主観と客観。
主観と客観については自分の人生の中での主要テーマの一つ。
結構常に考えている。
“客観的な文章”、という表現は昔から嫌いだった。
大学四年次にジャーナリズムコースを専攻していたときも、
様々な授業で“客観的な文章”というワードが飛び交い、推奨され、持て囃された。
そういう価値観に虫唾を走らす日々だった。
他の誰でもない“自分”が書く文章が、どうして客観的でありえようか。
でも、この半年間ライティングを学校で学ぶうちに
プロの人たちが言う“客観的な文章”の、真意が掴めてきた気がする。
やはり自分が表現するのだからそれはどこまでいっても主観的なものであるが
客観の存在をどこまで意識して文章が書けるか。ということを言いたいのではないかなと。
主観や、本当に伝えたいことを表現するとき
嫌でも客観の存在を意識せざるを得なくなる。
そして、客観を意識して表現した文章が、“客観的な文章”と呼ばれている。ような気がする。
それは純粋な“主観”だけで書いたものとは違う表現になる。
誰かに読んでほしいと思うものでないのなら、客観を意識する必要はないのだから。
意識が変われば、出力も変わる。
純然たる主観のみの表現で伝わりあうことは有り得るか。
人間の可能性として、未来に有り得るのだとしたらそれは面白いかもしれない。
とりあえず今の時代だと、ロマン主義でない限りそう信じることのない説なのだろう。
ところで、ツイッターがここまで普及したのは、
主観的な文章を打つことがアフォードされているからではないだろうか。
ツイッターが快感なのは、一般に、「多くの人に伝えたいこと」、「理解してほしいこと」を
書くわけではないから、客観を意識するストレスがなく、精神面技術面共にラクなのだろう。
そう考えると、文章を仕事にするというのはかくも辛く、難しい。