私が3番目に好きな(現役的という意味で言えば2番目に好きな)小説家である吉田修一の最新刊『続横道世之介』を読み了えましたよ。
この本が店頭に並んでいるのを見つけるまで、続編というその存在を一切知らず、店頭で「え、マジで?!」となって以来、ずっとずっと早く読みたかったものの、中国語試験なり他に読んでいた本なりがあったせいで読み始められず、故に先日ようやっと読み始めたらもう没入度がヤバイヤバイ。
著者からのメッセージつきでございました。
私は吉田修一作品の中で、『横道世之介』が本当に好きで好きで堪らなくてですね。
ネタバレをしないで読んでいただきたいので、未読の方は是非とも回れ右して書店に急いでください。
今なら文庫版出てますんでお安くお買い求めいただけます。
柴田錬三郎賞を受賞し、本屋大賞3位に選ばれた大傑作ですから、損はさせないと思いますよ。
映画化もされてるんですが、確かにすごく良くできてたんですけど、実は映画版は超大事な「ある場面」についての描写に触れてないので、私の中では最高に良くできた0点という感想を書いております。
……あ、今思うと、ここ最近、私の『横道世之介』評へのアクセスが多かったのは、この続編のせいだったんでしょうかね?
(以下、ネタバレあり)
で。
この『横道世之介』というお話は、長崎から大学進学のために上京してきた横道世之介が、大学で出逢ったいろいろな友人との交流を1ヶ月ごとに12分割して、季節の移ろいと共に1年描いたお話でございまして。
「長崎から大学進学のために上京」という部分が筆者のそれとも重なるので、私の中で世之介の進学先は法政大学だと思って読んでましたね。
物語は基本的に世之介と友人たちとの1年間を描いているんですが、時折、20年後の描写も挿入されてまして、要は友人たちがふとした時にあの頃のことを思い返し、そしてあの頃一緒にいた世之介の存在感を懐かしむという風な場面転換があるのですね。
先ずそれがすごく堪らない。
TBSラジオ『東京ポッド許可局』でいうところの「忘れえぬ人々」みたいなものですけど、時折ふと「そういえばあの時一緒にいたあいつ、今頃何してんだろう?」なんて思うこと、私はあるんです。
そういった、今もう一度逢ってどうこうしたいっていうまではいかないけど、でもちょっと気になったりする感じの、ノスタルジーが、この物語には溢れてるんですよね。
また、世之介のキャラクターが本当に良く出来ていて、一言で言えば「お人よし」なんでしょうけど、でも別にバカというわけじゃなくて、天然ボケにも似てるけど、でもそこまではいかない様な、どこか憎めずついつい一緒にいたくなる様な、そういうキャラクターとして本当に存在感があるんです。
映画版では高良健吾が演じてましたけど、見る前までは「大丈夫か?」なんて思ってましたけど、全然問題ない、本当に世之介そのものでビックリしました。
映画版も、これはこれで素晴らしいので是非とも見てもらいたいです。
ライムスター宇多丸師匠も「年イチで会いたい奴ら」という評を下しておりましたね。
で、実はここがこの物語の肝であり、映画では描かれてなかった核であるんですが、実はこの横道世之介という人物は、……実際に起きた「ある事故」の人物に当てられてるんですね。
新大久保で起きた事故なんですが、憶えてますかね?
JR新大久保駅の山手線路内に酔っ払いが転落して、それを助けようとしたカメラマンと韓国人留学生が線路内に飛び込み、結局3人とも轢かれてしまって亡くなってしまったという事故。
それのカメラマンが世之介だったというフィクションとして、この物語では扱われるんですね。
なので、物語の中では世之介がとにかく飄々と生きていくんですが、その先に待ち構えている悲しい出来事も思わずにはいられなくなるんです。
確かにフィクションだと思います、……が、横道世之介という人物が小説のキャラではなく、私たち現実側にまで飛び出してきて、本当にリアルな人物として確かにそこにいたんだっていう風に、これは本当に思わされるんです!
これが肝であり、すごく大事な核であります。
で、その実際に亡くなられた方のカメラマンさんも、きっとそういう正義感の強い人であったのであろうし、また世之介というキャラクターもそういう風に象られているので、そこを境にして現実とフィクションが曖昧にされているのですよね。
初めて読んだ時、それが本当に今まで読んだことがない体験だったんですよ。
虚構と現実の境がなくなる感じ。
まあ、3億円事件とか連合赤軍とかをモチーフにした実録ものとか、そういった類の物語は過去にもいろいろあるんでしょうけども、なんていうか「壁」というか「線引き」というものがあって区別はされてたと思います。
でも、『横道世之介』だけは、それが一切なかったんですよ。
偏に説得力だと思いますね。
それだけ世之介の存在感が絶妙にリアルで、本当に現実にいるんじゃないかっていう思わされる、説得力。
そういう吉田修一史上最高傑作のお話、……の続編なんですよ。
※ 前説が長くてスイマソンが、ここからが今作のお話です
前作は大学1年生の一年間が描かれてましたけど、今作は1年留年して卒業した後の一年間が描かれてます。
ざっくり書くと、バブル期最後の売り手市場に乗り遅れ、就職できずにウダウダしている世之介が味わう、そんな人生のどん底にいる時にでも人生は続いていくし、だからこその出会いもあれば経験もあるんだというお話でございます。
先ず、読んでいる私たちは世之介の最後を知ってるわけでして、その悲しみは常に切実に抱えてるんですけど、それ故にそんな彼がその末路に辿り着くまでにどんな人生を歩んだのか、彼は幸せだったのかということを考えさせられるわけですが、まず冒頭でいきなりパチンコしてるわけですよね。
すっごい肩透かし。
しかも、お目当ての台を見知らぬ女性と取り合ってるっていう、相変わらずな感じで始まります。
が、その女性「浜ちゃん」が、実は後々深く関わっていくことになるんですが、他にも大学時代から唯一付き合いの残っていた「コモロン」、彼の部屋でヒッチコックの『裏窓』的な感じで向かいのマンションを覗いている時に偶然見つけた女性「桜子」と彼女の子どもの「亮太」、……大学時代とは違う新たな人物たちとの一年に亘る交流が丹念にユーモアたっぷりに描かれていきます。
で、今作でも20年後の2020年に彼ら、……浜ちゃんやコモロンや桜子が世之介のことを思い返すシーンが挿入されてるんですが、前作と違うのは、彼らは全員、世之介が亡くなったことを知ってるんですね。
ご承知の様に、新大久保の事故は大きなニュースになりましたから、それからまた数年経ってるわけなので、みんな周知の事実なのであります。
なので、思い返し方も少し違う。
あいつ、今頃何してんのかなぁ、っていうのではなく、故人を偲ぶ様な感じ。
で。
続編ではさらにもう一つ、ギミックがありまして。
これがまた脱帽ものでした。
やっぱり吉田修一すげえ!横道世之介面白え!!ってなりましたよね。
この物語に出てくる桜子の子供の亮太、……世之介を思い返す2020年に東京オリンピックのマラソン選手になってまして、同じく世之介を思い返すコモロンや桜子、浜ちゃんといった面々は、亮太が出場する東京オリンピック最終種目の男子マラソンの応援に駆けつける様な形で進行していくんですね。
その光景がまた、すっごく有り有りと思い浮かぶというか、来年の東京オリンピックを想起させるという作りがすっごい秀逸で。
東京オリンピックの是非というのはまあ措くとして、その時の日本の熱狂ぶり、みんながコース上で選手を応援してる時の熱気とか、走ってる選手の思いとか、家族の緊張感とか、そういったその時その場所で詰まった全ての思いが凝縮してここに書き記されてるかの様な、そんな高揚感が一気に爆発しましたよ。
きっと、こういう光景が立ち現れるんだろうな、っていう、またしても現実と虚構との交錯する瞬間というか。
新大久保の転落事故という悲しい接点だけではなく、東京オリンピックという輝かしいであろう接点もまた繋がったっていう感覚。
で、その東京オリンピック男子マラソン代表の日吉亮太の子どもの頃に、横道世之介がいたんだっていう、その感覚。
本当に凄かった。
実際の男子マラソン選手の代表はまだ決まってませんでしょうが、決まった際にはきっと、この人が日吉亮太かな?なんて思ったりするんでしょうかね。
とにかく。
まあ、ネタバレして書いてきたんで、ここまで読んだ人は今更感たっぷりでしょうが、それでも是非ともこの『横道世之介』は読んでもらいたい。
面倒なら映画版でも良いや。
という感じで万感の想いにさせてもらいました。
ありがとう!吉田修一先生。
というわけで、次は、……綿矢りさと金原ひとみをすっとばして、
平野啓一郎の『「カッコいい」とは何か』に行きたいと思います。
ではでは。