結局、愚痴のはきだめ

結局、愚痴のはきだめ

非公開ブログを目指していたけど…挫折。

 

あけましておめでとうございます。

 

アーカイブ的に閲覧してくれている方には適さない言葉ですが、なにしろ、これを書いているのが26年の正月なわけです。

 

ふと気づけば、僕が「今、現在この党以外にまともな党ってあるの?」というくらいの勢いで推している参政党さんへ言及がしばらくとぎれていたので、

 

今日のテーマとあまり関係がないですが、正月という節目のタイミングでもあるので、この場を借りていわせてください。

 

「今年だけといわず、日本がとりあえずこの急場を乗り越えてまともな状態になるまでは、僕は、きっと・ずっと参政党支持者でありつづけます。

 昨年のめざましい活動、ありがとう参政党!!

 今年も、参政党が目指すところへのさらなる進捗を祈念いたします!!」

 

ということで、かの大カトーばりに「関係ない文脈でのいつものぶっこみ発言」を記事のしょっぱなにやってしまいました。

 

では、しきりなおして、以下で記事の本題に入っていきます。


----【本文】-------------------------------

タイトルでの物言いについて、まず想定される「批判ないし揶揄」というのは、次のものだといえそうです。

「おいおい、タコっすよ。
 リヴァイアサンなどという、文脈をかく乱させるような意表を突くような言葉をもちだして、大事なところを煙に巻こうと企んでいるようだが、俺っちの目はそんなことには、ごまかせられんぞ!!
 お前の示唆するそのヴィジョンというのは“共産主義・社会主義が来た大失敗の轍”へと社会を漫然と誘導・回帰させるかのヤバすぎるものじゃないのか?ときならぬ社会主義へのいざないなんじゃあないのか?
 お前は平生、保守のふりしておきながら、その実、この期に及んでこりもせずに国家に社会主義という毒を日本国にあおらせて、根底から破壊しようと目論む、反日・売国野郎なんじゃないのか?」


そのツッコミをざっくりとつづめて言い直すと「お前のいうそのアイデアはすでに社会主義体制という過去の政治制度において欠陥だらけだったことが実証されてるぞ!!」みたいなことですね。

それについて、端的に二つ反論させてください。


① 社会主義との「標的」の違い。


 マルクス理論を背景として実装された社会主義というものは、その仮想敵ないしさしあたりの敵を「産業資本」というものとして措定したわけです。
 それに対して僕は、もちろん資本主義社会においての「産業資本の強欲」というものを放置していいとはいわないものの(なので、イギリス工場法などを嚆矢とした労働者保護法制はもちろん大事だと思っています。)
 国家が人民の幸福の保障のために警戒すべき「仮想敵」としては金融資本と比べてそれ(産業資本)は、昔ならばいざしらず、今の時代においては「警戒ランクが一つも二つも低いものだとしか思えない」わけです。
 僕は過去の社会主義とは違って「産業資本なんかよりも、金融資本こそがまっさきに国家に適切に枠づけされるべき」という主張をここでしているのであって、
 この違いは「社会主義憎けりゃ、ネオリベ以外は全てが憎い」ようなマインドセットの人には微妙な違いに映るかもしれないけど、
 僕の考えでは「この僕の旧来の社会主義思想との仮想敵の見立てにおける違いは、実際の結果として相当におおきな違いをもたらす」というものであるわけです。
 僕はマルクス先生の理論を歴史的にみてスゴイ偉業だとは思っていますが、ただし「なぜ産業資本をまっさきに指弾した?もしかしてマルクス先生は彼の親戚にも多くいたらしい金融資本の関係者というより大きなパワーをもつ界隈におもねったのか?」という疑念すら持っている人間であるわけです。
 「あれれ、不用意で下手な陰謀論をいっちゃってるぞww」みたいな批判をかわすべく、より穏当な見方をするならば「マルクス先生の時代には、お金とはゴールドなどの実物のものであると考えられていた」という時代がもたらす金融観の違いというものがあるということにはなるかと思います。
 しかし、かのニクソンショックを経て、今や世界は堂々と「お金というのはただの観念的お約束。主に信用創造という手品っぽい記帳操作で生じているだけのもの。」という事実が顕わになってきている時代なわけです。
 信用創造が現にお金をゼロからうみだしることが知れ渡るようになったり、また、その事実を土台としての将来プランとして「じゃあ、銀行なんかに独占させてないで、国家が貨幣を適宜適切に発行すればいいじゃない?シニョリッジ(通貨発行益)を民間の銀行システムにだけ独占させ続けるってのを、いまさら一体どう正当化しようというわけ?」という発想すらもう普通に出てくるような時代に現代はすでに入ってきているわけですからね。

 (※ちなみに実際には、マルクス先生は「産業資本家が悪い。奴らは性悪な社会の害悪だからぶったおせ!!」とかいったのではなく、産業資本家にそういう悪行をさせる・唆すシステム(≒下部構造)をこそが問題だとしているようです。
 マルクス先生は濃厚に構造主義者というべき思考をする人だとおもうので、そういう意味でマルクス先生が「敵」という言葉を使うとしても、それはあくまで「比喩」であって、先生が焦点にしていたのは徹頭徹尾「人ではなくシステム」であったというべきだとは思います。
 なので、以上では言葉の分かりやすさを優先して「仮想敵」という言葉を用いましたが、マルクス理論において「敵は人ではなくシステム」という理解こそが正確であろうことについてはお断りしておきます。)




② 社会主義との「手段の相当性」の違い。

 御存じのように、社会主義はロシアにおいて派手に、中国において静かになしくずしに“崩壊した”わけですが、
 その事を僕がタイトルで持ち出したリヴァイアサンという比喩に引きつけて表現するならば、おそらく、
 「社会主義政権という政治リヴァイアサンが、経済というリヴァイアサンの身体のそこかしこをいちいち縛り上げて、自らの意のままに傀儡(くぐつ・操り人形)のように踊らせようとした」ということが妥当・対応するのだろう思います。
 そういうものにたいして、僕は「経済というリヴァイアサンに首輪をつける」という方向性の施策を提案しているわけで、僕からいわせると「社会主義のやったことと、僕がここで提案していることは似ているようにみえるかもしれないけど、全く違う」ものであるわけです。
 ちなみに、タイトルの文字制限にあわせてギリギリ意の通るような言葉を選んだために「首輪」という言葉を使いましたが、本当は僕は「経済という身体における循環器系の公的なコントロール」というところが念頭にあったりします。
 どちらも「自由経済における各業界・各所での闊達な試行錯誤」というものを尊重すべき、という意図が込められているというところでは共通しているなわけですが、
 「首輪」という言葉を持ち出してしまうと、その先に「ご主人様がいて、首輪につないだリールで、ときにその獣を大いに強引に引きずり回す」というような場面の連想も出てきてしまうわけですよね。
 ですが、人類が経験した「社会主義の大大大失敗という事績」を念頭におくかぎり、僕は経済に対して操り人形にはいたらない「リールをつけての散歩」という程度のものあったとしも、政府がそこまでの剛腕を経済に対して振うのは妥当ではないと思っています。
 やっぱり経済の主役は「各産業界での自由闊達な試行錯誤」だと思うので、政府は「経済のご主人」みたいなものにまではなるべきではない。
 身体の自由という比喩でいうならば、リヴァイアサンを「これから先には出張ってはいけないよ」という妥当な檻(おり)にいれるみたいなところまでが許容できるということになるかと思うわけです。
 というところまで来ると僕は「あるべき経済リヴァイアサンへの対処というものを“身体の自由の規制の程度という比喩”で語ることがそもそも無理だったのかもしれない」とも思えてくるわけですね。
 そこで、より妥当そうな比喩として思いつくのが「経済というリヴァイアサンの身体のうちの“心臓とそこから延びる血管という循環器のパート”についての国の妥当な監理・ペースメイク」というイメージにおいての施策であるわけです。
 その比喩においては「各産業界での自由闊達な試行錯誤」というものは「脳をその中枢とする神経系」によって担われることになるわけなので、
 両者は社会主義のやりかたのように「直接に一方が他方を支配するような関係」であるどころか、
 とても合理的に分節・分化された、相補的な系の関係であり、両者の関係性がうまく調整されれば、当然に共存共栄を達成しうる関係のもの、 というイメージがすんなり引き出されるはずなわけです。
 また、いみじくも「お金は経済の血液」という表現(比喩)が今でもすでに広く援用されるものとしてあるわけですよね?
 そしてその「お金」を「集中的に掌握しているのが今の金融システム」であることに思いをいたせば、現在の金融業界は「経済という身体における心臓を握っている存在」だとすんなり腑に落ちもするわけです。
 そして、現代社会の必須の基盤をなす「経済」という身体において致命的に大事な器官である「心臓」というみたてを前提としてみれば以下のような構図もすんなり浮かび上がってくると思うわけです。

 「なぜか漫然と公的権力のコントロールの埒外に身を置き、なんならときに、公的権力を上から押さえつけるような傍若無人な力さえ発揮してしまっている、経済の心臓部をつかんではなさない既存の金融業界」という構図です。

 そしてそのような存在であるところの「既存の金融業界」がいかに「ナンセンスで邪悪な存在か」という理解もすぐにピンとくるんだと思うわけです。
 経済というものは本来は基本的には「まともな血液供給」さえあれば国民各自(経済という身体における細胞各自?)に宿っているはずの「消費欲やら生産欲ないし承認欲求」というものに駆動されて「闊達に元気に動いて、普通に成長すらするはずのもの」であるはずなわけで、そのへんは僕は「ネオリベラリズムが提案する施策にほぼ全部反対する人間」であるものの、こと、その部分については「ネオリベラリズムと見方と一致している人間」でもあるわけです。
 しかし「既存の金融界」という「国家権力なにするものぞ」というようなナンセンスに隠然とした力を持つ存在が「血液の供給源たる金融システムを握っている」のをいいことにして(まさに奇貨として)、

 自分たちの金権・利権の方を最優先にして、経済という体を時にあえて病気にすらさせるという「とてつもない悪行」が何度も繰り返されてきたわけですね。
 「獅子身中の虫」という言葉があるようですが、まさにそういうべき存在が僕からみた「現代経済社会における既存の金融業界」であるわけです。
 彼らが経済の心臓部である「金融」を不当な形で把握し続けるかぎり、僕ら庶民は「不安定でかつ不幸であり続けることを約束されているも同然だ」と僕には思えてきます。
 彼ら金融界の支配者である「その心臓に寄生しては心臓に不正な作用を及ぼす経済という身体にとっての最凶の寄生虫」というものを「経済という身体から取り除く手術」ということは、今や世界庶民全体の幸福にかかわる重大事項だと思われるわです。

 その方向性における端的な「社会実装」としては、僕は政府が堂々と通貨発行を宣言し、インフレ率という事実上の制約に目配せをしつつも、通貨発行権をもって「ユニバーサルベーシックインカムをまともな額で実施する」ということをなすべきだと思います。

 そういう「害虫を切除したあとの、実際の社会の立て直し方」というところについては、また別のこみいいったややこしい話になってしまいそうなので、この記事では省略することにさせてもらいます。
 
 

 



えー、比喩の設定とか、肝心の論理とかが、まだまだだいぶ粗削りで、しっちゃかめっちゃかな、文章になってしまっちゃったのかもしれません。

このまだ論ともいえないようなインスピレーション程度のものとはいえ、今のところ僕は「この勘が間違っているとは到底、思えない」というところにいるわけです。

というわけなので、もしこの僕の「おもいつき」を読んで下さった方いたら、

僕のこの「僕にとってはもはや疑いえないインスピレーション」が本当に「芯をくったものといえるのか」を、耳目に触れるいろんな材料に照らし合わせて、吟味してもらいたいと勝手ながら思うわけです。

もし、それをする過程で何か感じるところがあれば「僕(タコっす)の思考たらず」なところを、埋めてご自身の論として立てて、

ぜひ、僕ら世界庶民を金融界の毒牙からまるっと救い出す「武器よりもなお強いペン(理論)」として鍛え上げてそれを社会に公表・アピールしてほしいと思うわけです。

記事の締めにふさわしくもない「他力一辺倒の情けないこと」をいってしまったわけですが、

もはや、捨てるほどのプライドは僕には残ってもないので、そこはしっかりと「誰か助けてー!!」といいたいと思います。

 

救ってもらえてば、万事オールオッケー!!

 

(※「万事」と「オール」がたぶん重複しちゃってる冗長表現)

ではまた。


まず言いたいのは、テレビっ子(※正確にはTverっ子)としてバラエティ、アニメ、ドラマ、いろいろ雑食的に視る僕にとって、

今シーズン(※なぜかテレビ業界ではクールとかいう言葉を使うらしいが…)の全ての番組で、後々まで記憶にのこるだろうという観点でぶっちぎりの一番だったのが、

テレビ東京さんのドラマ「シナントロープ」であったということです。

別の言い方をするならば、今シーズンのテレビ番組をDVD化にしたものから何を選んで買うか、というふうに考えた場合、

僕が「これ一択でしょ」という感じで購入するだろう作品が「シナントロープ」という連続ドラマであるということです。

なかなか難しいところは、だからといって、端的に「シナントロープは最高に面白いドラマだからぜひ見るべきだよ」と誰かれかまわず、他人様に安易にすすめられる作品でもないということです。

ありていにいえば「やや人を選ぶ作品」なのであろうというところですかね。

それがちょっと人を低く見積もったような「言い過ぎな判断」であるならば、

もしくは次のようにはいえるかと思います。

「導入ないし文脈」をある程度、提示して観てもらわないと「いや、こっちはまだちゃんとその口になっていないぞ!!そんな準備はできてないぞ!!」という感じで、

口にはいれたものの、途中であえなく吐き出されちゃう可能性(視聴を途中でやめちゃう可能性)があるというところも考えないといけなそうというような作品。

みたいなところです。

人に作品を薦める場合は「面白い」という推し文句をつけるのが通常なわけですが、

正直「面白い」というその場の瞬間的な感覚を基準にしていえば、シナントロープに競ったりむしろ優ったりする番組(ドラマ)は今シーズンにもいくつかあったかもしれないとも思います。

ですが「後に見返したくなる。何度かしがんで(噛んで)みたい。」ものとしては、ダントツでシナントロープであったということです。

僕みたいなドラマ評論家でもなんでもない素人が、おこがましくもその特定のテレビドラマについて評価を提示するような記事を書いているということも、

そこにこそ起因していたりします。

どういうことかというと、僕のこの記事を書かせることになった率直な気持ちというのは以下のようなものであったわけです。

「最終話まで観終わったのだけど、この作品はエンタメとしても上質で、それゆえ肩肘はらずにみられるように仕組まれていながら、その実、人間のいろんなところを静かにえぐるような切り口がちりばめられた含蓄・趣きが深い作品だった。
 映画館で金払って見る場合でもなかなか出会えそうにないようなこんな上質な作品が、なぜTverではこの程度のチャンネル登録者数に甘んじてしまっているんだろうか?
 いやぁ、惜しすぎる!!
 ただの部外者ながら、なんか納得いかん!!釈然としない!!
 作った側はもっと数字的に報われてしかるべきだし、また、テレビ視聴者(比喩的にお茶の間ともいう)においても、無料で見られたというのに、この作品を観ていないのはもったいないすぎる!!
 もう少し多くの人がシナントロープという作品に注意を向けるべきじゃない?」

というものです。

はい。お察しのとおり、これはもはやただの推し活のはんちゅうの挙動ではあるわけです。

ウザさを感じさせていたらば、すみません。

ところで、僕は、専門家・批評家でもなんでもなく、一視聴者にすぎないただのド素人なので、この「もっとみられるべきだ」という事態に関して、局の宣伝が良いだの悪かっただの、

そういうところを偉そうにつっつく(裁く)つもり(構え)は毛頭ない、ということをまずいわせてください。

この作品の制作・放映にまつわる内部事情を僕のようなただの視聴者は知るよしもないので、

そこを下手にかんぐって批判するという無粋なことはするつもりはさらさらありません。

むしろ、これは「時代が作品においついてない」とか「大衆がその価値に気づくのに時間がかかるタイプの作品」とかいうふうな「残念だけどなかなかいかんともしがたいミスマッチ」というところで説明するほうが妥当なのだろうと思っています。

ちなみに僕はここで別に「自分のことを大衆ではない。特別な人間だ。」とかいいたいのではないです。

正直にいわせてもらうと、僕もシナントロープの視聴については「とちゅうで離脱する可能性があった」と振り返って思うわけです。

最終回までみてやっと「これは途中で視聴離脱したら大損だったなぁ。」とちゃんとその価値が腑に落ちただけなわけです。

そういう意味では僕もちゃんと「平凡な大衆の一員」であるわけなので「俺は大衆と違って目が肥えているのだアピールかよ?」みたいなツッコミは是非ナシにしていただきたい。

僕だってたまたまみて、たまたま最終回で「この作品は今シーズンのベスト!!」って思ったという次第なわけですからね。

最初からそういう確信があったなんてことでは決してありません。

(※ちなみに、僕のなかでこの作品に次ぐ二位の番組としては同率で「もしもこの世が舞台ならば楽屋はどこにあるのだろう」と「良いこと悪いこと」と「ちょっとだけエスパー」という感じです。)

まぁ、だからこそ、もはや「これテレビっていう俗っぽい場所で展開する作品としてあってる?」というべきとても意欲的な作品の制作・放送にコミットした全ての関係者に向けて、その素晴らしいイノベーティブな精神に敬意を覚えざるを得なかったわけです。

そういうつもりで「このような作品こそ、観て魅了された人がこの作品のよさを口コミするべき最たるものだ」という気持ちに突き動かされた挙動を、誰に頼まれるわけでもなく、勝手にこの記事で僕がやっているということです。

もしかしたら、この作品のよさのために、まんまとボランタリーに動いちゃっている僕のこの言動を「思うつぼだな」というふうに皮肉めいた形で見る向きもあるのかもしれませんが、

いい作品がその良さを感じ取られる人により多く届くこと願うことは、作品への愛を感じてしまった人間のやむにやまれざる「白い呪い・ホワイトマジックの作用」というべきもので、

まぁ、それはともかくサブカル愛好家にとって、抗いようのない動機なわけだし、芸術(サブカル)を愛することにおける醍醐味ですらあるもので、決して否定されるべきものではないでしょう。

「それもまた文化という営みの立派な一部だろう」と勝手に胸をはって先をつづけさせていただきます。はい。

ところで、さっきも持ち出した「面白いというその場の瞬間的な感覚」という切り口でいえば、この作品は「みてる(味わってる)そばから、甘くておいしくて、のど越しさわやか」というようなものではありません。

ざっくりいえば「あとでじわじわくる」とうような一皿であるわけです。

「場面場面のその時の瞬間的面白さ」を期待して観ちゃうと、肩透かしを食らった気分になる人もそれなりに出てくるでしょうね。

お薦めのための文言を選ぶのには「なかなかに悩む作品」でもあるわけです。

ビレッジバンガードで秀逸なポップをいくつも作ってらっしゃる趣味の深い店員さんたちの審美眼・技量、みたいなものが僕に備わってないことが、今リアルに悔しいです。


僕はかってにこの作品の見どころとして「人間におけるもやっと」という表現を持ち出してしまいましたが、

ともかく、この物語の作者さんは「それぞれの人間を深いところから描こうとした」という情熱と力量がすごい方なんだろうとお察しします。

僕はそれを個人的に「人間におけるもやっと」というふうに受け取ったわけですが、それは視る人によってまた別の表現が浮かぶものだろうと思いますので、ただの一つの感想というふうに割り引いて受け取ってほしいところです。

ただ、それ(作者さんの深い洞察)を受け取る一定の感性の深ささえ観る側の人にあれば、もしくは観る際にその構えさえ備わっていれば、

きっと「それぞれのキャラクターが人間の深いところを抉(えぐ)っている」ないし「それぞれに人間の深いところのなにかしらが託されている」ものだと把握できるんだろうとは思うわけです。

それはかならずしも僕が表現したような「人間のけるもやっと」というものではないとしてもです。

「深みのある人間描写のつもり」とかいうあざとくて上っ面の作品は実際にはあふれかえっているわけで、

そういうような作品は、鼻につく(とか抹香臭い・説教くさい)という不快な感覚をはっきりと僕ら視聴者にもたらすわけですよね?

だけど、シナントロープにはそれがないということがいえます。つまりは「ちゃんとエンタメとしても上質」であるわけです。

今の時代「深い」とかいうのはポリコレの専売特許のような形に矮小化される嫌いがあるわけですが、

シナントロープは、もちろん深い作品だと思うわけですが、その深さというのは、ポリコレ的な“深さ”とは無縁の作品といって間違いないと思われるので、

ポリコレに染まったような昨今の「説教めいた抹香臭い偉ぶったやり口」にうんざりしているだろう多くの方々にそのへんは安心していただきたいと思います。

むしろちかごろの、ジェンダーだのなんだのという「はやりに漫然と便乗したような思慮の浅い上っ面の正義」をさも高尚なもの・深いもののようにしてフィーチャーする数々の「ポリコレ謹製のお手軽、シリアス風情のもろもろの作品」という

現下のドラマシーンのそのような背景は「ポリコレ作品群こそが引き立て役」にまわってしまうような、いいフリになってくれているともいえそうですね。

シナントロープという作品からするといい「まとめてひとくくりのものとして背景とみなせば、引き立て役として、とてもいいお膳だてになってくれている」ともいえそうです。

枯れ木も山のにぎわい。

ポリコレ濫造状況はかなりウザイが、それもまた本物な作品の引き立て役…。

下手クソながらちょっとことわざみたいなものをひねってみてしまいましたwww

語呂が酷く悪くて、もはや「ことわざの体すらなしてない」のが自分でもわかっちゃうレベルですね。

出過ぎた真似をして、勝手にすべって、どうもすみません。



えー、全部にわたって「とある作品について私なりの能書き」という身の程知らずの記事になってしまったようです。

が、さすがに「もーえーでしょ!」とかいう声が聞こえてきそうな空気をかんじないでもないので、このへんで切り上げることにします。

最期にちょっと釈明なのですが、この作品をエンタメとして土台をなしている「伏線ないし謎解き」というところは、

もやっとしているということはなくて、むしろ「すっきりしている」とすらいえるところなので、

そのへんは誤解しないでください。

僕が「もやっと」という言葉で指示したかったの「色んな側面での人間の業(人間におけるやむにやまれぬもやっとしたもろもろ)」という意味でのもやっとであって、

ストーリーテリング(話の筋)としての「もやっと」はこの作品には全くといっていいほどありません。

人間にはそれぞれ、文字でもなかなか言いあらわせないくらいの「もやっと(業)」が隠されているのだろう、と思うのですが、

その様々な「もやっと」を映像でもって巧みに描きだしているというふうなところに僕は感銘をうけたわけです。

作品全体が「もやっと」という言葉で連想されるように「ぼやっとしているもの」なんてことは全然ありませんので、そのへんはちゃんとお断わりしておかないといけないと感じました。

かりに僕がここでいいたい「もやっと」の対義語を考えるならそれは「きりっと」ということになるかと思います。

竹を割ったように分かりやすいもの(主張・メッセージ)を「きりっと」というふう表現しているとここでは考えてみてほしいわけです。

すると、近頃、やたらあるれている「ポリコレ汚染作品」というのは、さすがに“理性の暴走”を根っこにしてるだけあって、完全に作品が「きりっと」してしまっているわけです。

いわば、竹を割ったように、もしくは、水戸黄門のように「勧善懲悪」であるわけです。

ということは当然ながらそれは「極めて底が浅い、浅はかで軽いメッセージ」であることにもなってくるわけです。

人間や社会がそんなに簡単ならば一体地上のだれが「思い悩むの必要があるのだろう?」というくらいなナンセンスを平気でやるのが、ポリコレ屋さんであるようです。

もちろんポリコレさんか観たところのお考えは僕の以上の見立てを完全にさかさまにしたものであって、それはつまり、

「思い悩む原因を作りつづけてきた社会の不条理≒悪魔をこそ私たちは今こそ一掃しようとしているのだ」という見立てになるのでしょうね。

 

過去の時代に生きた人間たちを「全員が全員、目が節穴のバカども」と言い出しかねないような、見上げるような自信・自惚れが見て取れますよね。

いやはや“有頂天の理性”なる“狂気”が帰結する発想内容というものは、僕ら常識派の凡人にはあっけにとられるようなものがありますね。

あー、くわばらくわばら。

ちなみに、僕が先に揶揄語かのように水戸黄門を持ち出してしまったように受け止める人がいるかもしれまえせんが、

殊、水戸黄門というところまでいくとあれは「様式美」ですので、見てる人もその作品に向けて「人間における真実をえぐる」なんてことは端からそれに期待もしてないはずなわけですよ。

それは「憂さ晴らしに特化したメルヘン」だという構えでみられるはずのものなので、むしろ、それにはそれなりの「健全な認知空間」が維持されているはずなわけですが、

ポリコレ的な作品は、無残にもその浅はかな道具を振り回しては「俺こそ勇者。俺こそ正義」と真顔でご満悦なわけですね。

たいへんナイーブで微笑ましいといえば微笑ましいですけどねwww

子どもが戦隊ものの身振りを真似してはしゃいでるのと大差ない“無邪気”というべきでしょうか。

(※一部の大人たちがそれを真顔でやっている時点で「無邪気どころか、社会にとって、もはやおおいなる邪気」ではありますけどね。
 大人が公の場で本気で戦隊ものの真似をするということになれば、当然それは大変迷惑なわけです。)


「最後に少し釈明」というつもりでしたが、その書きしなに思わず「僕の個人的なポリコレへの嫌悪」が漏れ出して、話しが長くなってしまったようです。

ただ、ポリコレとの対比・対照というのもまたこのシナントロープという作品を語るうえでの重要な要素にはなっていると思うので、

完全な横道というわけでもないとは思われます。

ということで、長くなったことについてはどうかご海容いただきたいと存じます。

今日は、いつもの僕らしくもなく、また僕の感性になど注目する価値はないだろうはずなのに身の程知らずの「いわゆる日記」を展開してしまって、

たいへんお恥ずかしいかぎりです。

読んで下さる方が「いなくてもともと」だとは思いますが、

万が一、ここまで読んで下さった方いたら、それは僕にって望外の喜びです。

ありがとうぞんじます。

ではまた。
 


テレビの報道特集番組をみていたら“自称金融の専門家”が、さも当然のことかのように「日本のようなお金のない国にばらまきをする余裕はない」とかおっしゃっていました。


僕には、金融の専門家にあるまじき「噴飯ものの発言」だと思わざるを得ませんでした。

とはいえ、番組しょっぱにおいても「岸○・石○政権の政策ブレーンも務めた」的な経歴をMCから紹介されていたていたお方なので、

そのような発言をきいても「さすが岸○・石○両政権のブレーンwwおなかま同士ちゃんとアレだねwww」という感じで、意外性こそ感じなかったわけですけどね。

日本は長年にわたるデフレ不況の下にあるわけですよね?

ちかごろ名目インフレ率はあがってきているものの、おもにコストプッシュインふれと、それに紛れての「便乗値上げ」という、というてい「景気のよさが引き起こすところの典型的なインフレ」なんかではない状況であるわけです。

そういう「長年の不況スパイラルという所与の状況」においては、家計はもちろんのこと、どれだけ大きな企業であっても、

「節約志向(未来悲観思考)という、現下の状況下での“部分最適の罠”から抜け出せるプレーヤーは一つたりとも存在しない」

ということになっているわけですね。というより、厳密には、デフレ環境下においてそのような「株主にたいする背任的行為」をなすような大企業の経営陣が万が一現れたとしても、

一企業という経済規模からいって「好景気へと転換させる呼び水」となる規模の作用をおよぼすことなどできっこないわけで、

ただの「あだ花」として咲くだけであって、その花はついぞ日本の好景気として結実することはかなわない、ということにしかならないはずなわけです。

だからこそ、賢いからこそ経営者として選出されただろう大企業の経営陣はそんな「先に結果が目に見えている無駄死に策」のような選択などするはずもないわけですね。

ともかく、そいういうわけなので、この不景気を脱出させうることのできる経済プレーヤーは今や「政府しかありえない」わけです。

もちろん、政府がしうることのメニューとしては、かならずしも「すべて財政支出」によるものでなくても「減税策」でもいいだろうともですが、

ともかく、すでにデフレ状況が何十年にもわたってしみついた日本経済において、景気を浮揚させるほどの規模の「経済的刺激策」をなしうるのは政府を置いて他にはないということです。

その「この長年にわたるデフレスパイラル環境下においては、政府のみがまともに不況に対処できる経済プレーヤーであり、不況脱出の正否は、ひとえに政府の双肩にかかっている」という認識を下敷きにするのであれば、

僕は決して社会主義者つまり計画経済主義者ではないものの、

今の日本経済を「株式会社日本と見立て、かつその経営陣を日本政府とみなす」という構図において語ることには「あくまで一時的・時局的な例外ながら」妥当性があると考えます。

もちろん、経済は基本的に「民間が主体」であるべきだし、今でも現に家計と企業という民間部門こそが、経済を廻しているわけですが、

とはいえ、さっきも述べたように、現下の日本経済においては、特異的な事態ながらも、家計も企業も、すべては「デフレ環境下における節約経済志向という部分最適の罠に完全にからめとられていて、そこから身動きが取れない」状態にあるわけですね。

経済の主人公は「民間=家計+企業」であることは歴史が証明するところの「経済の鉄則」ということにはもちろんかわりないのですが、

今や、その主人公がデフレの罠(部分最適の罠)というもの(敵)にがんじがらめの囚われの身となっている絶体絶命的な状況にあるわけで、そこにおいて、唯一、主人公をその窮地から救い出すことのできる役者が「政府」であるということなわけです。

なので経済という物語の全体をみればやっぱり「政府は脇役でしかないし。社会主義にならないためにも脇役であってもらなわないといけない。」ということがいえるわけですが、

こと現下の日本経済の「長年にわたるデフレ環境」という「主役(民間)がどうしようもない囚われの身になっている状況」という時局的なところを切り取るのであれば、

その「全体の物語からのスピンオフ的な物語」という枠組みの切り取りにおいては「主人公たる民間の絶体絶命のピンチを助けうる唯一の存在たる政府」というものは「スピンオフの範囲における立派な物語の主人公」であるといえると思うわけです。

いわば「臨時の主役」というべき立ち位置に政府はいるといっていいと思うわけです。


踊る大捜査線の主人公はもちろん青木さんなわけですが、スピンオフ作品(元の物語からの切り取り的な独立作品)での主人公は室井さんだったよね、みたいなことです。

ドラマではなくアニメネタでいうと、かならずしもスピンオフというわけではないですが、みんなご存じ「なぜか映画作品になると、主人公たるのび太を食っちゃうようなすごく英雄的な活躍をしちゃうジャイアン」みたいな事をイメージしてもらえればいいかと思います。


そういう意味で僕は計画経済(社会主義経済)はもちろん断固否定する立場でありながらも、まさに今の長年のデフレという「その状況下では部分最適であるため、もはや民間が自力で脱出不能な罠に陥っている状況」においては、

経済の脇役であるべき「政府」が「いっときの主役のような役割」を発揮せざるをえない緊急的な状況にあるという理解をしているわけです。

ながながと説明してきましたが、そういうわけなので以下では、あくまで極めて異常な「長年にわたるデフレ」という状況に限ってのことながら、

「民間を当然の主人公とする日本の経済というドラマシリーズにおける、とある一話限定の“臨時的な主役の立ち位置”にある日本政府」というような見立てのもと

「株式会社日本と、その命運を左右する経営陣としての政府」という構図を「あくまで今という時限的な日本経済における構図」として持ち出してみたいと思うわけです。

んで、以上のような見立てないし比喩を下敷きに考えてみると、しょっぱなに挙げた“自称金融の専門家”から発せられた「日本のようなお金のないくにに、ばらまきの余裕はない」とかいう趣旨の主張はどういった方向性の施策と言い換えられるかというと、それはつまり、

「この会社(日本)には、もはや成長の余地がないので、今後は“タコ足配当”をすることにだけ専心してきます」

という政策を政府たる経営陣に「すすめている」ような「金融の専門家にあるまじきとてつもなくナンセンスな主張」であるわけですね。

金融の専門家がこういう“タコ足配当のすすめ”を真顔でいっているのは本当に滑稽ですよね。

まぁ、その番組はなかなかしっかりとした座組みがなされていて、その言わば“タコ足配当派≒財政健全派”と対照させるようにして“積極財政派”の金融専門家も隣りで登壇していたわけなので、

その“積極財政派”という触れ込みの金融の専門家がその都度ちゃんと「成長をはなから無視した金勘定はいかがなものか?」という趣旨のツッコミをいれてくださっていたので、

その番組を視ていた僕の血圧の上昇も、その“積極財政派”のお方のツッコミのおかげで、大事には至らない範囲ですんでいたわけです。

というわけなので、僕がみたその番組の構成自体は意外に健全だったので、

この記事を読んで下さった方のうちには「タコ足配当、敢えて継続主義の自称金融の専門家は論外として、そんなやつの演説を堂々と公共の電波にのせる番組もそうとうにクズだな」とか考えて「犯人(番組)捜し」をはじめてしまう方もいらっしゃるかと思うのですが、

それは僕の語り(切り取り)がおこさせた誤解ですので、どうかそのへんは早まった挙動にでないようにお願いたします。

えー、当該番組についてのお断わりに言葉を費やしてしまいましたが、本題の「タコ足配当政策」にもどりますね。

僕がそのような「お金がないから均衡財政」みたいな主張のことを

「タコ足配当肯定派」と揶揄されてもしかたないような「金融・経済の道理からみてもあまりにアンポンタンな挙動」とみなしている理屈についてちょっと説明させてください。

まず「タコ足配当」とは金融の素人の僕の雑な理解になるかもしれませんが、だいたい次のようなものと理解していいと思います。

「今年度は残念ながら、まともな余剰(儲け)が出せまなかった。しかし、株価を考えると、配当しないわけにもいかんので、元本(出資金)を取り崩して株主様に配当してしまおう。」

みたいなことですね。

本当にタコがそういうことをする場面があるのかは僕は詳しくは知りませんが、ともかく「タコが自らの空腹にたえかねて、自らの足を食らうこと」というアナロジー(類比・比喩)がそのことばには込められているらしいです。

「儲けがでているから配当しているようにみせかけて、元本を取り崩して配る」みたいな非違行為であるわけです。

んで、これを「長年のデフレ脱出の成否がその双肩にかかっている今の日本政府」というものに重ね合わせて検討してみたいのですが、

その前に“日本経済を株式会社にたとえるという比喩設定からくるちょっとややこしいポイント”について説明させてください。

僕が上で提起したところの「臨時的に政府が主役にならざるを得なくなっている日本株式会社という比喩」においては「株主への配当は各種公共サービスにあたる」ことになるわけで、いくら日本経済全体の儲けが不十分であっても「これをゼロにすることは絶対にできっこない」という対応関係になるわけです。

なにせ、そこ(公共サービス)には医療などの命に係わることなども当然にはいってくるわけですからね。

ここのへんは「日本株式会社」という比喩において「株式」ないし「株式投資」とは全く事情が違うことにはご注意願います。

本来の株式会社においては「タコ足配当は端的にダメな判断」ということで簡単にけりがつく話なわけですが、

この僕のもちだした「日本株式会社」においては「いつもある一定の配当(公共サービス)は避けられないので、会社に余剰のフローがない場合は、強制的にタコ足配当がなされるし、その判断の正当性は決して否定できない」ということになってくるわけです。

 

ですので、僕は「政府におけるタコ足配当」そのものを「悪だ」ということをいいたいのではないのはご理解いただけると思います。

 

結論をややフライング(先出し)しちゃうようですが、僕が問題にしたいのは「どうせ日本株式会社は、将来にわたって余剰など生み出せるはずもないのだから、これから先もずっとタコ足配当は恒常的なのものとして、それに即した極めて消極的なファイナンスしかしないことにしよう。つまりファインナンス上での攻めの姿勢で“事態を逆転・反転”させようなんて色気を出すことは言語道断であり、絶対にやっていはいけな禁忌だ。」とかいう考え方の方です。

比喩としてはちょっと苦しいポイントにはなってしまいますが「日本株式会社」は配当をしないわけにはいかない特殊な会社だというふうにみなしていただきたいわけです。

えー、比喩を持ち出したことからくる、からくるややこしいポイントについての釈明は以上です。

んで、僕が批判の的にしているところの“自称金融の専門家で均衡財政派”のお方の主張は、なんとその異常な事態(タコはし配当)を瞥見しては、何を血迷ったのか、以下の考えにたどり着いたようなんですね。

それとはつまり

「 この現下の日本株式会社におけおける長年にわたる“不況下での重税政策維持≒タコ足配当維持状態(≒生産力縮小維持状態)から脱出・反転するような策を考えることもなく、その状況にあえて迎合するような政策方針”は、日本経済において既に確定してしまったものとしての“将来にわたってずっと続くしかない不動の負のスパイラル”という要素からしてきわめて合理的な策なのである。
 政策においてこの“神のごとき負のスパイラル”にあえて盾突くことをしようという企み・政策とはつまり、天に唾をするような暴挙であるのであり、厳に慎まなければならない悪手である。
 日本経済において“未来永劫約束された縮小再生産への適合策=タコが足をたべてのみ生きながらえる戦略”という現実的な把握をしっかりと保持し、それに決して抗うことなく、それにフィットし、なるべくその事態に迎合するかのような政策こそ“まともな現実主義の政策”なのである”」

もはや、僕ら国民(日本株式会社の社員≒株主)にとって“悪魔的”といっても差し支えない“冷酷かつ残忍”なお考えだと感じてしまいます。

つまり「政策においても、タコ足配当状態(たえざる生産力の縮小状態)を将来にわたって固定化しよう」という企みを持った主張を平然と僕ら国民に発していらっしゃるわけですね。

悪魔的なところを僕なりに強調しつつ、さらにその主張を以下いいかえてみますね。

「悪いことはいわん。
 日本経済も、日本庶民ももはや経済的にいって“将来性が皆無の決定的におわったコンテンツ”なのだから、騒がずあわてず、避けられないところの“日本の着実な衰退”を座して受け入れろ。
 “不況下の重税≒財政均衡”という、あえての縮小再生産の誘導政策には、その実、ちゃんと“オワコン日本”という俺たちエリート様の見出した透徹した事実認識の土台があってこそのものなんだぞ?
 ここで、へんな色気出してむだに騒ぐと、むしろ余計に苦しい思いをして、衰退までをも早めるだけだと、なぜわかろうとしない?
 ない頭をフル回転してでもこの事実をちゃんと理解しようね?
 オワコン日本のバカで低能な庶民ちゃんたち?!」

実際の株式投資において、いくらそれが一時的な業績不振であっても「タコ足配当」がありえない経営判断であることはそのとおりながらも、

僕の持ち出した比喩としての「日本株式会社」においては、むしろ「どんなことがあっても配当(公共サービス)をゼロに何かできない。してはならない。」という要求が正当なものとして入ってくるわけですが、

それをして

「日本経済なんて、どこをどう見ても、もはや“ただのオワコン”なんだから、日本株式会社はずっと“タコ足配当≒不況下での重税”を続けるしかないじゃない?
 不況下での重税という“タコ足配当・維持温存政策”を今後もずっと続けて、そこから当然に帰結される“生産力のたえざる破壊≒自らの足をどんどん食べていく過程”を私たち日本株主(日本国民)は漫然と甘受する以外にないんですよ?
 ねぇ、バラマキおねだり大好きのポピュリズムのお馬鹿さんたち?」

みたいなことをおっしゃっているということになるわけですね。

たいへん、すさまじいお考えですね。

そこいらのホラー映画よりよっぽど身の毛がよだつ恐るべき発言・思考だと思います。

なにしろ、これはフィクションではなく、国民の「幸福・財産・生命」がリアルにかかわってくるような類いの話ですからね。

あー、おそろしや。おそろしや。

なんまんだぶつ。なんまんだぶつ。

悪霊退散。悪霊退散。



というわけで、僕の上記の念仏がどれだけきくかはかなり心もとないので、

是非、この“金融のプロを自称する一部の人間達が唱える「日本はオワコンだから諦めてタコ足政策(≒不況なのに重税維持策)に甘んじてろ」というような

“極めて残忍な棄民政策”というものにたいしては、

「俺たち日本庶民がオワコンだと?てめぇ一体どこのまわしもんだ?
 日本がオワコンだなんだと俺ら庶民をいくるめ、不当に不況状態に日本経済をがんじがらめ状態に維持して、日本を着実に“生産力が壊滅的になったオワコン状態”へと誘導しようと企んでるのがてめぇらの腹の底なんじゃねーの?
 お前らこそ、俺ら日本庶民を痛めつけて、実際にオワコンに仕立て上げようとしている激やばサディストだろうがい!!
 心理学の知見ではヤバい奴こそ“あんたのためを思って言うんだよ”とかいうセリフを吐くというけど、まさにあんたらがそれにあてはまっているようだなぁ!!
 まじで日本がオワコンだとおもってるなら、ぜひどっか“他の素晴らしい国”にでも行ってくれ!!
 あんたらがいなくなって清々したところで、まともな政策(財政・税制政策)の下で、おれら日本庶民はちゃんと頑張ってバンバン生産していくからよぉ!!
 たのむからもう俺ら日本(庶民)にウザがらみしてくれるなっ!!」
 

みたいな気概をもちつつ、僕ら日本庶民がこぞって「反発・抵抗」していきたいものだと切実に思うわけです。

以上、僕が持ち出した比喩がうまく機能しなかったという嫌いはあるのですが、どうしてもこの義憤を表現したくて

稚拙・拙速を覚悟の上で、アっプさせてもらいました。

いろいろと未熟で、どうもすみません。

では。
 


実はついさっきまで、spotifyの上で、spotifyがアレンジしたクリスマスソングのプレイリストをきいていて、そのシャッフルされて流れてくる曲のうちには、ジョン・レノンさんの“HappyXmas(WarIsOver)”もありました。

まぁ、とはいえそのジョンの曲に関しては、主にその曲の音を愉しんでいただけであって、その曲の歌詞の主張・理屈には全く共感していないのが僕なので、

その曲からなんとなく薫ってくる“切なる祈り”みたいな抽象的なところだけを味わうような時間でしたけどね。

わざと、というわけでもないですが、たまたまジョンのその曲を直前まできいていたというフリの効かせ方もこみで、

敢えてクリスマスのこの日にこういう内容の記事をアップするという僕の精神もわれながら“なかなかひねくれているなぁ”とは思いつつも、

たまたま、このクリスマスの日にこの記事を書き終えてしまったので、書きおえた余勢のままに、この記事をアップしようという次第であるわけです。

だらだらと、前置きがながくなってしまいましたが、以下本文です。


------【本文】---------------

平然と「武器はいらない」とかいう向きの人達がいるようです。

僕はそういう主張に対しては以下のように思ってしまうわけです。

「そうですか。それはものすごい覚悟の言葉ですね。
 僕のような“自分の弱さ・傷つきやすさを自認している個人”には想像を絶するようなすさまじい覚悟をお持ちのお方でいらっしゃるらしい。
 では、その言葉にウソがないと示すためにも、手始めに“現在の制度上、私にも観念されているところの法益については今後、刑事法による保障・保護は一切いりません”という宣言をしてもらえませんかね?
 まぁ、本当はそこで本気度の立証が尽くされるということではなくて、その立証のための“手始めに”というごく前段階の立証でしかないことですけどね。
 上で示したような内容の宣言というのは、なぜか、そういう向き(武器などいらない派)の人の内の多くが宇宙の真理かのように奉っているだろうところの“人権”というものの一部の“自ら率先しての放棄”というとても皮肉なことにはなるわけですが、
 まぁ、武器はいらない、などという破格の選択を宣言しちゃった手前、もはや“それは人権の否定になりかねないからできっこないことだろ?”とはいえませんからね?筋論からいってその言い訳は通りません。
 自分が、今、享受している“人権”が絶対に取り上げられたくない大事なものだと理解するならば、それと真逆の方向性の主張であるはずのところの“武器などいらない”などということは、本来、逆立ちしても(くちがさけても)言えないはずのことなんですよ。
 “人権”なるものは“宇宙をあまねく覆い尽くす真理、もしくは地上を覆い尽くす真理”などといえるものであるどころか、その実は“国家と国家の間の空白においては全く機能しない空念仏”としかいいようのないものではないすからね?
 “人権”というものが、国家が存在しないところにおいても、まるでどこにでもある石ころのように転がっているものなんか、であるはずがない。
 口を開けば“国家が人権を抑圧している!!”ばかり言っている様な人は、その事実(完璧とはいえないし、ときに人権侵害をやからしてしまう存在であるけど、しかし国家こそが人権享受をまともに実現しうるというただの事実)を都合よく忘れているのでしょうが、ともかくそれこそが“人権”という観念にまつわるあられもない事実です。
 国家がその価値を保障するからこそ人権は人権として社会に現象しているだけであって、そんなものを国家権力と国家権力の隙間の空間において叫んだところで、ただの空念仏・絵に描いた餅でしかないんですよ?
 さらにはっきりいわせてもらえば“人権なるものは国家が掌握する圧倒的な武力装置を組み込んだ刑事システムなどを後見として初めて、ただの絵空事から実装されたものとして受肉されるもの”というのが実情であるわけです。
 僕らが(さしあたって国内で)犯罪にあうという可能性を考えた場合に、犯人へのサンクション(さらにはそれを背景とした一般予防としての犯罪行為への威嚇)を保障・実践してくれているのは、窮極的には警察という組織が備えている武力・武器ですよね?
 左派巻き巻きのひとたちは“理性(観念における構築物)こそが全てを支配する。いや、すべきなのだ”とかいうメルヘン志向を真顔で持ち出すわけですが、世界をつぶさに観察すれば、そんなことは妄想・妄言だと理解できることであるわけです。
 僕は全くもってマルクス主義者なんかではないですが、マルクス先生の「社会を底から規定している下部構造というものを喝破したリアリズム」にはすごく感心させられている人間であるわけです。
 よっていきおい「肝心の下部構造には一瞥もくれずに、上部構造にとびついて、そこばかりこねくりまわすという悪趣味な観念的な暇つぶし・遊戯に熱中しているメルヘンな人達」が本当に大嫌いということにもなってくるわけです。
 僕らの日常の平穏(暴力などの法益侵害事態にみまわれないという平穏)というのを普段から見えないところでその最も基礎のところを保障してくれているのは、警察組織の武器による威力・威嚇です。
 治安維持については、義務教育やらメディアによる啓蒙などの上部構造が果たしている役割もたしかに大きいはずなわけですが、
 しかし、それとて、警察などに象徴される国家が持つ圧倒的な武器・暴力装置という盤石な土台があってこその営み・構築物であるとしかいえないわけです。
 とういことはですよ“武器はいらない”ということを主張・宣言する人はもはや“私は、武力の担保あってこそ機能している警察組織、そしてそこを起点としつつ連動して機能する刑事司法という国内の安全保障システムの恩恵も当然に拒否する”といっているのと同値なわけです。
 ということなので“武器は要らない”といっている人は、ちゃんと“私は(被害者の側面における)刑事法のあらゆる恩恵を放棄する”という事を宣言してもらう論理的な義務があるということになるわけですね。
 自分その立派すぎる物言いに向けられているだろう“大嘘つきのレッテル”を払拭したいのならばね。
 “私は誰に暴力をふるわれても、誰に財産を侵害されても、警察も司法も関知しないという自由な境遇に入りました”という宣言をしないならば、その武器いらない派の人は、ただの“格好つけの嘘つき”です。
 武器はいらな派の人から以上のことを立派に実践しちゃう人が現れたならば、そのひとは、おそらく、数日のうちには見るも無残な姿になってしまっているでしょうね。
 いうまでもなく数々の法益侵害にみまわれてズタボロになっているだろうということです。
 最悪、その命すら奪われてしまっているかもしれません。
 逆に、以上の実践(宣言)をしてもなおそういう悲惨似合わないで済んだというケースが出てきたとしたら、その人が“暴力○命を志向しているがゆえに実際上、私的な暴力集団になっている一部の左派の庇護下にいれてもらえている”とか“ヤ○ザなどの私的実力集団に後見をしてもらっている”そういう“ギリギリアウトのインチキ・ずる”をやらかしている人でしかないと勘ぐるべきでしょう。
 武器いらないとかいっておきながら、自分は“私的な実力・武力集団”に頼って、そこにお世話(その暴力の庇護下に逃げ込んでいる)のだとしたら“嘘つきのうえにクズさという恥までをも上塗りするクソ行為の特大盛り合わせ人間”だといっていい破格の醜態ということになるでしょうね。残念。
 ともかく、以上のとてつもない危険にさらされるということも、その人が“武器などいらない”という途方もない信念をもってしまったがための当然のコストなのであって、
 僕らはそれに同情するのではなくて、凄まじい信念に殉じたあっぱれな御仁であった、とその心意気を讃えるべきでしょうね。でないとその人の決意が浮かばれませんからね。
 敬意をこめてその墓標に手をあわせなくてはいけないのだと思います。
 さて“口だけのインチキ正義の味方風情野郎”などではなくて本当に“武器などいらない”と背中でもガチで語れる人は本当にこの日本の左派(その多くはただの売国・反日)のうちから一人でも現れうるのか?
 以上に述べたようなことを実践してくれないとそのテスト(ただの嘘つきか、それともガチの信念の人か、を分ける初歩のテスト)において“ただの目立ちたがりの嘘つき”と判定されかねないような、極めて聖人的(無辜の磔刑に甘んじたイエス様に肉薄するレベル)な信条をそのひとは先に宣言してしまっているわけで、
 僕のような“自分の身・財産の安全たのめにどうしても警察武力の保護が惜しい凡人”には想像するだに恐ろしいと思ってしまうその“いばらの道”を選んだ彼ら“武器はいらない派”であるわけです。
 彼ら“武器はいらない派”が自分の発現にどう落とし前をつけていくのか、それとも、己の宣言の重さに後でやっと気がついてその恐怖に耐えきれなくなってしっぽまいてとんずらしてしまうのか、
 ともかく、そこにおいては、かなり見ごたえのある諸々の筋書きのないドラマが展開されることは請け合いだろうと思われるわけです。
 いわば「武器などいららない(仮)」とうべきリアリティーショーの“予告編”というさわりの段階に僕らは立ち会っているわけで、これから本格的にその筋書きのないドラマの本編がこれからどう展開していくのか、彼ら武器いらない派がそこでどういう苦悶の表情をみせてくれるのかたのしみですね。
 ともかく僕らとしては“あんたらその威勢のいい予告編の発表からどんだけこっちを待たせてんだ?嘘つきじゃないというならば、はやく、本編始めてくれよなっ!?”ってせかしてあげるのが妥当としかいえませんね。
 僕はサド気質ではないつもりですが、ただし、己のことを棚に上げて虚栄やら自己欺瞞でもって“公害的な認知”を平然と垂れ流しているような人間のことが、本当に、大大大大大嫌いなので、
 そのリアリティーショーにおいて自己欺瞞や虚栄を大いにやらかしている人間があぶりだされるだろう画を想像するだけで、本編の内容というのが個人的には今からすごく楽しみであるわけです。
 僕は、自慢じゃないけど極度のビビりな人間なので、暴力を見るのも、血をみるのも苦手な人間です。
 だから、どういう文脈にしろ、どういう人間が加害されるものであるにしても、そういうシーンは正直、視たくはないです。
 ただ、彼ら“武器いらない派”が、順当なかたちで泣きべそかいて嗚咽しながら“自分の虚栄さや、害のあるウソをまき散らした社会悪を懺悔する姿”だけは是非とも見てみたいと思うわけです。
 自分の人間らしさ・人間としての弱さにちゃんと向き合うのはきっと成熟のために大事なことですからね。人間だものぉ~。
 それに、彼らが偽善的なウソ言葉でまきちらした公害的認知(日本国民を漫然と危険にさらす方向に誘導しようとする公害)というところを視野にいれるならば“みっともない泣きべそをさらして懺悔をする”というくらいくらいのサンクション(罰)がかれらに課されないことなんか、とうてい納得ができない、という情念が僕には正直あったりもするわけです。
 個人的な情念だとか言うと“お前の個人的な情念に興味なんか感じないね”とか一蹴されそうなので、ちょっと補足ないし自己弁護させてもらうと、
 たとえば一神教において“真理やら神のご意志を騙(かた)る偽預言者・エセ正義の味方の罪というものは莫大”であるはずなわけです。
 僕は、別にキリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもないわけですが、それら一神教の教義にも当然のようにあらわれているところの“人類の多くが共通のものとして観念しうるような真理を冒涜するようなふるまいにたいする義憤”をもってそれに反応しているというつもりであるわけです。」


えー、今日は、吹き出し(カッコ書き)で記事のほとんどの紙幅を占めてしまうというイレギュラーをやらかしてしまいましたが、

今日の記事の話題については、だいたい言いたいことがいえてしまったので、

文章・記事として、不格好な形になちゃっているのかもしれませんが、今日の記事はこれで締めることにします。

では。
 
 


革命というものは、本来その定義からいうと劇的なはずなものなわけですが、

その意味を「政治・権力体制」という本来のカテゴリーよりも広くとって(≒抽象度をあげて)「革命的≒画期的」というふうにみなして検討するならば、

多くの場合、同時代人が「あとになってやっとそれが起っていたことに気づく」ような、いわば「静かな革命」というものが多くあるようにも思われるわけです。

この記事では、現在進行形の静かな革命である「お笑いi(イマジナリー)世代」という勢力をなす「テレビのコメンテーター・パネリスト」という人達について話してみたいと思うわけです。

彼らコメンテーター・パネリストの「視聴者の腹筋破壊的な話芸」については、僕が言葉でちまちま説明するよりも、

現にテレビの報道番組・時事番組を見て体感してもらうのがよっぽどいいと思うので、そこの詳しい説明は割愛させてもらいます。

とはいえ「テレビみてね!」だけいって読み手を突き放すのも「テレビCMによくあった“詳しくはネットで!”みたいなことをブロガーのお前がいっちゃうわけ?ブログなんてテレビCMとちがって紙幅(尺)に限界ないんだから、横着してないでちょっとは説明しろよ!!」という顰蹙(ひんしゅく)をかいかねないかと思います。

なので、効果のとぼしい説明だということは承知の上で、軽くそのお笑いイマジナリー世代の芸についての僕なりの「能書き≒表層」みたいなところを言わせてもらうと、だいたい次のようなことになるかと思います。

まず、彼らお笑いイマジナリー世代がすごいのは「己の社会的人格をまるごと賭した捨て身のナンセンス発言の連打」というところですね。

その「社会的人格ないし社会地位」というところには「名門大学の教諭」とか「難関士業」とか「企業のエグゼクティブ」であるとかいう一般的にいう「高い地位・肩書」であることもあるので、

とくにそういう場合の「オチに向けたフリの効かせかた。賭けるものの大きさ。」というものは、本当にすごいものがあるといえるわけです。

これぞまさに彼らが「実数で表すのはものたりずに“異次元”を示唆しうる虚数といものを動員せざるをえないと納得させるような特異な世代」と目されるところの所以(ゆえん)であるわけです。

また、もうひとつ彼らお笑いイマジナリー世代が「破格」なのは、その壮大な時間感覚・時間スケールです。

おそらく彼らの大半はいわば構築された計算されつくしたボケ芸」であるわけです。

また、彼らのおおくはワンステージでみても「ボケ倒しを信条とするかのような、ナンセンスなボケ発言の手数の多い芸人」である。

しかし、彼らがツッコミを受けるシーンというものを僕らは、その番組のその回が終了しても「ついぞ見ることはない」んですね。これが決まって毎度毎度そうなんです。

もちろん、日本のお笑い界が長年、鍛え上げてきたところのお笑いセオリーからすると、

ボケがツッコミはちゃんと受けてくれないと「ボケ芸として完成しない・成立しない。オチがつかない。」はずなので、窮極的にはボケ芸はツッコミは受けないといけないはずのものであるわけですが、

都度都度のツッコミの受け取りをストイックに拒絶しつづけて、我慢に我慢を重ね、貯めに貯めた「ツッコミの一挙総受け取りイベント」を

その「お笑いアーティスト人生、もとい、社会人人生の終焉」とともになそうとするといういわば「お笑いの複利効果」というものを利用しようという目論見であるらしいわけです。

また、そこでの「一世一代の大ツッコミの受け取り」というものはいわばそのお笑いアーティスト(≒コメンテーター)がこれまで積み上げてきた「膨大なナンセンスコメント」の全部をひっくるめた形での「答え合わせ」というものにも同時になっているはずなわけで、

それはそれでまた僕らお茶の間(視聴者)側からみると「考察ネタ・リアリティーショー」としての愉しみ方まで提供されているということになるわけですね。

いやはや、芸が細かいことなんの、ってっ!!

そこについて、今から予測・考察できるのは、たとえば「①ハニートラップにかかっていたとか、金で釣られただとか、がためのダサダサのナンセンス発言だったのだ」とか「②自分や親戚の企業が某勢力とズブズブだったためのナンセンス発言だったのだ」とか「③海外の勢力にほだされたガチのスパイ≒工作員としての発言だった」とか、まぁそういう類の「答え合わせ≒オチ」といことになるかと思われます。

どっちも「国民総ずっこけまちがいなし」の大変笑えるオチだと思われます。

もしかしたら、この僕らがひとくくりにするところの「お笑いi(イマジナリー)世代」のうちには、稀に、以上の二つのどのオチも妥当しないような「ガチの天然」ともいうべき

「そのお笑いアーティストの心の裡になんの裏もない、ただただ自発的ないしオウンゴール的にお花畑思想が頭の内に咲き乱れていた人」という部類の人もいるのかもしれませんが、

それはそれで「お花畑なおとぎ話に脳をジャックされているような人間が、偉そうにテレビで視聴者にむけて講釈たれていた」という事態こそがメタ的・遡及的に「ナンセンスな状況」ということにもなるわけで、

そういうちょっと毛色の違ったタイプもふくめて、総じてお笑いイマジナリー世代という存在は「お笑い偏差値はべらぼうに高い」といっていいでしょう。

まぁ、この場合の手柄は「その人の天然のお笑い素質をしっかりと見出し、かつ最終的に大爆笑を産むはずの“その人の社会的地位の高さ”なども値踏みして、その人をコメンテーターという位置に据えたプロデューサー」にこそあるのかもしれませんね。

まぁ、お笑い芸というのもときにはチームワークという要素もあるのでしょうから「天然素材さんと、それを見出した制作側のコラボレーション(相補的な営み)としての手柄」というふうにいったほうが妥当かもしれません。

以上、るるお笑いイマジナリー世代を「褒め倒す」ばかりの内容になってしまったので、僕の「熱すぎるお笑いi世代に対する押し熱」にやや胸やけしてしまった方もいるかもしれません。

ひとりで勝手にテンションあがってしまってすみません。

ただ、本当に彼らの「ナンセンス話芸」というのは「とても大きなコストがかかった大変贅沢なもの≒超贅沢品・高級品」であって、

「後の、さらにコンプライアンスが厳しくなるだろう時代」には再現可能なものかもわかならないようなレベルの「贅沢品」だとも思われます。

「ラテ欄上で報道番組をみつくろって、そのチャンネルにつまみを合せるだけ」の簡単・お手軽かつ無料(※N○Kというハイパーお笑い放送局を除く)ですむ活動であるので、

一度とはいわず二度、三度くらいは、テレビの報道番組につまみを合せて彼ら一流のお笑い芸をごらんになっていただきたいと思います。

「革命のさなかに生きる同時代人」として、これをみすみす見逃すというのはあまりにもったいないと思うんです。

きっと後世語り草となるだろう多士済々の名人芸が日々展開されているのがまさに今のテレビの報道番組であると思われるので、後悔ないよう、まずは「要チェックやで!!」ということでよろしくお願いします。

では。

 


ちかごろのテレビでは、自前のサディスティックな趣味を、己の顔出しをしつつ、恥かしげもなく、というよりむしろ「エラそうに堂々と露出」する類の人々が多くいらっしゃるようです。

それとはどういう人達かというと「均衡財政派」または「緊縮財政派」という向きの主張をする人達のことであるわけです。

注意してもらいたいのは、状況によっては日本にだって「今は緊縮財政のほうがいいよね」とか「今は均衡財政くらいを目指した方がいよね」という場面も当然ありうるということです。

まぁ、あくまで、経済の大枠を左右するというかじ取りの問題ですから「ずっと面舵がいいよね」とか「ずっと取り舵にしておくべきだ」とかいう物言いがそもそもナンセンスでしょ?

これと近いナンセンスさを感じるような議題に「大きい政府VS小さい政府」という論争があるわけですが「そんなのは、状況によって違う、の一言でしまいだろ?」としか僕には思えません。

まぁ、その(大小の政府論争の)話題にここで深入りしちゃうと、この記事の焦点がぼやけかねないので、横道はこのへんで切り上げることにします。はい。

んで、話しをもどしますが、今の日本の経済はどういう経緯を持って今に至っているか?というところから考えてみるとどうでしょうかね?

それ(今に至る日本経済の経緯)とは改めていうまでもなく「30年にも渡るデフレ(不況)」というものであるわけです。

ちなみに、デフレということにはちゃんとこだわってるので「ただの不況」とか過小評価しないでくださいね。

その国の生産力が乏しい状況での不況というものは「経済の実力による不況」といってもいいものであって、

それは、国の政策に簡単には帰責し得ないものであるという理解はたいてい間違ってないのでしょうが、

デフレ不況というのはそれと全く様相が違うものであって「生産余力がありあまっているのに、有効需要が不当に押さえつけられてしまったためにおこった、いわば恣意的な不況(人災)」ですからね。

つまり、すでに僕ら日本経済もとい日本庶民は「長年にわたるデフレ経済という“人災”においていためつけられて、泣きっ面状態」であるわけです。

そういう状況的な前提ないしお膳立てに対して、なんと次のような発想をする人種が存在するらしいんですね。

「おやおや、日本経済もとい日本の庶民のみなさん。あなたたち長年のデフレ地獄で、もはや、泣きっ面状態じゃないですかぁ!!こりゃあ、傑作!!ついては、あのことわざを現実のイベントとしてたちあげるという一興も込みで、私たち主流派経済大先生から、ここいらで満を持して、蜂の一刺しも進呈しちゃいますねっ!!そのいわば蜂の一刺しとはズバリ、均衡・緊縮財政だぁ!!ガッハッハ!!」


いやぁ、これだけの見あげた発想をするサディストが現にこの地上に存在して、しかも、彼らがこぞってわらわらと「テレビで堂々と己の顔をさらしてくれている」というきわめてレアな事態に僕らは遭遇しているということのようなんですね。

僕はそれほどサディズムに個人的な興味があるような人間でもなくて、フロム先生のてになるとある本をちょとだけ読みかじったときに「サディズムは結構重大な問題であるようだ」というような浅い感想は持ったというくらいでしかないのですが、

そういう「サディズム無関心派」の僕ですら「この大量のサディストの顔出し祭り」がどれだけケーススタディ・事例研究の観点からいって「たなからぼたもち」ないし「渡りに船」というべき見逃せない大大大チャンスであるかはすぐに理解できちゃったわけですよ。

研究者はときに相当な苦労をもって事例・サンプルをかき集めることをしいられるようなのですが、事例のほうから勝手に「テレビで顔を出す」というなんともありがたい状況が今ここにある、ということなわけです。

この「ビッグウェーブ」に気づいてしまった同時代人としては、いやがおうにも「乗らなきゃそんそん」というテンションにならざるをえないでしょ?

まぁ、もしかしたら、その極めて都合のいい素材提供に浴したところで、厳密な意味での「サディストの面相の共通点」というものはついには抽出しきれないかもしれないのかもしれませんが、

とはいえ、そこまでアカデミックに整理できなくても、今後の自分の「処世に役立てるためのデータ・判断材料」としては、それなりに価値がある観察だとは思うので、

この好機を逃さず、バリバリ「事例研究」という「ときならぬ大人の自由研究」に励んでみたいと思っているところであります。

研究の競合者(ライバル)が増えるのは、あまり僕には望ましいことではないですが、とはいえこの「稀なお祭り状態」を独り占めしようというのも、またさもしい感じがするので、

興味をそそられる方は、この事例研究をなさってみるといいかと思います。

この記事は僕が「それほどさもしい人間ではない」ということのエクスキューズこみでの「フェアネス遵守のためのイベントのお知らせ」というようなものであったと理解いただければいいかと思います。

まぁ、魅力的な娯楽があふれている時代ですから、強いてそれに時間を費やすことをすすめるとかいうつもりもないですけどね。

では。
 


ダブルスタンダードをかましてもすっとぼけ続ける。

毎度のブーメラン芸で、常人ならばいわば「事故りすぎて息してない状態」になるなはずなのに「キリっ」としたまま、てんで恥じ入ることがないド級の鋼メンタル。

(※ この二つ目のボケタイプに、当たらずとも遠からずの芸風をとっている芸人さんとしては、オードリーの春日さんが思い浮かびということろでしょうかね。)

すれ違いコントの名手アンジャッシュさんに「お前達のすれ違いコントの留守はまかせろ!!」といわんばかりのとてつもない事実誤認を真顔で披瀝する独断・独善的な語り。

あぁ、なんということでしょう!!

テレビは報道までをも「お笑い装置」にしてしてしまうという「大転換」を、僕らに気づかれないまま密かにしゅくしゅくと遂行してきたということのようです!!

とてつもない壮大なイノベーション!!そのビジネスセンスに是非あやかりたい!!

たしかにね、せっかくのシカツメらしい(いかつい)重厚な仕立てのスタジオやら、仕立てのいいスーツで身を包むなどの「大がかりなフリ」を効かせておいての「芸のこまかい大ボケ発動」なのだから、

供給側(テレビ側)としては、きっと、僕ら視聴者に「それをちゃんとおいしく味わってもらうため」にも、

「いっときますけど、これは練りに練られたボケ発表の舞台なんですよ」なんて裏事情的を無粋にも先に明かすはずもないんですよね。

なにせ、それによって僕らが浴するべき最大の悦楽(そのコンテンツの価値の核心)というのはその「投げられた大ボケ」にたいして、

「視聴者がこぞって、いろんなかくどでツッコむ」というアクティブな愉しみのほうに収れんされているのですからね。

さきに「これはボケです」なんて釘をさされた日にやぁ「ツッコミをやるほうの興」が覚めかねないですからね。

これというのは「人間の心理のややこしさ・面倒くささの一つ」というべきものかもしれませんが、

そういう微妙なところすらも、ちゃんと目配せ・配慮できているテレビ側の思慮深い戦略には、これまた脱帽であります。


さらには「物消費から、こと消費、への移行」ということが課題としてはいわれてきたのだけど、

まさか、もともと「こと消費」のうちの最も古臭くのびしろが見当たらないとも思われていた「一方向の情報伝達」にのみコミットしてきたはずのオールドメディアたるテレビが

そういう「インタラクティブという方向への“こと”消費の進化」を遂げているとは!!

ダークホースにもほどがある!!大外からのごぼうぬきが見事すぎる!!

「Dボタン」どころのさわぎではない、とてつもないインタラクティブな革新。

やっぱりテレビ組織は高学歴な高IQ集団であったということを再確認させられます。

僕のあなた様(テレビ様)に対する「オールドメディアだなんだの」のこれまでの無礼なレッテル貼りを、を今になって後悔しきりで、もはや恥かしさで顔から火を噴くような気持ちです。はい。

演者がくりだすコメント・主張を、いりいち真に受けて(真面目にとりあって)そのたびに「なんだこの人、ふざけてるのか?」と反語的な反発とともにイラついていた過去の僕に対して

「そうじゃないよ!!彼らはとても真剣にふざけているんだよ!!お笑いの革新者なんだよ!!」と、できることなら時空を超えてささやいてあげたいと思うわけです。

「時代遅れで、浅はかで、鈍感」だったのは、むしろ、プンすかしてばかりいた僕のほうだったようです。大変、申し訳ありませんでした。


某テレビ局が一時代を築く流れをつくったかのスローガン

「○○○なければ、テレビじゃない!!」

このスローガンを、今のテレビこそが、意外なタイミングで、また「報道」とい意表をつくカテゴリーまでをもフルコミットさせてまで、究極の形で達成しようと「しかけ」てきてらっしゃるわけで、

ただし、それは僕ら視聴者は今や「新しいテレビの愉しみ方」をテレビの方から挑発・挑戦しているものでもあるわけですね。

受けてたる僕らがその姿勢をかえてこそ、初めて達成されるイノベーションであるわけです。

どうでしょうか?皆様はこのテレビからのイノベーティブなかたちでの挑戦状にどういう態度で応えますか?

僕は今では、一見しかつめらしいシリアスな空気をまとうテレビ報道というものを、ちゃんと以上の「真のプロコトル」
にのっとって、

「はいはい、わかりますよ。そのシリアスめいた雰囲気作りは全部、笑いという帰結に捧げられた、大きなフリ、なんですもんね?」と心得ながら

その作法・たしなみのとおり「ずっとへらへら薄ら笑いを浮かべながら」みています。

本当に面白いですよ。

ただし、食事時のながら視聴は要注意です。

文字通りの「噴飯」をやらかしかねないですからね。

それやっちゃうと、ご存じのように、大事なご飯は粗末にするわ、時にむせちゃうわ、後片づしないとけないわ、で後が大変なわけです。

老婆心までに…。

僕は、お笑いの素養がない人間なのですが、そんなテレビ報道をみているだけで、次から次へと自然に「ツッコミ」が口をついてでてくるんですからね。

いやぁ、オールドメィアと油断して見ていたテレビ様がこんな「破格の参加型なコンテンツ」を密かにしゅくしゅくと開拓してきていたとはね……。

それに気づかずに、大いに乗り遅れてしまっていた僕こそがきっと「アンテナの感度のよわい鈍感で頭の固い人間」だったんでしょうね。お恥ずかしいかぎりです。

もう、いまや僕の興味は「あの情報番組のレギュラーパネリスト(コメンテーター)はいつもボケの手数がすごい」とか、

「あの情報番組の○曜日レギュラーパネリスト(コメンテーター)のすっとぼけ二枚舌はもはや職人技だ」

とか、いろんなコメンテーターもとい「推しボケラー」を報道番組の内に発掘するというところまで広がっていて、そういう形で視聴の愉しみが深まりつつあるところであるわけです。

皆様ももいかかでしょうか。このテレビのいわば「新視聴習慣」。

たぶん、将来語り草になるような「ボケのスーパースター」がリアルタイムでホームラン級のボケを量産しているというような「ボケドリブンのテレビ報道コンテンツの黄金時代」が、まさに今、なんだと思われます。

将来「あの時代は、パネリストの○○さんのボケが本当にすさまじかったんだよぉ」と、

それを聞く子どもに「その伝説的お笑いアーティストにまつわるエピソードの同時代人語り」としてうらやましがられながら、往年の「テレビの報道のピエロ芸の黄金時代」を自慢げに語る、という未来もまた一興だと思われるわけで、

この大波にリアルタイムで乗れるというのは、この時代に生きる醍醐味の一つかもしれないとも思わせてくれるものなわけです。

よくリアクション芸人さんに対して「身体を張ってる」とはいいますが、

そのお笑い用語になぞらえていうと、テレビの報道番組のパネリストのお歴々は「自分にたいする恥も外聞を全部かなぐり捨てて」そういう「とてつもなく精神を削られるような道化役」を実演してくれているということなわけで、

こんなに「身を削った芸」をなしうる根性というものは決して「あたりまえじゃねーからな!!」って話なんですよ。

いつ「コンプラ警察」に摘発されるかわかったものではないような「精神の超絶アクロバット技」というべきものでしょうね。

なにせ、いってみれば「精神的(恥やら外聞やら)な空間での超絶リスキーで超絶危険なスタント」を繰り返し平然とやってのけているのか彼らであるからです。

彼らがその「スタント業、兼お笑い業」ののれんを下して、その「舞台上の熱狂から素にもどる」というタイミングになって、

その時、どういう精神的な負荷が一気に(世間的な評判・レピュテーションとして)かれらの心を襲うのだろうかと考えると、その勇気にはもはや「畏怖」すら覚えます。

並みの精神性ではとうていなしえないド級の職人技ですね。

よいこはマネしないでね♪

彼ら報道番組のパネリストのその「破格の心意気」に感謝を忘れずに「今、ここ、のかけがえのないボケ」を全力でおもちゃにしたい(ツッコミたい)と僕は一視聴者として、あらためて思わされます。

明日も明後日も「テレビの報道番組の出役(でやく)」という「この時代のお笑いコンテンツの先頭をひた走る超ど級の献身的エンターテナー」の皆様に、

「ツッコミながらの笑いのチャンス」を大いにもらって僕の日々の精神的な活力・糧にしてきたいとあらためて思うわけです。

というわけで、新たな時代におけるシン・テレビのススメ、でした。

ではまた。
 



「生産性の向上が課題だぁ」とかいう文脈において、いまだに「不採算企業の撤退が必要。企業の新陳代謝、もっとやれ。」とかいう「かわいがり経済上等論」ないし「ど根性生産性向上論」をいっている向きがあるようです。


僕は、そういう向きの発想・考えというのは「生産性」についての時代の変化を読み違えた極めて問題のあるものだと思うわけです。

(※ ただし、既存の一切の企業が同じまま存続するというのもまた「資本主義ないし自由経済の撤廃の証明」ということとほぼ同値であるはずなので、僕は「一つの企業も潰すべきではない」などという社会計画経済的なことをいいたいのではないことをお断りしておきます。
 ただ、その資本主義の宿命たる企業の新陳代謝という話題において、まっさきに「不採算企業の撤退」とかいう標的をもちだすという「感覚」にこそ僕は違和感を覚えるんですよね。
 僕ならば「デフレという地獄環境ならば健全な企業でもすらも普通に陥るのが不採算状態だ」というとこを当然に考えるので、そんな目標をまっさきに持ち出すなんて気持ち悪い発想はしません。
 僕からすると「企業の新陳代謝」という文脈でまっさきに「不採算企業の…」とか言い出す向きの人って、直接ないし間接に「もしやブラック企業ゆらいのブラックな儲けでホクホクしている人種なの?おたくは?」と、皮肉めいた問いかけをしたくなるような物言いだと思うわけです。)

いったいどういうセクターの「生産」を念頭においていたらそういう「根性論的ひいてはマゾヒスティックな生産性向上論」がはじきだされてくるんでしょうね。

まぁ、もしかしたらそういう根性論的な生産性向上の追求がなお妥当する産業セクターもあるのかもしれませんが、

僕はそういえてしまう産業セクターがあるとしても、きっと現代ではとても稀なものだと思うし、

なにより、そんな命題が妥当してしまう労働環境というものは「将来に向けて懸命に解消が目指されるべきもの」でしかなくて、その環境を漫然と所与のこととしながらの生産性向上が追い求められるべきものだとも思えません。

やっぱり、人間は「自分が現役の時の観念」というものに思考が枠づけられてしまうのでしょうか。

それとも、ここ数十年において、あまりに中華様と経済的にねんごろになりすぎた方々が「中華様流の庶民搾取型の経済成長」に心酔し、染まりきってしまって、そういう「社会主義流の対庶民冷血のクズエリート思考」でもって、それを日本の産業界でも再現しよう、とか企んでいらっしゃるのでしょうか?

そういうような、どっちにしろ気持ち悪い観念で、僕ら労働者(庶民)に「おまいら庶民は、もっと根性だせ!!そうしないと日本経済は沈んでいってしまうぞ!!」とかいってきているんでしょうか?

僕が思うに、この話題において、まずもっておさえるべきは「もう、今の時代、先進工業国に追いつけ追い越せの時代ではないでしょ?」ということです。

たとえば、日本の生産性の問題の重大な一側面をなしているだろう「日本の膨大デジタル赤字」というものには、どういう背景があったといい得るのでしょうか?

アメリカの労働者が、日本の労働者よりも「自らにムチを打つことを厳しくやりぬいてきた結果」こそが「ネトフリやらグーグルやらユーチューブなどのプラットフォームの世界覇権を現出した」のだ。

とでも言うのでしょうか?“サド経済促進派”の日本のエリート大先生方は?

思考がぶっとびすぎていて、僕はそういう考えには、とてもついていけそうにありません。

僕の考えにおいては、むしろアメリカとくらべて日本に足りてなかったのは、広い意味での「国民全体・各国民に与えられた余裕」だったのだろうと思います。

ちなみにですが僕がここで「余裕」という言葉で指示していることは「ただただ怠けさせる≒たただた余暇を増やす」ということとはイコールではありませんのでそのあたりを先にお断りしておきます。

僕がここでいう「余裕」の内には、たとえば「今、直面している大きな技術的課題に頭がいっぱいのエンジニア」とか「寝てもさめても新規事業のアイデアに思考をめぐらせているマーケター」とか「そのプロ人生に一生に一度あればいいというような画期的な創薬に日々頭を悩ませている製薬会社の研究部の人」とか、そいういう「どうひいきめにみても、そうとうに頭をフル回転させている状態の人」のこともまたその内に想定しているようなもの(観念)であるわけです。

というか、そういうような「未来の生産性向上」にむけて努力する人が出てくる「歩留り」を増やすためにこそ「より多くの国民に余裕をあたえよ」ということを主張しているという筋(考え)の順序だったりもします。


僕がいいたい「余裕」とは、生産的なことを志向する営みを「放棄する意図・方向のもの」では決してなくて、あくまで生産性向上を企図することの内部においての「今、ここ、のマネタイズのための作業=仕事」という戦略に対立する概念としての「余裕=今、ここ、のマネタイズに拘束されない未来にむけた努力・営み」という戦略であるということです。


その観点から、上の「世界的なネットプラットフォームが日本からでてきてない」という課題について答えるならば、端的には「ビジネスで失敗しても再度の挑戦が許されるというところでの余裕」とか日本にはたりてないといえるだろうし、

または、プラットフォームを成立させるための「ほんの数人だけいればいいような、もはや確率論的という運任せ的に出てくる優秀なエンジニア」の数をふやすための、

エンジニア養成環境ないしアカデミズムにおける「余裕≒裾野の広さの確保・学習者の数を促進する手立ての潤沢さ」とかいうものの乏しさ、というところに問題の原因を求めるべきなんじゃないでしょうか。

 

(※ よくしらないけど、生成AIの開発競争については、もしかすると文字通り「大量に天才的なエンジニアを要する。天才的なエンジニアの取り合い合戦という状況がある」ということかもしれないです。

 とはいえ、相当にその産業セクターへの期待は高まっているとはいえ、今だ、その期待に添うような稼ぎは現実化していないので、そのへんは僕も語るべき材料がみあたりません。

 なので、もしかしたら未来の歴史語りにおいては「生成AIを制したものが不可逆的に世界を獲ったのだ」とかいうことが言われていることになるのだとしたら、ひるがえって、その部分(生成AI開発競争)に限定しては僕がこの記事でいっている「一時的な気張りである背水の陣の労働観はクソ」というものは「妥当しなかったよね。余裕とかいうものをあえて与えずに、当時の土壇場においては、教育・アカデミズム・産業界は強いて生成AIのエンジニアを量産する圧力をかけるべきときだったよね。」という評価になってしまっているのかもしれません。

 ただ、そのへんの話は、濃厚に未来予測がかかわってくるので、僕の力量ではとうてい扱いきれないレベルの話であるわけです。なので、すみませんが、この記事においては、その点について度外視して論述を続けてさせてもらいます。)

日本の教育・アカデミズム政策はそういうことに、むしろ逆行してきたようにすらみえます。

というのは「人手不足が深刻だぁ。とにかく現場の人手を埋めろぉ。」みたいな足元の需要への充足政策は頑張っているみたいだけど、

他方で「将来のビッグテック、みたいな経済を盛り立てる立役者を醸成するための、学習の機会の広い供給につながるような教育界への財政的支援」などというものは、

どんどんと縮小すらしてきたんじゃないか?と思えるからです。

ここまで、日本はそんな状況のままできたようだというのに、一体どのくちが「日本は生産性が低い!!もっと労働者をムチうて!!」なんですかね?

ねぇ、談合大好きな各層の日本のエリート階級の皆様?

(※ ちなみに「保守を自認する人、というよりズバリ高市首相がお好きなお人」には、安心してほしいのですが、僕は以上のように「根性論はやめろ!」みたいなことをいっているけど「ライフワークバランスの労働者へのごり押し」ということについては、共感しない側の人間です。
 ついでにいわせてもらえば、僕は、今のところ、オールドメディアの手をかえ品をかえ~の「高市さんサゲ言論」にはまだ一度も共感したこともありません。
  高市さんは、超有能で超努力家の超優秀な政治家だとは思うけど、それでもなお神様ではなくてやっぱり人間なはずだし、僕はこまかい方向性・政策方針において、かならずしも高市さんに心酔しているファンでもないので、オールドメディアによる発信であろうが、是々非々で打倒な批判なら肯定するつもりでいるつもりなわけです。
 でも、まだふしぎにオールドメディアが騒ぐ「高市わろし!!」に一回たりとも心を動かされたことがないわけですwww
 オールドメディアさん、批判をするにも、もうちょっと精査してから騒いでくださいね。あんまり空振りばかりしていると、オオカミ少年みたく、そろそろ多くのひとから「オールドメディアが、飽きずに、またなんか空言をいってるよww」と、ネタにされて「オールドメディア一流のお笑い芸として消費」されちゃうことになりかねませんよwww
 えー、高市首相サゲ言説という横道に話がそれてしまいました。すみません、話しをもとにもどします。
 もちろん「サービス残業の摘発」とかそういうことはもっとちゃん出来るように労基とかの権限強化とか、労基にもっとちゃんと予算つけるとかしてほしいとは思うわけですが、みんなが「一律強制的にライフワークバランスを守らされる」とかいうのは、それとはまた別のことだと思っています。

 さらには、これは人によっては「飛躍的な論」と受け止められちゃうかもしれせんが、ブラック企業の温床となっているのは究極的には「政府によるデフレ経済維持・誘導政策」だと思っているので、そういう労基へのテコ入れとかいうマイナーな工夫でなくて「まずなによりも先に、デフレという地獄政策やめろ」ということを思っていたりはします。ただ、話題が散漫になりかねないので、そこについてはここでは詳述しません。
 ともかく、その人に、働く意欲・能力がみなぎっているときに、その分まわりの人よりも余分にはたらく(そして将来のなにかのためにもそれを貯蓄とかしておく)みたいなやり方・働き方というのは、個人の一生にわたる収支ないしファイナンシャルプランの自由度という意味でも許容されるべきだと思ったりするからです。
 そんなことよりは、もっと「労働時間の可視化の強制」とかいうことを企業にちゃんとやらせるとかいうことのほうがずっと重要だと思います。)


デフレ環境という「外生変数≒プレイヤー各自にとってどうしようもないような確定的な要素」というべきことまで、経営陣の責任としてお仕着せるのは、もちろん妥当ではない、としても「企業の内部留保のためこみ」ということにもなお一定の罪があると僕は思えますけどね。

だから、内部留保とかバンバン増やしてきた当事者だろうところの大企業のエクゼクティブ層とかがもし悪びれることもなく「生産性向上のために、労働者にもっとムチを打て!!」とかいっているとしたら僕は次にような反応をせざるをえない。

 

「おい、さんざん内部留保ためこんで、まともにR&Dに金もかけてこないで、また社員教育にもまともに金をかけてこないでいて、この期に及んで、労働者に向かって、一体どいう言い草なんだだ?」ということです。

もちろん、長期にわたるデフレ環境下の経営判断としては「内部留保が個々の企業としては部分最適だ。」ということは当然あったのでしょうよ、

であればこそ、その問題意識ないし帰責・批判の向かう先は「労働者のありかた」なんかであるはずがなくて、まずまっさきに「バブル崩壊の後に意味不明なバランスシート不況を誘導し、その後、消費増税などの緊縮財政でデフレを維持・促進してきたこれまでの日本の政治」の方でしょうが?

「デフレという地獄の状況」が所与のものとしてあった以上は、個々の経営判断に全ての罪を帰責することなどはできないけど、

さすがにこの期におよんで経営陣風情からの「労働者よ、怠けるな!!」の言葉はまじでクズすぎる。

文句を向けるべきは「政府が主導してきた地獄のデフレ維持政策」でしかなくて、日本の労働者であるはずがない。

いろいろ、そういうことを言う人の立場を汲んで善意に解する検討を頑張ってしまいましたが、

あえて「悪意に解する(そんな言葉あるんかな?)」とするならば、もしかして、単純にもちまえの「サド趣味」が強すぎて、事実認識がうっかり歪んでしまいましたかね?

経営陣やらの「人の上に立つエリート」になるような人はもともと「性格がヤバいやつの確立が高い」とかいうネット上の噂ばなしは「本当だった」とういような「答えあわせ」でもしてくれているんでしょうかね?

あふれだすどエス趣味が、その持前のまなこを曇らせてしまいましたかね?

現代の生産における潮流というものに目配せできているのであれば、次のような方向の戦略を考えるのが当然なのではないかと僕はおもえてしかたないです。

「労働‎というその場その場でのマネタイズ」という近視眼的な営みに固執・視野狭窄したままでいるのではなく、時代を踏まえてそこを大胆に相対化して「労働未満とでもいうべき、将来の産業の芽としての学習・研究をこそ積極的に促進する」みたいな方針のことですよ。

VUCAの時代とも言われて久しく、かつそんななかで、今や日本が世界に生産性に置いて一矢報えている数少ない分野というものが「労働という純粋な日々刻々のマネタイズ狙いの営みからはカテゴリー的に遠いところにあるだろう“余裕”をこそその土壌にした趣味・娯楽の延長としてのマンガ・アニメにかかわる産業」なんじゃあないですか?

「労働にもっと専心しろ。もっと足もと(今この瞬間の)マネタイズにやっきになれ!!」

とか真顔で言っている人って「コントを熱演しているつもりとかでない」というならば、もう、かなり痛い。

クリエイティブなことやら、スタートアップのような新規市場開拓的なこと、こそが不可逆的に、現代以降の「生産性の焦点」になってきているというのに、

今だに「生産性の向上のために、労働者にもっとムチを打っちゃえ!!」とかいっている…。

いやはや、聴いているだけで思わず天を仰いじゃうような“すさまじい精神性”ですね。

さらにいえば、いわゆるコンテンツ産業などにおけるクリエイティブなどという「現代的な焦点」をあえて持ち出さなくても、

近代以降、それなりに長い歴史があるカテゴリーであろうところの「発明とか技術革新」とういうような「生産性の爆増の花形的な営み」において、これまでもずっと「重要なドライブの一つ」となってきたこととして、

「もっと怠けたいという向きの人間の欲望」ということが立派にあったのだ、といえるそうですよ。

それって明らかに「もっと働け働け!!今日の金を稼げ!!」という鞭とは真逆のベクトルの営みですよね。

もし、僕が「生活用水調達のための一日何時間の水汲み作業に何らの苦痛も感じない。なんなら楽しい。」とかいう

「怠けということを全く知らないタイプの人間」であれば、ポンプと管をもちいた水道システムなんてことを思いつきもしなかっただろうし、誰かがそれを発想して作ってくれたとしても、あえてそれを使わないという「非生産的すぎる選択」すらしたでしょうね。

つまりは「もっと労働者にムチを打て!!」というのは、そういう側面からみると立派に「格段にいい生産性を狙える余地をみすみす潰すような酷い発想」ということすらいえるわけです。

もはや「窮極的には非生産的な発想」とすらいっていいと思います。僕の素直な気持ちとしては「非人間的≒人でなし」とすらいえる発想だと思います。

たとえば戦時において「剣の材料たる鉄はそれなりにあるけど、それは俺らエリート様のシェルター建設の材料として使うことにしたから、おまいら庶民は、いまから剣の代わりに支給する“竹やり”で地上戦にそなえてろ」みたいなスーパーくずエリートの発想みたいな感じでしょうか。

このたとえでいっても、極めて近視眼的な足元に関してのみならば、竹やり戦法すらも「一応は生産的」といえるのかもしれませんが、

そんなものは将来における「他の誰かの怠けたい欲望の下に開花した、技術革新ないし発明」に簡単に吹き飛ばされるようなはかないものでしかないわけです。

「失敗することがほぼ確約されたボロ計画」であるわけです。

まぁ、そう考えると結局のところは、彼ら「労働者にムチうて派」の核心は「ドS」であること以上に、

「俺らエリート様が、おまいら庶民の労働の成果から、いま、ここ、の儲けの上澄みをせしめて(ピンハネして)それをもって勝ち逃げできれば、それでいいんだ!!日本の労働者の幸福?日本産業界の将来?そんなこと知ったことか、ガッハッハァ!!」

とまぁ、そういうふうな「どクズ」という心性こそがそのセリフを言わせているってことかもしれませんけどね…。

まぁ、政界のエリート層にはいまや「媚中」がだいぶはびこっているようですから、もしかしたらその相似形として財界エリートにも「中国共○党みたいに、弱い立場のやつらから搾り取ることこそ経済の王道」とかいう悪習を、なんの痛痒もなく実践しようとしている輩がいてもおかしくないというのが日本の財界エリートにはびこる現実なのかもしれません。

ちなみにここについて「いや、業界によっては本気で人手不足による産業の崩壊を心配しているからこそ、労働者の頑張りにたのまざるをえないというとこだってあるよ」という反論をぶつけてくる人がいるかもしれません。

ただ、そういう真摯な声の当事者というのはきっと「社会の形を枠づけるエリート層」に属する人からのものではなくて、

「その人自身が、すでに社会の構造から、いじめられるような搾取されるような圧迫の内に置かれている人」であろうと思うわけです。

 

むしろ、持前のけなげな責任感のために、自分をもずっと犠牲にしつづけてきたような人である蓋然性が高いとすらいえるわけで、そういう人を批判するつもりは、もちろん僕にはありません。

端的にいって、中小企業の経営者の方々にはそういう「一見、使役側のようだけど、よくよく社会全体から俯瞰してみれば、クズエリートどもがもたらしたクズ構造社会の被害者というべき立場方々」が大勢いるのだろうと思います。

そういう状況の元凶を考えると、そいういうことの、かなりの部分は、たとえば「103万の壁という変な課税制度のせい」とか、また「非正規労働のカテゴリーをむやみに広げたことでの企業による、特にエッセンシャルワークを中心とした労働者の買いたたき」

みたいな「間違いに間違った政治」というものが災いしたのだろうと思うわけです。



さっきもいったようにその批判は「労働者の働きぶり」なんかに向けるまえに「意味不明なデフレ政策もとい経済衰退政策を打ち続けてきた政治」に向けるべきだろうということにしかならんと思うわけです。

人手不足だとかいうけど、ちゃんと給料さえ上がったら、103万の壁すら軽やかに超えてくれる人だって普通にでてくるだろうし、103万の壁じゃなくて、ちゃんと緩やかな課税曲線(直線?)になるように制度を修正し、なんなら、税負担そのものを全体的に減じてあげたら、より労働供給は上がるだろうとも思うわけですよ。

さらにいえば、農業やら介護やら、そういう慢性的な人手不足分野については、ヨーロッパの先進国をみならって「ちゃんと所得保障する」とか「まともな給料になるように公金で支える」とかいうことをしろ、という批判をまずしていくべきだろうってことです。

以上の僕の政策提言込みの未来予想というものについては「ウツでのコヅチ式の現実無視のいいそらごと」とかいいう揶揄が飛んでくることが想定できるわけですが、

それを「打ち出のコヅチ式のプログラム」だとか見えるというのであれば、それはこれまでの「逆打ち出のコヅチ的施策の蓄積」という既成事実を都合よく無視した不用意な議論のように僕には思えます。

「おかしな労働政策(またそれと関連してのおかしな重税政策)が長年、放置された異常な状態から、正常な状態にもどるときのただの“抑圧がとりのぞかれたことによる反発・回復”でしかないでしょ?」と僕は理解するわけです。

「バネがひとりでに跳ねることはないよね?」ということはもちろん正しい物言いなわけですが「すでにバネにクランプなどで強い圧縮力がかかっている」という状態を前提にすれば「そのクランプを外すというわずかな力(作用)を及ぼすだけで、次の瞬間、ひとりでにバネは、クランプ外しに使った力以上の力を発揮しつつ跳ねうるよね?」ということもまた正しい物言いあるはずなわけです。

もっといえば、そのクリエイティブとか新市場の創発などという課題をちゃんと視野にいれたまともな現代企業の職場においては、

「心理的安全性性」ということがすごく重視されているようですよ。

その文字面からして「労働者にもっと鞭を打て!!」と真逆の方向性の考えだということが伝わるかと思いますが、

たぶんそれは心理学でいうところの「セーフベース・安全基地」という観念にも目配せしたような考えであり、

それというのは、つまりは「その人にとって基地となる安全圏が享受されてこそ、人はより積極的・冒険的に思考・行動ができるのだ」って知見のことですね。

「労働者にもっとムチを!!」という「いつでもなんどきでも背水の陣!!」などという発想とは水と油のすごくまともな理解だと思います。

たしかに、ガチの戦争の最前線においてならば「背水の陣!!」というスローガンは妥当な場合が多いでしょうよ。

なにしろ「生きるか死ぬかの土壇場」ですからね。

しかし、ビジネスはどうですかね?会計における「ゴーイングコンサーン」という言葉ひとつとってもみても、

また、いまだに多くの社会人が「私はどういう格の企業に継続的に所属できるだろうか」というところに心を砕いていることからしても、

それは「戦争の第一線」という状況とはまったくちがう「長く継続的な営み」であることは明白です。

「本当の土壇場なのだから一時的に気張れ!!」ということは場面次第では妥当でしょうが、日々の労働にそれを適用するのははっきりいってアンポンタンな考えです。

ただし、過去の高度成長期という、多くの労働者において「仕事を頑張れば頑張るほど、すぐに目に見えてリターンがかえってきた」という時代背景においては、例外的にそういう「本来はアンポンタンなやりかた」であっても、

なんとか「労働者はドーパミン中毒的にそれに順応することができてしまっていた」というだけのことでしょうね。

その「例外的な時代の異常な観念」を今だに労働者にさし向けているのは本当に公害レベルで迷惑です。

ぜひ、反省してやめていただきたい。

とかいう僕も文章を書いているうちにうっかり「勝手にヒートアップして頭に血が上りすぎた」ようなので、

頭を冷やすべく、これ以上、下品な言葉を連ねるのをやめにすることにします。

 

急に文が断絶するみたいで、文章のまとまりとして、着地としてだいぶお粗末なようですが、

 

そのへんは、また同じテーマで思考の精度を磨いて再度書くということで、いつか挽回したいと思います。

とりあえず、今は「頭にちがのぼって、自分がうまく制御できてない状態」になってしまったかんじなので、

 

「まずかいよりはじめよ」ということで切り上げ(逃げ?)させてもらいます。

では。


「結婚そのもの、結婚ということ、それ自体が、まわりから絶対的に祝福されるべきもの、であるのだ」

という考えをしてしまうような人に、少し立ち止まって考えてもらいたいことには、

「肉親やら親友である人に対する祝福ならまだしも、他人同士の安定的な“性的結合・生活上の結合”を宣言というものについて、それが一体、自分にとってなんのメリットがあるのか、自分にとってどうそれが祝福を送るに値するような喜ばしいことなのか。」

ということがあると僕は思うわけです。

そしてこの命題が、ちかごろ声高に主張されている「私たち非ヘテロにも結婚の門戸を開け」とか言っている人達とかかわってくる命題だと僕が考えるのは、

その「私たちにも結婚をさせろ」という主張・要求というものは、少なくとも現代の国家の標準形態であるところの民主制においては「国民全員に私たちのその関係性を結婚として祝福させろ」というのを迫ることとかなり近いものがあるという理解が前提として推測できるからです。

(※ ちなみに、保守を自認する多くの人達にはお叱りをうけそうですが、僕はそもそも「結婚」という変なオーラをまとった制度・観念というものを国家権力が管理・運営するということこそ「ナンセンス」だとか思っている人間です。
 たんてきにいえば「なぜに、他人の性的結合を国民の代表であるべき国家が僕の意向と無関係に祝福なんかすんだ?僕はそんな他人の性的結合なんて否定もしなければ、祝福もしたくないぞ!!」って考えであるわけで、
「結婚なんていう国家主義的制度はきっぱり廃止したらいいのに!!(※ただその代りに家庭福祉のための登録制度{≒戸籍制度がそのままシフト}は存続するし、それに紐づけて民法の相続編はだいたいそのまま維持されるという立てつけで…)」とか思っていたりもするんです。
 やれ、「異性ペアこそが正解なのだ。ノームなのだ。」とか、はたまた、「いや同性ペアまでをも新たに正解にすべきなのだ。」だとか、そういう“関係性におけるノーム”というものと結婚を、現代ではきっぱりと切り離して扱うのが妥当だとしかおもえないわけです。
 いいかえれば「国は公益を代表するんだから、法制度の全体としていちいち個別の性的結合に対して祝福めいた気配を醸すような規律すんなよなっ!!国はなるべく価値謙抑的に、あくまで家庭福祉に付属する制度だと割り切って事務処理に徹してろよ!!」というようなノリであるわけです。
 その考え方については、やや自分でも「日ごろは“反-こざかしい理性≒常識派”の立場を自認している自分自身のうちにも潜んでいた浅はかな“俺の理性”にたのむところ大な左派的な傾向」が漏れ出ているところかとおもったりもします。
 そういう意味では、僕は「筋金入りの保守的人間」というよりは、むしろ「あまりにながく言語空間の覇権を握りつづけてしまったために、知的な横着がすぎる左派思想の“絶対権力の絶対腐敗という状態”をこそ嫌っている」という状況判断的なポジショニングとして保守と重なりが大きいだけなのかもしれません。
 「保守VSリベラル」という切り口での大きな構図からみると、この僕のどっちづかづの割り切れないようなあいまいな態度に映るだろうものが、果たして、悪いことなのか、むしろいいことなのか…。いまのところは自分でもなんとも判断つかかいってな感じです。はい。)


「社会通念(“常識”)という洗脳に疑いもいだかず流されるだけの、ある種、のんきな人」もしくは、その対極にいるような「他人の幸福がマジで自分の幸福だと感じてしまうような本当の人格者」においては、

たぶん真顔で「それは結婚がその両人が幸せになるための喜ばしい節目であるからだ」とか言って返してくるのだろうとは思います。

僕は、そのどっちの(それぞれの形で極端な)あり方・思考法にも共感しない(特に、後者については人格ができてない・卑しい精神しか持ち合わせない僕のような凡夫には共感できもしない……)ただの平凡な感性しか持ち合わせない人間です。

またもし「その人が自分(たち)の幸せのための選択をしたのだから、それは無条件に望ましいのだ。喜ばしくて、祝福すべきことなのだ。」とかいうのであれば、

たとえば、僕らは「新興宗教に入れあげて本人は不思議にとても幸福そうになってきた」よううみえる肉親の一人から、とある日にだしぬけに

「俺、今度出家することにしたから、みんなには、俺のその門出を祝福してほしいと思うんだ。」

とか言われたとして、それを結婚と同じように、その本人の「幸福な門出(節目)という申告」を唯々諾々と飲み込んで、すんなり祝福とかしてあげるものでしょうかね?


いわば「出家披露宴」などというべきものでも催しつつ、ね。

ちなみに、きくところによると「新興宗教の平信徒になると、その人が長生きになる蓋然性がたかい」という統計的知見もあるようですよ?

そういう意味では、かのオウムとか、また明らかな霊感商法とかそういうほど極端な新興宗教でないかぎり、その人が「平信徒になることで幸せになれる統計的な証拠」すらありそうなことがら(判断)であるといえるわけです。

けど、そうであるとしても、ふつうはそんなものを周りの人間は祝福しないわけですよ。

なぜって新興宗教の教義なんてものは、多くの人にとって「人生のうちに見定めるべき生産的な価値から大きくズレているもの」のように映るはずだからです。

実際のそのこと(入信)の真の是非・善し悪し(※僕は集団的信仰≒宗教にコミットする気は持てない人間ながらも、信仰自体は人間の深いところに関わるもので決してバカにできないものだと思っています。だから宗教というものも頭ごなしに否定するつもりは僕にはないわけです。誤解なきよう念のため…。)はどうあれ、多くの人の目には「新興宗教への入信というものに生産性はない」というように映るからこそ、それを即座には祝福しない。

では、それにくらべて「結婚」はなぜ「特段のおかしなところがなければ、当然に回りの人間が祝福すべきもの」だと受け止められているのかといえば、

多くの人間は無自覚か自覚的は色々あれど、結婚(※ここでは現在法で認められているところのヘテロ間のペアのみをそれとする)が「人生にみさだめるべき生産的な価値というものがそこに濃厚に見出される」ということがあるからなはずであるわけです。

不幸にも家庭なしで育ってきた養護施設育ちの人などを除いて、大多数の人間は「家庭の内」に生れて育ってきたはずなわけで、そのことからして「家庭≒両親(ときに片親)と子」という単位について「生産的である。というより、むしろ、それこそ生産性ということについてもまた原体験の場であったのだ」とすら感じている(無意識に心得ている)のだと思われます。

その人間が、誰かもしくは何事かに対して、祝福をなげかけるときの条件であるべき「生産的な価値」という項に向けて真顔で「そのペア間での性的な享楽」というものを容れる(入れる)人はかなり変な感性の人というべきでしょうね。

だから、そこについて多くの人が無自覚ないし無自覚に入れているのは「子どもを産み育てるという事業≒家庭という事業」であると考えるのが妥当だとしか思えないわけです。

ここでやっと、話しの段階としてついに「なぜ結婚としてほぼ無条件に祝福されるべきものは、男女の結合に限られてきたのか?」という認知的不協和の氷解に至るわけです。

それは言ってみると「なんだぁそんなことかよ」というような拍子抜けする感じをもたせちゃうかもしれませんが、

その解とはつまり「愛情の永続を誓ったところのこのヘテロのペアの間には、将来、子どもが生まれてくるる蓋然性が高いから」ということであると思われるわけです。

また、だからこそ、本来究極の「ふたつエゴの交歓という世界」という原理的に二人以外の外にたいして「厳しく閉じているはずの結合関係」の宣言・開始というイベントに対して、

あえて、周りの人間がおせっかいにもしゃしゃりでて「よってたかって、そのことを正式に祝福するという儀式まで執り行う」というおせっかいをはらいつつ、

そのカップルに向けて「これから、ときに踏ん張って、ちゃんとまともな家庭を築いていくんだぞ!!」というプレッシャー(くぎ差し)をかけるということをしていくわけでしょ?文化としてそういうことをしてきたわけでしょ?

以上、いろいろな例をもちだしして「イメージ先行的・イメージ導入的」に話しをてみましたが、筋論的・抽象的に少し整理すると以下のような物言いになるかと思います。



「結婚なんて他人からみれば“それ自体”が祝福されるべきなんてことはまずありえないでしょ?
 というのはそういうのは、少なくとも自由で真摯な合意(愛着・愛情)に基づく性的結合(=当事者にとっての結婚のコア要件)というものは、現に脳内にセロトニンとかまたときどきでのドーパミンとかを出させる関係性(愛情に基づく関係)のことであって、それはありていにいえば麻薬への依存と似たようなものでしかないわけだよね?
 簡単にいってある種のジャンキー生活開始の宣言ってことだよね?
 より抽象化すれば精神的・肉体的な依存関係ってことだよね?
 もし、それ自体(他人の安定的な性的結合関係≒依存関係)を私は純粋に祝福するのだ、とか言い放つ人がいるとしたなら、おそらく“祝福”という言葉の意味に極めて独特な解釈を盛り込んでしまっている言葉づかいをややこししくしてしまっている向きの人か、
 もしくは、そのことについて、まともに検討したこともないがために、ただ世間の空気(常識的な命題)にながされて受け売りの言論ポーズをとっているだけの人でしかない。
 この話題にも関わるとろの僕の思考は濃厚に“功利主義者”だったりするから“誰かが他人に迷惑をかけずに幸福を増すことはそれが麻薬使用だろうがなんだろうが、善の名に値することだ”と理解する人間なわけです。
(※今のところ麻薬が法律で禁止されているのは、結局その副作用などのために使用者当人以外の人にも害をもたらしうるという蓋然性が高いという状況があるからだというのが僕の理解です。
 もしそのような麻薬使用にまつわる回りへの支障が回避されるようなニュータイプの麻薬が登場したらば、もはや国家権力が刑法をもってそれを禁圧する理由は骨抜きになるのだろうと推測する立場であるわけです。)
 ただ、そのことと“他人の快について祝福というおおげさな反応まですべきこと”ということは必ずしも直結しないはずなわけわですよ。
 功利主義の精神・真髄(但し、ミル先生流のやつ)ってのはざっくりいえば“僕を含めた他人に迷惑がかからない範囲のことであればどうぞご自由に”というドライな社会規範をその内容とするものですからね。
 いや、むしろ“自分からみるとそれをまったくいいとも思えない。なんならば、それは望ましくないこと(愚行)だとすら思えたりもするのだけれど、その人が真剣にそれを選択したいと思っていて、それを選択することに満足するというのだ、というのであれば、それについて周りがとやかくいうべきではない”という基本的姿勢こそが功利主義の必須の土台的な命題だとすら思えてきます。
 これは一種の“思慮深い敬遠”ともいうべきものであって“ウォームハート”などと形容されるべき“扁桃体バリバリ稼働させて発揮されるようなエモーショナルな態度”とはいわば対極にあるべき姿勢なわけです。
 むしろ情緒的にドライであるがゆえに倫理としてとても清廉でありうるという担保になっているということですらある、と僕には思われます。
 端的に言えば“個人の価値観についてドライであることこそが功利主義者の美徳ですらある”みたいな言いもできそうですよね。
 具体的な面での功利主義の意識の焦点の特徴をいうならば、功利主義者は必ずしも“個別の快についての祝福”に関心などがあるわけではなく、その社会(人の集まりの単位)における快の総計にこそ興味があるだけなので、窮極的には“社会制度の設計の是非”にこそ興味がある立場ってことになりそうです。
 さらにいえば“そのことを祝福するかどいうかというのはつきつめると個人の処世(人付き合い・いわばミクロの政治空間)の範疇の自由にあたるもの”であり、他方で“快は善”という考えはそれよりも抽象度の高い倫理やら政治の次元で観念であるということです。
 倫理という抽象度高くて大枠を判断・確定する「マクロの規範」と、その枠の内で、その人(プレーヤー・実存)が自分の欲望をどう最大限実現させていくかという打算としての処世術という「ミクロの戦略」は、経済におけるミクロとマクロ以上に、次元ないしカテゴリーが違うものだと思われるので、そこを混同すべきではないでしょう。
 その立ち位置こそが僕が“道徳を厳格に適用しようという道徳面でのサディスト”でもなく、また偽善者でもないゆえんであると自分では理解するわけです。」



話しをまとめると「同性婚を認めろ」とかいう主張運動というのは、僕からみると結果的に「やぶへび、とでも言うべき徒労だったのだろう」という理解になるわけです。

海外は文化基盤がこちらとは違うので、即断はできませんが、少なくとも日本の西洋とくらべてかなりおおらかな性観念というところをふまえると、それは僕には「やぶへび、というべき逆説的な活動」という風に見えて仕方がない。

結婚という伝統的なコード(規範)によって、とても上品にオブラートに覆い隠されていた裡の核心にあったところの「実は結婚そのものというよりも、そのカップルに子どもができる蓋然性をこそ祝福していただけ」ということが、

「同性婚を認めろ」などというトリッキーな要求によって、思いがけず露わになってしまった、という次第わけですね。

非ヘテロセクシュアルである自分たちを「さらなる絶望に陥れるような事実」をうっかりとその活動は自ら掘り出してしまったということなのでしょう。

伝統思想の狡知ともいうべき「あいまいさのベール」につつんでおいたままなら、きっと「知らぬが仏」ということでおさまれたのでしょうけどね…。

まえも、このブログ上の何かの記事のなかで書きましたが、リベラルさんたちというのは「突飛な言動」で僕ら平凡人たちを一旦は「かなり動揺」させてくることに成功してしまうことが多いわけですが、

その「一時的なショック」を経て僕らにもたらされるのは、たいていの場合、認知的な側面での「雨降って地固まる」という帰結だったりするんですよね。

つまり

 

「文化というものは、その実はその地域における長い営みのおけるトライ&エラーという実験の結果の上に現出されてきた一つの均衡なのである。
 それというのは“おのれの小さな理性”をもって“粗雑な正解・正義”になぜか自身満々で社会に手前味噌の正義の大ナタを振るいたがるというリベラルのやり口なんかよりも、なお全然、実証主義的であり科学的ですらある」

 

という大きな壁みたいなものですかね。

ニュートンにかの名言にからめていうのであれば「巨人の肩」ともいっていいかもしれません。

過去に「○〇の壁」とかいうベストセラーがあったり、またその本のタイトル意図してもじった番組の命名ということがあったのかどうか僕は詳しくは知りませんが、多数のお笑い芸人さんが過酷なフリースタイルバトルを繰り広げる「有吉の壁」なるバラエティ番組があるようですね。

さて、この話題においける「壁」についてはどう形容して、どう命名するのが適切なんでしょうかね。僕にはあまり気の利いた名前が浮かんでこないようです、残念…。

もちろん、そういう「理性という人間の一個の頭に構築される小さな合理性なんかよりも、むしろその形態からして、すごく科学的といっていいところの伝統文化の内容」

というものでさえも「それはそれとてなお不完全な人間がこさえてきたものだから、そのうちに間違いはいくらでも埋まっている」のだろうし、

さらには、過去の時代ではそれが均衡点(妥当な落としどころ)だったとしても、今や「技術確信やら新概念(人権観念とか)の不可逆的な進展により、現代ではそれがまかりとおらない」などということは部分的にはありうるわけです。

そういう意味では「対伝統文化ツッコミ隊」としてのリベラルの役割というのは構図的には「ちゃんとその存在意義がある」と立派にいえるはずなのですが、

それにしても、近頃のリベラルさんの「対文化・伝統ツッコミ活動」はあまりにも空振りが多すぎて、はた目からみても無残ってな感じが否めませんね。

「精彩を欠く」という言葉すらも遠慮した表現のように思えて、もはや「みじめ」という言葉すら浮かんできちゃいますね。

ぜひ「ぶざまな独善」という自らの有様に反省をもって、伝統文化がなぜそういう内容になっているという「現実」という重みをヘーゲル先生ばりに重く見て(≒現実的なものは理性的である)

もうすこし精神と理性を落ち着かせながら「進歩的主張≒文化へのツッコミ活動」をなさってもらいたいと切に願うところです。



僕は基本的に疑い深い人間(たぶん僕を知っている多くの人には、僕は“あまのじゃく”ないし“逆張り屋”とか思われている…)だったりするので、実は心の深いところでは、リベラルないし左派様の「触る伝統(みな)傷つけた」という姿勢に共感するところが大いにあったりするんですよね。

まぁ、しかし、何かを疑う・批判する以上は「知らぬが仏というべき後悔」を身に受ける可能性があるということは踏まえておく必要が当然あるということでしょうね。

なぜって、端的にそれが「なにかしらの論争をメタで見た場合の当たり前の道理」だからです。弁証法ですね。

かならずしも、ピンポイント(どストレート)でそういう意味ではないけど、この教訓とどっか似ているかもしれない、ニーチェ先生のカッコいい風な有名な箴言を引き合いにだすならば、

「あなたが深淵を覗くとき、深淵もまたあなたを見ている」

みたいなことでしょうかね。

これは僕にももちろんいえることなので、「何かを批判するときは、極めて慎重に丁寧に考えてから批判するべき」というところはリベラルさんのみならず、僕にとっても重い教訓とすべきなのだな、と思う次第です。はい。

リベラルさんたちはなぜか不思議に「リベラルの立ち位置にさえいておれば、さらに望ましいこととしては、反日の立ち位置にさえいておれば、そこは言論空間における“絶対的な安全地帯なのである”」とか思いあがって慢心なさってるようですが、

そんな見込みなんてものは、はっきりいって「道理に反したメルヘン思考」でしかありませんからね。

というかんじで、今回も、今回とて「堕落と腐敗がきわまった現代左派もといリベラル」への文句ということに陥ってしまいましたが、

いうべきことは、現代主流左派への文句を掃き出すそのまえにすでにほぼ言い終えていたので、

さすがに、このへんで文章を締めようと思います。

ではまた。

 


本文のしょっぱなから自画自賛を垂れ流してしまいなんなのですが…、

今日の記事はタイトルだけで、僕が言いたいことのエッセンスをかなりすっきりと絞り出せてしまったようなので、

僕としては「本文で言うべきことがもうほとんど残されてもいない」って感じなんですよね。

僕以外の誰一人、そんなランキングに興味はないでしょうが、今回の記事は、僕のブログの記事内での歴代一位の短さにランクインしそうな予感をさせるようなものであるわけです。

まぁ、それでもあえて言い足りないことがあるとしたら「もっとちゃんと悪口をいいたい」という「下品で残念なところ」であるわけなので、

僕の体面を保つためにも、本当はそういう「明らかな蛇足」は付け加えるべきではなくて、上品に奥ゆかしいままで文を締めるのが望ましいのでしょうが、

やっぱり「言いたいものは言いたい」というところが抑えきれないというところがあるのと、さらにいえば、僕みたいな底辺の人間に体面なんてのは“あってないようなもの”だったりもするという背景があったりもするんですよね。

というわけなので、この記事に「下品さをあえて付け加えてしまう」ことになるのを承知の上で以下、その僕の「残念な情念」について補足説明をしてみたいと思います。はい。

えー、もし「お前の下品な悪口に付き合う筋合いなどない」ということならこの段階で読むのを止めていただくのがよいのだろうと思います。

逆に、万が一僕という「生き物の挙動」に生物学的な関心が芽生えてしまった物好きな人は読み進めてくればいいだろうと思います。

ところで、短歌やら俳句にからっきしうとい僕でも、一応耳にしたことがあることとして、それらの芸能には「みな(皆)までは言わない美学がある」というところであるわけです。

あえて露骨に説明せずに奥ゆかしい示唆のみを与えることで、読む人の想像力で補いつつ作品を味わってもらう、というような趣向ですよね。

僕のなかには歌心などというものはからっきし持ち合わせていないわけですが、とはいえ、たまたま今日のタイトルはそういう奥ゆかしさを備えてしまっているように思うわけです。

少なくとも僕にこの記事を書かせた動機であるところの「情念」からすると、タイトルの表現はなお「ものたりない」ものではあるというところなわけです。

僕の情念が「この物言いではまだまだ言いたいことが足りてないよ!!」というところを余すところなく、ないしは言葉をえらばずに素直に言わせてもらうと、つまり以下のような表現に着地します。

「“主流派経済学”とは要するに、人類の大半を占めるところの庶民の利益・幸福をおざなりにしつつ、極めて少数でしかない金融強者の既得権維持におもねったり忖度したりする議論ばかりをぶつ“クズ”な思考のことである」

ってことです。

 

「クズ」って言葉が文脈的にあまりピンとこないのであれば、たとえば「エリートのくせにエリートの存在意義に当然ともなうはずの義務(ノブレスオブリージュ)を思いっきり放棄した堕落したエリート」というふうに言いかえてもいいかもです。

「社会主義経済」という地上の地獄を現出した経済体制を今だに主張する人達とくらべると、たしかに「主流派経済学の方がまだクズ度は低い」ということは立派に言えてはしまうので、

「主流派経済学は考え付く経済思想のなかで最低!!」というふうに言うことまでは、現在のエリートの欺まんにたいして怒り心頭に発している僕にも到底できっこないわけですが、

とはいえ「あの最悪の社会主義経済ではないわけから、これでいいのだ。おまいら庶民もこの体制で十分だと満足ずべなのだ。」と言うエリート層の態度というのは、あまり既成事実に重きをおきすぎた「向上心・使命感のない堕落したエリートの地位に値しない姿勢」だと僕には思えてならないわけです。

だかから、やっぱり「僕ら庶民を理不尽に痛めつけるような経済状況・環境をもたらしている主流派経済学はなおクズ思想である」という批判をすることを僕は遠慮しようとは思えなかったんですよね。

 

という次第で、せっかく上品に負われたはずの記事を、後半であえて僕のどろどろした情念で塗りたくるということをやらかしたということであるわけです。はい。

僕の以上の口を極めたよ悪口には共感しえない人がほとんどだろうとは思いますが、

僕がタイトルに挙げた情念抜きの清廉な命題ないし仮説にかんしては「検討するに値するもののはずだ」ということは強く主張させてもらいます。

なぜって、こういう見方がもし万が一あっているならば「僕ら人類の99%を占める世界庶民にとって極めて重大な問題」であるわけですからね。

大きな危機を叫ぶ「預言者然とした人間」はどの時代にもいたでしょうが、おそらく多くの場合は「空振りの警告者」におわったのでしょう。

とはいえ、その事実をして「警告を発し、警鐘を鳴らす、ということは無意味だ」というふうにはいえない。

稀ながらも、当たってしまった「警鐘」はきっと歴史上もいくつかはあるはずなわけです。

たとえていうと、まるであのホメロスの手になる叙事詩における「ラオコーンの警告」のようにね。

最初は「半信半疑」というところからでもいいので、僕がタイトルで掲げた見立てないしモノサシを頭の片隅にでも置いておいて、

そのモノサシないし補助線をもって「諸々の経済現象ひいては社会現象を視る」という試行をどうか実践してもらいたいんですよね。

その実践の結果「タコっすのいうような立論を根拠づける十分なものは見いだせなかったぞ。タコっす嘘つき野郎め!!」と思うというところに至るのであれば、僕の以上の立論はその方にとって「そのていどのものだった」ということでしょう。

その逆に「いろいろな現象をそこにあてはめればあてはめるほど、タコっすの持ち出したモノサシ・立論というものは、そのつどその妥当性・信憑性を強化していくように思えてきた」というふうに感じるのであれば、

きっと僕の説はなにかしらの事実の一片を捉えたものだというこということになるんでしょう。

まぁ、そもそも他人様(ひとさま)にそういう労を採らせるような存在感・説得力が僕の言論にあるという自信は全くないのですが、

伝わる見込のない手紙であろうが、情熱をもって書上げてしまった以上、僕はこの手紙を出さないというわけにはいかない気持ちがあった、ということであるわけです。

どうも手前勝手な人間ですみません。

今回もまた「独り芝居おっつ」というような皮肉を買うような振る舞いを晒してしまったかもしれませんが、

僕のその「沸騰してしまった情念」はいったん頭の外に掃き出されて、すっきりともして、冷静・落ち着きをとりもどせたようなので、

ともかく、今日はこのへんで終わりにします。

毎度、おそまつさまです。