あけましておめでとうございます。
アーカイブ的に閲覧してくれている方には適さない言葉ですが、なにしろ、これを書いているのが26年の正月なわけです。
ふと気づけば、僕が「今、現在この党以外にまともな党ってあるの?」というくらいの勢いで推している参政党さんへ言及がしばらくとぎれていたので、
今日のテーマとあまり関係がないですが、正月という節目のタイミングでもあるので、この場を借りていわせてください。
「今年だけといわず、日本がとりあえずこの急場を乗り越えてまともな状態になるまでは、僕は、きっと・ずっと参政党支持者でありつづけます。
昨年のめざましい活動、ありがとう参政党!!
今年も、参政党が目指すところへのさらなる進捗を祈念いたします!!」
ということで、かの大カトーばりに「関係ない文脈でのいつものぶっこみ発言」を記事のしょっぱなにやってしまいました。
では、しきりなおして、以下で記事の本題に入っていきます。
----【本文】-------------------------------
タイトルでの物言いについて、まず想定される「批判ないし揶揄」というのは、次のものだといえそうです。
「おいおい、タコっすよ。
リヴァイアサンなどという、文脈をかく乱させるような意表を突くような言葉をもちだして、大事なところを煙に巻こうと企んでいるようだが、俺っちの目はそんなことには、ごまかせられんぞ!!
お前の示唆するそのヴィジョンというのは“共産主義・社会主義が来た大失敗の轍”へと社会を漫然と誘導・回帰させるかのヤバすぎるものじゃないのか?ときならぬ社会主義へのいざないなんじゃあないのか?
お前は平生、保守のふりしておきながら、その実、この期に及んでこりもせずに国家に社会主義という毒を日本国にあおらせて、根底から破壊しようと目論む、反日・売国野郎なんじゃないのか?」
そのツッコミをざっくりとつづめて言い直すと「お前のいうそのアイデアはすでに社会主義体制という過去の政治制度において欠陥だらけだったことが実証されてるぞ!!」みたいなことですね。
それについて、端的に二つ反論させてください。
① 社会主義との「標的」の違い。
マルクス理論を背景として実装された社会主義というものは、その仮想敵ないしさしあたりの敵を「産業資本」というものとして措定したわけです。
それに対して僕は、もちろん資本主義社会においての「産業資本の強欲」というものを放置していいとはいわないものの(なので、イギリス工場法などを嚆矢とした労働者保護法制はもちろん大事だと思っています。)
国家が人民の幸福の保障のために警戒すべき「仮想敵」としては金融資本と比べてそれ(産業資本)は、昔ならばいざしらず、今の時代においては「警戒ランクが一つも二つも低いものだとしか思えない」わけです。
僕は過去の社会主義とは違って「産業資本なんかよりも、金融資本こそがまっさきに国家に適切に枠づけされるべき」という主張をここでしているのであって、
この違いは「社会主義憎けりゃ、ネオリベ以外は全てが憎い」ようなマインドセットの人には微妙な違いに映るかもしれないけど、
僕の考えでは「この僕の旧来の社会主義思想との仮想敵の見立てにおける違いは、実際の結果として相当におおきな違いをもたらす」というものであるわけです。
僕はマルクス先生の理論を歴史的にみてスゴイ偉業だとは思っていますが、ただし「なぜ産業資本をまっさきに指弾した?もしかしてマルクス先生は彼の親戚にも多くいたらしい金融資本の関係者というより大きなパワーをもつ界隈におもねったのか?」という疑念すら持っている人間であるわけです。
「あれれ、不用意で下手な陰謀論をいっちゃってるぞww」みたいな批判をかわすべく、より穏当な見方をするならば「マルクス先生の時代には、お金とはゴールドなどの実物のものであると考えられていた」という時代がもたらす金融観の違いというものがあるということにはなるかと思います。
しかし、かのニクソンショックを経て、今や世界は堂々と「お金というのはただの観念的お約束。主に信用創造という手品っぽい記帳操作で生じているだけのもの。」という事実が顕わになってきている時代なわけです。
信用創造が現にお金をゼロからうみだしることが知れ渡るようになったり、また、その事実を土台としての将来プランとして「じゃあ、銀行なんかに独占させてないで、国家が貨幣を適宜適切に発行すればいいじゃない?シニョリッジ(通貨発行益)を民間の銀行システムにだけ独占させ続けるってのを、いまさら一体どう正当化しようというわけ?」という発想すらもう普通に出てくるような時代に現代はすでに入ってきているわけですからね。
(※ちなみに実際には、マルクス先生は「産業資本家が悪い。奴らは性悪な社会の害悪だからぶったおせ!!」とかいったのではなく、産業資本家にそういう悪行をさせる・唆すシステム(≒下部構造)をこそが問題だとしているようです。
マルクス先生は濃厚に構造主義者というべき思考をする人だとおもうので、そういう意味でマルクス先生が「敵」という言葉を使うとしても、それはあくまで「比喩」であって、先生が焦点にしていたのは徹頭徹尾「人ではなくシステム」であったというべきだとは思います。
なので、以上では言葉の分かりやすさを優先して「仮想敵」という言葉を用いましたが、マルクス理論において「敵は人ではなくシステム」という理解こそが正確であろうことについてはお断りしておきます。)
② 社会主義との「手段の相当性」の違い。
御存じのように、社会主義はロシアにおいて派手に、中国において静かになしくずしに“崩壊した”わけですが、
その事を僕がタイトルで持ち出したリヴァイアサンという比喩に引きつけて表現するならば、おそらく、
「社会主義政権という政治リヴァイアサンが、経済というリヴァイアサンの身体のそこかしこをいちいち縛り上げて、自らの意のままに傀儡(くぐつ・操り人形)のように踊らせようとした」ということが妥当・対応するのだろう思います。
そういうものにたいして、僕は「経済というリヴァイアサンに首輪をつける」という方向性の施策を提案しているわけで、僕からいわせると「社会主義のやったことと、僕がここで提案していることは似ているようにみえるかもしれないけど、全く違う」ものであるわけです。
ちなみに、タイトルの文字制限にあわせてギリギリ意の通るような言葉を選んだために「首輪」という言葉を使いましたが、本当は僕は「経済という身体における循環器系の公的なコントロール」というところが念頭にあったりします。
どちらも「自由経済における各業界・各所での闊達な試行錯誤」というものを尊重すべき、という意図が込められているというところでは共通しているなわけですが、
「首輪」という言葉を持ち出してしまうと、その先に「ご主人様がいて、首輪につないだリールで、ときにその獣を大いに強引に引きずり回す」というような場面の連想も出てきてしまうわけですよね。
ですが、人類が経験した「社会主義の大大大失敗という事績」を念頭におくかぎり、僕は経済に対して操り人形にはいたらない「リールをつけての散歩」という程度のものあったとしも、政府がそこまでの剛腕を経済に対して振うのは妥当ではないと思っています。
やっぱり経済の主役は「各産業界での自由闊達な試行錯誤」だと思うので、政府は「経済のご主人」みたいなものにまではなるべきではない。
身体の自由という比喩でいうならば、リヴァイアサンを「これから先には出張ってはいけないよ」という妥当な檻(おり)にいれるみたいなところまでが許容できるということになるかと思うわけです。
というところまで来ると僕は「あるべき経済リヴァイアサンへの対処というものを“身体の自由の規制の程度という比喩”で語ることがそもそも無理だったのかもしれない」とも思えてくるわけですね。
そこで、より妥当そうな比喩として思いつくのが「経済というリヴァイアサンの身体のうちの“心臓とそこから延びる血管という循環器のパート”についての国の妥当な監理・ペースメイク」というイメージにおいての施策であるわけです。
その比喩においては「各産業界での自由闊達な試行錯誤」というものは「脳をその中枢とする神経系」によって担われることになるわけなので、
両者は社会主義のやりかたのように「直接に一方が他方を支配するような関係」であるどころか、
とても合理的に分節・分化された、相補的な系の関係であり、両者の関係性がうまく調整されれば、当然に共存共栄を達成しうる関係のもの、 というイメージがすんなり引き出されるはずなわけです。
また、いみじくも「お金は経済の血液」という表現(比喩)が今でもすでに広く援用されるものとしてあるわけですよね?
そしてその「お金」を「集中的に掌握しているのが今の金融システム」であることに思いをいたせば、現在の金融業界は「経済という身体における心臓を握っている存在」だとすんなり腑に落ちもするわけです。
そして、現代社会の必須の基盤をなす「経済」という身体において致命的に大事な器官である「心臓」というみたてを前提としてみれば以下のような構図もすんなり浮かび上がってくると思うわけです。
「なぜか漫然と公的権力のコントロールの埒外に身を置き、なんならときに、公的権力を上から押さえつけるような傍若無人な力さえ発揮してしまっている、経済の心臓部をつかんではなさない既存の金融業界」という構図です。
そしてそのような存在であるところの「既存の金融業界」がいかに「ナンセンスで邪悪な存在か」という理解もすぐにピンとくるんだと思うわけです。
経済というものは本来は基本的には「まともな血液供給」さえあれば国民各自(経済という身体における細胞各自?)に宿っているはずの「消費欲やら生産欲ないし承認欲求」というものに駆動されて「闊達に元気に動いて、普通に成長すらするはずのもの」であるはずなわけで、そのへんは僕は「ネオリベラリズムが提案する施策にほぼ全部反対する人間」であるものの、こと、その部分については「ネオリベラリズムと見方と一致している人間」でもあるわけです。
しかし「既存の金融界」という「国家権力なにするものぞ」というようなナンセンスに隠然とした力を持つ存在が「血液の供給源たる金融システムを握っている」のをいいことにして(まさに奇貨として)、
自分たちの金権・利権の方を最優先にして、経済という体を時にあえて病気にすらさせるという「とてつもない悪行」が何度も繰り返されてきたわけですね。
「獅子身中の虫」という言葉があるようですが、まさにそういうべき存在が僕からみた「現代経済社会における既存の金融業界」であるわけです。
彼らが経済の心臓部である「金融」を不当な形で把握し続けるかぎり、僕ら庶民は「不安定でかつ不幸であり続けることを約束されているも同然だ」と僕には思えてきます。
彼ら金融界の支配者である「その心臓に寄生しては心臓に不正な作用を及ぼす経済という身体にとっての最凶の寄生虫」というものを「経済という身体から取り除く手術」ということは、今や世界庶民全体の幸福にかかわる重大事項だと思われるわです。
その方向性における端的な「社会実装」としては、僕は政府が堂々と通貨発行を宣言し、インフレ率という事実上の制約に目配せをしつつも、通貨発行権をもって「ユニバーサルベーシックインカムをまともな額で実施する」ということをなすべきだと思います。
そういう「害虫を切除したあとの、実際の社会の立て直し方」というところについては、また別のこみいいったややこしい話になってしまいそうなので、この記事では省略することにさせてもらいます。
えー、比喩の設定とか、肝心の論理とかが、まだまだだいぶ粗削りで、しっちゃかめっちゃかな、文章になってしまっちゃったのかもしれません。
このまだ論ともいえないようなインスピレーション程度のものとはいえ、今のところ僕は「この勘が間違っているとは到底、思えない」というところにいるわけです。
というわけなので、もしこの僕の「おもいつき」を読んで下さった方いたら、
僕のこの「僕にとってはもはや疑いえないインスピレーション」が本当に「芯をくったものといえるのか」を、耳目に触れるいろんな材料に照らし合わせて、吟味してもらいたいと勝手ながら思うわけです。
もし、それをする過程で何か感じるところがあれば「僕(タコっす)の思考たらず」なところを、埋めてご自身の論として立てて、
ぜひ、僕ら世界庶民を金融界の毒牙からまるっと救い出す「武器よりもなお強いペン(理論)」として鍛え上げてそれを社会に公表・アピールしてほしいと思うわけです。
記事の締めにふさわしくもない「他力一辺倒の情けないこと」をいってしまったわけですが、
もはや、捨てるほどのプライドは僕には残ってもないので、そこはしっかりと「誰か助けてー!!」といいたいと思います。
救ってもらえてば、万事オールオッケー!!
(※「万事」と「オール」がたぶん重複しちゃってる冗長表現)
ではまた。