そのシンプルさゆえに、今のところ僕が全く疑うことができない人生観 ~たぶん、仏教~ | 結局、愚痴のはきだめ

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非公開ブログを目指していたけど…挫折。


僕の今のところの理解では「人生には根本解決はない」ということになっているわけです。

宗教に対しては、いくつかの根本的な問題の解決が期待されてきたと思われるわけですが、

その中の代表的なもののひとつが「人生のうちにつぎつぎと起こる哀しみ・苦しみ・惨めさ、というネガティブな出来事をどう解決しうるか」とういものがあったんだろうと思います。

人によっては「それが宗教のすべてだ」すら言う人だっていてもおかしくないくらいの宗教上の根本問題だと思われます。

けど、もしかしたら「世界観」というのもまたそれ(人間観・人生観)とは別に宗教における根本問題かもしれないので、ここでは「代表的な根本問題群のひとつ」と控えめにいうことにします。

(※ただし、僕の勘では、人間観と世界観は結局のところ決して無関係といえるものではなくて、あちらがあってこそこちらが成り立つ、というような相互依存の関係にあると思われます。別の言い方をすると、コインの裏表みたいな関係かとも思われます。もしそのように「裏表の関係・切り出し方の違い」であるならば、この二つの代表的な宗教的課題は、一方がすでに他方を含んでいるともいいえなくもない。だとするならば、人生観だけでも立派に「宗教における唯一の根本問題」といえなくもないかもしれません。)

ともかく、そういう課題としての人生観は、人類がずっと重大問題として捉えてきた(おもに宗教的な課題として)ことには違いないと思うわけです。

んで、僕も一匹の生身のホモ・サピエンス・サピエンスであるので、それについて考えることを半ば強制される境遇にあるといいえるわけですが、

そのトピックについて、僕が今のところ「こういうことかな」と思っているところは以下のようなものであるわけです。

「この問題について、僕らができることは“私を視る私”というフィードバックループを断ち切って“痛みの増幅サイクルでもあるところの意識作用”を黙らせるという営みである。とはいえ、その状態を常に維持することはおそらく誰にもできない。つまり“自意識という炎”はどうやったっても完全消化することはできず、死ぬまでずっとくすぶり続ける。というわけで、人生のうちにネガティブな経験をこうむりつづけるとういことに対しての根本解決は、ない。さらにいえば“私を見る私の完全消滅≒禅定の極致”を成し得たからと言って“今ここにおける痛み≒痛覚の作用”を消し去ることまでできるわけでもない。五蘊のうちの最初の三つについては、禅定でそれらを“なだめる”くらいのことはできても、完全にそれらをを消すことはできない。そういう意味でも僕らは人生の悲惨さの解決からは、原理的にも二重の意味で“疎外”されてしまっている。」

というような感じです。

シンプルすぎてバカみたいな内容ですけど、まぁ僕は今のところこの人生論を疑いえないものだと感じてしまっているということです。

すでにだいぶシンプルではあるのですが、しれっと術語などを差し込んでしまっているために、まだピンとこない人もいらっしゃるかと思います。

ということで、以上の内容についてのさらにシンプルな言い換えをするとこんな感じです。

「苦しみ、という意識作用が介在したネガティブな経験は、意識作用を黙らせることで、かなり抑え込むことはできそうだ。けれど、痛み、という意識作用とは独立に起こるネガティブな経験については、もはや宗教的ないかなる工夫をもっても完全にお手上げで、対処のしようがない。」

これって、希望がないような見立てですよね。

とはいえ、よくよく引いてみてみると「希望といえなくもないもの」が浮かび上がってきませんかね。

つまりそれは「さすがに死んでしまえば、痛みという最凶の敵からも解放される」とういことです。

「暑さ寒さも彼岸まで」とかいう言葉を聞いたことがありますが、そのことわざは、もしかしたらこの気づきのことをいっていたのかもしれないですね。

つまり

「暑さ寒さ(≒この世で経験する全てのネガティブなものを代表させた比喩表現)も彼岸(≒三途の川のあっちがわ。つまり死のこと)を過ぎる(到達する)までで、そのあとは痛みすらもきれいさっぱりなくなるよ」

ってな読み方であるわけです。

そういう深いことを「厳しい気候と緩やかな気候のサイクル」という自然現象に仮託して表現していたのがこのことわざだったのではないか、っなてことです。

まぁ、僕は正直なところ「現世こそが唯一かつ最凶の地獄」だと思っているので、

「輪廻」やら「地獄」なるものも、生きている間に繰り返される煩悩とそれにより引き起こされる苦痛を方便(たとえ話)として表現したものに過ぎないと思っています。

なのでこのことわざにおける「なんども繰り返す気候のサイクル」という構図は、当然に「輪廻転生≒何度も繰り返す現世」を想起させちゃうわけですが、

僕がこの記事で主張したい人生観はあくまで「一回きりで、また別の個体として現世に立ち戻るってことはない」というイメージを前提にしているので、そのへんの「僕のこの記事での主張と、このたとえ話との微妙な齟齬(ズレ)」については理解いただきたいと思います。

ということで、なんかいい知らせ(福音)なのか悪い知らせ(絶望)なのかよくわからない内容を提示してしまっているわけですがwww

ここで「宗教という認知的・身体動作的な地平でのアプローチができうることは?」とう問題設定をとっぱらってみれば、また別の解決策が浮かび上がってくると思うわけです。

それというのは「生理学的に痛みそものを遮断するという方策」です。

そして、それは語弊を恐れずに言えば「麻薬≒向精神薬」の使用のことです。

さっきいったこととも絡みますが、僕は「生きていることの根本」とは「痛みを感じること」だと思っています。

 

デカルト先生は「いくら疑っても意識作用は疑えない」ということを主張されたわけですが、

 

あいにく、現代の科学の知見は「自分という意識作用もただの妄想らしい」というところに到達してしまった。

 

そこで、僕らが落ち着くのは「いくら頑張って疑おうとも、さすがに痛みだけは否定しようがない。生まれてこの方、そんな状態になれたことはないし、禅の達人だって包丁で切られれば痛いはずだ。」というようなところだと思うわけです。

 

つまり「われが生きるとは、すなわち痛みがあることなり。」ってなことです。

遺伝子様は僕らを「乗り物」として監視・酷使するわけですが、その時の「操作レバー」となっているのが「痛み」であり、

人間の場合はあまつさえそれに「意識という痛み増幅アンプ」までが接続されているために「苦しみ」というものもまた痛みの上に積みあげられるということになっていると思われるわけです。

 

(※さっきいったようにこの「増幅された部分」をなんとかいじくろうという方法論が「禅定」なのだと思われます。しかし禅定はさらに根本である「痛みそのもの」の解決までは手が届かない。)

そうであれば「人間存在の根本原理かつ根本的悲惨≒痛み」を「薬物がもたらす生理作用」という有無を言わさない自然科学的な法則の援用によって「黙らせる・消し去る」ことこそが、

生きているかぎり、痛みと苦しみにさいなまれ続ける僕ら人間という生物個体にとって「最後にして唯一の希望」かもしれないということです。

さっき補足説明として持ち出したところの「遺伝子様の乗り物としての生物個体」という切り口からいえば、それは「遺伝子様の持っているムチ(≒苦痛を産む道具立て)を完全に無力化する」という根本解決を企図していると理解されるものだろうと思います。

もちろん、僕は「あくまで利用者個人の真摯な同意によってのみ利用に供される清浄なタイプのマトリックス(超没入仮想現実世界)」というものにも期待をかける立場なので、かならずしも「麻薬による解決」のみが唯一かといえば、それは厳密には「ちょっと言い過ぎ」なわけですが、

まぁ、それはまた別の「意識作用を働かせたまま、あえて意識作用の上から人間存在を巧みに慰撫・ストロークするアプローチ」なわけで、

それの可能性を今から否定するわけではないんですけど、何しろそういう技術が達成可能かはまだまだ全然未知数なので、ちょっと扱いづらいし話づらい。

というわけで、マトリックスまで話しが及んでしまうと、とたんに「SF臭さがプンプン」してきちゃって「飛躍しすぎな感じ・場違いな感じ」になっちゃう恐れがあるわけです。

というわけで「SFを語らないという範囲内」という規制の枠内においては、なお「麻薬こそが唯一の希望」というのもウソではないだろうとことです。

そのへんの記事を書く上での塩梅については、どうかご理解いただたい。

本当のところは、僕もこの記事内で推している解決法としての「麻薬による安楽死ないし安楽死してもいいという構えでの麻薬の多用」ということに対しては、

「意識こそ自分だ」と思ってしまう性がある一凡夫としては、なお麻薬使用なるものに「そこはかとない自失の恐怖」を感じちゃうわけですし、またそれでは言い尽くせないようななにかしらの「穏当でないもの」を感じてもしまうわけで、

そういうような僕が麻薬に抱く微妙な感情、というものをふまえれば、できれば、いくたの技術的な障害をのりこえて「マトリックス≒超没入仮想現実」というものが立派に開発され、それが僕らの苦痛をまるっと慰撫しとおせるレベルのものとして成立されてくれれば、それこそが一番いい結末だと思ってはいます。

僕の正直なところをいえば、将来、マトリックスが立派に開発されれば、それにこしたことはない…。

えー、話しが「マトリックスによる解決」のほうにそれてしまったので、麻薬使用による解決という本筋に話しをもどしますね。

もちろん、今の現実世界において、たまたま種々の境遇にめぐまれて「麻薬なんか使わなくても私は幸福だ」と思えている人がいるなら、

そういうタイプの人にまで強いて麻薬使用をすすめるなんてことは「悪趣味」であるし、また「よけいなおせっかい≒自由権へのハラスメント」でもあると思います。

なので「僕はみんながみんな麻薬を使うという未来」というような「マッドな未来≒ディストピア」を妄想しているつもりはないんです。

あくまで「個人の真摯な選択においてそれを用いる」ことを認めないとおかしくないですか?人間存在についての理解をないがしろにしすぎな政策といわれても仕方いんじゃないですか?

 

というようなことを言おうというだけのことです。

僕が麻薬使用の意義を主張しているからといって、不必要なレベルの「ディストピア社会」を連想するのはよしてくださいね。

そういうツッコミは端的にいって「曲解」ですので、曲解を前提に非難されても困ります。


話しが飛躍することを承知で、最期にちょっとどうでもいいことを語りたいのですが、

僕はたぶん以上の内容は、お釈迦様が生きていたらきっと「然り(たしかに、そうだね)」と同意してくれた内容だと思っています。

つまり、僕の理解では仏教とはこれほどまでに「ロックンロールな思想」であるということです。

パンクはたしかに「反権力の反骨精神」だったかもしれないけど、裏から言えば認知的にいってそれは「権力が自分の外に厳にあるという事実に依存した思考枠組み」でもあるわけです、

パンクはもし「社会のうちに権力が地上から失われてしまったら」もはや「目的を根本的に喪失した形骸(ぬけがら)」と化すしかない運命であるわけです。

しかし、仏教は「自分の外に目を向けた反骨精神」というフェーズからさらに奥へと突き進んで「敵は我なり」というところまで到達しているわけですよ。

ドーキンス先生が「利己的な遺伝子」というイメージを提示するずっと前に、

またフロイト先生が「無意識」というイメージを提示するよりもずっと前に、

またショーペンハウワー先生が「盲目的な意思」というイメージを提示する前に、

すでにお釈迦様は「敵は我の中にある“生のカラクリ”である」と喝破されていたわけですね。

 

(※以上の図式をみてもらえれば、明らかだとは思いますけど、僕はドーキンス先生のことを立派なロックンローラーだと思っているし、フロイト先生のことも立派なロックンローラーだと思っているし、ショーペンハウワー先生も立派なロックンローラーだと思っているわけです。さらにつけくわえさせてもらうと、僕はロックバンドのbucki-tickの櫻井さんのいくつかの曲の歌詞に現代(コンテンポラリー)における最高のロックンロールを感じていました。僕にとっての青春の重要な一部を担ってくれた歌詞たちです。櫻井さんのロックンロールには何度も泣かされました。心よりご冥福をお祈りしいたします。)

これ(お釈迦様の教え)ほどのロックンロールはまぁ他にはないでしょうね。

僕からみると仏教は「敵を自分のなかに見つけ出すというとてつもない勇気」という点で「きわめてラジカル(根本的)でかつ、浮世からみると途方もない狂い、を帯びた思考」であるということです。

麻薬といえば、いまやヒップホップないしラップの「お株」となってしまった感がありますが、

サブカル史的にみれば、ながらく麻薬はロックンロールのトレードマークであったと思われます。

そういう点をふまえても、仏教的思索から無理なく麻薬に話しがつながってしまうという事実は「仏教とはロックンロールなり」ということを暗に証明してくれていると思われるわけです。

「麻薬」というものを介して「ロックンロール」と「仏教」が近しい関係にあるという構図が無理もなく見えてくる…。

えー、なんか一つの記事の内側で、テーマがいろいろ「ぶれぶれ」なような感じになってしまいましたが、今日の記事に関しては

「ブッダは人類史上、最高のロックンローラーであったようだ」という命題だけ記憶に残してもらえれば僕としては幸いです。

では。