「私」と本質について
●私とは何か
哲学をやり始めた頃から、「私とは何か」というテーマについてはずっと考えてきた。
「私とは何か」について考えていると、「本質とは何か」という主題が自然と浮かび、同時に考えていることがよくある。
「私とは何か」、と考えてみると、例えば、他者が私を視覚的に認識するためのこの私の体であるが、これは「私」の本質であろうか?
否、いま私が両手や両足を切断したとしても、あるいは減量に成功して大量の贅肉が体から消え去ったとしても、
私は「私が無くなった」とは考えないであろう。
体これ自体が「私」であるとは、どうも考えにくい。
性格や思想が「私」なのだろうか?
しかしこれもまた同様に、腑に落ちない。
人生に劇的な出来事が起き、ガラリと性格が変わったとして、「私」は「私」でなくなった、と言えるのだろうか。
物の考え方や捉え方が変わることも生きていれば多々あると思う。その度に「私」が居なくなるわけではない。
「性格、変わったね」と他者から言われるのは一貫して「私」であるし、それを自覚するも否定するも「私」自身だ。
では、「私」とは一体何であるか。
いずれにしても具体的な形を以て「私はこれです」と差し出すことは不可能なような気がする。
だからこそ、私を「表現する」ということが出来るのではないのかとも思う。
蛇足だが、表現にも色々な方法があって、音楽であったり、絵であったりする。
更に蛇足だが、文字で私を表現するのならば、私は自分を、「白と黒のあいだにふわふわ存在している人」とするのがぴったりだと思っている。
●本質とは何か
省いたり、他のものと取り換えても「私」が「私」であると言えるところのこの部分こそが「私」であるのではないかと、私は考えている。
そして同時にそういうところのものこそが「本質」と呼ばれるものと近い意味を持つのではないかと最近考え始めた。
例えば、「学校とは何か」と問われたら、私たちは何と答えるだろうか? これは学校の本質を考えることと同じことのような気がする。
考えてみる。学校と聞いてまず思い浮かぶことは何だろう。校舎のイメージだろうか。では校舎という建物自体が学校なのだろうか。
私は品川小学校と城南中学校を卒業したが、近年の小中一貫教育推進の流れで、隣接する両校は最近、一貫校となったようだ。
それに伴い新校舎を建てるのだそうで、今までの校舎は取り壊され、大幅なリニューアルがされているらしい。生徒はプレハブで授業を受けている。
もしも校舎が学校であるならば、この時点で私の母校は無くなったことになるのだが、それでも変わらず、品川小学校と城南中学校はまだ在る。
どうやら校舎自体は学校の本質ではない。
と言うよりも、海外には青空教室と呼ばれる学校が沢山あるし、校舎は存在しなくとも学校は存在し得ることは明白だ。
では教員や生徒が学校の本質だろうか。
なんとなくこれは簡単に「違う」と言えない感覚が私にはある。教員や生徒は学校の大事な構成要素だ。
ただ、何年も経てば生徒は学校から去り、教員も入れ替わりを繰り返す。
品川小学校や城南中学校に、かつて私が在籍していた頃の教員や生徒が一人も居なくなっていたとして、それでも、品川小学校も城南中学校も、まだ在る。
●本質を捉えると
人々がもっと本質を見つめるように意識すると、どうなるか。私は、この世の差別や偏見が一気に減ると思う。これは私の直観だ。
省いたり、他のものと取り換えることができるところのもので他者、あるいは自分自身を判断するから、差別や偏見が生まれているのではないかと考えている。
この人はこういう服装をしているからこういう人……
この人はこういう見た目をしているからこういう人……
この人はこういう団体に所属しているからこういう人……
この人の性別は…… この人の国籍は…… 等々、枚挙に暇がない。このような判別が差別や偏見の元なのではないだろうか。
ラベリングやカテゴライズされたものから個の本質を捉えることは不可能だ。
本質を見つめるためには、私たちはすべてを取っ払わなければならないのかもしれない。
●本質と本質でないものの、あいだ
ここまで述べておいてあれだが、私は、本質以外はすべて本質でないものであり、逆に本質でないものはすべて本質ではない、とは考えていない。
本質と、本質でないもののあいだには、綺麗な線引きができないような気がする。いずれにも属さない領域が両者のあいだに横たわっている。これも直観である。
これについてはもう少し思索を深めてから、あらためてエッセイを記したいと思う。