日常が更新される境界線。
簡単には想像することのできない、たくさんの深い痛みや悲しみが生まれました。
謹んで、お悔やみ申し上げます。
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東日本大震災から10日以上が過ぎ、すでに多くの人々が“日常へ戻っている”ことについて、
賛否両論、周りでいろいろな声が聞こえますので、私も一言書いておこうと思います。
まず、“日常” というものは、日々更新されていくものだと思っています。
同じ日なんて、二度と無い。
そろそろ大震災の話題はやめて、いつもどおりの生活をしようとする人。
そんな人を見ては嘆き、心の中で非難している人。
両者は何が違うのか。いったい何が、両者をここまで違えるのか。
我が国で、大震災があった。たくさんの方が亡くなった。たくさんの方が、今でも、辛い。
この事実が、自分の“日常” の中に、組み込まれるのか、どうか。つまり
“日常” が、その事実を取り込んで更新されているのか、どうか。
そういうことなんじゃないか、と今思っています。
「こんなに人がたくさん死んだのにも関わらず、まるで何事も無かったかのように
日常へ戻っていく人を見ると、とても信じられない。彼らに感情は無いのだろうか」
このような声は、周りでいくらでも聞きます。そのたびに私が心で思うのは、
「チリやスマトラで大震災が起きた時、この人は何をしていたのだろう、何を思っていたのだろう?
今と同じような態度で、日常を更新し、周りの日常の様子を見ては、同じように焦っていたのだろうか?」
ということです。
これは、日本での震災にのみ心を痛めることに対しての批判ではありません。
要するに、どこで境界線を引いているのか、そういう問題だと感じているのです。
ある人にとっては、国境で線を引くのでしょう、
そしてまたある人にとっては、距離で線を引くのでしょう。物理的な距離、心の距離。
ある出来事によって自分の日常が更新される、その境界線。
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“日常へ戻っていく人々” を、非難する人々。
きっと彼らは、不気味に感じでしょうがないのだと思います。
「何故この人たちの日常は更新されない?」 って。
では、自分の住んでいる場所が直接の被災地にならなかった場合、
今回の大震災が“日常” に組み込まれない という日本人の状態は、
果たして、自然か? 不自然か?
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かくいう私も今まで、世界で起こり続ける悲劇に心を痛めているつもりではあったけど
ここまで当事者意識が生まれているのは、今回が初めてかもしれない。
それは、自然なことなのかも知れない、けれど……
もう一度、自分の中の無意識な境界線を、探し出して、そして見つめ直してみようと思います。