ワインと知恵と…追い求めるべきは?? | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない。王の恐ろしさは若い獅子がうなるようだ。彼を怒らせる者は自分のいのちを失う。争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す。」

箴言20章1-5節

 

世の中、これは中々いいな、と思っていたら実はそうでもなかった、あまりよくなかった、ということがあります。逆にこれはあまり大したことはない、と思っていたことが本当は素晴らしかったり。私たちはどうしてもその人や物の本質を見る前に、うわさ話や見た目だけの判断から先入観をもってしまい、その価値観を見出すことが難しいのです。自分の考えによって見えないのか。でももうちょっと本質を見てみよう。私たちの神様は私たちに素晴らしいものを与えているはずです。あなたも、あなたの友、周りの人だって、神様が創られた大切な存在。自分に合わないから、とかそう考える前に、ここに神様が働かれることを祈って見ませんか?神様がそのうちに働くなら素晴らしいものに変わるのではないか。本来私たちは神様のイメージに似せてつくられたもの、父なる神様はこんな私たちに最高のものを与え、また注がれているのだから。御子イエス様のいのちを与えてでも取り戻されたのだから。そんな愛なる神様が我が子、あなたに注がれる愛はどれだけ素晴らしいか。私たちは今日、いやいつもこの神様の与えてくださる素晴らしいものを味わい歩もう。そこに神様のいのちが溢れることを信じて。

 

さて、↑は神様が古代イスラエル王国3代目の王であったソロモンに向けて語られ示された知恵・いのちのことばといいますか箴言で、またこれを受けてソロモンが書き残し私たちにも示されたことばの続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られ示されていましたが、世の中には様々な私たちを酔わせたりする知恵や知識が溢れている中、本物の知恵、いのちの知恵を神様が注いでくださるわけですね。すべての初めなる神様が良いものを注いでくださる。神様がその知恵・御心を私たちへの愛ゆえに成し遂げてくださる。なんと素晴らしいこと。神様はこれを蔑むのではなく味わうように、捨てるのではなくこの知恵、神様の御働き、愛の中に招かれているわけですね。この神様の知恵・御心が、愛が今日も私たちに注がれているから、この関係を蔑むことなくいつもこれに生きよう、と。

 

そんな神様はソロモンに向け、また彼を通して私たちに向けさらに、「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない」と語られ、ソロモンもこのことばを書き残します。

 

聖書の中ではお酒を否定しているわけではありません。ただ、自分がコントロールできないほど酔う、そのような状況にまでお酒に身を委ねることに対して警告をするのと同時に、お酒に満たされないとぶっちゃけた話ができないとか、やってられないよとか、そういう状態ではなく、私たちのことをよく知っておられる新しい助け主なる聖霊様に身も心も委ねましょうよ、そうパウロは勧めています。まあこのお酒は隙を作るというか、そういう問題もありますしね。

 

じゃあこのことばはどうして出てきたのか?どうも、聖書の時代に「ぶどう酒」あるいは「ワイン」という言葉を使っている場合、それはぶどう汁全般を指しているようです。まあ今の時代の「グレープジュース」も、ぶどう酒の一つとして数えられていました。酒ぶねにぶどうの実が放り込まれて、それを押しつぶして出てくる新鮮な汁は、「良いぶどう酒」、つまり良質のぶどう酒です。一方、ここで出てくる強い酒についてですが、現在のワインもこの中に入って来るようです。「大麦、ナツメヤシ、はちみつなどを発酵させた飲料」、まあ果実酒やビールなどがこれに当てはまるのかな?当時の発酵技術だって4~12%のアルコール度数が限界だったようですし。という事でこの辺をまとめると、濃くて酔いやすい酒、もっというなら、「酔わせる飲み物」、これが強い酒として問題とされているようです。

 

そう、酔わせる飲み物、何%がどうの、自分はお酒に強いからどうの、ではなく、自分を酔わせるためのお酒に頼る事、これに警戒することを勧めているわけですね。酔わせて自分を失う、コントロールできなくなる、そうではなく、御霊様に満たされる。お酒がなければやってられない、ではなく、神様がいればやってられる。辛くて酔って忘れたい、ではなく神様が忘れる以上に癒して下さる、神様に委ねることを忘れてはいけません。神様は何も心配してくれない、そんなことはない、聖霊様で満たして下さり、私たちの心を癒し、また強めてくださる、そしてこの聖霊様の働きによって踏み出せるのです

 

ちなみに聖書の中で、ある婚礼にイエス様が出席されたことがあるのですが、その時お酒が切れて大変なことになっていました。お酒がないことは当時の婚礼ではありえない話、その取り仕切り訳も大変なことになってしまう。そこで相談を受けたマリアはイエス様の所に行ったのですが、その時、イエス様が水をぶどう酒に変えた、という出来事がありました。この時、幹事が提供する前に味見すると、「良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」と言わしめるほどの良いぶどう酒だったそうです。プロの舌もうならせる。普通は酔っぱらってきたところでその後は悪い酒を出すそうなのですが、イエス様は酔わせるためのお酒ではなく、良いお酒といいますかぶどう酒を出したわけですね。良いぶどう酒がイエス様から出る、酔わせるためではない、イエス様ご自身が。水という味のないものさえ良いものに変える。その力がまさにイエス様が働かれるところに起こる、それを飲む人を驚かせ満足させる力があるのです。酔って一時的な快楽を得るのではなく神様の喜びを。お酒自体を否定するというよりも、このイエス様のお働き、聖霊様の力に身を委ねてみませんか?ということなのです。

 

もっというと、パウロは若いテモテという人に「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい」と勧めるのですが、今もそうですが、イスラエルでは風邪をひいた時にグレープジュース(↑でいう強い酒ではない方の)を用いることがあるそう。強い酒以上に神様には癒しの力がある。神様にある健康、色んな意味で心身共に健康にしてくださる、その神様のくださるものを飲もう、そう勧めるわけですね。さらにはイスラエルで大切にされている過越しの祭り(イスラエルの民が400年近くの間エジプトの奴隷として捕えられていた後神様の助けによって解放され救われたことを覚え祝う祭り)で用いるぶどう酒も1/3を水で薄めたそうです。発酵したアルコール飲料ではないように徹底したようですね。アルコールではない純粋な神様の救いがある、そのことを示されたのでしょう。混ぜ物でも何でもない、イエス様が私たちの罪、死から解放するため身代わりに十字架に架かられ流された血潮、それに勝るものはなく、これが完全な力、救いを、癒しをあなたにもたらすわけです。

 

まあこのお酒の話は難しい話なのですが、このお酒に頼るか、神様に頼るか?これはどんな場面でもいえると思います。それが↑の「王の恐ろしさは若い獅子がうなるようだ。彼を怒らせる者は自分のいのちを失う。争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す」という言葉に繋がってきます。

 

特に私たちが陥りやすいのは「こんなお酒は私の中では強いうちに入らない、自分なら大丈夫」という考えです。まあこれ、飲酒運転をやる人が一番陥るのでしょうけど、自分は別に他の人に迷惑をかけていない、酔ってない、と。でも↑の強い酒の定義のように、自己解釈によって自分の主張、考えに酔って、神様のお酒と言いますか下さる恵みを否定する、御言葉を否定したり変えたり。こんなの役に立たない、これじゃあ酔えないよ、とかそんなことが人には起こるのです。あの人の言っていることは間違っている、この酒は酒じゃないから大丈夫、と言って神様がダメと言っていることを自分なら大丈夫と言って飲んでコントロールを失い、それによって、その主張、ことばによって(酔って)誰かを傷つけたり、迷わせたり。うまく説明できなくてごめんなさいね。でも本当にこれは誰しもが陥る話なんです。

 

王の怒りも、何か自分の経験や感情、先入観から来ている怒りならそれは間違った怒り、でもだからと言って自分がもし間違えているなら、それは素直にその言葉を受け入れる、それも大事です。ここで語られているように、肝心な命を失うことがない様に。まあ、怒りという杯をから感情をまき散らして相手を、関係を、何かを壊す、なんてことがあったら、肝心の神様のいのちというか、恵み、ご計画を、御心を失いかねない話なのですが。もしくはおいしそうな酒といいますか、ことばを勧めて相手のコントロールを奪う、ふらつかせる、なんてこともあってはいけない。それぞれの立場の違いがあるので、これ、という勧め方はできないのですが、ただ王の王なる神様はそんなことはしない。私たちにいのちをもたらしたいと語られ、導かれる。これは自分に合う酒ではない、ことばではないからいらない、とかこの酒はアルコール度数が足りないな、もっと強くしないと、と好き勝手に混ぜ物をするのではなく、この神様がもたらして下さる心身共に健康にしてくださる酒(先ほどの挙げたパウロからテモテに勧めた言葉の中にありましたね)、これをいただこう、そう訴えるわけですね。この世的な度の強い酒じゃなく、この世に妥協した酒でもなく、神様のくださるものはそこに完全をもたらして下さる。その方が私たちを満たし、強い酒じゃなくてもあなたを強めてくださるのです。

 

争いもそうですが、私たちは誰かと争っている場合ではありません。怒りの杯から飲んで争ったり…何より神様と争ってあなたの酒はダメだ、と言っている場合ではありません。神様はむしろ、私たちを癒し、救うため、私たちの思い煩いも痛みも全部身代わりに御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架に架け、死なせたのです。この流された血潮が私たちを満たし、癒す。この愛の力、死をいのちに変えられたこの血潮が私たちにいのちをもたらすのです。この神様の愛の酒と言いますか、流された血潮をいただく時、そこに復活のイエス様の力が豊かに溢れ広がり、働かれるのではないでしょうか。

 

イエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます」と語りました。このイエス様の命がけの愛からその英知が、いのちが今日もあなたに流れる。イエス様の裂かれたからだ、流された血潮を覚え、いただこう。そうしてイエス様が私たちを今日も生かして下さる。死ではなく、この世のものが飲み食いして楽し見えるものを超えた神様の恵みを。私たちは冬、酒を飲まなければやってられない、と思うような厳し場面にこそ、このイエス様の御心が成ることを今日求めよう。このイエス様の流された血潮がすべてを癒し、変えて下さる事を信じ刈り入れの日をまとう。その日確かにあなたへの神様の英知、愛からくる御心が確かに現されるから。

 

グラスに入ったワインの画像