主流派経済学はいまだに「お金は不動のものだ」とか思っているような節がありまくりなんですよね。
いわば「土地のように不動なもの・不動であるべきもの」と考えているようなわけです。
ちなみに、以下のことは、必ずしも主流派経済学に限らず広く僕ら現代人が「信仰」している観念なのかもしれませんが、
どんな経済の本にも同じように書かれていることとして
「貨幣の三つの機能のうちの一つには次のようなものがある。
“価値貯蔵機能=貨幣の交換価値は下がらない・腐らない。もしそれが腐るならもうそれは貨幣とはいえない”」
ということがあるみたいなんですね。
なので、それをもし「重力のように回避不可の法則」みたいに考えるのであれば、自然と次のような考えにもなるはずなんですね。
「政府のその恣意で、お金の量を勝手に増やしていいはずがない」
ですね。
もちろん、主流派経済学にも言い分があるでしょう、たとえばそれは次のようなものになるかと思われます。
「貨幣の定義であり使命ですらある“価値の保存”のためにも、政府がその恣意で勝手に貨幣を増やしていけないのは当然である。
そして、それを前提としたとしても、経済の規模(ひいては成長)というのは決して“貨幣の量”のみで規定・制限されるものではなく、厳密には“貨幣の量×貨幣の回転速度”として現出するものなのだから“貨幣の回転速度の向上”によって“経済成長”が達成されることはなんら疑いがないものなのである。
であるからして、経済成長のために目標とされるべきは“お金の回転数≒景気のよさ”なのであり、政府が恣意的に“貨幣の量を増やす”などということは、そもそも不要なものである。
さらにいえば、そもそも政府がその恣意で貨幣を増やすなどということは、自由経済という現代経済の根本的テーゼにもとる非違行為ですらある。」
かなりごもっともな“筋論≒理論”だとは思います。
しかし、その「経済についてのもっともらしい理論」というものが「放任経済志向≒ネオリベラリズム」というかたちで、ここ30年ほどにもわたる「社会実験」として実施されて、
「致命的な欠陥を隠し持っていた」ことが、実体経済(もとい庶民の暮らし)をおおいに破壊するという「莫大な痛み」を伴いつつ完全に立証されてしまったわけですね。
その欠陥というのは「放任経済によってお金が強者に向かって集中していき、金持ち層にお金がますます溜め込まれていくほど“貨幣の実体経済における回転率はますます低迷する”」という致命的な予測ハズしです。
よく「トリクルダウンは起こらなかった」というふうな批判がネオリベに対してはなされるわけですが、
以上の「貨幣の回転率の“実体経済における”低迷」というのとトリクルダウンの不発、といのは、ほぼ同じことを指した物言いだと思われます。
つまりは、ネオリベにかぎらず経済学者の多くが今だに盲信している「お金は不動のものだ≒実物だ」という貨幣に対する狂信と、
ネオリベ流の「生産力上昇の芽(技術革新やイノベーション)が生じた場合、経済が自由でありさえすれば、自然と“貨幣の回転率の上昇”がおこり、実体経済もちゃんと成長していくのだ」といういつものおとくいの「神の見えざる手の漫然とした(呑気な)適用結果としての予測・見立て」というものが合わさって、
世界的に「庶民の生活≒実体経済」がおおいに抑圧・毀損されるそばで「主に金融資本がぶくぶくと肥え太る」という地獄絵図が展開されることになったわけですね。
(※以上のことについては「お前は貨幣供給の少なさを問題というが、現実は日銀が異次元の金融緩和やら超低金利・マイナス金利政策を打ってきたんじゃないのか?お前の見方はその重要な事実をおもいっくそ無視しているのではないか?」というふうにツッコむ人がいるかと思われます。
しかし、今や多くの人が指摘してくれているように「日銀における口座残高の総量」と「実体経済における貨幣量」というものの間には「大きな壁がある」ということらしいんですね。
たんに「思考実験としてそういう見方もありうる」。とかいうのではなく、日銀の民間銀行に向けての貨幣供給増大は「実際にそのようにしか作用しなかった」という実証的な帰結としてそういう風に見ることがだとうだということらしいです。いわゆる「ブタ積み」ってやつですよね。
なので、僕が貨幣の供給量について触れている文脈においては、カンマでくくって強調したところの“実体経済における”という修飾語・限定語にぜひご注意いただきたいと思います。)
「クソゲー」のお手本はまさに「僕らが暮らすこの現代の経済社会だったんだ」ということがよく分かりますね。
事実はビデオゲームよりも「クソなり」みたいなことになるのでしょうかね。
ゲームクリエイターの方々にも、もっとこの「現代社会というクソゲーのメカニズム」が認知されると、また新たなゲームカテゴリーが生まれるかもしれないな、とすら思います。
そういうゲームができれば「ゲームをプレーしつつ、現代のクソさを勉強できる一石二鳥の啓蒙的な娯楽」になるかと思うので、ぜひ誰かつくってほしいなと思います。
僕がもしゲームクリエーターだったのなら、三橋貴明先生とか、藤井聡先生とか、中野剛志先生とかに、監修していただけたら最高だなと思います。
(※僕程度の人間が、どなたも知的な意味で僕が仰ぎ見る存在であられる以上の先生がたの序列というものをまともに吟味するべくもないので、単純に僕が情報源としてより頻繁に触れている順に先生方を並べさせていただきました。僕ていどの人間が大変不遜な記載になってしまい。どうもすみません。こんな底辺ブログの記事をどの先生も見て下さるはずもないので、以上は、主に各先生の支持者の片に向けての謝罪のつもりで書かさせていただきました。)
ゲームの話はこのくらいにして、話しをネオリベの致命的な「予測ハズシ」という事実をふまえて、僕らは次に何を考えないといけないのかを見ていきたいです。
僕の上の構図においても、アプローチはいくつか考えられると思います。
① 経済論というよりは、その根本の貨幣論というところからアプローチすべき問題だ。
つまり、現代の基礎となっているところの「そもそもの貨幣は不動の大地だという観念」をこそ問題視して是正していくべきだ。
「貨幣は経済の洋服。経済の体が大きくなろうとするたびに、服を大きくしてやらないといけない」とみとめて、その役割を「国民の厳しい監視の下、全体の利益の代表たる政府に任せる」みたいな感じのアプローチを採るべきなのだ。
② ネオリベが描いたバラ色の未来予想図がつまずいたポイントが「貨幣の回転数の低迷」にあったのだから、そこのみをピンポンとで修繕すればそれでいい。
たとえば「資産課税」を強化して「金の莫大な溜め込み」を税制的に牽制するとか、そういうアプローチが妥当だ。
みたいなことがとりあえず考えられると思うわけです。
僕は今日の記事では①の方法論の前提となるところを強調したかったので「鉢植え植物の鉢」というたとえ話をタイトルでは挙げてみたわけです。
②の方法論は実際のところは、プロテスタンティズムから発祥したともいわれる「お金もちこそ正義(だって社会に便益を供給したからこそのお金持ちなわけでしょ?)」という信仰を引きづっているとおもわれるネオリベさんたちが「頑強に抵抗する」ものであることが目に見えているので、かなり難しいでしょう。
またその方法は「一部の人を狙う」というふうな立てつけにみえなくもないので、それが「強権的で恣意的な政策」に映って「自由主義の抑圧」というふうに批判される嫌いもある。
というわけで、僕は①のアプローチのようにして「ネオリベさんがもちだした計画」からおもいっきり離れて、もっと根本の
「お金は経済という身体の洋服みたいなものなのだから、
もろもろの成長の素(技術革新とかイノベーションとか)をむざむざと不発になってしまう(≒その便益がうまく実体経済にゆきわたらない)という結果にしてしまわないためのも、成長の素にみあった(≒ただしその目測は簡単ではないという難点はあるかもね…)分の“たえざる服の新調≒貨幣の量の増大”を繰り返していかないといけない。
一時の好景気のときには“民間の借金だけでそれが十分にまかなわれる”ということがあるわけだけど、一旦、そういう“束の間のキャッチアップ的で一時の例外的な一本調子の経済成長の期間”が終わってしまったら、
その後の“平時≒非高度経済成長期”においてその“絶えざる服の新調”を実施しうるの力をもちうるのは“政府”をおいてほかにはない。
また、政府こそが“民意を付託をうけた機構”なのであり、民主主義的にも“政府こそが唯一その役割を担いうる正当性・正統性を持つ”としかいえない。
だから、政府は“経済の成長余力に伴う、貨幣供給の番人”としてそのしっかりと役割を果たすことが、
ネオリベがおおこけしたことが明らかになった現代にいて、早急に望まれることなのである。」
ということをいいたかったわけです。
とりあえず、僕には今のところ、これ以外の策は浮かんできません。
ちょっと、他の何かしらのアイデア(処方箋)がうかんだとおもっても「あ、これは結局まやかし的な策でしかないな、結果として実体経済の活力を取り戻す施策たりえないな」ということの繰り返しで終わっているのが僕の思考の現状であるわけです。
僕のこの記事を読んでくれた方のうちにもし「いやいや、タコっす、もっといい案があるぞ?」という人がいらしたり、
さらには「いやいや、タコっす。そもそもお前の経済の構図の見立てのここそこが間違っているよ。君のアプローチは、その前提・根本からおかしいんだ。その前提足る構図をちゃんと修正した正しい経済の見立てを踏まえれば、〇〇という施策こそがまさに芯を食った実体経済救済策というものだということが分かるはずだよ。」
ということを考えられている人がいらっしゃるならば、ぜひその立論を、SNSとかで広めてほしいと、勝手ながら思います。
もうやってらっしゃるけど、僕がまだそれに触れてないだけという確率のほうが高そうではありますけどね。
とはいえ、そういう考えを温めつつも、なおまだその「エッジがきいた立論だと世間には映るだろう自説」をおおっぴらに展開しないままでいる方がいらしたらとも思うわけです。
そういうひとが、もし僕みたいな「ド素人の無謀な論ながらも、果敢に前提を疑うことをしかけている」という有様をみて、次のように思ってくれることを淡い感じで期待しているわけです。
「タコっすなんかに提示されるまでもなく、自分ですでに考えていたことだけど、他にも似たようなこと考えてたやつがいたんだと知れてよかった。
なんか、背中を押された気持ちがするな。これからは、ためらわず、ガンガン自論を説いて広めていこう。」
そういう波紋が人ひとつでも起せたとしたのなら、ド素人の僕がこの無謀な大上段の記事をかいたかいがあった、というものです。
というかんじで以上、ド素人ならではの蛮勇をいかんなくはっきした「ド素人版、実体経済の活力復活策」でした。
どうも毎度おそまつさまです。
えー、記事のさいごのさいごに、文章とあまり(ほとんどかな?)関係がないようですが、
この場を借りて、僕が支持しているところ参政党さんが、今まさに26年の衆議院選挙の選挙戦で奮闘してくださっているところなので、
この日本の将来のための参政党さんのありがたい奮闘に、御礼申し上げつつ、
参政党さんのさらなる飛躍を祈念させてもらいたいと思います。
「参政党の危機感・問題意識が同胞にどんどん広まれ~!!
ついでに参政党の議席爆増きぼう!!
今のところ僕は、参政党以外に、日本を没落から救い出せそうなまっとうな知見をもつ政党は他にないと思うから、
日本と僕ら日本庶民をまるっと救うためにこそ、今はだんぜん参政党を応援するぞー!!
僕と同じ一般ピーポーさんたち、政治参加を決して諦めるなーー!!!
日本の将来をあきらめるなー!!
昔とはちがうんだ。今は参政党があるんだー!!!」
です。支持者でないかたにとってはかなり暑苦しかったかと存じますが、僕のその暑苦しさに免じて(?)
「いまどき、政治にこんなに熱くなっちゃってるような奴を支持者として抱えてる政党なんか、バカにしてやろう・冷やかしてやろう」みたいな斜に構えた姿勢でもいいので、
是非、参政党の街頭演説の動画など一瞥してもらえたらうれしいです。
「参政党を好きになれ」などずうずうしいことをいうつもりはありません、へこへことお願いして支持してもらうということは、参政党のおそらく究極の目標の一つであるところの「歪んだ認知をただす≒日本の言論空間の清浄化」という目標にも全くなじまないものだとすら思いますんで。
別に僕も「参政党を好きだ」とかいうわけでもなく、参政党だけがまともなことをいってくれている、という是々非々での参政党支持者だったりしますのでね。
なので、今後もしも、参政党の主張がおかしくなってきちゃったのら、そのときはきっぱり参政党支持から降りる心づもりすらもっています。
とりあえずまずは一度は、参政党の考えに耳をかたむけてみてほしいということです。
ということで、今日の記事は裏テーマである、26年衆議院戦の参政党応援キャンペーンの第二弾の記事ということでアップしてみました。
「お前の記事は、結果、参政党のネガキャンになっていないか?」とかいわれないかちょっと不安ですが、そこは読み手の心は予測できないので、なんともいえないながらも、
僕の参政党支持はウソではないことは、これまでの記事でも垣間見えることだと思うので、どうかそこは信じていただきたいと思います。
では。