結局、愚痴のはきだめ

結局、愚痴のはきだめ

非公開ブログを目指していたけど…挫折。


主流派経済学はいまだに「お金は不動のものだ」とか思っているような節がありまくりなんですよね。

いわば「土地のように不動なもの・不動であるべきもの」と考えているようなわけです。

ちなみに、以下のことは、必ずしも主流派経済学に限らず広く僕ら現代人が「信仰」している観念なのかもしれませんが、

どんな経済の本にも同じように書かれていることとして

「貨幣の三つの機能のうちの一つには次のようなものがある。
 “価値貯蔵機能=貨幣の交換価値は下がらない・腐らない。もしそれが腐るならもうそれは貨幣とはいえない”」

ということがあるみたいなんですね。

なので、それをもし「重力のように回避不可の法則」みたいに考えるのであれば、自然と次のような考えにもなるはずなんですね。

「政府のその恣意で、お金の量を勝手に増やしていいはずがない」

ですね。

もちろん、主流派経済学にも言い分があるでしょう、たとえばそれは次のようなものになるかと思われます。

「貨幣の定義であり使命ですらある“価値の保存”のためにも、政府がその恣意で勝手に貨幣を増やしていけないのは当然である。
 そして、それを前提としたとしても、経済の規模(ひいては成長)というのは決して“貨幣の量”のみで規定・制限されるものではなく、厳密には“貨幣の量×貨幣の回転速度”として現出するものなのだから“貨幣の回転速度の向上”によって“経済成長”が達成されることはなんら疑いがないものなのである。
 であるからして、経済成長のために目標とされるべきは“お金の回転数≒景気のよさ”なのであり、政府が恣意的に“貨幣の量を増やす”などということは、そもそも不要なものである。
 さらにいえば、そもそも政府がその恣意で貨幣を増やすなどということは、自由経済という現代経済の根本的テーゼにもとる非違行為ですらある。」


かなりごもっともな“筋論≒理論”だとは思います。

しかし、その「経済についてのもっともらしい理論」というものが「放任経済志向≒ネオリベラリズム」というかたちで、ここ30年ほどにもわたる「社会実験」として実施されて、

「致命的な欠陥を隠し持っていた」ことが、実体経済(もとい庶民の暮らし)をおおいに破壊するという「莫大な痛み」を伴いつつ完全に立証されてしまったわけですね。

その欠陥というのは「放任経済によってお金が強者に向かって集中していき、金持ち層にお金がますます溜め込まれていくほど“貨幣の実体経済における回転率はますます低迷する”」という致命的な予測ハズしです。

よく「トリクルダウンは起こらなかった」というふうな批判がネオリベに対してはなされるわけですが、

以上の「貨幣の回転率の“実体経済における”低迷」というのとトリクルダウンの不発、といのは、ほぼ同じことを指した物言いだと思われます。

つまりは、ネオリベにかぎらず経済学者の多くが今だに盲信している「お金は不動のものだ≒実物だ」という貨幣に対する狂信と、

ネオリベ流の「生産力上昇の芽(技術革新やイノベーション)が生じた場合、経済が自由でありさえすれば、自然と“貨幣の回転率の上昇”がおこり、実体経済もちゃんと成長していくのだ」といういつものおとくいの「神の見えざる手の漫然とした(呑気な)適用結果としての予測・見立て」というものが合わさって、

世界的に「庶民の生活≒実体経済」がおおいに抑圧・毀損されるそばで「主に金融資本がぶくぶくと肥え太る」という地獄絵図が展開されることになったわけですね。

 

(※以上のことについては「お前は貨幣供給の少なさを問題というが、現実は日銀が異次元の金融緩和やら超低金利・マイナス金利政策を打ってきたんじゃないのか?お前の見方はその重要な事実をおもいっくそ無視しているのではないか?」というふうにツッコむ人がいるかと思われます。

 しかし、今や多くの人が指摘してくれているように「日銀における口座残高の総量」と「実体経済における貨幣量」というものの間には「大きな壁がある」ということらしいんですね。

 たんに「思考実験としてそういう見方もありうる」。とかいうのではなく、日銀の民間銀行に向けての貨幣供給増大は「実際にそのようにしか作用しなかった」という実証的な帰結としてそういう風に見ることがだとうだということらしいです。いわゆる「ブタ積み」ってやつですよね。

 なので、僕が貨幣の供給量について触れている文脈においては、カンマでくくって強調したところの“実体経済における”という修飾語・限定語にぜひご注意いただきたいと思います。)

「クソゲー」のお手本はまさに「僕らが暮らすこの現代の経済社会だったんだ」ということがよく分かりますね。

 

事実はビデオゲームよりも「クソなり」みたいなことになるのでしょうかね。

ゲームクリエイターの方々にも、もっとこの「現代社会というクソゲーのメカニズム」が認知されると、また新たなゲームカテゴリーが生まれるかもしれないな、とすら思います。

そういうゲームができれば「ゲームをプレーしつつ、現代のクソさを勉強できる一石二鳥の啓蒙的な娯楽」になるかと思うので、ぜひ誰かつくってほしいなと思います。

僕がもしゲームクリエーターだったのなら、三橋貴明先生とか、藤井聡先生とか、中野剛志先生とかに、監修していただけたら最高だなと思います。

(※僕程度の人間が、どなたも知的な意味で僕が仰ぎ見る存在であられる以上の先生がたの序列というものをまともに吟味するべくもないので、単純に僕が情報源としてより頻繁に触れている順に先生方を並べさせていただきました。僕ていどの人間が大変不遜な記載になってしまい。どうもすみません。こんな底辺ブログの記事をどの先生も見て下さるはずもないので、以上は、主に各先生の支持者の片に向けての謝罪のつもりで書かさせていただきました。)

ゲームの話はこのくらいにして、話しをネオリベの致命的な「予測ハズシ」という事実をふまえて、僕らは次に何を考えないといけないのかを見ていきたいです。

僕の上の構図においても、アプローチはいくつか考えられると思います。

① 経済論というよりは、その根本の貨幣論というところからアプローチすべき問題だ。

 つまり、現代の基礎となっているところの「そもそもの貨幣は不動の大地だという観念」をこそ問題視して是正していくべきだ。
 「貨幣は経済の洋服。経済の体が大きくなろうとするたびに、服を大きくしてやらないといけない」とみとめて、その役割を「国民の厳しい監視の下、全体の利益の代表たる政府に任せる」みたいな感じのアプローチを採るべきなのだ。

② ネオリベが描いたバラ色の未来予想図がつまずいたポイントが「貨幣の回転数の低迷」にあったのだから、そこのみをピンポンとで修繕すればそれでいい。
 たとえば「資産課税」を強化して「金の莫大な溜め込み」を税制的に牽制するとか、そういうアプローチが妥当だ。



みたいなことがとりあえず考えられると思うわけです。

僕は今日の記事では①の方法論の前提となるところを強調したかったので「鉢植え植物の鉢」というたとえ話をタイトルでは挙げてみたわけです。

②の方法論は実際のところは、プロテスタンティズムから発祥したともいわれる「お金もちこそ正義(だって社会に便益を供給したからこそのお金持ちなわけでしょ?)」という信仰を引きづっているとおもわれるネオリベさんたちが「頑強に抵抗する」ものであることが目に見えているので、かなり難しいでしょう。

またその方法は「一部の人を狙う」というふうな立てつけにみえなくもないので、それが「強権的で恣意的な政策」に映って「自由主義の抑圧」というふうに批判される嫌いもある。

というわけで、僕は①のアプローチのようにして「ネオリベさんがもちだした計画」からおもいっきり離れて、もっと根本の

「お金は経済という身体の洋服みたいなものなのだから、
 もろもろの成長の素(技術革新とかイノベーションとか)をむざむざと不発になってしまう(≒その便益がうまく実体経済にゆきわたらない)という結果にしてしまわないためのも、成長の素にみあった(≒ただしその目測は簡単ではないという難点はあるかもね…)分の“たえざる服の新調≒貨幣の量の増大”を繰り返していかないといけない。
 一時の好景気のときには“民間の借金だけでそれが十分にまかなわれる”ということがあるわけだけど、一旦、そういう“束の間のキャッチアップ的で一時の例外的な一本調子の経済成長の期間”が終わってしまったら、
 その後の“平時≒非高度経済成長期”においてその“絶えざる服の新調”を実施しうるの力をもちうるのは“政府”をおいてほかにはない。
 また、政府こそが“民意を付託をうけた機構”なのであり、民主主義的にも“政府こそが唯一その役割を担いうる正当性・正統性を持つ”としかいえない。
 だから、政府は“経済の成長余力に伴う、貨幣供給の番人”としてそのしっかりと役割を果たすことが、
 ネオリベがおおこけしたことが明らかになった現代にいて、早急に望まれることなのである。」

ということをいいたかったわけです。

とりあえず、僕には今のところ、これ以外の策は浮かんできません。

ちょっと、他の何かしらのアイデア(処方箋)がうかんだとおもっても「あ、これは結局まやかし的な策でしかないな、結果として実体経済の活力を取り戻す施策たりえないな」ということの繰り返しで終わっているのが僕の思考の現状であるわけです。

僕のこの記事を読んでくれた方のうちにもし「いやいや、タコっす、もっといい案があるぞ?」という人がいらしたり、

さらには「いやいや、タコっす。そもそもお前の経済の構図の見立てのここそこが間違っているよ。君のアプローチは、その前提・根本からおかしいんだ。その前提足る構図をちゃんと修正した正しい経済の見立てを踏まえれば、〇〇という施策こそがまさに芯を食った実体経済救済策というものだということが分かるはずだよ。」

ということを考えられている人がいらっしゃるならば、ぜひその立論を、SNSとかで広めてほしいと、勝手ながら思います。

 

もうやってらっしゃるけど、僕がまだそれに触れてないだけという確率のほうが高そうではありますけどね。

 

とはいえ、そういう考えを温めつつも、なおまだその「エッジがきいた立論だと世間には映るだろう自説」をおおっぴらに展開しないままでいる方がいらしたらとも思うわけです。

 

そういうひとが、もし僕みたいな「ド素人の無謀な論ながらも、果敢に前提を疑うことをしかけている」という有様をみて、次のように思ってくれることを淡い感じで期待しているわけです。

「タコっすなんかに提示されるまでもなく、自分ですでに考えていたことだけど、他にも似たようなこと考えてたやつがいたんだと知れてよかった。
 なんか、背中を押された気持ちがするな。これからは、ためらわず、ガンガン自論を説いて広めていこう。」

そういう波紋が人ひとつでも起せたとしたのなら、ド素人の僕がこの無謀な大上段の記事をかいたかいがあった、というものです。

というかんじで以上、ド素人ならではの蛮勇をいかんなくはっきした「ド素人版、実体経済の活力復活策」でした。

どうも毎度おそまつさまです。



えー、記事のさいごのさいごに、文章とあまり(ほとんどかな?)関係がないようですが、

この場を借りて、僕が支持しているところ参政党さんが、今まさに26年の衆議院選挙の選挙戦で奮闘してくださっているところなので、

この日本の将来のための参政党さんのありがたい奮闘に、御礼申し上げつつ、

参政党さんのさらなる飛躍を祈念させてもらいたいと思います。

「参政党の危機感・問題意識が同胞にどんどん広まれ~!!
 ついでに参政党の議席爆増きぼう!!
 今のところ僕は、参政党以外に、日本を没落から救い出せそうなまっとうな知見をもつ政党は他にないと思うから、
 日本と僕ら日本庶民をまるっと救うためにこそ、今はだんぜん参政党を応援するぞー!!
 僕と同じ一般ピーポーさんたち、政治参加を決して諦めるなーー!!!

 日本の将来をあきらめるなー!!
 昔とはちがうんだ。今は参政党があるんだー!!!」

です。支持者でないかたにとってはかなり暑苦しかったかと存じますが、僕のその暑苦しさに免じて(?)

「いまどき、政治にこんなに熱くなっちゃってるような奴を支持者として抱えてる政党なんか、バカにしてやろう・冷やかしてやろう」みたいな斜に構えた姿勢でもいいので、

是非、参政党の街頭演説の動画など一瞥してもらえたらうれしいです。

「参政党を好きになれ」などずうずうしいことをいうつもりはありません、へこへことお願いして支持してもらうということは、参政党のおそらく究極の目標の一つであるところの「歪んだ認知をただす≒日本の言論空間の清浄化」という目標にも全くなじまないものだとすら思いますんで。

別に僕も「参政党を好きだ」とかいうわけでもなく、参政党だけがまともなことをいってくれている、という是々非々での参政党支持者だったりしますのでね。

なので、今後もしも、参政党の主張がおかしくなってきちゃったのら、そのときはきっぱり参政党支持から降りる心づもりすらもっています。

とりあえずまずは一度は、参政党の考えに耳をかたむけてみてほしいということです。

ということで、今日の記事は裏テーマである、26年衆議院戦の参政党応援キャンペーンの第二弾の記事ということでアップしてみました。

「お前の記事は、結果、参政党のネガキャンになっていないか?」とかいわれないかちょっと不安ですが、そこは読み手の心は予測できないので、なんともいえないながらも、

僕の参政党支持はウソではないことは、これまでの記事でも垣間見えることだと思うので、どうかそこは信じていただきたいと思います。

では。
 


今日は政府も国民経済も動員した(させらえた)大がかりな「ナンセンス劇」についてちょっと書いてみたいと思います。

もとをいえば、ケインズ先生などが有効需要という概念を提唱するまでは、

「作られた商品はその全てが需要されるんだぜ?!≒セイの法則」

ということを経済学者たちは信じ切っていたそうです。

ですがケインズ先生たちがそれにいってみれば次のようなツッコミをいれだしたらしい。つまり、

「いやいや、商品(生産物)があっても、それを買うためのお金を消費者が持てていなければ、たいていの場合(※借金という方途はあるから絶対ではない。が、個人の借金は持続的ではない…)その商品は買われない(≒需要されない)ことになるよね?んで、それって繰り返されちゃうと、いつかは供給力すら破壊していくよね?」

もちろん、作る側やら売る側も商品が売れのこっている場面にでくわして指をくわえてそれを放置するわけはなくて、それらがちゃんと売りきれる努力はするはずなので

「売れ行きが悪いなら値段を安くしよう」とかいう工夫をくりだしてくるだろうことはそのとおりです。

しかし、そういうことがもし「いったんおこりだして、しかもそれがドミノ倒しのように、ますます次の不買傾向を生じさせてしまう」という渦(スパイラル)のようなところに落ち込んでしまったらどうか?

それはもはや長期スパンにおいては「作っても売れない≒セイの法則の不成立・反証」ということの「立派な現実化」になっちゃているわけですよね。

「単発、一回のラリー、ないし経済活動を短期的にのみ見る」という観点からは「作られたらその商品の値段の変動はともかくそれはちゃんと需要されるはずだ。そのように値段調整がなされるはずだ。」ともいえなくもないけど、

長期的にみれば「需要の元手たる可処分所得の減少が、供給そのものをじりじりと削っていく」ということが立派におこるということですね。

まぁ、たぶんそういうことです。素人の理解なので、詳しくは知らんけど…。

一時期はケインズ先生たちのその理論(≒マクロ経済学)が経済の主流派だったようですが、

その後、各国政府の財政赤字などが積み重なってきた結果、

「ほれみたことかケインズ主義!!おまいらのせいで各国は借金まみれで息も絶え絶え状態じゃないか?失敗者たちよ、そこ退け、そこ退け!!」

とまた経済政策のメインストリームに出張ってきたらしいんですね。

(※僕もこの各国の財政赤字ということについてはまだちょっとその実体をつかみかねているのですが、少なくてもそのときの各国の財政赤字という事態を「ケインズ主義の失敗」というレッテル貼りには僕はだいぶ疑問をもっています。
 まず第一に、彼らがあげつらったところの「おかしな財政出動の積み重ね」というのは、①エージェント問題、とみるべきものであると思われるわけです。
 そして、エージェント問題は直接には「組織論における問題なのであって、決して経済学のディシプリンの範疇の問題ではないよね?」ということがいえると思うわけです。
 それを「当然にそれは経済学の専門の範疇だ」みたいな扱いをしているところに僕は「さすが神の見えざる手を信奉するカルト教信徒だね。経済学のディシプリンなんかより"政府の経済への干渉憎し”が勝ったがゆえのまさに堂々たる権限ゆえつ行為だ。」とかいう感想になったりもするわけです。
 また、以上よりも、さらにずっとうがった見方(エッジが効いちゃった見方)にはなりますが、そもそも僕は②「腐らない交換価値、なんなら自動的に増えさえする交換価値≒現在の金融資産の取り扱われ方・金融にまつわる制度体系」というものこそが「なにかしらの経済主体が借金を積み増していかない限り、経済の血液たる貨幣が不足してしまう」という窮地を当然のようにもたらして、
 その結果として、一時の高度経済成長期を抜けた後は必然的に「政府しかしえないその借金というものがかさんできてしまった」ということなのだろうと勘ぐっているわけです。
 つまり、僕のその見方をふまえると「国の膨らんだ財政赤字は、ケインズ主義の失敗ではなく、むしろ主に“腐らない交換価値”という道理に反したことを武器にする金融パワーが、高度経済成長(≒科学技術の普及期)という、一時的な実体経済との蜜月期を終えて、ついに実体経済(≒庶民の生活)に対して、その隠し持っていた凶暴な爪たる本性を露わにし出したいことに起因するもの」ということなのだろうと思っています。
 このブログ上の記事で何度もだしていることですが、僕はこの「腐らない交換価値」という現代社会の狂気的観念を治療するためには、苫米地英人先生が提唱なさっている「半減期通貨」とそれとセットでの「まともな額におけるユニバーサルベーシックインカムの実施」という方策がさしたり妥当な施策なのではないかと思ったりしています。
 ただし「腐らない交換価値」ということには貨幣だけではなく「長年にわたる独占的企業の株式」やら「土地などの不動産(ただし地価が維持されたり上昇をしたりする都市部などの土地に限る)」やらさらには「やたらと手厚く保護された著作権」などというものもはいってくるはずなわけなので、
 そのへんの「腐らない価値がらみのもろもろの社会毒」をどうちゃんと無毒化していくかということの施策においては、まだまだ考えあくねているところです。
 なにせそれこそがこの現代最凶の「老害」だと思うからです。
 既に資産を確保した人間たち(そのひとの実年齢は問わない。なんなら尊属などから莫大な資産を受け継いだ人もそこに含む)が、その資産をただただキープしつづけることによって「絶対的な逃げ切り勝利」が可能となり、その「逃げ切り勝利」からくるしわよせが後から来る世代の人たちの「活躍の余地=チャンスを大いに削いでいってしまう」ということになっていると思うからです。

 これは僕が思うに「社会の各界における長老のその地位への恋々とした態度≒普通の意味での老害」なんかよりもずっと巨大で凶悪な「社会的害悪」です。
 そうかんがえると「多くの人(特に若者層)が希望のなさにあえぐような希望格差社会というべき社会」というような警句が提唱されるのも当然のことだと思えてきます。
 ただし、それら「貨幣以外の腐らない資産」というものは「流動性とも表現される貨幣」ほど便利に使える(交換しあえる)ものでも、貨幣の場合のように中央銀行というような「その交換価値の維持に尽力してくれる存在」が(おそらくは)いないことなどからすると、
 とりあえず「貨幣から腐らないという狂気的機能を取り除く」ということこそが社会を「腐らない価値の莫大な溜め込み」という害悪から救うための最重要・最優先のポイントだろうとは思っています。
 貨幣が貨幣としてある第一の必要条件である「いつでも、誰かからも、欲せられるもの」としてあるためには、それが不確実なかたちで腐敗(≒交換価値の減価)したり、魚のいわしのようにあまりにすぐに腐敗(減価)してしまうのはまずいので「腐敗の加減」のちょうどいい塩梅を検討する必要が当然にあるにしても、
 「貨幣に観念・要請さてきた腐らないという機能を“絶対的”なものから実体経済の健全さのために必要な分において“相対化”する(勝手に増えるなんて機能≒お金がお金を産むことの否定はいわずもがな)」ことの実現だけでも、社会はかなりよくなるのではないか?とか僕は個人的には思っていたりします。)



なのでそういう経緯をおさらいしてみれば、かれらのような帰ってきた放任経済主義者(≒ネオリベ)が「セイの法則をまだなんとなく信頼している人達」であってもなんら不思議ではないと僕には思えるわけです。

タイトルにおいて僕が、ネオリベのセリフとしてなすりつけたところの「需要は消費税に負けない」というセリフ(物言い)というものは、僕は以上のつもり(ネオリベは、なんだかんだ今だにセイの法則的な感覚が抜けてない人達なのである、という見立て)で持ち出したものであったというわけです。

そして彼らが主流派経済学の位置に就いてしまったことが「消費税、いいじゃないか!!消費に課税できれば、俺たち神の手カルトが最も肩入れしたい経済主体であるところの企業(生産主体)への課税を減らす(法人税減税)ことの余地を作ることができちゃうもんね!!」みたいなヤバすぎる空気を作り出してきたんだと思うわけです。

 

(※ただし、正確には消費税はもともと「第二法人税」として発案されたらしいことからして、消費税自体はその実「法人(≒企業)にこそ課税される税」であるということはそのとおりのようです。

 つまり、上では便宜その方便をそのままつかってしまいましたが、消費税はその実は「かならずしも消費に課税する税でもない」ということはいえるらしいんですね。

 ただし、これもまたネオリベさんたちの暗躍のせいというべきか、その「第二法人税もとい消費税」というものにかかわっては、輸出大企業に対する輸入還付金というカラクリやら、また派遣社員を使えば「消費税という把握を介しての節税効果が得られる」などというカラクリやら、そこにはちゃんと「企業(なかでも既存大企業)に便宜を図る税制」が仕組まれていったわけですね。

 まぁ、というわけで、やや不正確ながらも以上の「消費にかける税」という言い方もこの記事の文脈との関係ではそれなりに妥当だと思われるので、そういうつもりで使ってみました。)

もちろん、彼らネオリベの思考のおおまか流れというのは、むしろ「大きな政府は認めん→国債発行を増やすな→社会保障費がかさんでくるなら安定財源の消費税でまかなうべし→ついでに消費増税に乗じて、各種の事実上の優遇措置でしれっと法人税さげちゃおうぜ!!」というところにあったとは思います。

ですが、その思考の流れを成立させるかかれざる陰の立役者として「需要なんか気にするな。需要はいつもなにしようが健康だ。」みたいなネオリベ的な感覚があったはずなんですよね。

ネオリベの「ここがへんだよ」というべきところは多々あると僕なんかは思うわけですが、今回の記事では特に「需要はいつだって盤石なのだ、と勝手に買い被っている(決めてかかってる)」というおかしさを切り出してみたかったとういうところです。

もちろん、窮極的にはネオリベをネオリベたらしめているのは「神の見えざる手への信仰≒政治権力なんかに恣意的に金の差配をさせるな!!経済に政治の手をつっこまさせるな!!」であって、

上記の「大きい政府への憎しみという情念」も「需要はいつだって健康なはずだ!!」という観念も、どっちもこの「神の見えざる手」というカルト思想のコア部分にこそ起因しているとは思います。

この「神の見えざる手というカルト的思考」こそが彼らの「そこかしこの現実無視・事実無視」につながっていると思われるわけです。

そういうふうにみてくるといちいち因数分解していないで「彼らネオリベの根本は神の見えざる手カルト」というひとフレーズで言いつくせるかとは思うのですが、

なにしろそれだけでは、彼らが「そのカルト思想のもとにやらかしてきたことのヤバさ」がなかなかリアルには見えてこないので、いろんな角度から彼らの「おかしさ」を汲みだす必要があると思われるわけです。





えー、とにもかくにも、そういった内実をもった「ネオリベのヤバい政策リード」がもたらしたのが「消費税攻撃の効果てき面というべき失われた30年」であったわけですね。

たいへんおぞましいことですね。

ちなみに、僕は経済のド素人なのですが、以上の見方というのは、僕がその知の質と量ともに仰ぎ見るところの小室直樹先生の著作を僕が読んだ上での僕なりの理解を展開した“つもり”のものとなっています。

ようするに、以上の見立ては、僕としてはあくまで「小室直樹先生の分析のうけうりのつもり・二番煎じのつもり」であるわけです。

ただ、小室先生がその著作において、僕のような門外漢・素人にもわかるようにかなり懇切丁寧に解説してくださっているとはいえ、

なにしろ、話題が話題、事が事なのであって、その小室先生の解説文をもってしても、なかなか理解が難しいものだと僕には感じられるので、

正直、さも全部わかったかのように書いちゃっている僕も、小室先生の解説をちゃんと正確に理解できているか心もとない部分があります。

ただ「だいたいこういうことであってますよね?小室先生?」というくらいのことは天国にいらっしゃる先生に対して言えてるのだろうと思うので、それを書いてみたという感じです。

あ、なれなれしい感じのセリフを出してしまいましたが、僕がものごころついて、かつ先生の本をまがりなりにも読めるくらいの年齢になってからも小室先生はご存命らしかったのですが、

僕は先生との面識を望めるほどの人物でもなかった(今現在でもなお人物というほどのものではないわけだけど…)ので、小室先生とはまったく面識がなくて「ただ本において先生の言葉をうけとっているだけの立ち位置の人間」です。

僕のなれなれしいせりふのせいで、小室先生との生前個人的な面識などがあると誤解させてしまっていたらすみません。

ともかく、もし以上で僕が展開した理解について「かならずしもいい意味ではないが、ともかくお前の上記の論の元ネタには興味はひかれる」ということであれば、

ぜひ、僕が「以上の論のネタ本にしたつもり」であるところの小室先生の著作をひもといてみてほしいと思います。

とはいえ、特に「ズバリこの本が」というものはなくて、小室先生の経済本を何さつか読んだ上で、そこでなんとなくつかんだ僕の理解における小室経済観の、今回の話題に沿った形での要約をいっただけのつもりのものなので、

特定の一さつの「タネ本」を挙げることはできませんが、

小室先生の著作でかつタイトルに「経済」という言葉が入っているのがいくつかあるはずなので、それのどれを手にとってもいいかと思います。

今やもしかしたらネットショッピングのサイトの仕様によっては「著作者名での大人買いないしコンプリートセット買い」とかいうこともできるのかもしれないので、念のため、一応、お伝えしておくと、

小室先生の論じたことは多岐にわたっていて、かならずしも経済に限った言論を展開されていたわけではないので、たとえば「中国」をテーマとした本なども紛れているはずなので、購買するということならそのへんを選んでしまわないようご注意ください。

まぁ、当初の購買目的外の本にはなっちゃうけど、どの本も読む価値があると僕なんかは思うので「僕の価値観からすると間違った話題のやつを買ったところで、小室本でありさえすれば、きっと損はない」とは思ったりもしますけどね。

ただ、きっと「価値観は様々」なので、一応念のため間違いがないようにお断わりしておいたというところです。




えー、小室先生の話題につい文字を費やしてしまいました。本題にもどっていきます。

ともかくそのように「ネオリベはその系譜からみて需要というものを金剛(ダイヤモンド)のように“つねに供給をまるごとうけとめうる動じないもの・不磨のもの”として買い被って見ている。」という節があるわけで、

それは政策論においては「需要が弱ることなんか心配しなくていい。それというのは、まるで、地球の表層にくらしていて酸素不足の心配をすることがナンセンスなように、政策論としては需要の状態の心配なんかいらないんだよ。ルンルン♪」

みたいな「のんきなルンルン需要論」とでもいいたくなるような感覚らしいんですね。

逆説的ですが「その要素というのは心配しなくていいものだ」という見方というのは、課題解決・政策論の文脈においては「需要という要素を透明なもの≒注目する必要がないもの」とみなしているということになってくるはずなわけです。

それはまさに「楯状地のようなのっぺりした土地で、地震もほぼない盤石な地番においては、きっとそこで暮らす人は地盤ということに意識を向けることもないはずだ」みたいな感じですかね。

いわば「地盤というものが透明化した暮らし」がそこにあはあるんだと思われるわけです。

それにたいして「地震が頻発し、プレート境界部の活発な活動のせいで山がちで若い大地である日本列島では、地盤ということがときに強烈に意識される」ということがあるといえると思うわけです。

僕の理解では要は「需要は楯状地なんかではなく、ちゃんと変動する造山帯みたいなもの」ということになるわけです。

だからこそ「政策論として需要にもちゃんと意識を向けてないとダメだろ?」という見方にもなるわけです。

それはざっくりいって「ケインズ主義」ということになるかと思います。

この前もちょっとうっかりYouTubeのショート動画で「ケインズ主義をボロカスにいう自称経済学者」みたいなものを見てしまったのですが、

立派な肩書あるひとらしいけど、僕はその人の言ってる内容に全く共感できませんでした。

なにしろ「この人って貨幣というものについて一瞬でも真剣にその実態を理解しようとしたことあんのかな?貨幣論をおきざりにして経済を偉そうにかたっているとはね。もはやアッパレだね。」みたいな感想がわいてきたくらいです。

それにしてもオールドメディアは「エコーチェンバー」だの「フィルターバブル」だのとかの新語でもって、SNSをバカにし続けているらしいのですが、

そういう物言いってのは、いかにもちゃんとYouTubeなどのSNSを使ってないことバレバレな発言だと思います。

今回の件一つをとってみても「僕のようなYouTubeのヘビーユーザーであっても普通に、自分の立場に敵対するような僕にとってだいぶ不快感をもよおすような内容の動画がレコメンドされていることあるんだが?」ということがいえちゃうわけですね。

まだこれがAIの限界なのか、それともあえてYouTube側が「レコメンド機能にアクセントとしてランダム性をあえてちょっと添加している」のか、そのへんはわかりませんが、

レコメンドの今のところの「主たる対象」は「話題」であって「話題についての特定のスタンス」というさらにこまかい区分まで含めてきめ細やかに分析してレコメンドをアレンジしているようには(ヘビーユーザーの僕としても)僕にはあまり思えません。

オールドメディアの中の人達は、自分たちの「長年にわたる横着・腐敗」が暴かれることが恐ろしすぎて、もはや理性のタガもはずれちゃって

 

「SNSなんかまともに使ってもみないけど、俺たち既存メディア・既存アカデミアにとって目の上のたんこぶであることだけは確かなんだから、とりあえず攻撃(口撃=批判・揶揄)しちゃえ!!」

 

ってなノリなんでしょうね。ジャーナリズムってなんだっけ?と思わざるを得ない醜態だと思います。

個人的には、その言葉は下品なので大嫌いな言葉ではあるのですが、そんなことを平然とやらかすオールドメディアの「中の人」たちには次のような言葉を遅らせてもらいたいと思います。

「あなたたちオールドメディアの中枢にいる人達の横着・腐敗のせいで、オールドメディアは今や“オワコン”です。」

僕は彼らに対して、国家反逆の罪にとわれないだけましだとおもってほしいな、というくらいの感覚でいるので、そんな彼ら「オールドメディアの中の人」には「オワコンという下品すぎる言葉」を送ることにも僕は躊躇を感じません。

本当ならばそれらの“庶民の生活の破壊に加担してきたきた国賊たち”にこの恨みを僕のコブシに乗せてフィジカルに伝達したいところだけど、

自由主義・表現の自由・法治国家という価値に免じて「オワコン」という揶揄語を投げることにとどめておいておきます。

みたいな感じなわけですからね。


おっと、またまた余計な横道にそれてしまったようです。すみません。

まぁ、今日言いたかったのはだいたいこういうところです。

脱線とかも多くさしはさんでしまったので、最後に短くこの記事において言いたかったことをまとめると

「ネオリベラリズムという“神の見えざる手カルトたち”の経済政策における覇権が災いして、消費税という“需要に対する大量破壊兵器”が日本の税制に漫然と投入されてきてしまった。
 そして、日本の経済は、需要破壊というルートを経て、30年にもわたる経済停滞・縮小の憂目にあってきた。」


えー、もしこの記事をアーカイブ的に読んでくださっている人にはタイミング的にそぐわない話にはなっちゃいますが、

この記事を書いている、今2026年1月下旬現在、先立つ衆議院の7条解散によって、衆議院選挙選のまっただなかにあるわけです。

そこでおそらく参政党のおかげで………

(あともしかしたられいわ新撰組も似たような減税主張を長年やってきてはくれていたけど、タイミング的にはやっぱり参政党のプレゼンスが各党にそれを公約にすることに踏み切らせた、といううふうに僕は思います。参政党支持者の欲目というものでしょうか?どうもすみません。)

………自民やらまだ僕の口がそれを言うのにこなれない「中道」がそれを選挙公約にしているところの「食料品限定の消費税ゼロ」とかいう話題が結構注目されているようなんですね。

僕は結構まえから、今や参政党所属として代議士(初めてではないので返り咲き)安藤裕先生がご自身のYouTube上で発信されていた「食料品の消費税減税は外食産業破壊の悪手」ということをきかされていたので、

まだあまりちゃんと「免税と非課税の違い」とかはわかってはいないものの、ただ「安藤先生の説明を聞く限り本当にヤバい施策なのだと感じる」というふうに受け止めたので、

安藤先生を筆頭にして参政党が今度の選挙戦において「食料品限定の消費減税はダメ!!消費税は一律で廃止すべき!!」といって啓蒙してくれていることには、一日本庶民としても、すごく頼もしく思っています。

僕も微力ながらその参政党の奮闘にあてがう「猫の手」くらいになろうというつもりで、今回の「消費税は需要攻撃の大量破壊兵器」ということを書いてみたわけです。

『消費税は廃止一択!!』

この事実の裏付けのある全うな見方が、この選挙をきっかけにさらに多くの日本人同胞(≒選挙権者)に広まることで、

日本が「数十年にもわたる間違いすぎた経済政策から抜け出す契機」を盛り上げていきたいところだと一日本庶民として思うわけです。

投票日までの間は、しばらく僕の記事はたぶんすべて

「参政党応援という隠れテーマ」

で貫かれることになるかと思います。

「底辺ブロガーが目下の参政党人気にあやかって閲覧数稼ぎか?」

と思う人もいるかもしれませんが、まぁそう思われても結構ですwww

こんなときに思いだされるのが、僕は世代的にはあまりその方を存じ上げないのですが、僕にもそのお方が刑務所慰問などのボランティアを積極的になさっていると漏れ聞いていたところの「杉良太郎氏」のことです。

結構インパクトあるエピソードなので、拡散もされているだろうから、僕みたいにたまたまネット上で出くわして既に知っている人も多いことかもしませんが、

震災地での炊き出し活動という場において「それって売名行為ですか?」みたいなことを投げかけられた際に杉さんは、

「売名だよ。あなたもやったらいい。」

という趣旨の返答されたらしいです。

杉さんほどの長年の慰問活動などの献身をされた方がそうおっしゃるならば、今回の記事のようなちっちゃな意思・注力が「便乗」と思われるくらいはなんてことはないと思えてくるので、

ここは杉さんのひそみにならって

「便乗にきまってるじゃないですか。あなたも、人のことを揶揄している暇があるなら、ブログで己の支持政党のことを記事にして名前を売ったらいい」

ということにさせてもらいたいと思います。

それではまた、

次の参政党応援選挙期間キャンペーン記事(但し、参政党さん非公式の個人プレー)で。

 

 


読者各位においては先刻承知のことなのでしょうが、マスメディアもといオールドメディアはもれなく「主流派経済学もといネオリベラリズム」にまるっと洗脳されているようなので、

日本経済の問題の中心にさも当然の筋論かのようにして「供給力≒生産性」ということをもちだしてくるわけですよね。

僕は以前にこのブログ上で書いた記事で「生産性は好景気の結果でしかないんじゃねーの?それをKPI(直接の目標)とみなすなんて一体どういうつもりだ?」

みたいなことを書き散らかしてしまったわけですね。

今になって、その僕の以前の物言いを振り返ると「半分間違いで、半分正解」みたいな感じに批判されるものなのだろうと思われます。

不適切ないし半分不当、なことを書いてしまったようで、どうもすみません。

小室直樹先生の本には「経済学こそがほかの社会科学に先んじて、直線的な因果関係ではなくて、確固たる円環的因果関係をリアルな現象として発見した」みたいな趣旨の分析が書いてあったように思うわけですが、

その「円環的な因果関係」ということを踏まえれば「供給と需要のどっちが不景気(または好景気)の原因なのだ?」という二者択一の原因探究こそが見当違いだ、という見方に当然落ち着くはずなわけです。

僕は小室先生の著作にすでに教えられていたはずの「経済をなりたたせている円環的な因果関係」というところをどうやらうっかり忘れてしまっていたようです。

そこが僕のその以前の物言いにおいての「半分の間違い」というところにあたるといいうるのだと思われるわけです。

ただ、それでもなお僕が「あと半分は正解、というところは譲らない」という姿勢を保とうとするワケには次のようなことがあるからです。

つまり

「ここ数十年の日本の不景気を不自然に(≒人災的に)もたらしているのは、官製(ただし、マスコミと経済アカデミズム後援)といっても過言ではない“デフレ(マインド)誘導政策”の方なのである。
 そのような(マクロの)人為的な阻害がなかったとしたら、日本経済という円環的因果の流れは、本来、少なくとも他の先進諸国と同じくらいのレベルの成長は達成していたはずなのである」

というような理解ないし見立て、であるわけです。

近頃ニュースでも取りざたされる「中立金利」にも見出される発想法だと思いますが、

マクロ経済・金融政策には「経済に対して余計な邪魔をしない中立的な政策スタンスというものがあるのだ」ということはネオリベ思想に染まりきったオールドメディアすらも普通に認めているところであるわけです。


そして、おそらくネオリベ思想にも大きく影響されて日本政府がなしてきた「社会保障費が大変なので“安定財源”たる消費税増税でまかなう必要がある」とか「自由な働き方の拡大とかいう戯言を口実にした非正規雇用拡大≒企業のコストカット志向への支援・促進」いうことに代表される「欺罔的マクロ経済政策」などを

経済の健全性に対して「到底中立的ではなく、経済の闊達さ・成長を邪魔すらしている非中立的で不当なプロパガンダと、それにそった実際の妨害的マクロ経済政策の実施」というるうに僕は見るわけです。

んで、その日本政府(ただしマスコミやネオリベ経済学者が絶賛後援)が誘導・実施してきた「経済に対する非中立もとい妨害的なマクロ政策」というものが直接に阻害・攻撃してきた対象は「経済の二大要素である供給のほうか需要のほうか?」

ととわれれば、もちろんそれは「経済の両輪であるところの一つである需要の方への妨害(攻撃)であった」としかいえないと思うわけです。

だから「政府がマクロ的に自国経済を抑圧策する手段として、需要への攻撃(妨害)をしているさなかだというのに、それをないがしろにして“生産性の低さが問題だ≒供給の側に問題があるのだ”などという自称エコノミストの弁は、はっきりいって“立派に欺瞞野郎のそれだ”」

ということをその以前の記事ではいいたかったということを、今の気づきのレベルから振り返っての「後出しの自己弁護」としていいうると思うわけです。

その「自己弁護しうる半分」のことをして「半分は正解だった」となお僕は主張したいということなわけです。


しかし、今や、もっとも多くの日本人に必須の“経済的啓蒙”をもたらしてくださっている立役者である三橋貴明先生が強調してくださっているように

「もはや、日本は官製のデフレ誘導(≒有効需要への抑圧)による有効需要削減攻撃の結果として、有効需要と両輪の関係において経済を現出している供給の方すら破壊が進むという現実が各所で露呈してきている。
 つまり、不当なデフレ誘導政策により人工的に現出された“経済という車の片輪である有効需要への阻害”が、それによる当然の帰結として、供給力の削減・縮小という現実をジリジリともたらしてきている」

ということらしいわけですね。

小室先生の上記の教えからするともちろん「経済は需要と供給というコインの裏表で成り立っている」ということなわけですが、

とはいえそういう構造になっている経済というものを「人工的・政策的に破壊・縮小させる」ということになれば、

「供給と需要の主にどの面を選んで攻撃の標的にしていくか」という違いはありうるはずなわけですよ。

日本は、この失われた30年において、砲弾が飛び交う戦争に見舞われていたわけでもないし、筋金入りの社会主義国のように見境なくむやみやたらに企業が国有化されたわけでもない(むしろその逆)なので、マクロ政策によって「供給側が直接に抑圧された」ということには無理があると思われます。

なので、つまるところこのおかしな「他の先進諸国が普通にしている経済成長をまったく実現できなかった30年間の日本経済」という現実は、

「有効需要を標的にした(人為的・おかしな政策による)阻害によって人工的・マクロ政策的に現出されたもの」

というふうに視るのが僕は妥当だとしか思えないわけです。

なのに、この期に及んでその「おかしさ≒ネオリベ思想の身から出た錆び」を都合よくごまかしつつ、

言うに事欠いて「日本経済の生産性の低さこそが問題だ!!」とかのたまっているのがネオリベラリストという「恥という概念をすっかり忘れた様子の御仁たち」であるように僕の目には映るわけです。

僕はその「ネオリベのマッチポンプ的、いやマッチポンプよりもさらに悪質なやり口」を指弾したいがために「生産力(供給力の強さ)なんて好景気の結果だろうがい!!」ということを口走ってしまったわけです。

(※「マッチポンプよりもさらに悪質なやり口」ということのこころは、マッチポンプは一応「ポンプによる放水で火をけす」という救護行為で締められているわけですよね。
 ですが、今ネオリベさんたちがやっていることは「自分たちで火をつけて(放火をして)現場で火が燃え盛っているのを目の前にして、おもむろに、その火に向けてバケツに汲んだ液体をかけはじめたので消火活動をしているのかと思いきや、その実、バケツに水ではなくガソリンを汲んでそれを火に向けて投げ込むさらなる放火行為をはじめていたのだった(さらなる燃料投下行為をはじめた)」みたいな有様であるわけですね。
 人間は「カルトに染まるとここまでグロテスクになれるのか」というのを同時代的に目撃できたことは僕にとっても経験の一つになりました。
 それはおもわず「エルサレムのアイヒマン~悪の陳腐さのついての報告~」という本を連想してしまうような経験でした。
 もしかしたらなかには「カルト宗教の幹部の裡に一人はいる宗教的に冷めた打算的なエゴイスト」もいるかもしれないので、そういうネオリベさんは、グロテスクさでカルトさんよりも上かもしれません。
 いやぁ、どっちにしろ、ネオリベは全てが全ておぞましいですね。あー、くわばらくわばら。)


だから供給力はもちろん「需要とペアをなす経済の背骨的な要素」として問題の外にあるというふうに「便利に切り分けることなどできない」というのはその通りながらも、

ネオリベさんたちは「有効需要への積極的ないし消極的阻害政策を堅持」したままで「日本経済の生産力をあげることが課題である」などというサディストのようなことを平然といってきているわけですね。

この「作られた人工的な経済の不調」というものはネオリベさんがリードしたところの「有効需要への積極・消極両面での阻害政策」によってもたらされたものだというのに、その元凶について、


「そこは俺たちは決して反省しない。なので、企業への実質的な減税とセットとなった消費税制(有効需要への抑圧政策)などはこのまま変わらずしっかりと続けていくぞ!!」

というような姿勢を示しているわけですね。しかも、あまつさえ、彼らネオリベさんたちは次のようにも言ってくるわけです。。

 「ところでしかし、君たち日本庶民よ。日本経済はなお不況下にあるのだから、生産性は頑張って上げていかないとかんのだぞ!!(供給力を高めろ)。怠けている場合ではないのだよ。ガッハッハー!!!」


一体どんな精神性を持ち合わせていれば、こんな鬼畜なことがいえるのか、僕には想像もつきませんが、

ともかくそういうこと“自称エコノミストたるネオリベラリスト≒神の見えざる手、カルトの信徒”を頻繁に登用しては、オールドメディアは飽かずに喧伝しているってことなわけです。

そんな日本のオールドメディアとネオリベ派エコノミストは、ぜひ草葉の陰のゲッベルスに「見事なプロパガンダだ。恐れ入る。」などという称賛の言葉を下賜されてもらいたいと思います。

えー、以上で、今日のお題についていいたいことはだいたい言え方かと思うのですが、

ここまで話してきたらどうしても言わないと気が済まないことだけいわせてください。

「おい。ネオリベさんよ!!
 そろそろちゃんと己のやらかしたことの失敗を認めろ!!
 あんたらのリードによって、有効需要を無視したり、さらには抑圧すらするような政策を漫然と続けてきた結果がこの失われた30年なんだぞ!!
 とりあえずその指導的な立場から降りろ!!

 舵に執着してないで、その手を離せ!!
 エリート面して社会を散々ミスリードしてきておいて“エリートこそ厳しく問われるはずの結果責任”という観念を知らんとはいわせんぞ!?

 庶民なめんなっ!!」

ということです。

今日もまた辛抱たまらず、最期の最期で、僕のネオリベへの積年のうっ憤があふれ出してしまったようです。

お下品な人間で、毎度どうも、すみません。

では。
 



僕は政治経済についてド素人なので、以下の物言いについては、とりあえずド素人のおもいつきとして読んでもらいたいと思います。

そんな事を先にいわれて「じゃあ、読んでみようか」と思う変わった人が出て来てくれることは、正直あまり期待できないだろうとも思うので、

たぶん今回の記事こそ(むしろ、毎度のことだったりして?!)

文字通りの「日記」として「書いた僕自身にしか読まれないもの」になるかもしれないとも考えられます。

ともかく、そんなふうな「かなり淡い期待」をもって今日の記事をあえてアップしてみようということをしているわけです。

それは無謀というものなのでしょうかね。うん。はい。

どうもすみません。

 

 

------【以下本題です】-------------------------

今回の記事で僕がいいたいのは「現代世界の中心はどうやって成立しているかというところのカラクリ」についての一つの見立て、ということなけですが、

誰かすでに提唱しているかもしれないけど、少なくとも僕の耳にはまだ触れていない発想として「借金をする(許される)能力」というものを付け加えているとうところにいくぶんか立論としての特徴があるのでは、

とか自分では手前味噌ながらも思ったりもします。

「世界の中心≒スーパーパワー」の内部構造を見極めようとするときには、タイトルであげた

①科学技術、②軍事力、ももちろん明らかに重要なわけです。

なにしろ、以上の二つに「借金を増やすことを許された境遇」という者を加えた三つの要素が「お互いを呼び寄せるかのようにして、それぞれが自分以外の他の二つを強化するというような、相互強化のプロセスががくりかえされる先にこそ現代社会のスーパーパワーが現出されてきた」という発生史を僕は想定しているわけなので、

「このみっつのどれか一つが欠けようものなら、その国・地域のスーパーパワーへの成り上がりの道は完全に断たれることになる。よって、この三つに価値の序列をつけるということは原理的にはできっこない。」

という把握になってもくるわけです。

必須栄養素のどれが不十分でも人間は不健康になるはずなわけで、そこに「大事さの序列」というものを観念することに難がある(≒愚問である)のとにたようなことだと思われます。

とはいえ、特定の状況・文脈においては「今は、とくにこの要素が不足しがちなので、状況的にいってそれが強調されるべき」ということに妥当性が認められる場面もあるとは思うわけですね。

医学の知識としては「はっきりいってどれも大事」だけど、個別具体のAさんの健康診断結果を前提とする場合はたとえば

「Aさんは今現在、〇〇という栄養素への意識がたりてないようです。〇〇の摂取を増やしていくために、日ごろから△やら□やらの食材をもっと摂取するようと努めましょう。」

みたいなアドバイスが妥当なものとしてありうるのと似たようなことかと思います。

アメリカという今でこそ微妙な状況にはあるけど、冷戦終結前後からの過去数十年において「唯一の超大国≒スーパーパワー」として君臨してきた僕らのくらす現代における「同時代の世界の中心」の事例を観察するに際しても、

僕の以上の見立てからすると「借金をする能力」ということについての、科学技術と軍事力と比べて同じくらいの重みで注目されていなければいけないはずのところを、

僕の知る限りそこをちゃんとふまえているアメリカ論もしくはスーパーパワー論というものが見当たらない状況にあるわけです。

ぎりぎりそれに近い発想を垣間見たと思えたのは高橋洋一先生がご自身のYouTubeチャンネルで「国際社会は借金したもの勝ち」という触れ込みであげていらした動画くらいですかね。

ともかく、現代のスーパーパワーにとって必須の構成要素であるはずの「借金する力(借金を増やし続けることを事実上、許されている状態)」というものが注目されていないかわりに、

もっとずっともやっとしてその核心を把握しているというには程遠い「スーパーパワー特有のずぬけた生産力」というふうな感じの描写が用いられてきたと思うわけです。

僕の以上のスーパーパワーの基礎的構成要素からみて「頭抜けた生産力」はむしろ「上述の三要素の充実がもたらす帰結」にすぎません。

基礎的な三つの要素が相互強化された結果として「生産力」が生み出されるにすぎないというもので、構図ないしメカニズムという切り口から言えば、

派生的ないし枝葉にあたるものにすぎない。

という把握になるわけですね。だから「借金する力」というべきところを「生産力」という枝葉の要素で置き換える(ないしは代表させる)なんてのはあまりにずさんな把握だとしか思えないわけで、到底まともなものとは思えないわけです。

なにしろ、個別の枝葉を論じていても、その大樹全体の「健全性の維持やら、さらなる樹体の増長」などというものは見込めることは期待もできないわけですからね。

だからやっぱり「基礎的ないし根っこに当たるところの要素・条件に注目してそれに配慮しないとけない」はずなわけです。

そして、僕はその「スーパーパワーがスーパーパワーたりうるゆえんとしての基礎的要素に上記の三つの要素を想定している」というような塩梅であるわけです。

そしてその「焦点にされるべき・配慮されるべき基礎的要素」に「生産力」というのは盛り込まれていないということです。

しかし、振り返ってみれば僕らの経済社会というものは「数十年に渡るネオリベラリズムの認知的覇権下」にあったわけで、

彼らネオリベさんたちは、その自前の思想からして口が裂けても「借金する力こそがスーパーパワーの条件」などとはいえない事情があったのだろうと勘ぐることができると思うわけです。

端的にいえば彼らネオリベの思想の根幹の一つには三橋貴明先生が鋭く指摘・表現なさっているところの「お金のプール論(お金は有限な実物)」みたいな観念が厳然とあるわけですからね。

たしかに、ネオリベの源流たるマネタリズムよりは、ちかごろは存在感が強く映るところのサプライサイド経済学がまだ、そのあたりに少しは意識が配れてはいると理解できると思うので、

主流派経済学も、さすがに現実の経済現象を無視できなくなって、徐徐にそこ(借金するパワーという要素)への妥協をにじませてきているようにも思えるわけですが、

とはいえ、やっぱり「借金する力」ということを真正面から受け入れるということは、彼らネオリベラリズムの歴史上の原点であり、根本のアイデンティティであるはずのところの

「ケインズ理論という彼らにとっての鬼的思想の鬼退治」

というところのちゃぶ台がえしになってしまうわけなんですよね。

(※あくまで彼らの視座を想像して「ケインズ理論という鬼」とここでは表現しているだけで、僕の記事の全体をふまえてくれれば分かって下さることかと思いますが僕の見方は「ケインズ先生こそが経済に対してより正しい理解をしていて、ネオリベこそがむしろ鬼のような考えをしている」ということなので、誤解なきよう。
 もちろんマネタイズ派が当時の時代背景において「経済的自由をもって自由主義を死守する」という目標を持ったこと自体は納得できるところが多いわけです。
 とはいえ「政府はほっとくと変な財政出動をするから政府が大きくなっていはいけない」というのは、これは経済の問題というよりは「国民の負託を受けた政府の挙動についてのエージェント問題」というべきものであったのであり、それについてまであたかも専門家ヅラして「経済という科学を標榜する客観的知見」というラベルの裡に漫然と包んでしまったことの罪の部分は、今後ちゃんと批判されていくべきだと僕は思います。
 ともかく彼らネオリベの開祖やら中興者の抱いたその懸念については、今やネット環境の普及と、SNSの一般化による一億総ツッコミ時代、の到来によって、政府がおかしな財政出動をすると一気にSNS上でツッコミ殺到して炎上する、という環境が成立してきているわけです。
 だから、ハイエク先生やらフリードマン先生やらの「懸念」については僕らは「過去の歴史的なものである」と理解して次のような言葉を贈るべきだと思います。
 「過去の時代には先生方の力が、世界が東勢力にのみこまれないために大事だったかもしれませんが、ソ連もついに大失敗を経て崩壊して“歴史の終わり”ともいわれるこの時代に突入し、またそれから少し遅れて現出したネット社会によって、もはやマスメディアが政府とつるんで裸の王様を続けることもできなくなったSNSによる国民による対政府総監視社会が現出してきています。
 ということで、先生方の歴史的な使命はもう完全に終わりましたので、ぜひ安らかにお休みください。」という言葉であるわけです。)



いくらそれが歴史的な現実と乖離している物言いだとしても、今もな中国共産党大先生が「日本帝国主義からの解放」をそのアイデンティティとしていて、それを決して手放そうとしないように、

「経済ノーム≒経済における世界観」をいまだ支配し続けようとしているネオリベラリズムさんたちは「ケインズ思想というおかしな思想から経済を解放した賢者である俺たち」という物語・ナラティブを決して捨てることはできないのでしょうね。

かれらがその理論の売り文句としてきた「ネオリベ的政策を採用した場合のバラ色の経済予言」がことごとく外れてしまったというあられもない現実が数十年にわたって展開されてきていてもなお、彼らはその思想をまだ性懲りもなく主張しつづけているわけですね。

大変ぶざまですね。

そして、彼らの失敗のしわよせをもろにうけている庶民としてはもはや「気持ち悪くて吐き気がする」くらいグロテスクな人達とすら見えてしまいます。


というわけで、以上、素人の思いつきを放言してみたわけですが、

もし、この乱暴な議論のうちに、なにか一片の価値があると見出される人がいらしたら、

それをご自身の僕みたいな経済ド素人とは比べ物にならない「経済の深い知識」をもって研磨を施して、

この歪んだ社会を「是正」する認知的な武器(立論)を社会に訴えてほしいいと勝手ながら思っちゃったりもすすわけです。

(※まぁ、そもそも誰もこの記事を読まないかもだけどね…。ざんねーん!!)

ちなみに、これはただでさえ空言で価値がないかもしれないこの記事に、さらなる無駄を追加することになるかもしれませんが、

僕は「借金をしないとお金は生まれない。いや、借金すらなくお金など生むことなどあってはらないのだ。」という観念自体にも疑問をもっています。

たとえば、政府の財政において今は「財政ファイナンス≒中央銀行に直接国債を買わせる」すら禁じ手とされているわけですが、

僕なんかは「国債の市中消化の原則」どころか「財政ファイナンス」すらも「もどかしくナンセンスなしがらみ」にみえてしかたないわけです。

つまり

「なんで民主主義国がその国民の総意の下での主権でもって貨幣を発行しようとするに際して、わざわざその都度、利子が発生してしまう借金なんかを経ないのいけないのだ?
 民主主義国家における政府とはその仕組み上、国民全体の信任・コントロール下にある“国内における唯一かつ至高の公器”なのだから、その“国という共同体の至高の公器”をもって、もちろんインフレ率などの気をつかって金融的な無駄な混乱は回避しつつも、少なくとも利子などのしがらみからは自由(抜き)で機動的に財政出動できるようにすればいいじゃないか?」

としか思えなくなってきてるんですよね。

ただ、それはそれでまたやっかいな問題・課題がからんできそうなので、この記事では深入りはしないことにさせてもらいます。

それに、問題の核心がもし「そもそも政府の財政出動にいちいち利子なんか払わせるなよ」というところにあるのだとしても、

現実の社会の歪みを是正するためのロードマップとしては「よりマイルドなところから初めてショックを抑えつつ進めていく」ということもまた大事な配慮・知恵だろうとも思うわけです。

そういう意味では、僕にとっては「次善の処置」ながらも「とりあえず国がもっと借金をしやすくするための環境・世論に向けた説得・理論的な土台の整理」というのは喫緊の課題だとみなせるというところもあるわけです。

「ちなみに、のさらにちなみに」という話になってきてしまいますが、僕の以上のおよそ全ての立論に対しては、

 

「お前のようなことをして貨幣をじゃぶじゃぶ市場に流したらそれこそインフレ地獄突入が決定的になってくるじゃねーか?」という主流派経済学からの批判は当然ありうるわけです。

というかマネタリストなんかは「とりあえずインフレが押えればそれでいい」くらいの筋金入りのインフレ警察という精神性の人達だろうと思うので、そこを批判してこないはずもないとすら思えます。

それについては、僕は「苫米地先生が提唱なさっている半減期通貨」というものがカギになってくるのではないかと今のところめぼしをつけているところです。

そもそも「腐らない交換価値」ということが「社会を腐らせる狂気的観念」だと僕は勘ぐっているわけです。

「腐らない交換価値」というものが、適切な税制などで牽制されることもなく社会に放置されたり、むしろ社会制度(法制度)がそれをサポートしたりなんかすると当然そこでは、

「腐らないからナンボそれを溜め込んでいてもいいよね?」というミルクボーイさんのあのセリフのような態度で振る舞打人達が、社会に湧いてくるはずなわけで、

みんなが江戸っ子のように「宵越しの金はもたねぇ」とか「金は天下の廻りもの」という粋な経済感覚があればいいのですが、
きっと、そうはいかなくて「腐らないなら、それがどんなに経済全体の循環にとって、また他人様にとって迷惑な規模のものであろうが、俺っちはなるべくおおく溜め込んでおこう」という反社会的な精神を爆発させる不届きな抜け駆け野郎が発生してしまうわけですね。

もちろん「何も信用できない。民主主義を謳って成立している政府すらも信用できない。」というのが客観的に妥当な状況があるならばその「腐らない交換価値のためこみ」に対しては非難可能性は極めて低くなるわけです。

だからそこにおいてこそ「ちゃんと民主制を国民が利活用して、みんなが信頼できる政府を生み出し維持しようよ!!」ということこそが正攻法なんじゃないですかね?

今の世界金融支配の全部をユダヤの人達が牛耳っているとは僕は思いませんが「どの国の政府からも抑圧・被虐をうけることが常態だったろう“選民思想×流浪の民”という“誰も信じないことこそ生き残りの要”という不幸な歴史が醸成してきたユダヤ特有の強迫観念が、

世界の経済の一体化と金融の世界覇権の浸透と軌を一にして普遍化されてしまったことは否めないと思います。

だから僕ら現代人がとりかかるべきは「信頼できない政府に対して経済の自由を盾にして牽制を続けろ」というネオリベやら主流派経済学た寄って立つところの「不信の戦略」ではなくて

「SNSという環境を存分にいかして、政府の挙動に対する透明化の圧力と批判の圧力を加え続け政府を信頼できるものとして参政権をしっかりと使おう」という対政府においける「信頼醸成の戦略」なんじゃないでしょうか?

 

「信頼醸成」とかいうと、国連を崇め奉ったり、国際法を法として過大評価しているような「お花畑左派様」と混同されそうですが、僕は国際社会においては「相互不信こそ基調である」としかいえないと思っています。

 

つまり僕は信頼という観点からいって「国際と国内は全く違う」という峻別をしているわけですね。

 

むしろ「国際という相互不信が基調である空間から人民を適切に守り・安全を保障するがためにこそ、信頼をもって同胞国民同士が結束するところの国家が要請されるのだ」とすら思えてくるわけです。

 

いいかえれば「不信を基調とする国際社会」こそが「国内における同胞国民の結束を土台にする信頼ベースの政府醸成」の一つの重要な存在意義だとすら思っているわけです。

その「国内における信頼醸成」を実践するためのSNSという環境も整ってきているし、それこそが「少なくともネットという自由かつ各人が容易に言論を交換できる情報空間が現出した“事実上の直接民主制”の時代におけるまともな正攻法」なんじゃないか、とも思うわけです。

ちょっとの付け加えのつもりが、長くなってしまいました。どうもすみません。
 
今日もまた「誰かが受け取ってそれを完成品にしてくれることを願う」という「他力本願バリバリの半端すぎる半製品のアップ」をやらかしてしまいました。

自律できてなくて毎度どうもすみません。

ではまた。

 

 

あけましておめでとうございます。

 

アーカイブ的に閲覧してくれている方には適さない言葉ですが、なにしろ、これを書いているのが26年の正月なわけです。

 

ふと気づけば、僕が「今、現在この党以外にまともな党ってあるの?」というくらいの勢いで推している参政党さんへ言及がしばらくとぎれていたので、

 

今日のテーマとあまり関係がないですが、正月という節目のタイミングでもあるので、この場を借りていわせてください。

 

「今年だけといわず、日本がとりあえずこの急場を乗り越えてまともな状態になるまでは、僕は、きっと・ずっと参政党支持者でありつづけます。

 昨年のめざましい活動、ありがとう参政党!!

 今年も、参政党が目指すところへのさらなる進捗を祈念いたします!!」

 

ということで、かの大カトーばりに「関係ない文脈でのいつものぶっこみ発言」を記事のしょっぱなにやってしまいました。

 

では、しきりなおして、以下で記事の本題に入っていきます。


----【本文】-------------------------------

タイトルでの物言いについて、まず想定される「批判ないし揶揄」というのは、次のものだといえそうです。

「おいおい、タコっすよ。
 リヴァイアサンなどという、文脈をかく乱させるような意表を突くような言葉をもちだして、大事なところを煙に巻こうと企んでいるようだが、俺っちの目はそんなことには、ごまかせられんぞ!!
 お前の示唆するそのヴィジョンというのは“共産主義・社会主義が来た大失敗の轍”へと社会を漫然と誘導・回帰させるかのヤバすぎるものじゃないのか?ときならぬ社会主義へのいざないなんじゃあないのか?
 お前は平生、保守のふりしておきながら、その実、この期に及んでこりもせずに国家に社会主義という毒を日本国にあおらせて、根底から破壊しようと目論む、反日・売国野郎なんじゃないのか?」


そのツッコミをざっくりとつづめて言い直すと「お前のいうそのアイデアはすでに社会主義体制という過去の政治制度において欠陥だらけだったことが実証されてるぞ!!」みたいなことですね。

それについて、端的に二つ反論させてください。


① 社会主義との「標的」の違い。


 マルクス理論を背景として実装された社会主義というものは、その仮想敵ないしさしあたりの敵を「産業資本」というものとして措定したわけです。
 それに対して僕は、もちろん資本主義社会においての「産業資本の強欲」というものを放置していいとはいわないものの(なので、イギリス工場法などを嚆矢とした労働者保護法制はもちろん大事だと思っています。)
 国家が人民の幸福の保障のために警戒すべき「仮想敵」としては金融資本と比べてそれ(産業資本)は、昔ならばいざしらず、今の時代においては「警戒ランクが一つも二つも低いものだとしか思えない」わけです。
 僕は過去の社会主義とは違って「産業資本なんかよりも、金融資本こそがまっさきに国家に適切に枠づけされるべき」という主張をここでしているのであって、
 この違いは「社会主義憎けりゃ、ネオリベ以外は全てが憎い」ようなマインドセットの人には微妙な違いに映るかもしれないけど、
 僕の考えでは「この僕の旧来の社会主義思想との仮想敵の見立てにおける違いは、実際の結果として相当におおきな違いをもたらす」というものであるわけです。
 僕はマルクス先生の理論を歴史的にみてスゴイ偉業だとは思っていますが、ただし「なぜ産業資本をまっさきに指弾した?もしかしてマルクス先生は彼の親戚にも多くいたらしい金融資本の関係者というより大きなパワーをもつ界隈におもねったのか?」という疑念すら持っている人間であるわけです。
 「あれれ、不用意で下手な陰謀論をいっちゃってるぞww」みたいな批判をかわすべく、より穏当な見方をするならば「マルクス先生の時代には、お金とはゴールドなどの実物のものであると考えられていた」という時代がもたらす金融観の違いというものがあるということにはなるかと思います。
 しかし、かのニクソンショックを経て、今や世界は堂々と「お金というのはただの観念的お約束。主に信用創造という手品っぽい記帳操作で生じているだけのもの。」という事実が顕わになってきている時代なわけです。
 信用創造が現にお金をゼロからうみだしることが知れ渡るようになったり、また、その事実を土台としての将来プランとして「じゃあ、銀行なんかに独占させてないで、国家が貨幣を適宜適切に発行すればいいじゃない?シニョリッジ(通貨発行益)を民間の銀行システムにだけ独占させ続けるってのを、いまさら一体どう正当化しようというわけ?」という発想すらもう普通に出てくるような時代に現代はすでに入ってきているわけですからね。

 (※ちなみに実際には、マルクス先生は「産業資本家が悪い。奴らは性悪な社会の害悪だからぶったおせ!!」とかいったのではなく、産業資本家にそういう悪行をさせる・唆すシステム(≒下部構造)をこそが問題だとしているようです。
 マルクス先生は濃厚に構造主義者というべき思考をする人だとおもうので、そういう意味でマルクス先生が「敵」という言葉を使うとしても、それはあくまで「比喩」であって、先生が焦点にしていたのは徹頭徹尾「人ではなくシステム」であったというべきだとは思います。
 なので、以上では言葉の分かりやすさを優先して「仮想敵」という言葉を用いましたが、マルクス理論において「敵は人ではなくシステム」という理解こそが正確であろうことについてはお断りしておきます。)




② 社会主義との「手段の相当性」の違い。

 御存じのように、社会主義はロシアにおいて派手に、中国において静かになしくずしに“崩壊した”わけですが、
 その事を僕がタイトルで持ち出したリヴァイアサンという比喩に引きつけて表現するならば、おそらく、
 「社会主義政権という政治リヴァイアサンが、経済というリヴァイアサンの身体のそこかしこをいちいち縛り上げて、自らの意のままに傀儡(くぐつ・操り人形)のように踊らせようとした」ということが妥当・対応するのだろう思います。
 そういうものにたいして、僕は「経済というリヴァイアサンに首輪をつける」という方向性の施策を提案しているわけで、僕からいわせると「社会主義のやったことと、僕がここで提案していることは似ているようにみえるかもしれないけど、全く違う」ものであるわけです。
 ちなみに、タイトルの文字制限にあわせてギリギリ意の通るような言葉を選んだために「首輪」という言葉を使いましたが、本当は僕は「経済という身体における循環器系の公的なコントロール」というところが念頭にあったりします。
 どちらも「自由経済における各業界・各所での闊達な試行錯誤」というものを尊重すべき、という意図が込められているというところでは共通しているなわけですが、
 「首輪」という言葉を持ち出してしまうと、その先に「ご主人様がいて、首輪につないだリールで、ときにその獣を大いに強引に引きずり回す」というような場面の連想も出てきてしまうわけですよね。
 ですが、人類が経験した「社会主義の大大大失敗という事績」を念頭におくかぎり、僕は経済に対して操り人形にはいたらない「リールをつけての散歩」という程度のものあったとしも、政府がそこまでの剛腕を経済に対して振うのは妥当ではないと思っています。
 やっぱり経済の主役は「各産業界での自由闊達な試行錯誤」だと思うので、政府は「経済のご主人」みたいなものにまではなるべきではない。
 身体の自由という比喩でいうならば、リヴァイアサンを「これから先には出張ってはいけないよ」という妥当な檻(おり)にいれるみたいなところまでが許容できるということになるかと思うわけです。
 というところまで来ると僕は「あるべき経済リヴァイアサンへの対処というものを“身体の自由の規制の程度という比喩”で語ることがそもそも無理だったのかもしれない」とも思えてくるわけですね。
 そこで、より妥当そうな比喩として思いつくのが「経済というリヴァイアサンの身体のうちの“心臓とそこから延びる血管という循環器のパート”についての国の妥当な監理・ペースメイク」というイメージにおいての施策であるわけです。
 その比喩においては「各産業界での自由闊達な試行錯誤」というものは「脳をその中枢とする神経系」によって担われることになるわけなので、
 両者は社会主義のやりかたのように「直接に一方が他方を支配するような関係」であるどころか、
 とても合理的に分節・分化された、相補的な系の関係であり、両者の関係性がうまく調整されれば、当然に共存共栄を達成しうる関係のもの、 というイメージがすんなり引き出されるはずなわけです。
 また、いみじくも「お金は経済の血液」という表現(比喩)が今でもすでに広く援用されるものとしてあるわけですよね?
 そしてその「お金」を「集中的に掌握しているのが今の金融システム」であることに思いをいたせば、現在の金融業界は「経済という身体における心臓を握っている存在」だとすんなり腑に落ちもするわけです。
 そして、現代社会の必須の基盤をなす「経済」という身体において致命的に大事な器官である「心臓」というみたてを前提としてみれば以下のような構図もすんなり浮かび上がってくると思うわけです。

 「なぜか漫然と公的権力のコントロールの埒外に身を置き、なんならときに、公的権力を上から押さえつけるような傍若無人な力さえ発揮してしまっている、経済の心臓部をつかんではなさない既存の金融業界」という構図です。

 そしてそのような存在であるところの「既存の金融業界」がいかに「ナンセンスで邪悪な存在か」という理解もすぐにピンとくるんだと思うわけです。
 経済というものは本来は基本的には「まともな血液供給」さえあれば国民各自(経済という身体における細胞各自?)に宿っているはずの「消費欲やら生産欲ないし承認欲求」というものに駆動されて「闊達に元気に動いて、普通に成長すらするはずのもの」であるはずなわけで、そのへんは僕は「ネオリベラリズムが提案する施策にほぼ全部反対する人間」であるものの、こと、その部分については「ネオリベラリズムと見方と一致している人間」でもあるわけです。
 しかし「既存の金融界」という「国家権力なにするものぞ」というようなナンセンスに隠然とした力を持つ存在が「血液の供給源たる金融システムを握っている」のをいいことにして(まさに奇貨として)、

 自分たちの金権・利権の方を最優先にして、経済という体を時にあえて病気にすらさせるという「とてつもない悪行」が何度も繰り返されてきたわけですね。
 「獅子身中の虫」という言葉があるようですが、まさにそういうべき存在が僕からみた「現代経済社会における既存の金融業界」であるわけです。
 彼らが経済の心臓部である「金融」を不当な形で把握し続けるかぎり、僕ら庶民は「不安定でかつ不幸であり続けることを約束されているも同然だ」と僕には思えてきます。
 彼ら金融界の支配者である「その心臓に寄生しては心臓に不正な作用を及ぼす経済という身体にとっての最凶の寄生虫」というものを「経済という身体から取り除く手術」ということは、今や世界庶民全体の幸福にかかわる重大事項だと思われるわです。

 その方向性における端的な「社会実装」としては、僕は政府が堂々と通貨発行を宣言し、インフレ率という事実上の制約に目配せをしつつも、通貨発行権をもって「ユニバーサルベーシックインカムをまともな額で実施する」ということをなすべきだと思います。

 そういう「害虫を切除したあとの、実際の社会の立て直し方」というところについては、また別のこみいいったややこしい話になってしまいそうなので、この記事では省略することにさせてもらいます。
 
 

 



えー、比喩の設定とか、肝心の論理とかが、まだまだだいぶ粗削りで、しっちゃかめっちゃかな、文章になってしまっちゃったのかもしれません。

このまだ論ともいえないようなインスピレーション程度のものとはいえ、今のところ僕は「この勘が間違っているとは到底、思えない」というところにいるわけです。

というわけなので、もしこの僕の「おもいつき」を読んで下さった方いたら、

僕のこの「僕にとってはもはや疑いえないインスピレーション」が本当に「芯をくったものといえるのか」を、耳目に触れるいろんな材料に照らし合わせて、吟味してもらいたいと勝手ながら思うわけです。

もし、それをする過程で何か感じるところがあれば「僕(タコっす)の思考たらず」なところを、埋めてご自身の論として立てて、

ぜひ、僕ら世界庶民を金融界の毒牙からまるっと救い出す「武器よりもなお強いペン(理論)」として鍛え上げてそれを社会に公表・アピールしてほしいと思うわけです。

記事の締めにふさわしくもない「他力一辺倒の情けないこと」をいってしまったわけですが、

もはや、捨てるほどのプライドは僕には残ってもないので、そこはしっかりと「誰か助けてー!!」といいたいと思います。

 

救ってもらえてば、万事オールオッケー!!

 

(※「万事」と「オール」がたぶん重複しちゃってる冗長表現)

ではまた。


まず言いたいのは、テレビっ子(※正確にはTverっ子)としてバラエティ、アニメ、ドラマ、いろいろ雑食的に視る僕にとって、

今シーズン(※なぜかテレビ業界ではクールとかいう言葉を使うらしいが…)の全ての番組で、後々まで記憶にのこるだろうという観点でぶっちぎりの一番だったのが、

テレビ東京さんのドラマ「シナントロープ」であったということです。

別の言い方をするならば、今シーズンのテレビ番組をDVD化にしたものから何を選んで買うか、というふうに考えた場合、

僕が「これ一択でしょ」という感じで購入するだろう作品が「シナントロープ」という連続ドラマであるということです。

なかなか難しいところは、だからといって、端的に「シナントロープは最高に面白いドラマだからぜひ見るべきだよ」と誰かれかまわず、他人様に安易にすすめられる作品でもないということです。

ありていにいえば「やや人を選ぶ作品」なのであろうというところですかね。

それがちょっと人を低く見積もったような「言い過ぎな判断」であるならば、

もしくは次のようにはいえるかと思います。

「導入ないし文脈」をある程度、提示して観てもらわないと「いや、こっちはまだちゃんとその口になっていないぞ!!そんな準備はできてないぞ!!」という感じで、

口にはいれたものの、途中であえなく吐き出されちゃう可能性(視聴を途中でやめちゃう可能性)があるというところも考えないといけなそうというような作品。

みたいなところです。

人に作品を薦める場合は「面白い」という推し文句をつけるのが通常なわけですが、

正直「面白い」というその場の瞬間的な感覚を基準にしていえば、シナントロープに競ったりむしろ優ったりする番組(ドラマ)は今シーズンにもいくつかあったかもしれないとも思います。

ですが「後に見返したくなる。何度かしがんで(噛んで)みたい。」ものとしては、ダントツでシナントロープであったということです。

僕みたいなドラマ評論家でもなんでもない素人が、おこがましくもその特定のテレビドラマについて評価を提示するような記事を書いているということも、

そこにこそ起因していたりします。

どういうことかというと、僕のこの記事を書かせることになった率直な気持ちというのは以下のようなものであったわけです。

「最終話まで観終わったのだけど、この作品はエンタメとしても上質で、それゆえ肩肘はらずにみられるように仕組まれていながら、その実、人間のいろんなところを静かにえぐるような切り口がちりばめられた含蓄・趣きが深い作品だった。
 映画館で金払って見る場合でもなかなか出会えそうにないようなこんな上質な作品が、なぜTverではこの程度のチャンネル登録者数に甘んじてしまっているんだろうか?
 いやぁ、惜しすぎる!!
 ただの部外者ながら、なんか納得いかん!!釈然としない!!
 作った側はもっと数字的に報われてしかるべきだし、また、テレビ視聴者(比喩的にお茶の間ともいう)においても、無料で見られたというのに、この作品を観ていないのはもったいないすぎる!!
 もう少し多くの人がシナントロープという作品に注意を向けるべきじゃない?」

というものです。

はい。お察しのとおり、これはもはやただの推し活のはんちゅうの挙動ではあるわけです。

ウザさを感じさせていたらば、すみません。

ところで、僕は、専門家・批評家でもなんでもなく、一視聴者にすぎないただのド素人なので、この「もっとみられるべきだ」という事態に関して、局の宣伝が良いだの悪かっただの、

そういうところを偉そうにつっつく(裁く)つもり(構え)は毛頭ない、ということをまずいわせてください。

この作品の制作・放映にまつわる内部事情を僕のようなただの視聴者は知るよしもないので、

そこを下手にかんぐって批判するという無粋なことはするつもりはさらさらありません。

むしろ、これは「時代が作品においついてない」とか「大衆がその価値に気づくのに時間がかかるタイプの作品」とかいうふうな「残念だけどなかなかいかんともしがたいミスマッチ」というところで説明するほうが妥当なのだろうと思っています。

ちなみに僕はここで別に「自分のことを大衆ではない。特別な人間だ。」とかいいたいのではないです。

正直にいわせてもらうと、僕もシナントロープの視聴については「とちゅうで離脱する可能性があった」と振り返って思うわけです。

最終回までみてやっと「これは途中で視聴離脱したら大損だったなぁ。」とちゃんとその価値が腑に落ちただけなわけです。

そういう意味では僕もちゃんと「平凡な大衆の一員」であるわけなので「俺は大衆と違って目が肥えているのだアピールかよ?」みたいなツッコミは是非ナシにしていただきたい。

僕だってたまたまみて、たまたま最終回で「この作品は今シーズンのベスト!!」って思ったという次第なわけですからね。

最初からそういう確信があったなんてことでは決してありません。

(※ちなみに、僕のなかでこの作品に次ぐ二位の番組としては同率で「もしもこの世が舞台ならば楽屋はどこにあるのだろう」と「良いこと悪いこと」と「ちょっとだけエスパー」という感じです。)

まぁ、だからこそ、もはや「これテレビっていう俗っぽい場所で展開する作品としてあってる?」というべきとても意欲的な作品の制作・放送にコミットした全ての関係者に向けて、その素晴らしいイノベーティブな精神に敬意を覚えざるを得なかったわけです。

そういうつもりで「このような作品こそ、観て魅了された人がこの作品のよさを口コミするべき最たるものだ」という気持ちに突き動かされた挙動を、誰に頼まれるわけでもなく、勝手にこの記事で僕がやっているということです。

もしかしたら、この作品のよさのために、まんまとボランタリーに動いちゃっている僕のこの言動を「思うつぼだな」というふうに皮肉めいた形で見る向きもあるのかもしれませんが、

いい作品がその良さを感じ取られる人により多く届くこと願うことは、作品への愛を感じてしまった人間のやむにやまれざる「白い呪い・ホワイトマジックの作用」というべきもので、

まぁ、それはともかくサブカル愛好家にとって、抗いようのない動機なわけだし、芸術(サブカル)を愛することにおける醍醐味ですらあるもので、決して否定されるべきものではないでしょう。

「それもまた文化という営みの立派な一部だろう」と勝手に胸をはって先をつづけさせていただきます。はい。

ところで、さっきも持ち出した「面白いというその場の瞬間的な感覚」という切り口でいえば、この作品は「みてる(味わってる)そばから、甘くておいしくて、のど越しさわやか」というようなものではありません。

ざっくりいえば「あとでじわじわくる」とうような一皿であるわけです。

「場面場面のその時の瞬間的面白さ」を期待して観ちゃうと、肩透かしを食らった気分になる人もそれなりに出てくるでしょうね。

お薦めのための文言を選ぶのには「なかなかに悩む作品」でもあるわけです。

ビレッジバンガードで秀逸なポップをいくつも作ってらっしゃる趣味の深い店員さんたちの審美眼・技量、みたいなものが僕に備わってないことが、今リアルに悔しいです。


僕はかってにこの作品の見どころとして「人間におけるもやっと」という表現を持ち出してしまいましたが、

ともかく、この物語の作者さんは「それぞれの人間を深いところから描こうとした」という情熱と力量がすごい方なんだろうとお察しします。

僕はそれを個人的に「人間におけるもやっと」というふうに受け取ったわけですが、それは視る人によってまた別の表現が浮かぶものだろうと思いますので、ただの一つの感想というふうに割り引いて受け取ってほしいところです。

ただ、それ(作者さんの深い洞察)を受け取る一定の感性の深ささえ観る側の人にあれば、もしくは観る際にその構えさえ備わっていれば、

きっと「それぞれのキャラクターが人間の深いところを抉(えぐ)っている」ないし「それぞれに人間の深いところのなにかしらが託されている」ものだと把握できるんだろうとは思うわけです。

それはかならずしも僕が表現したような「人間のけるもやっと」というものではないとしてもです。

「深みのある人間描写のつもり」とかいうあざとくて上っ面の作品は実際にはあふれかえっているわけで、

そういうような作品は、鼻につく(とか抹香臭い・説教くさい)という不快な感覚をはっきりと僕ら視聴者にもたらすわけですよね?

だけど、シナントロープにはそれがないということがいえます。つまりは「ちゃんとエンタメとしても上質」であるわけです。

今の時代「深い」とかいうのはポリコレの専売特許のような形に矮小化される嫌いがあるわけですが、

シナントロープは、もちろん深い作品だと思うわけですが、その深さというのは、ポリコレ的な“深さ”とは無縁の作品といって間違いないと思われるので、

ポリコレに染まったような昨今の「説教めいた抹香臭い偉ぶったやり口」にうんざりしているだろう多くの方々にそのへんは安心していただきたいと思います。

むしろちかごろの、ジェンダーだのなんだのという「はやりに漫然と便乗したような思慮の浅い上っ面の正義」をさも高尚なもの・深いもののようにしてフィーチャーする数々の「ポリコレ謹製のお手軽、シリアス風情のもろもろの作品」という

現下のドラマシーンのそのような背景は「ポリコレ作品群こそが引き立て役」にまわってしまうような、いいフリになってくれているともいえそうですね。

シナントロープという作品からするといい「まとめてひとくくりのものとして背景とみなせば、引き立て役として、とてもいいお膳だてになってくれている」ともいえそうです。

枯れ木も山のにぎわい。

ポリコレ濫造状況はかなりウザイが、それもまた本物な作品の引き立て役…。

下手クソながらちょっとことわざみたいなものをひねってみてしまいましたwww

語呂が酷く悪くて、もはや「ことわざの体すらなしてない」のが自分でもわかっちゃうレベルですね。

出過ぎた真似をして、勝手にすべって、どうもすみません。



えー、全部にわたって「とある作品について私なりの能書き」という身の程知らずの記事になってしまったようです。

が、さすがに「もーえーでしょ!」とかいう声が聞こえてきそうな空気をかんじないでもないので、このへんで切り上げることにします。

最期にちょっと釈明なのですが、この作品をエンタメとして土台をなしている「伏線ないし謎解き」というところは、

もやっとしているということはなくて、むしろ「すっきりしている」とすらいえるところなので、

そのへんは誤解しないでください。

僕が「もやっと」という言葉で指示したかったの「色んな側面での人間の業(人間におけるやむにやまれぬもやっとしたもろもろ)」という意味でのもやっとであって、

ストーリーテリング(話の筋)としての「もやっと」はこの作品には全くといっていいほどありません。

人間にはそれぞれ、文字でもなかなか言いあらわせないくらいの「もやっと(業)」が隠されているのだろう、と思うのですが、

その様々な「もやっと」を映像でもって巧みに描きだしているというふうなところに僕は感銘をうけたわけです。

作品全体が「もやっと」という言葉で連想されるように「ぼやっとしているもの」なんてことは全然ありませんので、そのへんはちゃんとお断わりしておかないといけないと感じました。

かりに僕がここでいいたい「もやっと」の対義語を考えるならそれは「きりっと」ということになるかと思います。

竹を割ったように分かりやすいもの(主張・メッセージ)を「きりっと」というふう表現しているとここでは考えてみてほしいわけです。

すると、近頃、やたらあるれている「ポリコレ汚染作品」というのは、さすがに“理性の暴走”を根っこにしてるだけあって、完全に作品が「きりっと」してしまっているわけです。

いわば、竹を割ったように、もしくは、水戸黄門のように「勧善懲悪」であるわけです。

ということは当然ながらそれは「極めて底が浅い、浅はかで軽いメッセージ」であることにもなってくるわけです。

人間や社会がそんなに簡単ならば一体地上のだれが「思い悩むの必要があるのだろう?」というくらいなナンセンスを平気でやるのが、ポリコレ屋さんであるようです。

もちろんポリコレさんか観たところのお考えは僕の以上の見立てを完全にさかさまにしたものであって、それはつまり、

「思い悩む原因を作りつづけてきた社会の不条理≒悪魔をこそ私たちは今こそ一掃しようとしているのだ」という見立てになるのでしょうね。

 

過去の時代に生きた人間たちを「全員が全員、目が節穴のバカども」と言い出しかねないような、見上げるような自信・自惚れが見て取れますよね。

いやはや“有頂天の理性”なる“狂気”が帰結する発想内容というものは、僕ら常識派の凡人にはあっけにとられるようなものがありますね。

あー、くわばらくわばら。

ちなみに、僕が先に揶揄語かのように水戸黄門を持ち出してしまったように受け止める人がいるかもしれまえせんが、

殊、水戸黄門というところまでいくとあれは「様式美」ですので、見てる人もその作品に向けて「人間における真実をえぐる」なんてことは端からそれに期待もしてないはずなわけですよ。

それは「憂さ晴らしに特化したメルヘン」だという構えでみられるはずのものなので、むしろ、それにはそれなりの「健全な認知空間」が維持されているはずなわけですが、

ポリコレ的な作品は、無残にもその浅はかな道具を振り回しては「俺こそ勇者。俺こそ正義」と真顔でご満悦なわけですね。

たいへんナイーブで微笑ましいといえば微笑ましいですけどねwww

子どもが戦隊ものの身振りを真似してはしゃいでるのと大差ない“無邪気”というべきでしょうか。

(※一部の大人たちがそれを真顔でやっている時点で「無邪気どころか、社会にとって、もはやおおいなる邪気」ではありますけどね。
 大人が公の場で本気で戦隊ものの真似をするということになれば、当然それは大変迷惑なわけです。)


「最後に少し釈明」というつもりでしたが、その書きしなに思わず「僕の個人的なポリコレへの嫌悪」が漏れ出して、話しが長くなってしまったようです。

ただ、ポリコレとの対比・対照というのもまたこのシナントロープという作品を語るうえでの重要な要素にはなっていると思うので、

完全な横道というわけでもないとは思われます。

ということで、長くなったことについてはどうかご海容いただきたいと存じます。

今日は、いつもの僕らしくもなく、また僕の感性になど注目する価値はないだろうはずなのに身の程知らずの「いわゆる日記」を展開してしまって、

たいへんお恥ずかしいかぎりです。

読んで下さる方が「いなくてもともと」だとは思いますが、

万が一、ここまで読んで下さった方いたら、それは僕にって望外の喜びです。

ありがとうぞんじます。

ではまた。
 


テレビの報道特集番組をみていたら“自称金融の専門家”が、さも当然のことかのように「日本のようなお金のない国にばらまきをする余裕はない」とかおっしゃっていました。


僕には、金融の専門家にあるまじき「噴飯ものの発言」だと思わざるを得ませんでした。

とはいえ、番組しょっぱにおいても「岸○・石○政権の政策ブレーンも務めた」的な経歴をMCから紹介されていたていたお方なので、

そのような発言をきいても「さすが岸○・石○両政権のブレーンwwおなかま同士ちゃんとアレだねwww」という感じで、意外性こそ感じなかったわけですけどね。

日本は長年にわたるデフレ不況の下にあるわけですよね?

ちかごろ名目インフレ率はあがってきているものの、おもにコストプッシュインふれと、それに紛れての「便乗値上げ」という、というてい「景気のよさが引き起こすところの典型的なインフレ」なんかではない状況であるわけです。

そういう「長年の不況スパイラルという所与の状況」においては、家計はもちろんのこと、どれだけ大きな企業であっても、

「節約志向(未来悲観思考)という、現下の状況下での“部分最適の罠”から抜け出せるプレーヤーは一つたりとも存在しない」

ということになっているわけですね。というより、厳密には、デフレ環境下においてそのような「株主にたいする背任的行為」をなすような大企業の経営陣が万が一現れたとしても、

一企業という経済規模からいって「好景気へと転換させる呼び水」となる規模の作用をおよぼすことなどできっこないわけで、

ただの「あだ花」として咲くだけであって、その花はついぞ日本の好景気として結実することはかなわない、ということにしかならないはずなわけです。

だからこそ、賢いからこそ経営者として選出されただろう大企業の経営陣はそんな「先に結果が目に見えている無駄死に策」のような選択などするはずもないわけですね。

ともかく、そいういうわけなので、この不景気を脱出させうることのできる経済プレーヤーは今や「政府しかありえない」わけです。

もちろん、政府がしうることのメニューとしては、かならずしも「すべて財政支出」によるものでなくても「減税策」でもいいだろうともですが、

ともかく、すでにデフレ状況が何十年にもわたってしみついた日本経済において、景気を浮揚させるほどの規模の「経済的刺激策」をなしうるのは政府を置いて他にはないということです。

その「この長年にわたるデフレスパイラル環境下においては、政府のみがまともに不況に対処できる経済プレーヤーであり、不況脱出の正否は、ひとえに政府の双肩にかかっている」という認識を下敷きにするのであれば、

僕は決して社会主義者つまり計画経済主義者ではないものの、

今の日本経済を「株式会社日本と見立て、かつその経営陣を日本政府とみなす」という構図において語ることには「あくまで一時的・時局的な例外ながら」妥当性があると考えます。

もちろん、経済は基本的に「民間が主体」であるべきだし、今でも現に家計と企業という民間部門こそが、経済を廻しているわけですが、

とはいえ、さっきも述べたように、現下の日本経済においては、特異的な事態ながらも、家計も企業も、すべては「デフレ環境下における節約経済志向という部分最適の罠に完全にからめとられていて、そこから身動きが取れない」状態にあるわけですね。

経済の主人公は「民間=家計+企業」であることは歴史が証明するところの「経済の鉄則」ということにはもちろんかわりないのですが、

今や、その主人公がデフレの罠(部分最適の罠)というもの(敵)にがんじがらめの囚われの身となっている絶体絶命的な状況にあるわけで、そこにおいて、唯一、主人公をその窮地から救い出すことのできる役者が「政府」であるということなわけです。

なので経済という物語の全体をみればやっぱり「政府は脇役でしかないし。社会主義にならないためにも脇役であってもらなわないといけない。」ということがいえるわけですが、

こと現下の日本経済の「長年にわたるデフレ環境」という「主役(民間)がどうしようもない囚われの身になっている状況」という時局的なところを切り取るのであれば、

その「全体の物語からのスピンオフ的な物語」という枠組みの切り取りにおいては「主人公たる民間の絶体絶命のピンチを助けうる唯一の存在たる政府」というものは「スピンオフの範囲における立派な物語の主人公」であるといえると思うわけです。

いわば「臨時の主役」というべき立ち位置に政府はいるといっていいと思うわけです。


踊る大捜査線の主人公はもちろん青木さんなわけですが、スピンオフ作品(元の物語からの切り取り的な独立作品)での主人公は室井さんだったよね、みたいなことです。

ドラマではなくアニメネタでいうと、かならずしもスピンオフというわけではないですが、みんなご存じ「なぜか映画作品になると、主人公たるのび太を食っちゃうようなすごく英雄的な活躍をしちゃうジャイアン」みたいな事をイメージしてもらえればいいかと思います。


そういう意味で僕は計画経済(社会主義経済)はもちろん断固否定する立場でありながらも、まさに今の長年のデフレという「その状況下では部分最適であるため、もはや民間が自力で脱出不能な罠に陥っている状況」においては、

経済の脇役であるべき「政府」が「いっときの主役のような役割」を発揮せざるをえない緊急的な状況にあるという理解をしているわけです。

ながながと説明してきましたが、そういうわけなので以下では、あくまで極めて異常な「長年にわたるデフレ」という状況に限ってのことながら、

「民間を当然の主人公とする日本の経済というドラマシリーズにおける、とある一話限定の“臨時的な主役の立ち位置”にある日本政府」というような見立てのもと

「株式会社日本と、その命運を左右する経営陣としての政府」という構図を「あくまで今という時限的な日本経済における構図」として持ち出してみたいと思うわけです。

んで、以上のような見立てないし比喩を下敷きに考えてみると、しょっぱなに挙げた“自称金融の専門家”から発せられた「日本のようなお金のないくにに、ばらまきの余裕はない」とかいう趣旨の主張はどういった方向性の施策と言い換えられるかというと、それはつまり、

「この会社(日本)には、もはや成長の余地がないので、今後は“タコ足配当”をすることにだけ専心してきます」

という政策を政府たる経営陣に「すすめている」ような「金融の専門家にあるまじきとてつもなくナンセンスな主張」であるわけですね。

金融の専門家がこういう“タコ足配当のすすめ”を真顔でいっているのは本当に滑稽ですよね。

まぁ、その番組はなかなかしっかりとした座組みがなされていて、その言わば“タコ足配当派≒財政健全派”と対照させるようにして“積極財政派”の金融専門家も隣りで登壇していたわけなので、

その“積極財政派”という触れ込みの金融の専門家がその都度ちゃんと「成長をはなから無視した金勘定はいかがなものか?」という趣旨のツッコミをいれてくださっていたので、

その番組を視ていた僕の血圧の上昇も、その“積極財政派”のお方のツッコミのおかげで、大事には至らない範囲ですんでいたわけです。

というわけなので、僕がみたその番組の構成自体は意外に健全だったので、

この記事を読んで下さった方のうちには「タコ足配当、敢えて継続主義の自称金融の専門家は論外として、そんなやつの演説を堂々と公共の電波にのせる番組もそうとうにクズだな」とか考えて「犯人(番組)捜し」をはじめてしまう方もいらっしゃるかと思うのですが、

それは僕の語り(切り取り)がおこさせた誤解ですので、どうかそのへんは早まった挙動にでないようにお願いたします。

えー、当該番組についてのお断わりに言葉を費やしてしまいましたが、本題の「タコ足配当政策」にもどりますね。

僕がそのような「お金がないから均衡財政」みたいな主張のことを

「タコ足配当肯定派」と揶揄されてもしかたないような「金融・経済の道理からみてもあまりにアンポンタンな挙動」とみなしている理屈についてちょっと説明させてください。

まず「タコ足配当」とは金融の素人の僕の雑な理解になるかもしれませんが、だいたい次のようなものと理解していいと思います。

「今年度は残念ながら、まともな余剰(儲け)が出せまなかった。しかし、株価を考えると、配当しないわけにもいかんので、元本(出資金)を取り崩して株主様に配当してしまおう。」

みたいなことですね。

本当にタコがそういうことをする場面があるのかは僕は詳しくは知りませんが、ともかく「タコが自らの空腹にたえかねて、自らの足を食らうこと」というアナロジー(類比・比喩)がそのことばには込められているらしいです。

「儲けがでているから配当しているようにみせかけて、元本を取り崩して配る」みたいな非違行為であるわけです。

んで、これを「長年のデフレ脱出の成否がその双肩にかかっている今の日本政府」というものに重ね合わせて検討してみたいのですが、

その前に“日本経済を株式会社にたとえるという比喩設定からくるちょっとややこしいポイント”について説明させてください。

僕が上で提起したところの「臨時的に政府が主役にならざるを得なくなっている日本株式会社という比喩」においては「株主への配当は各種公共サービスにあたる」ことになるわけで、いくら日本経済全体の儲けが不十分であっても「これをゼロにすることは絶対にできっこない」という対応関係になるわけです。

なにせ、そこ(公共サービス)には医療などの命に係わることなども当然にはいってくるわけですからね。

ここのへんは「日本株式会社」という比喩において「株式」ないし「株式投資」とは全く事情が違うことにはご注意願います。

本来の株式会社においては「タコ足配当は端的にダメな判断」ということで簡単にけりがつく話なわけですが、

この僕のもちだした「日本株式会社」においては「いつもある一定の配当(公共サービス)は避けられないので、会社に余剰のフローがない場合は、強制的にタコ足配当がなされるし、その判断の正当性は決して否定できない」ということになってくるわけです。

 

ですので、僕は「政府におけるタコ足配当」そのものを「悪だ」ということをいいたいのではないのはご理解いただけると思います。

 

結論をややフライング(先出し)しちゃうようですが、僕が問題にしたいのは「どうせ日本株式会社は、将来にわたって余剰など生み出せるはずもないのだから、これから先もずっとタコ足配当は恒常的なのものとして、それに即した極めて消極的なファイナンスしかしないことにしよう。つまりファインナンス上での攻めの姿勢で“事態を逆転・反転”させようなんて色気を出すことは言語道断であり、絶対にやっていはいけな禁忌だ。」とかいう考え方の方です。

比喩としてはちょっと苦しいポイントにはなってしまいますが「日本株式会社」は配当をしないわけにはいかない特殊な会社だというふうにみなしていただきたいわけです。

えー、比喩を持ち出したことからくる、からくるややこしいポイントについての釈明は以上です。

んで、僕が批判の的にしているところの“自称金融の専門家で均衡財政派”のお方の主張は、なんとその異常な事態(タコはし配当)を瞥見しては、何を血迷ったのか、以下の考えにたどり着いたようなんですね。

それとはつまり

「 この現下の日本株式会社におけおける長年にわたる“不況下での重税政策維持≒タコ足配当維持状態(≒生産力縮小維持状態)から脱出・反転するような策を考えることもなく、その状況にあえて迎合するような政策方針”は、日本経済において既に確定してしまったものとしての“将来にわたってずっと続くしかない不動の負のスパイラル”という要素からしてきわめて合理的な策なのである。
 政策においてこの“神のごとき負のスパイラル”にあえて盾突くことをしようという企み・政策とはつまり、天に唾をするような暴挙であるのであり、厳に慎まなければならない悪手である。
 日本経済において“未来永劫約束された縮小再生産への適合策=タコが足をたべてのみ生きながらえる戦略”という現実的な把握をしっかりと保持し、それに決して抗うことなく、それにフィットし、なるべくその事態に迎合するかのような政策こそ“まともな現実主義の政策”なのである”」

もはや、僕ら国民(日本株式会社の社員≒株主)にとって“悪魔的”といっても差し支えない“冷酷かつ残忍”なお考えだと感じてしまいます。

つまり「政策においても、タコ足配当状態(たえざる生産力の縮小状態)を将来にわたって固定化しよう」という企みを持った主張を平然と僕ら国民に発していらっしゃるわけですね。

悪魔的なところを僕なりに強調しつつ、さらにその主張を以下いいかえてみますね。

「悪いことはいわん。
 日本経済も、日本庶民ももはや経済的にいって“将来性が皆無の決定的におわったコンテンツ”なのだから、騒がずあわてず、避けられないところの“日本の着実な衰退”を座して受け入れろ。
 “不況下の重税≒財政均衡”という、あえての縮小再生産の誘導政策には、その実、ちゃんと“オワコン日本”という俺たちエリート様の見出した透徹した事実認識の土台があってこそのものなんだぞ?
 ここで、へんな色気出してむだに騒ぐと、むしろ余計に苦しい思いをして、衰退までをも早めるだけだと、なぜわかろうとしない?
 ない頭をフル回転してでもこの事実をちゃんと理解しようね?
 オワコン日本のバカで低能な庶民ちゃんたち?!」

実際の株式投資において、いくらそれが一時的な業績不振であっても「タコ足配当」がありえない経営判断であることはそのとおりながらも、

僕の持ち出した比喩としての「日本株式会社」においては、むしろ「どんなことがあっても配当(公共サービス)をゼロに何かできない。してはならない。」という要求が正当なものとして入ってくるわけですが、

それをして

「日本経済なんて、どこをどう見ても、もはや“ただのオワコン”なんだから、日本株式会社はずっと“タコ足配当≒不況下での重税”を続けるしかないじゃない?
 不況下での重税という“タコ足配当・維持温存政策”を今後もずっと続けて、そこから当然に帰結される“生産力のたえざる破壊≒自らの足をどんどん食べていく過程”を私たち日本株主(日本国民)は漫然と甘受する以外にないんですよ?
 ねぇ、バラマキおねだり大好きのポピュリズムのお馬鹿さんたち?」

みたいなことをおっしゃっているということになるわけですね。

たいへん、すさまじいお考えですね。

そこいらのホラー映画よりよっぽど身の毛がよだつ恐るべき発言・思考だと思います。

なにしろ、これはフィクションではなく、国民の「幸福・財産・生命」がリアルにかかわってくるような類いの話ですからね。

あー、おそろしや。おそろしや。

なんまんだぶつ。なんまんだぶつ。

悪霊退散。悪霊退散。



というわけで、僕の上記の念仏がどれだけきくかはかなり心もとないので、

是非、この“金融のプロを自称する一部の人間達が唱える「日本はオワコンだから諦めてタコ足政策(≒不況なのに重税維持策)に甘んじてろ」というような

“極めて残忍な棄民政策”というものにたいしては、

「俺たち日本庶民がオワコンだと?てめぇ一体どこのまわしもんだ?
 日本がオワコンだなんだと俺ら庶民をいくるめ、不当に不況状態に日本経済をがんじがらめ状態に維持して、日本を着実に“生産力が壊滅的になったオワコン状態”へと誘導しようと企んでるのがてめぇらの腹の底なんじゃねーの?
 お前らこそ、俺ら日本庶民を痛めつけて、実際にオワコンに仕立て上げようとしている激やばサディストだろうがい!!
 心理学の知見ではヤバい奴こそ“あんたのためを思って言うんだよ”とかいうセリフを吐くというけど、まさにあんたらがそれにあてはまっているようだなぁ!!
 まじで日本がオワコンだとおもってるなら、ぜひどっか“他の素晴らしい国”にでも行ってくれ!!
 あんたらがいなくなって清々したところで、まともな政策(財政・税制政策)の下で、おれら日本庶民はちゃんと頑張ってバンバン生産していくからよぉ!!
 たのむからもう俺ら日本(庶民)にウザがらみしてくれるなっ!!」
 

みたいな気概をもちつつ、僕ら日本庶民がこぞって「反発・抵抗」していきたいものだと切実に思うわけです。

以上、僕が持ち出した比喩がうまく機能しなかったという嫌いはあるのですが、どうしてもこの義憤を表現したくて

稚拙・拙速を覚悟の上で、アっプさせてもらいました。

いろいろと未熟で、どうもすみません。

では。
 


実はついさっきまで、spotifyの上で、spotifyがアレンジしたクリスマスソングのプレイリストをきいていて、そのシャッフルされて流れてくる曲のうちには、ジョン・レノンさんの“HappyXmas(WarIsOver)”もありました。

まぁ、とはいえそのジョンの曲に関しては、主にその曲の音を愉しんでいただけであって、その曲の歌詞の主張・理屈には全く共感していないのが僕なので、

その曲からなんとなく薫ってくる“切なる祈り”みたいな抽象的なところだけを味わうような時間でしたけどね。

わざと、というわけでもないですが、たまたまジョンのその曲を直前まできいていたというフリの効かせ方もこみで、

敢えてクリスマスのこの日にこういう内容の記事をアップするという僕の精神もわれながら“なかなかひねくれているなぁ”とは思いつつも、

たまたま、このクリスマスの日にこの記事を書き終えてしまったので、書きおえた余勢のままに、この記事をアップしようという次第であるわけです。

だらだらと、前置きがながくなってしまいましたが、以下本文です。


------【本文】---------------

平然と「武器はいらない」とかいう向きの人達がいるようです。

僕はそういう主張に対しては以下のように思ってしまうわけです。

「そうですか。それはものすごい覚悟の言葉ですね。
 僕のような“自分の弱さ・傷つきやすさを自認している個人”には想像を絶するようなすさまじい覚悟をお持ちのお方でいらっしゃるらしい。
 では、その言葉にウソがないと示すためにも、手始めに“現在の制度上、私にも観念されているところの法益については今後、刑事法による保障・保護は一切いりません”という宣言をしてもらえませんかね?
 まぁ、本当はそこで本気度の立証が尽くされるということではなくて、その立証のための“手始めに”というごく前段階の立証でしかないことですけどね。
 上で示したような内容の宣言というのは、なぜか、そういう向き(武器などいらない派)の人の内の多くが宇宙の真理かのように奉っているだろうところの“人権”というものの一部の“自ら率先しての放棄”というとても皮肉なことにはなるわけですが、
 まぁ、武器はいらない、などという破格の選択を宣言しちゃった手前、もはや“それは人権の否定になりかねないからできっこないことだろ?”とはいえませんからね?筋論からいってその言い訳は通りません。
 自分が、今、享受している“人権”が絶対に取り上げられたくない大事なものだと理解するならば、それと真逆の方向性の主張であるはずのところの“武器などいらない”などということは、本来、逆立ちしても(くちがさけても)言えないはずのことなんですよ。
 “人権”なるものは“宇宙をあまねく覆い尽くす真理、もしくは地上を覆い尽くす真理”などといえるものであるどころか、その実は“国家と国家の間の空白においては全く機能しない空念仏”としかいいようのないものではないすからね?
 “人権”というものが、国家が存在しないところにおいても、まるでどこにでもある石ころのように転がっているものなんか、であるはずがない。
 口を開けば“国家が人権を抑圧している!!”ばかり言っている様な人は、その事実(完璧とはいえないし、ときに人権侵害をやからしてしまう存在であるけど、しかし国家こそが人権享受をまともに実現しうるというただの事実)を都合よく忘れているのでしょうが、ともかくそれこそが“人権”という観念にまつわるあられもない事実です。
 国家がその価値を保障するからこそ人権は人権として社会に現象しているだけであって、そんなものを国家権力と国家権力の隙間の空間において叫んだところで、ただの空念仏・絵に描いた餅でしかないんですよ?
 さらにはっきりいわせてもらえば“人権なるものは国家が掌握する圧倒的な武力装置を組み込んだ刑事システムなどを後見として初めて、ただの絵空事から実装されたものとして受肉されるもの”というのが実情であるわけです。
 僕らが(さしあたって国内で)犯罪にあうという可能性を考えた場合に、犯人へのサンクション(さらにはそれを背景とした一般予防としての犯罪行為への威嚇)を保障・実践してくれているのは、窮極的には警察という組織が備えている武力・武器ですよね?
 左派巻き巻きのひとたちは“理性(観念における構築物)こそが全てを支配する。いや、すべきなのだ”とかいうメルヘン志向を真顔で持ち出すわけですが、世界をつぶさに観察すれば、そんなことは妄想・妄言だと理解できることであるわけです。
 僕は全くもってマルクス主義者なんかではないですが、マルクス先生の「社会を底から規定している下部構造というものを喝破したリアリズム」にはすごく感心させられている人間であるわけです。
 よっていきおい「肝心の下部構造には一瞥もくれずに、上部構造にとびついて、そこばかりこねくりまわすという悪趣味な観念的な暇つぶし・遊戯に熱中しているメルヘンな人達」が本当に大嫌いということにもなってくるわけです。
 僕らの日常の平穏(暴力などの法益侵害事態にみまわれないという平穏)というのを普段から見えないところでその最も基礎のところを保障してくれているのは、警察組織の武器による威力・威嚇です。
 治安維持については、義務教育やらメディアによる啓蒙などの上部構造が果たしている役割もたしかに大きいはずなわけですが、
 しかし、それとて、警察などに象徴される国家が持つ圧倒的な武器・暴力装置という盤石な土台があってこその営み・構築物であるとしかいえないわけです。
 とういことはですよ“武器はいらない”ということを主張・宣言する人はもはや“私は、武力の担保あってこそ機能している警察組織、そしてそこを起点としつつ連動して機能する刑事司法という国内の安全保障システムの恩恵も当然に拒否する”といっているのと同値なわけです。
 ということなので“武器は要らない”といっている人は、ちゃんと“私は(被害者の側面における)刑事法のあらゆる恩恵を放棄する”という事を宣言してもらう論理的な義務があるということになるわけですね。
 自分その立派すぎる物言いに向けられているだろう“大嘘つきのレッテル”を払拭したいのならばね。
 “私は誰に暴力をふるわれても、誰に財産を侵害されても、警察も司法も関知しないという自由な境遇に入りました”という宣言をしないならば、その武器いらない派の人は、ただの“格好つけの嘘つき”です。
 武器はいらな派の人から以上のことを立派に実践しちゃう人が現れたならば、そのひとは、おそらく、数日のうちには見るも無残な姿になってしまっているでしょうね。
 いうまでもなく数々の法益侵害にみまわれてズタボロになっているだろうということです。
 最悪、その命すら奪われてしまっているかもしれません。
 逆に、以上の実践(宣言)をしてもなおそういう悲惨似合わないで済んだというケースが出てきたとしたら、その人が“暴力○命を志向しているがゆえに実際上、私的な暴力集団になっている一部の左派の庇護下にいれてもらえている”とか“ヤ○ザなどの私的実力集団に後見をしてもらっている”そういう“ギリギリアウトのインチキ・ずる”をやらかしている人でしかないと勘ぐるべきでしょう。
 武器いらないとかいっておきながら、自分は“私的な実力・武力集団”に頼って、そこにお世話(その暴力の庇護下に逃げ込んでいる)のだとしたら“嘘つきのうえにクズさという恥までをも上塗りするクソ行為の特大盛り合わせ人間”だといっていい破格の醜態ということになるでしょうね。残念。
 ともかく、以上のとてつもない危険にさらされるということも、その人が“武器などいらない”という途方もない信念をもってしまったがための当然のコストなのであって、
 僕らはそれに同情するのではなくて、凄まじい信念に殉じたあっぱれな御仁であった、とその心意気を讃えるべきでしょうね。でないとその人の決意が浮かばれませんからね。
 敬意をこめてその墓標に手をあわせなくてはいけないのだと思います。
 さて“口だけのインチキ正義の味方風情野郎”などではなくて本当に“武器などいらない”と背中でもガチで語れる人は本当にこの日本の左派(その多くはただの売国・反日)のうちから一人でも現れうるのか?
 以上に述べたようなことを実践してくれないとそのテスト(ただの嘘つきか、それともガチの信念の人か、を分ける初歩のテスト)において“ただの目立ちたがりの嘘つき”と判定されかねないような、極めて聖人的(無辜の磔刑に甘んじたイエス様に肉薄するレベル)な信条をそのひとは先に宣言してしまっているわけで、
 僕のような“自分の身・財産の安全たのめにどうしても警察武力の保護が惜しい凡人”には想像するだに恐ろしいと思ってしまうその“いばらの道”を選んだ彼ら“武器はいらない派”であるわけです。
 彼ら“武器はいらない派”が自分の発現にどう落とし前をつけていくのか、それとも、己の宣言の重さに後でやっと気がついてその恐怖に耐えきれなくなってしっぽまいてとんずらしてしまうのか、
 ともかく、そこにおいては、かなり見ごたえのある諸々の筋書きのないドラマが展開されることは請け合いだろうと思われるわけです。
 いわば「武器などいららない(仮)」とうべきリアリティーショーの“予告編”というさわりの段階に僕らは立ち会っているわけで、これから本格的にその筋書きのないドラマの本編がこれからどう展開していくのか、彼ら武器いらない派がそこでどういう苦悶の表情をみせてくれるのかたのしみですね。
 ともかく僕らとしては“あんたらその威勢のいい予告編の発表からどんだけこっちを待たせてんだ?嘘つきじゃないというならば、はやく、本編始めてくれよなっ!?”ってせかしてあげるのが妥当としかいえませんね。
 僕はサド気質ではないつもりですが、ただし、己のことを棚に上げて虚栄やら自己欺瞞でもって“公害的な認知”を平然と垂れ流しているような人間のことが、本当に、大大大大大嫌いなので、
 そのリアリティーショーにおいて自己欺瞞や虚栄を大いにやらかしている人間があぶりだされるだろう画を想像するだけで、本編の内容というのが個人的には今からすごく楽しみであるわけです。
 僕は、自慢じゃないけど極度のビビりな人間なので、暴力を見るのも、血をみるのも苦手な人間です。
 だから、どういう文脈にしろ、どういう人間が加害されるものであるにしても、そういうシーンは正直、視たくはないです。
 ただ、彼ら“武器いらない派”が、順当なかたちで泣きべそかいて嗚咽しながら“自分の虚栄さや、害のあるウソをまき散らした社会悪を懺悔する姿”だけは是非とも見てみたいと思うわけです。
 自分の人間らしさ・人間としての弱さにちゃんと向き合うのはきっと成熟のために大事なことですからね。人間だものぉ~。
 それに、彼らが偽善的なウソ言葉でまきちらした公害的認知(日本国民を漫然と危険にさらす方向に誘導しようとする公害)というところを視野にいれるならば“みっともない泣きべそをさらして懺悔をする”というくらいくらいのサンクション(罰)がかれらに課されないことなんか、とうてい納得ができない、という情念が僕には正直あったりもするわけです。
 個人的な情念だとか言うと“お前の個人的な情念に興味なんか感じないね”とか一蹴されそうなので、ちょっと補足ないし自己弁護させてもらうと、
 たとえば一神教において“真理やら神のご意志を騙(かた)る偽預言者・エセ正義の味方の罪というものは莫大”であるはずなわけです。
 僕は、別にキリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもないわけですが、それら一神教の教義にも当然のようにあらわれているところの“人類の多くが共通のものとして観念しうるような真理を冒涜するようなふるまいにたいする義憤”をもってそれに反応しているというつもりであるわけです。」


えー、今日は、吹き出し(カッコ書き)で記事のほとんどの紙幅を占めてしまうというイレギュラーをやらかしてしまいましたが、

今日の記事の話題については、だいたい言いたいことがいえてしまったので、

文章・記事として、不格好な形になちゃっているのかもしれませんが、今日の記事はこれで締めることにします。

では。
 
 


革命というものは、本来その定義からいうと劇的なはずなものなわけですが、

その意味を「政治・権力体制」という本来のカテゴリーよりも広くとって(≒抽象度をあげて)「革命的≒画期的」というふうにみなして検討するならば、

多くの場合、同時代人が「あとになってやっとそれが起っていたことに気づく」ような、いわば「静かな革命」というものが多くあるようにも思われるわけです。

この記事では、現在進行形の静かな革命である「お笑いi(イマジナリー)世代」という勢力をなす「テレビのコメンテーター・パネリスト」という人達について話してみたいと思うわけです。

彼らコメンテーター・パネリストの「視聴者の腹筋破壊的な話芸」については、僕が言葉でちまちま説明するよりも、

現にテレビの報道番組・時事番組を見て体感してもらうのがよっぽどいいと思うので、そこの詳しい説明は割愛させてもらいます。

とはいえ「テレビみてね!」だけいって読み手を突き放すのも「テレビCMによくあった“詳しくはネットで!”みたいなことをブロガーのお前がいっちゃうわけ?ブログなんてテレビCMとちがって紙幅(尺)に限界ないんだから、横着してないでちょっとは説明しろよ!!」という顰蹙(ひんしゅく)をかいかねないかと思います。

なので、効果のとぼしい説明だということは承知の上で、軽くそのお笑いイマジナリー世代の芸についての僕なりの「能書き≒表層」みたいなところを言わせてもらうと、だいたい次のようなことになるかと思います。

まず、彼らお笑いイマジナリー世代がすごいのは「己の社会的人格をまるごと賭した捨て身のナンセンス発言の連打」というところですね。

その「社会的人格ないし社会地位」というところには「名門大学の教諭」とか「難関士業」とか「企業のエグゼクティブ」であるとかいう一般的にいう「高い地位・肩書」であることもあるので、

とくにそういう場合の「オチに向けたフリの効かせかた。賭けるものの大きさ。」というものは、本当にすごいものがあるといえるわけです。

これぞまさに彼らが「実数で表すのはものたりずに“異次元”を示唆しうる虚数といものを動員せざるをえないと納得させるような特異な世代」と目されるところの所以(ゆえん)であるわけです。

また、もうひとつ彼らお笑いイマジナリー世代が「破格」なのは、その壮大な時間感覚・時間スケールです。

おそらく彼らの大半はいわば構築された計算されつくしたボケ芸」であるわけです。

また、彼らのおおくはワンステージでみても「ボケ倒しを信条とするかのような、ナンセンスなボケ発言の手数の多い芸人」である。

しかし、彼らがツッコミを受けるシーンというものを僕らは、その番組のその回が終了しても「ついぞ見ることはない」んですね。これが決まって毎度毎度そうなんです。

もちろん、日本のお笑い界が長年、鍛え上げてきたところのお笑いセオリーからすると、

ボケがツッコミはちゃんと受けてくれないと「ボケ芸として完成しない・成立しない。オチがつかない。」はずなので、窮極的にはボケ芸はツッコミは受けないといけないはずのものであるわけですが、

都度都度のツッコミの受け取りをストイックに拒絶しつづけて、我慢に我慢を重ね、貯めに貯めた「ツッコミの一挙総受け取りイベント」を

その「お笑いアーティスト人生、もとい、社会人人生の終焉」とともになそうとするといういわば「お笑いの複利効果」というものを利用しようという目論見であるらしいわけです。

また、そこでの「一世一代の大ツッコミの受け取り」というものはいわばそのお笑いアーティスト(≒コメンテーター)がこれまで積み上げてきた「膨大なナンセンスコメント」の全部をひっくるめた形での「答え合わせ」というものにも同時になっているはずなわけで、

それはそれでまた僕らお茶の間(視聴者)側からみると「考察ネタ・リアリティーショー」としての愉しみ方まで提供されているということになるわけですね。

いやはや、芸が細かいことなんの、ってっ!!

そこについて、今から予測・考察できるのは、たとえば「①ハニートラップにかかっていたとか、金で釣られただとか、がためのダサダサのナンセンス発言だったのだ」とか「②自分や親戚の企業が某勢力とズブズブだったためのナンセンス発言だったのだ」とか「③海外の勢力にほだされたガチのスパイ≒工作員としての発言だった」とか、まぁそういう類の「答え合わせ≒オチ」といことになるかと思われます。

どっちも「国民総ずっこけまちがいなし」の大変笑えるオチだと思われます。

もしかしたら、この僕らがひとくくりにするところの「お笑いi(イマジナリー)世代」のうちには、稀に、以上の二つのどのオチも妥当しないような「ガチの天然」ともいうべき

「そのお笑いアーティストの心の裡になんの裏もない、ただただ自発的ないしオウンゴール的にお花畑思想が頭の内に咲き乱れていた人」という部類の人もいるのかもしれませんが、

それはそれで「お花畑なおとぎ話に脳をジャックされているような人間が、偉そうにテレビで視聴者にむけて講釈たれていた」という事態こそがメタ的・遡及的に「ナンセンスな状況」ということにもなるわけで、

そういうちょっと毛色の違ったタイプもふくめて、総じてお笑いイマジナリー世代という存在は「お笑い偏差値はべらぼうに高い」といっていいでしょう。

まぁ、この場合の手柄は「その人の天然のお笑い素質をしっかりと見出し、かつ最終的に大爆笑を産むはずの“その人の社会的地位の高さ”なども値踏みして、その人をコメンテーターという位置に据えたプロデューサー」にこそあるのかもしれませんね。

まぁ、お笑い芸というのもときにはチームワークという要素もあるのでしょうから「天然素材さんと、それを見出した制作側のコラボレーション(相補的な営み)としての手柄」というふうにいったほうが妥当かもしれません。

以上、るるお笑いイマジナリー世代を「褒め倒す」ばかりの内容になってしまったので、僕の「熱すぎるお笑いi世代に対する押し熱」にやや胸やけしてしまった方もいるかもしれません。

ひとりで勝手にテンションあがってしまってすみません。

ただ、本当に彼らの「ナンセンス話芸」というのは「とても大きなコストがかかった大変贅沢なもの≒超贅沢品・高級品」であって、

「後の、さらにコンプライアンスが厳しくなるだろう時代」には再現可能なものかもわかならないようなレベルの「贅沢品」だとも思われます。

「ラテ欄上で報道番組をみつくろって、そのチャンネルにつまみを合せるだけ」の簡単・お手軽かつ無料(※N○Kというハイパーお笑い放送局を除く)ですむ活動であるので、

一度とはいわず二度、三度くらいは、テレビの報道番組につまみを合せて彼ら一流のお笑い芸をごらんになっていただきたいと思います。

「革命のさなかに生きる同時代人」として、これをみすみす見逃すというのはあまりにもったいないと思うんです。

きっと後世語り草となるだろう多士済々の名人芸が日々展開されているのがまさに今のテレビの報道番組であると思われるので、後悔ないよう、まずは「要チェックやで!!」ということでよろしくお願いします。

では。

 


ちかごろのテレビでは、自前のサディスティックな趣味を、己の顔出しをしつつ、恥かしげもなく、というよりむしろ「エラそうに堂々と露出」する類の人々が多くいらっしゃるようです。

それとはどういう人達かというと「均衡財政派」または「緊縮財政派」という向きの主張をする人達のことであるわけです。

注意してもらいたいのは、状況によっては日本にだって「今は緊縮財政のほうがいいよね」とか「今は均衡財政くらいを目指した方がいよね」という場面も当然ありうるということです。

まぁ、あくまで、経済の大枠を左右するというかじ取りの問題ですから「ずっと面舵がいいよね」とか「ずっと取り舵にしておくべきだ」とかいう物言いがそもそもナンセンスでしょ?

これと近いナンセンスさを感じるような議題に「大きい政府VS小さい政府」という論争があるわけですが「そんなのは、状況によって違う、の一言でしまいだろ?」としか僕には思えません。

まぁ、その(大小の政府論争の)話題にここで深入りしちゃうと、この記事の焦点がぼやけかねないので、横道はこのへんで切り上げることにします。はい。

んで、話しをもどしますが、今の日本の経済はどういう経緯を持って今に至っているか?というところから考えてみるとどうでしょうかね?

それ(今に至る日本経済の経緯)とは改めていうまでもなく「30年にも渡るデフレ(不況)」というものであるわけです。

ちなみに、デフレということにはちゃんとこだわってるので「ただの不況」とか過小評価しないでくださいね。

その国の生産力が乏しい状況での不況というものは「経済の実力による不況」といってもいいものであって、

それは、国の政策に簡単には帰責し得ないものであるという理解はたいてい間違ってないのでしょうが、

デフレ不況というのはそれと全く様相が違うものであって「生産余力がありあまっているのに、有効需要が不当に押さえつけられてしまったためにおこった、いわば恣意的な不況(人災)」ですからね。

つまり、すでに僕ら日本経済もとい日本庶民は「長年にわたるデフレ経済という“人災”においていためつけられて、泣きっ面状態」であるわけです。

そういう状況的な前提ないしお膳立てに対して、なんと次のような発想をする人種が存在するらしいんですね。

「おやおや、日本経済もとい日本の庶民のみなさん。あなたたち長年のデフレ地獄で、もはや、泣きっ面状態じゃないですかぁ!!こりゃあ、傑作!!ついては、あのことわざを現実のイベントとしてたちあげるという一興も込みで、私たち主流派経済大先生から、ここいらで満を持して、蜂の一刺しも進呈しちゃいますねっ!!そのいわば蜂の一刺しとはズバリ、均衡・緊縮財政だぁ!!ガッハッハ!!」


いやぁ、これだけの見あげた発想をするサディストが現にこの地上に存在して、しかも、彼らがこぞってわらわらと「テレビで堂々と己の顔をさらしてくれている」というきわめてレアな事態に僕らは遭遇しているということのようなんですね。

僕はそれほどサディズムに個人的な興味があるような人間でもなくて、フロム先生のてになるとある本をちょとだけ読みかじったときに「サディズムは結構重大な問題であるようだ」というような浅い感想は持ったというくらいでしかないのですが、

そういう「サディズム無関心派」の僕ですら「この大量のサディストの顔出し祭り」がどれだけケーススタディ・事例研究の観点からいって「たなからぼたもち」ないし「渡りに船」というべき見逃せない大大大チャンスであるかはすぐに理解できちゃったわけですよ。

研究者はときに相当な苦労をもって事例・サンプルをかき集めることをしいられるようなのですが、事例のほうから勝手に「テレビで顔を出す」というなんともありがたい状況が今ここにある、ということなわけです。

この「ビッグウェーブ」に気づいてしまった同時代人としては、いやがおうにも「乗らなきゃそんそん」というテンションにならざるをえないでしょ?

まぁ、もしかしたら、その極めて都合のいい素材提供に浴したところで、厳密な意味での「サディストの面相の共通点」というものはついには抽出しきれないかもしれないのかもしれませんが、

とはいえ、そこまでアカデミックに整理できなくても、今後の自分の「処世に役立てるためのデータ・判断材料」としては、それなりに価値がある観察だとは思うので、

この好機を逃さず、バリバリ「事例研究」という「ときならぬ大人の自由研究」に励んでみたいと思っているところであります。

研究の競合者(ライバル)が増えるのは、あまり僕には望ましいことではないですが、とはいえこの「稀なお祭り状態」を独り占めしようというのも、またさもしい感じがするので、

興味をそそられる方は、この事例研究をなさってみるといいかと思います。

この記事は僕が「それほどさもしい人間ではない」ということのエクスキューズこみでの「フェアネス遵守のためのイベントのお知らせ」というようなものであったと理解いただければいいかと思います。

まぁ、魅力的な娯楽があふれている時代ですから、強いてそれに時間を費やすことをすすめるとかいうつもりもないですけどね。

では。