成人を迎えた教え子たちへ①
皆と出会ったのは今から約6年前。
あのときの僕は、今の皆より少しばかり年上だった。
とにかくがむしゃらだった当時の僕を皆はどう見ていただろうか。
あれから約6年。
多くの人と出会い、多くの挑戦をし、多くの挫折と成功を経験し、多くの感動を体験した。
そして、多くの価値観に出会った。
その中で今の自分がいて、今だからこそ言えることがある。
あのときの自分には言えなかったこと。
大人になり、物事を知れば知るほど自分の無知がわかるようになる。
それは、決して負の出来事ではない。
自分の無知を知ることで学びの大切さを知ることができる。
それを皆にも知ってほしい。
人から教えられるでなく、自らの体験を持って。
おそらく、若い皆には僕以上に知らないことがあるだろう。
そして、想像すらできないことも多くある。
だからこそ、多くのことを体験してほしい。
たくさんの人と話をするといい。
たくさんの本を読むといい。
真面目に勉強するといい。
真面目に仕事をするといい。
ときに不真面目になるといい。
たくさんの地を訪れるといい。
恋愛にうつつを抜かすもいいだろう。
自分自身を規定するには早すぎる。
多くの価値観に触れてほしい。
そのために今、行動を。
未知を既知に変えていく、その過程は何よりも楽しい。
それにより、自分が人に、そして社会に貢献できる喜びが生まれるからだ。
そんなとき心のダムが崩壊するような感動をするかもしれない。
脳内のパズルが吹き飛ぶような衝撃を受けるかもしれない。
それが自分という山の基底を形作る。
広ければ広いだけ頂上が高くなる。
いつか来る人生の大きな岐路に向けて選択肢を増やすといい。
いつとも知れず訪れるチャンスを掴み取れるよう可能性を広げるといい。
あのときの僕は、今の皆より少しばかり年上だった。
とにかくがむしゃらだった当時の僕を皆はどう見ていただろうか。
あれから約6年。
多くの人と出会い、多くの挑戦をし、多くの挫折と成功を経験し、多くの感動を体験した。
そして、多くの価値観に出会った。
その中で今の自分がいて、今だからこそ言えることがある。
あのときの自分には言えなかったこと。
大人になり、物事を知れば知るほど自分の無知がわかるようになる。
それは、決して負の出来事ではない。
自分の無知を知ることで学びの大切さを知ることができる。
それを皆にも知ってほしい。
人から教えられるでなく、自らの体験を持って。
おそらく、若い皆には僕以上に知らないことがあるだろう。
そして、想像すらできないことも多くある。
だからこそ、多くのことを体験してほしい。
たくさんの人と話をするといい。
たくさんの本を読むといい。
真面目に勉強するといい。
真面目に仕事をするといい。
ときに不真面目になるといい。
たくさんの地を訪れるといい。
恋愛にうつつを抜かすもいいだろう。
自分自身を規定するには早すぎる。
多くの価値観に触れてほしい。
そのために今、行動を。
未知を既知に変えていく、その過程は何よりも楽しい。
それにより、自分が人に、そして社会に貢献できる喜びが生まれるからだ。
そんなとき心のダムが崩壊するような感動をするかもしれない。
脳内のパズルが吹き飛ぶような衝撃を受けるかもしれない。
それが自分という山の基底を形作る。
広ければ広いだけ頂上が高くなる。
いつか来る人生の大きな岐路に向けて選択肢を増やすといい。
いつとも知れず訪れるチャンスを掴み取れるよう可能性を広げるといい。
気持ちにワンクッション
感情的な人は「気持ちにワンクッション置く」という技を身につけるといいと思う。
以前、自分に不利益があった際、相手を避難するでも、機嫌を損ねるでもなく、笑顔で許容した。
そのとき、たまたま離れていたため、冷静になるだけの時間があったからだ。
すると、その相手は反省だけでなく感謝してくれた。
お互い気分は悪くない。
むしろいい雰囲気だった。
感情をコントロールすることで行動が変化する。
自分は割と感情的な人間であるので、この出来事はいい教訓となった。
すぐにカッとなる。
衝動買いで失敗する。
早とちりでミスをする。
感情を最優先にして行動していては、色々な意味で身を滅ぼすことになる。
一呼吸おいて、冷静になる。
事態を客観視する。
感情をコントロールする。
感情が少し変わる。
すると行動も少し変わる。
当然結果も少し変わる。
この少しの変化が日常においては大きな意味を持つ。
とはいえ、判断は間を置かず、素早くできることが望ましい。
躊躇していては期を逸することがある。
その際の感情のありようとしては、冷静な判断に基づき、感情は後押しするくらいでちょうどいいのではないかと思う。
時間の短い昼休み、一刻も無駄にはできない。
ランチのメニューを見る。
食べたい気持ちにお預けをかけ、冷静にカロリー計算する。
そこで食べたい気持ちが後押しをする。
また、感情をコントロールすれば、その後の感情にも変化が起こるのではないかと思う。
「運動しなくてはなー。」
思いのまま食べるのとは意味が違う。
話はそれた上に、自分の昼食は仕出し弁当であり、そこに判断は伴わない。
しかし、人と接するときにも、判断時にも感情をコントロールすることは非常に大切である。
人からの忠告に対して感情で否定的な反応をしていては、その人は二度と忠告をしてはくれなくなる。
悔しい気持ちにワンクッション。
自分のためだと感謝し素直に受け入れる。
新たな成長の機会ができる。
小さなことは、大きなこと。
肝に命ずる。
以前、自分に不利益があった際、相手を避難するでも、機嫌を損ねるでもなく、笑顔で許容した。
そのとき、たまたま離れていたため、冷静になるだけの時間があったからだ。
すると、その相手は反省だけでなく感謝してくれた。
お互い気分は悪くない。
むしろいい雰囲気だった。
感情をコントロールすることで行動が変化する。
自分は割と感情的な人間であるので、この出来事はいい教訓となった。
すぐにカッとなる。
衝動買いで失敗する。
早とちりでミスをする。
感情を最優先にして行動していては、色々な意味で身を滅ぼすことになる。
一呼吸おいて、冷静になる。
事態を客観視する。
感情をコントロールする。
感情が少し変わる。
すると行動も少し変わる。
当然結果も少し変わる。
この少しの変化が日常においては大きな意味を持つ。
とはいえ、判断は間を置かず、素早くできることが望ましい。
躊躇していては期を逸することがある。
その際の感情のありようとしては、冷静な判断に基づき、感情は後押しするくらいでちょうどいいのではないかと思う。
時間の短い昼休み、一刻も無駄にはできない。
ランチのメニューを見る。
食べたい気持ちにお預けをかけ、冷静にカロリー計算する。
そこで食べたい気持ちが後押しをする。
また、感情をコントロールすれば、その後の感情にも変化が起こるのではないかと思う。
「運動しなくてはなー。」
思いのまま食べるのとは意味が違う。
話はそれた上に、自分の昼食は仕出し弁当であり、そこに判断は伴わない。
しかし、人と接するときにも、判断時にも感情をコントロールすることは非常に大切である。
人からの忠告に対して感情で否定的な反応をしていては、その人は二度と忠告をしてはくれなくなる。
悔しい気持ちにワンクッション。
自分のためだと感謝し素直に受け入れる。
新たな成長の機会ができる。
小さなことは、大きなこと。
肝に命ずる。
学びの意欲④
社会人になると自身の生活、家族の生活を担うようになり、仕事に対する責任が生まれる。
きちんと仕事をすれば評価を受け、ポジションが変化していく。
その場合が多い。
そして、業務上の目標が設定され、自身の働きの対価として賃金という報酬が与えられる。
当然、毎日をルーティンとして過ごしたとしても、一定の賃金をもらうことは可能だ。
その中で学びの意欲を生み出すにはどうしたらいいのか。
そこで重要になるのが「必要性を感じる」ことだと思う。
必要性は自身が自身を見つめたときに現れる。
学ぶのは紛れもなく自分である。
他人に決められた人生ではない。
だからこそ、自分が「こうしたい」「こうなりたい」というビジョンを明確に持つことが大切だ。
なりたい自分が明確になれば、それに届かないことが一種の欲求不満状態となる。
このときに必要性が生まれる。
「学ばなくてはならない」やがて「学びたい」となる。
我々理学療法士は学ばなければ患者さんを治すことができない。
知らないことは即ち患者さんの人生の幅を狭めることに繋がる。
また、患者さんはセラピストを選ぶことができない。
新人でもベテランでも診療報酬は同じである。
患者さんの人生を目の前にして、自身の力量不足に直面する。
このままでいいはずがない。
なりたい自分は「患者さんの期待に応えられるセラピスト」である。
患者さんのため、そして自分のため、やるしかない。
これが「必要性」である。
能動的に目標を明確化し、目の前の理想と現実のギャップから逃げないこと。
即ち、学びの必要性を感じることで学びの意欲は飛躍的に向上するものだと思う。
最後に、まだ目標が見つからないのであれば、それを探すべきだと思う。
それに加え、目の前のことに対して全力を尽くすことが必要だろう。
苦しくても頑張る。
それを楽しんでやれればなお良しである。
そのプロセスが財産となり、大きな目標へと繋がる日がくる。
ジョブズの言った点を線で繋ぐということを今はそう認識している。
きちんと仕事をすれば評価を受け、ポジションが変化していく。
その場合が多い。
そして、業務上の目標が設定され、自身の働きの対価として賃金という報酬が与えられる。
当然、毎日をルーティンとして過ごしたとしても、一定の賃金をもらうことは可能だ。
その中で学びの意欲を生み出すにはどうしたらいいのか。
そこで重要になるのが「必要性を感じる」ことだと思う。
必要性は自身が自身を見つめたときに現れる。
学ぶのは紛れもなく自分である。
他人に決められた人生ではない。
だからこそ、自分が「こうしたい」「こうなりたい」というビジョンを明確に持つことが大切だ。
なりたい自分が明確になれば、それに届かないことが一種の欲求不満状態となる。
このときに必要性が生まれる。
「学ばなくてはならない」やがて「学びたい」となる。
我々理学療法士は学ばなければ患者さんを治すことができない。
知らないことは即ち患者さんの人生の幅を狭めることに繋がる。
また、患者さんはセラピストを選ぶことができない。
新人でもベテランでも診療報酬は同じである。
患者さんの人生を目の前にして、自身の力量不足に直面する。
このままでいいはずがない。
なりたい自分は「患者さんの期待に応えられるセラピスト」である。
患者さんのため、そして自分のため、やるしかない。
これが「必要性」である。
能動的に目標を明確化し、目の前の理想と現実のギャップから逃げないこと。
即ち、学びの必要性を感じることで学びの意欲は飛躍的に向上するものだと思う。
最後に、まだ目標が見つからないのであれば、それを探すべきだと思う。
それに加え、目の前のことに対して全力を尽くすことが必要だろう。
苦しくても頑張る。
それを楽しんでやれればなお良しである。
そのプロセスが財産となり、大きな目標へと繋がる日がくる。
ジョブズの言った点を線で繋ぐということを今はそう認識している。
学びの意欲③
子供達の中で、あるいは大人の中でも、漠然と「何のために学ぶのか」「何のために勉強するのか」そんな疑問が生まれる。
人生において、勉強はしなくても何とかなってしまう場合が多いように思う。
特に子供においては、勉強をしなくても日常的に困ることは少ないし、勉強をした場合にも自覚的には数字上の成績が上がる程度の報酬しかない。
実生活に結びつく成長が見えにくいのではないかと思う。
そんな子供達も受験期になるといよいよ本腰を入れて学ぶ姿勢になる。
進学に向け、志望校という目標が設定されるからか。
そのまま疑問なく突き進む人もいれば、目標があっても途中でガス欠になる人もいる。
それはおそらくだが、進学のその先が見えていないからではないかと思う。
明確な目標のない努力を漠然と続けることはゴールのないマラソンのようなもので非常に辛い。
目標が見えない。
そんなときに「どうして勉強するのだろう」の問いが生まれる。
これは、試験合格のため、資格取得のための教育に生まれがちな問題である。
確かにそれが疎かになれば、本来の目標達成のためのスタートに立つことはできない。
しかし、教育において、実社会の色が薄く、社会人としての実務を現場に出てから学び直すことが多い状態では、今勉強する意味が見出せない。
すると、学びから遠ざかり「勉強する意味がわからない」という深みにハマってしまう。
最終的な目標はペーパーテストで100点を取ることではない。
テストの点を取ることはその先にある目標を達成するための手段にすぎない。
だからこそ、その先の目標・目的対する教育が必要なのではないかと思う。
テストで点数を取るための勉強をするだけでなく、第一線で活躍する社会人を招いて実社会ではどういうことをしている、そんな話を聞いてもいいだろう。
また、現場の空気を味わうという意味で、仕事の本質はわからないにしても職場体験は非常にいいシステムだと思う。
また、そういった教育を父親・母親ができたらいいなと思う。
働く父・母の姿を子が見る機会はほとんどない。
自分を育ててくれる人間の、かっこいい背中を見せられること、それはすごくいい教育だと思う。
これは、目標として将来やる仕事を決めるというのではない。
目標を明確にするためにその可能性を広げることである。
学びの先にどういうことが待っているのかを知ること。
学びの可能性を知り、未来に対するイメージや希望が持てること。
それが目標を持つことに繋がり、学びの意欲が変わってくるのだと思う。
人生において、勉強はしなくても何とかなってしまう場合が多いように思う。
特に子供においては、勉強をしなくても日常的に困ることは少ないし、勉強をした場合にも自覚的には数字上の成績が上がる程度の報酬しかない。
実生活に結びつく成長が見えにくいのではないかと思う。
そんな子供達も受験期になるといよいよ本腰を入れて学ぶ姿勢になる。
進学に向け、志望校という目標が設定されるからか。
そのまま疑問なく突き進む人もいれば、目標があっても途中でガス欠になる人もいる。
それはおそらくだが、進学のその先が見えていないからではないかと思う。
明確な目標のない努力を漠然と続けることはゴールのないマラソンのようなもので非常に辛い。
目標が見えない。
そんなときに「どうして勉強するのだろう」の問いが生まれる。
これは、試験合格のため、資格取得のための教育に生まれがちな問題である。
確かにそれが疎かになれば、本来の目標達成のためのスタートに立つことはできない。
しかし、教育において、実社会の色が薄く、社会人としての実務を現場に出てから学び直すことが多い状態では、今勉強する意味が見出せない。
すると、学びから遠ざかり「勉強する意味がわからない」という深みにハマってしまう。
最終的な目標はペーパーテストで100点を取ることではない。
テストの点を取ることはその先にある目標を達成するための手段にすぎない。
だからこそ、その先の目標・目的対する教育が必要なのではないかと思う。
テストで点数を取るための勉強をするだけでなく、第一線で活躍する社会人を招いて実社会ではどういうことをしている、そんな話を聞いてもいいだろう。
また、現場の空気を味わうという意味で、仕事の本質はわからないにしても職場体験は非常にいいシステムだと思う。
また、そういった教育を父親・母親ができたらいいなと思う。
働く父・母の姿を子が見る機会はほとんどない。
自分を育ててくれる人間の、かっこいい背中を見せられること、それはすごくいい教育だと思う。
これは、目標として将来やる仕事を決めるというのではない。
目標を明確にするためにその可能性を広げることである。
学びの先にどういうことが待っているのかを知ること。
学びの可能性を知り、未来に対するイメージや希望が持てること。
それが目標を持つことに繋がり、学びの意欲が変わってくるのだと思う。
学びの意欲②
そこで、学びの意味を自分の過去を振り返って考える。
学生時代に取り組んだ様々な学び、科目には一体どんな意味があったのだろう。
自分は勉強ができる方ではないが、その分努力はしてきたと自負している。
小学生の頃は新しいことを学ぶことが楽しかった。
素直な学びだったように思う。
中学生ではテストでいい点を取りたかった。
そして、気に入った高校に行きたかった。
そのための学びだった。
高校生になると自分の好きなことを好きなだけしたかった。
そのために文句を言わせないよう勉強をしていた。
学生としてやるべきことはやる。
そんな勉強だった。
大学生では理学療法士になるため、そして、なってから関わる患者さん、家族を幸せにしたいと思い励む勉強だった。
塾講師として国語・現代文を教えていたとき、学びの意味として重きを置いていたのは以下のことだ。
素早く要点を掴み、相手の気持ち・意図を推し量ること。
そして、会話の中身を共有し楽しめるようになること。
これらは人間関係においても、仕事をする上でも、本を読む上でも必要な能力だと思っている。
こう考えると自分にとって 学び、勉強というものは、何かしらの目的・目標を達成するために行うものなのであろう。
つまり、学びに対する意欲・動機には目標・目的が深く関わっていると言える。
それを定め想像し行動することで学びの意欲・質は向上していくのだろう。
続く…
学生時代に取り組んだ様々な学び、科目には一体どんな意味があったのだろう。
自分は勉強ができる方ではないが、その分努力はしてきたと自負している。
小学生の頃は新しいことを学ぶことが楽しかった。
素直な学びだったように思う。
中学生ではテストでいい点を取りたかった。
そして、気に入った高校に行きたかった。
そのための学びだった。
高校生になると自分の好きなことを好きなだけしたかった。
そのために文句を言わせないよう勉強をしていた。
学生としてやるべきことはやる。
そんな勉強だった。
大学生では理学療法士になるため、そして、なってから関わる患者さん、家族を幸せにしたいと思い励む勉強だった。
塾講師として国語・現代文を教えていたとき、学びの意味として重きを置いていたのは以下のことだ。
素早く要点を掴み、相手の気持ち・意図を推し量ること。
そして、会話の中身を共有し楽しめるようになること。
これらは人間関係においても、仕事をする上でも、本を読む上でも必要な能力だと思っている。
こう考えると自分にとって 学び、勉強というものは、何かしらの目的・目標を達成するために行うものなのであろう。
つまり、学びに対する意欲・動機には目標・目的が深く関わっていると言える。
それを定め想像し行動することで学びの意欲・質は向上していくのだろう。
続く…