参政党以外に特定の人間やら集団のバックない反グローバリズム政党が作れるものなら作ってみてよ?! | 結局、愚痴のはきだめ

結局、愚痴のはきだめ

非公開ブログを目指していたけど…挫折。


参政党に対する反-グローバリスト勢力内部からの文句やら批判がけっこうネットで盛り上がっているように感じて久しいこのごろなわけですが、

僕は、なにしろそれらの批判が根拠としてもちだすところの事実関係というものにかんして全くの部外者であって真偽を見定める材料を絶望的にもちあわせていないわけなんです。

なので、それらの論戦に対して、部外者としての僕は「目隠し状態」ないし「宙ぶらりんの状況」におかれることになり、

それで僕は仕方なく「この話題に関してはどうやら傍観するよりほかないようだ」という態度でおとなしく沈黙をたもってきました。

また、事実関係についてはさっきもいったように「おそらく時間がたったところで全部クリアに判明するようなことはないだろう」というような感触が当初からあり、その諦めみたいなものはどんどんと確固としたものとなっていきました。

ようするに「事実関係の解明については期待するだけムダなようだ」という判断に落ち着いてしまったわけです。

ただし、この論争に関わって、一点だけ「経過として視ておく必要」を感じたポイントがあります。

それというのは

「同じ反-グローバリズムを志向していながらも、参政党を現に今、強烈に批判している人達が、果たして“反グローバリズムという喫緊の政治運動”について、何かしらのまともな代替の解決策を提示し、実践する動きを見せるのか」という点でした。

彼ら参政党批判者の批判内容がもしかりに、後の遠い将来における歴史の審判において「誤解や欺瞞が濃厚に入り混じった不当なもの」であったと判断されるようなものだったとしても

彼らがもし「参政党よりも立派な草の根民主主義の反グローバリズム政党」を立派に立ち上げて成長させる、ということに成功するのであれば、それは「ひょうたんからこま」という一種の快挙とみてもいいものとなるわけで、

僕はもしそういうシナリオがあるのであれば、僕の支持政党をそのいわば「オルタナ参政党」ないし「シン・参政党」という新党にむけかえるのに全くやぶさかではないわけです。

もちろん、それらのこと(新党たちあげとか)をするにはそれなりのリードタイム(準備期間)というものが当然必要になるはずなわけで、

僕はそのような現実のもろもろも汲んだうえで「反グローバリストながらも参政党を今痛烈に批判している人達が、まともな代替の新党を立ち上げる仕事に着手するという気配をみせるかどうか」を主に気にかけて情報をあさってきました。

僕のリサーチ不足のせいだったらすみませんが、僕の耳にはいまのところそういう「同じ反グローバリストながらも参政党を批判している人達からの新党たちあげの気配」というものに該当するような情報は今だに一つもはいってきていません。

さすがにもう「あるていどの時間的な猶予はすでに経過した」と僕は判断したので、現下の反グローバリズム内部からの参政党批判について僕はこれまで僕が思ってきたことを文字にしてみようと思ったという次第です。

僕は法学の教育を受けた人間なので、法学から取材して、そのアナロジーとして説明してみたいのですが、

法律問題ではよく「一定期間なんのアクションもない」ことは一つの「判断ないし行為」と扱われることがあるようです。

それというのはおそらく行政訴訟関係にもっとも頻繁に出てくる思考法だと思いますが、行政訴訟に縁遠い人が多いと思うので、まだしもイメージが付きやすいだろう「あまりに長い裁判手続き」というものとかをイメージしてもらえると分かりいいかもしれません。

「あまりに長い裁判手続き」ということについては判例において「裁判を受ける権利の拒否」とみなされてしまう場合があることになっているようです。

学説でもとくにその判例に反対する意見とかは僕はきいたことないので、判例・通説がその観念に同意しているといってもいいだろうと思われます。

もちろん、そういう思考枠組みに一旦同意したところで「どれだけの期間の経過をしていわば拒否処分とするのか」という期間の長さの問題はのこるわけです。

なので、僕がこの法学上の観念というアナロジーをもちだしたところで、この記事の話題としているところの「反グローバリスト内部における参政党批判者の建設的な政治運動の開始の気配」について「おまえの想定する期間はみじかすぎないか?」という批判がされる余地は当然のこります。

そこについては、あいにく僕も「常識的にみて、彼らに代替案を出す覚悟や意思がないようだと僕は確信してしまった」というふうなだいぶ主観的な物言いしかすることができないわけで、

この問題についての「彼らに反グローバリストとしてまともな代替案とその実践の意思があるか」を見極めるための猶予期間をどう見るかについては、もはやその人の感性というくらいのあいまいなものに依るしかないんじゃないかと思います。

ただ、ともかく僕は「どうやら彼らは批判したいという情念に駆れていているだけで、批判が奏功したあとの、グローバリズムに抗うという本来の目標については、もはや意識がおろそかになっているようだ」という心証を得てしまったわけです。

僕は裁判官ではないので、心証などという法律用語を用いた以上の物言いは分際もわきまえないエラそうなものにきこえてしまうかもしれませんが、

なにしろ日本が反グローバリズムに抗うというまったなしの喫緊の課題については、一国民である僕もなお“当事者”であるわけで、

国の政治の方針に対して、何千分の一というささやかな割合ながらも、政治に信任を与えるための具体的権利が認められているところの「有権者の一人」である、といことについては今の法体系上、誰にも否定されるいわれわないことなわけです。

「反グローバリズム勢力ながら参政党を批判する人達」について「僕は政治的な信認をあたえる気がおこらない」という僕の現下の心証はエラそうにいえば「僕という一有権者の政治的地平における一審判」であるわけで、

「特定の政党への苛烈な批判」という極めて政治的な言論活動を展開する以上は、僕みたいな有権者からの「その批判はピンボケしちゃっていると思うよ」というようなシビアな審判ないし感想の表明に対して「お前は何様なんだ。俺たちの真剣な活動に文句をいうのはやめてくれ。」などというこ抗弁はおそらく通りようがない。

そんなあまっちょろいことをいうくらいならそもそも政治などというシビアな結果を伴うシビアな業界に下手に手をつっこむべきではなかった、というふうに僕はつきはなした感想しか浮かんできません。

少なくとも僕は窮極的には「グローバリズムから日本国民(≒日本庶民)の正当な利益を守るというシビアに結果が問われる活動ないし運動」という観点から

参政党に共鳴して支持してきたわけなので、

情緒的でエモーショナルな「結果責任への意識が極めて低い政治的にナイーブな発想の下」で参政党を支持してきたわけではありません。

辛辣なようですが、政治というシビアな結果責任の地平に限って言えば、そういうナイーブな思考に重きを置く向きの人は、今の状況をかく乱することには貢献すれかもしれないけれども、自らの期待するような状況に近づくことについてはおそらく「何らの貢献もなしえいままおわるだけだろう」と僕は思います。

 

要するに「不毛」ということです。

目標である結果に近づくことにフォーカスしないといけないんじゃないですか?

当初の参政党イメージからの幻滅という自分の情念にフォーカスしている場合なのですか?

百歩譲ってその「イメージの幻滅」というものが「バックにやっぱり特定の人間や団体がいた」とかいう致命的なポイントにまつわるものであれば何なら僕も、それらの批判に同調して参政党支持すらきっぱり辞めるのでしょうが、

そんなふうな僕がクリティカルと思うような批判はまだきいたことがなくて、僕がみみにするのは、内部人事とかそういう範囲でのごたごたくらいのものでしかない。

この話題に関して言えば、そもそも僕ら反-グローバリストの共通の目標とは「グローバリズムの触手から日本国民の正当な利益を守り抜く」というようなことであったはずです。

「参政党はもっと素晴らしくてクリーンな政党であるとおもったのに、幻滅した!!」などという情緒にばかりふりまわされているようなナイーブな心性を持つ人の「こころのケア」などに時間の余裕も心の余裕も少なくとも僕にはありません。

僕の努力いかん以前に、日本がそんな悠長なことできる状況にあるとも思えません。

ただし、そういう理想主義者に対しても僕は「完全に見捨てる」というような冷たすぎることも本当はいいたくないので、

(※人の可能性を見限るということは、実はその人を「ダメな人として予言の自己成就の黒魔術をかける」というのにも近しい暴力的な効果があると思われます。なので、就職氷河期とシンパシーを通わせうるような経験をしてきた僕としては「人を完全に見限ることの暴力」はなるべく回避したいと思うからです。人はいつからでも変わるチャンスないし余地があると信じないといけない。)

以上のべてきた僕なりの筋論に即して、彼らに向けて一発逆転の途を提示させてもらうのであれば

「そんなに参政党を批判するならば、あなたがた自身が参政党よりもなおのこと草の根的で、参政党よりもさらに反グローバリズム的な素晴らしい新党を立ち上げてくださいよ!?」

という「チャンスの提示とも挑発とも取れるようなものいい」になるわけです。

もし「本来の目標」をおざなりにしている自分に姿に気づいたら、このまま参政党の批判を続けたままでもかまわないので、

せめて「本来のグローバリズムからの日本国民の防衛という目標」という出発点にたちかえって、その目標にまともにアプローチするような施策と実践に着手してください。

そういった動きを見せないままでのただの一方的な党運営についての批判などというものに、僕のような最初から政治のシビアさを覚悟している向きの参政党支持者は全く心がなびくことはないでしょう。

政治というシビアな結果責任の世界というものに、あまりに理解が乏しい人は、残念ながら同じ反-グローバリストとはいえ、手を携えて行動することはできないと僕は感じてしまいます。

政治という険しい山を登るパーティーにかんして、僕はそういうナイーブな心性の人を仲間として認める気になれないし、下手にものわかりよさを発揮して、それらの人をメンバーとして歓待した場合のパーティーに及ぼすリスクのほうがむしろ怖いくらいなわけです。

もういちど、僕がこの記事でいいたい肝の部分をいわせてください。

「もともとの目標はなんでしたか?あなたのその行動は目標に少しでも貢献していると自信をもっていえますか?」

これは別に政治に限らない、現実の世界(≠ナイーブなメルヘンの世界。情念だらけの世界。)の活動における鉄板の掟であるはずなのであって、

たとえば、経営学の大家であるドラッカー先生の本の一冊でも読めば、普通に同趣旨のことが書いてあるはずの事です。

僕(タコっす)のご都合主義の援用だと思いこもうとしたところで、たぶんそれには無理があります。

もうそろそろ、ちゃんとしませんか?

同じ反グローバリストだからといっても、そのままの調子で自分たちでは自律的な政治的アクションを起こさないまま参政党批判ばかりをきかされ続けるのはこっちとしては「さすがにもううんざり」なんですよね…。

では。