていますか?聞いていますか?「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。今日、私たちはこの方の所に行こう。主は喜んであなたを迎え、善いぶどう酒、いのちであなたを今日も満たされるから。