宗教ってなんだろう。
宗教や信仰の選択って要するに、自分はどの世界に生きるのかということ。
自分らには、既成の物語の中で生きるという選択もあるのだ、ということ。
人類皆が同じ世界に同じように存在しているわけではない。
世界はもっと複雑に、多重に存在しているのではないか。
こういう感じ方もまた、一つの世界観。
初めから選択している物語が違うのだ、そう考えることで
宗教間の戦争は無くなり得ないだろうか。
「同じ世界に生きられない」という事実よりも、
争いが起こることのほうがずっと悲しいに決まっている。
いちねんまえの、自分に会う日。
2011年ももう終わりです。
小学生の時からの習慣なのですが、毎年タイムカプセルを作っています。
年越しのこの時にだけ、その小さな缶を開け、
一年前の自分が一年後の私に向けてしたためた書を読みます。
そのたびに思うのだけれど、これの持つパワーがけっこう凄い。
その年にあった重要な出来事だとか、好きな人、
来年に繋げていきたい活動の事項、
一年後の今頃はこう在ってほしいという願望や、
自分の行動パターンを予測した警告まで、けっこう読んでいてドキリとします。笑
365日前の自分に勇気づけられること、けっこうあるんだなって。
別に続けようと思って始めたわけではないけれど、これを読むと年末やけに気合が入ってしまって、
来年の抱負を書いて新年を迎えないと気が済まないので、結局ずっと途絶えないまま。笑
で、今年からは新たな企画として、
自分マトリックスを別紙で作成して缶に一緒に入れておくことをやってみます。
毎年の自分マトリックスを並べて眺めてみれば、自分の移り変わりを感じることができるというだけでなく、
自分から何かヒントが得られるかもしれない。
今年も沢山の方々にお世話になりました。感謝の念を忘れることなく、2012年も精進し続けます。
私の大切な人たちが希望にあふれた一年を過ごされること、心からお祈り申し上げます。
思考停止の脱サラ賛美
最近、会社を辞めて夢を追い始める人、
要は脱サラ組を称賛する声を聴くことが多い。
なんか、違和感あるんだよな。
いや別に、人生はその人のものなんだから好きに生きればいいんだけど、
辞めてしまった職場側の方に想像を働かせる人は、一体どれだけいるのだろうか。
そんなことが気になってしょうがない。
その人が辞めてしまっても、大丈夫な状態だったのだろうか?
重要なプロジェクトの主要メンバーで、大事な局面で突然の脱サラだったとしたら?
人員不足で、皆ろくに寝ずに働いている中での脱サラだったらどうだろう?
その他様々な事情やバランスで成り立っているのが、職場というものだ。
仮に、自己の欲望のみを見つめての脱サラなのだとしたら、
仮に、相手の声を無視できるような心性なのだとしたら、
その人が、そうまでしてやりたいことってどれだけのことなのだろう。
まぁ前提として会社というものは普通、
誰か一人が辞めたくらいで回らなくなるとか先が暗くなるとか、そうはならない。
ただそれはマクロな視点で会社を見たときの状態であって、
誰かがチームを脱した負担は、必ずや他の誰かに降りかかっている。
脱サラ称賛組は、そんなところは気にもならないのかな。
それとも、それを考慮したうえでもやっぱり脱サラって無条件に称賛に値するもの?
なんか夢を追っている感じがカッコイイ?
リスクを負ってまでやりたいこととは、その時点で価値のあるものに変わるの?
逆転して、脱サラ組に向けて皮肉を発する人々も存在するわけだけど
これはなんだろ、多かれ少なかれ、僻みなんでしょうね。笑
もっと世の人全体的に、
視点を増やすよう励まないといけない気がしてならない今日この頃。
世界はきっと、より各様な視点から捉えられる。
抽象的革命論。
気に入らないものは、丸ごと新しいものと取り替えてしまえ。
って思想があんまり好みでないことに気が付いた。
どれだけフォーム(型)を変えずに、新しいものとして生まれ変わらせることができるか。
それはモノゴトを多角的に見るということや、
今までの捉え方を新しいものに置き換えてみることと通じている。
型をそっくり入れ替えることを、革命というふうには、私はあんまり思いたくない。
「世界を変えたければ、分母を変えろ」
これは、ある編集学校の先生から教えて頂いたこと。
もし、現行の何かが気に入らないのであれば、自分の理想と見比べてみて、まずは通分してみる。
型にはきっと理由がある。
今まで続いてきたものなら、尚更に。
安っぽいロックには興味がないから。
「私」と本質について
●私とは何か
哲学をやり始めた頃から、「私とは何か」というテーマについてはずっと考えてきた。
「私とは何か」について考えていると、「本質とは何か」という主題が自然と浮かび、同時に考えていることがよくある。
「私とは何か」、と考えてみると、例えば、他者が私を視覚的に認識するためのこの私の体であるが、これは「私」の本質であろうか?
否、いま私が両手や両足を切断したとしても、あるいは減量に成功して大量の贅肉が体から消え去ったとしても、
私は「私が無くなった」とは考えないであろう。
体これ自体が「私」であるとは、どうも考えにくい。
性格や思想が「私」なのだろうか?
しかしこれもまた同様に、腑に落ちない。
人生に劇的な出来事が起き、ガラリと性格が変わったとして、「私」は「私」でなくなった、と言えるのだろうか。
物の考え方や捉え方が変わることも生きていれば多々あると思う。その度に「私」が居なくなるわけではない。
「性格、変わったね」と他者から言われるのは一貫して「私」であるし、それを自覚するも否定するも「私」自身だ。
では、「私」とは一体何であるか。
いずれにしても具体的な形を以て「私はこれです」と差し出すことは不可能なような気がする。
だからこそ、私を「表現する」ということが出来るのではないのかとも思う。
蛇足だが、表現にも色々な方法があって、音楽であったり、絵であったりする。
更に蛇足だが、文字で私を表現するのならば、私は自分を、「白と黒のあいだにふわふわ存在している人」とするのがぴったりだと思っている。
●本質とは何か
省いたり、他のものと取り換えても「私」が「私」であると言えるところのこの部分こそが「私」であるのではないかと、私は考えている。
そして同時にそういうところのものこそが「本質」と呼ばれるものと近い意味を持つのではないかと最近考え始めた。
例えば、「学校とは何か」と問われたら、私たちは何と答えるだろうか? これは学校の本質を考えることと同じことのような気がする。
考えてみる。学校と聞いてまず思い浮かぶことは何だろう。校舎のイメージだろうか。では校舎という建物自体が学校なのだろうか。
私は品川小学校と城南中学校を卒業したが、近年の小中一貫教育推進の流れで、隣接する両校は最近、一貫校となったようだ。
それに伴い新校舎を建てるのだそうで、今までの校舎は取り壊され、大幅なリニューアルがされているらしい。生徒はプレハブで授業を受けている。
もしも校舎が学校であるならば、この時点で私の母校は無くなったことになるのだが、それでも変わらず、品川小学校と城南中学校はまだ在る。
どうやら校舎自体は学校の本質ではない。
と言うよりも、海外には青空教室と呼ばれる学校が沢山あるし、校舎は存在しなくとも学校は存在し得ることは明白だ。
では教員や生徒が学校の本質だろうか。
なんとなくこれは簡単に「違う」と言えない感覚が私にはある。教員や生徒は学校の大事な構成要素だ。
ただ、何年も経てば生徒は学校から去り、教員も入れ替わりを繰り返す。
品川小学校や城南中学校に、かつて私が在籍していた頃の教員や生徒が一人も居なくなっていたとして、それでも、品川小学校も城南中学校も、まだ在る。
●本質を捉えると
人々がもっと本質を見つめるように意識すると、どうなるか。私は、この世の差別や偏見が一気に減ると思う。これは私の直観だ。
省いたり、他のものと取り換えることができるところのもので他者、あるいは自分自身を判断するから、差別や偏見が生まれているのではないかと考えている。
この人はこういう服装をしているからこういう人……
この人はこういう見た目をしているからこういう人……
この人はこういう団体に所属しているからこういう人……
この人の性別は…… この人の国籍は…… 等々、枚挙に暇がない。このような判別が差別や偏見の元なのではないだろうか。
ラベリングやカテゴライズされたものから個の本質を捉えることは不可能だ。
本質を見つめるためには、私たちはすべてを取っ払わなければならないのかもしれない。
●本質と本質でないものの、あいだ
ここまで述べておいてあれだが、私は、本質以外はすべて本質でないものであり、逆に本質でないものはすべて本質ではない、とは考えていない。
本質と、本質でないもののあいだには、綺麗な線引きができないような気がする。いずれにも属さない領域が両者のあいだに横たわっている。これも直観である。
これについてはもう少し思索を深めてから、あらためてエッセイを記したいと思う。