ソーダの上に酢を注ぐようなことをしない | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ。もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。北風は大雨を起こし、陰口をきく舌は人を怒らす。争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい。遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ。正しい人が悪者の前に屈服するのは、きたなくされた泉、荒らされた井戸のようだ。あまり多くの蜜を食べるのはよくない。しかし、りっぱなことばは尊重しなければならない。自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ。」

箴言25章20-28節

 

人にはどうも先入観なり、自分の考えをもとにあれこれ言いたくなる、したくなる傾向があるように見えます。まあ自分の考え、経験が正しい、そういう思いがどこかにあるのか、自分のプライドが高いからなのかわかりませんが。ただそれはあまりいいことを生まない。相手に対してもそうですし、自分にとってもそう。相手を傷つけたり、間違いや相手の方が優れていることを知った時、自分が落ち込むだけです。昨日の分かち合いの中でも見た、時宜にかなったことば・行動というのはそういう意味でも本当に重要ですね。むしろすべてにまさる神様の愛、知恵、御心がそこになることを願うなら全く新しい変化がもたらされるのではないでしょうか。何か不確定なことではなく、確かに存在しておられる、この天地万物を創られ、今も支えておられる、私たちにいのちを与え、その霊を吹き込み、愛してくださっている、何より私たちを救うために御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えてくださった天の父なる神様は今日もあなたをわが子と呼び、愛を注いでくださっている、導いて下さっている。今日、私たちはこの方を求めよう。この方の栄光・素晴らしさが現わされることを切に祈ろうではありませんか。

 

ということで、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンに向けて神様が語られ示された箴言、知恵・いのちのことばで、それを受けたソロモンが書き残し、さらにこれを250年後に南ユダ王国のヒゼキヤ王が、前王によって国が腐敗し、またアッシリア帝国の危機が迫る中で発見し、書き写した記録の続きになります。神様はこの箴言の最初の方で、「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである」と語られましたが、神様はどうにもならない私たちを追い詰めるのではなく、また神様の恵みを忘れたり、知らずに離れ、本当の喜びを知らずにいる私たちに、すべての初めなる神様がその知恵・御心をもって満たそうとしてくださっているんですよね。私たちが恐れるのは、世の中の様々な事象に対してではない、それらがあなたを恐れさせることはあっても、それから解放して命を得させてくださる神様なんだ、と。

 

そんな神様は、この愛ゆえになおソロモン、またヒゼキヤに、さらに私たちに向けて示されたのですが、↑で「心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ」と語られます。他にもいろんな事象に対する知恵を神様は示されていますが、ここに全ての根幹になることばが語られています。まあなかなか面白い表現がされていますが、神様は私たちにわかるように語られるんですよね。時々日本と文化的に違うからわかりづらいことがありますが、まあそれは訳の問題で、当時の人たちにとって、その背景から分かるようにいつも語られていた。今も聖霊様が分かりやすく教えてくださる、わかることができるよう助けてくれています。色んな人を通して示されて残された本などたくさんありますし、教会の牧師やいろんな方を通して示される。そういう意味で神様はいつでもどんな時でもご自身の愛を、知恵を、その御心を現されるから、私たちはこの神様を求めていいのです。

 

それで、この「心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり」ということばですが、これはその人のためになる慰めの歌などはときには力になることがあるかもしれませんが、それとは真逆の歌、その人の、ある意味では時宜にかなわないような歌を元気よく歌っても相手の人を余計に落ち込ませることがあります。でも考えてみると、その歌を歌うにしたって、その相手の人のためになりそうな歌を探したり、そういう歌詞を探すでしょう?もしくは、その人のためになりそうな何か行動を考え、捜すと思うのです。「歌」というところにとどまらずに、自分の理想論をただ心配している人の前でいたずらに語ったり、持論をある意味で「歌う」のではなく、その人が寒くつらい状態に暖かい服を着せてあげる行動が必要だと思いませんか?要するにそういう事なのです、これは。歌を歌ってはいけないとかそういう事ではなく。

 

これ、本当にありますよね。この25章の中で「時宜にかなったことばをかたる」・行動する、ということを勧められていましたが、まさにそういうことですね。時宜にかなった行動をその心配する人のためにする。ただいたずらに持論を展開するのではなく、無責任に大丈夫大丈夫、と言うのでもなく、一緒に寄り添う、一緒に祈る、一緒に御言葉に聴く、神様の時宜にかなった助けを求める、その時に神様が温めてくださる、心配を取り除き、私たちの口に喜びの歌を授けてくださる、喜びの日を迎えさせてくださるわけです。

 

ちなみに「ソーダの上に酢を注ぐようなものだ」ともありますが、現代のソーダとは少し違います。現代のソーダに酢を注ぐと少し泡立つ程度だそうですが、当時のソーダというのは、「炭酸ナトリウム(ナトロン)や炭酸水素ナトリウム(重曹)のような天然のアルカリ性物質を指します。これに「酢」(酸性)を注ぐと、激しく泡立って反応する」そうです。つまり、穏やかでいられない、相容れない反応が起こる、ということ。はい、それほど無意味でかえって逆効果を与えるものはありませんね。相容れない反応を起こしてどうしましょう。それは反発と痛みを与え、かえって互いの仲も、また心配している事さえ悪い方向に向かわせてしまう。

 

そういう時宜にかなっていないことばをかたったり行動をするのではなく、神様の時宜にかなったことば・行動に身を委ねる、語る時、その人の内に神様の御業が反応し、驚くべき調和をもたらすことができるのではないでしょうか。

 

これ、他人事のように私たちは見たくなりますが、本当によくやる事です。自分の正しいと思うことを相手の人に押し付け歌う、語る、今その人に本当に必要なことは何なのかを考えずいたずらに行動・歌う、語る。本当に正しいことは何なのか、これは難しい所でそんなことを言ったら何もできない、と言われてしまうかもしれませんが、神様は心配してくださっているのです。

 

多くの迫害や苦労、痛みを追ってきたイエス様の12弟子の一人ペテロは、老年になって「…神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と手紙に書き残します。神様は神様の御前にへりくだるものに恵みを与えてくださる。神様は何もしないのではなく力強い御手をもって働かれている、心配してくださり、それだけではなく働かれている、だからこそ、この神様の恵みに、力強い御業に信頼し委ね、従おう、と。

 

この約束、あなたは信じますか?何より私たちは神様に頼るべき時、心配している時に、かえって自分で、ソーダに酢を混ぜるようなことをしていませんか?神様が起こすアクション、反応ではなく、自分で神様と相容れない行動を起こしたり、神様自身を自分と、またこの状況と相容れない、と言って逆の行動、そんなことしてどうするの?という事をしていませんか?

 

↑の「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる」。これは特になかなか受け入れづらいことかもしれません。しかし、人の思いは怒りや復讐。しかし神様は「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」と、この箴言のことばのように愛することを教えています。復讐は主のもの。というよりも、神様が驚くべきことをその愛の行動を通して成される、それでその人が悔い改め変えられるかもしれない。何でこの人は自分にこんなことをするんだ?と私たちの信じる神様とは誰なのか、と求め始めるかもしれない。あとは神様に委ねる、その先はその人の決断なのですから。私たちも同じです。うまくいかない、何でこんな状況?と思う中にあって神様を憎むような言葉を、炭火を置くのではなく、神様に委ねる。後は神様が報いてくださるのです。神様が、ソーダと酢とは別なおどろくべき反応を起こして下さるのです。

 

「北風は大雨を起こし、陰口をきく舌は人を怒らす」。そんな事よりも晴れた元気な日をもたらされる方が良いでしょう。「争い好きな女と社交場にいるよりは、屋根の片隅に住むほうがよい」、争いを起こすのではなく平和をつくるもの、平和を願ってみませんか?何より平和をもたらされる神様、いのちをもたらす神様を求めず何を求めましょう。神さまなんてどこにいるのさ、と探し回る中にあって神様はすぐ傍におられる。

 

何より私たち罪人、神様から離れ、相容れないと離れてしまった私たちを救うために、神様は御子イエス様を人として生まれさせてくださり、その間に住まわせて下さり、ありとあらゆる愛を現され、とても相いれないだろうと周りが思うような人たちにまでその愛を現されました。社会から見捨てられた人から、罪人、裏切る者たちに至るまで。それでも、イエス様を通して神様はご自身を現そうとした。それなのに、このイエス様を受入れない人々を見て神様は、私たちを見捨ててイエス様をご自身のもとに連れ帰すのではなく、かえって私たちの罪を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけ、罰し、死なせたのです。そこまでしてでも、イエス様のいのちを私たちに注ぐ、血潮を注いででもあなたに神様の愛を完全に現し、驚くべき反応を起こされた、変えられるのです。死をいのちに変えたのです。イエス様の十字架の御前に悔い改め立ち返る全ての人の内に。イエス様の復活のいのちと同じ恵みに与らせ、見捨てられるどころか、神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

「遠い国からの良い消息は、疲れた人への冷たい水のようだ」。世の思い煩いや痛み、何より罪に疲れ旅し地得る私たちにイエス様はこのように冷たい、生き返る水、ご自身のいのちを差し出して下さった。あなたはこれをいただくだろうか。「正しい人が悪者の前に屈服するのは、きたなくされた泉、荒らされた井戸のようだ」とあるように、あなたを恐れさせるものに屈してはいけない。むしろこの神様の御前にへりくだり、神様の起こすおどろくべき反応を待ち望もう。その神様の愛があなたを潤し、満たす、聖霊様で満ち溢れさせてくださるから。「あまり多くの蜜を食べるのはよくない。しかし、りっぱなことばは尊重しなければならない」。見た目良いものを追い求めるんではなく、本物の立派なことば、いのちをもたらされるイエス様を何より尊重、求めよう。そこに神様のくださる蜜、喜びがあなたを満たして下さるから。「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」。今日私たちはこの神様に心を委ね、歩みたいものですね。神様があなたのいのちを守られ、建て上げてくださる、その素晴らしい日々、町をどこまでも求めようではありませんか。

 

聖書、箴言からの引用と果物