“死ぬ”のは、いつ
人が“死ぬ瞬間”はいつなのだろう、と考えを巡らせては、頭が絡まることがある。
「死ぬ」というのは死ぬことなのだから、死んでいる状態のもの、無生物体が「死ぬ」というのはいささかおかしい。
生きているもの、生物体が「死ぬ」のであるからしてその語は初めて意味が分かる。
となると、生きているうちしか死ねないことになるが、生きているのだから死んではいない。
「人はいつか死ぬ」 という常套句があるが、正確でない気がしてならない。
仮に、生物から無生物へ変わっていく、その過程そのものを「死ぬ」と呼ぶのであれば、
私たちは、今、死んでいる。
混沌から秩序へ――Thinker&Writer という方法。
7月13日昼、NGO LIVEonWIREのメンバーらと共に
東京都写真美術館で行われている「世界報道写真展2011」に行ってきた。
こういう報道のカタチっていいな、と感じた。
場を一塊にした様々なジャーナリストの写真を通して、地球上の色々なコトを縦横無尽に見れる場所。
それは自分の好きなジャーナリストの情報ばかりを追うのとは全く違う意味を持つ。
世界を純粋に受け入れると、それは混沌であると思う。
私は報道の場は、混沌であっていいと考えている。
それらにどんな文脈を作って受け取るかは受け手の自由であるし、その世界編集の作業こそが重要だからだ。
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私は、世界の混沌に対して論理的に秩序を作っていく作業こそが哲学であると思っている。
哲学には論理、ロゴスが不可欠な要素でありそれはすなわち“言葉”だ。
言葉を紡いでいくこと。論理的に。
私が「Thinker&Writer」に決めたのはそういう理由もある。
考えることが趣味の私の頭の中には常にいろんなモノがあって、
容量の小さい私の脳内ではその混沌が時に爆発しそうになる。それはThinkerではない。
私の脳内の混沌に少しでも秩序を作るため、拙くも言葉にする。書く。そうして初めて哲学に成る。
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というわけで、おサボリ癖を反省しつつもっとブログ更新に努めようという決意表明でありました。笑
夏は、暑さのせいなのか昔の記憶のせいなのか、私の思考が最も停止する季節でもある。
そんな時期に論理的なブログか書けるかどうかの実験でもあります。さてどうなるのでしょうか。
日常が更新される境界線。
簡単には想像することのできない、たくさんの深い痛みや悲しみが生まれました。
謹んで、お悔やみ申し上げます。
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東日本大震災から10日以上が過ぎ、すでに多くの人々が“日常へ戻っている”ことについて、
賛否両論、周りでいろいろな声が聞こえますので、私も一言書いておこうと思います。
まず、“日常” というものは、日々更新されていくものだと思っています。
同じ日なんて、二度と無い。
そろそろ大震災の話題はやめて、いつもどおりの生活をしようとする人。
そんな人を見ては嘆き、心の中で非難している人。
両者は何が違うのか。いったい何が、両者をここまで違えるのか。
我が国で、大震災があった。たくさんの方が亡くなった。たくさんの方が、今でも、辛い。
この事実が、自分の“日常” の中に、組み込まれるのか、どうか。つまり
“日常” が、その事実を取り込んで更新されているのか、どうか。
そういうことなんじゃないか、と今思っています。
「こんなに人がたくさん死んだのにも関わらず、まるで何事も無かったかのように
日常へ戻っていく人を見ると、とても信じられない。彼らに感情は無いのだろうか」
このような声は、周りでいくらでも聞きます。そのたびに私が心で思うのは、
「チリやスマトラで大震災が起きた時、この人は何をしていたのだろう、何を思っていたのだろう?
今と同じような態度で、日常を更新し、周りの日常の様子を見ては、同じように焦っていたのだろうか?」
ということです。
これは、日本での震災にのみ心を痛めることに対しての批判ではありません。
要するに、どこで境界線を引いているのか、そういう問題だと感じているのです。
ある人にとっては、国境で線を引くのでしょう、
そしてまたある人にとっては、距離で線を引くのでしょう。物理的な距離、心の距離。
ある出来事によって自分の日常が更新される、その境界線。
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“日常へ戻っていく人々” を、非難する人々。
きっと彼らは、不気味に感じでしょうがないのだと思います。
「何故この人たちの日常は更新されない?」 って。
では、自分の住んでいる場所が直接の被災地にならなかった場合、
今回の大震災が“日常” に組み込まれない という日本人の状態は、
果たして、自然か? 不自然か?
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かくいう私も今まで、世界で起こり続ける悲劇に心を痛めているつもりではあったけど
ここまで当事者意識が生まれているのは、今回が初めてかもしれない。
それは、自然なことなのかも知れない、けれど……
もう一度、自分の中の無意識な境界線を、探し出して、そして見つめ直してみようと思います。
Thinker&Writer として。
私が伝えたいことは、
「“考える”ことをもっとちゃんと、みんなでしていこうよ」、ということです。
人はインプットとアウトプットのバランスを保つことがとても大事だと感じます。
でも、近ごろ私が頻繁に感じるのは、
アウトプット、すなわち行動の方のみへの価値の比重が
行き過ぎている人がとても多いということです。
質の良いアウトプットをする人たちは、
インプットとアウトプットの間に「考えること」を必ず挟んでいるように思います。
良質な思考、良質な哲学なくして良質な行動はできません。
“行動”は確かに価値をもたらしますが、
行動そのものが価値を持っているわけではないと思うのです。
極端なことを言うと、犯罪をした人、戦争を起こした人だって、“行動”をした人だと言えます。
この人がこんな行動を起こさなければもっと平和な未来はあったかもしれないのに、
そう考えられることだってたくさんあるはずです。
「とりあえず何かすれば良い」のかというと、そうではないと思うんです。
「行動の結果を恐れてばかりいろ」と言いたいわけでもない。
その代わりに、「もっと真摯に“考える”ことをするべきだ」と言いたいです。
感情的にではなく、理性的に、論理的に。
感情は、行動の原動力には成っても、
感情的な状態は、思考を正しく組み立てていく際の適切な条件には成りにくいからです。
話を戻すと、 “考える”ことの重要性、必然性を、
頭も良くなく、特別でもない、平凡な私こそが、もっと啓蒙していきたい。
世の中のみんなでやっていく必要があることだからです。
溢れかえる情報を取捨選択していかなければならないこの時代の私たちだからこそ余計に、
“考える”ことをあらためて意識していく必要も感じます。
すべては平和の道へと繋がることを祈って、です。
信じるということと、考えをやめるということ。
普段何気なく使っている「信じる」という言葉ですが、
信じるということは、考えることをやめることなのではないか
と、もやもや考え続けて1ヶ月ほど経ちましたがあまり進みません。笑
信じるということは、無条件に、それに託すことだと思います。
あらゆる可能性についてあれこれ考えていたら、そんなことできないと思うからです。
信じる、そう決めたら本来的には、それについて考えるのをやめるのだと思います。
(ネガティブに聞こえるでしょうか)
順番を変えて言うと、信じるという行為は、思考の先にしか存在しないものでもあると言えます。
考えて、考え抜いた先にたどり着いた答え、それ以外の答えはもはや自己の中に存在しない、
そう思えたものに託すことが、「信じる」こと。
それをせずに信じることは、「妄信」に近いと思います。
だから、本当の意味で何かを信じることができている人は、強いはず。
ありとあらゆる方向からそれについて考えた末に得た自分の答えだと言えるのだから。
そう考えると、何を信じて生きているかというのは、結局その人自身を表していることと同じなんだなぁ
と納得します。