宇宙旅行記*
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仮止めの選択。

最近、「“答えはない”というのが真実の答えだ」という主旨の本や主張をよく見かける。

たぶん、手っ取り早く誠意があるように見せられるから、受け入れられやすい論なのだろう。



私はこの論に対して反対はしない。

しかし、生きている限り選択を避けることは不可能なことだ。
(何かを主張しない、という行動を選択することは可能だが)

(「選択」と対になる単語が存在しないことも、その事実の現れか)

選択を避けるという行動そのものが正義であるとは、私は思わない。




誠意ある選択と誠意ある無選択は、同じくらいの価値を持つのではないだろうか。


同じく、無意識(思考停止)のままされた選択と、無意識(思考停止)状態による無選択も、詰まるところ似たようなものだ。


そういう前提があったうえで、覚悟を持って何か主張をする人に、私は敬意を払う。

それに人が行き着く答えなんて所詮、仮止めせざるをえないことだ。




この宇宙に無限にあり得る組み合わせの中で、人は結局何かを選んでいる。

様々な角度から想像する力は無論重要だが、いずれは何かを選択している。

生きる限り、選ぶしかないからだ。

だから、「編集」という概念を私は大事にしているのかもしれない。

 

夏の日。

気温が上がると息がしにくくて苦しいし、じめじめしているから夏はあんまり好きじゃない。
でも、圧倒的な夏に囲まれると、心地よく無心になれる感覚がある。

朝、家を出る。強い日差しが素肌に降り注ぐ。蝉の大きな鳴き声しか耳には入らない。
木陰の道を静かに歩く。暑いけど、それでいて不思議と涼しい。
視界にはひたすら、濃い緑。強い緑。
そしてちらちらと、木漏れ日。
一年で一番喜んでいる様子で、木々や草は生い茂り、虫たちは飛び回る。
生命力。そんな言葉が頭をよぎる。
まるで自分だけがこの夏を歓迎してないかのようで、孤独になる。

冷房の効いた館内に入ると、そんな淡い孤独感は吹っ飛び、蝉の声も小さくなる。
同時に、何か他のものも飛んで行った。そんな気もする。
均された空間の中で、均された気温で、私は日常を淡々と過ごし、生きている。
そうしている間に、いつのまにか、どこかへ行ってしまうんだよね。夏って。

今年もまだ、夏の日を掴まえられないでいるまま。


 

電子書籍考

を、乱雑にメモ。

 

「革命を」の文字と共に最近目にする、 読書 とは、いったい何なのだろう?

 

本は、モノである。内容は、コンテンツである。そう考えたときに

コンテンツの波をざぶざぶと泳ぎわたることが読書なのか。

それとも、モノにしか宿らない何かを感じ取ることが読書と呼ばれるのか。

(後者であるとすれば、電子書籍で読書はできない。)

(どちらか一方に絞れるものではないのかもしれない。)

 

先日、先輩の実家にある蔵で、詳細は省くが、ものすごい体験をさせて頂いた。

その時に直観したことがある。

うまく言葉にならないけれど、「本ってやっぱり、思想だったんだ」、って。

蔵の中にある大量の書物を眺めながら、ページはめくらずとも、そのモノに宿る何かを、

私は、確かに感じたのです。

 

逆に考えると、思想でない本は、モノでなくてもいいのかも?

大量生産され、大量消費され、時が移ろうにつれ、自然と消えゆく商業用書籍。

これらは「革命」された読書体験の中でこそ活きていくかもしれないね。

資源も守られるし。ただ、紙をめくるという読書体験が減る要因にはなるだろう。

長い目で見たときに、それは資産か、負債か?

 

恋愛でよくある「見た目は関係ない」とか「この人の性格や精神性が好きだ」というのを

本に置き換えて考えられるだろうか? 例えば……

「この本に書いてある思想が好きだ。尊敬している。それはどこで読んだって変わらない」

ということで、電子リーダーやケータイ、PC等に映された文字の羅列を見て、

本(モノ)で読んだ時と同じような感動と敬愛の念を抱く。

 

うーん、きっと無理。違う体験になるんじゃないか。

そう考えると、容れ物ってすごく重要だな。

内容が一緒でも、違う媒介で触れればそれは別物になるのだから。

(恋愛と一緒…… でいいのか?笑)

 

 

遠距離恋愛考察。

遠距離恋愛の辛さっていうのは物凄いものがあって、言葉にするのが難しいなとずっと感じていた。

同じ経験をしたことのある人たちとその話になると、過信ではなく目で通じ合うことすらできる。

あぁこの人は、あの辛さを知っている眼をしている、ってわかるようになる。


どこからが“遠距離”か。

学生時代の友人が、「彼が埼玉に住んでいて自分は神奈川だから、遠距離だし全然会えない」と嘆いていた。

私の感覚だとそれは遠距離恋愛とは言わない。でも、年齢によるだろう。もし自分が小学生だったらそれは途方もない距離かも。


「忙しくて会えない」と「遠いから会えない」というのは、けっきょく会えない辛さがあるという点では同じだと思う。

でも絶対にその質は違う。

遠距離恋愛って、なんかこう、「相手が違う土地に住んでる」って観念に襲われる感覚があって。

「異空間にいる」とでも表せばいいのかな。

その悲しさともどかしさが会えない辛さに拍車をかけて、逆に会えた時の安堵感が、すごい愛のパワーを持つ。


愛する人が異空間にいるというのは身の切られるような思いをする。

極論、愛する人の死というものと遠距離恋愛というものは、こちら側かあちら側かという線引きの違いはあれど

異空間に分かたれた痛みというものの質は、似通うものがあるのではという推測は行き過ぎだろうか。


10年間もこんなことばかり考えているから、頭おかしくなるのかな。笑

恋愛のことはなかなか真剣に論じる場がないから、こうして吐き出してみたりする。

主観と客観。

主観と客観については自分の人生の中での主要テーマの一つ。
結構常に考えている。


“客観的な文章”、という表現は昔から嫌いだった。
大学四年次にジャーナリズムコースを専攻していたときも、
様々な授業で“客観的な文章”というワードが飛び交い、推奨され、持て囃された。

そういう価値観に虫唾を走らす日々だった。
他の誰でもない“自分”が書く文章が、どうして客観的でありえようか。

でも、この半年間ライティングを学校で学ぶうちに
プロの人たちが言う“客観的な文章”の、真意が掴めてきた気がする。

やはり自分が表現するのだからそれはどこまでいっても主観的なものであるが
客観の存在をどこまで意識して文章が書けるか。ということを言いたいのではないかなと。


主観や、本当に伝えたいことを表現するとき
嫌でも客観の存在を意識せざるを得なくなる。

そして、客観を意識して表現した文章が、“客観的な文章”と呼ばれている。ような気がする。

それは純粋な“主観”だけで書いたものとは違う表現になる。
誰かに読んでほしいと思うものでないのなら、客観を意識する必要はないのだから。
意識が変われば、出力も変わる。

純然たる主観のみの表現で伝わりあうことは有り得るか。
人間の可能性として、未来に有り得るのだとしたらそれは面白いかもしれない。
とりあえず今の時代だと、ロマン主義でない限りそう信じることのない説なのだろう。


ところで、ツイッターがここまで普及したのは、
主観的な文章を打つことがアフォードされているからではないだろうか。

ツイッターが快感なのは、一般に、「多くの人に伝えたいこと」、「理解してほしいこと」を
書くわけではないから、客観を意識するストレスがなく、精神面技術面共にラクなのだろう。

そう考えると、文章を仕事にするというのはかくも辛く、難しい。


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