現代の日本文学の解釈からすれば『源氏物語』の北山は京都の鞍馬が想定される。
御所から10キロ、源氏は病気を直すために忍んで登る。
図を見ると御所の北に鞍馬が位置し、西に高雄、東に大原がある。都と北山の位置関係である。
一方、筑紫(図)をみると、東院は観世音寺の東隣り、源氏は人目を忍んで北山(大野山)に向かう。
2・5キロ、途中つづら坂を登る。北山の東に大原山があり、東院の真東に高雄山がある。
東院から三つの山がほぼ同じ距離にあるのは、京都の御所との関係と同じである。
源氏は北山の某寺の優れた行者の祈祷を受けに行く。
北山もだいぶ深く分けいった辺り、高い峰の深い巌に囲まれた中に聖は住まっていた。
「君はそこから立ち出でて、あたりを御覧になると、高い所のことで、そこかしこに僧坊のあるのがいくつもあらわに見下ろされる」(円地文子訳『源氏物語』)その僧坊の一つに後の紫の上が居たのだ。
源氏は後ろの山(おそらくは大城山)に登り、京(太宰府都城)のほうを御覧になる。
そして海(博多湾)を見ながら、明石の浜(姪浜辺)に住む明石太夫のことが話題に上る。北山に源氏物語の骨格となる要素が登場するのだ。
京の裏山なのだが、高低差が300メートルほどあり、「三月も終り近く、京の花盛りはどこも過ぎていたが、ここらの山の桜はまだ盛りで、山道を分け入っていくにつれて、霞のたなびいている様子もゆかしく眺められる」(同上)のである。
京は表の顔である。裏山である北山は表を補完する役割を持っていたように描かれる。
紫の上を育てた尼君は京で衰弱して、死を北山で迎えている。
源氏を治した聖も位を嫌って山にいるようだ。
もちろん京の側に居るということが前提なのだろう。
「さんせう太夫」の厨子王は、京からつづら折れの道を土車に乗せられ、南北天王寺(大野山の四王寺)に運ばれる。
石の鳥居に取り付いたら、この寺を造られた太子(上宮王)のお計らいか不思議にも腰が立つ。
そこに おしやり大師が通り掛り、「これなる若侍は、遁世望みか、又奉公望みか」と問うたのである。
南北天王寺はどちらの人も面倒を見たのであろう。
「奉公望み」と言って茶坊主になり、可愛がられる。
都に居られる大臣の梅津の院は世継ぎがないため、清水の観音(観世音寺)へ参りお願いしたところ、「梅津の院の養子は、南北天王寺へお参りあれ」とのお告げがあった。
おしやり大師は座敷を飾り、百人の稚児・若衆も花のごとく飾り立てた。
その中から梅津の院は茶坊主の厨子王を見つけ、養子とする。
そしてこれを手掛かりに厨子王は復権を果たすことになる。
つまり筑紫の京の北山には有名な四天王寺があったのだ。
京都の北山と大阪の四天王寺の要素を持った四天王寺が倭国の京に存在したのだ。
説教節は「さんせう太夫」で分かるように倭国の時代の物語である。
他の説教節にも登場する四天王寺も本来は筑紫の北山の四天王寺である。