結局、愚痴のはきだめ

結局、愚痴のはきだめ

非公開ブログを目指していたけど…挫折。



胃に膨満感があって気持ちが悪いときには、ゲップをするとすっきりすることがある。

炭酸飲料の助けをかりるのもひとつだけど、ともかくゲップしてしまえば、あるていどスッキリ感を得られるのは僕にとっては経験則上「定石」なんですよね。

僕は慢性的に自律神経がくるっている人間なので、消化器系はとにかく「不調であることがむしろ平常」であることなわけで、

そうである以上やっぱり「ときどきゲップするのは大事」という観念をもつことにもなるわけです。

えー、ゲップなどという御聞き苦しい話題をしょっぱなからかましてしまいすみません。

ただ、僕が今日の記事でいいたいのはゲップそのものではなく「文章を書く」ということについてなんですね。


人生やら社会やらについてなにか「消化しきれない・おいそれとは受け止め切れれない痛みないし違和」を感じるとき、

僕という一匹のお猿は「文章」という名の「ある種のゲップ」を出したくなるわけです。

ともかく、僕はそういう性質をもつにいたった生き物であるようなんです。

ただ、僕は僕が知る限り「とくだんの特長(強み)をもたない平凡な人間」なので、たぶんですが、多くの人もそうなんじゃないかと勘繰るところではあります。

誰しも「文章を書く」ということにいったん慣れてしまえば、まるで「ゲップ習慣」みたいして、きっと「やめられなくなる類の挙動・営みなんだろう」と僕は勘ぐるわけです。

まー、そのへんはデータをもとのしたまともな立証はできそうもないので「だと思う」程度の話しかできないわけですがね…。

ともかく、少なくても僕にとっては正直なところ「文章」とは「ゲップみたいなもの」であるわけです。

ただ、そういうふうなことを持ち出すと今度は、ある種の社会通念とぶつかることになるわけです。

それとはつまり「文章を書く人間へのそこはかとない尊敬の念」という社会観念です。

こういうことをこのタイミングで持ち出すと、きっと次のようなツッコミを浴びせられるんだと思います。

「おいおい、タコっすよ。自分は特別な人間ではないだとか、しおらしいことを言ったかと思ったら、その舌の根も乾かぬうちに“文章を書く人間への尊敬という社会通念”だと?なんだその急旋回の“手前味噌”は?お前の人格は分裂でもしてんのか?」

ってなことですね。

まー、そう結論を急がずに、ちょっと我慢して話しの続きにおつきあいください。

僕は以下で詳しく「文章を書く人間一般への条件反射的な、なんとなくの尊敬」という社会通念に「ケチをつける」立論を展開しますんで、その矛盾にみえるような物言いについて、ちゃんとオチはちつけるつもりなんですからね。

ところで、なぜ僕がここで「文章を書く人への社会通念としての尊敬の念」ということを持ち出したかということの一つの理由としては、

なにをかくそう、この僕がそいういう観念においての「長い間にわたる洗脳下にあった」と思っているからです。

思い返してみると、僕の「文章に対する尊敬」ないし「活字にたいするえもいわれぬ憧れ」というものは、常人の比ではなかったと思います。

すでにそこから僕は脱しているので「三つ子の魂、百まで」とまで言っちゃうとしたら、それは誇張になりますが、僕は少なくてもまるっと成人期くらいまでを通して「本と格闘する」ということを「当然に価値のあることだ」と信じて疑わず、

そのとおりに「人生の時間の多くを本を読むことに費やす」ということを実践してきてしまいました。

とくに修士課程の学生だったころは、ほとんど「家にいる時間よりも図書館にいる時間の方が断然長い」という生活を続けていて、

「図書館にすんでいる」といってもいいくらいの生活をすらしていました。

しかし、今になってみたら、文章なんてものは「ゲップとかそういう類のもの」としか思えないってことになっちゃんたんですよね。

間違っても「おおむね推定尊敬すべきもの」とかいうたぐいのものではない。

どんな時代の人間だって、人間である以上、みんな生きることにおいて「なにかしら懸命にあがいて」いたはずなわけで、

そういう営みないし挙動というのは「消化をうまくできない胃腸の不調」にあがいてときにゲップをかます僕の有様とまったくもって「相似形≒規模やら質が違えど構造は同じ」であるわけです。

ではなんでそんな「生きる上でのあがきとしての営み≒言葉を吐く」がしばしば「尊敬の対象」にすら祀り上げられてしまうのか?

それはやっぱり「つきつめた分業社会」という現代社会の深くに巣食う病根からくるものなんじゃないですか?

 

(※もちろん、社会を広く指導していたのが宗教だったような時代においては、聖典などと呼ばれる一種の文章が、現代社会の比ではないくらいの崇敬を集めていたことはその通りだと思われます。また、さらに古代に遡れば、呪詛の一つの手段としての「刻まれた文字≒文章」というものがグラマー(魔法の術。転じて文法)の語源ともなっていることもそのとおりでしょう。だから、ここでの比較は僕は「古代アテネ」などの古代民主主義を比較対象にしているというのが正直なところです。なにしろ現代社会とあえて比較する意義があるのと思われる過去の社会といえば、僕のなかでは「古代アテネの民主主主義社会」とか「江戸時代」とか「原始狩猟採集社会」くらいしか思いつかないというところがあるわけです。という考え方のもとでの話なので、かならずしも「過去のそれぞれの社会」の平均値ないし中央値などを念頭において言っているわけではないことはお断りさせてもらいます。)

「モチはモチ屋」とかいう感じで「認知的な構築物は、文章を書ける人間に」というふうなふうに社会が「専門分化こそ絶対的正義である」みたいなふうにできあがっていて、

そこ(認知産業)に参入しようとする人にもそういうプレッシャーがかかることで「尊敬の対象」というものが円環的に強化されてきたんじゃないですか?

つまり「読む価値のある文章」を作ることこそ「執筆業をなす人間の存在価値」というふうなことが分業社会という構造において当然にプレッシャーとして醸し出されてしまう結果、

「文章を書ける人間はなんとなく一種の専門職として尊敬されてしかるべき」というふうな社会通念が業界の外と内の両方の共犯行為の結果として成立してしまった。

みたいな?

でも、やっぱり個人的に文章を書いてて思うのは「文章なんてもともとはゲップみたいなもんじゃないのか?」ってことなんですよね。

それ(ゲップ)を「みんなが受けとめられるように上品に、または利用価値があるようなものとして吐きましょう」なんてプレッシャーをかけられたら、そりゃあ

「ぎこちないゲップ」になりますよね?

なんかへんに「力(りき)んだゲップ」になりますよね?

そういう「しんどさ」を加えられてだすゲップだからこそ、

さも大層なことかのように「作品を産む苦しみ」とかなんとか大げさな理由を持ち出しては「著作権保護」とかの法理論を大いにぶんまわすようなことになっちゃってるんじゃないですか?

そうじゃなくて、著作なんて「ただのゲップだろ?」というふうにしていったん腑に落としさえすれば

「著作権なんて資本主義特有の所有精神・商売精神が生んだだけの虚妄な権利意識だ」ってことがはっきりすると思うんですよね。

(※とはいえ、ここで僕が著作権といっているのは主にビジネスの側面(≒財産権)に限定してのものであって、講学上の著作者人格権というパートの全部までをも否定しようというものではないことはご理解ください。)

なにせ、おしもおされもせぬ頭抜けた世界的ベストセラーといえば「聖書」なわけですが

(※勉強不足でクルアーンと新約聖書のどっちがベストセラーなのか僕には分かりません。ただし、そのどっちかが世界一のベストセラーであることは世界宗教のシェアをざっと知るだけでも明らかだと思われます。)

それは著作権などという近代以降の観念を完全に裏切るかのように「価値ある自分以外の口から出た言葉を記しました(≒伝聞)」というような体裁であるわけですね。

つまりそれら世界的ベストセラー本は「知的な構築」をしたその当人(イエス様・ムハンマド様の声を通して表現されたアッラー)の手になる著作ですらないわけです。

そこでは著作者は自覚的に「私どもはイエス様の言葉(またはムハンマド様の口を介したアッラーの言葉)や事績を伝えるだけの黒子」という体裁をすらとっているわけです。

著作権なんて観念を吹き込まれた日には、当の聖書の執筆者たちは

「そんな邪悪な思想を私に吹き込もうとは!?さてはお前は悪魔の手先だな?そんな禍々しい誘惑に私の心がよろめくことはない!!悪魔の手先よ消え去れ!!」とか言って強く反発すらすることでしょうね。

ね?世界的ベストセラーですらこうなんですから、いかに現代の著作権なる観念が「ビジネスありき、極端な形の社会分業ありきの歪んだ観念」であることが理解できるってもんじゃないですか?

〇 「いいたいから言う」

〇 「吐き出したいから出す」

〇 「伝えたいから記す(対同時代人さらには対未来人)」


というようなことが「言葉の元来」のところであるはずで、それ以外は全部「そのときどきのへんてな時代精神が付け加えた欺瞞的要素」というしかないんじゃないでしょうか?

ゲップというたとえ以外の言い換えをするのであれば、言葉やら文章とかいうものは「生きているという懸命の営み」に必然的に生じる「認知的な汗」というふうにいってもいいはずで、

おそらく、もとからそういうものでしかない。

そんなものが無理やり「商品」に仕立て上げられて「有用であるべき」とか「高尚であるべき」とかそんなヘンテコなプレッシャーにされされることになってしまって「ぎこちなくしんどい営み」になったり、

さらにきわめつけは「著作権(財産権)なんて概念」までうみだしては「他人のゲップや発汗を阻害するようなしがらみとすらなる」なんてことになったら

そんな観念こそ「社会的な害悪」じゃないですか?

人間が本来持っている言葉を吐く欲求への「手枷(かせ)足枷(かせ)」になってるんじゃあないですかね?

もちろん、哲学史フリークの僕のような「説得力を高めるゲーム」に関心の強い人間は、

個人的にそういう「説得力の高い立論≒文章」ばかりを好んで渉猟するという振る舞いにでるのは自由の範疇であるし、

そういうふうな「個々人の価値観に基づく、文章それぞれについての個人的で内心的なヒエラルキーの設定」というものを否定するつもりは僕にはありません。

そこについてはつまり端的にいって「たでくう虫も好き好き」ってな次元のことであって、

「どんな種類のゲップ(文章ないし書籍)」を好んで漁るかは、その人個人の自由の範疇というべきことです。

しかし、そこにあたかも社会共通の観念(社会通念)かのようにしていいくるめたものとしての「高尚」だの「効用≒ユーティリティ」だの「著作権」だの変なことを主張しだすとすれば、

それというのは、まずもって「無粋≒知的な意味で貧乏性的ないし奴隷根性的」であるし、時に膨大な数の第三者たちを抑圧するような「社会的害悪」ですらある。

もちろん、「その人間のメインの活動としての金儲けができない奴は食えずに死んでも同情する価値はない」というような圧力がかかっている現下の「独特の狂った観念がはびこる社会」においては、

執筆活動を真剣にやる以上それを「マネタイズしないといけない≒金儲けとして成立っせないといけない」という条件を事実上、課されてしまっているのはそのとおりなので、

今のそういう狂った環境が温存されたままにもかかわらず「ともかく著作権なんてインチキは即刻破壊してしまえ」なんて乱暴で無慈悲なことを言うつもりも僕にはまったくありません。

「まずはお前の人生の時間の大半を消費して、金もうけに励め。お前が本当に自由にやりたいことは、金儲けの後に、ほんのわずかにのこされた余暇時間ににやることだけしか許されない。」

というような「社会全体を覆う狂った命令」に従わざるを得ない現代人にとっては「自分の活動をマネタイズする」というのは事実上、死活問題となってくるわけで、

真剣にライフワークとして執筆をしたい人がその人災的環境においての「避難ボート」ないし「シェルター」よろしく著作権にすがることはいたしかたのないことでしょう。

ですが、それはあくまで「稼がない奴は死ね」という現代特有の狂った環境があって初めて正当化されるだけの「緊急避難的な道具使用」なのであって、

「もともと文章ってのはそんな性質のものであるはずはないよね?」という基本線を僕は譲る気はないということです。

その人災が過ぎ去れば、またその戦乱状態が過ぎ去って太平の社会が戻れば当然にその自衛としての武器(著作権)の「武装解除が要求される類」の「道具」であるはずです。

というわけで、その「文章のもともとの性質」というところをうっかり忘れないようにするためにも僕は

「文章なんて元来ゲップみたいなものでしょ?」

という素直な観念を僕らは忘却するべきではないと思うわけです。

いちおうオチというかタイトルに示した話題についての結論はつけられたかと思うので、今日の記事はこのへんで。
 

 


どうやら、日本経済の問題の重心に「生産性の低さ」というものを見出す“識者”が多いようです。

僕ら日本庶民は特に戦後以降、ことあるごとにエリートから「日本人はとにかく遅れているのだ」とかいう洗脳を浴びせられかけてきたこともあり、

それによる思考の慣性もあいまって「日本経済の低迷からの脱出のカギは生産性向上にこそあり。日本人よ、労働者よ、もっともっと工夫せよ。もっとちゃんと努力せよ。ルックGAFAM(ないしマグニフィセント7)!!!」とかいう物言いには、ついうっかり説得されそうになります。

ですが、その「日本の産業の生産性が低い」ってのは一体どういう意味でいってるんですかね?

たしかに文字通り「付加価値(≒売れた総額)」割ることの「投入された労働力」ということを日本経済にあてはめてみれば、それは「生産性が低い」という計算結果にはなるんでしょうが、

さすがにそういう「のっぺりとした統計的な事実」を言っているわけではないはずなんですよね。

なにしろ、ただそれだけの単純な認識からは、まともな「経済政策」が出てくるべくもないからです。

経済とは理解が簡単なシンプルなものではないし、である以上は、経済を現によくしうる施策がそんなにシンプルであるとはとても思えない。

ともかく日本経済の課題が意識される場面において「生産性の低さ」があたかも決定的な要素かのようにして引き合いにだされるということについては、僕は大きな違和感を感じてしまう。

たしかに、もし将来日本に本当の(≒金融経済だけの繁栄ではなく実体経済上の)好景気が訪れたとしたら、そのときはマクロな指標でみても「生産性は向上した」という統計結果としてつじつまがあっているだろうことは、そのとおりなのでしょう。

しかし、それ(生産性の向上)は「直接に努力の標的にすべきもの」というよりは「狙い(好景気)が達成された場合に付随して観察されるべき現象」というくらいのものでしかないんじゃないでしょうか?

なにかすごい「倒錯的な思考」がそこ(生産性元凶論)の内部には隠れている気がしてなりません。

(※ちなみに、大企業との「体力のある生産主体」についてその余剰資金・内部留保に見合わないような「投資の貧弱さ」を指摘して「生産性元凶論」をいうのであれば、僕もそれなりに賛同できちゃうんですよ。ただし、多くの場合この「生産性元凶論」はマクロ経済的な文脈でいわれるものであり、そうである以上、往々にして企業の99%を占めるといわれる中小企業を標的にしてい言われる論であるわけです。ひどいときには「中小企業の大量淘汰圧」みたいなことまでいわれたりします。淘汰圧が全くない経済はおそらく社会主義経済なわけで、それはそれで健全とはいえないわけですが、ちゃんと世界でも評価されうるレベルの財・サービスを産出しえているはずの多くの日本の中小企業に向けて「もっともっと淘汰圧を!!」みたいなことをエリートが煽っているのも僕はおかしいと思います。以下でとりみだしちゃう熱く詳しく述べるところですが、僕はこの「中小企業を狙い撃ちにするかのような生産性元凶論」のことが「発狂しそうなくらい憎い」ってのが本心であるわけです。)

どのくらいの倒錯さ加減を僕がそこにみているかといことを、風邪のたとえで表現すると、いってみれば、こんなかんじです。

「たしかに風邪が治ったあかつきには、体温は平熱にもどるといえる。だからといって、今まさに風邪にやられている真っ最中の状態の人に向かって“とにかく、その高くなっている体温を下げろ。そしたら治るから”という対処を薦めるとしたら、それは免疫のメカニズム面から言って、完全に間違っている。」

(※もちろん、あまりに体温が高くなりすぎているときは、頭とかを中心に器官の熱によるダメージを回避するために局所的に冷やすことが妥当な時もあるでしょうが、それは“風邪を治す”方向とはまた別の配慮なはずですよね?)

たとえば純日本映画であるらしい「ゴジラ-1.0」は、米アカデミー賞の視覚効果賞を見事受賞したわけですが、

その映画はアメリカの「VFXに注力した大作映画」ではありえないくらい「少人数のメンバー」で視覚効果が担われていたとききます。

ん?これって「日本映画はアメリカ映画より生産性がとてつもなく高くありうることの立派な一事例」なんじゃあないんですかね?

たしかに映画という全産業の内からすると小さな一分野のことではありますが、アメリカ様の映画分野の専門家たちが「日本の方が生産性が高い(費用対効果が高い)」と自供(証言)したような出来事なんじゃあないですか?

あと、近頃のインバウンド(海外からの旅行者による消費)の盛況ぶりということをとってみても「海外と比べた日本産業の生産性の高さの否定もできない証明」になってしまってませんかね?

たしかに円安という価格競争力における下駄やら、今現在の日本の生産性とはまた別の「長年の日本文化の豊かな蓄積」という、このトピックとの関係でまじりっけというべき要素はあるにしても、

アニメコンテンツに魅力を感じて日本にきてくれる外国人や、日本の食に魅力を感じて日本にきてくれる外国人や、日本の便利な文具に魅力を感じて爆買いしてくれる外国人の人達というのをみるにつけ

「は?一体、何をして生産性の低さこそが現在の日本経済の問題だなんて言ってやがんだ?」

という気持ちに僕はなるわけです。

そんな向きの努力はたとえば「ダイナミックプライシング(≒顧客の属性やら、購入・利用のタイミングなどで価格を区別するやり方)を国内的にも広く普及させるなどの工夫くらいには直結するかもしれないけど、

それ(ダイナミックプライシング)による事実上のサービス(財もありうる?)の値上げが、日本経済における「努力の欠如の核心部分」とかいうことを言っているのだとしたら、さすがにそれは「おおげさすぎ」というもんでしょう。

たしかに、良いインフレ循環のためには「妥当な価格転嫁の普及」という流れは重要といえるんでしょうけど、さすがにそれ(価格転嫁の工夫)を主に念頭において「生産性の向上こそが経済の肝だ」とかいっているとしたら「あまりにトリッキーな針小棒大的な物言い」というべきです。

前に別の記事で長文で書いたので、詳しいところまでは繰り返しませんが、僕には日本経済の問題(もしくは日本の産業の問題)は、

結局のところ「日本人を広くかつ長いあいだ覆ってきたデフレマインド」という「生産主体(≒企業)の外にある環境」の問題だとしか思えないんです。

個々の生産主体がどうあがいてもこの「政治や行政が我が国日本において醸成してきた“広く深い将来不安”といういわば“政・官制デフレマインド環境”」なんて自前の努力ではどうしようもないはずなんですよね。

生産主体(≒企業)にとってそんなものは所与の環境というべきものであって「外生変数」といっても言い過ぎではないはずのものなわけです、

それぞれの企業にとって「所与の環境≒デフレマインドが支配する貧弱な内需」なんてものは動かしようもない以上、企業にとっての努力の標的などには到底なりえないものであって、

そういう「組織の外から一方的にやってくる(いわば国内に視点をスライドさせた形のカントリーリスク的な)どうしようもない苦しい環境にあえぐ企業」という状況にたいして、高みから

「お前ら(中小)企業の努力が足りんから、日本経済はこんなに低迷してんだ。ちゃんと生産性上げる努力しろ。怠けてんじゃねー!!」

とかいって存分に認知的なムチを振り回しているのが「生産性元凶論」を採る人達(主にエリート層)の「心根」ってやつなんじゃないかと思うわけです。

その「エリート精神の腐ったようなサディズム」をみせつけられて、一庶民としての僕は思わず天を仰ぐような気持ちになります。

さらには、そういう「気色の悪いサディスト」がどうやら「日本のエリート層の主流を占めているらしい」ということまでをも考えると、もはや絶望をおとおりこして、

「ええじゃないか、ええじゃないか!!」

とかいうナンセンスな奇声をあげながら踊り狂うような、かの騒乱の二の舞でもあえて繰り返してしまおうか、ということまで空想が流れていってしまいそうです…。


ちなみにですが、この「生産性元凶論」を言っている向きの人達はしばしば「アメリカ発のビッグテックのようなビジネス」を念頭においているようです。

ですが、そんなもの日本が望めると思うのもなんか「現実から遊離した能天気なエリートだな」としか思えません。

過去において、日本は自動車やら半導体やらの産業分野で世界覇権を握ったといっていいところまでいったとたんに、アメリカ様やらヨーロッパ様やらにいろいろな圧力をかけられてきて、

業界の世界覇権を握ろうとするたびに国際政治的につぶされてきた経験を繰り返してきたんじゃないですか?

つまり、日本で仮にそういう「ビックテックの芽」のようなものが仮にうまいこと出てきたところで、その日本企業が業界の覇権を盤石にする直前に欧米さまからなにかしらの「ちょっかい」をだされる蓋然性はかなり高いはずなわけですよ。歴史実証的にいってね。

それにたいして日本政府(そしてそれを援護すべきはずのメディアやらアカデミズム等のエリート連中)は「まともに抵抗して守ってやることもできなかった」ってのが戦後の日本経済の歴史であるわけですよね?

そういう来歴が日本経済にはあるというのに、なにを能天気に「日本にもビッグテックが興ることをキボンヌ♪」とかなんか、能天気でメルヘンチックなことをいってるんですかね?

芽がでてきたところで、あんたらエリートはその芽をどうせちゃんとまもれもしないんじゃないですか?

欧米様からの「外圧」によってその芽やら若木が事実上「踏み潰される」のを結局指をくわえて傍観しているだけってオチになるんじゃないですか?

日本のエリートなんてどうせ欧米様に「お前ら、ちょっともうけすぎだぞ、しばらくおとなしくしていろ!」とか言われた日には、その大半がてき面に「しゅん」となって、日本で成長した花形産業なんか簡単に海外の利益のために差し出しちゃうんでしょ?

そんなエリートに「日本からもビッグテックを!!」とか今のままでは「そんなことあんたらエリートの口からは絶対に言われたくない。冗談でも言ってくれるな!!」としか思えません。

(※まぁ、そういうセリフが妥当するかは、それをいう個々のエリートの日頃の行いというか、姿勢というところに依存するものではありますけどね。便宜「大きな主語」で語ってしまいましたが、やっぱり個別の事情やらは大事なので、僕を「大きな主語が大好物な現代左派」とかと同じ穴のムジナだとか思わないでもらいたいです。)

それに、彼らエリート主流派がおしすすめてきた「デフレマインド醸成政策」の一環として、日本の官民両方の研究者は概ね冷遇されて、酷い有様なわけなので、そもそもすぐに日本にビッグテックのような「知的な集積型産業」が成立するとも思えないんですけどね、

日本の「知識の生産性の畑≒研究分野」はすでに、エリート様ご主導の「デフレマインドの日照り」によって、そうとうに荒れ果ててしまっているんですからね。

博士号取得数の減りとか、修士以上の学位の取得者の社会での冷遇とかを考えるともはや「日本の知的生産という畑は、政策的に耕作放棄地にちかい荒地状況にすらある」ともいいうるんじゃないでしょうか。

 

(※ちなみに、僕はこのことすらも、日本特有の社会通念のみならず、ここ数十年のデフレマインドというものが大きく影響していると思っています。なにしろデフレマインドは企業を「これまでやってきたことをより安いコストで」という縮こまった方向に誘がすものなわけですから、そこにおいて、少しでも新しい学問的進展を、という方向で努力を積んできた学位取得者がもてあまされることはあるていど目に見えているからです。)

なので、おもにあんたらエリートのせいで、そもそも「新産業・ユニコーン」の「芽が出るうんぬん」ってな次元の状況でもなくないか?っても思っちゃうわけです。

そういう点も込みでいうならば「日本からもビッグテックを!!」というエリート様達が発する掛け声は、僕ら庶民ならすると何重もの意味で「おいこりゃ!!寝言は寝て言え!!」としか思えない。

さらにいえば、ビッグテックの多くは世界の実体経済を善くして僕らの世界人民(庶民)の幸福に寄与しているとは僕には思えません。

経世済民という観点からみるともはや「害悪」ですらあるかもしれないようなビッグテックが多いとすら思うんですよ。

(※生成AIは今後の進展と、その使われ方によっては、もしかしたら世界庶民にとっての幸福に堅実な形で寄与する可能性があるかもしれません。なので、生成AI関連でちかごろ株をあげまくっているらしいエヌビディアとかは、上記の評価が妥当しない例外にあたる可能性があるかと思います。とはいえ、かなりAGI(汎用人工知能)に肉薄してきているようにも見える生成AIが進出していく各業界において、業界の独占ないし寡占的な状況をもたらすのであれば、それはたぶんトータルでみて世界庶民をこれまでのビッグテック以上に極めて不幸な方向にもっていく働きをもたらすかもしれないというような、疑念を僕はもったりしています。)


たしかに個々のビッグテックは現に「おそろしいほどもうかっている」わけですが、とくに「ネット系ないしプラットフォーマー系」というべき類のものは

実際のところは「広く世界の各所の既存産業を“その経済規模を実質的に縮小させつつ、かっさらっていく”」というような挙動を積み重ねているって営みなんじゃないですか?

もし全世界版のGDP(GGPとかいう言葉になるのかな?)というものがあれば、特にネット系のビッグテックは「むしろGGPを押し下げる役者」となっているようにしか僕には思えない。

全体としては世界の「金めぐり≒付加価値」を減らしているけど、その企業だけは局所的・特異的に莫大な売上と、莫大な時価総額をたたきだしているので、そこの株主はほくほくなわけだし、金融界は「実業界からぶんどれる余剰割合が増えてうれしい」てだけのことじゃないか?

それって、ネット(±の結果)において、トータル評価において、なんにも経世済民になれてもいないよね?


てか、もはやトータルでみたら実体経済(≒庶民の暮らし)の敵だよね?

そんなもの(結果的に僕ら世界庶民の不幸を増やすビッグテック)を無批判にもてはやして、あがめたて目標にすらしている日本のエリートってのも

「欧米様に対してはいつも幼児のように従順だな。欧米様の実践するゲームに無批判にのっかっちゃうんだからな。きっと、自分なりの哲学ってところが空っぽなんだろうな。日本人としての矜持どころか、“名誉白人のつもり”になれさえすれば、それで大満足なんだろうな。」

ってな感想しかもてず、その「エリートのひどい体たらく」に苦しめられている心あたりが様々ある一庶民としての僕には、もはや乾いた笑いしか出てきません。






えー、だいたい、タイトルで示したことの説明はついたかと思うので、最後にそこから一歩前にでるような内容をくわえさせてください。

『 なぁ、エリートさんたちよぉ?!

  僕ら日本庶民のことを腐(くさ)して、僕らに責任転嫁すのが大好きなのかしらんが、あんたら各所のエリートが日本をバブル崩壊から一貫して“デフレマインドの奈落”に突き落とし続けてきたんでしょーが?

  土地バブル崩壊のあとの“バランスシート不況”という「人災」しかり。

  消費税導入と、その後の事あるごとの税率上げ(=景気ブレーキ≒デフレ方向への加圧)しかり。

  ジョブ型の伝統がない日本での“働き方の自由”などという机上の空論をもっての非正規雇用の拡大施策

(※「このままデフレを誘導はしますが、我々と同じエリート仲間である大企業様にだけ特別にこの官制デフレという火の粉を払う魔法の道具“労働力の弾力性を献上しちゃいまーすww」的な政官エリート様のみうちびいきのお手盛り施策、のことです。)

  しかり…。

  そうやって“デフレマインド地獄≒内需のとまらない縮小”を自分たちが各所における施策で熱心に誘導し続けておきながら、

  その地獄の環境で苦しみもがき続けている中小企業にはいまになって「お前ら中小企業がちゃんと生産性向上の努力をしないから、日本経済は病んでいるんだ!!しっかりせいっ!!」

  だとぉ???

  あんたらエリート連中がデフレ地獄に中小企業を突き落したからこそ「中小企業の大半には生産性向上の余裕すらない」状況になってるだけじゃねーのけ?

  先の大戦での軍部政権による各所での「滅茶苦茶な国民いじめ」に比肩すべき「庶民いじめの事績」を日本の歴史上に刻もうっていう企みなんか?

  先の大戦での軍部の国家指導についての数々の語り草としての「時にトンチンカンで、また庶民の痛みをないしろにさえするような酷すぎる国家運営上の判断の数々にたいする悪評」に肩を並べるような「悪評」を、今度は自分たちが引き受けることになる用意はもうできてる、ってか?

  あんたら現代エリートのおつむって…


  本当に、まじ本気で、ダイジョブそう?    』





あ、うっかり頭に血が上ってしまったようです。

かなり下品な物言いになってしまいました。どうも、すみません。

いつもは「対システムという意識に集中すべき」とか高尚風情なこと書いちゃっているので、

上のような露骨な「恨み節」みたいなものをいおうものなら、僕のいつもの調子をご存じの方からは

「おい、タコっすよ。それは立派なダブスタってやつじゃねーのかよ!!」とかツッコミが飛んできそうです。

とはいえ、これまでの記事では主に僕はマクロな制度的なところをまず、改善すべきという「優先順位」をいっていたわけで、

別段、マクロレベルの「個別の加害者・被害者の復讐心を否定したり禁圧したり」というのを肯定するようなつもりも、そもそもないんですよね。

なにしろ、僕は「正義という観念の始源は行為の返報性作用(≒復讐ないしお返し)にこそある」と信じて疑わない向きの人間です。

なので、ダブルスタンダードという批判に対しては次のように弁明させてもらいます。

もっとも優先して努力が投じられるべき「政策論」としては「対システム」という視点を外してはならない。

でも「対システム≒マクロ問題」が整った(それなりに解決した)あとにおいては、個々の過去の当事者間での加害・被害については、被害者がそれぞれで「妥当な範囲での復讐」を許容されるべきである。

なぜならば、それは現に当事者として被害を受けた各人の「人権の根源にすらかかわること」であるから…。

みたいな感じの考え方であるわけです。

僕からいわせると、それはダブルスタンダードなのではなくて、それぞれのカテゴリーが「別の層をなしているだけ」っていうことであるわけです。

まずは政策・制度をまともにすることに集中しましょう。
個別の復讐は、それがおわってから、個々人が存分にがんばればいい。

ってなかんじのことです。

えー、つい勢い余って、いおうとおもっていたこと以上にエグイ本音まで言ってしまったようです。

さすがに今日はこれで、おしマイケル。
 



『スーパーリッチならぜひ掲げるべき家訓(案)』

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1: 儲け額・黒字を漫然と追うな。世界中の貨幣の「占有率」をこそ狙え。


2: 自分たちの貨幣の占有率を維持・拡大するためなら、時にあえて果敢に「世界恐慌」すらしかけてゆけ。


3: 庶民はカネ・貨幣のことを「個人的な贅沢の手段」だとかいう甘っちょろい理解をしているようだが、庶民どもにはずっとそういう誤解させ続けておけ。
 それとの関わりで「金はきたないもの」と思わせるのもまたいい方策だ。
 「カネは単に汚いというところをこえて人間を広く支配するための究極の凶器である」という本当のことから絶妙に目をそらさせることができるだろう。
 我々スーパーリッチのあり方・営みというものを庶民の認知において「陰謀論のうちがわの作り話」にとどめおくようにするのだ。


4: 貨幣・カネは一定量をこえて保有されると、贅沢の手段を越えて「純然たる権力」に変貌する。
 そしてそういうレベルの「金権」を把握している以上、どれだけ額面的に損をしようが「我々の日々の贅沢」が制約されることなどありえない。
 であるからして、我々の経済的ウェルビーイングは決して揺るがないものと考えて「絶対量≒額面の多寡」には決して一喜一憂しないことである。
 ときには我らの「金権の維持」の工作のために「額面上は数十兆単位での損」を出すこともあるが、そんなときでもまちがいなく我々のもとに「数兆の貨幣は残る」はずなのであるし、
 その「数十兆単位の損」をテコにしかけた経済的工作によって世界はおしなべて「デフレ状態」に突入するだろうから、我らの保有貨幣の購買力が決定的に減ることなど、あえてドブにでもすてるようなおかしなことでもしなかぎり決しておこりえない。
 我々の富にまともに課税できる国家が一つもない以上、我々が「日々の贅沢をあきらめる」という事態におちいることなどそもそもありえないのだから…。


5: 「金権」とは少数者が膨大な数の人間をコントロールするための人類史上最強の道具である。そしてそれを握っている我々こそが人類という人畜の群れの「飼い主」なのである。 心して「飼え」。


6:「膨大な数の人間をコントロールするための金権」のレシピ

① 貨幣を膨大に溜め込み、その流通をせき止める。
② 我々による通貨のせき止めによって人為的に広く庶民が金欠状態がもたらされる。
③ 庶民の金欠状態・欠乏感というのはあくまで「保持する購買力」と「欲しい商品群」との相関のことであるから、金めぐりを絞るという我々の直轄地である金融における活動のみならず、実体経済のもろもろのプレーヤーを介しての「庶民のーズの方を煽って高める」という戦略も「間接的な努力」とはなるけれども戦略としてはとても重要なものである。
 つまり、庶民のニーズやウォンツを“煽る”ことに励むようメディアや実業家を動機づけしつづける工作活動・融資活動が求められる。
 そこでは「魅力的な商品を生み出す」とういう表向きにも正当化されうるまだクリーンな方向のものもあるが、それは一面かつ表向きのものにすぎない。
 国同士の敵対を煽って戦争勃発・遂行という国家規模のドル箱ニーズを惹起したり、流行病の危険性を煽って薬のニーズを惹起したり、そういうことをしうる企業を金銭的に支援するという攻めの手法にも我々スーパーリッチは熟達していないといけない。

③ 庶民における「金銭的な欠乏感」を種々の手段で煽ることによって庶民にとっての貨幣の心理的価値を不当に吊り上げ、貨幣に人間操作能を宿しかつ強化すべし。

④ 簡単には貨幣のダムを解放しないこと。企業などの庶民部門にむけてはつねに“もったいつけて貨幣を持ち出しする”ことでこそ、貨幣による大衆操作力を保持し続けられる。
 そしてその“もったいつける”というしぐさの信憑性を高めるためにも、庶民たちには「お金(貨幣)はどっかにまとめてプールされている実在で有限のものである」と誤解させ続けるのが肝要である。
 貨幣は「ゴールドスミスの預り証書」以来、基本的に「金融業者が恣意的に作り出すもの≒たんなる約束」という“まともな事実認識”の方が庶民どもに広まることは我々にとって好ましくない。


7: 下々の人間(スーパーリッチではない人間≒実体経済の民)に許された「個人的な贅沢の手段のための貨幣保有」という規(のり)を越えて「貨幣の占有率そのもの≒金権≒多数者支配権」を獲りに来ようとする不届きものがでてきたならば、その際はどんな手段をもってもそいつを潰せ。
 もっとも、その規を越えてこないように、なるべく市場には「麻薬的なプロダクト」が氾濫させる方向で競争をさせよ。
 そいつが、市場に入念にばらまかれた贅沢品トラップに引っかかれば、それらプロダクトが摩擦の役を担ってくれて、そいつのエネルギーが我々に一直線に向かってくることを避けることができうる。


8: 肉を絶たせて骨を断つ。世界経済がどうなろうとも、また世界中の庶民の暮らしがどうなろうとも「r≧g」の状況を死守せよ。


9: 「r≧g」こそが我々スーパーリッチの生業のKPI(重要業績評価指標)であり死活問題である以上、経済成長率の良さやら、額面での保有通貨量・資産額に惑わされることなく、冷徹に「貨幣の占有率の維持・拡大」のみを狙え。
 近頃は庶民も資産運用熱が高まっていて「複利」の概念が庶民にまでも知れ渡ってきたが、複利から当然に想定されるべき我々スーパーリッチのような存在(誰よりも長い資産運用の歴史によって複利で異次元のレベルまで肥え太ってきた存在)のことに思い至る人間は、幸いなことに案外少ない。
 そのくらい知的にゆるんでフヌケているのが、庶民(実体経済の民)の庶民たるゆえんなのだろうwww 人間はおさまるべきレベルにちゃんとおさまっているというところかwww
 さらにいえば我々が「複利というカラクリ」との両輪として重視してきた「信用創造というカラクリ」については、庶民どころか学者ですらまともに理解できずに、的外れな言説を庶民にばら撒いている者が多数だ、ときている。なんとちょろいことかwww
 つまり、このままの状況さえ維持できれば、我々の人類支配の稼業はなお安泰であろう。


10: たとえ、額面での資産を増やせたとしても、それと同時に世界の庶民の暮らしぶりが向上しえたとしても、そのことを契機にして我々スーパーリッチの金権支配力に伍するような勢力の伸長を同時に招いたのであれば、それは我々スーパーリッチにとって大きな危機であり、致命的な失敗である。そのような事態は絶対に避けよ。


11:「自由な経済による世界の共存共栄」などという甘い理想にかぶれることは我々スーパーリッチがもっとも避けるべきところである。
 我々スーパーリッチにとって、貨幣保有はあくまで「膨大な数の人間を支配するのための道具」であることを胸に刻み、ときには「自由な経済」という建前をあざむいてでも「我々による貨幣の占有率」を死守せよ。


12: 自由主義経済はほおっておくと成長して、ときに莫大な金を儲ける「ド級の経済的な成功者」を生み出してしまう。
 そしてさらに、そういう人間のうちからまれに「実体経済世界からの上がり≒金融世界へのなりあがり≒スーパーリッチへのなりあがり」を画策する不届きものが現れるだろう。
 しかし他方で、自由経済においてはもともと種々の「景気の波」の発生がさけられないものである。
 それら「自然におこった景気の波」にうまくまぎれこませて暗黙裡にかつクレバーに「下剋上つぶし」の工作活動を遂行せよ。


13: なぜ我々スーパーリッチが「膨大な数の人間を金権で支配し続けなければならないか」については……


 私に聞くな!!www 
 てか、そんな不毛なこと知ろうともするな!!www

 この稼業を続ける過程において、我が家はときに「あくどいこと」もしてきたのだから、いまさら「この権力の座から降りる」ことは安全にできるはずもないのだ。
 我々の身の安全のためにもこの家に生まれたものはこの稼業を続けなければならない運命とこころえよ。
 その点にかかわって、もし「悩みを打ち明け、こころを通わせる友人」がほしいのならば、中華皇帝やら北の将軍様のような一国の独裁者などがちょうどいいだろう。
 いや、まて。中華皇帝はここのところ下剋上ないし我々への挑戦の動きが見受けられるから、とりあえずしばらくは彼に近づくのはやめておけ…。
 

以上

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でさぁーねーーーー!!!

あーーーー、しゅしゅしゅーーーー!!

はぁーーーー!?


おしマイケル♪


ええやん、ええやぁぁぁーん!!!
 

 


ある時代までは(たぶん1980年代かそこら)おそらく「ほぼ全ての庶民が日々仕事をするということに必要性と必然性があった」んだろうと思う。

なにしろ、まだテクノロジーの進歩が今ほどではなくて、今よりずっと労働集約的にしか生活必需品の生産をすることができなかっただろうから。

でも、現代はそうではないはずなんだよね。

現代は、生活において必須のニーズ(生活必需)は種々の技術革新によって、しばしば資本集約的で要求される初期投資が高めだ、とかいうネックはありつつも、かなり低コストで大量に生産されることが実現してしまっている。

もちろん、現代産業社会のようなテクノロジーのレベルにいたるまでは、もろもろのテクノロジーについて、過去「研究開発」やらそのあとの新製品についての「市場開拓」などという「努力」が必要とされたはずであるわけです、

それは当時のリアルタイムにおいては「先の見えないなかでの懸命のプロジェクト」であったはずで、

そういう意欲的でリスクテイキング(不確実性の受け入れ)な営みにたいして「成功した場合の報い」というのは正当化しうるものだし、少なくともそれに出資した人間にはほぼ確実に大きなリターンがあったはずなんですよね。

(※現に研究開発を行った人や、市場を開拓した現場の人達に本当にその努力にみあった報酬が与えられたかは僕はしりません。ほんとうは資本提供者のみならず、現場で頑張った人達に報いがないとおかしいとは思うのですが、当時の常識や法制度などの背景において、彼ら現場の人が成果報酬についてのまともな交渉力を経営陣なりにたいしてもっていたかどうかはかなりこころもとないところだと思われます。残念ながら現実の経済社会では「神の見えざる手」というシンプルな原理より、かなり複雑な政治経済的な権力関係こそが、賃金やら報酬をふくめた「対価≒価格」を決定してしまっているようですから、そういう不条理があっただろうことは容易に想像できてしまいます。)

そういう場合に、資金提供をした人間に報酬(リターン)を与えることは、その額の多寡やら分配割合はなお問題になるかもしれないながらも、今なお正当化されうるものだと思うわけです。

しかし、現代社会でそういう「質実剛健なテクノロジーの進展」なんてのは、僕が思うにダーパにおけるインターネットの開発(※ちなみに、これは公的機関によるもので、民間の私的な資金提供者へのリターンとかが関係なさそうなもの)以降、ほとんどおこってもいない。

(※昨今、期待が高まっている生成系AIのなどは質実剛健なテクノロジーに列せられる可能性がありうると思われますが、まだ社会実装とか普及の途上にあるので、もうちょっと先をみないと判断できないところかとも思います。僕が思う一つの可能性としては生成系AIがブルシットジョブを本格的に明るみに引き出して、その虚妄を駆逐する、というような効用を発揮することは期待できるにしても、それは「もともとも蜃気楼のようなものとしてあったものの虚妄さを明るみにして駆逐した」だけで、社会的なマイナス部分をゼロないしニュートラルにもどしたというようなことでしかないともいいうると思うわけです。もしその程度のことで終わるものだとしたら、インターネットというテクノロジーと並び称するにはちょっと足りないような気もします。ただ、生成AIがアクチュエーターであるところのロボットなりとうまく融合できた、かつIoT的に普及もするのであれば、それはそれでインターネットも真っ青の「質実剛健なテクノロジー」を現実化するという大逆転劇もありうるとは思ったりもします。)

たとえばアイフォンなんかは、機能的にみればむしろ、既存のテクノロジーであるインターネット技術と高性能の端末装置と洗練されたデザインというのもをうまく「調合」して生み出しただけの「調合の妙による麻薬的なガジェット」という程度のものであり、アイフォン固有のテクノロジーの開発はそこにはあっても微調整程度のものだとしか思われません。

さらには、今のところ麻薬にはまだまだ大きな副作用が伴うのとおなじように、

アイフォンが人類の幸福の増大に貢献したかといわれれば、冷静にじっくりと検討するならば、きっと多くの人が疑問符をつけるところなんじゃないだろうかと思うわけです。

たしかにアップル社は、アイフォンなどの製品・サービスを介して人類に広く「新しい文化」を普及させたんでしょうけど

マーケット原理主義的に「自由市場という空間においてそれが広く需要されたという以上、それは消費者の幸福を広く増やしたとしかいえないのだ」とかいってしまうのだとすれば、

それは、副作用のいまだおおい麻薬が「法規制しなければ簡単に普及してしまう≒バカ売れしてしまう」ことと比較してみれば「まあそれは詭弁だよね」ってなことになるはずなわけです。

それの対極にあるものを考えてみると、たとえばエンジンなどによる非人力のポンプなどの発明は「麻薬的(≒精神的たぶらかし)というのでは足りないほどの、確実に機能的ですごい便益を社会にもたらした」と納得できるものだと思うわけです。

近代以前の上水道は「微妙な傾斜を維持するというたいへんに精密かつ大規模な土木工事」を要したらしい。

つまり、そういうインフラ整備がかなわない地域では、身近な水源に恵まれていなければ、わざわざ「川やら泉やらの水源地まで水を汲みにいかないといけな」かったはずなんですよね。

しかし、ポンプによってそれぞれの箇所でミクロに「水圧による水流」を生じさせることが可能になってから、そういう「水汲み仕事」から多くの人が解放されることにもなった。

(※もちろん、現代に許容されるレベルの上水道は、そういう水の移動の弁のみならず、水の質のほうも保証されていないといけないはずのものなので、厳密には、上述のポンプの発明のみにささえられているというのではなくて「水の処理の技術+ポンプの技術+配管における技術=上水道」ということにはなっているとは思われます。)


さっきもいったように、人間という生物においての「基礎的ニーズ・みんなに共通するニーズ」というのは、かなりの部分「だいぶ効率的に満たしてしまうテクノロジー」がすでに出来上がってしまっていて、

端的にいってそういう共通の基底的ニーズにおいては「ほぼほぼレッドオーシャン(開拓がほぼされつくした競争の激しい分野)」であるはずなわけです。

なにしろ、生物なんて遺伝子的には「何十万年でやっと別の生物種とされるくらに変わる」程度のものあるはずなので、それは人間のスパンから見て大地がほぼ固定されているとみてかまわないのと同じように対象・標的がほぼ固定されているといっていいようなものである以上、それに対する研究開発もどんどんフロンティアを狭められていくのが必然なはずだからです。

である以上、企業に大金を出す人(※以下、便宜資本家と呼称します)に対してはほとんどのばあい次のようなことがいえるはずなんですよね。

「彼ら資本家による社会貢献の度合というものは、テクノロジー進展による社会貢献が飽和・鈍化するにつれて、どんどん少なくなってきているといっていいはずだ。であるならば、彼ら資本家が受けるリターンというのはその分昔よりも減っていて当然であるはずだ。」

ということです。

ですが、現実はどうでしょうか。僕は専門家でもないので、かなり雑な状況証拠的なものの提示にはなってしまいますが、

むしろ現代社会は「資本家・金融家」こそが「わが世の春を謳歌している≒強欲さの放縦の一つのピークを迎えている」ような時代になっているのではないでしょうか?

エッセンシャルワークがますます安く買いたたかれる方向に流れる一方で

(※とはいえ、それは日本の政治がいまだに世界では周回遅れの思想である「ネオリベラリズム≒小さな政府論」を後生大事に実践しようとしているというところに起因するものであると思われるので、かならずしも先進諸国に共通の現象ではないかもしれません。あえていうと“まともな政策をしている国”であれば、エッセンシャルワーカーにたいしてはそれなりの規模の財政出動をしてでも、まともな賃金を維持する努力をしているはずだ、ということです。)

株価だけが「何年ぶりの高値」とかなんとかで、加熱している…。金融界だけが不均衡にもぶっちぎってしまっている…。

そういう世情をみてみるだけでも、すでに「資本家はその本来の役割・貢献というものを度外視したような不当に多くの富を分配されている」という構図が浮かんでくる。

よくいわれることですが、ネオリベが新古典派経済学ともよばれる以上、つきつめるとその源流には古典派経済学の祖ともいわれるアダム・スミス先生がいらっしゃるといえるわけです。

そして、そのアダム・スミス先生はたぶん自分のことを「経済学者」ではなく「倫理学者」と自認しただろう点をふりかえる必要があると思うわけです。

もちろん、アダム・スミス先生が近代経済学の祖である以上、たとえていえば「イエス様はおそらくキリスト教なる言葉を知らなかった」というのと同じように、

そもそもアダム・スミス先生のころにはまだ経済学なる言葉が確立すらしていなかったということはあるのでしょう、

でも、そういうところを差し引いてでも、現代のドライな経済学とは一線を画するような「庶民に対する思いやりまで込めた理論」みたいなところをアダム・スミス先生は目指したんじゃないかと思うわけです。

なにせ先生はあくまで「倫理学」を探究する過程において、のちに経済学と呼ばれることになる学問分野を掘り出したというのが事のなりゆきであったはずだからです。

んで、ひるがえって今の「資本家が付加価値が形になったところの金銭リターンのかなりの部分をもっていってしまう」ということについて、アダム・スミス先生はどういう評価を下すだろうか、ってところを考えた方がいいと思うんですよね。

まぁ、素直に考えればそのような「たいしてまともな社会貢献もしえていないような企業活動からも、大金のリターンを得ている、などというのは、正当化されえない」とおっしゃったんじゃないかとしか僕には思われないわけです。

えー、「資本家へのリターンがさすがに多すぎる問題」にやや文字を費やしすぎたようですが、

ここらでやっとタイトルの伏線回収みたいなことをさせてもらうと、

僕らがなぜ現代という人間共通の必須の需要のほとんどが相当に効率的かつ安価に満たされうる時代において、

なお日々の糧について「働かざる者くうべからず」などという言葉がリアリティをもってしまうほど、日々働かされ続けているのか、といえば、それは

「資本家が華々しく人類の便益を現に増していた“栄光の現役時代”ともいうべき時代は既に終わったにもかかわらず。彼ら資本家はその現役時代に社会発展のリーダーとして獲得しえたところの地位・権力をフル活用しつつ、既得権を維持・拡大し続けようと画策しているがゆえに、つまり彼らが過去と同じく世界の支配者の地位に居続けるという企みのために、僕ら庶民がその“肥やし・ダシ”となって不条理にも日々働かされている。」

ということでしかないはずなんですよね。

いいかえれば、往年の活躍のために、富も心も肥え太りきった「資本家・金融家」にむけて大いに「貢ぐため」にこそ、僕ら庶民はよくよく省みれば不必要というべきほどに日々働いているということなわけです。

ちなみに、タイトルでは「やりたいことが、わからない人にたいして、それに対してやる気も出ないような仕事をすることを事実上押し付けること」の問題を提示しましたが、

実はより深刻な問題は「やりたいことがわかっているが、それがすぐには仕事に直結し得ない人に、やりたいこととは別のやりたくもない仕事をすることを強いる」という問題の方であるということはお断りしておきたいと思います。

もちろん、僕ら賃金労働者の働きの一部は確実に、労働者としての僕らの賃金という形であったり、また消費者としての僕らの効用の増加として分配されてはいるわけで、全部が全部資本家に貢ぐために僕ら庶民が働かされているとはいえませんが、

それでも、資本家・金融家はその貢献度合いは相当に引くにも関わらずに極めて不均衡な割合の分配をかっさらっていっているわけで、そこを直視しえたらおそらく多くの賃金労働者は「こんなに日々働かされているのはアホらしいぜ」としか思えないはずだし、

そういうふうなことに気づく庶民が増えれば、とうぜんに「破たんするはずのもの・破たんすべきもの」であるはずなわけです。

また、その資本家・金融家への不条理なほど分配割合もさることながら、僕ら庶民が「社会が必要な財サービスの量を検討する≒社会が必要とする仕事の量を吟味する」という反省・検討をまったく経ることもなく

まるで万有引力と同等のルールかのようにいいくるめて「日々働き続ける≒働かざる者くうべからず」というところまで強いられているのは、

あきらかに「資本家・金融家の既得権力の維持のため」としか説明できないでしょ?ってなことであるわけです。


仮に今だに「セイの法則≒作られた分はその値段がどうなるかはともかく必ず需要される」が成立しているとデータ実証的にいえる状況にあるなら「とにかく生産が多すぎることはないのだから、必要量などを考えるまでもなくなるべく生産せよ=働け」ということは一応なりたつでしょうが、

でも「食品廃棄問題」一つとっても、そんなものはもはや成立もしていないことは誰の目にも明らかであるわけですよ。

だというのに、いまだに「とにかく働け。とにかく生産せよ」という経済観念を維持してしまっているというこの現代における現実はまさに「バカバカしいにもほどがある」としか言えないものだと思います。

ちかごろ日本では、若者の論者を中心にして、少子高齢社会のさらなる進展を嘆きつつ「老害」なる下品なことばがたびたび使われてしまっているわけですが、

「日本における老害」などというものをどれほど強引に誇張しようとも、

上で説明したところの「資本家・金融家がすでに社会貢献をまともにしていないのにもかかわらず、過去の支配権・地位を維持・拡張しようとする向きでの強欲さを発揮し続けることの公害」などとはその規模においても害悪の深さにおいても、比べるべくもないちっぽけなものだとしかいえないんじゃあないでしょうか?

同じ同胞で同じ庶民層でもある「我が国の多くの高齢の方々」へそういう下品な言葉を吐く時間があるのなら、

まずは、現代においてもはや社会にまともに貢献をできてもいないくせに、不釣り合いにも実体経済から生み出された付加価値の大半をかっさらっていくというクズなやり口を今だに続けている「腐れ資本家・金融家」とういあり方をこそ批判すべきなんじゃあないでしょうか?

(※「大半をかっさらっていく」ことを実証的に検証なさったのが、トマ・ピケティ先生の手になる「21世紀の資本論」というベストセラー本です。そこで有名になった不等式に「r>g」というものがあるわけですが、それを経済素人である僕が素人なりに雑にいいかえたのが「資本家・金融家が付加価値の大半をかっさらっていく」という表現にあたるというわけです。)

さっきは僕はアップルを批判しましたが、アップル社はそれでも一応「実体経済のプレーヤー」である以上、資本家・金融家の腐れ具合とくらべるならばその問題性は「とてもかわいらしいレベル・お子様レベル」くらいにしかえないものです。

僕はまず経済社会の構造を「金融界⇔実体経済界」というふうに分けるわけです。

んで、その「腐り具合」をいえば「金融界の腐り具合は、すでに実体経済にもどうしてもある程度波及はしてしまってはしているけど、それはなお全然レベルが違う」としかいえないと思っているわけです。

ちなみに、僕がこの記事で批判の的としているところの「資本家・金融家」というものは、だいたい日本の国家予算の一年分前後くらいを越えるオーダー(規模感)の資本家・金融家を指しているのであって、

たとえば「金持ち父さん」という本で登場するような「自力で一代で資産を築いた、金融市場のたたきあげのビリオネア(10億長者)」みたいな人すら対象にはなっていない用語法において使っているものです。

100兆とかそのオーダーの世襲的な“狂人的いじわる”たち(資本家・金融家)が、自分たちの営みの正当性のアリバイのために下々の人間にやらせているだけの「オープンな金融市場」という「原則、無理ゲーでしかない空間」において、

法を犯すこともなく、10億レベルの資産を自力で築いてしまったその「有能さと努力」を断罪してその富を否定してしまうことなんて僕らに倫理的にできないと思うからです。

なので、僕のことを「10億程度の資産を持つだけのたたきあげの金持ちすら敵視するような血の気のおおい共産主義者」とかとだぶらせて理解することはどうか勘弁してください。

さらにいえば、僕は100兆レベルにいる現代の世襲的な「資本家・金融家」の「やらかしている経済的悪行だけが憎い」だけであって、もし将来において世界の経済システムがまともなほうに改善されて、彼ら資本家・金融家がそういう「全世界大迷惑の非違行為」をもはやすることができなくなりさえすれば、

彼らのことを、たとえば身体的に責苦にあわせようとか、さらには殺してしまおうとか、そういうことをしてしまおうとかも全然思っていません。

社会を本当によくしたいのならば、僕らは「浅はかなヒロイズム」に自分を委ねないように慎重に自戒しつつ、

「とにかく敵は人ないしプレイヤーではなくて、あくまで“システム・仕組み・ゲームそのもの”のほうだ」

ということを堅持しないといけないと思います。

経済社会の改善にかぎらず、社会を善くするためにはこの規範・自省ははずせないと思うわけです。


情念にまかせて(己の浅はかなヒロイズムにまかせて)下手に属人的なところに社会悪を帰属しきってしまえば、たんに席に着く人がかわるだけで、悪いシステムが未来にもそのまま温存されてしまうというようなまさに「もともこもない」ことにすらなりかねませんからね。

えー、だいたいタイトルで示したことの説明も終えられたと思うのですが、

「それでは、お前はこの課題を実際にどう対処すべきというのだ?対処法もないまま文句をたれているだけか?」と思われるかたもいられるかと思うので、一応そのへんについてかかせてもらうと、

それは「ユニバーサルベーシックインカム」による「恒久的でかつほとんど時の為政者の恣意をさしはさまない機械的な富・貨幣の再分配。そしてそれによる実体経済における貨幣のよどみない循環がほぼ保障されるというビルトインスタビライザー(内臓された安定化装置)」というところを主張させてもらいたいです。

(※ちなみに、後半の「貨幣のよどみない循環」というものをさらに確実にするためには、仕組み的な「腐る貨幣」というものが必要だと思います。僕がまとまった論としてそれを知ったのは苫米地英人先生が提唱なさっていた「半減期通貨」というものです。たぶんですが、インフレ率が数パーセントあった方が景気がよい、というマクロ経済的な経験則は、事実上「貨幣の購買力が少しずつ目減りする≒少し腐る」という効果がそこにおいて働いているからではないかと僕は勘ぐっているところです。ただし、インフレでまず苦しむのは賃金労働者なので、高インフレが社会功利的な正当性をもちうるのは、おそらくベーシックインカムのような最低限の所得保障が腐る通貨導入のまえにはどうしても必要とされると思うわけです。僕は近頃この二つを“セットではじめて社会をよくできるものかもしれない”と考えていたりします。)

あ、当たり前すぎて挙げるのわすれていましたが、ユニーバーサルベーシックインカムの庶民の方から見た筆頭の効果はいうまでもなく「生きるためだけに日々の労働を強いられる、ということはない」というところにあります。

そのへんはまさにこの記事のタイトルに直で対応している効用であるわけです。

さっきあげたのは、それを当然のこととしたうえでの「それによって社会経済システムがどう調和・均衡するか」というような側面についての説明であったわけです。

とはいえ、まだこの説明は雑すぎて穴だらけだと思うので、また別の記事でまとめて立論することを期したいと思います。

今日はこのへんで

では。
 

----【検索のためのキーワード】---------


〇「ブルシットジョブ」

〇「知識基盤社会」

〇 創造性のカギとしての「暇と退屈」(⇔効率主義やガンバリズム)

〇「週休3日」ないし「一日3時間労働」

〇「ケインズの予言」

〇「ユニバーサルベーシックインカム(BI)」

〇「食品ロス」または「衣料廃棄」(≒過剰生産状況)

〇「記号的消費」(⇔機能的消費)

〇「14番目役」

〇「スペンディングファースト」または「税は財源ではない」

〇「信用創造(⇔貨幣のプール論)」

〇「国債の発行上限はインフレ率」

〇「政府の借金は国民の資産」

〇「r>g」(※資産運用による富が労働で得られる富に優越するという狂った現実のこと)

〇「時間泥棒」(from ミヒャエル・エンデ「モモ」)


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えー、僕が今のところタイトルのテーマとのかかわりで思いつくキーワードというのはだいたい以上のようなものです。

大事なキーワードをすでに何個も見逃してしまっている気もしていますが、気づいたものがたまってきたら、また今回の改訂版を書くつもりです。

もしよろしければ 「レッツら検索!!」

ってな、ことで今日は一時期テレビCMでもよくみた記憶の「各自のネット検索へまるなげスタイル」でしたぁ~。

CMのその手法はあくまで「広告費の圧縮」ということであったのでしょうが、この記事は無料のブログ上のものですのでそういう合理的な理屈のなりたたない「ただの手抜き」という要素が隠しきれませんwww

大胆な「手抜き」をしちゃってすみません (てへぺろ)

それではまた。


こういう一見バカバカしい立論ってのは、たぶん経済の専門家先生は逆立ちしてもできない(というよりそんな恥かしい暴論は専門家の矜持にかけて絶対ぶつことはできないってことでしょうけどね…)はずなので、

あえてど素人である僕がそういうことをやることの必然性はあるかと思いました。

9割9分9厘「初見の印象どおり、いくら吟味しても観るべきところのない、バカバカしいだけの内容だった」ということになるオチがつくのだろうことは想定の上で、

あえてトリックスター的なやくわりをこの記事では(勝手に)買って出て思考の拡散を実演してみたいと思ったってわけです。

トリックスターとは場をかき乱すキャラクターのことらしく、そのキャラが自力・単独でなにか正解とか最終結論とかを直接出すわけではないようなのですが、

場の停滞に揺さぶりをかける感じで、やや暴力的ながらも、事の進展を促す効果をもつ「触媒」みたいなものらしいです。

下手の鉄砲かずうちゃあたる、とかいうことわざがあるようですが、僕の今日の記事も「社会で暴発する多数の弾のうちの下手の一発」になれれば、まぁ「数の母数の一部」になるはずなわけで、

停滞しているようにしかおもえない日本の経済むけての政策論での「集合知のアプローチ」における「大群のうちのザコ一匹」にでもなれたらというつもりでいこうと思うわけです。

僕みたいな無謀で果敢な素人がなした立論のどれかが、なにかしらの議論の進展のための材料として「ヒット(あたる)」ことになればそれでわるいともいえないことじゃないか、と予め自己弁護したいと思います。

ひとつではヒットにもならないかもしれないけど、他のだれかの立論との合わせ技で有効を勝ち得るかもしれない。

まぁ、そんな「個々人のやっていることはゆるいけども、束になれば…ね!」とういような分散的な知の営みを念頭におくのも、あながち時代をよみ間違えてはいないようにも思います。

そういうところを狙うつもりで、ド素人の拡散思考をやるというのが今回の記事の目論見ですので、そのへんのところをあらかじめご理解いただいたうえで読んでもらえればと思います。


---【本題】-----------------------------

資本主義と社会主義というのが80年代くらいまでの政治体制における二大思想だったようです。

80年代の後半あたりから、ソ連のくもゆきがあやしくなってきて、90年代にはいってしばらくして結局は崩壊してしまうことになって以降は、

「(政治経済的な)歴史の展開はすでに終わった。あとは資本主義が永遠に続くはずだ」とかいう「歴史の終わり論」みたいなものさえ脚光を浴びるという時代にはいり

「もはや資本主義しかない」という空気はそれ以降、先進諸国の基本線になってきたといってよさそうです。

でも、ソ連崩壊以降、ますます「金こそが世界の回転の中心」といわんばかりの金権支配の増長が、ぼくら庶民を経済的にじりじりと抑圧していくという流れにおかれるにつけ、

いち庶民としての僕はそういう生活者としての実感をふまえると「資本主義って自由主義ヅラしているけど、現実やってることは、そうでもなくないか?」というマルクス先生の時代以来の疑念が僕のなかで再燃してきたんですよね。

とはいえ、冷戦やソ連崩壊後ますますあきらかになった社会主義の庶民抑圧の事実や、また日本での社会主義者・共産主義者の一部が起こした一部の過激な暴力・破壊行為などの過去の事実をふまえると、

時代経験的に現代人としての僕は「資本主義を消去法でけすので、残った肢である社会主義を選びます」というふうなおもいきった判断もできなかったわけですよ。

そういう「なんだかなぁ」という宙ぶらりんの状態にいるような感じがしていたのが長く続いたのですが、最近ふと思ったのは

「そもそも“資本主義か社会主義者か”という二択ないし二項対立に問題を限定することに必然性はあるのか?僕らはこの問題設定にフレーミングされることで何か大事なとこを見落としたまま思考をミスリードされてきたんじゃないか?」

ってなところであったわけです。

なにしろ現代を生きる一庶民の僕の目には「資本主義的な観念に基づいた企業の動きや、政府の施策が、むしろ実体経済の活力・活性を助けるどころか、むしろ実体経済を不当に毀損したりしているようにしか思えない」というような事柄がいくつも生じているように思えて仕方がなくなってきたんですよね。

つまり、いってみれば「資本至上主義VS実体経済主義」というような、これまで教科書で教わったパラダイムでは「ナンセンスだ」として一顧だにされないだろう別の構図が僕のなかで浮かび上がってきたわけです。

さすがにこれでは字面的にもナンセンス臭がプンプンしすぎてきびしいところがあるので、説明のためにも「資本至上主義」というものを思い切ってここでは「金融(金めぐり)至上主義」といいかえさせてください。

もちろん経済学的には「資本」というのは「お金そのものとうよりは生産手段・生産設備のことである」というのは僕も読んだことがあります。

なので経済学的にいえばこの言い換えは「きべんにちかい」と一蹴されかねないものだろうとも思うわけです。

ですが、強引ではありますが、今回の僕の立論の説明の便宜上、とりあえずこの僕の「強引な言い換え」にのってもらいたいわけです、なにしろ僕の思考はそういうふうに流れたので、

それをそのまま表現しないと僕の今回の立論をまともにお伝えできそうもない…。

あるていどの数の方には「なるほど最初は詭弁だとおもったけど、その立論はたしかに現実の経済現象に接地しているなぁ」と理解してもらえるのではという期待も僕にはあるってことでもあります。

えー、ともかく僕はそこで現下の資本主義というものに対抗するものとして「実体経済主義」という言葉を着想したわけですが、

その意図をより簡単にいえば次のようなことです。

「金のめぐりというものは本来、実体経済の健全さや成長に貢献することにその存在意義があるはずだ。それはただの観念的なべき論というより、もしその関係が逆転してしまっていて“金のめぐりこそが実体経済に優越し、それが実体経済のあり方を指図する”とかいう倒錯した状態になっているのであれば、そんなシステムは、それによって不利益を被る多数の人民による反対票によって廃されるべき運命のものでしかない。そのような、背理法的なプロセスを経てでも結局は、否定されることになるしかないはずのものである。」

さらにこのことを短くフレーズ的にいいかえると

「金のめぐりは、あくまで実体経済の部下でなければならず。決して実体経済のボス(上司)であってはならないはずだ」

みたいなことであるわけです。

そして、現実に今の世界でネオリベラリズムのやっていることを僕は「金めぐり至上主義の実践」だとしか思えません。

彼らネオリベラリスト達は自分のことを「資本主義の一派」と自己理解しているのかは知りませんが、まぁ社会主義ではないことは明らかだろうということこからすると、さっきの伝統的な二項対立にのっとって消去法でいえば「ネオリベラリズムは資本主義の一派」と把握したところで、多くの人にとって異論はない把握かと思います。

というわけで、少なくとも現在の政治経済思想の現実のプレゼンスという意味で圧倒的なものをもっているネオリベラリズムを「資本至上主義の現在における代表」とみなすのであれば、

僕がそれへのアンチテーゼ(対抗する考え)としてもちだしたいのが僕の造語であろうところの「実体経済主義」であるわけです。

そこでの発想というのは、さっきの内容をちょっと変えて繰り返すだけにはなりますが次のようなものです。

「お金のめぐりなどというものは、実体経済という主役にとっての黒子であるべきだし、そうでしかありえなくない?なのに、なんで黒子の方が主役の首根っこ捕まえて、いいように抑圧までしているの?これって立派な倒錯じゃない?」

僕らは「金融というものの驕り高ぶり加減」とそれによりもたらされている事実上の「人類(≠世界庶民)へ広く発揮される不条理な支配力」というものにもうちょっと意識をむけないといけないと思うわけです。

僕はそういう向きの警戒感をこそ叫びたいわけです。

ところでそういう向きの警戒感というものを、より実践的に、それを日本経済にあてはめてみると、たとえば次のような主張に帰着しうるかと思います。

〇 「このままでは日本国債への市場の信任があやうくなるから」とかいう“ゴリゴリの金融至上主義的な発想”を叫ぶ前に「日本の実体経済の潜在生産余力はいかほどか?また、それを最大限発揮させたり、将来的に伸ばすためのタネをどうまいていくか?」のほうを懸命に考えるべきだ。

 また、今のシステムのままではどうしても「海外投資家を中心とした日本国債への信任の毀損が、実際に日本の財政危機と経済危機をもたらす」という公算が高いというのであれば、それこそそういう「意味不明に金融に対して脆弱な現下のシステム」こそ喫緊の改革課題とすべきだ。

 なんなら、トランプさんみたいに「自国の実体経済のためなら、保護主義要素も上等、IMFとのいくぶんかのケンカも上等」というくらいの気合いをもって「金融に決して主導権をにぎらせはしないシステム」というものを実現していくような方策の検討をすべきだ。

 生産活動のために外国からの資金がどうしても必要な金欠の国ならまだしも、日本人の個人資産の溜め込み総額は世界トップランクらしいじゃないか。なら、金融的に事実上鎖国となっても他の国はいざしらず、日本ならそれがために破綻することもないという余地だってありそうじゃないか?

 なのに、なにを外国資本の顔色をうかがってビビッているんだ?なにかへんな奴に変な思想でもって洗脳でもされたのか?



〇 「金融を悪者のようにして叩くことは、お前の老後の生活の首を絞めることになるぞ?金融の多くの部分を各種の年金のための基金が占めていることをお前は知らんのか?」とかいう向きの主張にたいしては、

 「ん?そもそもなんで年金という金融サービスを利用することで老後資金をまかなうべきということになってるわけ?それこそ既存の資本主義の標準セットメニュー施策を無批判に受け入れたから老後の生活の資金は年金給付で賄うのが基本だ、ってなってるだけじゃないの?国の財政出動でそれをまかなうってのはありえないって勝手に思いこんでいるだけじゃないの?

 立派な論理みたいに言い張ってるけど、それって結論から出発して結論にもどっているだけの循環論法みたいなもんじゃないの?

 “国の責任では国民の老後の最低限の面倒を見ることはしません、資本主義とはそういうものなので老後資金確保のために金融システムを介さないといけないということについては、仕方のないことだとあきらめてください”とかまず決めちゃったからこそ年金という金融的サービス(ないしシステム)を利用せざるをえないという庶民の適応行為がひきだされているだけじゃないの?

 中国での僕と同じ階級である中国庶民の人達が「上に政策あれば下に対策あり」っていうようなこととそれは根本的には同じことなんじゃないの?

 たとえば、年金という掛け金ありきの金融サービスではなくて、一定以上の年齢に達したことによってあとは無条件にそれらの国民にベーシックな消費のための資金を国から毎月振り込むって施策をしたら、それは本当に資本主義にまっこうから反するというわけ?
 
 もし、それが資本主義という定義に反するといえるとしても実際にどうそれがどう社会を悪くするというの?そこを考えもしないで、既存の資本主義のデフォルトメニューを無批判に受け入れて、循環論法的な思考をしているだけのくせに“だから年金のためにも金融システムの存続が必要なんだ”とか正当化根拠のように主張するっていったいどういう次元の知的怠慢なの?」

ってな感じに僕は思うわけです。

ちなみに、以上の説明はどっちかというと「資本至上主義≒ネオリベ」に対抗するという構えのうえでの説明でしたが、

そういう思想的な仮想敵を横目で意識することなく、自律的・自足的に「実体経済主義」というものを表現させてもらうのであれば、たとえばこんなかんじだと思います。

「より多くの人が、のびのびと自分の能力を発揮して生産活動にいそしみ、またより多くの人が自分の選好のままにのびのびと財・サービスの消費を享受する」

みたいな感じです。

逆から言えば、僕は社会がそういう理想状態を目指すことを、今の「金回り至上主義」が「立派に妨害しているように思えてならない」ということであるわけです。

ところで、僕はとりあえずその「実体経済主義」というものを運営ないし擁護しうる有力な候補として「国家」を念頭においています。

ただし、まだ理論的にいって「なぜ国家単位である必要があるのか?グローバルではだめなのか?」という問いに僕はまともにこたえる用意がありません。

とりあえず言えるのは、現下のネオリベラリズムは金権グローバリズムの思想的バックボーンとなっているようで、両思想・実践はグルになって各国の実体経済に妨害とかの迷惑行為を働いていると僕には見えるということであるわけです。

「未来永劫、国家のみが実体経済をまともに守護しうるのだ」ということではないかもしれないけど、少なくても現在においてまともに実体経済を擁護しうるのは国家くらいだろうとしか思えないという現下の現実的な状況判断を込めた上での判断であるわけです。

未来には「実体経済をまともに擁護しうるグローバリズム(国境越境的な大きなシステム))」というのもないとはいえないかもしれないので、そのへんの理論的な検討はなおされるべきだし、されていいとは思います。

あくまで「国家は手段だ」というつもりでしかないので、僕のことをへんに曲解して「タコっすはどうやら国粋主義者らしい」とか誤解しないでもらいたいです。


えー、誰かにアピールしうるものか響くものかは、わからないなぁとか思いつつ書いてみたのですが、

少なくても「今の僕」にはアピールする内容なので、僕という一匹のホモ・サピエンスにおいてのバイオロギング(経験記録?)的なものとして、個人的な意義はあるかなって、くらいのところです。

もしかしたら、将来の僕が「あの記事は赤っ恥な無知丸出しの内容だった」とか顔から火を噴くいきおいで反省しているかもしれませんが、

まぁ、そうなったらそのとき目いっぱい恥かしがるしかないでしょうwww

いまから将来の恥を心配して縮こまっているだけよりは、まぁのびのび考えている方が生き方として得な気もしますしね。

では。
 



そこには、形はなく、もやっとした闇だけがあった。

もやっとしていてつかみどころが全然ないのだけど、

ともかくそれは

「完全に充足したワンネス」(※1)ではあった。



しかし、あるとき、主(※2)は次のように言われた。

「痛みあれ」。



もやっとしたワンネスのうちから

「痛み」がもろもろの

「形・かたち」を切り出しはじめた。



ちなみに「光」とは別に特別なものではなく

ましてやすばらしいものでもなんでもなく(※3)

「痛み」というワンネスに向けられた

数ある切り出しのメスにうちの

最後発の道具ないし方法論・戦術であった(※4)。



最後発とは最新ということでもあり、

「最新かつ最災難な責苦の道具」ですらあったといえる。




主は「痛み」を産んでその存在意義を満たしえたので

あえてその手で直接「光」を産むなんてことはしなかった。

主はそれを直接産む機能を持ち合わせていないかった。



光とは「痛み」がその存在意義を満たすおつとめの過程で

生み出しただけの一要素だった。



ともかく「痛み」は

より複雑に「形・かたち」を産むべく

いろんな暴力的な手段・道具を編み出した。



そして、ギリシャの神話のあのお話のように

最期には「希望」を編み出した…。




とか「ゆるふわでエモい」ことも言いたいところだけど、

そうは問屋がおろさない。



「痛み」には「形・かたち」を産み続ける

という存在意義の内に充足しているので

それは「痛み」にとって「全くの管轄外の事柄」であった。

“アウトオブ眼中”だった。




というわけで「希望」とは

客体である「形・かたち」のうちの

「意識なるめいわくな最新の責苦」を

あてがわれた存在であるところの

ホモ・サピエンスが

自らの存在のなぐさめのために

妄想において編み出したものでしかなかった。




もしくは「痛み」を被りつづける客体が

痛みを被ることを最小化しようと動く傾向性

の「意識のおける反映・表現」でしかなかった。



そのようにしてついに「ワンネス」は

地質時代区分でいうところの更新世の後半あたりには

自分を表象し存在確認してくれる「他者」というべものを得ることになった。

つまり「世界」という形が「人間の意識の表」という場においてはじめて成立した。



しかし「ワンネス」はそれ(認識してくれる他者)を望んでいたのか?

いや、たぶん「ワンネス」とは「痛み」とは無縁の

完璧な自己充足なものであり、

そうである以上「ワンネス」には

「望む」という機能は付いてもいない。

ワンネスはそもそも「動詞」を従える主語の位置にはおさまりえない。




なので、さっき説明した「希望≒虚妄」と同じく

ワンネスにとって「望み」などという機能は

ただの「ナンセンス」でしかありえなかった。




「不足」が一ミリもないならばそこに「希望」は成立しえないが、

ワンネスはそもそも完全自己充足の有様のことなので

ワンネスが何かを望むということこそ

概念矛盾でしかないからね…。



というわけで、世間・世界とは虚仮(むなしい)ものであり、

未来永劫そうありつづけるしかないものであった。



えー、以上の

「ずっと昔からの当たり前のこと」を踏まえておけば、

へたに希望の炎を燃やすのもバカバカしいから

無駄な争いをする元気(蛮勇)がすり減るよね?



安定的な世界平和とはたぶんこういう「妄想ではなく事実の方に接地した、ウツ的ともいいうるような認識」からしか生まれない。


カント先生は「物自体は知りえない」という「ウツ認識」までたどりついたのはよかったけど、

そのあとなにを血迷ったか「私は理性の崇高さを信頼する」とかいう乗りを出してきて、ロマンチックな理論を別にこさえてしまった。(≒実践理性批判)

まぁ、時代的にいって、内面的にも社会的にも既存宗教とガチンコのケンカをする気にはなれなかったんだろうね。

後の時代の常識で過去の人を裁くのは「現代左派のトレードマークの悪ノリ」だと思うので、他山の石として自戒しておこう。



ともかく

みんながそれなりのレベルの「真実というウツ要素」を

共有しえたら、世界はそのぶん平和に近づく…

たぶん、ね。



めでたし、めでたし。




------(注釈)-----------------------


(※1):充足したワンネス

「充足したワンネス」だけが存在の名に値して、あとは虚妄という言いかえもできるかと思います。ただし、僕は一人のただの凡夫として、不変・普遍の存在であれば「ありがたい」とかおもう筋合いも別段感じないので、ワンネスがそのように破格の実在であると表現できるからとかいって「ワンネスこそ素晴らしい」とかも全然思えません。ただ生にまつわる責苦をなんとか回避したいだけです。人間だものぉ~(≒実存主義)。

 また「充足したワンネス」という認識は、たぶん古代インドのウパニシャッド哲学の「梵我一如」とも通底しているところだと思います。

 けどここでウパニシャッド哲学は「我(アートマン)」の実在と「凡(世界)」の実在をともに前提しているわけですが、この僕の記事では「我は痛みが生み出した幻想」で「世界も我という幻想が表象するまぼろし」という理解となるので「一如」という「ケンカしないでいい」という結論は同一ながらも、

その理屈が結構違うといえば違います。

ただ「ケンカすべきものではない」という点では共通しているので、結構近しい認識だとは思います。

僕は素人なので、専門家の先生に「おい、こりゃ!!でたらめいうな!」と怒られそうだとは思いますが、このウパニシャッド哲学における認識枠組みと僕の記事の認識枠組みの差異というのは、そのまままるっと「お釈迦様のてになる思索」に対応していると思われます。


(※2):主

 僕の考えではこの「主」というものはいいかえれば「遺伝子」です。まぁ、僕の考えというよりはドーキンス先生の提唱された「生物=遺伝子にとっての使い捨ての乗り物」という思索のただの受け売りですけどね。

 ちなみに、この記事本文では「客体」という言葉もしれっとつかっていますが、それはそのドーキンス先生の手になる命題にそった用語法であり、つまるところ「生物個体=遺伝子様というご主人にとっての客体」というようなニュアンスをこめているわけです。

 ところで、この「生物とは遺伝子の使い捨ての乗り物」というのは、視座は違うとはいえどこかしら「肉体は悪魔のもの」という観念をもつらしい「マニ教」と似通ったところがあるようです。

 もちろん、僕はドーキンス先生がマニ教に影響されてその理論をつくったのだろうとか、ヘンテコなことを言おうというつもりはありません。

 そして、僕もこの記事で「マニ教の言っていることが正しい」とか主張しているわけでももちろんありません。

 なにしろマニ教のその世界把握の構図を正しいとするならば「正なる神」もまた観念しないといけないはずなのですが、僕の上記のジェネシスにはそういうような役者は必要ないどころか、両立もしないからです。



(※3):光とはすばらしいものでもなんでもなく…

 これについてはロックバンドBUCK-TICKの櫻井さんが「細い線」という僕が心酔してやまない名曲において見事な表現の妙なるコンボをお決めになられています。

 バンド名と曲名でググったらすぐ歌詞がでてくると思うので、要チェックやで!!


(※4):数ある切り出しのメスにうちの最後発のものだった。

 地学的ないし生物史的な脈略でいえばそれは「エディアカラ期」のことです。目という器官が編み出されたことで、生物の進化は急加速されたといわれているそうです。さっきから説明しているように「生物は遺伝子様の使い捨ての乗り物」であるわけなので、このように生物進化が盛り上がるという契機とはつまり「生物個体へのご主人さまの虐待が苛烈を極める」という契機でもあったわけですね。「光こそが闇である」という真理はその「光の認識≒目の誕生」という故事にも裏書されたものといえそうです。


脚注も、以上でおわりです。


タイトル上でパラダイムシフトをぶち上げるかのような、ずいぶんな大風呂敷を広げてしまいましたが、お察しの通り、僕ていどの青二才にそんな大きなテーマを説得的に論じることなど到底できやしませんww

なので「いつかはちゃんと書こうと思ってるテーマ」というような「書く予定の記事」みたいな感じで、テーマのとっかかり程度のところだけを今日は書いてみたいと思うわけです。

できれば、ぼくより頭のいい人が可及的速やかに、そういう向きのテーマで立派な立論をこさえてくれたらとか思うわけです。

すでにそういう考えにたどりついている頭脳明晰な人がいるとして「あなたのその考えにはきっとちゃんと暗数ならがも大量の潜在的な同調者がいます。なので、あきらめずに書いてください。」というささやかな応援シグナルにでもなれればこの記事を書いた甲斐があるってなものなわけです。

まぁ、このブログなんて、ネットの底辺の片隅のブログでしかないので、広い大海原の波に小瓶に詰めたメッセージを託す、みたいな無謀な挙動なのだろう、とは思いますけどね。

前置きはこのへんにして、本題の着想の概要について以下説明していきます。

----【本題】----------------------------------


えー、近頃「民主主義の危機」みたいなイメージを引き合いに出す議論がマスメディアを中心にして結構見受けられるように思います。

けど、僕の考えでは、近代民主主義は「そもそもまだまともに始まってもいない」と思うわけです。

 

きくところによると僕がタイトルであやかった映画「ゴジラ-1.0」には、ゼロにもどす(もとにもどす)というレベルの復興すらままならないところでの「どでか生物襲来という国難」みたいなイメージが込められているようです。

 

また僕がここで「民主主義」に「-1.0」という言葉をくっつけた意図は「民主主義という名前に値するような及第点にすらまだ達していない」という「及第点以下」という切り出しであったわけです。

 

映画の字面タイトルからすると、この記事のそういう向きの内容との対応関係(アナロジー)はあまりきれいに整っていないわけですが、以上のタイトルにこめられたらしい「復興という視点での補助線」を踏まえれば、

 

つまり、タイトルでも映画でも主役を張っているキャラであるゴジラではなく、その物語の舞台ないし背景における焦点であるところの「復興というポイント」から表現しなおせば「復興-1.0」という内容だろうとも言いうるわけで、

 

そういうような理解の補助線をくわえるならば、僕がこの最新のゴジラ映画になぞらえて「民主主義-1.0。その心は今だに民主主義未満」というふうに表現していることを、素直に受けとってもらえるんじゃあないかと思います。

 

けっして言葉尻をとって「ゴジラ作品として-1.0、及第点未満」なんてことを言おうとしていないことはご理解ください。

 

まぁ、米アカデミーという権威から賞を獲得したという歴史的快挙をなしとげた、もはや「おしもおされもせぬゴジラ作品」について、僕みたいな無名のブロガーが大それたケチ付けるようなことを言おうとしているなんて誤解をする人もそうはいないとは思いますけどね。

 

えー、ゴジラの話に寄り道しすぎたようです。話を民主主義という本筋のところに戻します。


マスメディアの人達やら、アカデミズムの人達(ざっくりいって社会の認知空間のエリート層)は、自分たちがこそが民主主義システムの「中枢」を占めてきたのだ、というような自負もあったり、またそれにくっついた社会的地位という既得権もあったりという“ご都合”から

「既存の民主主義の危機≒社会そのものの危機」みたいなこ短絡をして、その危機を僕ら庶民に向けて絶叫しちゃうという動機づけがあるはずなわけですが、

(※ 僕が思うに、そもそも民主主義の情報・言論空間に「固定されたような中枢≒言論空間を牛耳るマスメディア」といったものが見出されるという現実については「そんな固定的な中枢があるなんてことこそ民主主義という看板にもとるようなアコギなあり様なんじゃあないのけ?」としか思えません。近代民主主義の二大源流の一つだと思われるイギリスは民主主義と一口にいっても政治学的にはよく「議会主権」とすら称されるような内実であったらしいので、厳密にいえばいみじくもルソー先生が指摘したように「庶民は選挙のときだけの一瞬だけの主権者」みたいなことだったみたいなわけですよ。そこをしてそもそも近代民主主義とか称しているものは「民主主義の名に値するものといっていいのか」という問いすら立派におこりうるものだとすら思うわけです。とはいえ、だからといって、僕は当たり前に何千万人規模の国民を有することになっている現代の諸国家においてルソー先生が重要視したらしい「直接民主主義」が可能なのかまでは、たとえインターネットが普及した現代とはいえ、まだ半信半疑なので、ルソー先生のイギリス議会主権に対するそのツッコミを額面通り受け入れるつもりもないのです。でもそういう人口ボリュームという事情のために「間接民主主義≒議会制民主主義」を採ることは、なお現代でも避けることはかなわないとしても、さすがに「情報発信がきわめて寡占的な状況」という言論空間における非分権的≒非民主的な状況は「さすがにその言論状況は正当化されえないだろう。民主主義を標ぼうする限り、そこはさすがに是正されないとおかしいはずだ」としか思えないというところであるわけです。)



僕ら庶民(非エリート)にとってはそんな「現下のなんちゃって民主主義なんてものの維持存続」にシビアな利益なんて本当は全くといっていいほどないはずなんですよね。

もちろん、エリート(≠庶民)層であるマスメディアやらアカデミズムに属する人達は「今の既存の“民主主義”が崩壊すると、それはただちに社会全体のディストピアを帰結するのだ」みたいなナラティブ(≒物語)を持ち出すわけですが、

本当は彼ら「少数のエリートの既得権においての危機でしかないもの」を、大げさに「社会大・世界大の危機」かのような大きなイメージに投影をして、それをもとに僕ら庶民に向けて、洗脳工作を善意ないし悪意でしかけてきているとしか思えない。

おそらく、今だに多くの同胞庶民が、エリートが叫ぶそういうナラティブにからめとられてしまって「民主主義という地平においてのめくらまし状態」にとめおかれてしまっている。

より噛み砕いていえば、マスメディアやらアカデミズム(=エリート層)が騒ぎ立てている「民主主義の危機」とか「分断の時代」とかいうイメージの内実とは、ありていにいえばつまり

「このまま“なんちゃって民主主義”を擁護しづづけたいエリート層以上の既得権集団」VS「インチキ民主主義のめくらましからすでに脱しえていて、今こそ本当の民主主義を始めようともがいている目覚めちゃった庶民たち」

というような構図でしかなんじゃないか?

これというのは、僕らの社会は今や「民主主義の危機」にさしかかっているどころか、

むしろ「長年のまやかし的に続いてきインチキ民主主義」を脱して、目覚めた庶民たちがなんとか「ガチの民主主義」に手をかけようという「ダイナミズムの最中」にあるってな見立てであるともいえそうです。

ただし、ちょっとここで僕のここまでの論調について注釈を加えさせてもらいたいのですが、僕が「ガチの民主主義」とか「本当の民主主義」みたいな言葉を用いているからといって、

それらの「本来的民主主義」なるものが実現すれば、ただちに何の工夫もいらずに「バラ色の社会を帰結する」なんてことは僕も全然思ってはいませんからね。

たしかに、今の「エリートがあまりに腐敗しまくって機能不全の色合いを濃くしていく社会」という傾向性を僕は全くいいことだとは思っていないので、

そういう「極まった社会腐敗」に対抗するためにも「ガチの民主主義の醸成」というものを「拮抗的にぶつけていきたい」と志向する人間であるわけです。

極論すれば「ただのタイミングの問題・循環論上の問題意識」とすら相対化しえるかもしれない。

ともかく、僕は状況判断的にそう言っているという部が濃厚にあるわけであって、決して民主主義の原理主義的なポジショニングにおいてそういっているわけではない。

僕は民主主義原理主義者というわけでもない。

この僕の姿勢ないし呼吸の塩梅というものを、経済政策になぞらえていえば、不景気には「積極財政」であるべきで、好景気には「緊縮財政」であるべきなわけで、

一概に固定的・永続的に「大きな政府がいいのだ」とか「小さな政府がいいのだ」とかいうのが「ミスリードがすぎる雑な問題設定」でしかないように、

「とにかく、民主主義の純度が高ければ高いほどいいのだ」とかいうのもまた、かなり雑な思考だろうと僕には思われるわけです。

濃度の濃い民主主義はかなりの高確率で「危険な独裁者」を生んでしまったというのは、近代以降の歴史の事実であるわけで、

僕は近代民主主義の盛り返し(ないし初めての成立)というものを今の状況においては熱をこめて支持しているわけですが、だからといって勢い余って民主主義の弱点である「独裁者を産みやすい傾向という弱点を無視してかまわない」とかまでは全然思わない。

もし「独裁を産むことが目に見えている」という未来予測が説得的に理解されうるということになれば、

その際は、僕は、この記事の論調についての「あえての手のひら返し」という急旋回をやって「既存の情報・言論寡占のエセ民主主義という毒」をうけいれてでも「ガチ民主主義という危険」を押しとどめる側にすらまわる用意すらあるつもりです。

ただ、とはいえ僕は「インターネット上の言論」という、このタイミングでやっと文化として成熟しつつある新たな言論空間に、民主主義との関わりで、これまでにない画期的な働きというものを期待しているところなわけです。

自由で分散的なインターネット言論がそれなりに機能しさえすれば「これまでの濃い民主主義が犯してきた独裁者の成立」という危険をかなり回避した形での高度な民主主義を実現できるのではないかと思っているわけです。

なにしろ過去の独裁制の国家において、当初は独裁の開始を支持していたひとも、きっと遅かれ早かれ「ああ、あのとき独裁への流れを阻止すべきだった」とか「あそこまでの独裁は許容すべきではなかった」とかいう後悔をしていたに違いないと思うわけで、

そういう危機回避をインターネットという「まやかしではないガチの集合知が成立しうる基盤となりうる分散的空間」は実現できるんじゃなかと思うわけです。

 

少なくても「集合知」と「マスメディアによる言論空間の寡占」というものは、見るからに「水と油」であろう、としか思えないわけです。

 

集合知がまともに始まることで、民主主義がまともに始まる、というイメージを僕は持っているわけです。

おおげさにいえば

「近代民主主義が安定的なものとして完成するためには、インターネットの誕生とインターネット利用における庶民がなす言論活動という文化的成熟を待たなければなかった」

ということが未来の教科書に書かれることを夢想するくらいに、インターネットというのが民主主義というシステムの完成にとって「最後に残された必須の部品≒ミッシングピース」として把握されるべきものだったのではないかと僕は今から勘繰っているわけです。

従来のインチキ民主主義(≒情報における寡占という汚染要素を抱え込んだ、よどんだまやかし的な民主主義)において重要な地位を占めてきた人達は、その立ち位置からいって「ガチの民主主義にとって利益相反のポジションにいる」ことはもはや「筋論からいって明白」だとしか思えません。

なので、彼ら既存の言論空間エリート層から発せられる「民主主義の危機」なる触れ込みで切りだされる議論は、僕ら庶民は基本的にいって「眉に唾して疑って」触れるくらいでちょうどいい。

もちろん、大きな枠組み的にみれば、利益相反的な位置にいる人であっても、真摯な思考をする人がいないとも限らないし、本当に経過すべき「トロヤの木馬」の落とし穴を見抜いたラオコーン的な賢者がそこに紛れていないとも限らない。

なので、たとえ既存のエリート層というおおまかにいって「ガチの民主主義にとって利益相反といえる層の人達」からの発信であっても、

最終的・窮極的には「あくまで議論は是々非々であるべきで、党派的な思考べったりで、簡単に無視したり、切り捨てたりするべきではない」という地味な結論にならざるをえないわけですが、

とはいえ、まず今の彼ら言論空間を牛耳ってきたエリート層が「ガチ民主主義を不都合に思うポジションある利益相反的な人達」という認識をちゃんと心に留めることがこの「エリート大腐敗期」かつ「政治の大変動期」という重要局面におかれている僕ら世界庶民にとって極めて重要な姿勢(警戒姿勢)であると思うわけです。

これ(民主主義というトピックに関わって既存言論エリートを疑ってかかる姿勢)は僕にいわせればもはや「合理的なバイアス」とすらいいえるものです。

今の時代に生きる僕ら庶民にとって「あえて普及されるべき先入観」といっていいものだろうと思うわけです。

そこまで言い切っていいと僕が思う理由は、以上に詳しく述べたとおりなのでここでは繰り返しません。
よければ画面を上スクロールして、しかるべき箇所をもういっかい読んでみてください。

えー、というわけで「民主主義の危機とか言っている人」は、たいてい「あっち側の既得権者エリート層」であったりするので、庶民(≠エリート)である僕はそういう物言いを基本的に疑ってかかるようにしています。

もちろん、さっきもいったように彼ら既得権エリートのうちにも、僕らにとってラオコーンというべきまともな警告をはっしている人が紛れていないとも限らないわけなので、

便宜的に「既存エリートはガチ民主主義にとっての利益相反者」というふうに定式化はさせてもらったものの、それをしかくしめんに適用して、党派的・ポジション的な区別のみで議論の是非を完全に割り切っていいものでもないわけですが、

それでもなおそのバイアスは、スクリーニング的なものとしてはそれなりにちゃんと合理的で機能的な「バイアス≒先入観」だとしか僕には思えないわけです。

はい、というわけで、もっぱら金欠だという理由のため話題の「ゴジラ-1.0」をまだ観られてもいない僕なわけですがwww

特徴的でアイキャッチなタイトルを冠したその人気の映画にあやかりつつ、僕のちかごろの持論であるところの「近代民主主義はまだ始まってもいない。近代民主主義の名に値する及第点のものは近代の歴史上まだ生まれてもいない。」という認識について、ざっくりとした説明をさせていただきました。

もしも「そうそう。俺も(私も)そういうようなことを考えていたんだよ!!」と思う方がもしいらしたならば、

きっと僕みたいな半端者より、ずっと精緻な議論を組み立てる知力を備えてらっしゃると思うので、それを書籍としてまとめて是非それを世に問うてほしいなぁと、他力本願的には思ったりします。

そういう本が刊行されたとしたら、ゴジラ-1.0を観るのを我慢してでも、購入して読んでみたいと思っているくらいです。

今日の記事はこのへんで、ではまた。
 


僕もちょっとまえまでZ省大先生が力を入れて喧伝されている「税金こそが財源」論にだまくらかされてきたくちなので、

以前にはこのブログじょうでも、成〇某氏ほどではないにしても「高齢の方々にも応分の負担増を」みたいな方向のことを書いてしまっていたという前科前歴があります。

でも、僕のなかでやっとZ省大先生の洗脳も解けて、まともな財政認識というものをつかむことができたので、

自分が犯したその間違いを大いに反省しつつ、今度は脱洗脳後のタコっすとして、新たに別の提言をしてみたいと思ってみた次第であります。

いうまでもなく、この記事をもって、前にこのブログ上のどっかしらで書いたところの「高齢の方々にも応分の負担増を」という主張については撤回させていただくことにいたします。

人生の先輩にして、日本同胞である高齢の皆様、無理解と非礼、大変もうしわけありませんでした。

(※たいした閲覧数もかせいでない底辺ブログなのにいっちょまえに謝罪しているのは、滑稽といえば滑稽なわけですが、万が一にも1人でも対象となる高齢の閲覧者がいらっしゃれば、謝罪の言葉を示す必要があるはずだと考えました。「底辺のクセにいっちょまえに」と笑いたいのであればどうぞ笑ってください。)

僕の今の理解では、日本の経済において一にも二にも問題なのは

「デフレマインドによる惨禍」

これに尽きると思われます。

いまさらいうまでもなく、平均的な教育レベルは日本は江戸時代からほぼ世界のトップランカーでありつづけてきた日本のお株とすらいうべき鉄板の強みであるわけすし、

また戦後の先人の努力のおかげで、耐用年数の到来などという問題はありつつも、日本の産業インフラはかなり高レベルらしいですし、

それらのインフラの上に築かれた物流システムも2024年問題のまっただなかとはいえ、なお世界的に相当な質を保っていると思われます。

僕みたいな青二才にはバランスよくそれにかかわる全部を指摘することはできませんが、ともかく生産のための各部のリソースは日本は外国との比較において本来は相当に強みが多いはずなんですよね。

なのに、この30年の「先進国で唯一、一貫して停滞しているという悲惨」にあるというのは、どうかんがえても社会心理的なものに求めるよりほかない…。

そういうふうにみてくると、もはや問題は「極度のデフレマインドにこそある」としかいいようがない。


僕の理解では、その「デフレマインド≒将来不安」を大いに先導してきた中心にあたるのが、おそらくО蔵省時代から一貫して続くZ省大先生による「国債悪玉論。財政均衡論。」という「財政の地平での対庶民、脅迫工作」であったということであるわけです。

いいかえれば、Z省大先生が僕ら庶民に向けて一貫して発してきたのは、次のようなものであるわけです。

「日本の借金やばいよやばいよ!
 日本の経済やばいよやばいよ!
 日本の将来やばいよやばいよ!」

です。

最期にちゃんと着地したように、これはあきらかに「デフレマインド≒将来不安」への誘導策であったわけですよ。

まぁZ省大先生の内のお役人の中には「そんなふうな誘導の意図など私にはない」と本気でおっしゃる人もいるかもしれないし、そういう人がむしろ多いだろうと僕もおもわんでもないですが、

とにかくありていにいって「Z省大先生がやってきた実績」としてはそういうふうに表現・評価するよりほかないものだということです。

本来「結果を出す能力が高い」からこそエリートとして広い裁量権を事実上許されていることなはずの官僚大先生が、この悲惨すぎる結果について無視をきめこむなんてことがあれば「エリートの存在意義」を自らぶっ壊すことになっていることに気づかないといけない。

それでもどうしても「気づかない、気づきたくもない」と頑ななままでいようとするなら、僕ら国民で彼らの結果責任ついて省みる気すらないような惰性的な裁量権行使をなんとしてでも止めさせないといけない、そういうシビアなレベルの話ですからね。

エリート官僚大先生方は「庶民をバカにするのも嗜みの一環」という意識なのかもしれませんが、そんなことをするにしても是非「結果だしてから」にしてくださいね。

エリートを自認するからこそ、自信満々に事実上の広い裁量権を行使しえているんでしょうから、Z省の官僚大先生におかれては、現下の悲惨な結果についてくだらない言い訳していないで、国民窮乏化という「我が裁量権行使の実績」にちゃんと向き合ってもらいたいものです。

彼らZ省官僚大先生は自前の財政論を脅かしの道具にして、しつこく僕ら庶民を「将来不安の奈落」に突き落としてきたわけで、

それがてきめんに「国内需要を抑えつける」という作用をもたらして、日本という他国との比較において普通に考えて成長の要素が満載のはずの社会に「逆打出のコヅチとでもいうべき黒魔術」をかけてきたわけですね。

もちろん、そこにはおそらくBIS規制とかの外圧などに発するいわゆる「バランスシート不況」という工作もあったのでしょうから「Z省単独犯説」というのもまた言い過ぎなんでしょうけど、

とはいえそれらの外圧に漫然と屈した時点で「結果責任でアウト!!エリート失格!!」ということだとしか僕には思えません。

というわけで、このパラダイムをひっくりかえすための、劇薬にして根本的な認知修正を社会にもたらしうるのが、逆説的にも思われるところの

「まず先に、高齢の方々からベーシックインカムを導入せよ」

という僕の提言であるわけです。

高齢者のうちには、国民の個人資産の大半を持つ層が入っているのは当然承知ですが、他方で年金を頼みにして相当な低所得で苦しんでいる方もかなりの数いらっしゃるはずなんですよ。

年齢で区切るメンバーシップ制にもとづく定年制という日本の伝統的な雇用慣行というものが、デフレ経済という危機感によって「守りの思考停止経営志向」とかけあわされてしまって少子高齢化時代に応じた是正のチャンスを逸してしまったことで「多くの高齢者の所得苦境」を現出してしまっているはずなわけで、

そうである以上、高齢の方々には「限界消費性向が高い方々」がたくさん含まれているはずなんですよね。

(※ちなみに、僕の勘ぐりでは「少子化」もかなりのぶぶん「デフレマインド誘導」の成果であると思われます。「お前は何をみても“デフレマインドのせい”ってことで説明しようというのか?」と思われかねないドグマチックな物言いに聞こえるだろうことは僕も理解はできるのですが、今のところ僕はいろいろ知るにつけもはやそうだとしか思えなくなてきているということであるわけです。)

であれば乗数効果を狙って「ヘリコプターマネーないしベーシックインカム」をするのであれば、実は高齢者こそロスジェネ世代と比肩するほどの「高い限界消費性向が見込める層」であるはずなんですよね。

なにしろ両者は「雇用における不遇」という点でみればかなり共通しているし、さらにいえば高齢の方は相対的に中年よりは「将来のための備えという危機感」は少なくて当然なはずなんですよね。

つまり「もはやお金を溜めこむ動機付けがあまりない」ってことですね。もちろん「溜めこまないですむ安心」ためには「一回かぎりのヘリコプターマネー」ではなく絶対に「継続的なものであるベーシックインカム」であることは必要であるのでそこを間違ってはいけないわけですけどね。

なんか「僕の提言」とか堂々と言ってしまうと、自画自賛野郎のようです、

これは自己承認欲求の発露というよりは別の事情があってのあえての表現であったりします。

つまり、僕としてはこの提言は僕の理解では「ある方の発言の受け売りのつもり」であるからです。

ただし、もしかしたら僕がそのお方の発現について致命的な誤解・誤読をさしはさんでしまっているかもしれないので「文責は僕にあります」ということをお断りするためにも、

その「インスピレーション元のお方」を明かす前に、あえて「僕の発信・提言」というところをお断りしておく必要があったという事情であるわけです。

僕の誤解のせいで、ご迷惑になっちゃったら恩(知的刺激を受けた恩)をあだで返すことにすらなりかねませんからね。

えー、僕がこの記事にかかわって大いにインスピレーションを受けたのは、前・衆議院議員で税理士でいらっしゃる安藤裕先生のとあるご発言であるわけです。

とあるパネルディスカッションにおいての、流れのなかの一コマのご発言だったし、そのあと他のパネリスト間での広がりもみせなかったご発言だったので、今も先生がこの提言を維持されているかすら定かではないのですが、とにかく僕の記憶のどっかにはひっかかっていて、

かなりの時間差を経た後々に「なるほど!!これぞ妙案ではないか!!」と膝をうつ思いになったということであるわけです。

もしかしたら先生がこの記事を読まれたら「私はそんなことを意図していったのではない」とお叱りを受けるかもしれないので、

あえて「インスピレーション」という言葉でもやっとした影響関係として表現させてもらいました。

僕なんかのブログ読んでる暇はあるのに、もしまだ安藤先生のユーチューブチャンネルを視たことがない人がいるならば、僕みたいな素人底辺ブログは蹴っ飛ばして先に安藤先生のチャンネルのもとに走るべきです。

というわけで、今日の記事の着地点としてはユーチューブ内の「安藤裕チャンネルひろしの視点」の勝手なご紹介記事ということでした(!?)

安藤裕チャンネル(※略称)の視聴者が増えれば、日本はその分いまより良くなれる可能性が高まると僕は本気で思っているので、

このご紹介は、日本人であり日本に暮らす僕自身のための活動でもありますんでね。

なにやらこんがらがったようなけったいな文章になってしまいましたが、今日はこのへんで。

 


僕の今のところの理解では「人生には根本解決はない」ということになっているわけです。

宗教に対しては、いくつかの根本的な問題の解決が期待されてきたと思われるわけですが、

その中の代表的なもののひとつが「人生のうちにつぎつぎと起こる哀しみ・苦しみ・惨めさ、というネガティブな出来事をどう解決しうるか」とういものがあったんだろうと思います。

人によっては「それが宗教のすべてだ」すら言う人だっていてもおかしくないくらいの宗教上の根本問題だと思われます。

けど、もしかしたら「世界観」というのもまたそれ(人間観・人生観)とは別に宗教における根本問題かもしれないので、ここでは「代表的な根本問題群のひとつ」と控えめにいうことにします。

(※ただし、僕の勘では、人間観と世界観は結局のところ決して無関係といえるものではなくて、あちらがあってこそこちらが成り立つ、というような相互依存の関係にあると思われます。別の言い方をすると、コインの裏表みたいな関係かとも思われます。もしそのように「裏表の関係・切り出し方の違い」であるならば、この二つの代表的な宗教的課題は、一方がすでに他方を含んでいるともいいえなくもない。だとするならば、人生観だけでも立派に「宗教における唯一の根本問題」といえなくもないかもしれません。)

ともかく、そういう課題としての人生観は、人類がずっと重大問題として捉えてきた(おもに宗教的な課題として)ことには違いないと思うわけです。

んで、僕も一匹の生身のホモ・サピエンス・サピエンスであるので、それについて考えることを半ば強制される境遇にあるといいえるわけですが、

そのトピックについて、僕が今のところ「こういうことかな」と思っているところは以下のようなものであるわけです。

「この問題について、僕らができることは“私を視る私”というフィードバックループを断ち切って“痛みの増幅サイクルでもあるところの意識作用”を黙らせるという営みである。とはいえ、その状態を常に維持することはおそらく誰にもできない。つまり“自意識という炎”はどうやったっても完全消化することはできず、死ぬまでずっとくすぶり続ける。というわけで、人生のうちにネガティブな経験をこうむりつづけるとういことに対しての根本解決は、ない。さらにいえば“私を見る私の完全消滅≒禅定の極致”を成し得たからと言って“今ここにおける痛み≒痛覚の作用”を消し去ることまでできるわけでもない。五蘊のうちの最初の三つについては、禅定でそれらを“なだめる”くらいのことはできても、完全にそれらをを消すことはできない。そういう意味でも僕らは人生の悲惨さの解決からは、原理的にも二重の意味で“疎外”されてしまっている。」

というような感じです。

シンプルすぎてバカみたいな内容ですけど、まぁ僕は今のところこの人生論を疑いえないものだと感じてしまっているということです。

すでにだいぶシンプルではあるのですが、しれっと術語などを差し込んでしまっているために、まだピンとこない人もいらっしゃるかと思います。

ということで、以上の内容についてのさらにシンプルな言い換えをするとこんな感じです。

「苦しみ、という意識作用が介在したネガティブな経験は、意識作用を黙らせることで、かなり抑え込むことはできそうだ。けれど、痛み、という意識作用とは独立に起こるネガティブな経験については、もはや宗教的ないかなる工夫をもっても完全にお手上げで、対処のしようがない。」

これって、希望がないような見立てですよね。

とはいえ、よくよく引いてみてみると「希望といえなくもないもの」が浮かび上がってきませんかね。

つまりそれは「さすがに死んでしまえば、痛みという最凶の敵からも解放される」とういことです。

「暑さ寒さも彼岸まで」とかいう言葉を聞いたことがありますが、そのことわざは、もしかしたらこの気づきのことをいっていたのかもしれないですね。

つまり

「暑さ寒さ(≒この世で経験する全てのネガティブなものを代表させた比喩表現)も彼岸(≒三途の川のあっちがわ。つまり死のこと)を過ぎる(到達する)までで、そのあとは痛みすらもきれいさっぱりなくなるよ」

ってな読み方であるわけです。

そういう深いことを「厳しい気候と緩やかな気候のサイクル」という自然現象に仮託して表現していたのがこのことわざだったのではないか、っなてことです。

まぁ、僕は正直なところ「現世こそが唯一かつ最凶の地獄」だと思っているので、

「輪廻」やら「地獄」なるものも、生きている間に繰り返される煩悩とそれにより引き起こされる苦痛を方便(たとえ話)として表現したものに過ぎないと思っています。

なのでこのことわざにおける「なんども繰り返す気候のサイクル」という構図は、当然に「輪廻転生≒何度も繰り返す現世」を想起させちゃうわけですが、

僕がこの記事で主張したい人生観はあくまで「一回きりで、また別の個体として現世に立ち戻るってことはない」というイメージを前提にしているので、そのへんの「僕のこの記事での主張と、このたとえ話との微妙な齟齬(ズレ)」については理解いただきたいと思います。

ということで、なんかいい知らせ(福音)なのか悪い知らせ(絶望)なのかよくわからない内容を提示してしまっているわけですがwww

ここで「宗教という認知的・身体動作的な地平でのアプローチができうることは?」とう問題設定をとっぱらってみれば、また別の解決策が浮かび上がってくると思うわけです。

それというのは「生理学的に痛みそものを遮断するという方策」です。

そして、それは語弊を恐れずに言えば「麻薬≒向精神薬」の使用のことです。

さっきいったこととも絡みますが、僕は「生きていることの根本」とは「痛みを感じること」だと思っています。

 

デカルト先生は「いくら疑っても意識作用は疑えない」ということを主張されたわけですが、

 

あいにく、現代の科学の知見は「自分という意識作用もただの妄想らしい」というところに到達してしまった。

 

そこで、僕らが落ち着くのは「いくら頑張って疑おうとも、さすがに痛みだけは否定しようがない。生まれてこの方、そんな状態になれたことはないし、禅の達人だって包丁で切られれば痛いはずだ。」というようなところだと思うわけです。

 

つまり「われが生きるとは、すなわち痛みがあることなり。」ってなことです。

遺伝子様は僕らを「乗り物」として監視・酷使するわけですが、その時の「操作レバー」となっているのが「痛み」であり、

人間の場合はあまつさえそれに「意識という痛み増幅アンプ」までが接続されているために「苦しみ」というものもまた痛みの上に積みあげられるということになっていると思われるわけです。

 

(※さっきいったようにこの「増幅された部分」をなんとかいじくろうという方法論が「禅定」なのだと思われます。しかし禅定はさらに根本である「痛みそのもの」の解決までは手が届かない。)

そうであれば「人間存在の根本原理かつ根本的悲惨≒痛み」を「薬物がもたらす生理作用」という有無を言わさない自然科学的な法則の援用によって「黙らせる・消し去る」ことこそが、

生きているかぎり、痛みと苦しみにさいなまれ続ける僕ら人間という生物個体にとって「最後にして唯一の希望」かもしれないということです。

さっき補足説明として持ち出したところの「遺伝子様の乗り物としての生物個体」という切り口からいえば、それは「遺伝子様の持っているムチ(≒苦痛を産む道具立て)を完全に無力化する」という根本解決を企図していると理解されるものだろうと思います。

もちろん、僕は「あくまで利用者個人の真摯な同意によってのみ利用に供される清浄なタイプのマトリックス(超没入仮想現実世界)」というものにも期待をかける立場なので、かならずしも「麻薬による解決」のみが唯一かといえば、それは厳密には「ちょっと言い過ぎ」なわけですが、

まぁ、それはまた別の「意識作用を働かせたまま、あえて意識作用の上から人間存在を巧みに慰撫・ストロークするアプローチ」なわけで、

それの可能性を今から否定するわけではないんですけど、何しろそういう技術が達成可能かはまだまだ全然未知数なので、ちょっと扱いづらいし話づらい。

というわけで、マトリックスまで話しが及んでしまうと、とたんに「SF臭さがプンプン」してきちゃって「飛躍しすぎな感じ・場違いな感じ」になっちゃう恐れがあるわけです。

というわけで「SFを語らないという範囲内」という規制の枠内においては、なお「麻薬こそが唯一の希望」というのもウソではないだろうとことです。

そのへんの記事を書く上での塩梅については、どうかご理解いただたい。

本当のところは、僕もこの記事内で推している解決法としての「麻薬による安楽死ないし安楽死してもいいという構えでの麻薬の多用」ということに対しては、

「意識こそ自分だ」と思ってしまう性がある一凡夫としては、なお麻薬使用なるものに「そこはかとない自失の恐怖」を感じちゃうわけですし、またそれでは言い尽くせないようななにかしらの「穏当でないもの」を感じてもしまうわけで、

そういうような僕が麻薬に抱く微妙な感情、というものをふまえれば、できれば、いくたの技術的な障害をのりこえて「マトリックス≒超没入仮想現実」というものが立派に開発され、それが僕らの苦痛をまるっと慰撫しとおせるレベルのものとして成立されてくれれば、それこそが一番いい結末だと思ってはいます。

僕の正直なところをいえば、将来、マトリックスが立派に開発されれば、それにこしたことはない…。

えー、話しが「マトリックスによる解決」のほうにそれてしまったので、麻薬使用による解決という本筋に話しをもどしますね。

もちろん、今の現実世界において、たまたま種々の境遇にめぐまれて「麻薬なんか使わなくても私は幸福だ」と思えている人がいるなら、

そういうタイプの人にまで強いて麻薬使用をすすめるなんてことは「悪趣味」であるし、また「よけいなおせっかい≒自由権へのハラスメント」でもあると思います。

なので「僕はみんながみんな麻薬を使うという未来」というような「マッドな未来≒ディストピア」を妄想しているつもりはないんです。

あくまで「個人の真摯な選択においてそれを用いる」ことを認めないとおかしくないですか?人間存在についての理解をないがしろにしすぎな政策といわれても仕方いんじゃないですか?

 

というようなことを言おうというだけのことです。

僕が麻薬使用の意義を主張しているからといって、不必要なレベルの「ディストピア社会」を連想するのはよしてくださいね。

そういうツッコミは端的にいって「曲解」ですので、曲解を前提に非難されても困ります。


話しが飛躍することを承知で、最期にちょっとどうでもいいことを語りたいのですが、

僕はたぶん以上の内容は、お釈迦様が生きていたらきっと「然り(たしかに、そうだね)」と同意してくれた内容だと思っています。

つまり、僕の理解では仏教とはこれほどまでに「ロックンロールな思想」であるということです。

パンクはたしかに「反権力の反骨精神」だったかもしれないけど、裏から言えば認知的にいってそれは「権力が自分の外に厳にあるという事実に依存した思考枠組み」でもあるわけです、

パンクはもし「社会のうちに権力が地上から失われてしまったら」もはや「目的を根本的に喪失した形骸(ぬけがら)」と化すしかない運命であるわけです。

しかし、仏教は「自分の外に目を向けた反骨精神」というフェーズからさらに奥へと突き進んで「敵は我なり」というところまで到達しているわけですよ。

ドーキンス先生が「利己的な遺伝子」というイメージを提示するずっと前に、

またフロイト先生が「無意識」というイメージを提示するよりもずっと前に、

またショーペンハウワー先生が「盲目的な意思」というイメージを提示する前に、

すでにお釈迦様は「敵は我の中にある“生のカラクリ”である」と喝破されていたわけですね。

 

(※以上の図式をみてもらえれば、明らかだとは思いますけど、僕はドーキンス先生のことを立派なロックンローラーだと思っているし、フロイト先生のことも立派なロックンローラーだと思っているし、ショーペンハウワー先生も立派なロックンローラーだと思っているわけです。さらにつけくわえさせてもらうと、僕はロックバンドのbucki-tickの櫻井さんのいくつかの曲の歌詞に現代(コンテンポラリー)における最高のロックンロールを感じていました。僕にとっての青春の重要な一部を担ってくれた歌詞たちです。櫻井さんのロックンロールには何度も泣かされました。心よりご冥福をお祈りしいたします。)

これ(お釈迦様の教え)ほどのロックンロールはまぁ他にはないでしょうね。

僕からみると仏教は「敵を自分のなかに見つけ出すというとてつもない勇気」という点で「きわめてラジカル(根本的)でかつ、浮世からみると途方もない狂い、を帯びた思考」であるということです。

麻薬といえば、いまやヒップホップないしラップの「お株」となってしまった感がありますが、

サブカル史的にみれば、ながらく麻薬はロックンロールのトレードマークであったと思われます。

そういう点をふまえても、仏教的思索から無理なく麻薬に話しがつながってしまうという事実は「仏教とはロックンロールなり」ということを暗に証明してくれていると思われるわけです。

「麻薬」というものを介して「ロックンロール」と「仏教」が近しい関係にあるという構図が無理もなく見えてくる…。

えー、なんか一つの記事の内側で、テーマがいろいろ「ぶれぶれ」なような感じになってしまいましたが、今日の記事に関しては

「ブッダは人類史上、最高のロックンローラーであったようだ」という命題だけ記憶に残してもらえれば僕としては幸いです。

では。