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民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

 

 

手前味噌ですが「米田建築史学」の人気がじわじわと上昇中です。

 

他の歴史本に比べ、とっつきにくいことは有名ですが、著者が理系人間であるがゆえと思われます。

 

即ち、導き出した結論に惹かれるのは勿論ですが、謎解きの経過にときめきを感じる読者が多いのだと思います。

 

手法が発揮されるのは、建築分野とは限りません。

 

文学作品、地理、政治、宗教、登場人物の人間関係、等々の分析も純・文系の著者とは一味違います。

 

理系の人間が文系のテリトリーをかじることはあっても、その逆は珍しいのではないでしょうか。

 

類を見ないエンターテイメント的な要素を備え、知的好奇心をくすぐる歴史研究に対し、従来からの歴史学者と、それに付随する忖度アマチュア集団は定説を守る使命を帯びている限り、今後もボーっと生きていくしか術はありません。

 

米田氏は毎夕食後、直ちに自分の部屋にこもり、研究に没頭していたのです。

 

AB&JC PRESSのホームページ

 

お問い合わせ用Gメールabandjcclub@gmail.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

只今『柿本人麿の真実』手直し中です。掲載する予定の原稿です。

 

5.資科の発掘

 

史料は思わぬところに思わぬ形で眠っている。

 

私の最初の研究は法隆寺の建築が何時造られたかということを知りたいことに始まった。

 

と言うのは法隆寺の建築が再建なのか、非再建なのかの論争が明治以来続いていたからである。

 

決着の付かない論争、何時造られたかが分からなけれぱ知りたくなるものである。

 

当時、木造住宅の設計をやっており、施工にも隈なく目を光らせていたから、法隆寺の建築の細かいところまで知れば、次の道が開けるのではないかと思った。

 

解体修理工事が行われていたことは知っていたし、大学の研究室には大部の報告書が置かれていたことも記憶していた。

 

まず知ろうと言う事で、金堂と五重塔の報告書を大学から借り全部を読んでみた。

 

読み終わって思ったことは、この報告書を最初から最後まで読んだ人は、果たしているのかという思いであった。

 

研究者の何人が読んでいるのだろうか。

 

読むのを阻止するような晦渋な文章が続く中に、工事担当者の思い入れそのものという文章があり、ホッとしたことを思い出す。

 

報告書の中から事実を拾い集め、そこに論理を組み立てることに懸けてみた。

 

晦渋さと思い入れの中に事実が隠されていたと言うか、在ったから、読むことによって報告書が史料と化したと言える。

 

ちなみにその一文を掲げてみたい。

 

金堂の柱の底面の仕上げについてである。

 

        柱の底面はその性質上腐損や虫害を被ること多く、完全なものは極めて少なかったが、中には非常に保存のよいものもあり、当初の切断面がその儘残っていて当時の工法のよく窺えるものもあった。

 

それによると、柱頂と略同じように、刃幅一寸二分程度のノミを用いて切断し、周辺を略平らに、中心部に向って幾分決り気味に仕上げてあった。

 

解体修理工事報告書が研究にあまり使われているとは思えないが、史料らしい存在ではある。

 

 

 

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 お気に入りに入れてあるのでミスるはずがない。

 

 

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 何万のアクセスがある人気ブログなのに、黙って移動させるはずがない。

 

 

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 削除しておきながら「された」とはなにごとか? 受身形表現ではないか。それとも自尊の敬語か?

 

 

 これで2回目、やはりアメブロでは無理だったか!

 

 

 

 

 

 

現代の日本文学の解釈からすれば『源氏物語』の北山は京都の鞍馬が想定される。

 

御所から10キロ、源氏は病気を直すために忍んで登る。

 

図を見ると御所の北に鞍馬が位置し、西に高雄、東に大原がある。都と北山の位置関係である。

 

 

一方、筑紫(図)をみると、東院は観世音寺の東隣り、源氏は人目を忍んで北山(大野山)に向かう。

 

2・5キロ、途中つづら坂を登る。北山の東に大原山があり、東院の真東に高雄山がある。

 

東院から三つの山がほぼ同じ距離にあるのは、京都の御所との関係と同じである。

 

源氏は北山の某寺の優れた行者の祈祷を受けに行く。

 

北山もだいぶ深く分けいった辺り、高い峰の深い巌に囲まれた中に聖は住まっていた。

 

「君はそこから立ち出でて、あたりを御覧になると、高い所のことで、そこかしこに僧坊のあるのがいくつもあらわに見下ろされる」(円地文子訳『源氏物語』)その僧坊の一つに後の紫の上が居たのだ。

 

源氏は後ろの山(おそらくは大城山)に登り、京(太宰府都城)のほうを御覧になる。

 

そして海(博多湾)を見ながら、明石の浜(姪浜辺)に住む明石太夫のことが話題に上る。北山に源氏物語の骨格となる要素が登場するのだ。

 

京の裏山なのだが、高低差が300メートルほどあり、「三月も終り近く、京の花盛りはどこも過ぎていたが、ここらの山の桜はまだ盛りで、山道を分け入っていくにつれて、霞のたなびいている様子もゆかしく眺められる」(同上)のである。

 

京は表の顔である。裏山である北山は表を補完する役割を持っていたように描かれる。

 

紫の上を育てた尼君は京で衰弱して、死を北山で迎えている。

 

源氏を治した聖も位を嫌って山にいるようだ。

 

もちろん京の側に居るということが前提なのだろう。

 

 「さんせう太夫」の厨子王は、京からつづら折れの道を土車に乗せられ、南北天王寺(大野山の四王寺)に運ばれる。

 

  石の鳥居に取り付いたら、この寺を造られた太子(上宮王)のお計らいか不思議にも腰が立つ。

 

  そこに おしやり大師が通り掛り、「これなる若侍は、遁世望みか、又奉公望みか」と問うたのである。

 

  南北天王寺はどちらの人も面倒を見たのであろう。

 

 「奉公望み」と言って茶坊主になり、可愛がられる。

 

  都に居られる大臣の梅津の院は世継ぎがないため、清水の観音(観世音寺)へ参りお願いしたところ、「梅津の院の養子は、南北天王寺へお参りあれ」とのお告げがあった。

 

  おしやり大師は座敷を飾り、百人の稚児・若衆も花のごとく飾り立てた。

 

  その中から梅津の院は茶坊主の厨子王を見つけ、養子とする。

 

  そしてこれを手掛かりに厨子王は復権を果たすことになる。

 

  つまり筑紫の京の北山には有名な四天王寺があったのだ。

 

  京都の北山と大阪の四天王寺の要素を持った四天王寺が倭国の京に存在したのだ。

 

  説教節は「さんせう太夫」で分かるように倭国の時代の物語である。

 

  他の説教節にも登場する四天王寺も本来は筑紫の北山の四天王寺である。

 

 

 

 

 

 

 

 

このネット記事(タイトル)の詳細については興味ないのですが、斜め読みしたところ共感できるところがあります。

 

<引用>

 

時代錯誤な出版社という存在はもういらない。
 

作家が直販すればいい。(中略)
 

作家は売れようが売れまいが、ただいい本を書くだけだ。
 

出版社はこの本が売れる、いいと思ったからリスクを負って出す。(中略)
 

だから今の出版社は、本の中身などどうでもいい。
 

大事なのはその作家が、いくら売れるかだ。(中略)
 

でも電子書籍になってしまった。
 

電子書籍になったら、印刷もいらないし、在庫管理もいらない。
 

書店まわりもいらない。
 

つまり出版社はいらない。
 

作家が直販して出せばいいだけだ。(中略)
 

だって自分で売れて、自分で書ける作家なら、出版社など通す必要はないのだから。
 

ところが今の出版社は、自分で売れない作家を切り捨て、自分で売れる作家に媚び売って分け前をぶんどっているだけ。
 

それなら出版社いらないでしょ。(中略)
 

自分で売れる作家は、電子書籍で直販すればいい。

 

時代錯誤な出版社という存在はもういらない。
 

作家が直販すればいい。(中略)
 

 

米田良三氏の建築史学本は新泉社の4冊を以って終わるはずであったのですが、編集が趣味という一個人(AB&JC PRESSを名乗るボランティア)が、その後の新原稿を10年以上かけて4冊にまとめ、訂正・修正を加え、本の完成度を少しずつ高めてきました。

 

当初の計画では試作版を経て大手出版社に売り込む予定だったのですが、この引用記事にあるように、出版社を通す必要性が感じられなくなり、また、目標が“利潤”ではなく“説が広まること”と吹っ切れたので現在のネット販売に落ち着いたのです。

 

何年か前、非公式に非凡社(仮名)に打診したのですが、反応はありませんでした。

 

もし非凡社発行なら米田氏の本は爆発的なヒットの可能性があったのですが、“変化を認めない”社是からして出版の可能性は絶対に有り得ませんでした。

 

今まで出版された自社の歴史関連本が全てペケになってしまうからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数年前、一学年上の産婦人科医に否定派の意見について質問したところ「あれはガセネタ、打たなきゃ損!」と熱のこもった返事でした。

 

先日、同級の小児科医に「あの産婦人科医(上記とは別人)の娘はワクチンを打っているのかね?」と聞いたところ「そりゃ打っているでしょう!」と。

 

問題になっている副作用については、「あの年齢層には良くあること、別に珍しいことではないし・・ 」と全然意に介さない様子。

 

実は近隣の名門高校に通っていた可愛い女の子が廃人的副作用に苦しんでいるらしく、身近な問題です。

 

推進派の医師たちは確率・統計で論じているのでしょうが、被害者にしてみれば大人になって子宮頸がんの犠牲になるとは限らない上、この若い段階で変調を来たし、しかも「因果関係はない」と断定されれば、周辺の者たちは黙っていられないでしょう。

 

<「愛知医報」から引用>

 

 

ワクチン推進派否定派の意見を並べてみました。

 

 皆さんはどう思われますか? 

 

政治家、官僚、医師の周りの接種適齢期の子弟たちの接種率はどうなのか?に興味があります。

 

個別接種に切り替わった時点で、集団訴訟の芽は確実に摘まれているように思われますが・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

九州のある方から送っていただいた絵の一部分です。

 

佐賀県三瀬村のある神社に飾られている額入りの絵です。

 

何だか、何処かのお寺の経蔵に似ているような気がします。

 

 

 

次から次へと面白い発見が楽しめます。

 

わかる人にはわかるのだけど・・ ネ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「米田建築史学」シリーズのうちAB&JC版第4作『柿本人麿の真実』では『万葉集』を始めとする和歌集の歴史が以下のように語られますが、学校で習う文学史ではありえない内容です。

 

市井の理系アマチュア研究家の説ですが、これが将来認められたとしたら、文学部の皆さんはどうするつもりなんだろう、と心配になります。

 

泥舟から脱出するなら早い方が良い、とだけ言っておきます。

 

516年頃作られた『万葉集』は、672年以後に活躍した大伴旅人や山上憶良らの歌を加え、大伴家持が700年頃に編纂し直している。

 

617年頃作られた『古今和歌集』に111首を加えて、905年の醍醐天皇の命により作られた勅撰和歌集として発表されている。

 

そして651年頃作られた『新古今和歌集』は1205年に後鳥羽上皇の御意志に基づいて、藤原定家ら5人の選者が同時代歌人の歌と、672年から700年頃の歌人では大伴家持の歌を加えて選集している。

 

 

このように建築の移築に当たる行為が歌集にも行われているのである。

 

このように解明して来ると、『古今和歌集』の仮名序は617年までの歴史を正確に伝えていることが分かるし、また『新古今和歌集』には、617年以降651年頃までの『源氏物語』に登場する人々の歌を見ることが出来る。

 

この説は『万葉集』に関わった柿本人麿の人生とリンクしないのではないか?との反論がありそうですが、ちゃんと調べれば柿本人麿は“謎の人”ではなく以下の年表のような人生を送った人とわかります。

 

真実がわかっては困るので、調べようとしないだけです。

 

西暦   【年表表示】

473年  柿本人麿 島根県益田市戸田町綾部家に生誕。祖父母に育てられる。

502年  倭薈太子となる。人麿(三十歳)春宮太夫になる。

514年  春宮太夫木工頭正三位柿本人麿(四十二歳)

516年  『万葉集』撰修。

522年  司馬達等来倭。長谷寺(十一面観音・雨宝童子・難陀龍王)落成?

531年  継体軍の奇襲(磐井の乱)

534年  霊山(後に移築して奈良薬師寺)落成。

570年  金光明四天王護国之寺(東大寺)落成。

571年  平等院鳳凰堂落成。

575年  柿本人麿没(百三歳)?

柿本人麿は幼くして、神童として取り扱われ、石見国で出世し、二十歳代で近江国に引き抜かれたと考えられる。歌人としての評価も圧倒的であった。

 

 

 

テレビでよく見かける若手ナンバーワン歴史学者の生の姿に触れようと思い行ってきました。

 

改元イベントに絡んだテレビ出演に振り回されたそうで、いささかお疲れのようでしたが、徳川家康の何代も前に遡る人々について古文書を基に熱っぽく解説され、私自身の戦国時代の見方が若干変わった気がします。

 

磯田氏は子供時代から持ち続ける歴史への情熱を片時も冷ますことなく大人になったような人で、理想の人生の体現者と言えます。

 

講演中“その道の大家に成る為には普通のことをやっていては駄目”とふと漏らされたのですが、彼の古文書の読み込み力は相当なものと思われます。

 

米田良三氏の場合“組み立てた仮説に根拠が無い”と言われることが間々あるのですが、引用文献はいちいち示されないだけで、足繁く国会図書館に通い職員が音を上げるほど古文書・文献を探させた、と伺っています。

 

講演終了後、楽屋口で『建築史学入門』をプレゼントしようと待っていましたが、なかなか出て来られず、手渡すのは諦めました。

 

彼がもし本に目を通したら「倭の五王」についてのテレビ(冒頭の写真)発言などに変化を及ぼすのかな?と想像します。

 

 

 

 

 

 

 

 

数字的にはベストセラーはなくても、質の高い熱烈なファンが支える米田史学がやっと注目され始めました。

 

初めの4冊を手掛けた東京の出版社が5冊目の出版を拒否したため、米田ファンの一人である私が編集を引き受け、10年を経た現在、氏の原稿の大半は単行本化されました。

 

著者の病との戦いと並行しての二人三脚でした。

 

当初は垢ぬけしない造作やミスプリントがありましたが、手掛けた4冊の完成度はあと少しでピークに達する見込みです。

 

米田氏の享年を超え、やや視力が落ちてはきましたが、この役を引き受けて本当に良かったと思います。

 

古代の日本の姿の大枠とその凄さがこの年齢でやっと理解できました。

 

短い時間でしたが著者と接し「本当に天才がいるんだ!」と実感できたのは我が人生における最大の収穫でした。